チケットを買いに行った宮部さんの姿は、次から次へと並んで行く人々に隠れ、既に見えなくなっている。
私は大きく息を吸うと目をつぶった。
目を開けている時はかすかにしか聞こえない木々や石たちの声がよりよく聞こえるようになる。それでも、これだけ広いと一々聞いて回るのも大変な時間と労力がかかってしまう。
私は決心すると、宮部さんが帰ってこないことを祈りながら、心の扉をゆっくりと開いた。
『お願い、誰か助けて。男の子を探しているの』
何度か呼びかけると、答えを返すものがあった。
『男の子など、数えきれないほどいる』
『まって、この子を探しているの、誰か、覚えていない?』
私は必死に問いかける。
『半妖が、なぜ子供を探す? 贄か?』
この問いは、この質問にはお約束のようだ。
『そうよ。私の贄を人間が隠しているの。私は、私の物を取り戻したいだけなのよ』
いつもより強い調子で言葉が走る。
瞬間、まるで私に尻尾が生えたような不思議な感覚に襲われ、それと同時にあたりの物が恐れ戦き、ひれ伏すのを感じた。
意識の中だけのはずなのに、尻尾が揺れ動くのを感じる。
『探して教えよ!』
次に出た言葉は、まるで私の言葉ではなかった。
それと同時に、あたりの気配が一気に静まった。
何だろう、今の不思議な感覚。もしかして、狐憑きとか半妖とか言われているうちに、気持ちがそれを受け入れてしまったのかしら? あの尻尾、ふわふわして、ふさふさして、なんかシベリアンハスキーみたいだった。
私は唯一の家族写真に写っている、あのこの事を思い描いた。それでも、名前は思い出せない。でも私にとってとても大切な存在なんだと分かる。お兄ちゃんにとっては、お隣の家が飼っていた大型犬かもしれないけれど、私にとっては、特別な意味を持つ存在。そう、もしかしたら、あのこの名前を思い出すことが出来たら、私の失われた記憶が戻るかもしれない。
宮部さんの気配が近づいてくるのを感じ、私は目を開けると、彼の方を振り向いた。
☆☆☆
何とか入場制限にも引っかからず、無事に二人分の入場券をゲットした僕は満面の笑みを浮かべて紗綾樺さんに早足で歩み寄った。
気持ち的には、走り寄って抱きしめたかったが、友達の身ではそうはいかない。しかも、何か恐ろしい失態を犯してしまったのか、あれほど楽しそうに感情豊かだった紗綾樺さんの顔からは、感情が消えてしまっている。
もしかしたら、宗嗣さんが心配していたのは、この事なのかもしれない。というか、この事も含んでいたのかもしれない。
親しくなったからわかるけれど、紗綾樺さんには明らかに異なる幾つかの面がある。実際、最初に会った時だって、僕の前のお客さんの時には、まるで感情のない神秘的なというか、業務的な表情で感情のかけらもなかった。ところが、僕の占いの時には感情表現豊かで、僕の嘘を不愉快そうにバリバリと音を立てるようにはぎ取って占ってくれた。そして、再会した時も、紗綾樺さんは感情表現豊かだった。でも、宗嗣さんの前では、気だるそうな猫のような大人しさで・・・・・・。力を使っている時の紗綾樺さんは、強い意志に突き動かされているというか、まるで何かに憑かれているような、そんな雰囲気だった。
それからいうと、今の紗綾樺さんは・・・・・・。あれ? 今の紗綾樺さん、お仕事モードで前のお客さんを占っていた時に似てないか? ってことは、もしかして、これはデートではなく、崇君の捜査? デートだって、浮かれてたのは、僕だけ? ええええええっ? だって、さっきまでの紗綾樺さんは、本当に楽しそうだったのに!
そこまで考えると、手に持っていたチケットが酷く忌まわしいものに思えてきた。
「お待たせしました」
僕の気配を察して振り向いた紗綾樺さんに言うと、僕は紗綾樺さんの隣に腰を下ろした。
立ち上がろうとしていた紗綾樺さんは、意外そうに僕の顔を見つめた。
「何かあったんですか?」
問いかける紗綾樺さんの目を僕はじっと見つめ返した。
「紗綾樺さん、どうして今日のデートの目的地をここにしたんですか?」
警察官のくせに、鈍感でバカな男だと思われても仕方がないけれど、これだけは入園する前にはっきりさせておきたい。
僕の問いに、紗綾樺さんの瞳が揺らいだ。
「宮部さんが、どこでも好きな場所に連れて行ってくれるって言ったんじゃないですか」
紗綾樺さんの返事は模範解答だ。
「他にもいろいろありますよね。二人で楽しめる場所なら。紗綾樺さんが行ったことのない場所も。それこそ、大阪のテーマパークだって、長崎のテーマパークだって、どこだって紗綾樺さんが望めば、僕は連れて行ってあげたい。なのに、どうしてここだったんですか?」
僕の中で、僕の事よりも紗綾樺さんの心を閉めて居ると思われる崇君事件にバカみたいな嫉妬心のような物すら湧いてくる。それと同時に、紗綾樺さんは僕になんて何の興味もないけれど、崇君を探したいから僕の事を好きなふりをして、友達になっているのではないかなんて、バカげた考えまで浮かんでくる。
もうこうなると、頭の中は紗綾樺さんに丸見えだってこともどうだってよくなってくるというか、読んでくれる方が嬉しいかもしれない。やっぱり、男としては、こんな女々しい事を言葉にして問いかけるなんて情けなさ過ぎる。
「大阪や長崎にもディズニーリゾートってあったんですか」
落胆したような紗綾樺さんの言葉に、僕は論点が完全にズレていることを思い知らされた。
「違います。大阪はユニバーサルスタジオ、長崎はハウステンボスです! ディズニーリゾートがあるのは、ここの他はアメリカです!」
僕のアメリカという言葉に、紗綾樺さんは驚きを隠せないようだった。もう、ここまでくれば、言葉で聞く必要はない。明らかに、紗綾樺さんは捜査のためにここに来たんで、僕とデートを楽しむためじゃない。
そう思うと、デートに浮かれていた自分自身に激しい怒りさえ湧いてくる。
「アメリカには、未成年が渡航するには両親からのパスポートの代理申請が必要です。誰かに成りすまして渡航することもパスポートを取得することもできません。つまり、崇君が来たとしたら、ここ以外のどこでもありません」
言ってしまった瞬間、紗綾樺さんの表情がさらに曇っていった。
やっぱり、捜査で、デートじゃなかったんだ!
落胆と怒りと、自分のバカさ加減に反吐がでそうだった。
よく考えて見れば当然のことだ。紗綾樺さんのように美人で、素敵な女性が、僕みたいな没個性的な取り柄のない、すぐに取り換えがきくような、どこにでもいる公務員と恋人、もとい、交際してくれるはずがなかったんだ!
「違います」
紗綾樺さんが何か言ったようだったけれど、怒りと悲しみがごちゃまぜになって冷静さを欠いた僕の耳には届かなかった。
そればかりか、自分で捜査協力を依頼したくせに、崇君の捜査のために利用されたなんて、おこがましいほどの被害妄想まで湧き上がってくる始末だ。
「宮部さん、違います!」
さっきまでとは違う、刺すような、それでいて悲鳴にも聞こえる紗綾樺さんの声が僕の耳に届いた。
「ちがうって、何が違うんですか!」
傍から見たら、幸せな人々の溢れるリゾートの玄関先で声を荒立てる男なんて、よほどのバカか、間抜けにしか見えないはずだ。プラス、美しい紗綾樺さんと、凡人の僕じゃあ、突然の別れ話を切り出されてキレているドジな男ぐらいにしか見えない。
「紗綾樺さんは、僕の事なんてどうでもよくて、崇君の事が大切なんでしょう!」
ああ、馬鹿だ。ここで崇君の名前なんて出したら、完全に泥沼三角関係だ・・・・・・。
「それは、私じゃなく、宮部さんの方でしょう」
ちょっと待ってくれ紗綾樺さん。これじゃあ、紗綾樺さんの二股の相手と僕が男同士でって事になるじゃないですか!
「そんな事あるわけないじゃないですか! 僕は、紗綾樺さんが一番大切に決まってるでしょう。だから、だから・・・・・・」
だから、紗綾樺さんに負担をかけたくなくて、これ以上紗綾樺さんに捜査の協力を頼みたくないって思っているのに。
「そんなの余計な心配です」
明らかに僕の心を読んだ紗綾樺さんが言い切った。
「余計な心配って、大好きな人の事を心配するのの何がいけないんですか?」
何がいけないと言い切りたかったが、自分に自信がないから、ついつい疑問形になってしまった。
「宮部さんが心配するべきなのは、私の事ではなくて、崇君の事です。私なんて、どうだっていいんです」
感情を含まない紗綾樺さんの声が冷たく僕の心に響き、僕は手の中のチケットがぐしゃりと折れるのを感じた。
「それを言うなら、僕にとっては崇君の事の方がどうだっていい。僕にとって、崇君の事は、毎日発生する沢山の事件の一つに過ぎないんです。実際、捜査は県警主導で行われているし、僕は捜査協力から外されてしまったから、もう崇君の事件そのものが僕にはもう関係ない。でも、紗綾樺さんの健康や、紗綾樺さんの事は僕にとって何よりも大切です。例え、紗綾樺さんから見たらただの友達の一人かも知れないですけど、僕にとって紗綾樺さんは一人しかいない大切な女性です。崇君となんて、比べようもありません」
渾身の告白だった。
たぶん、僕の人生で、ここまで情熱的に何度も告白を繰り返す相手は二度と現れないだろうと、確信すら持てる。
それなのに、紗綾樺さんは驚いたようすもなく、どちらかと言えば沈んで見える。
ああ、やっぱり迷惑だったか。ちょっと、頻繁に告白しすぎたかもしれない。超がつくほどウザい男だと思われたかもしれない。
「そんなこと、あるんですか?」
紗綾樺さんの問いに、僕の頭はさらに混乱する。この問いは、どこにかかってるんだ? 心が読める紗綾樺さんだからこそ、僕は返答に詰まった。
この問いの形からすると、超ウザい男の線は違うだろう。だとすると、告白を繰り返す相手? えーと、迷惑だったかなってのも違うはずだ。とすると、紗綾樺さんが一番大切だって部分か? それとも、もしかして、崇君の事なんてどうでもいいって言った事か? わからない、せめて、もう少しヒントが欲しい。じゃないと、今度こそ取り返しがつかない地雷を踏んでしまう気がする。
「地雷、日本にも埋まってるんですか?」
「えっ! 地雷? 日本にあるのは魚雷くらいじゃないですか?」
訳の分からない会話をした瞬間、再び思考が取り留めもなく漏れていることを思い知る。
「地雷も、魚雷もどうでもいいんです。僕が知りたいのは、紗綾樺さんの質問がどういう意味かってことで・・・・・・」
完全に、人の話を聞かない男になってる気がする。
「崇君の命より、私の健康の方が心配だなんて、そんなこと、あり得るんですか?」
最悪のパターンの質問だ。ここで、『はいそうです』と答えたら、非道な男になるし、『崇君の命の方が大切だ』と答えたら、いままでの自分の発言が全部嘘になる。でも、ここで紗綾樺さんの健康の方が大事だと言わなければ、僕はきっと一生後悔する。
「僕には、紗綾樺さんの健康の方が大切です。だからと言って、崇君の命が大切ではないという意味ではありません。でも、崇君と紗綾樺さんが崖から落ちかけていたとしたら、僕は紗綾樺さんを助けます。確かに、崇君のお母さんにとっては、崇君はかけがえのないものでしょうけれど、僕と宗嗣さんにとって、紗綾樺さんは同じくかけがえのないものだからです。だから、綺麗ごとで人の命の重さに重いも軽いもないなんて言いません。僕個人にとっては、紗綾樺さんの命の方が崇君の命よりも、はるかに大切です。確かに、警察官としては、優先するのは女性と子供。どちらか一方だったら、体力のない子供を助けて、それから女性になるでしょう。でも、僕の目の前で紗綾樺さんと崇君が落ちかけていたら、紗綾樺さんを助けて、それから崇君です。もし、それで崇君を助けられなかったとしても、僕は紗綾樺さんを助けられたことを幸運だと思います。もちろん、崇君を見捨てたと非難されることになっても、その非難は甘んじて受け入れます。それで、警察をやめないといけなくなったとしても後悔はしない。崇君の家族に申し訳ないと謝ることはできても、紗綾樺さんを助けられなかったら、宗嗣さんに合わせる顔がありません」
一気に言うと、僕は紗綾樺さんの返事を待った。
紗綾樺さんは呆れているだろうか? それとも、困っている?
しばらくの沈黙の後、逸らされていた視線が再び合わされた。
「宮部さんは、私の事が気持ち悪くないんですか?」
えっ? 質問の意味が分からず、一瞬、答えに窮する。
「私みたいに、狐憑きとか、半妖とか言われて、宮部さんの考えていることがわかるような力があるのに。宮部さんは気持ち悪くないんですか?」
ゴール手前で意気揚々とサイコロを振ったら、止まった目が『ふりだしに戻る』だったような、足元が音を立てて崩れていくような錯覚に襲われる。
「宗嗣さんの前で約束したじゃないですか。僕は、紗綾樺さんの力を信じていて、その力ごと紗綾樺さんを受け入れたいって」
「それは、捜査協力するためのお芝居で、私が兄には交際していることにしてくださいって頼んだからでしょう」
「確かに、紗綾樺さんがそう言ってくれなければ、僕が宗嗣さんに交際の許しを貰うまで、もっと何ヶ月もかかっていたと思います。でも、それは時期の問題で、僕の気持ちに変わりはありません」
「どうして、私を好きになれるんですか? 私の事、ほとんど何も知らないのに」
「一目惚れです。たぶん、最初に占ってもらった日、紗綾樺さんが受付最後の札を渡しに姿を現したときから、僕は紗綾樺さんが好きだったんです」
我ながら、少し説得力に欠けると思いながらも、あの時、紗綾樺さんを可愛いと思ったことは嘘ではない。
「本当に私の事、怖いとか気持ち悪いとか、気味悪いとか思わないんですか?」
きっと、紗綾樺さんは大勢の人を助けたのに、沢山の酷い言葉を浴びせかけられてきたんだろう。好きだとか、大切だとか、そんな言葉を並べられたくらいでは、信じられないくらいに。
「思いません。たまたま僕が好きになった紗綾樺さんに、特別な力が備わっているだけです。それは、特別なもので、僕にとっては忌み嫌うようなものではないです」
断言できる。紗綾樺さんが持っている力は、紗綾樺さんに与えられた神様からの贈り物で、決して禍々しいものではない。もし、この力が禍々しいものだとしたら、紗綾樺さんも宗嗣さんも、力を隠そうとはせず、もっとお金儲けや犯罪まがいの事に利用しているはずだ。こんな風に、力を畏れたりしていないはず。
「宮部さんが、私の事を本当に好きになってくれるって言うんですか?」
紗綾樺さん、その質問は間違いです。僕は、何度も言ってますけど、もう紗綾樺さんが好きなんです。
僕は心の中で叫んだ。
「好きです。これから好きになるんじゃなくて、僕は紗綾樺さんが好きなんです」
なんで、ここで中学生みたいに『好き』とか言ってるんだ。ここは、大人の男らしく、どーんと『愛してる』宣言しちゃえばいいのに。愛の押し売りで嫌われるのが怖くて、そこまでは踏み出せない自分がいる。
「もし、私が崇君を見つけられなくても、何の手掛かりも見つけられなくても、好きでいてくれますか?」
なぜだ! 僕は頭を抱えたくなる。もういい加減、崇君の事は忘れてくれと叫びたい。
「当然です。逆に紗綾樺さんが、僕が崇君を助けられなかったら嫌いになると言ったら困りますが、紗綾樺さんが崇君を見つけられなくても、それは仕方がない事です。第一、崇君を見つけるのは警察の仕事です」
僕はきっぱりと言い切った。
「宮部さんは、崇君を探すために私をデートに誘ったんじゃないんですか?」
「違います。僕は、紗綾樺さんと友達以上になりたいから、デートに誘ったんです。だって、友達が一緒に出掛けるのは、デートとは言わないですから」
僕の言葉に、感情の表れない紗綾樺さんの頬が少し染まる。
「じゃあ、今日は、デートなんですね」
紗綾樺さんは俯き加減で、きもち声も少し恥ずかしそうな声になっている。
「紗綾樺さんが、僕が相手じゃ嫌だって言うのでなければ、デートです」
ここで、嫌だと言われたって、紗綾樺さんを諦めるつもりはないけれど、デートでなくても今日の所は一緒に遊びに来たんでもかまわない。
「そのチケット、まだ使えるんですか?」
紗綾樺さんの言葉に、僕はほとんど握りつぶしてしまったワンデーパスに目をやる。
「使えますよ。大丈夫です」
ここでは見せるだけだから、改札機に通すわけではない・・・・・・。あれ、入り口は改札機だったっけ?
「じゃあ、デートしたいです」
紗綾樺さんは消え入りそうな声で言った。
「じゃあ、行きましょうか」
僕は言うと、紗綾樺さんに手を差し出した。
紗綾樺さんは僕の手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、こっちです」
僕は紗綾樺さんの先に立ち、入園ゲートを目指して歩き出した。
☆☆☆
頭の中を色々な人の記憶が閃いては消えていく。
楽しい記憶、愛しい人との思い出。笑顔と幸せな微笑み。
何も考えず、あんな風に笑う事が出来たら。もし、私があんな風に笑えるようになったら、お兄ちゃんは喜ぶんだろうか? 昔の私は、あんな風に笑っていたのかしら?
宮部さんの言う、『友達以上』という意味はよくわからない。たぶん、こうしてデートして、一緒に買い物に出かけ、一緒に食事をして、二人で優しく微笑みあう、きっとそんな仲になる事なんじゃないかと、想像することはできる。でも、どうしてみんなはあんなに幸せそうに微笑んで一緒にいられるんだろう? それは、きっと、相手に心を読まれる不安がないからだと私は思ってきた。でも、宮部さんは、彼は私とそういう関係になれると思っているのだとしたら、もしかしたら、私もいつかそうなれるのかもしれない。
宮部さんとデートしたら、私も幸せな笑みを浮かべられるようになるの?
「じゃあ、今日は、デートなんですね」
私は確認するように問いかけた。
「紗綾樺さんが、僕が相手じゃ嫌だって言うのでなければ、デートです」
宮部さんの想いはまっすぐに私に向かっている。でも、どうして彼がそんなにまっすぐな想いを私に向けてくれるのかわからない。もし、彼が私に事件の解決を求めているのでないとしたら、彼は私に何を求めているんだろう?
鉛の箱の中に収められた彼の本当の心を渡しに読むことはできない。
いや、正確に言えば、読みたいとは思わない。たぶん、私が本気になれは、彼の鉛の箱の中に隠された本当の気持ちだって、私は無理やりに読むことができるはずだ。たぶん、さっき、この周辺のすべての物に崇君を探すように命じたような、すさまじい勢いを発する力の塊を使いこなせば。でも、そんなことしたくない。だって、そんな事をしたら、きっと宮部さんは彼の手の中で握りつぶされたチケットのようにぐちゃぐちゃになってしまうから。
「そのチケット、まだ使えるんですか?」
私はくしゃくしゃになっているチケットを心配げに見つめた。
宮部さんは大丈夫だというと、私に手を差し出した。それは、まるで救いの手を差し伸べるように、私に私を取り戻させるかのように。
私は彼の手を取ると、彼に導かれるまま歩き始めた。
私の心配通り、くしゃくしゃになってしまったチケットは入園の際になかなか機械に通らず、係の人は悪戦苦闘しながら私たちのチケットの処理をして私たちを中に入れてくれた。
そこは、まるでお伽の世界だった。
色とりどりの建築物に、物語から抜け出てきたキャラクター達が溢れかえっていた。
私が生きて暮らしてきた街とは違う空気に満ちた空間は、まるで魔法の世界だった。
立ち止まり、目を輝かせて辺りを見回す私に宮部さんが微笑みかける。その笑顔は、私の知っている幸せな人々の微笑みだった。
「さあ、参りましょうか、お姫様」
地味な紺のスーツを着ている宮部さんが、まるで騎士のように見える。
もともと長身でいて、スラリと背筋を伸ばして立っている姿は、さすがにそれなりの訓練を積んで来た武術に長けた男性であることを感じさせるものを持っていたけれど、入園ゲートを通るために一度はなしていたいた手を繋ぐため、振り向いて私の方に手を差し出す宮部さんは、この世界の魔法を身にまとった騎士だった。
特に意識したつもりはないのに、『姫』という言葉に恥ずかしさで頬が染まっていくのを感じた。
「宮部さん、は、はずかしいです」
小声で言うと、宮部さんは少し顔を曇らせた。
「今日はデートなんですから、紗綾樺さんには、名前で呼んでもらいたいです」
さらりと言ってのける宮部さんに、私はさらに顔が赤くなるのを感じた。
私の記憶にある限り、誰かを名前で呼んだことなんてない。
「尚生です」
ダメ押しのように言われ、私は消え入りそうな声で、再び言った。
「な、なお、き、さん。はずかしいです」
これでは、名前で呼ぶのが恥ずかしいのか、姫と呼ばれたのが恥ずかしかったのかわからない。
「そんなに恥ずかしがらないでくださいよ。僕は、ずっと紗綾樺さんって呼ばせてもらってるんですから」
こぼれそうな笑みを浮かべ、彼は私の手を取った。
「今日だけは、紗綾樺さんは僕だけのお姫様です」
『顔から火が出る』というのが、どういうことなのかを初体験しながら、私は彼に手を引かれるまま魔法の国へと歩を進めて行った。
メインストリートを歩いていると、色々な形をした風船を売っている可愛い売り子の男女が両サイドに並び、子供たちが風船をねだっている姿が可愛らしかった。
「ここはショッピングモールも兼ねているので、お土産から色々なものを売ってるんですよ」
彼はゲートで貰ったマップを片手に案内してくれる。
男の子が小さな妹の手を引いて風船売りの所へ走っていく姿が、まるで自分とお兄ちゃんの姿のように見えた。
記憶を失う前の私とお兄ちゃんは、あんな風に楽しそうで、幸せだったのかもしれない。記憶を取り戻したら、あんな風にお兄ちゃんも私に笑いかけてくれるようになるのかな?
「風船が欲しいですか?」
風船というよりも、風船に群がる親子連れから目を離せずにいる私に、彼が問いかけてきた。
「あ、そんな子供みたいなこと・・・・・・」
肯定も否定もできない私に、彼が『帰りにしましょうね』と優しく言った。
「さあ、行きましょう」
目的地を決めたらしい彼が私の手を引いてどんどん進んでいく。
アーケードを抜けると、そこには驚くような世界が広がっていた。
運河に、それを見下ろす大きな火山。運河は前に誰かの記憶で見たことのあるイタリアの街のようで、ゴンドラが浮かんでいる。
「あれは、ベニスに似せてるんですよ」
まるで私の心を読んだように彼が答える。
ああ、そうだ。ベニスって言うんだった。
「あの、火山は大丈夫なんですか? なんか、煙も出てますけど・・・・・・」
魔法にかかってしまった私には、どこからが現実かもわからない。
この世界に足を踏み入れてから、まるで地に足がついていないような、体が軽くなったような気もする。
「大丈夫ですよ。あ、ちょっと待っててくださいね」
彼は言うと、私の手をはなし、近くの屋台のようなお店に走っていく。そして、何かを買い求めるとすぐに戻ってきた。
「これ、チケットケースです」
一生懸命にチケットのシワをのばすと、彼は一枚をケースに滑り込ませ、私の首にかけてくれた。
「ここでは、チケットを見せるだけなので、これを首から下げて入れは、チケットの出し入れの手間が省けますから」
そう言って自分の首にかけたケースは、私の物とお揃いだった。
黄色いフレームにおどけたような熊がはちみつの壺を抱えている。とても、成人した男女が首からかけるような物には見えない。
「あの、これ、子供用じゃ・・・・・・」
思わず問いかけると、彼は近くを歩いているカップルを指さした。
同じ露店のようなお店で購入したらしい二人は、女性が私と同じものをぶら下げ、男性の方は黒いネズミが派手なコスチュームを着ているブルーのフレームの物を首から下げていた。
「ここにいる間は、大人も子供もないんですよ」
そう言って彼が次に指さした先には、さっきの風船売りから買い求めたらしい二つの風船をポシェットに結び付けている女性とマップを広げながら一生懸命に話しかけている男性のカップルだった。
「ここは、魔法の国なんですか?」
それ以外の言葉は私には見つけられない。例え、彼に大笑いされたとしても。
「そうです。ここは、魔法の国です。現実から切り離された、特別な世界です」
煌めくすべての物が美しく、彩られるもの全てが幻想的で、私は目が回りそうなくらい何度も何度も辺りを見回した。
誰かの記憶を通してみるのとは違う、極彩色の世界。
走り回る小人たち。
踊るお姫様と王子様。
私は魂を奪われてしまったようにその場を動けなくなった。
この世界には、こんなに沢山の色が溢れていたのだろうか?
この世界には、こんなに沢山の笑顔が溢れていたのだろうか?
私の知っている世界は・・・・・・。
次の瞬間、茶色く濁り、どす黒い水の壁が私を飲み込んでいく。
しかし、それは私の頭の中で再現された物で、実際には存在しないものだった。
そうだ、あの日からだ。
私は突然、気が付いた。
あの日から、私にはどんな色彩も、どんな笑顔も、全ての物があの茶色く濁り、どす黒い意志を持ったかのような水の壁を通してしか見えていなかった。どんな音楽も、どんな笑い声も、すべてあの水の壁に打ち消され、私の心には届いていなかった。
もっと見たい。この世界にあふれる色を・・・・・・。
もっと聞きたい。この世界にあふれる喜びの音を・・・・・・。
『それがお前の望みならば、断ち切るがいい』
何度も夢の中で耳にしたことのある声が告げる。
『今のお前には、その力がある』
断ち切る? あの水のような壁を?
次の瞬間、私は自分の手の中に燃え立つような炎の剣が握られている事に気付いた。
『見せてみるがいい、お前の望みを・・・・・・』
声に導かれるまま、私は剣を振り上げる。
私を阻むように水の壁が渦を速めじりじりと私の傍へと寄ってくる。
『成し遂げるがいい』
声に従い、私は無心で剣を振り下ろす。
スッパリと断ち切られた水の壁は意志を失くしたかのように私の足元に泡となって消えていった。
『見事であった』
称えるような、認めるような声と共に手の中の剣が消える。
もはや私と世界を隔てる壁は何もない。
私は胸の前で、両手で空を掴む。
私は生きている。私の世界には、綺麗な色が溢れ、喜びの音が満ちている。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
立ち止まったまま動こうとしない私に、彼が私の顔を覗き込みながら問いかけてくる。
「尚生さん・・・・・・」
私が彼の名を呼ぶと、彼は驚いたように、そして恥ずかしそうに息を飲んだ。
「帰りますか? もし、人が多すぎるのなら・・・・・・」
彼の私への想いが流れ込んでくる。
どうして、私は気が付かなかったんだろう。こんなにも、彼は私の事だけを考え、私の事だけを見つめてくれているのに。
「大丈夫です。今日は、尚生さんとのデートですから」
言葉はすらすらと流れるように出てきた。
「じゃあ、行きましょう」
尚生さんは、私の手を取ると再び歩き始めた。
それから、私たちは長い列に並び、あっという間に終わってしまう夢の時間を体験した。
☆☆☆
突然、躊躇うことなく『尚生さん』と呼ばれた僕は、思わず息を飲んでしまった。
ゲートの外で喧嘩ではないものの、言い争いを招いた冷たく全てを隔絶したような紗綾樺さんと同じ人とは思えないくらい、紗綾樺さんは輝いていた。
あの力を使って、自分に鞭打って立ち上がってる時の人を寄せ付けない苦しみに縛られた紗綾樺さんとも違う。来る途中、電車の中で見せた親しげでありながら、見えない壁で距離を保っている紗綾樺さんとも違った。
たぶん、僕が初めて出会う紗綾樺さんだ。僕が知っているどんな紗綾樺さんよりも美しく、純粋で、僕の名を呼んだあの一言は、まるで陰陽師で言う呪のようで、名を呼ばれた瞬間から僕の心は完全に紗綾樺さんの虜になってしまった。
もし、紗綾樺さんに出会ったのが運命じゃなかったら、僕はきっとすべての神様不信に陥る自信がある。紗綾樺さんと僕の出会いは必然だったと信じたい。紗綾樺さんに僕だけを見つめて欲しい。
紗綾樺さんに、愛されたい。
あまりに直球過ぎる欲望が沸き起こり、僕は慌てて欲望をかき消して隣で興味深げに辺りを見回す紗綾樺さんの事を見つめた。
どこもかしこも長い列が続き、僕は比較的列の短い蒸気船の列に並んだ。
順番が来て船に乗り込んだ僕たちは、他の恋人たちと同じように並んで腰を下ろした。
蒸気船の旅はトランジットスチーマーラインと名付けられているだけあって園内をぐるりと回る設計だ。ベネチア風の岸を離れると、アメリカの開拓時代に僕たちはタイムスリップし、そして、船はジャングルの奥地へと進んでいく。その景色の移り変わる様を紗綾樺さんは大きな瞳を輝かせて見つめていた。
「尚生さん、あれ・・・・・・」
背の高い木々の向こうに巨大な石造りのピラミッドのようなものが見え始め、紗綾樺さんが僕の名を呼んだ。
「あれはマヤ遺跡のピラミッドですよ」
考古学好きも、こういう時は少し役つ。
「素敵・・・・・・」
今まででは考えられないくらい、紗綾樺さんの感情表現が豊かで、僕は周りの景色なんて目に入らず、ただただ輝くような紗綾樺さんの事だけを見つめてしまった。
本当は、一番遠いロストリバーデルタの船着き場で降りてアトラクションに並ぶ予定が、紗綾樺さんを見つめているうちに船はアラビアを通り越し、一周してゲート傍のベネチアの船着き場まで戻ってしまった。
「ここ、最初に乗った場所ですよね?」
「はい。紗綾樺さんが楽しそうなので、一周しちゃいました。ここで降りて、歩きましょう」
短い会話を交わし、僕は紗綾樺さんの手を取って陸に上がらせた。
もちろん、前後で船の操縦をしているように見せていた男性も手を貸してくれるのだが、僕は紗綾樺さんの手を誰にもとられたくなかったので、しっかりと紗綾樺さんをガードして誰にも紗綾樺さんの手は取らせなかった。
ボートから降りた紗綾樺さんは、うっとりとするような瞳でベネチアン・ゴンドラを見つめていた。
「あれは、もう少しロマンチックな時間になってからにしましょう」
僕が提案すると、紗綾樺さんは『はい』と答えてくれた。
それから、紗綾樺さんと僕は込み合う園内を人を避けるようにして歩き、できるだけ列の短いアトラクションを見つけては並んだ。
平日とは言え、さすがにハロウィーンの特設イベントを行っているだけあってカップルの比率は高く、各アトラクションの待ち時間が想像を絶するくらい長かった。
「あの着ぐるみみたいな人たちは、みんなスタッフの方なんですか?」
ディズニーキャラクターになりきっている、いやなりきっているつもりの人も多いんだけど、敢えてそこには触れず、僕は簡単に答えることにした。
「あの人たちは、ハロウィーンの仮装ですよ。手作りから、ショップで購入したコスチュームまで、いろんなグレードの仮装をしている人がいるでしょう。
足を止めて興味深げにいびつな形をした熊のプーさんを見つめている紗綾樺さんを待ちながら、僕は大きな石を積み重ねて作られた壁によりかかった。そして、ふと見上げると、そこには、いま海から上がってきましたという雰囲気のマーメイドが座って微笑んでいた。
白い素肌に貝殻で作られたビキニトップ、腰から下の滑らかな曲線は蠱惑的なピンク色の魚の尾になっている。
「紗綾樺さん、人魚ですよ」
あまりのリアルさに、僕は紗綾樺さんに声をかけた。
「すごいですね。最近は、こんなリアルな人形が作れるんですね」
僕が言っているそばから、マーメイドはその細い手を子供たちに向けて振っている。どう見ても、生きている人間としか思えないスムーズな動きに僕が目を奪われていると、紗綾樺さんが珍しく僕の腕を掴んで引っ張った。
「どうしたんですか?」
まさか、露出度の高いマーメイドに僕が見とれてたから、やきもちとか?
思わず、願望が頭をもたげる。
「尚生さん、あれ、人形じゃないですよ」
「えっ、そんな、まさか!」
この寒空の下、上半身ほとんど裸で冷たい岩の上に座っていられるはずがない。しかも、あんな笑顔で手を振って・・・・・・。
「本当です。あの人、尚生さんの事、早くいなくならないかなって思ってます」
「えええっ!」
思わず大きな声を出すと、マーメイドが不機嫌そうな顔をして僕の事を睨みつけた。
確かに、人形なら睨みつけてくるはずがないし、ましてやクルーなら、お客を睨むはずがない。だとしたら、この完璧なマーメイドは、素人さんのコスプレという事になる。
マーメイドに睨みつけられたくらいで臆しては警察官の恥とばかりに、怯まずに僕が見つめ続けると、マーメイドは不満そうに背中に隠していたらしいペットボトルを取り出し、僕に見せつけるように飲み始めた。それは、『大人の男には用はない、とっとと失せろ、このスケベ男』と言っているような仕草だった。
「行きましょう、尚生さん」
紗綾樺さんは恥ずかしそうに言うと、ほとんど硬直してしまっている僕を引きずるようにして進んでいった。そして、一番近くの列の最後尾に並んだ。
ああ、まずい。きっと、紗綾樺さんは僕が露出の高い女性に弱い男だと思ってる・・・・・・。
考えるだけで、僕自身、顔から火が噴出しそうなほど恥ずかしかった。
見ず知らずの相手とは言え、ほとんど裸同然の女性を造り物と信じ切って、ジロジロと眺めてしまった。もし、紗綾樺さんと一緒じゃなかったら、あまりの出来のすばらしさに手を伸ばして触っていたかもしれない。逆に、本物の人間だと分かった今、どうやってあの貝殻で作ったようなブラトップはピッタリと胸に張り付いてるんだろう?とか、あの貝殻は本物なんだろうか?とか、どうして恥ずかしくもなく、あんな不特定多数に見られる場所であんな恥じらいのない姿を晒せるんだろうとか、変な男に絡まれたらどうするつもりなんだろうとか、どうでもいい事ばかりが頭を巡っている。
つまり、紗綾樺さんから見たら、僕は好き物の変態男! なんてこった!
「さ、紗綾樺さん、信じてください。僕の名誉に誓って、本当に、僕はあのマーメイドが造り物だって信じてたんです」
言い訳がましいのはわかっていたが、それでも、紗綾樺さんに変態だと思われ続けるのは、今後の友情に大きな影を落とすことになる。ましてや、帰宅後に紗綾樺さんが宗嗣さんに、僕がほとんど裸の女性をジロジロ見ていたなんて話したら、宗嗣さんの鉄拳が飛んできて、『以後敷居をまたぐな』とか、紗綾樺さんの半径二メートル以内への接近禁止とか、考えるだけでも目の前が真っ暗になるような不幸に見舞われるのは明らかだ。
「お願いです、紗綾樺さん、信じてください」
紗綾樺さんの手を握って訴える僕を見る紗綾樺さんの目が冷たく感じる。気のせいだろうか・・・・・・。
「勘違いしていたことは信じてます。でも、尚生さんは、ああいうグラマーな女性が好みなんですよね」
信じているが、もっとまずいところで疑われている気がする。
あれ、グラマーだったか? 確か、ディズニーの人魚姫バリに平らな胸だった気がしたんだけど・・・・・・。
そこまで考えた瞬間、『やっぱり、サイズとか見てたんですね』という紗綾樺さんの呟きが聞こえた。
は、はめられた? 紗綾樺さん、ものすごく平然とカマかけた?
「ちがいます。ちがいます。そっくりによくできてるなって思ったんです。もし、彼女がグラマーだったら、違和感を感じて、逆に人間だって気付きました!」
僕の必死の訴えに、前に並んでいるカップルのくすくす笑いが聞こえてくる。その前のカップルは、女性に男性が肘鉄を食らっている。どうやら、ここの列は、デート中に遭遇してはいけない、超危険なトラップに遭遇したカップルの流れつく場所らしい。
「男の人って、そういうものですよね」
諦めたような紗綾樺さんの言葉に、僕は賛同していいのか、否定するべきなのか、躊躇したまま言葉を飲み込み続けたが、唯一、肯定も否定もしなくていい方法を思いついた。
「それって、宗嗣さんも同じってことですか?」
もし、宗嗣さんも同じなら、紗綾樺さんに幻滅されなくて済むかもしれないという、微かな望みをかけての事だった。
「お兄ちゃんの事は、わかりません」
それは、とてもシンプルな答えだった。
「えっ、知らないって・・・・・・」
「お兄ちゃんの考えていることは読めないんです」
衝撃的な答えだった。紗綾樺さんの能力をしっかりと理解している宗嗣さんには、紗綾樺さんに心を読まれた経験がない? 嘘だ・・・・・・。ありえない!
「昔は読めてました。でも、最近は読めません。お兄ちゃん、鉛で出来た金庫を持ってるんです」
「鉛の中は見えないんですか?」
「・・・・・・はい」
まるでスーパーマンみたいだ。って、スーパーマンだと、男だよな。じゃあ、スーパーマンの従妹って設定のスーパーガールもやっぱり鉛の中は見えないのか? だとしたら、紗綾樺さんはスーパーガールと同じ?
何考えてるんだ、そんなのどうだっていい事じゃないか!
「尚生さん、もういいです。尚生さんの事は信じてますから。変態だなんて、思ってませんから」
紗綾樺さんの言葉に、再び前に並んでいるカップルがくすくすと笑いだす。
笑いたければ笑え! 君たちにはわからなくても、僕と紗綾樺さんは強い絆で結ばれているんだ!
僕は、心の中で言い切った。しかし、それに対する紗綾樺さんのコメントは『そうなんですか?』という、酷くつれないものだった。
僕は、紗綾樺さんの能力を完全に信じているから、あの時、あの場所でダラダラと垂れ流しに僕が思ったことを紗綾樺さんが全て知っていることをわかっていても、紗綾樺さんの事を今までと同じ、もしかしたら、それ以上に好きでいる。
再び、垂れ流される僕の思考に、紗綾樺さんの頬が少し赤く染まった。
本当なら、ここで大きな声で叫んだってかまわない。僕は、紗綾樺さんの事が大好きだ! 紗綾樺さんを愛し続けることができると確信している。
突然、紗綾樺さんが僕の腕を掴んだ。
「尚生さん、やめてください。こんなところで叫ばれたら、恥ずかしくて・・・・・・」
「あ、ああ、そうですね。大丈夫です」
僕は返事をしながら、本当に、紗綾樺さんには何でも聞こえてるんだなと、しみじみと思った。別に嫌なわけじゃない。でも、そのうち、紗綾樺さんに呆れられて、嫌われるんじゃないかと不安になる。
「大丈夫です。尚生さんの事、私も大好きですから」
えっ! 紗綾樺さんから告白!
「東京に出て来て、初めてできたお友達ですから」
大きなハンマーで頭を叩かれたような衝撃を感じた。
そうだ。まだ、お友達から一歩も進んでいなかったんだった。もう、こうなったら、ひたすら未来の奇蹟を信じて走り続けるしかない。
身も蓋もない、ちぐはぐな会話を続けているうちに順番がやってきて、僕たちはアトラクションの中へと案内された。
それは『海底二万マイル』だった。
真っ暗な中を進んだり、二人っきりで小型潜水艇に乗って海底を探索したりする。
伝説のアトランティス大陸を探すお話なわけで、考古学や古代文明好きの僕にはいくらでも披露できるトリビアもある。それに二人の距離も近いし、二人だけの世界にもなれるし、普通のカップルには悪くはないアトラクションだし、もし、これが友達となら、ワイワイガヤガヤと盛り上がりながら、『ちょっと時間が短すぎだよな』とか言いつつ盛り上がれる。しかし、紗綾樺さんを連れてくるには無神経極まりないアトラクションだった。
いきなり頭の上から少しとはいえ水をかけられ、高波高、津波高が押し寄せて堤防が決壊しそうだとか、もう紗綾樺さんには聞かせたくない禁句の連続。挙句、海の底だ。
何も考えずに列に並んだ自分を呪ってしまう。おかけで、あっと言うくらい短いアトラクションだったはずなのに、紗綾樺さんの顔からは笑顔が消え、少し青ざめているようにも見える。
土下座ものの、痛恨のミスだ。
僕が紗綾樺さんを『海底二万マイル』に連れて行ったと紗綾樺さんの口から知れれば、やっぱり出入り良くて出入り差し止め、悪ければ交際禁止になりかねない失態だ。
あの日、僕は約束したんだから、紗綾樺さんが過去の事を思い出すような事をしないと。それなのに、海底、高波、津波。アトランティスが一夜にして沈んだ理由は、火山の噴火と天変地異的な地震に津波・・・・・・。最悪も良いところだ。
ああ、あのマーメイドの一件で動揺していたからって、入り口で『海底二万マイルにようこそ!』って笑顔で迎えられた時に気付くべきだった。
はぁ・・・・・・。
思わずため息が出てしまう。これって、やっぱり思いやりの足りない男だって紗綾樺さんも思うよな・・・・・・。
みるみる青ざめていく紗綾樺さんに、僕は慌てて紗綾樺さんの体を支えると、近くにいたギフトショップのスタッフに声をかけた。
「すいません。連れが気分が悪くなったようで、救護室はありますか?」
「あ、はい。ただいま・・・・・・」
女性の返事が終わらないうちに、紗綾樺さんは強風に吹かれた花が根元から折れてしまうように、足に力が入らなくなったようで、その場に崩れ落ちそうになった。
僕は躊躇することなく紗綾樺さんを横抱きにすると、『中央救護室は、こちらです』という女性スタッフに案内されて人々の間を潜り抜けるようにして救護室を目指した。
☆☆☆
「海底二万マイル」の中に入る前から少し、嫌な予感はしていた。きこえてくるのは、「つめたい』とか『なんで水かけるの?』、『洋服、シミにならないでしょうね? バッグだってブランドものなのよ!』というような戸惑いや怒りのこもったものばかりだったし、中には『なに、津波って~。ああ、なんか外洋につながってるとかいうゲートがバタバタして壊れそうな感じがするのはそういう事なんだ』と、これから楽しむはずのアトラクションの説明を全てしてくれる人までいる。
ある意味、力を全開にしているはずなのに、以前のように息苦しさや、聞こえすぎて苦しいという感じはない。きっと、あの太刀で断ち切った何かによって、私は前より自由に力が使えるようになったんだと思う。だから、この溢れる光や色、音、それらをはっきりと認識することができるし、どれも雑音でも不協和音でもない。
ほとんど真っ暗な小型潜水艇で見る人工的な海底は、私が観たことのない海の底をロマンチックに見せてくれた。しかし、一つ、二つと、さっき放ったあらゆる意識達が私の元へ報告に戻ってくると、全ては一転した。
次から次へと並べられる報告に、私の頭は痛み、視界は霞んでいった。
さすがに、許容量オーバーらしい。目の前が暗くなり、立っているのも辛くなってきた。
なんとか外へ出ると、太陽の光が私を暖かく包んだ。しかし、視界は明るくなることなく、私は膝に力がはいらなくなり、いつかのようにガクリと膝が折れて倒れそうになった。
しかし、私の体はふわりと浮かびあがった。でも、それ以上は意識を保つことができなかった。
☆☆☆
真っ暗な空間に体が浮いている。という事は、これは現実の世界ではないのだと私は直感した。それに、体が宙に浮いているだけでなく、さっきと同じでふさふさの尻尾が私に生えている。
「戻ってきたという事は、私の贄の行方が分かったのだな」
私の声なのに、話し方が私とは全然違う。
声に合わせるように、優雅に尻尾がふわりと優雅に揺れる。
あらゆる意識達が次から次へと報告を始める。中には、似ているけれど違う子供の情報も沢山あったが、不思議なことに私には正しい情報だけがつながっていく。
そして、頭の中に映像が再生されていく。
「崇君、次は何に乗りたい?」
優しい笑顔の女性が崇君に問いかける。
「ポップコーンを買ってきたよ」
ディズニーキャラクターの絵柄が全面に描かれたブルーのケース一杯にポップコーンが詰まった入れ物を優しそうな男性が崇君の肩から斜めにかけてあげている。
崇君は嬉しそうに、それでいながら、少し恥ずかしそうにしている。
「遠慮しなくていいんだからね」
男性は言うと、崇君の頭を撫でた。
「そうよ、お母さんの具合が良くなったら、おうちにも帰れるんだから、心配しなくていいのよ」
二人とも優しく崇君に接していて、危害を加える心配は全くないと確信が持てた。
まるで本当の親子のように二人は崇君を気遣い、いろいろな乗り物に並び、レストランで食事をし、近くのリゾートホテルの豪華な部屋に泊まっていた。
翌日はディズニーランドに行って、もう一泊。
移動は車じゃない。あの車は、崇君を迎えに行くためだけに借りたものだったんだ。
鮮やかな映像は、まるでビデオを見ているようだった。
幸せそうな夫婦に、楽しそうにほほ笑む崇君。それは、家族団欒のビデオを見ているようだった。
名前がわかれば、行き先を調べられるのに、さすがに名前まではわからない。
目覚めたら、尚生さんに調べられるか訊いてみよう。
私は考えながら、親子のような三人を見つめ続けた。
☆☆☆
中央救護室のベッドで紗綾樺さんが休んでいる間、僕はベッドの隣に置かれた椅子に座って紗綾樺さんが目覚めるのを待った。
完全に意識を失い、顔色の悪い紗綾樺さんを見た救護室のスタッフは救急車を呼んで病院に搬送することを勧めてくれたが、僕は紗綾樺さんが倒れた理由が紗綾樺さんの力に関係があるのではないかと思ったので、敢えて横になって休むことを希望し、救急車を呼ぶのは止めてもらった。
少しでも僕の気持ちが届くように、僕は紗綾樺さんの手を握り続けた。
(・・・・・・・・紗綾樺さん、僕はあなたが好きなんです。あなたが苦しむ姿じゃなく、あなたが微笑む姿が見たいんです。もし、あなたの力があなたを苦しめるだけなら、二度と自分から力を使わないでもらいたい。仕事だって辞めてほしい。毎日、大勢の知らない誰かの過去や未来、考えていることを知ることがあなたにとって幸せな事じゃないのなんて、僕にだってわかります・・・・・・・・)
血の気を失い、蝋人形のように見える紗綾樺さんの姿は、崇君を探すために力を使ってくれた時の姿と全く同じだった。
やっぱり僕に内緒で崇君を探してくれていたんだ。僕には、崇君よりも紗綾樺さんの方が大切なのに。なんで、紗綾樺さんに捜査協力なんて頼んでしまったんだろう。
でも、頼みに行かなければ、紗綾樺さんと再会することも、こうしてデートすることもなかった。でも、苦しい。苦しくてたまらない。僕にはどうすることもできなのに、愛する人が苦しむ姿を見ている事しかできないなんて・・・・・・。
その瞬間、僕は初めてあの過保護なまでに過干渉な宗嗣さんの気持ちを理解することができた。あの震災以来、宗嗣さんは僕と同じで、苦しむ紗綾樺さんを見つめる事しかできなかった。だから、紗綾樺さんが苦しまないようにすべての物から守ろうとしていたんだ。それなのに、僕は紗綾樺さんを宗嗣さんが守る城から連れ出して、倒れるほどに苦しい想いをさせてしまった。
よく考えたらわかったはずだ。こんなに大勢の人が一ヵ所に集まる場所で、紗綾樺さんが平気なはずはなかったんだ。
「紗綾樺さん・・・・・・」
呟くようにして紗綾樺さんの名を呼ぶと、僕は冷たく冷え切った紗綾樺さんの手をしっかりと握りなおし、その小さな手を胸に抱いた。
「この手は決して放しません。何があっても」
次の瞬間、僕の脳裏に誰かの言葉が浮かんだ。
『本当のみんなの幸せの為なら、僕の体なんて百回焼いたってかまわない』
それは、どこかで聞いたことのある言葉のようにも思えたけれど、どこで聞いたのかも思い出せないほど昔、子供のころに読んだ本に書かれていたような気がした。
『どうして?』と、思った瞬間、それは僕の頭に浮かんだのではなく、紗綾樺さんから流れ込んで来たのだと感じた。
「紗綾樺さん、あなたって人は・・・・・・」
それから先は言葉にならなかったが、僕の声が聞こえたのか、紗綾樺さんの瞼がかすかに動いた。
「紗綾樺さん」
僕はもう一度、紗綾樺さんに呼び掛けた。
紗綾樺さんはゆっくりと目を開けると、しばらくの間じっと天井を見つめていた。そして、見覚えのない景色に戸惑ったように僕の方に顔を向けた。
「大丈夫ですか? 急に倒れたから、ここは救護室です」
僕の言葉に安心したのか、紗綾樺さんは表情を緩めると僕がしっかりと胸に抱いている自分の手を見つめた。
「ずっと、握っていてくれたんですね」
「えっ、あっ、はい。その、すいません、痛かったですか・・・・・・」
僕は慌てて紗綾樺さんの手を放した。
「大丈夫です。とても、温かかったです」
紗綾樺さんは言うと、少しだけ笑みを浮かべた。
顔色はまだ青いままだったが、気分はだいぶ良くなったように見えた。
「お願いがあるんです」
紗綾樺さんは少し言いにくそうに言った。
「紗綾樺さんのお願いなら、何でも聞きますよ。あ、もちろん、僕にできる範囲の事ですけど・・・・・・」
言いながら、『公務員の給料で出来ないことは無理です』と、頭の中では考えてしまう自分が少し悲しかった。
そうは言っても、莫大な遺産を残してくれそうな親戚も知り合いもいないし、買ってないから宝くじが当たるはずもなく、警察官だから犯罪に手を染めるなんて論外だし・・・・・・。ああ、凡人だ・・・・・・。
「そんな難しい事じゃないんです」
僕の支離滅裂な暴走思考を読んだ紗綾樺さんが、すぐにフォローを入れてくれる。
「ここの一番近くのホテルに行きたいんです」
『ホテル』という言葉に、文章の前後を無視して頭が過剰反応する。
だ、だ、ダメだ。ホテルなんて、どうやって宗嗣さんに行動予定を説明するんだ? これから、紗綾樺さんとホテルに行きますなんて、メールした途端、誘拐で警察に通報されそうだ・・・・・・。いや、帰ったところを袈裟斬りか・・・・・・。
僕の思考はとめどなく暴走していく。
「えっと、敷地に隣接しているホテルがありますよね? あの、尚生さん?」
「あ、は、はい。えっと、アンバサダーホテルかな・・・・・・」
僕は慌てて地図を取り出して確認する。
「敷地に面しているのだと、ホテルミラコスタですね」
僕が答えると、しばらく紗綾樺さんは考え込んでから、頭を横に振った。
「その名前じゃないです。最初の方のも違います」
「えっと、そうすると、ディズニーランドホテルですか?」
パッと紗綾樺さんの顔が明るくなる。
「だとすると、ランドの向かいですね。ここに隣接してるほてるじゃないですね」
「そこに行かれますか? これから・・・・・・」
僕は紗綾樺さんの真意が分からず答えに窮した。
もし、ただ見てみたいなら、答えはもちろん『イエス』だが、宿泊したいとなると答えは『ノー』だ。予約してなくて当日行って泊まれるはずがない。万が一にも部屋が空いていたとして、とても二部屋分の宿泊費用を払える自信がない。いや、払えたとしても、当分、お昼はおにぎりだけになる覚悟が必要だ。
「あの、尚生さん。私、ただ、行ってみたいだけなんです」
当然、僕の葛藤と煩悩の大騒動を理解している紗綾樺さんが、僕を宥めるように言った。
「とても綺麗みたいで、一度自分の目で見てみたいと思っただけです」
「あ、じゃあ、もう行きますか? 本当は、ゴンドラに乗って、ディナーをしてからって思っていたんですけど」
僕の問いに、紗綾樺さんは即答した。
「ゴンドラ、乗ってみたいです」
「もう、大丈夫ですか?」
「はい。もう大丈夫です」
笑顔で答える紗綾樺さんの顔色は、いつの間にか良くなっていた。
僕は救護室の人に状況を説明し、お礼を言って紗綾樺さんと一緒に中央救護室を後にした。
本当は、すぐに紗綾樺さんに訊きたいことがあったのだが、救護室では人に聞かれる心配もあったし、とりあえずゴンドラ乗り場を目指して進みながら、人気の少ない場所を探した。もちろん、人気の少ない場所なんて、ほとんど皆無なのだが、少なくともみんなが自分たちの事に集中していて、紗綾樺さんと僕の事に注意を向けない場所なら安全だと僕は判断した。
辺りの様子を窺ってから、僕は足を止めると紗綾樺さんの方に向き直った。
「紗綾樺さん」
僕が声をかけると、紗綾樺さんは既に僕の言おうとしていることを知っているから、ただ一言、『今は何も聞かないで、私を信じてください』と言った。
☆☆☆
突然、立ち止まって向き直った尚生さんに、私はただ、『今は何も聞かないで、私を信じてください』とだけ答えた。
あれほど心配をかけたのに、何の説明もしないまま。
尚生さんは、既に私が崇君の捜索を続けているのではないかと疑っている。
でも、私が崇君の捜索を始めたのは、尚生さんの本当の気持ちを聞く前の事だから、今更、取り消すことはできない。一度発した言霊は取り消すことができない。後は、ひたすら耐え続けるしかない。
もし、もう一度さっきのように力を使う事が出来たら、ホテルで崇君を預かっている夫婦の住所も突き止めることができるかもしれない。私は、その奇蹟に賭けることに決めている。だから、きちんと尚生さんとのデートが終わってから、崇君たちが泊まったはずのホテルに連れて行ってもらう事にした。
だから、この捜査のためにデートを切り上げるつもりはない。倒れてしまったせいで、尚生さんには心配をかけてしまったし。それに、あのゴンドラに乗ってみたいのも事実だ。
私の言葉に、尚生さんは頷くと、再び歩き出したけれど、つないだ手は、さっきまでよりもきつく握られている。
ゴンドラの順番を待つ間、繋がった尚生さんの手から流れてくる心配と私がまた倒れるのではないかと言う不安。だから私は尚生さんの不安を拭うように、笑みを浮かべて隣に立つ尚生さんの事を見上げた。
何度目かに尚生さんを見上げた瞬間、私を心配げに見つめていた尚生さんと目が合った。
「具合、悪くないですか?」
「大丈夫です」
笑顔で答え、私たちは再び順番を待って列に並んだ。
櫂が水をかき、ゴンドラが滑るように進むと、滑らかな水に轍ができるように小さな波が立ち、やがてそれは放射線状に広がり運河の両脇に立ち並ぶ建物の壁に吸い込まれるようにして消えていった。
まるで時間が、ここだけゆっくりと流れているように感じる位、その動きは滑らかでゆったりとしていた。そして、両側に続く街並みは日本から抜け出し、本物のベニスに来たように感じさせてくれる。
私自身は行ったことないけれど、誰かの記憶の中では何度も訪れたことのある場所だ。
確か運河の見えるレストランでワインを片手にピザを食べてたっけ。
その時、私は初めて羨ましいと、その誰かの事を思った。好きな人と向かい合い、なだらかな風の吹く運河沿いのレストランで食事をする。二人の間に、楽しくて、ゆったりとした時間が流れていく。互いに相手を見つめあい、その思いを確かめ合うように微笑む。そんな平凡だけど、愛に満ちた時間。私には想像することしかできない時間。
そこまで考えてから、私は思わず苦笑してしまった。
自分で自分の事がわからない私が、誰かを好きになるなんて。自分の事がわからない私の事を好きになってくれる人なんて・・・・・・。
そこまで考えて、私は隣に座る尚生さんの事を見上げた。
もしかしたら、尚生さんなら・・・・・・。
そこまで考えて、私は慌てて視線を逸らした。
尚生さんは大切なお友達。今の私にとっては、ただ一人のお友達。恋人なんて、不確かな存在にしたくない。ずっと一緒に居たいから・・・・・・。
ロマンチックな時間は、あっという間に過ぎ、ゴンドラは船着き場についてしまった。
「いつか、本物のゴンドラに乗ってみたいですね」
まるで私の心を読んだかのような尚生さんの言葉に私はドキリとして、尚生さんの事を見上げた。
「あ、そうだ。そろそろ並ばないと、食事できないですけど、乗りたいものとか大丈夫ですか?」
ゴンドラの話を忘れてしまったような尚生さんの問いかけに、私はコクリと頷いた。
もともと、見たいものなんて、あるわけじゃない。
「じゃあ、次の列に並びましょうか」
尚生さんは言うと再び私の手を取って歩き始めた。
少し歩いたところにあるレストランの列に並ぶと、尚生さんは大きなため息をついた。
「本当に、歩きっぱなしっていうか、並びっぱなしですけど、つまらなくないですか?」
尚生さんの問いかけに、私は少し答えに躊躇した。
確かに、立ちっぱなしで並ぶのは、いつも座ってばかりの私には厳しいし。あちこち歩き回るのも、最近引き籠っている私には厳しい。それに、これだけ大勢の人がいれば、雑音のように聞こえてくる心の声も騒音の域に達している。でも、私は楽しいと感じていた。
「ちょっと、うるさいですけど、楽しいです」
私が本当の気持ちを伝えると、尚生さんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「もし、歩くの辛くなったら言ってくださいね。自分がいつでも背中でも腕でも貸しますから」
尚生さんの言葉は、冗談ではなく本気らしい。
「じゃあ、おんぶしてもらって、パパあっちに行きたいって言ってみようかな」
茶化すように言うと、尚生さんは少し傷ついたという表情を浮かべた。
「ちょっと紗綾樺さん、いくら何でもパパはないじゃないですか、せめて、お兄ちゃんにしてください」
私はなんだかすごく楽しくて、声を必死に噛み殺しながら笑い続けた。
「でも、良かった。紗綾樺さんがそんなに笑えるまで元気になって。さっきは、本当に心配したんですよ」
真面目な顔に戻った尚生さんの言葉に、私は素直に『ごめんなさい』と謝った。
「昼も食べずに、ポップコーンとかばっかりで、おなかすいてますよね?」
尚生さんは、至らない自分を心の中で責めながら言った。
「私は大丈夫ですよ」
私は笑顔で返し、それから順番が来るまで他愛もない会話を続けた。
☆☆☆
まるで憑きものが落ちたように元気になった紗綾樺さんに僕は安心したけれど、やはり『今は何も聞かないで、私を信じてください』と言われてしまうと、それ以上問い詰めることはできなかった。
あの少し思いつめたような瞳が何を意味しているのかが分からないから、僕はとてももどかしい気持ちになりながら、レストランの列に並んでいた。
腕時計に目をやり、いまレストランの列に並んでいるようでは、せっかくのイベントを列から立ち見になってしまうなと思うと、自分の計画のなさに嫌気がさしたし、だいたい好きな女性とのデートを無計画に実行に移している時点で、既に紗綾樺さん争奪戦から脱落しつつある気もする。そんなことを考えながら見る周りのカップルは、みな幸せそうで、問題や不安なんてこれっぽっちも抱えていないように見える。
単に隣の芝は碧く見えるだけだとはわかっているけれど、紗綾樺さんの体調も考えず、食事もとらずにぐるぐる回ったうえ、具合が悪くなって倒れるような目に合わせたのは僕の至らなさからだ。
ああ、もっとしっかりと紗綾樺さんを受け止められる男になりたい。
ため息は出るけれど、おんぶの話から笑い続けている紗綾樺さんがとても楽しそうに見えるので、僕でも少しは紗綾樺さんの人生の潤滑油に慣れているのかなと、思ったりもした。
それにしても、順番が来ない・・・・・・。
そんなことを考えているうちに、イベントの時刻がやってきてしまった。
いきなり、大きな音を出して怪しげな雰囲気を醸し出す目の前の火山に、紗綾樺さんは首を傾げながら、少し不安そうな表情を浮かべでいた。
そして、火山は見事噴火を始めた。
その瞬間、紗綾樺さんは驚いたように僕の方を振り向いた。
「火山が・・・・・・」
「大丈夫です。演出ですから」
僕が説明すると、紗綾樺さんは安心したように火山の方に視線を戻した。そして、火山は噴火をおさめ、それを待っていたかのように花火が火山の真上に上がった。
本当なら、ワイングラスを片手にピザを食べながら見たい景色なのに、紗綾樺さんと僕は空腹のまま、レストランの外で順番待ちをしながら、この日最後のイベントを見終わってしまった。
「すごいですね、なんだか、本当の噴火みたいでした」
造り物に接することのあまりない紗綾樺さんは、楽しむというよりも少し緊張した様子だった。
思えば、紗綾樺さんを連れてくるのにここはふさわしくなかったのではないかと、僕は改めて思い返した。
海の近く、アトラクションでは地震だ、津波だと、挙句の果てには火山の噴火。これって、どう考えても宗嗣さんと約束した、紗綾樺さんの過去を思い出させないようにするに違反しているような内容ばかりだ。きっと、これが知れたら、宗嗣さんは事前許可なしのデートを禁止にするだろうなと、僕は思わずため息をついてしまった。
「あの、夕飯はここの中でなくても、私は近くのファミレスでも構わないです」
待ちくたびれたのか、僕の財布を心配してくれているのか、紗綾樺さんが声をかけてくれた。
「いや、外のお店もそれなりに待つと思いますし・・・・・。それに今日は車じゃないので、近くのファミレスと言っても徒歩圏にあるかどうか・・・・・・」
あともうすぐ、次の次には順番が回ってくる。
「じゃあ、このままで・・・・・・」
紗綾樺さんは答えると、花火のどさくさにウェイターから手渡されたメニューを広げた。しかし、ほんの数秒見ただけで、紗綾樺さんはメニューを閉じると僕に手渡した。
ものすごい即決だ。よっぽど好きなものがあったのかなと思っている僕に、紗綾樺さんは『よくわからないので、尚生さんが選んでください』と言った。
そうか、ファミレスではいつもの品で済むけれど、初めての場所では紗綾樺さんは何を食べていいのかわからないんだ。きっと、デザートと同じで、いつもは宗嗣さんが選んでいるから・・・・・・。
僕はメニューを受け取り、さっと目を走らせた。このレストランに決める前に、大体の値段を調べるためという事もあるけれど、入り口脇に置かれているメニューには目を通していたので、改めてメニューを見て列から抜け出て別の列に並びなおすというような顰蹙なサプライズはない。
しかし、僕には紗綾樺さんの好き嫌いが全く分からない。
仕方なく僕はスマホを取り出すと、宗嗣さんに助言を求めた。既に仕事を終えているらしい宗嗣さんは、僕のメールにすぐに返信してくれた。
ハンバーグ、ミートソースのスパゲッティ、カレーライス・・・・・・。なんだか、子供の好きなメニューのリストのようだ。
宗嗣さん情報をもとに、僕は紗綾樺さんにハンバーグと自分にスパゲッティを選ぶことにした。それと同時に、お洒落なピザとワインのひと時は、夢に消え去っていった。理由は、宗嗣さんからのメールの最後に『絶対飲酒厳禁』と書かれていたからだ。
僕としては、完全な非番だし、車でもないし、できればお洒落にワインくらいは飲みたかったが『絶対飲酒厳禁』と書かれては、それを無視することはできなかった。もし、自分がトラになることを心配されての事だったら心外だけれど、ここまで五言絶句調に漢字六文字で並べられては、僕の豹変を心配するというよりも、紗綾樺さんの健康にかかわることのような気がした。敢えて理由を尋ねないまま、僕はワインを片手に運河を見下ろしてロマンチックな時間を紗綾樺さんと過ごすことを諦めた。
花火が終わったせいか、一気にレストランの列は長くなり、それと同時に閉園前に最後のひと遊びをするためにレストランを後にする人たちも多く、僕たちは順当に席へと案内された。
一見、高級レストランを思わせる内装だが、実のところはぎゅうぎゅう詰め状態のファミレスと変わらない。ウェイターにもウェイトレスにも上品のかけらすらなく、奇声を発して食べ物をまき散らしたり、店内を走り回る無秩序で躾のかけらも感じられない家族連れに混ざっての食事だ。店内の雰囲気がこれでは、ロマンチックも何もあったものではない。しかも、ふかふかで座り心地のよさそうに見えた椅子は実は固く、長時間お客が席に粘らない配慮もされている。
ええい、こうなったら、もうディナーにロマンチックさなんて求めるものか!
僕は自分の中の幻想を吹っ切ると、家族連れを捌くのに疲れ切って、どちらかと言うと慇懃無礼なウェイトレスにオーダーを伝えた。
『なにこのオーダー、ガキくさ~。お酒ぐらい頼めば? 大人なんだからさ』
正直、僕はテレパスでも、特殊な力もないけれど、なぜか彼女の顔に浮かんだ言葉が音声になって頭に響いたような気がした。
「すいません、尚生さんに恥をかかせてしまったんですよね」
当然、同じ言葉を聞いたであろう紗綾樺さんの言葉に、僕は慌てて頭を横に振った。
「やっぱり、ハンバーグとかスパゲッティのミートソースって、大人は頼んじゃいけないんですか?」
真剣な瞳で問いかける紗綾樺さんに、僕は無言で更に頭を横に振った。
「いいえ、そんなことはありません。僕も大好きですし、ハンバーグは奥が深いですよ。もともとはドイツ料理だったものが日本にもたらされて、独自の進化をたどり今のデミグラスソース、イタリアン系のチーズとトマトなどなどに発展したんですから。ミートソースのスパゲッティだって、ある種日本独特なものがありますし。大人が注文して、何にも悪いことはないですよ」
笑顔で答える僕に、紗綾樺さんは少し安心したようだった。
「いつも、兄と出かけても同じような反応されるんです。だから、大人は食べちゃいけないのかなって・・・・・・」
「そんなことないですって。確か、一流ホテルのレストランにもあるメニューですし、確か、ハンバーグは専門店も多いですよ。じゃあ、今度のデートは、ハンバーグの美味しいレストランに行くってどうですか?」
気が付けば、僕は自然の成り行きで紗綾樺さんをデートに誘っていた。
「私、いつもお兄ちゃんが食事を作ってくれるか、ファミレスなので、ハンバーグの専門店、楽しみです!」
目を輝かせて言う紗綾樺さんに、僕は自分が案内しようとしていた、超お手頃価格の専門店ではなく、もっとグレードの高いデートにふさわしい専門店を調べるべきか逡巡してしまった。
「尚生さん、私、お店のグレードとかわからないですから、だから、尚生さんが最初に連れて行ってくれるって言ったお店が良いです」
「紗綾樺さん・・・・・・」
僕は涙がでそうなほど嬉しかった。
いままで、散々同期達が苦しんで来た彼女ができない五大原則(彼女からのクレーム含む)、原則一、公務員は安定しているけど、若いうちは給料が安い。原則二、警察官は休みも勤務も不規則すぎて、会いたいときに会えないし、電話もできない。いつ事件が発生するかわからないので、自分からデートを切り出してはいけない。原則三、プレゼントは安物、レストランは並み、来ているものは安物、デートは予定してもドタキャンする。原則五、将来的に殉職のリスクがあるので、結婚相手には向かない。そして、この原則には、諦めのルールと言うものが付帯する。一、安定を求める女子、但し、内勤からあぶれた女子だけが最終的に回ってくるため、見え麗しい女性の確率はゼロに近いので、我慢すること。二、連続三回デートをすっぽかした場合、結婚でも切り出さない限り、次に来る連絡は別れ話で、承諾するほかない。三、なんとかプロポーズに漕ぎつけても、内勤でないと分かると、相手の両親からの反対が激しく、場合によっては配置転換、最悪転職を要求されることがあり、これを断るとほぼ間違いなく破談になる。
こんなルールに縛られないだけでなく、誰もが羨むような素敵な紗綾樺さんが、友達とはいえ、僕とハンバーグを食べに行くのを楽しみにしてくれる。
もう僕は頭の中で踊りだし、それを見たらしい紗綾樺さんが、必死に笑いを堪えながらも笑う姿を見つめ続けた。
しかし、ディナーの席は、忍耐との戦いだった。
僕たちの幸せを嫉んでなのか、やけにウェイターもウェイトレスも冷たい態度で、更に隣の席の子供三人が猛獣のように叫んで、暴れてを繰り返していた。しまいには、食べ物がテーブルに飛んでくる始末だ。
親は一応謝っては来るものの、子供三人作る前に、一人ずつちゃんと躾をしてほしいと、思わず言いそうになるほどの傍若無人ぶりで、僕たちはゆったりディナーどころではなく、食べ終わると脱兎のごとく店を後にした。
「はあ、すさまじかったですね」
会計を済まして外に出ると、僕は思わず声に出していってしまった。
「仕方ないですよ。子供にも、子供の考えがあって、親がちっとも聞いてくれないとなると、ああなるんじゃないでしょうか」
僕と違い、あのモンスター家族の内情を知ってしまった紗綾樺さんは、僕のようにイラついても、怒ってもいなかった。
「つぎ、どこに行きますか? お土産でも買いますか?」
「さっきお話しした、ホテルに連れて行ってください」
『うっ、やっぱり忘れてなかったのか!』と言うのが、僕の心の第一声だった。でも、約束は約束だ。
「いいんですか、宗嗣さんにお土産買わなくて」
僕は念のため確認した。
「私、何を買ったら兄が喜ぶかわからないですから、今日はいいです」
「わかりました。僕も始めていくので、ちょっと迷うかもしれませんが、行ってみましょう」
僕は言うと、少し名残惜しげに運河の方を見つめながら、紗綾樺さんの手を取った。
「離れ離れになったら大変ですからね」
理由をつけなくても、紗綾樺さんは僕の手を振り払ったりしないことはわかっていた。
「ちゃんと、尚生さんについていきます」
笑顔で答える紗綾樺さんの手を引き、僕はゲートを目指した。
☆☆☆
楽しい時間を過ごしたディズニーシーを後にし、尚生さんと私はモノレールで崇君たちが宿泊していたと思われるホテルへと向かった。
もちろん、尚生さんにそのことは伝えていない。でも、ホテルに協力を求めるには、尚生さんに本当の事を話さなくてはならない。でも、話したくない。今日の楽しかった時間を嘘にしたくないから・・・・・・。
私が葛藤している間に、私たちはホテルの正面までやってきていた。
疲れ切った家族連れがホテルの暖かく眩い光を目にした途端、再び夢の国に戻ったように明るい表情を浮かべ、少し軽くなった足取りで光の中に吸い込まれていった。
「あの、ここへは何をしに・・・・・・」
尚生さんは迷っている。もしかして、これは崇君に関係がある事なのかと、問いかけたいのを必死に飲み込んでいる。それは、私と同じ気持ちだからだ。もし今日一日が崇君を探すためだとしたら、私たちの楽しかった時間が全て嘘になってしまうから。
「一度、来てみたかったんです」
私は笑顔で言うと、意を決して一歩を踏み出した。
もう、ここまで来たら後戻りはできない。たぶん、崇君の居場所を見つけられるとしたら、これが最後のチャンスだ。
まるで光が溢れるようなエントランスをくぐり、私はまっすぐにフロントへ向かった。
フロントには、家族連れの列ができており、私はしかたなくキャッシャーのカウンターにいる男性スタッフに歩み寄った。
「すいません」
私が声をかけると、『斎藤』という名札を付けた男性スタッフが笑顔で応えてくれた。
「じつは、叔母夫婦に連れ去られたと思われる弟を探しているんです」
私の言葉に、斎藤というスタッフは笑顔を引き攣らせた。
たぶん、こんな夢の国にふさわしくない問い合わせを受けるとは、想定していなかったのだろう。
「お客様、大変申し訳ないのですが・・・・・・」
斎藤と言う名のスタッフが型通りの返答をしている間に、私は全身の力を集中していく。それと同時に、激しい眩暈に襲われ、私は演技ではなく本当にガクリとその場に膝をついた。
「お客様?」
驚いてカウンターの向こうから出て来たスタッフの腕に掴まる。それと同時に力を開放する。
私を抱きとめたスタッフの体がビクリと不自然に震え固まった。
精神を集中して崇君のイメージを、一緒に居たと思われる夫婦のイメージを彼の頭の中に注ぎ込む。そして私は命じる。
『この子の事を私に教えなさい』
これは一種の賭けだ。このスタッフが当日勤務していなければ、勤務していたとしても、崇君の姿を見かけていなかったら、全ては無駄という事になる。
そこへ驚いて駆け寄ってきた尚生さんが私をスタッフの手からもぎ取る。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
機械仕掛けのような動きをする男性スタッフは私たちから離れると、再びカウンターの向こうに戻っていき、一心不乱にキーボードを叩いている。
「何があったんですか?」
尚生さんは今にも私を抱きしめそうな勢いで私の事を見下ろしている。
「ちょっと、宿泊の価格とか、訊いてみたくて、そうしたら急に眩暈がして」
「そんなの、インターネットですぐわかるんですよ」
安心したような、少し不安げな尚生さんの言葉に、私は世の中にはインターネットというものが普及していることを思い出した。スマホですら公衆電話の代わりとしてしか使用していない私には、インターネットなんて、違う次元の代物のように感じられる。
「そうなんですか?」
インターネットって、どんなものなんだろう。昔の私は、知ってたのかな?
やっとの事で尚生さんに支えてもらって立ち上がると、さっきの男性スタッフが一枚の紙を無言で手渡してくれた。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
私が言うと、私の念に縛られて動いていた男性スタッフが、驚いたように辺りをくるくると見まわした。
これで良い。書いてある内容が多々しいかどうかは別にして、私ができるのは、これが全てだから。
「じゃあ、かえりましょうか」
笑顔で私が言うと、尚生さんは心配げな表情まま私の手を引いて歩き出した。
「ありがとうございました」
狐につままれたような顔をしたまま、斎藤さんは頭を下げてくれた。
私は渡された紙をしっかりと手に握り、尚生さんと共にモノレールの駅を目指して歩き始めた。
モノレールの切符を尚生さんが買いに行っている隙に私はメモを広げた。
メモには、中澤正信、恵子、崇という三人の名前と住所に電話番号が書かれていた。
間違いない。この夫婦が崇君を保護しているんだ。私は確認すると、メモをバッグの中にしまった。
「お待たせしました」
尚生さんの声は、いつも清々しく感じる。きっと、この人の心の中には私が恐れる闇が存在しないからだ。
「ありがとうございます」
私はお礼を言うと、尚生さんについてモノレールの改札口を通った。
今の私と尚生さんはデート中だ。恋人ではないけど、友達でもデートって言っていいのかな? それとも、デートなんて言うと、お友達だと迷惑なのかな?
考えても私にはよくわからない。でも、お兄ちゃんには付き合ってますって言ってしまってるから、今更、そんなことは質問できない。でも、尚生さんに訊いたら、きっとまた、来る時の電車の中みたいにまずい雰囲気になる気がする。
帰りの電車は、夢の国から一転して、通勤ラッシュの地獄だった。たぶん、いつもよりは空いているのだろうけれど、日頃電車に乗りつけていない私には、他人と体のどこかが常に触れ合っている状況はかなり苦しい。
正面の席で隣りあって座るカップルの睦まじい様子を見ていると、なんだか不思議な感じがした。
電車は夢の国を離れ、どんどん猛スピードで現実の世界に戻っていくのに、可愛い耳のついたカチューシャをつけ、お洒落なコスチュームを抱いた女性の隣と私の知らないキャラクターの絵が一面に書かれたブルーのポップコーン入れを大切そうに抱きかかえる男性の二人の周りだけ、夢の国の魔法が解けずに残っているようだった。
羨ましい・・・・・・。
突然沸き起こった感情に、私は戸惑った。そして、もやもやとした霧のかなたから誰かの声が聞こえた。
『・・・・・・ディズニーランドらしいって。どうせ皆カップルで回るだろうし、そうしたら俺らも一緒に回ろうな!』
次の瞬間、激しい眩暈に襲われた。
よろけて立っていられそうもなくなった私を尚生さんが抱き留めてくれる。
次の瞬間、『どうぞ』という男性の声がした。
「ありがとうございます」
尚生さんの声が耳元で聞こえ、私は椅子に座らせてもらった。
「すいません」
なんとかお礼を言ってみるが、激し似眩暈に目を開けることもできず、私は頭を抱えて体を二つ折りにした。
(・・・・・・・・さっすが潤君、紳士~。明日、大学でみんなに自慢しちゃおう・・・・・・・・)
隣に座っている女性は、自分の恋人が見ず知らずの私に席を譲ったことに怒ってはいないようだった。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
今日何度目だろう、尚生さんのこんな心配そうな声を聴くのは。きっと、この先も私と一緒に居る限り、尚生さんは私のせいで心配し続けるんだ。
そう思うと、私はとても申し訳ない気がした。
「顔、やっぱり蒼いですよ」
尚生さんは私の顔を覗き込むようにして言うと、腕時計に目を走らせた。
「やっぱり、遅くまで居すぎましたね」
尚生さんが自分の事を責めているのを感じ、私は頭を大きく横に振るが、再び眩暈に顔をしかめてしまう。
「終点で乗り換えますから、それまで休んでいてください」
尚生さんの言葉に頷くと、私は目を閉じた。
今までより大きく電車が揺れ、一斉に電車から人々が下りていく気配に私は目を開けた。
誰もがみんな、乗り換えの事ばかりを考えている。計画通り乗り換えられるか、待ち時間は長くないか、乗り換え時間は十分か。その中で、ここで離れ離れになるらしいカップルの離れがたそうな寂しさ、私はゆっくりと目を開けると尚生さんの事を見上げた。
「乗り換えましょう」
「はい」
私は返事をして立ち上がる。眩暈もおさまったようだ。それでも、尚生さんは心配げに私の手を引いて歩いてくれる。
気が遠くなりそうな程大きな駅の構内を尚生さんに導かれるまま歩いていくと、突然、『宮部じゃないか』と言う声が聞こえた。
「えっ、あっ、その・・・・・・」
振り向いた尚生さんの動揺を感じ取り、私は慌てて握られていた手を引っ込める。
「お前、なんだデートか?」
ごちゃっとした思考が流れ込み、その中に崇君の姿を見つけた私は、この人が崇君の捜査に関わっているのだと察した。でも、そうだとしたら、出来たら顔は見られたくない。
慌てて尚生さんの背中に隠れるも、相手はわざわざ私の顔を覗き込んできた。
「へえ、奥手なお前にしては良くやったな。てっきり、悪女に手玉にとられて泣きを見るんじゃないかって、皆で噂してたのに、素敵な人じゃないか。まあ、人は見かけによらないけどな」
褒めちぎって落とす言い方に、尚生さんがすぐに反論した。
「それ、強行犯係の悪い癖ですよ。どんなに善人に見えても裏があるって考えるのわ。紗綾樺さんは、正真正銘、素敵な女性ですから、ご心配なく」
言い切る尚生さんに、相手の男性はクスクスと笑い声をあげた。
「ほんとにお前、真面目だな。相手の目を見れば、善人かどうか、何かを秘めていないかどうかなんて、デカにはわかるんだよ」
「先輩!」
「その点、このお嬢さんは、正真正銘の善人だよ。俺が独身だったら、お前から奪って見せるんだがな、パパなんて呼ばれてると男としての本能も鈍るよ。じゃあな、お疲れ」
「お疲れ様です」
そう言う尚生さんは、しっかりと背筋を伸ばし、今にも敬礼しそうな礼儀正しい雰囲気だった。それと同時に、去っていく男の人が心の中で尚生さんの恋が成就する事を祈っているのは対照的だった。
(・・・・・・・・まいったな、これで一気に噂が広がっちゃうな・・・・・・・・)
困ったような尚生さんに、私はすごく申し訳ない気がした。
「すいません。お知り合いの方に誤解されてしまって・・・・・・」
「あ、いや、違うんです。噂が広がるのは良いんですけど、これで紗綾樺さんにフラれたら、先輩たち、きっと僕の失恋のためにお通夜とかやりそうな勢いなんで、フラれないと良いなって・・・・・・。そっちの方が大事なんです」
尚生さんの心の中では、白と黒の葬儀の垂れ幕や、棺の上に遺影ならぬ『宮部君の恋』と書かれた紙が額にはめられ、載せられているイメージが鮮明に流れていた。それがあまりにも滑稽で、私は声を出して笑ってしまった。
「あ、紗綾樺さん、見ましたね」
責めているわけではないけれど、ちょっと恥ずかしがっている尚生さんのはにかんだような笑みが可愛くさえ見えた。
それから私と尚生さんは、切れ目の見えない人の流れを何回も横切りながら、私の家の最寄り駅へと向かう電車に乗り換えた。
ぎゅうぎゅう詰めの車内で、尚生さんは私をかばう盾になってくれ、私は尚生さんの腕に守られて最寄り駅で降りた。
そうだ、尚生さんの家はこっちじゃないんじゃ・・・・・・。
当然のように一緒に電車を降りてくれた尚生さんを振り向きながら私が考えていると、尚生さんはにっこりとほほ笑んで見せた。
「当然、家まで送って行きますよ。そうじゃないと、宗嗣さんにデート禁止って言われちゃいますからね。今日は、事前予約なしで紗綾樺さんを借り出して、こんなに遅くなってしまいましたから」
「私、いつも帰りは遅いですから、早いくらいですよ」
私は言ってみたものの、通勤ラッシュの電車にすら乗ったことのない私が一人で駅まで帰ってこれたとは思えない。
「あの、尚生さんは、メールの方が良いんですよね?」
私の問いに、尚生さんは一瞬首を傾げたが、すぐにこの間のメールの一件の事を言っているのだと気付いてくれた。
「あ、まあ、そうですね。電話だと話せないことも多いですし、メールができたら、もっと色々と紗綾樺さんと連絡が取れて嬉しいなって思いますけど、無理強いする気はないですよ」
優しい尚生さんらしい答えだった。
「あの、メールと地図の使い方を教えてください」
「地図ですか?」
再び、尚生さんが首を傾げた。
「あの、スマホだと行きたい場所への行き方とか、調べられるって・・・・・・」
「ああ、ナビ機能ですね。簡単ですよ。でも、立って話すのもなんですから、どこかお茶の飲める場所に行きましょうか。確か、近くにファミレスがありましたよね?」
きっと、私とお兄ちゃんのよく行くファミレスの事だ。
「はい」
私の答えを聞くと、尚生さんは再び私の手を取った。
「家に送り届けるまでがデートですからね」
駅を出て、シャッターのしまった商店街を抜ける。
お兄ちゃんの話では、駅から少し離れているから、二間のアパートが激安で借りられたのだというだけあって、駅からアパートまでの距離はかなりある。
いつもお兄ちゃんは疲れて帰ってくるのに、この長い距離、買い物袋をぶら下げて帰ってくるんだ。もっと、駅の傍に引っ越したら楽なのに。
考えて見るものの、きっとお兄ちゃんの事だから、お金がもったいないとか、身の丈に合っていないとか言って、却下するんだろうなという事は言う前から想像がつく。
ファミレスで席に案内されると、尚生さんはドリンクバー、私は疲れがとれそうなミントのハーブティーを注文した。
ドリンクバーから飲物を取ってきた尚生さんは、さっそく私にメールの使い方、日本語変換の使い方を教えてくれた。そして、私がたどたどしい手つきでやっとメールを打てるようになると、尚生さんは『これでいつでもメールできますね』と言って喜んでくれた。それから、メールの文章入力で覚えた日本語入力を利用して地図のナビゲーション機能というものの使い方を教えてくれた。
使い方はいたって簡単で、一番上の入力欄に具体的な場所の名前や住所を入れると地図上にマークが現れ、それを触って開く別のメニューの中からナビゲーションを選ぶという事だっただが、いつも電話機能しか使っていなかった私にはそれでもハードルが高かった。
何度か自宅の住所や仕事場の住所などを入れる練習をした後、私は今日行ったディズニーシーと入力してみた。すると、住所など入れなくても海沿いの広大な敷地の真ん中あたりに印が現れた。覚えた内容を思い出しながら画面をタッチし、メニューからナビゲーションを選んで実行すると、途方もない時間が表示された。
「尚生さん、これ、おかしいです」
私が言うと、尚生さんが画面を覗き込んだ。
「あー、これ徒歩に設定されてますね。確かに、徒歩だと何時間もかかる距離ですね。この電車かな、バスかな? このマークをタッチすると、公共交通機関を利用した時の時間が表示されますよ」
そう言って尚生さんがタッチしても、同じような時間が表示されていた。
「あれ、そうか、これ時間に対応しているから、今からだと始発の電車待ちの時間も入っちゃうんですね。たぶん、ここをタッチして時間や日にちを変更すると、あ、ほら、明日の朝七時に出発にすると、正しい時間が表示されますよ」
目の前でサクサク操作をする尚生さんの手が魔法を使っているように見えた。
「へえ~、明日も朝七時集合でディズニーデートですか?」
突然声をかけられ、尚生さんがギョッとして頭を上げ、私も頭を上げるとお兄ちゃんが立っていた。
「まったく、ちっとも帰ってこないと思ったら、こんな近くでお茶するくらいなら、うちでお茶すればいいだろうに。まあ、うちだと、小言言う邪魔な兄貴がもれなくついてきますけどね」
お兄ちゃんは言うと、私の隣に腰を下ろした。
☆☆☆