妹が病気なのでと説明して、業務時間中もスマホの電源を入れっぱなしにすることを許可してもらっているので、俺はズボンの後ろポケットに入れてあるスマホが振動するのを感じた。
「すいません、ちょっと席をはずします」
俺は小うるさい社員に声をかけると、席を立って廊下へと出た。
休憩時間以外に『スマホを使用しているのを社員に見られると、勤務評価が下がるので注意してください』という派遣会社の営業の言葉を真に受けたわけではないが、何度妹ですと説明しても、恋人だろうと冷やかされている俺は、仕方なくいつものように男子トイレの個室に引き籠った。
プロの清掃スタッフによって隅々まで掃除されているトイレの個室は、正直、プライバシーが守られるので、職場のどこよりも居心地がいい。
おまけと言っては何だが、ビルの方針らしく、オフィスフロアーには仕事の疲れを癒す効果があるアロマが日替わりで焚かれていて、今日の香りのラベンダーだ。派遣をいびるのが趣味のような社員の対応に疲れていた俺のストレスも取り除いてくれた。
トイレの中で深呼吸するのというのも変な話だが、不快な臭いがなく、アロマを焚きこめられた空気はとてもトイレとは思えない。そのせいか、この現場に派遣されてから俺は、最低一日一度は個室に引き籠り、トイレで深呼吸するのが日課になっていた。
便座を椅子代わりにして腰を下ろすと、俺はポケットからスマホを取り出した。
振動のリズムから、電話の着信ではなく、メールであることはわかっていたので、俺は軽い気持ちでメールアプリを開いた。しかし、送信者名を見た瞬間、爽快な気分は一瞬にして暗転し、眉間にしわが寄った。
なんでだよ。なんで、昨日の今日で、奴なんだよ!
俺は心の中で毒づきながら、メールを開いた。瞬間、俺の不愉快さは頂点に達した。
ちょっと甘い顔を見せたらこれだ。なにが急に休みが取れたので、事前許可なしですが、デートしますだ。行先も何も決めてないので、予定は追って連絡しますって、こいつ社会人の癖に『報連相』って言葉をしらないのか? まあ、この場合、正確には『相連報』の方がふさわしいかもしれないが、俺が仕事で家にいないのをいいことに、さやを連れ出そうとは・・・・・・。
そこまで考えてから、俺はさやがずっと引き籠っていたことを思い出した。
そう言えばあいつ、さやが仕事も休んでずっと家にいるのを心配してたから、それでわざわざ休みを取ってさやをデートに連れ出したのか? 公務員って、つか、警察官って、そんな簡単に休めるのか? でも、これから出かけますってメールにあるってことは、休んだんだよな・・・・・・。
俺は考えながら、スマホの画面をじっと見つめた。
いくら考えても、返事の文面が浮かんでこない。
正直、事後承諾の連発は止めろと言ってやりたかったが、もし、本当に引き籠っているさやの事を心配して休みを取ってくれたのだとしたら、そんな文面は失礼すぎる。なんだかんだいったって、二人が交際することを俺は許可してるし、さやはもう未成年じゃない。兄である俺が口出しできることは、本当はほとんどない。それを真面目に、約束通り、きちんと連絡してくるのだから、その誠実さを誉めこそすれ、行動を非難するのは間違いだ。
俺はもう一度深呼吸すると、『さやをよろしくお願いします』とだけ書いて送ろうとしたが、更に『こまめに連絡をお願いします』と書き足した。
そろそろタイムアップだ。俺は腕時計に目を走らせると、メールを送信し、急いでオフィスへと戻った。
「すいません、いま戻りました」
俺が声をかけると、例の厄介な社員がギロリと鋭い視線を送ってきた。
まずいな、ここの契約、更新されないかもしれないな。仕事的には簡単というか、つまらない仕事ばかりなんだが、通勤の便利も良いし、それなりに単価も高く適度に残業があるからバッチリ稼がせて貰っているのだが、いかんせん、直属の上司が不在の時にスタッフを管理している万年平社員風のオヤジが性格最悪、根性最悪で契約スタッフをいびりまくるから、実入りの良い職場なのにスタッフは長持ちしない。
上司が可愛がる若くていい感じの女性スタッフはセクハラギリギリというか、ドストライクなセクハラ発言していびるし、若い男性スタッフがくれば常識がどうのこうの、ビジネスマナーがどうのこうのといびり倒す。
幸か不幸か、俺はもともと建築・設計を本業でやっていた上、国家資格も持っているから安く使えてお得と思っているらしく、ぐちぐちは言うものの、本格的ないびりはしてこない。だから、長続きしているのだが、これでここも最後かもしれないと、俺はため息に聞こえないように静かに息を吐いた。
気分を一新した俺は、再び細かい図面とそこに書かれている数字を強度計算のデータとしてファイルに入力し始めた。
☆☆☆
「あの、ところで、どこへ行きますか?」
デートに誘っておきながら間抜けな質問だなぁと自分で考えながらも、僕は隣を歩く紗綾樺さんに問いかけた。
「私、ディズニーリゾートに行ったことないんです」
紗綾樺さんの答えはすごくシンプルだった。
えっと、これは事件とは関係ないデートなんだけど・・・・・・。
僕はどのタイミングで紗綾樺さんの真意を探っていいか分からず、問いかけるのを躊躇する。
「両方とも行ったことないんですか?」
当たり障りのない質問をすると、紗綾樺さんは大きくコクリと頷いた。
あれ、でも昔の事は覚えてないんだよな・・・・・・。
「東京に出て来てから、一度も行ったことはないです。だって、あそこはデートに行く場所で、兄妹で行く場所じゃないんですよね?」
「えっ?」
たぶん、宗嗣さんのインプットではなく、占いで知った情報からの推測なんだろうが、今更ながらに紗綾樺さんと自分がデートのフリではなく、本当にデートするのだと思うと『嫌われないようにしなくちゃ』という怯えのようなものが脳裏をかすめていく。
「確かに、修学旅行とか・・・・・・」
思わず『家族』という言葉を口にしそうになって僕は言葉を切る。
「まあ、親しいグループの男女、デートが確かに多いですね」
そういう自分も、大学時代の彼女とディズニーランドには行ったことがある。更に遡れば、確か中学の卒業遠足もそうだった気がする。
「大学時代の彼女さんといらしたときは、ディズニーランドだったんですね」
紗綾樺さんの言葉に僕は絶句して思考が停止した。
「一日に両方って、行かれないんですか?」
そんな僕に構わず、紗綾樺さんは言葉を継いだ。
「あ、えっと、あの・・・・・・」
紗綾樺さんが心を読めると知っていたのに迂闊だった。なんで、元カノの事なんて思い出したんだ? バカか?
「そんなことないですよ。だって、お付き合いしていたんですから、しっかり記憶は残ってますよ」
そこまで言ってから、紗綾樺さんは突然ピタリと足を止めた。
まずい、なんか変な記憶を読まれたんだろうか? 駅に着く前に嫌われたとか? デートはご破算とか?
恐怖の連鎖が頭を駆け巡っていく中、紗綾樺さんは先程までの少しウキウキした表情を一転して曇らせた。
「ごめんなさい。私、勝手に・・・・・・」
その苦しそうな表情に、僕は紗綾樺さんが怒っているのではなく、僕と会話するように僕の心を読んでいたことを謝っているのだと気付いた。
「あ、別に大丈夫ですよ。紗綾樺さんがわかること、僕は知ってるんですから。でも、できたら言葉を交わしたいです」
どんな些細な事でも彼女には隠せないという事を知っているから、紗綾樺さんの能力を信じているから、いつだって僕の頭の中や記憶は紗綾樺さんが意図しなくても見えてしまったり、聞こえてしまう事はわかっている。だから、その事で紗綾樺さんに負い目を感じてもらいたくない。
「ごめんなさい。完全なプライバシーの侵害ですよね」
更に謝る紗綾樺さんに、僕は優しく微笑み返した。
「心配しないでください。紗綾樺さんが他の誰にも話さないでくれれば、僕の頭の中にあるのと変わらないですから」
そう、紗綾樺さんの心の中に留められている、その他大勢の記憶と同じ、木や草や石の記憶と同じ、紗綾樺さんが漏らさない限り、それは僕の頭の中にあるのと変わらない。
「・・・・・・優しいんですね。宮部さんは・・・・・・」
その言葉が誰と比べてなのかは知りたかったが、きっと、触れてはいけない、紗綾樺さんの過去につながるような気がして、僕は敢えて問い返さなかった。
「そうですね、ランドもシーもかなり沢山のアトラクションがあるのと、並ばないといけないので、一日で両方制覇するとしたら、開園と同時に走りこんで手分けしてファストパスをとりに行くくらいしないとだめですね。その場合、一人はシーで、一人はランドに行ってファストパスを取り終わったところで合流する。そのあとは、ファストパスに合わせて適当に回るって感じですね。それだと、あんまりデートって感じがしないでしょう。それに、どちらも制覇って程沢山のアトラクションには乗れないですし・・・・・・」
話しながら、僕はふと自分の財布の中身に思いを馳せる。あれ、お金幾ら持っていたっけ? 移動はずっと交通系のIC決済にしていたし、お昼代くらいしか持ってなかったような・・・・・・。いま、チケット代って、いくらかかるんだろう・・・・・・。不安がどどっと波のように押し寄せてくる。
なんで紗綾樺さんを迎えに行く前に銀行行かなかったんだ? バカだ・・・・・・。
自己嫌悪で言葉が尻切れになる。すると、紗綾樺さんが駅を目前に足を止めた。
「銀行、行ってきますね」
げっ!
紗綾樺さんの言葉に、僕は壁を頭に打ち付けたい気分に襲われた。
「だ、大丈夫です。僕が銀行に行けば済むことですから。紗綾樺さんが行く必要はないですから」
慌てて辺りを見回すと、既にそこは都市銀行のATM前だった。
「ここに、私が使っていいお金を兄が入れてくれているので、おろしてきますね」
紗綾樺さんを止めようと思っているのに、紗綾樺さんの言葉の方が気になって、呼び止める前に紗綾樺さんに姿を消されてしまった。
それにしても、紗綾樺さんは自分で働いているのに、使っていいお金ってどういう事だろう。宗嗣さんも働いているし、あの質素な暮らしぶりから言って、紗綾樺さんの収入を宗嗣さんが当てにしているとも思えない。
僕は考えているのがもどかしくなり、紗綾樺さんの後を追って中に入った。
既に暗証番号を押し終わったらしい紗綾樺さんが、機械を前に首を傾げて何か思案している。
「紗綾樺さん、どうかしたんですか?」
残高がおかしいとかだったら、立派な犯罪被害だから、ここはデートをお預けでも対応する必要がある。
紗綾樺さんと一緒にいて緩み切っていた表情が引き締まるのが自分でもわかる。
「えっと、お金、いくらくらい必要ですか?」
紗綾樺さんを悩ませていたのは、今日のデート資金の額で、決して残高不一致という事ではなかったらしい。
「あの、デートですから、今日は僕が出します」
そう、社会人というだけでなく、彼女いない歴が長い僕には、自慢じゃないがディズニーリゾートに恋人、もとい、大切な友達を連れて行くくらいの資金はある。ただ、何も考えずに訪ねてしまった無計画さに問題があっただけだ。
公務員なんで、給与の遅配も、ボーナスの踏み倒しもない。今の部署に異動してからは些少とは言え危険手当が出ることもあるし、その代り安物とは言え、スーツの買いなおしの頻度は高くなってはいるかもしれない。靴も良くすり減るし・・・・・・。
あー、もう何考えてるんだ!
自分で自分の散漫な思考に気分が滅入ってくる。
「でも、私、こういう時以外、お金使わないですし」
そういわれて何も考えずに覗き込んだ紗綾樺さんの手元に表示された『ご利用可能残高』の隣に書かれた数字に僕は言葉を失った。
たぶん、僕の口座残高の数十倍、いやもしかしたら、百倍以上あるかもしれない。
「私、自分ではお金を使わないんです。でも、税務署がうるさくて、兄が税金とか、占いコーナーの使用料とかを差し引いて、残りをここに入れてくれるんです」
売れっ子の占い師とは言え、紗綾樺さんの場合は奇抜な衣装を着るでもないし、占いコーナーを妖しげに飾り付けているわけでもない。備え付けの小さなテーブル越しに向かい合うだけで、水晶玉もカードも何も使わない。服装だって、たぶん宗嗣さんの趣味の洋服で、それは宗嗣さんが紗綾樺さんに買い与えているもので、紗綾樺さんが自分で買っているわけではないとすれば、確かに、お金は溜まっていくだけなんだろう。
「とにかく、今日は僕が・・・・・・」
僕の言葉も聞かずに、紗綾樺さんは適当な金額を押してお金を引き出してしまう。
こうなると、ある意味意地の張り合い?になるのかもしれないが、僕も続けてATMからお金を下ろしたが、正直、紗綾樺さんがどーんと引き出した額の半分くらいだ。いざとなれば、カードもあるし、人込みに現金を沢山持っていくのはスリに狙われやすく、本当はお勧めできないのだが、今更、おろしたお金を戻してくださいと言っても、紗綾樺さんが従うようには見えなかった。
「じゃあ、いきましょうか」
僕は声をかけると、紗綾樺さんと二人、駅への道を急いだ。
「両方行くには、今日はスタートが遅いですから、どちらか紗綾樺さんの言ってみたい方にしましょう」
僕の言葉に、紗綾樺さんはコクリと頷くと、慣れた手つきでポケットからパスケースを取り出して改札を通った。
毎日、占いの館まで電車で通勤していたのだから当たり前の事なのに、そのスムーズな動きに僕は少し驚いてしまった。
宗嗣さんから聞いている、刃物や火を怖がり、お茶も一人で煎れなれない。一人では何もできない女性というイメージとはかけ離れた流れるような身のこなしだった。
「最初は、あの機械に手を噛まれそうで怖かったんです。そうしたら、兄がこの魔法のカードをくれたんです」
花柄のレザーパスケースに入っているのは、僕も使っている交通系ICカードだ。
「魔法のカードですか?」
紗綾樺さんの表現が可愛らしくて、僕は思わず笑みを浮かべてしまう。
「だって、これなら手を噛まれないし。バッグに入れたままでも通れるんですよ。魔法みたいじゃないですか?」
確かに、言われてみるとそうかもしれない。
具体的な技術の詳細に関しては僕も良くわからないけれど、魔法ではなく科学のなせる業で、紗綾樺さんの能力の方が魔法と言うのにはふさわしいと思う。
それから僕と紗綾樺さんは、電車を乗り換え、一路ディズニーリゾートを目指した。
☆☆☆
宮部さんから聞く話は、キラキラと輝くイメージを私にもたらした。
笑顔の素敵な私の知らない女性と一緒に訪れた時の思い出も、それはとてもキラキラと輝いていて、その時の宮部さんがどれほど幸せだったか、楽しかったかが私にも伝わってきた。それなのに、その後に訪れた悲しい別れの記憶、でも宮部さんはその記憶を嫌ってはいない。人は出会い、別れて行く。彼の職業柄なのかもしれない。その別れが、どのような形の別れになるかはわからないけれど、いつか人は別れて行く。そう、誰も死からは逃れなれないから。どんなに二人が寄り添い続けたいと思っていても、その時が来れば、無慈悲な定めによって人は引き離されてしまう。
いつか、私とお兄ちゃんも。そして、私と宮部さんも、別れる時が来る。
それが、いつかはわからない。
何回か電車を乗り換え、電車の中でも宮部さんは色々な話を聞かせてくれた。時々、スマホで調べたりしながら、丁寧にディズニーランドとディズニーシーの違いを説明してくれた。
「あ、紗綾樺さん、お酒は飲めますか?」
宮部さんの問いかけ方が、まるで未成年かどうかを確認しているようで、私は少し首を傾げながら『たぶん』と答えた。
理由は簡単だ。お兄ちゃんは家ではお酒を飲まない。仕事の付き合いで飲んで帰ってくることも年末にはある。それくらいだから、私はお正月にお屠蘇の代わりだと言って、お兄ちゃんが買ってくる有名な白ワインをほんの少し舐める程度に飲むだけで、意識してお酒と言うものを飲んだことはない。
「あ、むりしなくていいんですよ。ただ、シーの方は、ワインを飲みながらディナーができるレストランとか、大人向けの趣向も凝らされているんです。だから、遊んだ後、ディナーを食べるのもいいかなって思っただけで、お酒は無理に飲む必要はないんです」
一生懸命に説明してくれる宮部さんの姿は、私には輝いて見える。暖かい光に包まれて、この人は幸せな人なんだと、私を安心させてくれる。
「週末じゃないから、今から行けば、もしかしたらレストランに予約が取れるかもしれません。普通は、開園と同時に行って、レストランも予約するものなんですけどね。でも、意外とディナータイムって、バスで来るツアーグループが帰った後で、静かだったりするんですよ・・・・・・」
行ったことのない私には、彼の中のイメージから想像するしかない場所だけど、もうすぐ、それはイメージから実物に変わる。いままで、何十回、何百回と他人の記憶の中で見てきた光景が、私の本物の記憶になる。
隣に座って色々と話していた宮部さんは、停車した駅から乗り込んで来た年配の女性を見つけると、すぐに席を立って席を譲った。
たぶん、これは宮部さんが警察官だからではなく、彼の本当の優しさが成せる技なんだと私は感じた。
「あ、もうすぐ見えてきますよ」
私の正面に立った宮部さんは、窓の外を見つめて言った。
宮部さんの言葉に、私は半分身体をひねって窓の外を見てみたが、座っている私からはまだ見えなかった。
「大丈夫ですよ。もうすぐ、着きますから」
笑顔で言う宮部さんを見つめながら、近くから感じる嫉妬に私は車内に視線を走らせる。
『なんで、あんな素敵な人が、あんな地味で子供っぽい女と一緒なのよ!』
視線がターゲットをとらえた瞬間、悪意のある感情がどっと流れ込んで来た。
そうか、私って、子供っぽく見えるんだ。
そう思うと、自分が宮部さんと一緒にいるのが酷く不釣り合いな気がしてきた。
こういう悪意のある感情は、お兄ちゃんと一緒の時にも感じることがある。でも、一言『お兄ちゃん』というだけで大抵の場合は、負の感情の攻撃は止んでくれる。普通の女性は『なんだ、妹か』と納得してくれる。でも、相手が宮部さんだったら、私はどうしていいのかわからない。
「紗綾樺さん? 大丈夫ですか?」
まともに負の感情を浴びたせいで、もしかしたら顔色が悪くなったのかもしれない。
心配げに問いかける宮部さんに、私は少しだけ微笑んで見せた。
「大丈夫です。思ってたより遠いんだなって・・・・・・」
「そうですね。僕が車だったら、もっと楽に移動できたんですけど・・・・・・」
「あ、そんな、心配しないでください。行きたいって言ったのは私なんですから」
小声で話しているつもりなのに、負の感情はねっとりと私の周りに絡みついてくる。
『なんであんなカッコいい人が!』
宮部さんと行動を共にしていると、今までも何度か似たような負の感情を受けることはあったが、さすがに狭い車内の空間に閉じ込められていると、息苦しさを感じてくる。
「もう、次の駅ですから」
心配げに言う宮部さんの顔を見上げると、彼は心配しながらも優しい表情で私の事を見つめていた。
ほんとうだ。あの人が言うとおりだ。宮部さんは、とてもカッコいい男性なんだ。
今までの私は、宮部さんの姿かたちを見ていたんじゃなく、ずっと彼の心を見ていただけなんだ。こうして改めて二つの目で宮部さんをしっかりと見つめると、他の女性たちが私に対して嫉妬したり、憎悪したりする理由がわかる。
「紗綾樺さん? 僕の顔に何かついてますか?」
あまりにまじまじと私が見つめているので、宮部さんの顔が少し赤くなる。
「なんか、照れちゃいますよ。そんなにじっと見つめられると」
宮部さんは言いながら、照れ隠しに頭をかいて、少し顔を俯かせた。
「宮部さんって、とってもカッコいいんですね」
私が言うと、宮部さんはテレを通り越して、焦った表情を浮かべた。
「な、なにを・・・・・・。どうしたんですか急に・・・・・・」
焦りすぎて言葉を継げない彼に、私は微笑み返した。
「今まで、気付きませんでした。どうして、他の女性が私の事を疎ましく思うのか」
「えっ?」
話の展開が見えていない宮部さんは、ほぼパニック状態に陥っている。それでも、構わず私は思った通りの事を口にした。
「みなさん、宮部さんには、もっと大人で美しい女性が似合っていて、私みたいなのが一緒にいるのは、おかしいって思っているんですね」
私が人として不完全な生き物であることは、私自身が良く知っている。記憶もないし、人の心も読めてしまう。自分が本当は誰で、どんな人間だったのかも思い出せない。
もし、目覚めた時にお兄ちゃんに出会っていなかったら、私は今頃どうしていたんだろう・・・・・・。
「紗綾樺さん、人がどう思おうと、そんなの関係ないです。僕にとって、一番大切なのは紗綾樺さんなんですから」
宮部さんの言葉に、隣に座っている年配の女性まで驚いている。
「それに、素敵な紗綾樺さんに似合わないのは、自分の方です」
こんな大勢の人で込み合った車内で交わされるべき会話ではなかったのだろう。あたりから、『いいかげんにしてくれよ』とか、『二人っきりの時にやれよ』と、私たち二人の存在を疎ましく感じる人々の感情がなだれ込んでくる。
「ごめんなさい。私、余計なことを言ってしまって」
私が謝ったところで電車がホームに入線した。
「降りますよ」
宮部さんは何もなかったように言うと、私の手を引いて立ち上がらせ、ホームに向けて大きく開いた乗車口をくぐりホームへと降り立たせた。
「すいません。あんな電車の中で、あんなこと言っちゃって・・・・・・。恥ずかしかったですよね。本当に、すいません」
謝るべきなのは私なのに、宮部さんは何度も私に謝ってくれた。
「でも、本当ですよ。紗綾樺さんが僕に釣り合わないんじゃなくて、僕が紗綾樺さんに釣り合ってないんです」
宮部さんの考えは、たぶん、世間一般的な女性の見解とは違っているようだ。
「じゃあ、行きましょうか」
少しくつろいだ表情に変わった宮部さんは言うと、電車を降りるときに手をつないだことを忘れているのか、私の手を握ったままホームを進み、階段を降りて改札口へと向かった。
お兄ちゃん以外の誰とも、こんなに長い時間肌を触れ合わせていたことはない。偶然、手と手がぶつかったくらいでも、流れ込んでくる思考や雑念に悩まされる私は、握手を求められても、手を引っ込めるのが常だ。それなのに、お兄ちゃんと同じ心の金庫を持つ彼とだったら、こうして手を繋いでいても・・・・・・。
そこまで考えた私は、ふと昨日の事を思い出した。
しっかりと私を抱きしめた彼の事を・・・・・・。
ずっと私の傍にいてくれると、友達でいてくれると約束してくれたことを・・・・・・。
不快ではなかったので、私は彼の手を振り払わなかった。しかし、改札を通ろうとした彼は、私と手をつないだままであることに気付いて慌てふためいた。
「す、すいません。手を握ったままで。・・・・・・不快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ないです」
当然、私の心が読めない彼は、私の事を慮って謝りつづる。
「大丈夫ですよ。宮部さんなら。だって、昨日は私の事、抱きしめてくれたじゃないですか」
私が言うと、宮部さんは真っ赤な顔をして『すいません』と、さらに深く頭を下げて謝った。
どうも、私には彼の考えていることを理解できないようだ。
全然、不快でも嫌でもなかったのに・・・・・・。
「謝らないでください。別に、なにも悪い事なんてしてないじゃないですか」
「い、いや、でも。やっぱり、恋人以外の男性に抱きしめられたり、手を繋がれたりしたら、やっぱり、不快と言うか、不愉快ですよね・・・・・・」
宮部さんは、少し困ったような表情を浮かべて言った。
「でも、宮部さんと私は、結婚を前提にお付き合いしている事にしたんですよ」
彼の気持ちを楽にしようと言った一言が、逆に彼を苦しめてしまったようだ。
「それは、あくまでも、宗嗣さんに僕と紗綾樺さんが会うのを許してもらうための口実ですから・・・・・・」
酷く言いにくそうに、彼は答えた。
そうだ。私ったら、どうかしてる。
私みたいな、普通じゃない生き物の傍にいてくれる人なんて、お兄ちゃん以外にはいないってことを忘れてた。
不思議なことに、彼と一緒にいると落ち着くから、お兄ちゃんと一緒の時のように安心できるから、彼がずっと私の傍にいてくれると言ったから、なんとなくお兄ちゃんを安心させるためについた嘘が、いつか現実になるような気がしていた。
一気に押し寄せる寂しさと心細さに、私は彼が何を言っているのか聞き取ることができなかった。
そうだ、彼が私と一緒にいるのは捜査のためだ。
お友達になってくれると約束したからって、彼には私の他にも沢山の友達がいる。
宮部さんが本当に望んでいるのは、私が崇君の居場所を見つけること。
「紗綾樺さん?」
宮部さんの呼ぶ声が聞こえたが、それは私の耳がとらえた音の一部に過ぎず、油断した瞬間になだれ込んで来た数えきれないほど沢山の記憶と思考と感情の渦が私の中を吹き荒れる。
目を閉じて集中すると、私はその中に崇君に関わるものがないかを必死に探した。
ぐらりと体が揺れ、立っているのが辛いと感じた瞬間、誰かが私の両腕を掴んで体を支えてくれるのを感じた。
『ほんとうに、どっちでもいいの? じゃあ、僕、シーがいい!』
見つけた。
間違いない。これは、崇君の言葉だ。
ゆっくりと目を開けると、心配そうに見つめる宮部さんの顔がとても近くにあった。
そうだ、きっと相手が私でなくても、この人は具合が悪そうな人を見かけたら、優しく接するんだ。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
力に集中してしまったせいで、体は力が抜けたようになって彼の腕に支えられている。
「すいません。ちょっと、人が多くて立ち眩みがしてしまいました」
「具合が悪いんじゃないですか? べつに、デートなんていつでもできるんですよ。具合が悪いなら、このまま帰ってもいいんですよ」
心配そうな瞳に見つめられながら、私は頭を横に振った。
「もう大丈夫です」
おまけに、少しだけ微笑んで見せた。
「ここからモノレールに乗るんですけど、シーとランド、どっちにしますか?」
宮部さんの問いに、私は『シーにします』と即答した。
こんな遠くまで連れて来てもらって、捜査の役に立たないディズニーランドに行ったら、宮部さんに迷惑をかけるだけだ。
今の私の中には、家を出るときの浮かれた気持ちも、初めてのデートという楽しい気持ちも残っていなかった。
「じゃあ、切符を買ってくる間、ここで待っていてください」
宮部さんはモノレールの改札口近くで待っているように言うと、一人で切符を買いに自動券売機の方へと戻っていった。
これでいい。きっと、中に入れば、もっと沢山の手掛かりが見つかって、崇君にたどり着くことができるはずだ。手遅れになる前に。
☆☆☆
おかしい。
僕はモノレールの切符を買いながら、突然、様子のおかしくなった紗綾樺さんの事を考えていた。
絶対におかしい。
そう、さっき、電車を降りるまでの紗綾樺さんと、今の紗綾樺さんは、まるで別人のようだ。例えるなら、電車の中の紗綾樺さんは大学時代の友達以上恋人未満の親しかった女友達、でも今の紗綾樺さんは捜査の途中でばったり会ってしまった恋人と一緒の非番の同僚だ。まるで、一緒にいることが気まずいような、そんな雰囲気を纏っている。
そこまで考えてから、僕は背筋を冷たいものが流れていくのを感じた。
もしかして、電車の中で思いっきり無計画に告白したせいかもしれない。
紗綾樺さんの甘えるような、人懐っこい今まで見たことのないような可愛い瞳と、まるで普通の女の子のような自然な態度に僕は紗綾樺さんが特別だという事を忘れてしまっていた。そう、あんな大勢の前で爆弾発言しなくても、心で語れば紗綾樺さんには伝わったのに。
そこまで考え、僕は紗綾樺さんにムードも何もない、どうしようもない男だと思われた事に気付いた。
そうだよな、いくらなんでも、デートの目的地に向かう途中の混んだ電車の中で愛の告白をするなんて、思い出せば自分でもバカだと分かる。
ああ、なんであんな馬鹿なことしたんだ・・・・・・。穴があったら、入りたい。恥ずかしすぎる。
言った自分がこれだけ恥ずかしいのだから、言われた紗綾樺さんはもっと居心地が悪くて、恥ずかしいだけじゃなく不愉快に思ったはずだ。
駅からこっち、謝ったとはいえ、紗綾樺さんの手を握りっぱなしだったし、もしかしたら、署で課長から自宅待機というか、しばらく休めという直接的ではない、ものすごく間接的でありながらもダイレクトな戦力外通告とか、見られてしまったのかもしれない。
はぁ・・・・・・。
ため息しか漏れてこない。
でも、ここで紗綾樺さんを必要以上に待たせれば、下がった評価はさらに下がり続けて、そのうち『友達』からも降格され『知り合い』になってしまうかもしれない。
思えば、抱き合い、見つめあい、もうこうなったらキスか?!というラブシーンの絶頂で『恋人』ではなく『友達』と言われた時点で、紗綾樺さんは僕の事を友達以上には見られないという意味だったのかもしれない。
はぁ・・・・・・。
再びため息が漏れ、僕はやっと順番が回ってきた券売機でモノレールの切符を買った。
こうなったら、ディズニーシーで名誉を挽回する他に手はない。
よぉし、頑張るぞ!
心の中で自分に喝を入れると、僕は紗綾樺さんの元へ戻った。
「お待たせしました。じゃあ、乗りましょうか」
僕が声をかけると、紗綾樺さんは『はい』とだけ答えて僕に続いた。しかし、改札口を前に僕は足を止めた。
まずい、これ、自動改札だ。紗綾樺さんの苦手な。
「あ、紗綾樺さん、僕が切符をいれますから、紗綾樺さんは切符を取って駅に入場してください」
紗綾樺さんを自動改札の入口へと促しながら、僕は切符を一枚通した。
勢いよく、手からもぎ取るように切符を飲み込むと、自動改札は紗綾樺さんを通すためにゲートを開けた。
僕の指示に従い、紗綾樺さんは排出された切符を受け取り、先に構内に入場した。僕は続けて切符を通すと、せわしくゲートを閉めて再び開ける自動改札を抜けた。
「紗綾樺さんはどんな乗り物に興味がありますか? たぶん、こっちには絶叫系の乗り物はないと思ったんですけど」
ホームに上がるとすぐに入線してきたモノレールに乗り込み、僕は紗綾樺さんに問いかけた。
実際、問いかけている僕自身、行ったことがないのでどんなアトラクションがあるのかは、詳しく知らない。それでも、どんなものが好きなのかを知っておくことは重要だと思って問いかけたものの、紗綾樺さんには僕の言葉の意味が分からないようだった。
「絶叫系って、なんですか?」
「あ、えっと、ジェットコースターみたいなものです。ディズニーランドで言うと、ビッグサンダーマウンテンとか、スペースマウンテンとか、そんな感じのものです」
ランドの方には何度も行ったことがあるので、知っている固有名詞を出して説明してみたものの、どちらにしても行ったことのない紗綾樺さんには意味が分からないようだった。
うーん、どうやって説明したらいいんだろう。やっぱり、勝手の分かるランドの方にすれば良かったかな。案内する自分が良くわからないところなんて、良くなかったかも知れない。でも、初めて行く相手が紗綾樺さんって言うのが嬉しくて、紗綾樺さんの言葉に従ってしまったけれど・・・・・・。
僕は不安な気持ちを必死に心の隅に押しやり、窓の外を見つめる紗綾樺さんの横顔を見つめた。
「ずいぶん広い場所なんですね」
紗綾樺さんは誰に言うとでもなく、ポツリと呟いた。
さすがにここまで近づくと、テーマパークの向こうにある海も見えない。
「疲れたらいつでも休めばいいんですから、無理せずに楽しみましょう」
微笑みかけてみるものの、途方に暮れたような紗綾樺さんは視線を僕の方に走らせただけで、返事をしなかった。
人生の坂を転げ落ちていくような喪失感を僕は感じた。さっきまでの、まるで恋人同士のような甘い時間は消え去り、感情表現豊かだった瞳は鎧をまとったかのように濃く深い漆黒の闇を湛えている。
モノレールを降り、入園するためのチケット購入の列に並んだ僕は、最低限、当日の入園が可能かどうかも調べずにやってきた自分の愚かさを心の中で罵りながら、紗綾樺さんを立ちっぱなしで待たせたくなかったので、チケット売り場から少し離れたところにあるベンチで紗綾樺さんに待ってもらい、当日券購入の列に並んだ。
思えば、ここはリゾートと言う名の長蛇の列の繰り返しだ。どのアトラクション一つとっても、並ばずにスイスイ乗せてくれるものはない。常に並んで、並んで、並んで、待って、待って、待って、更に並んで、延々とそれを繰り返すだけだ。
日頃から聞き込みで歩き回っている自分は足に自信があるけれど、紗綾樺さんは大丈夫だろうか? 歩きやすい、立っていても足が痛くない靴を履いてきただろうか?
そんなことを考えながら、ふと隣の列を見ると、ディズニーのキャラクターになりきったコスプレ集団が並んでいた。
なんだこれ?
思わず似合わないミッキーと似合いすぎのプーがドナルドダックの肩を叩いている姿に眩暈を覚えた。
そうだ、そういえば月末の取り締まり強化で、うちの署にも人員の貸出依頼が来てたな。
僕は年々、傍若無人な若者の集団迷惑行為になりつつなる渋谷のスクランブル交差点を思い出した。
確か、なんかものすごい技を使った交通課のメンバーが話題になってたな・・・・・・。
「次の方、どうぞ」
ぼーっとそんなことを考えいてると、やっとの事で順番が回ってきた。
「大人二人お願いします」
☆☆☆
チケットを買いに行った宮部さんの姿は、次から次へと並んで行く人々に隠れ、既に見えなくなっている。
私は大きく息を吸うと目をつぶった。
目を開けている時はかすかにしか聞こえない木々や石たちの声がよりよく聞こえるようになる。それでも、これだけ広いと一々聞いて回るのも大変な時間と労力がかかってしまう。
私は決心すると、宮部さんが帰ってこないことを祈りながら、心の扉をゆっくりと開いた。
『お願い、誰か助けて。男の子を探しているの』
何度か呼びかけると、答えを返すものがあった。
『男の子など、数えきれないほどいる』
『まって、この子を探しているの、誰か、覚えていない?』
私は必死に問いかける。
『半妖が、なぜ子供を探す? 贄か?』
この問いは、この質問にはお約束のようだ。
『そうよ。私の贄を人間が隠しているの。私は、私の物を取り戻したいだけなのよ』
いつもより強い調子で言葉が走る。
瞬間、まるで私に尻尾が生えたような不思議な感覚に襲われ、それと同時にあたりの物が恐れ戦き、ひれ伏すのを感じた。
意識の中だけのはずなのに、尻尾が揺れ動くのを感じる。
『探して教えよ!』
次に出た言葉は、まるで私の言葉ではなかった。
それと同時に、あたりの気配が一気に静まった。
何だろう、今の不思議な感覚。もしかして、狐憑きとか半妖とか言われているうちに、気持ちがそれを受け入れてしまったのかしら? あの尻尾、ふわふわして、ふさふさして、なんかシベリアンハスキーみたいだった。
私は唯一の家族写真に写っている、あのこの事を思い描いた。それでも、名前は思い出せない。でも私にとってとても大切な存在なんだと分かる。お兄ちゃんにとっては、お隣の家が飼っていた大型犬かもしれないけれど、私にとっては、特別な意味を持つ存在。そう、もしかしたら、あのこの名前を思い出すことが出来たら、私の失われた記憶が戻るかもしれない。
宮部さんの気配が近づいてくるのを感じ、私は目を開けると、彼の方を振り向いた。
☆☆☆
何とか入場制限にも引っかからず、無事に二人分の入場券をゲットした僕は満面の笑みを浮かべて紗綾樺さんに早足で歩み寄った。
気持ち的には、走り寄って抱きしめたかったが、友達の身ではそうはいかない。しかも、何か恐ろしい失態を犯してしまったのか、あれほど楽しそうに感情豊かだった紗綾樺さんの顔からは、感情が消えてしまっている。
もしかしたら、宗嗣さんが心配していたのは、この事なのかもしれない。というか、この事も含んでいたのかもしれない。
親しくなったからわかるけれど、紗綾樺さんには明らかに異なる幾つかの面がある。実際、最初に会った時だって、僕の前のお客さんの時には、まるで感情のない神秘的なというか、業務的な表情で感情のかけらもなかった。ところが、僕の占いの時には感情表現豊かで、僕の嘘を不愉快そうにバリバリと音を立てるようにはぎ取って占ってくれた。そして、再会した時も、紗綾樺さんは感情表現豊かだった。でも、宗嗣さんの前では、気だるそうな猫のような大人しさで・・・・・・。力を使っている時の紗綾樺さんは、強い意志に突き動かされているというか、まるで何かに憑かれているような、そんな雰囲気だった。
それからいうと、今の紗綾樺さんは・・・・・・。あれ? 今の紗綾樺さん、お仕事モードで前のお客さんを占っていた時に似てないか? ってことは、もしかして、これはデートではなく、崇君の捜査? デートだって、浮かれてたのは、僕だけ? ええええええっ? だって、さっきまでの紗綾樺さんは、本当に楽しそうだったのに!
そこまで考えると、手に持っていたチケットが酷く忌まわしいものに思えてきた。
「お待たせしました」
僕の気配を察して振り向いた紗綾樺さんに言うと、僕は紗綾樺さんの隣に腰を下ろした。
立ち上がろうとしていた紗綾樺さんは、意外そうに僕の顔を見つめた。
「何かあったんですか?」
問いかける紗綾樺さんの目を僕はじっと見つめ返した。
「紗綾樺さん、どうして今日のデートの目的地をここにしたんですか?」
警察官のくせに、鈍感でバカな男だと思われても仕方がないけれど、これだけは入園する前にはっきりさせておきたい。
僕の問いに、紗綾樺さんの瞳が揺らいだ。
「宮部さんが、どこでも好きな場所に連れて行ってくれるって言ったんじゃないですか」
紗綾樺さんの返事は模範解答だ。
「他にもいろいろありますよね。二人で楽しめる場所なら。紗綾樺さんが行ったことのない場所も。それこそ、大阪のテーマパークだって、長崎のテーマパークだって、どこだって紗綾樺さんが望めば、僕は連れて行ってあげたい。なのに、どうしてここだったんですか?」
僕の中で、僕の事よりも紗綾樺さんの心を閉めて居ると思われる崇君事件にバカみたいな嫉妬心のような物すら湧いてくる。それと同時に、紗綾樺さんは僕になんて何の興味もないけれど、崇君を探したいから僕の事を好きなふりをして、友達になっているのではないかなんて、バカげた考えまで浮かんでくる。
もうこうなると、頭の中は紗綾樺さんに丸見えだってこともどうだってよくなってくるというか、読んでくれる方が嬉しいかもしれない。やっぱり、男としては、こんな女々しい事を言葉にして問いかけるなんて情けなさ過ぎる。
「大阪や長崎にもディズニーリゾートってあったんですか」
落胆したような紗綾樺さんの言葉に、僕は論点が完全にズレていることを思い知らされた。
「違います。大阪はユニバーサルスタジオ、長崎はハウステンボスです! ディズニーリゾートがあるのは、ここの他はアメリカです!」
僕のアメリカという言葉に、紗綾樺さんは驚きを隠せないようだった。もう、ここまでくれば、言葉で聞く必要はない。明らかに、紗綾樺さんは捜査のためにここに来たんで、僕とデートを楽しむためじゃない。
そう思うと、デートに浮かれていた自分自身に激しい怒りさえ湧いてくる。
「アメリカには、未成年が渡航するには両親からのパスポートの代理申請が必要です。誰かに成りすまして渡航することもパスポートを取得することもできません。つまり、崇君が来たとしたら、ここ以外のどこでもありません」
言ってしまった瞬間、紗綾樺さんの表情がさらに曇っていった。
やっぱり、捜査で、デートじゃなかったんだ!
落胆と怒りと、自分のバカさ加減に反吐がでそうだった。
よく考えて見れば当然のことだ。紗綾樺さんのように美人で、素敵な女性が、僕みたいな没個性的な取り柄のない、すぐに取り換えがきくような、どこにでもいる公務員と恋人、もとい、交際してくれるはずがなかったんだ!
「違います」
紗綾樺さんが何か言ったようだったけれど、怒りと悲しみがごちゃまぜになって冷静さを欠いた僕の耳には届かなかった。
そればかりか、自分で捜査協力を依頼したくせに、崇君の捜査のために利用されたなんて、おこがましいほどの被害妄想まで湧き上がってくる始末だ。
「宮部さん、違います!」
さっきまでとは違う、刺すような、それでいて悲鳴にも聞こえる紗綾樺さんの声が僕の耳に届いた。
「ちがうって、何が違うんですか!」
傍から見たら、幸せな人々の溢れるリゾートの玄関先で声を荒立てる男なんて、よほどのバカか、間抜けにしか見えないはずだ。プラス、美しい紗綾樺さんと、凡人の僕じゃあ、突然の別れ話を切り出されてキレているドジな男ぐらいにしか見えない。
「紗綾樺さんは、僕の事なんてどうでもよくて、崇君の事が大切なんでしょう!」
ああ、馬鹿だ。ここで崇君の名前なんて出したら、完全に泥沼三角関係だ・・・・・・。
「それは、私じゃなく、宮部さんの方でしょう」
ちょっと待ってくれ紗綾樺さん。これじゃあ、紗綾樺さんの二股の相手と僕が男同士でって事になるじゃないですか!
「そんな事あるわけないじゃないですか! 僕は、紗綾樺さんが一番大切に決まってるでしょう。だから、だから・・・・・・」
だから、紗綾樺さんに負担をかけたくなくて、これ以上紗綾樺さんに捜査の協力を頼みたくないって思っているのに。
「そんなの余計な心配です」
明らかに僕の心を読んだ紗綾樺さんが言い切った。
「余計な心配って、大好きな人の事を心配するのの何がいけないんですか?」
何がいけないと言い切りたかったが、自分に自信がないから、ついつい疑問形になってしまった。
「宮部さんが心配するべきなのは、私の事ではなくて、崇君の事です。私なんて、どうだっていいんです」
感情を含まない紗綾樺さんの声が冷たく僕の心に響き、僕は手の中のチケットがぐしゃりと折れるのを感じた。
「それを言うなら、僕にとっては崇君の事の方がどうだっていい。僕にとって、崇君の事は、毎日発生する沢山の事件の一つに過ぎないんです。実際、捜査は県警主導で行われているし、僕は捜査協力から外されてしまったから、もう崇君の事件そのものが僕にはもう関係ない。でも、紗綾樺さんの健康や、紗綾樺さんの事は僕にとって何よりも大切です。例え、紗綾樺さんから見たらただの友達の一人かも知れないですけど、僕にとって紗綾樺さんは一人しかいない大切な女性です。崇君となんて、比べようもありません」
渾身の告白だった。
たぶん、僕の人生で、ここまで情熱的に何度も告白を繰り返す相手は二度と現れないだろうと、確信すら持てる。
それなのに、紗綾樺さんは驚いたようすもなく、どちらかと言えば沈んで見える。
ああ、やっぱり迷惑だったか。ちょっと、頻繁に告白しすぎたかもしれない。超がつくほどウザい男だと思われたかもしれない。
「そんなこと、あるんですか?」
紗綾樺さんの問いに、僕の頭はさらに混乱する。この問いは、どこにかかってるんだ? 心が読める紗綾樺さんだからこそ、僕は返答に詰まった。
この問いの形からすると、超ウザい男の線は違うだろう。だとすると、告白を繰り返す相手? えーと、迷惑だったかなってのも違うはずだ。とすると、紗綾樺さんが一番大切だって部分か? それとも、もしかして、崇君の事なんてどうでもいいって言った事か? わからない、せめて、もう少しヒントが欲しい。じゃないと、今度こそ取り返しがつかない地雷を踏んでしまう気がする。
「地雷、日本にも埋まってるんですか?」
「えっ! 地雷? 日本にあるのは魚雷くらいじゃないですか?」
訳の分からない会話をした瞬間、再び思考が取り留めもなく漏れていることを思い知る。
「地雷も、魚雷もどうでもいいんです。僕が知りたいのは、紗綾樺さんの質問がどういう意味かってことで・・・・・・」
完全に、人の話を聞かない男になってる気がする。
「崇君の命より、私の健康の方が心配だなんて、そんなこと、あり得るんですか?」
最悪のパターンの質問だ。ここで、『はいそうです』と答えたら、非道な男になるし、『崇君の命の方が大切だ』と答えたら、いままでの自分の発言が全部嘘になる。でも、ここで紗綾樺さんの健康の方が大事だと言わなければ、僕はきっと一生後悔する。
「僕には、紗綾樺さんの健康の方が大切です。だからと言って、崇君の命が大切ではないという意味ではありません。でも、崇君と紗綾樺さんが崖から落ちかけていたとしたら、僕は紗綾樺さんを助けます。確かに、崇君のお母さんにとっては、崇君はかけがえのないものでしょうけれど、僕と宗嗣さんにとって、紗綾樺さんは同じくかけがえのないものだからです。だから、綺麗ごとで人の命の重さに重いも軽いもないなんて言いません。僕個人にとっては、紗綾樺さんの命の方が崇君の命よりも、はるかに大切です。確かに、警察官としては、優先するのは女性と子供。どちらか一方だったら、体力のない子供を助けて、それから女性になるでしょう。でも、僕の目の前で紗綾樺さんと崇君が落ちかけていたら、紗綾樺さんを助けて、それから崇君です。もし、それで崇君を助けられなかったとしても、僕は紗綾樺さんを助けられたことを幸運だと思います。もちろん、崇君を見捨てたと非難されることになっても、その非難は甘んじて受け入れます。それで、警察をやめないといけなくなったとしても後悔はしない。崇君の家族に申し訳ないと謝ることはできても、紗綾樺さんを助けられなかったら、宗嗣さんに合わせる顔がありません」
一気に言うと、僕は紗綾樺さんの返事を待った。
紗綾樺さんは呆れているだろうか? それとも、困っている?
しばらくの沈黙の後、逸らされていた視線が再び合わされた。
「宮部さんは、私の事が気持ち悪くないんですか?」
えっ? 質問の意味が分からず、一瞬、答えに窮する。
「私みたいに、狐憑きとか、半妖とか言われて、宮部さんの考えていることがわかるような力があるのに。宮部さんは気持ち悪くないんですか?」
ゴール手前で意気揚々とサイコロを振ったら、止まった目が『ふりだしに戻る』だったような、足元が音を立てて崩れていくような錯覚に襲われる。
「宗嗣さんの前で約束したじゃないですか。僕は、紗綾樺さんの力を信じていて、その力ごと紗綾樺さんを受け入れたいって」
「それは、捜査協力するためのお芝居で、私が兄には交際していることにしてくださいって頼んだからでしょう」
「確かに、紗綾樺さんがそう言ってくれなければ、僕が宗嗣さんに交際の許しを貰うまで、もっと何ヶ月もかかっていたと思います。でも、それは時期の問題で、僕の気持ちに変わりはありません」
「どうして、私を好きになれるんですか? 私の事、ほとんど何も知らないのに」
「一目惚れです。たぶん、最初に占ってもらった日、紗綾樺さんが受付最後の札を渡しに姿を現したときから、僕は紗綾樺さんが好きだったんです」
我ながら、少し説得力に欠けると思いながらも、あの時、紗綾樺さんを可愛いと思ったことは嘘ではない。
「本当に私の事、怖いとか気持ち悪いとか、気味悪いとか思わないんですか?」
きっと、紗綾樺さんは大勢の人を助けたのに、沢山の酷い言葉を浴びせかけられてきたんだろう。好きだとか、大切だとか、そんな言葉を並べられたくらいでは、信じられないくらいに。
「思いません。たまたま僕が好きになった紗綾樺さんに、特別な力が備わっているだけです。それは、特別なもので、僕にとっては忌み嫌うようなものではないです」
断言できる。紗綾樺さんが持っている力は、紗綾樺さんに与えられた神様からの贈り物で、決して禍々しいものではない。もし、この力が禍々しいものだとしたら、紗綾樺さんも宗嗣さんも、力を隠そうとはせず、もっとお金儲けや犯罪まがいの事に利用しているはずだ。こんな風に、力を畏れたりしていないはず。
「宮部さんが、私の事を本当に好きになってくれるって言うんですか?」
紗綾樺さん、その質問は間違いです。僕は、何度も言ってますけど、もう紗綾樺さんが好きなんです。
僕は心の中で叫んだ。
「好きです。これから好きになるんじゃなくて、僕は紗綾樺さんが好きなんです」
なんで、ここで中学生みたいに『好き』とか言ってるんだ。ここは、大人の男らしく、どーんと『愛してる』宣言しちゃえばいいのに。愛の押し売りで嫌われるのが怖くて、そこまでは踏み出せない自分がいる。
「もし、私が崇君を見つけられなくても、何の手掛かりも見つけられなくても、好きでいてくれますか?」
なぜだ! 僕は頭を抱えたくなる。もういい加減、崇君の事は忘れてくれと叫びたい。
「当然です。逆に紗綾樺さんが、僕が崇君を助けられなかったら嫌いになると言ったら困りますが、紗綾樺さんが崇君を見つけられなくても、それは仕方がない事です。第一、崇君を見つけるのは警察の仕事です」
僕はきっぱりと言い切った。
「宮部さんは、崇君を探すために私をデートに誘ったんじゃないんですか?」
「違います。僕は、紗綾樺さんと友達以上になりたいから、デートに誘ったんです。だって、友達が一緒に出掛けるのは、デートとは言わないですから」
僕の言葉に、感情の表れない紗綾樺さんの頬が少し染まる。
「じゃあ、今日は、デートなんですね」
紗綾樺さんは俯き加減で、きもち声も少し恥ずかしそうな声になっている。
「紗綾樺さんが、僕が相手じゃ嫌だって言うのでなければ、デートです」
ここで、嫌だと言われたって、紗綾樺さんを諦めるつもりはないけれど、デートでなくても今日の所は一緒に遊びに来たんでもかまわない。
「そのチケット、まだ使えるんですか?」
紗綾樺さんの言葉に、僕はほとんど握りつぶしてしまったワンデーパスに目をやる。
「使えますよ。大丈夫です」
ここでは見せるだけだから、改札機に通すわけではない・・・・・・。あれ、入り口は改札機だったっけ?
「じゃあ、デートしたいです」
紗綾樺さんは消え入りそうな声で言った。
「じゃあ、行きましょうか」
僕は言うと、紗綾樺さんに手を差し出した。
紗綾樺さんは僕の手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、こっちです」
僕は紗綾樺さんの先に立ち、入園ゲートを目指して歩き出した。
☆☆☆
頭の中を色々な人の記憶が閃いては消えていく。
楽しい記憶、愛しい人との思い出。笑顔と幸せな微笑み。
何も考えず、あんな風に笑う事が出来たら。もし、私があんな風に笑えるようになったら、お兄ちゃんは喜ぶんだろうか? 昔の私は、あんな風に笑っていたのかしら?
宮部さんの言う、『友達以上』という意味はよくわからない。たぶん、こうしてデートして、一緒に買い物に出かけ、一緒に食事をして、二人で優しく微笑みあう、きっとそんな仲になる事なんじゃないかと、想像することはできる。でも、どうしてみんなはあんなに幸せそうに微笑んで一緒にいられるんだろう? それは、きっと、相手に心を読まれる不安がないからだと私は思ってきた。でも、宮部さんは、彼は私とそういう関係になれると思っているのだとしたら、もしかしたら、私もいつかそうなれるのかもしれない。
宮部さんとデートしたら、私も幸せな笑みを浮かべられるようになるの?
「じゃあ、今日は、デートなんですね」
私は確認するように問いかけた。
「紗綾樺さんが、僕が相手じゃ嫌だって言うのでなければ、デートです」
宮部さんの想いはまっすぐに私に向かっている。でも、どうして彼がそんなにまっすぐな想いを私に向けてくれるのかわからない。もし、彼が私に事件の解決を求めているのでないとしたら、彼は私に何を求めているんだろう?
鉛の箱の中に収められた彼の本当の心を渡しに読むことはできない。
いや、正確に言えば、読みたいとは思わない。たぶん、私が本気になれは、彼の鉛の箱の中に隠された本当の気持ちだって、私は無理やりに読むことができるはずだ。たぶん、さっき、この周辺のすべての物に崇君を探すように命じたような、すさまじい勢いを発する力の塊を使いこなせば。でも、そんなことしたくない。だって、そんな事をしたら、きっと宮部さんは彼の手の中で握りつぶされたチケットのようにぐちゃぐちゃになってしまうから。
「そのチケット、まだ使えるんですか?」
私はくしゃくしゃになっているチケットを心配げに見つめた。
宮部さんは大丈夫だというと、私に手を差し出した。それは、まるで救いの手を差し伸べるように、私に私を取り戻させるかのように。
私は彼の手を取ると、彼に導かれるまま歩き始めた。
私の心配通り、くしゃくしゃになってしまったチケットは入園の際になかなか機械に通らず、係の人は悪戦苦闘しながら私たちのチケットの処理をして私たちを中に入れてくれた。
そこは、まるでお伽の世界だった。
色とりどりの建築物に、物語から抜け出てきたキャラクター達が溢れかえっていた。
私が生きて暮らしてきた街とは違う空気に満ちた空間は、まるで魔法の世界だった。
立ち止まり、目を輝かせて辺りを見回す私に宮部さんが微笑みかける。その笑顔は、私の知っている幸せな人々の微笑みだった。
「さあ、参りましょうか、お姫様」
地味な紺のスーツを着ている宮部さんが、まるで騎士のように見える。
もともと長身でいて、スラリと背筋を伸ばして立っている姿は、さすがにそれなりの訓練を積んで来た武術に長けた男性であることを感じさせるものを持っていたけれど、入園ゲートを通るために一度はなしていたいた手を繋ぐため、振り向いて私の方に手を差し出す宮部さんは、この世界の魔法を身にまとった騎士だった。
特に意識したつもりはないのに、『姫』という言葉に恥ずかしさで頬が染まっていくのを感じた。
「宮部さん、は、はずかしいです」
小声で言うと、宮部さんは少し顔を曇らせた。
「今日はデートなんですから、紗綾樺さんには、名前で呼んでもらいたいです」
さらりと言ってのける宮部さんに、私はさらに顔が赤くなるのを感じた。
私の記憶にある限り、誰かを名前で呼んだことなんてない。
「尚生です」
ダメ押しのように言われ、私は消え入りそうな声で、再び言った。
「な、なお、き、さん。はずかしいです」
これでは、名前で呼ぶのが恥ずかしいのか、姫と呼ばれたのが恥ずかしかったのかわからない。
「そんなに恥ずかしがらないでくださいよ。僕は、ずっと紗綾樺さんって呼ばせてもらってるんですから」
こぼれそうな笑みを浮かべ、彼は私の手を取った。
「今日だけは、紗綾樺さんは僕だけのお姫様です」
『顔から火が出る』というのが、どういうことなのかを初体験しながら、私は彼に手を引かれるまま魔法の国へと歩を進めて行った。
メインストリートを歩いていると、色々な形をした風船を売っている可愛い売り子の男女が両サイドに並び、子供たちが風船をねだっている姿が可愛らしかった。
「ここはショッピングモールも兼ねているので、お土産から色々なものを売ってるんですよ」
彼はゲートで貰ったマップを片手に案内してくれる。
男の子が小さな妹の手を引いて風船売りの所へ走っていく姿が、まるで自分とお兄ちゃんの姿のように見えた。
記憶を失う前の私とお兄ちゃんは、あんな風に楽しそうで、幸せだったのかもしれない。記憶を取り戻したら、あんな風にお兄ちゃんも私に笑いかけてくれるようになるのかな?
「風船が欲しいですか?」
風船というよりも、風船に群がる親子連れから目を離せずにいる私に、彼が問いかけてきた。
「あ、そんな子供みたいなこと・・・・・・」
肯定も否定もできない私に、彼が『帰りにしましょうね』と優しく言った。
「さあ、行きましょう」
目的地を決めたらしい彼が私の手を引いてどんどん進んでいく。
アーケードを抜けると、そこには驚くような世界が広がっていた。
運河に、それを見下ろす大きな火山。運河は前に誰かの記憶で見たことのあるイタリアの街のようで、ゴンドラが浮かんでいる。
「あれは、ベニスに似せてるんですよ」
まるで私の心を読んだように彼が答える。
ああ、そうだ。ベニスって言うんだった。
「あの、火山は大丈夫なんですか? なんか、煙も出てますけど・・・・・・」
魔法にかかってしまった私には、どこからが現実かもわからない。
この世界に足を踏み入れてから、まるで地に足がついていないような、体が軽くなったような気もする。
「大丈夫ですよ。あ、ちょっと待っててくださいね」
彼は言うと、私の手をはなし、近くの屋台のようなお店に走っていく。そして、何かを買い求めるとすぐに戻ってきた。
「これ、チケットケースです」
一生懸命にチケットのシワをのばすと、彼は一枚をケースに滑り込ませ、私の首にかけてくれた。
「ここでは、チケットを見せるだけなので、これを首から下げて入れは、チケットの出し入れの手間が省けますから」
そう言って自分の首にかけたケースは、私の物とお揃いだった。
黄色いフレームにおどけたような熊がはちみつの壺を抱えている。とても、成人した男女が首からかけるような物には見えない。
「あの、これ、子供用じゃ・・・・・・」
思わず問いかけると、彼は近くを歩いているカップルを指さした。
同じ露店のようなお店で購入したらしい二人は、女性が私と同じものをぶら下げ、男性の方は黒いネズミが派手なコスチュームを着ているブルーのフレームの物を首から下げていた。
「ここにいる間は、大人も子供もないんですよ」
そう言って彼が次に指さした先には、さっきの風船売りから買い求めたらしい二つの風船をポシェットに結び付けている女性とマップを広げながら一生懸命に話しかけている男性のカップルだった。
「ここは、魔法の国なんですか?」
それ以外の言葉は私には見つけられない。例え、彼に大笑いされたとしても。
「そうです。ここは、魔法の国です。現実から切り離された、特別な世界です」
煌めくすべての物が美しく、彩られるもの全てが幻想的で、私は目が回りそうなくらい何度も何度も辺りを見回した。
誰かの記憶を通してみるのとは違う、極彩色の世界。
走り回る小人たち。
踊るお姫様と王子様。
私は魂を奪われてしまったようにその場を動けなくなった。
この世界には、こんなに沢山の色が溢れていたのだろうか?
この世界には、こんなに沢山の笑顔が溢れていたのだろうか?
私の知っている世界は・・・・・・。
次の瞬間、茶色く濁り、どす黒い水の壁が私を飲み込んでいく。
しかし、それは私の頭の中で再現された物で、実際には存在しないものだった。
そうだ、あの日からだ。
私は突然、気が付いた。
あの日から、私にはどんな色彩も、どんな笑顔も、全ての物があの茶色く濁り、どす黒い意志を持ったかのような水の壁を通してしか見えていなかった。どんな音楽も、どんな笑い声も、すべてあの水の壁に打ち消され、私の心には届いていなかった。
もっと見たい。この世界にあふれる色を・・・・・・。
もっと聞きたい。この世界にあふれる喜びの音を・・・・・・。
『それがお前の望みならば、断ち切るがいい』
何度も夢の中で耳にしたことのある声が告げる。
『今のお前には、その力がある』
断ち切る? あの水のような壁を?
次の瞬間、私は自分の手の中に燃え立つような炎の剣が握られている事に気付いた。
『見せてみるがいい、お前の望みを・・・・・・』
声に導かれるまま、私は剣を振り上げる。
私を阻むように水の壁が渦を速めじりじりと私の傍へと寄ってくる。
『成し遂げるがいい』
声に従い、私は無心で剣を振り下ろす。
スッパリと断ち切られた水の壁は意志を失くしたかのように私の足元に泡となって消えていった。
『見事であった』
称えるような、認めるような声と共に手の中の剣が消える。
もはや私と世界を隔てる壁は何もない。
私は胸の前で、両手で空を掴む。
私は生きている。私の世界には、綺麗な色が溢れ、喜びの音が満ちている。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
立ち止まったまま動こうとしない私に、彼が私の顔を覗き込みながら問いかけてくる。
「尚生さん・・・・・・」
私が彼の名を呼ぶと、彼は驚いたように、そして恥ずかしそうに息を飲んだ。
「帰りますか? もし、人が多すぎるのなら・・・・・・」
彼の私への想いが流れ込んでくる。
どうして、私は気が付かなかったんだろう。こんなにも、彼は私の事だけを考え、私の事だけを見つめてくれているのに。
「大丈夫です。今日は、尚生さんとのデートですから」
言葉はすらすらと流れるように出てきた。
「じゃあ、行きましょう」
尚生さんは、私の手を取ると再び歩き始めた。
それから、私たちは長い列に並び、あっという間に終わってしまう夢の時間を体験した。
☆☆☆
突然、躊躇うことなく『尚生さん』と呼ばれた僕は、思わず息を飲んでしまった。
ゲートの外で喧嘩ではないものの、言い争いを招いた冷たく全てを隔絶したような紗綾樺さんと同じ人とは思えないくらい、紗綾樺さんは輝いていた。
あの力を使って、自分に鞭打って立ち上がってる時の人を寄せ付けない苦しみに縛られた紗綾樺さんとも違う。来る途中、電車の中で見せた親しげでありながら、見えない壁で距離を保っている紗綾樺さんとも違った。
たぶん、僕が初めて出会う紗綾樺さんだ。僕が知っているどんな紗綾樺さんよりも美しく、純粋で、僕の名を呼んだあの一言は、まるで陰陽師で言う呪のようで、名を呼ばれた瞬間から僕の心は完全に紗綾樺さんの虜になってしまった。
もし、紗綾樺さんに出会ったのが運命じゃなかったら、僕はきっとすべての神様不信に陥る自信がある。紗綾樺さんと僕の出会いは必然だったと信じたい。紗綾樺さんに僕だけを見つめて欲しい。
紗綾樺さんに、愛されたい。
あまりに直球過ぎる欲望が沸き起こり、僕は慌てて欲望をかき消して隣で興味深げに辺りを見回す紗綾樺さんの事を見つめた。
どこもかしこも長い列が続き、僕は比較的列の短い蒸気船の列に並んだ。
順番が来て船に乗り込んだ僕たちは、他の恋人たちと同じように並んで腰を下ろした。
蒸気船の旅はトランジットスチーマーラインと名付けられているだけあって園内をぐるりと回る設計だ。ベネチア風の岸を離れると、アメリカの開拓時代に僕たちはタイムスリップし、そして、船はジャングルの奥地へと進んでいく。その景色の移り変わる様を紗綾樺さんは大きな瞳を輝かせて見つめていた。
「尚生さん、あれ・・・・・・」
背の高い木々の向こうに巨大な石造りのピラミッドのようなものが見え始め、紗綾樺さんが僕の名を呼んだ。
「あれはマヤ遺跡のピラミッドですよ」
考古学好きも、こういう時は少し役つ。
「素敵・・・・・・」
今まででは考えられないくらい、紗綾樺さんの感情表現が豊かで、僕は周りの景色なんて目に入らず、ただただ輝くような紗綾樺さんの事だけを見つめてしまった。
本当は、一番遠いロストリバーデルタの船着き場で降りてアトラクションに並ぶ予定が、紗綾樺さんを見つめているうちに船はアラビアを通り越し、一周してゲート傍のベネチアの船着き場まで戻ってしまった。
「ここ、最初に乗った場所ですよね?」
「はい。紗綾樺さんが楽しそうなので、一周しちゃいました。ここで降りて、歩きましょう」
短い会話を交わし、僕は紗綾樺さんの手を取って陸に上がらせた。
もちろん、前後で船の操縦をしているように見せていた男性も手を貸してくれるのだが、僕は紗綾樺さんの手を誰にもとられたくなかったので、しっかりと紗綾樺さんをガードして誰にも紗綾樺さんの手は取らせなかった。
ボートから降りた紗綾樺さんは、うっとりとするような瞳でベネチアン・ゴンドラを見つめていた。
「あれは、もう少しロマンチックな時間になってからにしましょう」
僕が提案すると、紗綾樺さんは『はい』と答えてくれた。
それから、紗綾樺さんと僕は込み合う園内を人を避けるようにして歩き、できるだけ列の短いアトラクションを見つけては並んだ。
平日とは言え、さすがにハロウィーンの特設イベントを行っているだけあってカップルの比率は高く、各アトラクションの待ち時間が想像を絶するくらい長かった。
「あの着ぐるみみたいな人たちは、みんなスタッフの方なんですか?」
ディズニーキャラクターになりきっている、いやなりきっているつもりの人も多いんだけど、敢えてそこには触れず、僕は簡単に答えることにした。
「あの人たちは、ハロウィーンの仮装ですよ。手作りから、ショップで購入したコスチュームまで、いろんなグレードの仮装をしている人がいるでしょう。
足を止めて興味深げにいびつな形をした熊のプーさんを見つめている紗綾樺さんを待ちながら、僕は大きな石を積み重ねて作られた壁によりかかった。そして、ふと見上げると、そこには、いま海から上がってきましたという雰囲気のマーメイドが座って微笑んでいた。
白い素肌に貝殻で作られたビキニトップ、腰から下の滑らかな曲線は蠱惑的なピンク色の魚の尾になっている。
「紗綾樺さん、人魚ですよ」
あまりのリアルさに、僕は紗綾樺さんに声をかけた。
「すごいですね。最近は、こんなリアルな人形が作れるんですね」
僕が言っているそばから、マーメイドはその細い手を子供たちに向けて振っている。どう見ても、生きている人間としか思えないスムーズな動きに僕が目を奪われていると、紗綾樺さんが珍しく僕の腕を掴んで引っ張った。
「どうしたんですか?」
まさか、露出度の高いマーメイドに僕が見とれてたから、やきもちとか?
思わず、願望が頭をもたげる。
「尚生さん、あれ、人形じゃないですよ」
「えっ、そんな、まさか!」
この寒空の下、上半身ほとんど裸で冷たい岩の上に座っていられるはずがない。しかも、あんな笑顔で手を振って・・・・・・。
「本当です。あの人、尚生さんの事、早くいなくならないかなって思ってます」
「えええっ!」
思わず大きな声を出すと、マーメイドが不機嫌そうな顔をして僕の事を睨みつけた。
確かに、人形なら睨みつけてくるはずがないし、ましてやクルーなら、お客を睨むはずがない。だとしたら、この完璧なマーメイドは、素人さんのコスプレという事になる。
マーメイドに睨みつけられたくらいで臆しては警察官の恥とばかりに、怯まずに僕が見つめ続けると、マーメイドは不満そうに背中に隠していたらしいペットボトルを取り出し、僕に見せつけるように飲み始めた。それは、『大人の男には用はない、とっとと失せろ、このスケベ男』と言っているような仕草だった。
「行きましょう、尚生さん」
紗綾樺さんは恥ずかしそうに言うと、ほとんど硬直してしまっている僕を引きずるようにして進んでいった。そして、一番近くの列の最後尾に並んだ。
ああ、まずい。きっと、紗綾樺さんは僕が露出の高い女性に弱い男だと思ってる・・・・・・。
考えるだけで、僕自身、顔から火が噴出しそうなほど恥ずかしかった。
見ず知らずの相手とは言え、ほとんど裸同然の女性を造り物と信じ切って、ジロジロと眺めてしまった。もし、紗綾樺さんと一緒じゃなかったら、あまりの出来のすばらしさに手を伸ばして触っていたかもしれない。逆に、本物の人間だと分かった今、どうやってあの貝殻で作ったようなブラトップはピッタリと胸に張り付いてるんだろう?とか、あの貝殻は本物なんだろうか?とか、どうして恥ずかしくもなく、あんな不特定多数に見られる場所であんな恥じらいのない姿を晒せるんだろうとか、変な男に絡まれたらどうするつもりなんだろうとか、どうでもいい事ばかりが頭を巡っている。
つまり、紗綾樺さんから見たら、僕は好き物の変態男! なんてこった!
「さ、紗綾樺さん、信じてください。僕の名誉に誓って、本当に、僕はあのマーメイドが造り物だって信じてたんです」
言い訳がましいのはわかっていたが、それでも、紗綾樺さんに変態だと思われ続けるのは、今後の友情に大きな影を落とすことになる。ましてや、帰宅後に紗綾樺さんが宗嗣さんに、僕がほとんど裸の女性をジロジロ見ていたなんて話したら、宗嗣さんの鉄拳が飛んできて、『以後敷居をまたぐな』とか、紗綾樺さんの半径二メートル以内への接近禁止とか、考えるだけでも目の前が真っ暗になるような不幸に見舞われるのは明らかだ。
「お願いです、紗綾樺さん、信じてください」
紗綾樺さんの手を握って訴える僕を見る紗綾樺さんの目が冷たく感じる。気のせいだろうか・・・・・・。
「勘違いしていたことは信じてます。でも、尚生さんは、ああいうグラマーな女性が好みなんですよね」
信じているが、もっとまずいところで疑われている気がする。
あれ、グラマーだったか? 確か、ディズニーの人魚姫バリに平らな胸だった気がしたんだけど・・・・・・。
そこまで考えた瞬間、『やっぱり、サイズとか見てたんですね』という紗綾樺さんの呟きが聞こえた。
は、はめられた? 紗綾樺さん、ものすごく平然とカマかけた?
「ちがいます。ちがいます。そっくりによくできてるなって思ったんです。もし、彼女がグラマーだったら、違和感を感じて、逆に人間だって気付きました!」
僕の必死の訴えに、前に並んでいるカップルのくすくす笑いが聞こえてくる。その前のカップルは、女性に男性が肘鉄を食らっている。どうやら、ここの列は、デート中に遭遇してはいけない、超危険なトラップに遭遇したカップルの流れつく場所らしい。
「男の人って、そういうものですよね」
諦めたような紗綾樺さんの言葉に、僕は賛同していいのか、否定するべきなのか、躊躇したまま言葉を飲み込み続けたが、唯一、肯定も否定もしなくていい方法を思いついた。
「それって、宗嗣さんも同じってことですか?」
もし、宗嗣さんも同じなら、紗綾樺さんに幻滅されなくて済むかもしれないという、微かな望みをかけての事だった。
「お兄ちゃんの事は、わかりません」
それは、とてもシンプルな答えだった。
「えっ、知らないって・・・・・・」
「お兄ちゃんの考えていることは読めないんです」
衝撃的な答えだった。紗綾樺さんの能力をしっかりと理解している宗嗣さんには、紗綾樺さんに心を読まれた経験がない? 嘘だ・・・・・・。ありえない!
「昔は読めてました。でも、最近は読めません。お兄ちゃん、鉛で出来た金庫を持ってるんです」
「鉛の中は見えないんですか?」
「・・・・・・はい」
まるでスーパーマンみたいだ。って、スーパーマンだと、男だよな。じゃあ、スーパーマンの従妹って設定のスーパーガールもやっぱり鉛の中は見えないのか? だとしたら、紗綾樺さんはスーパーガールと同じ?
何考えてるんだ、そんなのどうだっていい事じゃないか!
「尚生さん、もういいです。尚生さんの事は信じてますから。変態だなんて、思ってませんから」
紗綾樺さんの言葉に、再び前に並んでいるカップルがくすくすと笑いだす。
笑いたければ笑え! 君たちにはわからなくても、僕と紗綾樺さんは強い絆で結ばれているんだ!
僕は、心の中で言い切った。しかし、それに対する紗綾樺さんのコメントは『そうなんですか?』という、酷くつれないものだった。
僕は、紗綾樺さんの能力を完全に信じているから、あの時、あの場所でダラダラと垂れ流しに僕が思ったことを紗綾樺さんが全て知っていることをわかっていても、紗綾樺さんの事を今までと同じ、もしかしたら、それ以上に好きでいる。
再び、垂れ流される僕の思考に、紗綾樺さんの頬が少し赤く染まった。
本当なら、ここで大きな声で叫んだってかまわない。僕は、紗綾樺さんの事が大好きだ! 紗綾樺さんを愛し続けることができると確信している。
突然、紗綾樺さんが僕の腕を掴んだ。
「尚生さん、やめてください。こんなところで叫ばれたら、恥ずかしくて・・・・・・」
「あ、ああ、そうですね。大丈夫です」
僕は返事をしながら、本当に、紗綾樺さんには何でも聞こえてるんだなと、しみじみと思った。別に嫌なわけじゃない。でも、そのうち、紗綾樺さんに呆れられて、嫌われるんじゃないかと不安になる。
「大丈夫です。尚生さんの事、私も大好きですから」
えっ! 紗綾樺さんから告白!
「東京に出て来て、初めてできたお友達ですから」
大きなハンマーで頭を叩かれたような衝撃を感じた。
そうだ。まだ、お友達から一歩も進んでいなかったんだった。もう、こうなったら、ひたすら未来の奇蹟を信じて走り続けるしかない。
身も蓋もない、ちぐはぐな会話を続けているうちに順番がやってきて、僕たちはアトラクションの中へと案内された。
それは『海底二万マイル』だった。
真っ暗な中を進んだり、二人っきりで小型潜水艇に乗って海底を探索したりする。
伝説のアトランティス大陸を探すお話なわけで、考古学や古代文明好きの僕にはいくらでも披露できるトリビアもある。それに二人の距離も近いし、二人だけの世界にもなれるし、普通のカップルには悪くはないアトラクションだし、もし、これが友達となら、ワイワイガヤガヤと盛り上がりながら、『ちょっと時間が短すぎだよな』とか言いつつ盛り上がれる。しかし、紗綾樺さんを連れてくるには無神経極まりないアトラクションだった。
いきなり頭の上から少しとはいえ水をかけられ、高波高、津波高が押し寄せて堤防が決壊しそうだとか、もう紗綾樺さんには聞かせたくない禁句の連続。挙句、海の底だ。
何も考えずに列に並んだ自分を呪ってしまう。おかけで、あっと言うくらい短いアトラクションだったはずなのに、紗綾樺さんの顔からは笑顔が消え、少し青ざめているようにも見える。
土下座ものの、痛恨のミスだ。
僕が紗綾樺さんを『海底二万マイル』に連れて行ったと紗綾樺さんの口から知れれば、やっぱり出入り良くて出入り差し止め、悪ければ交際禁止になりかねない失態だ。
あの日、僕は約束したんだから、紗綾樺さんが過去の事を思い出すような事をしないと。それなのに、海底、高波、津波。アトランティスが一夜にして沈んだ理由は、火山の噴火と天変地異的な地震に津波・・・・・・。最悪も良いところだ。
ああ、あのマーメイドの一件で動揺していたからって、入り口で『海底二万マイルにようこそ!』って笑顔で迎えられた時に気付くべきだった。
はぁ・・・・・・。
思わずため息が出てしまう。これって、やっぱり思いやりの足りない男だって紗綾樺さんも思うよな・・・・・・。
みるみる青ざめていく紗綾樺さんに、僕は慌てて紗綾樺さんの体を支えると、近くにいたギフトショップのスタッフに声をかけた。
「すいません。連れが気分が悪くなったようで、救護室はありますか?」
「あ、はい。ただいま・・・・・・」
女性の返事が終わらないうちに、紗綾樺さんは強風に吹かれた花が根元から折れてしまうように、足に力が入らなくなったようで、その場に崩れ落ちそうになった。
僕は躊躇することなく紗綾樺さんを横抱きにすると、『中央救護室は、こちらです』という女性スタッフに案内されて人々の間を潜り抜けるようにして救護室を目指した。
☆☆☆
「海底二万マイル」の中に入る前から少し、嫌な予感はしていた。きこえてくるのは、「つめたい』とか『なんで水かけるの?』、『洋服、シミにならないでしょうね? バッグだってブランドものなのよ!』というような戸惑いや怒りのこもったものばかりだったし、中には『なに、津波って~。ああ、なんか外洋につながってるとかいうゲートがバタバタして壊れそうな感じがするのはそういう事なんだ』と、これから楽しむはずのアトラクションの説明を全てしてくれる人までいる。
ある意味、力を全開にしているはずなのに、以前のように息苦しさや、聞こえすぎて苦しいという感じはない。きっと、あの太刀で断ち切った何かによって、私は前より自由に力が使えるようになったんだと思う。だから、この溢れる光や色、音、それらをはっきりと認識することができるし、どれも雑音でも不協和音でもない。
ほとんど真っ暗な小型潜水艇で見る人工的な海底は、私が観たことのない海の底をロマンチックに見せてくれた。しかし、一つ、二つと、さっき放ったあらゆる意識達が私の元へ報告に戻ってくると、全ては一転した。
次から次へと並べられる報告に、私の頭は痛み、視界は霞んでいった。
さすがに、許容量オーバーらしい。目の前が暗くなり、立っているのも辛くなってきた。
なんとか外へ出ると、太陽の光が私を暖かく包んだ。しかし、視界は明るくなることなく、私は膝に力がはいらなくなり、いつかのようにガクリと膝が折れて倒れそうになった。
しかし、私の体はふわりと浮かびあがった。でも、それ以上は意識を保つことができなかった。
☆☆☆
真っ暗な空間に体が浮いている。という事は、これは現実の世界ではないのだと私は直感した。それに、体が宙に浮いているだけでなく、さっきと同じでふさふさの尻尾が私に生えている。
「戻ってきたという事は、私の贄の行方が分かったのだな」
私の声なのに、話し方が私とは全然違う。
声に合わせるように、優雅に尻尾がふわりと優雅に揺れる。
あらゆる意識達が次から次へと報告を始める。中には、似ているけれど違う子供の情報も沢山あったが、不思議なことに私には正しい情報だけがつながっていく。
そして、頭の中に映像が再生されていく。
「崇君、次は何に乗りたい?」
優しい笑顔の女性が崇君に問いかける。
「ポップコーンを買ってきたよ」
ディズニーキャラクターの絵柄が全面に描かれたブルーのケース一杯にポップコーンが詰まった入れ物を優しそうな男性が崇君の肩から斜めにかけてあげている。
崇君は嬉しそうに、それでいながら、少し恥ずかしそうにしている。
「遠慮しなくていいんだからね」
男性は言うと、崇君の頭を撫でた。
「そうよ、お母さんの具合が良くなったら、おうちにも帰れるんだから、心配しなくていいのよ」
二人とも優しく崇君に接していて、危害を加える心配は全くないと確信が持てた。
まるで本当の親子のように二人は崇君を気遣い、いろいろな乗り物に並び、レストランで食事をし、近くのリゾートホテルの豪華な部屋に泊まっていた。
翌日はディズニーランドに行って、もう一泊。
移動は車じゃない。あの車は、崇君を迎えに行くためだけに借りたものだったんだ。
鮮やかな映像は、まるでビデオを見ているようだった。
幸せそうな夫婦に、楽しそうにほほ笑む崇君。それは、家族団欒のビデオを見ているようだった。
名前がわかれば、行き先を調べられるのに、さすがに名前まではわからない。
目覚めたら、尚生さんに調べられるか訊いてみよう。
私は考えながら、親子のような三人を見つめ続けた。
☆☆☆