グレープフルーツを食べなさい

 上村に部屋の鍵を奪われた夜から数週間が過ぎた。
なんとかして鍵を取り返したいのに、なかなか上村と二人で話す時間が取れない。
 営業の上村は元々社内にいることが少ないし、たまに外食部で見かけても、美奈子をはじめ女性社員たちがうるさくまとわりついている。
さすがに、上村が鍵を使って勝手に部屋に入り込むようなことはなかったけれど、他人が自分の部屋の鍵を持ってるなんて、やはりいい気持ちがしない。
 いっそのこと鍵の取り換えをお願いしようかとも思ったけれど、管理会社に上村とのことをどう説明してよいのかわからず、私はそれもできずにいた。

(あつ)っ!」
 考えごとをしていたせいで、熱湯を入れて温めていた湯呑みをひっくり返してしまった。シンク横の作業スペースにこぼれた湯を、慌てて布巾で拭う。
いつもの自分ならば絶対にやらないような失敗に苛立って、ため息がこぼれた。
「先輩でもそんなドジすることあるんですね、珍しい」
 微笑まじりの声が聞こえて、振り向くと、給湯室の入り口ににやけた顔の上村が立っていた。
「……あんたなの。邪魔しないでくれる?」
 シンク上の戸棚から茶筒を取り出し、乱暴に戸を閉める。苛立ちを態度で示しても、上村は立ち去ろうとはしない。
「あーあ、物にあたっちゃダメですよ。何をそんなにイラついてんですか」
「あんたのせいでしょう? 部屋の鍵、早く返しなさいよ」
 面白そうにクスクス笑う上村を、下から思いきり睨みつけた。
私が凄んだところで、怖くもなんともないんだろう。上村はにやけた顔のままだ。
「あんまりカッカしてると眉間のしわが取れなくなりますよ。たまには代わってあげましょうか」
 そう言って、上村が私が握っている茶筒に手を伸ばしてきた。
「いいわよ、そんなこと」
「いいから」
 上村は無理やり茶筒を奪うと、私を押しのけ、急須にお茶の葉を入れてしまう。
この分じゃ、何を言っても聞きそうにない。仕方なく私は、上村の真横で観察することにした。
「あれっ……」
 意外なことに、上村は道具の扱いにも馴れていた。
「はい、先輩も一杯どうぞ」
 自信あり気に微笑むと、上村は私にお茶を勧めてくる。
「ありがとう……」
 湯呑みを両手で受け取ると、お茶の冴えたグリーンが見えた。立ち昇る香りも芳しい。
一口含むと、爽やかな苦味が口の中いっぱいに広がった。


「美味しい! 意外だわ。本当に上手いのね」
 この味なら、野々村部長も満足してくれるんじゃないだろうか。
上村は満足そうに微笑むと、お盆の上の部長の湯呑みにお茶を注ぎ、お盆ごと私に手渡した。
「またいつでも入れてあげますよ。じゃあね、先輩」
「えっ? ちょっと、上村!」
 持っているお茶をこぼしてしまいそうで、上村を追いかけられない。
 ひょっとして、私の手を塞ぐために、わざわざ自分でお茶をいれたんだろうか? 子どもじゃあるまいし、こんな悪知恵を働かせるなんて。なんてヤツなの!!
 そう憤慨したところで、ようやく気づく。
「あ、違う。……まんまとやられたわ」 
 お茶のことに気を取られ、私は、鍵のことをすっかり忘れていた。

 部長のお茶を手に給湯室から出ようとしていると、廊下から女の子たちの賑やかな話し声が聞こえてきた。
「やったね、美奈子。金曜の飲み会、上村さんも来てくれるんでしょ?」
「うん」
「やったあ! 楽しみ。後のメンバーは誰なの?」
 この声は、うちの部の子たちだ。能天気な話し声にため息が出る。
「ちょっとあなたたち、声が大きすぎるんじゃない?」
 突然現れた私を見て、三人の話し声がピタリと止まった。
「あ、三谷さん。すみません」
 少しも悪びれることなく、美奈子が口だけで謝る。両脇の二人も形だけぺこりと頭を下げた。
「朝礼、遅れないでね」
 どうせ今から化粧直しにでも行くつもりだったのだろう。去り際の私の一言に、小さな舌打ちが聞こえた。

          
「お先に失礼しまーす」
 数名の女の子たちが、定時ピッタリにパソコンの電源を落とし、そそくさと更衣室に消えていった。いつもはもうちょっと遠慮して、定時5分過ぎくらいまではデスクにいるのに。
 デスクの上のカレンダーを見て、「ああ」と思い出した。
そういえば今日は飲み会だって言ってたな。
どうりでみんな早いわけだ。今頃、トイレの鏡の前は大混雑だろう。
 ――結局、上村とは給湯室でお茶を入れてもらって以来話していない。
異動して一ヶ月、仕事が軌道に乗ったらしく、上村はかなり忙しそうだ。社内で顔を合わせることもあまりない。
 もしかしたら、仕事にかまけて、上村は鍵の存在を忘れてしまったのかもしれない。
 それならば、それでもいい。
合鍵もあるし、実を言うと、そう不自由しているわけでもなかったのだ。
 
「美奈子たち今日合コンにでも行くのかなあー。やけに気合入った髪形してませんでした?」
 いつの間に近くまで来ていたのか、私の耳元で響子がポツリと呟いた。
「飲み会があるって言ってたけど、響子は誘われてないの?」
「誘われても行きませんよ! あの子たちの飲み会、男が絡むと凄いですもん。真剣すぎてこっちが引いちゃうくらい」
 と言いつつ、響子はぷうっと頬を膨らます。誘われなかったことに、腹を立ててるみたいだ。
「……そのわりには、何だか羨ましそうじゃない?」
「そりゃ、私だって彼氏欲しいですもん。あれ、三谷さんも帰っちゃうんですか? まさか同じ飲み会?」
「そんなわけないでしょ。私は仕事が終わったの。響子も週末くらい早く帰んなさいよ」
「はぁい」と呟く響子の肩を軽く叩き、パソコンの画面が終了したことを確認すると、私はオフィスを後にした。

 会社からの帰り道、マンション近くのスーパーに立ち寄って、夕飯の食材を買って帰った。
 私は普段からできるかぎり自炊をするようにしている。
どうしても疲れてしまった時は、コンビニの弁当や買って来た惣菜を食べることもある。でも、それが毎日となると、日々の仕事を乗り切る力が湧いてこないような気がするのだ。
 食事とシャワーをすませて部屋でくつろいでいると、突然玄関のインターホンが鳴った。
時計はすでに午後10時を指している。こんな時間に約束もなしにやってくる人なんて誰も思い当たらない。
 きっと部屋を間違えたんだろう。そうでなければ酔っ払いかな。
私はしつこく鳴るインターホンには応答せず、突然の来訪者が間違いに気付き去っていくのを静かに待った。
 すると今度は、ガチャガチャと鍵を差し込む音がする。
勘違いしたまま自分の家の鍵を無理やり押し込もうとしているとか?
それとも……泥棒!?
 急に怖くなった私は、キッチンの棚からフライパンを取り出し、玄関へと向かった。
鍵を開ける音が聞こえて、慌てて玄関照明のスイッチを押した。
照明が玄関を明るく照らすのと同時にドアが開く。
意を決してドアの前まで駆け寄ると、私は無我夢中でフライパンを振りかぶった。
「ど、どろぼ……」
「うわっ、危ねっ!!」
 ドサッと音を立ててビジネスバックが床に落ち、その拍子に何かが三和土(たたき)をコロコロと転がったのが視界の端に映った。
 恐る恐る顔を上げる。背中を玄関ドアに預け、片腕でフライパンからの攻撃をかわそうと身構えていたのは、なんと上村だった。

「う、上村?」
「……あんた、俺を殺す気か?」
 痛みに顔をしかめ、ゆっくりと体を起こすと、彼は私を威圧的に見下ろした。相変わらず偉そうな態度だ。
「何なのよ。上村、どうして勝手に入ってくるの?」
 私は上村に気づかれるのが嫌で、恐怖でまだ微かに震える手を背中の後ろに隠した。動悸がなかなか治まらない。
――とりあえず、強盗じゃなくて良かった。
「勝手にって、ちゃんと鍵を預かったでしょ」
「なっ!? 私は預けた覚えはないわよ! あんたが勝手に持って行ったんじゃない。……わかった! その鍵、返しにきてくれたのよね?」
 私は、さっさと鍵を返して欲しくて、上村に向かって右手を突き出した。
「……先輩、ひょっとして震えてんの?」
 上村の視線に気づいた時には遅かった。とっさに手首を掴まれて、隠しようがない。
「あんたのことを泥棒だと思ったのよ。悪い?」
 反対の手で口を覆い、肩を揺らして笑いを堪える上村にムッとして、私は思いっきり上村の手を振り払った。
「それはそれは、驚かせてすみません。先輩も意外に可愛いところあるじゃないですか」
「一体何の用? 用がないのなら、鍵を置いてさっさと帰んなさいよ」
 上村の一言一言が一々癇に障る。
 人のこと驚かせておいて、謝ったって口先だけで、絶対に悪いなんて思ってない。本当にこいつ、性格悪い!
「……用があるから来たんでしょ。とりあえず部屋に上げてくださいよ」
「鍵を返すなら入れてあげるわ」
「……わかりました。帰るときに返します」
 嫌そうな顔でそう答えると、上村は体を折り曲げて、下から何かを拾い上げた。
「何それ……グレープフルーツ?」
 さっき三和土を転がったのはこれだったんだ。上村は手のひらに載せたグレープフルーツを「はい」と私に手渡した。
「それ、お土産です」
「はあ……ありがとう」
 とりあえず間に合わせで選んだのだろうか。上村からの奇妙な手土産を手に、私は部屋の中へと向かう。
「お邪魔しまっす」
 上村は機嫌よく私の後についてきた。


 上村は、まるで元からこの部屋の住人だったかのようにどっしりとソファに腰掛け、思いっきりくつろいでいる。
一人では広く感じるこの部屋も、背の高い上村がいると急に窮屈に感じるから不思議だ。
「それで、一体何しにいらしたんですか?」
 ソファに座る上村の前に立ち、腕を組んで彼を睨みつけた。
相変らずの飄々(ひょうひょう)とした態度に苛々していると、
「また他人行儀な。このうちは、客にお茶も出さないんですか?」
 そう言って、上村はふてぶてしく私に笑いかけた。
「……くっ! わかったわよ。コーヒーとお茶どちらがよろしいですか?」
自棄(やけ)になってキッチンへ向かうと、「あ、待って」と上村に呼び止められた。
「今度は何よ?」
 いきなり両手を合わせ、私に向かって拝むようなポーズをしてくる。
「先輩、やっぱりコーヒーはいいから何か食わせてくんない?」
「はあ? 上村、美奈子たちと飲み会だったんでしょ? ご飯食べてないの?」
 私がそう口にした途端、上村は何かを思い出したのか、思いっきり顔をしかめた。
「美奈子って、相良美奈子? あいつ会社でも仕事してなさそうだけど、ホントひどいよね。他の女たちも気の利かないバカばっかだし。飲み会の間中べったりくっつかれて、飯食うどころじゃなかった」
「なによそれ。じゃあどうしてあの子たちと飲みに行ったの?」
 上村はただでさえもてるんだから、そんなところに行ったら女の子たちに囲まれるに決まっている。それがわからない上村じゃないだろうに。
「俺がいないと、女の子たち集まんないでしょ。そんなの営業の連中の為に決まってるじゃん。少しでもあいつらに恩売っておかなきゃね」
「……呆れた。あんたってホントいい性格してる」
「お褒めに預かり光栄ですよ。そんなことより先輩、早く何か食わせて。頼むから」
「嫌よ。どうして私が」
「そう、この鍵返さなくていいんだ」
 そう言うと、上村はあの日のように私の眼前に鍵をぶら下げる。
奪い返そうと手を伸ばすと簡単にかわされた。
「返して欲しいんじゃないの?」
「……わかったわよ」
 仕方なく私は、冷蔵庫を開けて食事の用意を始めた。

「やー、うまいわ」
 そう言って、上村はテーブルの上の料理を片っ端から片付けていく。
 ……上村って、結構食べるんだ。なんだか意外だわ。
その旺盛な食欲を前に、私はただただ唖然(あぜん)としていた。
「本当、上村よく食べたわね」
 上村に食後のコーヒーを手渡しながら、テーブル一杯の空き皿を見回した。
「片付けはしますから安心してください」
「え、いいよそんなこと」
「いいから」
 上村はコーヒーを一気に飲み干すと、私が片づけようと持っていた皿を奪い、キッチンへ運んで行った。
「先輩って、料理うまいんだね」
「母の仕事が忙しかったから、ずっと私が家事をやってたの。うまいっていうか、慣れてるだけ」
 物心ついた時から、ずっと母と二人だった。蒸発したという父の顔を私は覚えてはいない。
「お母さんは今入院してるんでしたよね。もう長いの?」
「去年の秋から。でも母もそう長くはないと思うわ。だって、余命宣告を受けてるもの」
 そう話すと、一瞬上村が動きを止めた。驚いて当然だろう。会社の人間はおろかまだ誰にも話していない。
「先輩が入院費を払ってるって言ってたけど、他にご家族は?」
「いないわ。ずっと母と二人よ」
「……先輩も苦労してるんだね」
「……ありがとう、助かったわ。一人じゃ案外時間かかるのよ。おかげで早く片付いた」
 しんみりとした雰囲気になるのが嫌で、私はわざと話を逸らした。
「や、食べたの俺だし」
上村もなんとなく察してくれたのか、それ以上母の話題を持ち出すことはなかった。
 最後に手を洗う上村にハンドタオルを手渡すと、「先輩、ごちそうさまでした」と頭を下げられて少し驚いた。
こういうところ、上村は意外にちゃんとしている。
「あ、先輩あれ食べようよ、グレープフルーツ」
「ああ、いいけど」
 私は冷蔵庫にしまっておいたグレープフルーツを取り出すと、包丁で真っ二つにして半分ずつガラスの器に入れ、ソファに腰掛けている上村にスプーンと一緒に手渡した。
「え、このまま食うの?」
「普通はそうでしょ。こうやって、スプーンで(すく)って食べるのよ」
 上村は私が食べる様子を興味深そうに見ている。
「グレープフルーツって、ミカンみたいに剥いて食うんだと思ってた」
 上村は私と同じようにスプーンを使い、果肉を一口、口に含んだ。
「う…すっぱ」
 そう言って眉をしかめる。
「グレープフルーツなんだから当たり前じゃない。そんなに好きでもないならどうして買ってきたのよ」
「酔い覚ましにいいかと思ったんですよ。ここに泊まっていいなら別だけど」
「いいわけないでしょう? それ食べたら、鍵を置いてさっさと帰ってね」
「つれないなあ」
 一口、二口と食べるうちにグレープフルーツの酸味にも慣れたのか、上村は最後の一粒まできれいに平らげた。


「じゃあ、ホントごちそうさまでした」
「はい、じゃあね」
 そろそろお(いとま)します、という上村を玄関まで見送る。
上村がドアノブに手を掛けたところで、大事なことを忘れていたことに気がついた。
「あ、鍵は置いていってね」
「ああ」と上村は振り向き、胸ポケットから鍵を取り出す。私は、大事な鍵を受け取ろうと、上村に向かって手のひらを広げた。
これ以上、上村の身勝手に振り回されてたまるか。
「なーんて、ね?」
 そう言って、上村は私の部屋の鍵を素早く胸ポケットに戻した。
入りきらなかったシルバーのチャームがポケットからはみ出している。
「……いい加減にしてくれる? ちゃんと鍵、返しなさいよ!」
 私はムッとした顔で、上村に手を伸ばした。が、またしても寸でのところでかわされた。
「わっ!?」
 上村に避けられたせいでバランスを崩した私は、廊下の壁に手をついて、なんとかふらついた体を支えた。
「ちょっと、危ないじゃない!!」
「ああ、スミマセン」
「スミマセンじゃないわよ、だから鍵!」
 なんとかして鍵を取り返そうと、上村に向かって手を伸ばしたけれど。
「先輩の飯、また食べに来ますから。それじゃ」
 私の腕は空を切り、目の前でバタンと大きな音を立ててドアが閉まった。
「……まったく、一体何しに来たのよ!」
 私は悪態をつきながら、ドアの内鍵を回した。
いつもはそのままのチェーンも、今日ばかりはしっかりとドアに掛けておいた。

「やだ、こんなに濡れちゃった。最悪」
「私も。今日みたいな日は傘なんてちっとも役に立たないよね」
 会社の玄関ロビーで傘の水気を払いながら、他部署の女の子たちが話している。
私もバス停から会社までの僅かな道のりを歩いている間に、足元がすっかり濡れてしまった。
横殴りの雨で濡れたストッキングが気持ち悪くて、朝からついため息をついてしまう。
 今年は梅雨入りが早く、五月下旬からずっと雨の日が続いている。
いつ空を見上げても頭上に広がるのは鉛色の重たい空で、それだけで何だか心が塞いだ。
「おはようございます、三谷先輩」
「ああ、おはよう上村」
「ひどい雨ですね」
「本当ね」
 自動ドアの内側、傘立ての前に上村がいた。
この蒸し暑い中でも涼しい顔をしている。隣の女の子たちが上村を意識して、チラチラと視線を送ってくるのがわかった。
「それじゃあ、お先に」
 私は、上村を傘立ての前に置き去りにして玄関ホールを抜け、ちょうど降りてきたエレベーターに急いで駆け込んだ。
私以外に乗る人は誰もいないようだ。
五階のボタンを押してドアを閉じようとしたら、誰かがドアを押し開けて乗り込んできた。
「どうして俺のこと置いて行くんですか。同じフロアなのに」
「だって……面倒くさいから」
「なんですか、それ」
 上村は面白くなさそうな顔で『閉』のボタンを押した。エレベーターが重力に逆らい上昇を始める。
「先輩、今日は金曜日ですね」
「そうだけど、それが何か?」
「金曜だから、先輩は定時で帰るでしょ。今夜、行ってもいい?」
 あれから、上村は何かと理由をつけて私の部屋へやって来るようになった。
金曜日は、私が定時で上がり、母の病院へ行くことを知っているのだ。
いつの間にか私は、上村に生活パターンまで把握されつつあった。
「どうして?」
「最近仕事がハードでろくなモン食ってないんですよ」
「それはお生憎さま。今日は私、居残り確定なの」
「え、何で? 先輩、今週ずっと遅くない?」
「部長の商談が大詰めでしょ。手伝いたくて」
「ああ、あのチャイニーズレストランの?」
 その時、エレベーターが上昇を止め、狭い箱の中に「ポン」と到着を知らせる音が響いた。
「それなら俺も手伝うから、さっさと終わらせて帰りましょうね。それじゃあ、お先に」
 断わる間もなく、上村はそそくさとエレベーターから降りてしまった。
「もう! いっつも勝手なんだから」
 最近はいつもこうだ。上村は、ああやってうまいこと言ってはご飯をたかりに来る。鍵を返せと私が詰め寄っても、のらりくらりとかわされる。
上村に振り回されるなんて嫌でしょうがないのに、でもなぜか、断わりきれない自分もいる。
「……まあいいか。冷蔵庫の掃除だと思えば」
 一人ぶつぶつと呟きながらまだ人気のない静かな廊下を歩く。
 外食部の入り口に着く頃には、頭の中で冷蔵庫の中身の確認を終え、今夜のメニューを考えはじめていた。


「三谷先輩、聞きました? 新プロジェクトのこと」
「うん、聞いてる」
 永遠に降り止まないかと思っていた雨が、今日は止んだ。
梅雨の中休みに入ったのだろうか。久しぶりに雲間から覗く太陽が眩しい。
しかし蒸し暑さは相変らずで、私は額に浮かぶ汗をハンカチで押さえた。
 「たまには外にランチいきましょう」と響子に誘われ、私たちは会社がある大通りから少し路地を入ったところにあるカフェまでやって来た。
 響子は梅雨の間は特に偏頭痛がひどいと言っていたから、ただの気晴らしかと思ったら、それだけじゃないみたいだ。どうやら私に話したいことがあるらしい。
「新プロジェクトって、ショッピングモール建設のやつでしょ。それがどうかしたの?」
 響子はお冷を一口飲むと、心持ち私の方に体を寄せた。
「そのプロジェクトのために各部署から数名引っ張って、新しい部署を立ち上げるらしいんですけど…」
 その話なら私も知っていた。今回のプロジェクトには会社も相当力を入れているらしく、メンバーに選ばれてプロジェクトを成功させれば、幹部候補への道が開けるのではないかと男性社員たちが噂していた。
「それが、補佐として女子社員も何人か引っ張るらしいんですよ」
「へえ、それは初耳」
「それで、美奈子がまた張り切っちゃって。何でもうちの部からは上村くんでほぼ決まってるみたいで」
「美奈子が上村の補佐を狙ってるってこと?」
「そういうことです!」
 身を乗り出し気味でそう言うと、響子はフォークに巻きつけたパスタをパクリと一口で食べた。
「美奈子、自分が選ばれるって信じてるんですよ。図々しいと思いません? 大した仕事もしてないくせに」
「響子、悪口が言いたくてわざわざランチに出たの?」
「違いますよ。私はただ、三谷さんが選ばれたらいいなあって思って」
「はあ? なんで私が?」
「だって、うちの部で一番仕事ができるのは三谷さんじゃないですか。それを差し置いて自分がだなんて、美奈子ってほんと図々しい」
 ……結局、響子は美奈子が選ばれるのが嫌なだけなんじゃないの?
そう思ったけれど、敢えて口に出さずにおいた。