診察と会計を終えて待合室に戻ると、美奈子は何やら熱心に本を読んでいた。
「美奈子お待たせ。何読んでるの?」
「あっ、三谷さん」
何故か美奈子は、本を鞄に隠そうとした。寸でのところで、本に手を伸ばす。
「何、この本。……『赤ちゃんのお世話の仕方』?」
「ちょっと、返してくださいよ!」
「……美奈子、赤ちゃんの面倒もみてくれるつもりなの?」
私が言うと、美奈子は頬を赤らめた。
「ねっ、念のためですよ。三谷さんだって、会社でよく『備えあれば憂いなし』って言ってたでしょう」
「ありがとう、美奈子」
私の素直な言葉に照れたのか、美奈子は「荷物持ちますよ」と言って、私が提げていた荷物を取り上げた。
「あれ、こんな紙袋持ってましたっけ?」
美奈子が白い小さめの紙袋を見て、首を傾げている。
「ああそれ? なんかね、葉酸サプリっていうんだって。今日から飲んでくださいって、お医者さまから渡されたの。美奈子知ってる?」
それは、お試しでもらった妊婦用のサプリメントだった。
「あー、なんか最近出産した友達が言ってたな。葉酸って妊娠初期に必要な栄養なんでしょう? 確か、ほうれん草とかアボカドなんかにたくさん含まれてるって。あとグレープフルーツ」
「グレープフルーツ?」
その言葉に、心臓が音を立てる。心の中から追いやっていたはずの面影が少しずつ蘇りはじめる。
「その子つわりがひどくて、妊娠初期にあんまり食べられなかったんですよね。でも、果物だけは食べられたらしくって。中でもグレープフルーツならさっぱりしてるし、必要な栄養も摂れるからちょうどいいって言ってた気がします」
「……へえ、そうなんだ」
まさか……、ね。私の気にしすぎだ。独身の上村が、いくら何でもそんなことまで知っているはずがない。
例え知ってたとしても、そんな理由で私に持ってくるなんてこと……。
「三谷さん、どうかしたんですか?」
「あ、ごめん。ちょっとぼおっとしちゃった」
「早く行きましょうよランチ。お腹の赤ちゃんの写真、ちゃんともらってきました? 私にも見せてくださいね」
浮かれている美奈子を余所に、私は心の中から上村の影を追い出そうと必死だった。
ランチが終わった後も、妙にテンションの高い美奈子に付き合わされて、ベビー用品のお店を何か所か見て回った。
子どものいる友達も多いという美奈子は妊婦用品やベビー用品にも詳しくて、私にも色々と教えてくれた。
新しく引っ越したアパートは、家賃が格安である代わりにエレベーターがない。
幾つもの買い物袋を手に、階段を三階まで登る。
荷物を運ぶだけでこんなに息が上がっちゃって、子どもが生まれてからはどうしよう。
まあ、なるようになるか。今からうだうだ悩んでても仕方がない。
「はあー、疲れた」
ソファに座り、まだ全く目立たないお腹を撫でる。
この中に、あの小さくてよく泣いて、頼りなくて可愛らしいものが入っているなんて、未だに信じられない。
産婦人科の待合室で見かけた赤ちゃん達はみな、本当に可愛かった。
もうすぐ会えるね。
幸せな気持ちでお腹をさする。
お腹の赤ちゃんと一緒にゆっくりくつろいでいると、玄関のチャイムが鳴った。
もう夕方で、外は暗くなり始めている。こんな時間に訪ねてくるなんて、一体誰だろう。怪訝に思いながら、ドアスコープを覗き込んだ。
「どうして……?」
ドア一枚を隔てた向こう側に、不機嫌な顔で立つ上村がいた。
もう一度、苛ついた顔でチャイムを押す。
――ここまでこられたら、もう逃げられないか。
観念した私は、おそるおそるドアを開けた。
「先輩! 一体何やってんですか!!」
ドアを開けた途端、上村が激しい剣幕で怒鳴り込んできた。驚いてバランスを崩した私は、そのまま玄関の三和土に尻もちをついてしまった。
「いったあ~、そんな大声出して。びっくりするじゃない!」
「ちょっ! 先輩大丈夫? 子どもは……」
「は?」
「は、じゃないですよ。お腹大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ、咄嗟に庇ったし。そんなことより、どうして上村がここを知ってるの?」
引越し先のことは、美奈子にしか言っていない。上村は一体どうやってここに辿りついたんだろう? それに上村はさっき「お腹は大丈夫か」って私に聞いた……?
「ちょ、ちょっと待ってよ。子どもって、どうして上村がそのこと知ってるの?」
私が訊くと、上村はまた不機嫌そうに眉をしかめた。
「そのことで、話があって来たんだけど」
そう言うと、上村は私の返事も待たず、さっさと部屋に上がりこんだ。
「……どうぞ」
「どうも」
茶托に乗せた湯呑を手渡すと、上村は私が淹れたお茶を無言で啜った。
私がお茶を用意する間も、上村はずっと腕を組んだまま。しかめっ面で壁の一点を睨みつけていた。
緊迫した空気に耐えかねて、私はおずおずと口を開く。
「あの、上村何か勘違いしてるみたいだけど……」
「この期に及んで俺の子じゃないとか言うつもり? そんなわけないでしょう」
先手を打つつもりが、あっさり打ち返されて撃沈した。
でも私はここで、怯むわけにはいかないんだ。
「黙ってて悪かったとは思うけど、私子どもを堕ろすつもりはないから。あの日だって私から誘ったんだし、これからのこともちゃんと考えてる。私が勝手に決めたことだから、上村は気にすることな……」
「あんた、バカか」
「なっ!?」
「そもそも、どうして妊娠したことを俺に言わないんだよ。違う男から聞かされる俺の身にもなってみてくれよ」
「違う男って……、ひょっとして岩井田さん?」
「そうだよ」
確かに岩井田さんに妊娠のことは伝えたけど、父親のことまでは話していない。それなのに、どうして上村がそうだとわかったんだろう。
思っていたことが顔に出ていたんだろう。上村ははーっと大きくため息を吐くと、額に片手を当てぼそりと呟いた。
「相良だよ」
「……は?」
「岩井田のやつ、相良から聞いたらしいよ。どうしてかはわからないけど、相良が子どもの父親は岩井田だと思いこんでて、文句言いに行ったらしい」
「……美奈子が?」
「『どうしてそんな無責任なことできるんだ』って、オアシス部に怒鳴り込んできたらしいよ。あいつ。すげー剣幕だったって」
まさか美奈子が、私のためにそんなことまでしてくれたなんて。
「やだ……嬉しい」
「ったく、嬉しいじゃないだろ。相良とか岩井田とか、話す順番がおかしいだろ。どうして俺が最後に知らされなきゃいけないんだよ」
「それは……本当にごめんなさい」
私は素直に上村に頭を下げた。
上村は当事者なのに、私が彼のことをはじめから蚊帳の外にしてしまった。今更ながら申し訳なく思えてくる。
「それに、俺は怒ってんだ。俺に黙って会社も辞めて、引っ越しまでして。てっきり岩井田の会社に行くのかと思ったら、実は妊娠してて。……しかも一人で産んで育てるってどういうことだよ」
「それはっ……」
上村に詰め寄られ、私は俯いてスカートを握り締めた。
「そんなに俺って信用ない? 先輩の中に、俺と一緒に育てるって選択肢はなかったの?」
顔を上げて驚いた。上村は何かに耐えるような顔をしていて、直視できなくて私はまた視線を落した。
たぶん私は、これ以上にないやり方で上村を傷つけた。でも……。
「俺は……言って欲しかったよ。ちゃんと二人で考えたかった。しんどい時はちゃんとしんどいって言えってあれほど――」
「じゃあさ」
上村の言葉を遮ると、私は大きく深呼吸をして、上村を正面から見据えた。
「……じゃあ、上村は私にも分けてくれる? 思ってること自分一人で抱えこまないで、私にも全部さらけ出せる? 家族になるってそういうことなんだよ。私は母さんとずっとそうやって生きてきたの。嬉しいことも悲しいことも何もかも全部、分け合って支え合ってきたの。私にとっての上村がそうであるように、上村にとって心許せる人は私であって欲しいの。私だけがそう思っていてもだめなんだよ。……そんな覚悟、上村にはある?」
「俺は……」
瞬きもせずに私を見つめていた上村が、ふいに目を逸らした。
……ダメだ。
一度踏み込もうとして拒まれたことを、忘れていたわけじゃない。あの時も、私は上村に受け入れてはもらえなかった。
「ね、だから……」
再び別れの言葉を告げようとしたそのとき、上村が顔を上げた。私を見つめる瞳が、不安気に揺れている。
「俺は……怖かったよ。最初は嫌がってたくせに、どんな自分を見せても香奈は自然に受け入れてくれて、それが嬉しくて。香奈といる時だけは、本当の自分でいられた。でも、このままずっと香奈の側にいたら、弱いとこも情けないところも全部さらけ出してしまう。そうして嫌われるのが怖かった。いつだって一番大切なものは、この手をすり抜けて行ったから。失うくらいなら自分から離れた方がいい。苦しまなくてすむから、だから――だから、俺は香奈から逃げ出したんだ」
上村は、おずおずと私に手を伸ばすと、壊れやすいものをそうするように、優しく私のことを包み込んだ。
「俺がずっと傍にいたいと思えたのは香奈だけだ。傍にいて欲しいと思ったのも。……だからもう、二度と俺の前からいなくならないで」
「上村……」
上村の告白に、胸が震えた。
私に、傍にいて欲しいと、思っていてくれたなんて。嬉しくて、涙が溢れてくる。
「だから、二人で一緒に生きていこう、香奈」
「……はい」
もう溢れる気持ちに蓋をして、無理やり押さえ込まなくてもいいんだ。
これは夢ではないと確かめるように、私たちは何度も唇を重ねた。
「またそれ?」
上村が嬉々として取り出したのは、いつものグレープフルーツ。
上村から一つ受け取って、以前住んでたマンションよりも小さめのキッチンに立ち、食べやすいようにカットした。もはやグレープフルーツ専用と化しているガラスの器に入れ、上村に差し出す。
「いただきまーす」
こういうことになって、上村にしては珍しく浮かれてるみたいだ。緩んだ口元を戻そうともしない上村に、思い切って例の疑問をぶつけてみることにした。
「上村、あのさ」
「何、香奈も食べたいの?」
上村はフォークに刺したグレープフルーツを私の目の前に突き出した。
「何、これは」
「だって、食べたいんじゃないの?」
にやけた顔で私を見る上村に、ようやくからかわれているんだと気付く。
「もう、ふざけないでくれる?」
何これ、私は一生こうやって上村に弄られ続けなきゃいけないんだろうか。私は憮然として、横を向いた。
「そう拗ねないでよ先輩。俺に何か聞きたいことがあったんじゃないの?」
いつの間にか勝手に呼び捨てにしていたくせに、こういう時にだけ『先輩』って呼ぶなんて。上村も今までにないこの雰囲気が、どこかこそばゆいのかもしれない。
「上村さ、葉酸サプリって知ってる?」
「なんすか、ソレ」
「妊娠初期に積極的に摂った方がいいんだって。今日産婦人科で渡されたの」
上村が座るソファーのすぐ横に置きっぱなしだった紙袋を手に取り、中からプラスチックのケースに入ったサプリメントを取り出した。
「へえ、はじめて見た。こんなのまで飲まなきゃいけないなんて、妊婦さんって大変なんだね」
そう言って上村は熱心にサプリのケースの商品説明を読んでいる。
「それでさ、その葉酸ってグレープフルーツにも含まれてるみたいなんだけど……上村知らないよね?」
「それは知らなかったけど」
そう言って上村は首を捻る。
やっぱり、私の深読みだったのだ。そんなつもりで上村がグレープフルーツを持ってきていたわけがない。
「でもさ、実は一つすげー印象に残ってることがある」
「何?」
上村は手に持っていたサプリのケースを、空になったグレープフルーツの器の隣に置いた。
「昔、祥子さんが一人目を妊娠した時、つわりがかなりひどくてさ。唯一食べられたのがグレープフルーツだったんだよね。水飲んだだけでも戻してたのに、『私が食べなきゃ赤ちゃんが』って必死になって食べててさ。母親ってすげーんだなあって思った記憶がある」
「そうなんだ。祥子さん、そんなにつわりひどかったんだ……」
「だからなんとなく、そういうイメージはあったかも。グレープフルーツ イコール妊娠、みたいな」
「えっ?」
上村の耳たぶがほんのり赤くなってるように見えるのは、私の気のせいだろうか。
「本当はずっと、香奈に子供ができればいいのにって思ってた。そうなれば、何があろうと香奈は俺といることを選ぶはずって……」
「……どうしてそう思ったの?」
「香奈、前に言ってたじゃん。鳴沢さんから身を引いたときのこと」
確かにあのとき私は、『生まれてくる子供には罪はない。だから私の方が身を引いた』と上村に言った。
「香奈なら、何よりもまず子どものことを考えると思ったんだ。自分のことよりも、子どもにとって一番いい方法を考えるって。だから俺は、わかっててあのとき……」
「違う。違うよ上村」
私は、声を震わせ下を向く上村の頬に両手を当て引き寄せた。
上村はたぶん、あのときのことをずっと後悔していたのだろう。
私のことを無理やり抱いたのだと。でも、それは違う。
「私はあのとき、自分の意志でそうしたの。決して無理やりでもあなたに流されたわけでもない」
「香奈……」
「それに、子どもができたってわかったときは本当に嬉しかった。子どもの存在が、母さんを亡くして落ち込んでいた私に力をくれたの。この子はきっと、母さんが私にくれた最後のプレゼントなんだって思ったわ」
上村から目を逸らすことなく、私は一言ひとことを噛み締めるように声にした。
どうかこのことで、上村が心の中に僅かな憂いも残しませんように。
そう願いながら。
「それに私は、上村の子どもだから産みたいって思ったの。たとえ誰かに反対されても、この子だけは私が絶対に守り抜くって強く思った。だからもう悩まないで。どんなに些細なひっかかりでもいいから、ちゃんと話して。決して一人で抱え込まないで。家族になるんでしょう、私たち」
「香奈……」
上村の表情が明るくなる。彼の心の靄が、少しずつ晴れていくのがわかった。
あなたの心が暗い場所に沈んでしまいそうになったら、いつでも私がそこから連れ出してあげる。
一人でもがき苦しむかっての私を、あなたが優しく包んでくれたように。
自分から切り出した話題なのに、胸がいっぱいで何も言えなくなってしまった。
すぐ傍に上村の気配を感じた。互いの唇が磁力を持ち、引き寄せられる。
上村に応えようと目蓋を伏せたとき、ハタと思い出した。そうだ! 上村は、勘違いしている。これからお腹のなかでどんどん大きくなる子どものためにも、これだけは言っておかなくては。
「あのね、上村」
「な、なに?」
不意をつかれて驚いたのか、上村は慌てて私から身体を離した。
「お腹の子どものためにもとても大切なことなの」
「……はい」
真剣な私につられるようにして、上村も居住まいを正す。
「上村はさ、いつもグレープフルーツばっかり買ってくるけど、お腹の子のためにはそれじゃあダメなのよ?」
「はあ?」
まさかここでグレープフルーツの話になるとは思っていなかったんだろう。上村は少し気の抜けたような表情になった。
「確かにグレープフルーツにも赤ちゃんい必要な栄養素は含まれているけど、別にそればっかり食べてればいいってわけじゃないからね。葉酸を含む食品は他にもいっぱいあるから、どれもバランスよく摂らなくちゃいけなにの。だからさ、次からはグレープフルーツばっかりじゃなくて、他のも持ってきて。たとえば……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
何を思ったのか、上村は唇を噛んで必死に笑いを堪えてる。
「何よ、人が真面目に」
「うん、香奈はきっといい母親になるよ。ちょっと真面目すぎるのがあれだけど」
そう言うと、上村は子どもにするみたいに私の頭をぽんぽんと撫でた。
……一応私、年上のはずなんですが。そんなことをされるのは初めてで、なんだか照れてしまう。
「それにさ、俺が買ってくるんじゃなくて、一緒に買いに行けばいいでしょ。これからはずっと一緒にいるんだから」
「……あ、そっか」
私がそう言うと、上村はまた「ふはっ」と変な声を出して笑った。
「わかった? じゃあ、続き」
あっという間に上村が後ろから身体を包み込んで、私は逃げ切れなくなった。本当は照れくさくてキスを逸らしたの、ばれてたのかな?
上村の『これから』には、もう私がいる。
私は、今度こそ逃げ出さずに、愛しい人の唇を受け止めた。
-fin-
一人娘の美雨が産まれたのは、秋の始まりの頃。
長く続いた夏日からようやく解放された、九月の終わりだった。
その日は久しぶりの雨だった。
お腹に微かな痛みを感じ始めたのは、まだ空が白む前。まどろみの中で、いつもの朝とは何かが違うような気がしたのを覚えている。
意識がクリアになるのを待って、ベッドの上で半身を起こす。タオルケットの上に、カーテンの隙間から差し込んだ太陽の光が筋を作っていた。
ああ、今日も暑いのかな。最高気温、何度くらいまで上がるんだろう。
窓越しに強い日差しを受けて、うんざりしながら寝室のカーテンを開ける。
朝が苦手で、普段はベッドから出るまで十分はかかる達哉だけど、陣痛らしきものが来たことを告げると、さすがに飛び起きた。
今日も暑さ厳しい一日になるんだろうなと覚悟をしていたけれど、ようやく痛みの感覚が狭まり、タクシーで病院に向かう頃には、空一面に薄明るく白っぽい雲が広がり始めていた。
翌朝、初めてこの腕に美雨を抱いたときには、しっとりとした雨が辺りを濡らしていた。
そして夜が来るまでずっと、雨は静かに降り続けた。
日照り続きの渇いた大地に、柔らかい恵みの雨が降り注ぐ。
そんな朝に産まれた子だから、達哉は本当は『慈雨』と名付けるつもりでいたらしい。
渇いた心にしっとりと染み込んで、心を柔らかくする慈雨。この子がこれから出逢う人々にとって、そんな存在になれたら。
そう願って考えた名前だったけれど、その名前は達哉の父親の一言によって一蹴された。
「ダメだダメだ、そんな名前。お前、壺井栄も読んだことないのか。これだから理系人間は――」
なんでも、壺井栄という人が書いたお話に出てくる『慈雨』という女の子は、満員電車の中、人々や荷物に押しつぶされ、声も出せぬまま死んでしまうらしい。
高校で現代国語を教えている義父にとっては、初孫に相応しい名前とは到底思えなかったようだ。
高校も、大学でも理系だった達哉は、「理系だから本を読まないだろうなんて、親父の偏見だ。教師のくせに」と言って拗ねていたけれど、結局義父が考えた名前を付けることに同意した。
美しい雨と書いて、『美雨』。
この名前を呼ぶたびに、美雨が生まれた日、病室の窓から見た雨に煙る景色が目に浮かぶ。
今では達哉も私も、そして美雨自身も、この名前をとても気に入っている。
こんなふうに、生まれたときから祖父に溺愛されていた美雨だから、仕事で不在がちな達哉よりも、祖父にべったりになってしまっても、仕方がないのかもしれない。
今夜、近くにある神社で、この街で一番大きな六月燈が催される。
部署の異動があったばかりで残業続きだった達哉だけど、「この日は絶対に早く帰るから、家族三人で六月燈に行こう」と、美雨と約束をしていた。
「ママ、お天気大丈夫かな」
朝からもう何度目だろう。美雨がベランダのサッシにピタリと顔をつけ、薄雲の広がり始めた夕空を見上げた。
「天気予報は曇りだったでしょ。きっと大丈夫よ」
美雨の隣で一緒に空を見上げ、頭を撫でてやる。でも美雨には心配事がもう一つ。
「パパはまだ帰らないの?」
美雨はサッシから顔をどかすと、私のエプロンの裾を掴んでぐいと引っ張った。
待ちきれなくて、昼寝から覚めてすぐ浴衣に着替えていた美雨が腰の辺りに纏わりつくと、真っ赤な兵児帯が揺れて、お祭りの屋台の下、ゆらゆらと泳ぐ金魚を思い出す。
「お仕事、もうちょっとかかるみたい」
私が言うと、美雨はふっくらとした頬っぺたをさらにぷうと膨らませた。
「そんなに怒らないのよ。もうすぐ帰って来るはずだから」
早く行きたいと唇を尖らせる美雨の両頬に、そっと手を当ててみる。
子どもの肌は、どうしてこんなにしっとりとしているのだろう。
「きっとすぐよ、美雨」
名前を呼び、目蓋を伏せる。
美雨が生まれた朝の空気に、全身を包まれたような気がした。
「ごめんね、達哉」
美雨は結局、達哉の帰りを待つことが出来なかった。
私が目を離している隙に、近くに住む祖父に電話をかけ、呼び出していた。
「今日はおじいちゃんとお祭りに行って、おじいちゃんちにお泊りしてくるから」
私にそう告げるとさっさと気に入りのおもちゃをまとめ、義父が運転する車に乗り込んでしまった。
「すまないね、香奈さん。美雨はちゃんと明日送り届けるから」
慌ててお泊り用の荷物を纏めて手渡すと、義父は肩を竦めてそう言った。
口では謝りつつも、美雨からお泊りまでねだられて義父もまんざらではなさそうだ。
義父と達哉は、顔を合わせれば美雨を巡って張り合ってばかりいる。
ずっと不仲で、達哉が実家に帰ることもしなかった頃を思えば、微笑ましいことではあるのだけれど。
美雨を義父に取られると、達哉の機嫌はなかなか戻らない。
「先に美雨と約束したのは俺なのに」
自分が遅く帰ったことは棚に上げて、ぶつぶつ文句を言っている。
家に帰って早々、乱暴にネクタイを引っ張って胸元のボタンを外し、着替えもせずにソファーでビールを呷る達哉の姿を見て、私はため息を零した。
作り置きしておいたつまみを手にリビングに戻ると、ソファーから達哉の姿が消えていた。
寝室のドアの隙間から、灯りが少し漏れている。ビールを一缶飲み干して、ようやく着替える気になったのかもしれない。
寝室を覗くと、クローゼットのドアを開けて佇む達哉の姿が見えた。
「達哉?」
名前を呼ぶと、達哉はこちらに振り返った。
「香奈、これって」
「あ……」
達哉が手にしていたのは、母の形見となってしまった私の浴衣だった。
母が亡くなる間際、この浴衣を着て、恋人のフリをした達哉を連れ母に会いに行ったことがあるから、記憶に残っているんだろう。
この浴衣に袖を通す気になったのは、母が亡くなって以来初めてのことだった。
「私も着ようかなって思ったんだけど……」
言いかけて、口を噤む。美雨の名を出せば、達哉がまた気を悪くしてしまうかもしれないと思った。
「……着ないの?」
「え?」
もう六月燈には行かないから、今更浴衣に着替える理由なんてないのに。
達哉にどう言おうかと悩んでいると、クローゼットの衣紋掛けから浴衣を外し、達哉が近づいて来た。
「着てよ、浴衣。そして一緒に六月燈に行こう」
「でも……今から?」
時計の針は、もうすぐ午後八時を指そうとしている。お祭りももう終盤のはずだ。
しかし達哉は、そんなことには構う様子もなく私に浴衣を押し付けた。
「今から着替えても、花火の時間には間に合うでしょ。美雨がいないなら、二人でデートしよう」
照れ屋の達哉が、こんなことを言い出すなんて。
「……わかった。着替えてくるわ」
私が言うと、達哉はようやく笑顔を見せた。どうやら機嫌は完全に直ったみたい。