突然、躊躇うことなく『尚生さん』と呼ばれた僕は、思わず息を飲んでしまった。
ゲートの外で喧嘩ではないものの、言い争いを招いた冷たく全てを隔絶したような紗綾樺さんと同じ人とは思えないくらい、紗綾樺さんは輝いていた。
あの力を使って、自分に鞭打って立ち上がってる時の人を寄せ付けない苦しみに縛られた紗綾樺さんとも違う。来る途中、電車の中で見せた親しげでありながら、見えない壁で距離を保っている紗綾樺さんとも違った。
たぶん、僕が初めて出会う紗綾樺さんだ。僕が知っているどんな紗綾樺さんよりも美しく、純粋で、僕の名を呼んだあの一言は、まるで陰陽師で言う呪のようで、名を呼ばれた瞬間から僕の心は完全に紗綾樺さんの虜になってしまった。
もし、紗綾樺さんに出会ったのが運命じゃなかったら、僕はきっとすべての神様不信に陥る自信がある。紗綾樺さんと僕の出会いは必然だったと信じたい。紗綾樺さんに僕だけを見つめて欲しい。
紗綾樺さんに、愛されたい。
あまりに直球過ぎる欲望が沸き起こり、僕は慌てて欲望をかき消して隣で興味深げに辺りを見回す紗綾樺さんの事を見つめた。
どこもかしこも長い列が続き、僕は比較的列の短い蒸気船の列に並んだ。
順番が来て船に乗り込んだ僕たちは、他の恋人たちと同じように並んで腰を下ろした。
蒸気船の旅はトランジットスチーマーラインと名付けられているだけあって園内をぐるりと回る設計だ。ベネチア風の岸を離れると、アメリカの開拓時代に僕たちはタイムスリップし、そして、船はジャングルの奥地へと進んでいく。その景色の移り変わる様を紗綾樺さんは大きな瞳を輝かせて見つめていた。
「尚生さん、あれ・・・・・・」
背の高い木々の向こうに巨大な石造りのピラミッドのようなものが見え始め、紗綾樺さんが僕の名を呼んだ。
「あれはマヤ遺跡のピラミッドですよ」
考古学好きも、こういう時は少し役つ。
「素敵・・・・・・」
今まででは考えられないくらい、紗綾樺さんの感情表現が豊かで、僕は周りの景色なんて目に入らず、ただただ輝くような紗綾樺さんの事だけを見つめてしまった。
本当は、一番遠いロストリバーデルタの船着き場で降りてアトラクションに並ぶ予定が、紗綾樺さんを見つめているうちに船はアラビアを通り越し、一周してゲート傍のベネチアの船着き場まで戻ってしまった。
「ここ、最初に乗った場所ですよね?」
「はい。紗綾樺さんが楽しそうなので、一周しちゃいました。ここで降りて、歩きましょう」
短い会話を交わし、僕は紗綾樺さんの手を取って陸に上がらせた。
もちろん、前後で船の操縦をしているように見せていた男性も手を貸してくれるのだが、僕は紗綾樺さんの手を誰にもとられたくなかったので、しっかりと紗綾樺さんをガードして誰にも紗綾樺さんの手は取らせなかった。
ボートから降りた紗綾樺さんは、うっとりとするような瞳でベネチアン・ゴンドラを見つめていた。
「あれは、もう少しロマンチックな時間になってからにしましょう」
僕が提案すると、紗綾樺さんは『はい』と答えてくれた。
それから、紗綾樺さんと僕は込み合う園内を人を避けるようにして歩き、できるだけ列の短いアトラクションを見つけては並んだ。
平日とは言え、さすがにハロウィーンの特設イベントを行っているだけあってカップルの比率は高く、各アトラクションの待ち時間が想像を絶するくらい長かった。
「あの着ぐるみみたいな人たちは、みんなスタッフの方なんですか?」
ディズニーキャラクターになりきっている、いやなりきっているつもりの人も多いんだけど、敢えてそこには触れず、僕は簡単に答えることにした。
「あの人たちは、ハロウィーンの仮装ですよ。手作りから、ショップで購入したコスチュームまで、いろんなグレードの仮装をしている人がいるでしょう。
足を止めて興味深げにいびつな形をした熊のプーさんを見つめている紗綾樺さんを待ちながら、僕は大きな石を積み重ねて作られた壁によりかかった。そして、ふと見上げると、そこには、いま海から上がってきましたという雰囲気のマーメイドが座って微笑んでいた。
白い素肌に貝殻で作られたビキニトップ、腰から下の滑らかな曲線は蠱惑的なピンク色の魚の尾になっている。
「紗綾樺さん、人魚ですよ」
あまりのリアルさに、僕は紗綾樺さんに声をかけた。
「すごいですね。最近は、こんなリアルな人形が作れるんですね」
僕が言っているそばから、マーメイドはその細い手を子供たちに向けて振っている。どう見ても、生きている人間としか思えないスムーズな動きに僕が目を奪われていると、紗綾樺さんが珍しく僕の腕を掴んで引っ張った。
「どうしたんですか?」
まさか、露出度の高いマーメイドに僕が見とれてたから、やきもちとか?
思わず、願望が頭をもたげる。
「尚生さん、あれ、人形じゃないですよ」
「えっ、そんな、まさか!」
この寒空の下、上半身ほとんど裸で冷たい岩の上に座っていられるはずがない。しかも、あんな笑顔で手を振って・・・・・・。
「本当です。あの人、尚生さんの事、早くいなくならないかなって思ってます」
「えええっ!」
思わず大きな声を出すと、マーメイドが不機嫌そうな顔をして僕の事を睨みつけた。
確かに、人形なら睨みつけてくるはずがないし、ましてやクルーなら、お客を睨むはずがない。だとしたら、この完璧なマーメイドは、素人さんのコスプレという事になる。
マーメイドに睨みつけられたくらいで臆しては警察官の恥とばかりに、怯まずに僕が見つめ続けると、マーメイドは不満そうに背中に隠していたらしいペットボトルを取り出し、僕に見せつけるように飲み始めた。それは、『大人の男には用はない、とっとと失せろ、このスケベ男』と言っているような仕草だった。
「行きましょう、尚生さん」
紗綾樺さんは恥ずかしそうに言うと、ほとんど硬直してしまっている僕を引きずるようにして進んでいった。そして、一番近くの列の最後尾に並んだ。
ああ、まずい。きっと、紗綾樺さんは僕が露出の高い女性に弱い男だと思ってる・・・・・・。
考えるだけで、僕自身、顔から火が噴出しそうなほど恥ずかしかった。
見ず知らずの相手とは言え、ほとんど裸同然の女性を造り物と信じ切って、ジロジロと眺めてしまった。もし、紗綾樺さんと一緒じゃなかったら、あまりの出来のすばらしさに手を伸ばして触っていたかもしれない。逆に、本物の人間だと分かった今、どうやってあの貝殻で作ったようなブラトップはピッタリと胸に張り付いてるんだろう?とか、あの貝殻は本物なんだろうか?とか、どうして恥ずかしくもなく、あんな不特定多数に見られる場所であんな恥じらいのない姿を晒せるんだろうとか、変な男に絡まれたらどうするつもりなんだろうとか、どうでもいい事ばかりが頭を巡っている。
つまり、紗綾樺さんから見たら、僕は好き物の変態男! なんてこった!
「さ、紗綾樺さん、信じてください。僕の名誉に誓って、本当に、僕はあのマーメイドが造り物だって信じてたんです」
言い訳がましいのはわかっていたが、それでも、紗綾樺さんに変態だと思われ続けるのは、今後の友情に大きな影を落とすことになる。ましてや、帰宅後に紗綾樺さんが宗嗣さんに、僕がほとんど裸の女性をジロジロ見ていたなんて話したら、宗嗣さんの鉄拳が飛んできて、『以後敷居をまたぐな』とか、紗綾樺さんの半径二メートル以内への接近禁止とか、考えるだけでも目の前が真っ暗になるような不幸に見舞われるのは明らかだ。
「お願いです、紗綾樺さん、信じてください」
紗綾樺さんの手を握って訴える僕を見る紗綾樺さんの目が冷たく感じる。気のせいだろうか・・・・・・。
「勘違いしていたことは信じてます。でも、尚生さんは、ああいうグラマーな女性が好みなんですよね」
信じているが、もっとまずいところで疑われている気がする。
あれ、グラマーだったか? 確か、ディズニーの人魚姫バリに平らな胸だった気がしたんだけど・・・・・・。
そこまで考えた瞬間、『やっぱり、サイズとか見てたんですね』という紗綾樺さんの呟きが聞こえた。
は、はめられた? 紗綾樺さん、ものすごく平然とカマかけた?
「ちがいます。ちがいます。そっくりによくできてるなって思ったんです。もし、彼女がグラマーだったら、違和感を感じて、逆に人間だって気付きました!」
僕の必死の訴えに、前に並んでいるカップルのくすくす笑いが聞こえてくる。その前のカップルは、女性に男性が肘鉄を食らっている。どうやら、ここの列は、デート中に遭遇してはいけない、超危険なトラップに遭遇したカップルの流れつく場所らしい。
「男の人って、そういうものですよね」
諦めたような紗綾樺さんの言葉に、僕は賛同していいのか、否定するべきなのか、躊躇したまま言葉を飲み込み続けたが、唯一、肯定も否定もしなくていい方法を思いついた。
「それって、宗嗣さんも同じってことですか?」
もし、宗嗣さんも同じなら、紗綾樺さんに幻滅されなくて済むかもしれないという、微かな望みをかけての事だった。
「お兄ちゃんの事は、わかりません」
それは、とてもシンプルな答えだった。
「えっ、知らないって・・・・・・」
「お兄ちゃんの考えていることは読めないんです」
衝撃的な答えだった。紗綾樺さんの能力をしっかりと理解している宗嗣さんには、紗綾樺さんに心を読まれた経験がない? 嘘だ・・・・・・。ありえない!
「昔は読めてました。でも、最近は読めません。お兄ちゃん、鉛で出来た金庫を持ってるんです」
「鉛の中は見えないんですか?」
「・・・・・・はい」
まるでスーパーマンみたいだ。って、スーパーマンだと、男だよな。じゃあ、スーパーマンの従妹って設定のスーパーガールもやっぱり鉛の中は見えないのか? だとしたら、紗綾樺さんはスーパーガールと同じ?
何考えてるんだ、そんなのどうだっていい事じゃないか!
「尚生さん、もういいです。尚生さんの事は信じてますから。変態だなんて、思ってませんから」
紗綾樺さんの言葉に、再び前に並んでいるカップルがくすくすと笑いだす。
笑いたければ笑え! 君たちにはわからなくても、僕と紗綾樺さんは強い絆で結ばれているんだ!
僕は、心の中で言い切った。しかし、それに対する紗綾樺さんのコメントは『そうなんですか?』という、酷くつれないものだった。
僕は、紗綾樺さんの能力を完全に信じているから、あの時、あの場所でダラダラと垂れ流しに僕が思ったことを紗綾樺さんが全て知っていることをわかっていても、紗綾樺さんの事を今までと同じ、もしかしたら、それ以上に好きでいる。
再び、垂れ流される僕の思考に、紗綾樺さんの頬が少し赤く染まった。
本当なら、ここで大きな声で叫んだってかまわない。僕は、紗綾樺さんの事が大好きだ! 紗綾樺さんを愛し続けることができると確信している。
突然、紗綾樺さんが僕の腕を掴んだ。
「尚生さん、やめてください。こんなところで叫ばれたら、恥ずかしくて・・・・・・」
「あ、ああ、そうですね。大丈夫です」
僕は返事をしながら、本当に、紗綾樺さんには何でも聞こえてるんだなと、しみじみと思った。別に嫌なわけじゃない。でも、そのうち、紗綾樺さんに呆れられて、嫌われるんじゃないかと不安になる。
「大丈夫です。尚生さんの事、私も大好きですから」
えっ! 紗綾樺さんから告白!
「東京に出て来て、初めてできたお友達ですから」
大きなハンマーで頭を叩かれたような衝撃を感じた。
そうだ。まだ、お友達から一歩も進んでいなかったんだった。もう、こうなったら、ひたすら未来の奇蹟を信じて走り続けるしかない。
身も蓋もない、ちぐはぐな会話を続けているうちに順番がやってきて、僕たちはアトラクションの中へと案内された。
それは『海底二万マイル』だった。
真っ暗な中を進んだり、二人っきりで小型潜水艇に乗って海底を探索したりする。
伝説のアトランティス大陸を探すお話なわけで、考古学や古代文明好きの僕にはいくらでも披露できるトリビアもある。それに二人の距離も近いし、二人だけの世界にもなれるし、普通のカップルには悪くはないアトラクションだし、もし、これが友達となら、ワイワイガヤガヤと盛り上がりながら、『ちょっと時間が短すぎだよな』とか言いつつ盛り上がれる。しかし、紗綾樺さんを連れてくるには無神経極まりないアトラクションだった。
いきなり頭の上から少しとはいえ水をかけられ、高波高、津波高が押し寄せて堤防が決壊しそうだとか、もう紗綾樺さんには聞かせたくない禁句の連続。挙句、海の底だ。
何も考えずに列に並んだ自分を呪ってしまう。おかけで、あっと言うくらい短いアトラクションだったはずなのに、紗綾樺さんの顔からは笑顔が消え、少し青ざめているようにも見える。
土下座ものの、痛恨のミスだ。
僕が紗綾樺さんを『海底二万マイル』に連れて行ったと紗綾樺さんの口から知れれば、やっぱり出入り良くて出入り差し止め、悪ければ交際禁止になりかねない失態だ。
あの日、僕は約束したんだから、紗綾樺さんが過去の事を思い出すような事をしないと。それなのに、海底、高波、津波。アトランティスが一夜にして沈んだ理由は、火山の噴火と天変地異的な地震に津波・・・・・・。最悪も良いところだ。
ああ、あのマーメイドの一件で動揺していたからって、入り口で『海底二万マイルにようこそ!』って笑顔で迎えられた時に気付くべきだった。
はぁ・・・・・・。
思わずため息が出てしまう。これって、やっぱり思いやりの足りない男だって紗綾樺さんも思うよな・・・・・・。
みるみる青ざめていく紗綾樺さんに、僕は慌てて紗綾樺さんの体を支えると、近くにいたギフトショップのスタッフに声をかけた。
「すいません。連れが気分が悪くなったようで、救護室はありますか?」
「あ、はい。ただいま・・・・・・」
女性の返事が終わらないうちに、紗綾樺さんは強風に吹かれた花が根元から折れてしまうように、足に力が入らなくなったようで、その場に崩れ落ちそうになった。
僕は躊躇することなく紗綾樺さんを横抱きにすると、『中央救護室は、こちらです』という女性スタッフに案内されて人々の間を潜り抜けるようにして救護室を目指した。
☆☆☆
ゲートの外で喧嘩ではないものの、言い争いを招いた冷たく全てを隔絶したような紗綾樺さんと同じ人とは思えないくらい、紗綾樺さんは輝いていた。
あの力を使って、自分に鞭打って立ち上がってる時の人を寄せ付けない苦しみに縛られた紗綾樺さんとも違う。来る途中、電車の中で見せた親しげでありながら、見えない壁で距離を保っている紗綾樺さんとも違った。
たぶん、僕が初めて出会う紗綾樺さんだ。僕が知っているどんな紗綾樺さんよりも美しく、純粋で、僕の名を呼んだあの一言は、まるで陰陽師で言う呪のようで、名を呼ばれた瞬間から僕の心は完全に紗綾樺さんの虜になってしまった。
もし、紗綾樺さんに出会ったのが運命じゃなかったら、僕はきっとすべての神様不信に陥る自信がある。紗綾樺さんと僕の出会いは必然だったと信じたい。紗綾樺さんに僕だけを見つめて欲しい。
紗綾樺さんに、愛されたい。
あまりに直球過ぎる欲望が沸き起こり、僕は慌てて欲望をかき消して隣で興味深げに辺りを見回す紗綾樺さんの事を見つめた。
どこもかしこも長い列が続き、僕は比較的列の短い蒸気船の列に並んだ。
順番が来て船に乗り込んだ僕たちは、他の恋人たちと同じように並んで腰を下ろした。
蒸気船の旅はトランジットスチーマーラインと名付けられているだけあって園内をぐるりと回る設計だ。ベネチア風の岸を離れると、アメリカの開拓時代に僕たちはタイムスリップし、そして、船はジャングルの奥地へと進んでいく。その景色の移り変わる様を紗綾樺さんは大きな瞳を輝かせて見つめていた。
「尚生さん、あれ・・・・・・」
背の高い木々の向こうに巨大な石造りのピラミッドのようなものが見え始め、紗綾樺さんが僕の名を呼んだ。
「あれはマヤ遺跡のピラミッドですよ」
考古学好きも、こういう時は少し役つ。
「素敵・・・・・・」
今まででは考えられないくらい、紗綾樺さんの感情表現が豊かで、僕は周りの景色なんて目に入らず、ただただ輝くような紗綾樺さんの事だけを見つめてしまった。
本当は、一番遠いロストリバーデルタの船着き場で降りてアトラクションに並ぶ予定が、紗綾樺さんを見つめているうちに船はアラビアを通り越し、一周してゲート傍のベネチアの船着き場まで戻ってしまった。
「ここ、最初に乗った場所ですよね?」
「はい。紗綾樺さんが楽しそうなので、一周しちゃいました。ここで降りて、歩きましょう」
短い会話を交わし、僕は紗綾樺さんの手を取って陸に上がらせた。
もちろん、前後で船の操縦をしているように見せていた男性も手を貸してくれるのだが、僕は紗綾樺さんの手を誰にもとられたくなかったので、しっかりと紗綾樺さんをガードして誰にも紗綾樺さんの手は取らせなかった。
ボートから降りた紗綾樺さんは、うっとりとするような瞳でベネチアン・ゴンドラを見つめていた。
「あれは、もう少しロマンチックな時間になってからにしましょう」
僕が提案すると、紗綾樺さんは『はい』と答えてくれた。
それから、紗綾樺さんと僕は込み合う園内を人を避けるようにして歩き、できるだけ列の短いアトラクションを見つけては並んだ。
平日とは言え、さすがにハロウィーンの特設イベントを行っているだけあってカップルの比率は高く、各アトラクションの待ち時間が想像を絶するくらい長かった。
「あの着ぐるみみたいな人たちは、みんなスタッフの方なんですか?」
ディズニーキャラクターになりきっている、いやなりきっているつもりの人も多いんだけど、敢えてそこには触れず、僕は簡単に答えることにした。
「あの人たちは、ハロウィーンの仮装ですよ。手作りから、ショップで購入したコスチュームまで、いろんなグレードの仮装をしている人がいるでしょう。
足を止めて興味深げにいびつな形をした熊のプーさんを見つめている紗綾樺さんを待ちながら、僕は大きな石を積み重ねて作られた壁によりかかった。そして、ふと見上げると、そこには、いま海から上がってきましたという雰囲気のマーメイドが座って微笑んでいた。
白い素肌に貝殻で作られたビキニトップ、腰から下の滑らかな曲線は蠱惑的なピンク色の魚の尾になっている。
「紗綾樺さん、人魚ですよ」
あまりのリアルさに、僕は紗綾樺さんに声をかけた。
「すごいですね。最近は、こんなリアルな人形が作れるんですね」
僕が言っているそばから、マーメイドはその細い手を子供たちに向けて振っている。どう見ても、生きている人間としか思えないスムーズな動きに僕が目を奪われていると、紗綾樺さんが珍しく僕の腕を掴んで引っ張った。
「どうしたんですか?」
まさか、露出度の高いマーメイドに僕が見とれてたから、やきもちとか?
思わず、願望が頭をもたげる。
「尚生さん、あれ、人形じゃないですよ」
「えっ、そんな、まさか!」
この寒空の下、上半身ほとんど裸で冷たい岩の上に座っていられるはずがない。しかも、あんな笑顔で手を振って・・・・・・。
「本当です。あの人、尚生さんの事、早くいなくならないかなって思ってます」
「えええっ!」
思わず大きな声を出すと、マーメイドが不機嫌そうな顔をして僕の事を睨みつけた。
確かに、人形なら睨みつけてくるはずがないし、ましてやクルーなら、お客を睨むはずがない。だとしたら、この完璧なマーメイドは、素人さんのコスプレという事になる。
マーメイドに睨みつけられたくらいで臆しては警察官の恥とばかりに、怯まずに僕が見つめ続けると、マーメイドは不満そうに背中に隠していたらしいペットボトルを取り出し、僕に見せつけるように飲み始めた。それは、『大人の男には用はない、とっとと失せろ、このスケベ男』と言っているような仕草だった。
「行きましょう、尚生さん」
紗綾樺さんは恥ずかしそうに言うと、ほとんど硬直してしまっている僕を引きずるようにして進んでいった。そして、一番近くの列の最後尾に並んだ。
ああ、まずい。きっと、紗綾樺さんは僕が露出の高い女性に弱い男だと思ってる・・・・・・。
考えるだけで、僕自身、顔から火が噴出しそうなほど恥ずかしかった。
見ず知らずの相手とは言え、ほとんど裸同然の女性を造り物と信じ切って、ジロジロと眺めてしまった。もし、紗綾樺さんと一緒じゃなかったら、あまりの出来のすばらしさに手を伸ばして触っていたかもしれない。逆に、本物の人間だと分かった今、どうやってあの貝殻で作ったようなブラトップはピッタリと胸に張り付いてるんだろう?とか、あの貝殻は本物なんだろうか?とか、どうして恥ずかしくもなく、あんな不特定多数に見られる場所であんな恥じらいのない姿を晒せるんだろうとか、変な男に絡まれたらどうするつもりなんだろうとか、どうでもいい事ばかりが頭を巡っている。
つまり、紗綾樺さんから見たら、僕は好き物の変態男! なんてこった!
「さ、紗綾樺さん、信じてください。僕の名誉に誓って、本当に、僕はあのマーメイドが造り物だって信じてたんです」
言い訳がましいのはわかっていたが、それでも、紗綾樺さんに変態だと思われ続けるのは、今後の友情に大きな影を落とすことになる。ましてや、帰宅後に紗綾樺さんが宗嗣さんに、僕がほとんど裸の女性をジロジロ見ていたなんて話したら、宗嗣さんの鉄拳が飛んできて、『以後敷居をまたぐな』とか、紗綾樺さんの半径二メートル以内への接近禁止とか、考えるだけでも目の前が真っ暗になるような不幸に見舞われるのは明らかだ。
「お願いです、紗綾樺さん、信じてください」
紗綾樺さんの手を握って訴える僕を見る紗綾樺さんの目が冷たく感じる。気のせいだろうか・・・・・・。
「勘違いしていたことは信じてます。でも、尚生さんは、ああいうグラマーな女性が好みなんですよね」
信じているが、もっとまずいところで疑われている気がする。
あれ、グラマーだったか? 確か、ディズニーの人魚姫バリに平らな胸だった気がしたんだけど・・・・・・。
そこまで考えた瞬間、『やっぱり、サイズとか見てたんですね』という紗綾樺さんの呟きが聞こえた。
は、はめられた? 紗綾樺さん、ものすごく平然とカマかけた?
「ちがいます。ちがいます。そっくりによくできてるなって思ったんです。もし、彼女がグラマーだったら、違和感を感じて、逆に人間だって気付きました!」
僕の必死の訴えに、前に並んでいるカップルのくすくす笑いが聞こえてくる。その前のカップルは、女性に男性が肘鉄を食らっている。どうやら、ここの列は、デート中に遭遇してはいけない、超危険なトラップに遭遇したカップルの流れつく場所らしい。
「男の人って、そういうものですよね」
諦めたような紗綾樺さんの言葉に、僕は賛同していいのか、否定するべきなのか、躊躇したまま言葉を飲み込み続けたが、唯一、肯定も否定もしなくていい方法を思いついた。
「それって、宗嗣さんも同じってことですか?」
もし、宗嗣さんも同じなら、紗綾樺さんに幻滅されなくて済むかもしれないという、微かな望みをかけての事だった。
「お兄ちゃんの事は、わかりません」
それは、とてもシンプルな答えだった。
「えっ、知らないって・・・・・・」
「お兄ちゃんの考えていることは読めないんです」
衝撃的な答えだった。紗綾樺さんの能力をしっかりと理解している宗嗣さんには、紗綾樺さんに心を読まれた経験がない? 嘘だ・・・・・・。ありえない!
「昔は読めてました。でも、最近は読めません。お兄ちゃん、鉛で出来た金庫を持ってるんです」
「鉛の中は見えないんですか?」
「・・・・・・はい」
まるでスーパーマンみたいだ。って、スーパーマンだと、男だよな。じゃあ、スーパーマンの従妹って設定のスーパーガールもやっぱり鉛の中は見えないのか? だとしたら、紗綾樺さんはスーパーガールと同じ?
何考えてるんだ、そんなのどうだっていい事じゃないか!
「尚生さん、もういいです。尚生さんの事は信じてますから。変態だなんて、思ってませんから」
紗綾樺さんの言葉に、再び前に並んでいるカップルがくすくすと笑いだす。
笑いたければ笑え! 君たちにはわからなくても、僕と紗綾樺さんは強い絆で結ばれているんだ!
僕は、心の中で言い切った。しかし、それに対する紗綾樺さんのコメントは『そうなんですか?』という、酷くつれないものだった。
僕は、紗綾樺さんの能力を完全に信じているから、あの時、あの場所でダラダラと垂れ流しに僕が思ったことを紗綾樺さんが全て知っていることをわかっていても、紗綾樺さんの事を今までと同じ、もしかしたら、それ以上に好きでいる。
再び、垂れ流される僕の思考に、紗綾樺さんの頬が少し赤く染まった。
本当なら、ここで大きな声で叫んだってかまわない。僕は、紗綾樺さんの事が大好きだ! 紗綾樺さんを愛し続けることができると確信している。
突然、紗綾樺さんが僕の腕を掴んだ。
「尚生さん、やめてください。こんなところで叫ばれたら、恥ずかしくて・・・・・・」
「あ、ああ、そうですね。大丈夫です」
僕は返事をしながら、本当に、紗綾樺さんには何でも聞こえてるんだなと、しみじみと思った。別に嫌なわけじゃない。でも、そのうち、紗綾樺さんに呆れられて、嫌われるんじゃないかと不安になる。
「大丈夫です。尚生さんの事、私も大好きですから」
えっ! 紗綾樺さんから告白!
「東京に出て来て、初めてできたお友達ですから」
大きなハンマーで頭を叩かれたような衝撃を感じた。
そうだ。まだ、お友達から一歩も進んでいなかったんだった。もう、こうなったら、ひたすら未来の奇蹟を信じて走り続けるしかない。
身も蓋もない、ちぐはぐな会話を続けているうちに順番がやってきて、僕たちはアトラクションの中へと案内された。
それは『海底二万マイル』だった。
真っ暗な中を進んだり、二人っきりで小型潜水艇に乗って海底を探索したりする。
伝説のアトランティス大陸を探すお話なわけで、考古学や古代文明好きの僕にはいくらでも披露できるトリビアもある。それに二人の距離も近いし、二人だけの世界にもなれるし、普通のカップルには悪くはないアトラクションだし、もし、これが友達となら、ワイワイガヤガヤと盛り上がりながら、『ちょっと時間が短すぎだよな』とか言いつつ盛り上がれる。しかし、紗綾樺さんを連れてくるには無神経極まりないアトラクションだった。
いきなり頭の上から少しとはいえ水をかけられ、高波高、津波高が押し寄せて堤防が決壊しそうだとか、もう紗綾樺さんには聞かせたくない禁句の連続。挙句、海の底だ。
何も考えずに列に並んだ自分を呪ってしまう。おかけで、あっと言うくらい短いアトラクションだったはずなのに、紗綾樺さんの顔からは笑顔が消え、少し青ざめているようにも見える。
土下座ものの、痛恨のミスだ。
僕が紗綾樺さんを『海底二万マイル』に連れて行ったと紗綾樺さんの口から知れれば、やっぱり出入り良くて出入り差し止め、悪ければ交際禁止になりかねない失態だ。
あの日、僕は約束したんだから、紗綾樺さんが過去の事を思い出すような事をしないと。それなのに、海底、高波、津波。アトランティスが一夜にして沈んだ理由は、火山の噴火と天変地異的な地震に津波・・・・・・。最悪も良いところだ。
ああ、あのマーメイドの一件で動揺していたからって、入り口で『海底二万マイルにようこそ!』って笑顔で迎えられた時に気付くべきだった。
はぁ・・・・・・。
思わずため息が出てしまう。これって、やっぱり思いやりの足りない男だって紗綾樺さんも思うよな・・・・・・。
みるみる青ざめていく紗綾樺さんに、僕は慌てて紗綾樺さんの体を支えると、近くにいたギフトショップのスタッフに声をかけた。
「すいません。連れが気分が悪くなったようで、救護室はありますか?」
「あ、はい。ただいま・・・・・・」
女性の返事が終わらないうちに、紗綾樺さんは強風に吹かれた花が根元から折れてしまうように、足に力が入らなくなったようで、その場に崩れ落ちそうになった。
僕は躊躇することなく紗綾樺さんを横抱きにすると、『中央救護室は、こちらです』という女性スタッフに案内されて人々の間を潜り抜けるようにして救護室を目指した。
☆☆☆