有名ブランドのショップは、もっときらびやかな照明で光があふれているのかと思ったが、意外にも落ち着いた光で、まぶしさも感じなかった。明るすぎるデパートの中で、薄暗く感じるくらいだ。
「どちらの方ですか?」
私は宮部にだけ聞こえるように問いかけた。
「一番奥の女性です」
宮部は囁き返した。
最後の目撃者だという女性は、幸運にもエンゲージリングのコーナーに立っていた。
「作戦通りです。良いですね」
私が言うと、宮部は少し困ったように頭を掻いた。
いまさら怖気づいたのかと、私が視線を尖らせると、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。彼女は、自分が警察官だと知っているので、とてもこのお店の婚約指輪なんて買えないって知っています」
宮部の説明に、私は『馬鹿じゃないの!』と言いたくなったが、何とか言葉を取り繕った。
「私が見たいと言ったと言えばいいんです。それに、今日見て今日買うお客は普通いません」
私の言葉に、宮部は心の中で『そういわれてみれば、そうだよな・・・・・・』などと、考えていた。
「さあ、行きましょう」
私がもう一度声をかけると、宮部はごくりと唾を飲み込んでから、気合を入れて歩き始めた。
ゆったりとした足取りでエンゲージリングのコーナーに歩み寄ると、何気ない様子で私は値札が見えないように並べられた指輪を眺めた。
宮部の想像通り、周りに居る店員達が心の中で宮部のことを値踏みしている。
『着古したスーツに磨り減った靴。安物のバックル。量販品のワイシャツに、お世辞にもお洒落とは言えないストライプのネクタイ。どれ一つとっても、この店には似つかわしくない。実は、お金持ちのご両親が居るなら別だけど、そうでなければ、一番小さい石が限界よね』
宮部が商魂たくましいブランド店の店員の接客意欲を沸き立たせるようなお客ではないのは言うまでもない。それに、私自身、兄好みの可愛い服を着ているとはいえ、決してお金持ちに見える服装ではない。
散々宮部と私の値踏みをした後、それぞれの店員が今度は私たちの容姿の値踏みを始めた。
私にはよくわからないが、宮部はそれなりに顔立ちが整っているらしく、女性の店員からの評価はかなり良い。それに対して、私は子供っぽく見えているらしく、彼女たちの目には婚約する年には見えていないようだ。
ガラスケースを眺めることしばらく、やっと男性店員が声をかけてくれた。
「婚約指輪でいらっしゃいますか?」
不自然でない返事を期待していたのに、なぜか宮部は言葉がスムーズに出ないらしい。
「あの指輪が見たいって、私が彼にお願いしたんです」
私の答えに、どうやらあまり乗り気でないように見える宮部の態度の意味を勝手に理解してくれたようで、このお店にしては驚くらい手頃な値段の指輪を幾つか取り出して見せてくれた。
それは、宮部が値段で怖気づかないようにという配慮と、宮部に払えるのは、この程度の金額だろうという店員の独断によるものだ。
それでも、指輪一つで三十万円。決して安い買い物ではない。
それなのに、値札を見た宮部は以外にも『へえ、このお店にこんな安いのもあるんだ。これなら、自分にも買えるかもしれない』などと、呑気なことを考えている。
まったく、どういう金銭感覚なんだろう。指輪一つにこんな大金。
そんなことを考えている私に、店員が問いかけてきた。
「サイズはお分かりですか?」
男の問いに、私は飾りっけのない自分の手を見つめた。
「実は、生まれて初めての指輪なんです。だから、サイズもわからなくて。でも、こちらのお店の広告を拝見して、デザインが素晴らしいと思ったんです」
同じようにショーケースを見つめている近くの女性が考えていることをまるで自分の考えのように私が説明すると、男は採寸用のリングの束を取り出してから、私に左手を広げて見せるように言った。
言われたとおりにすると、男は『失礼します』というと、束の中からリングを取り出して私の指にはめようとした。その瞬間、男の指が私の手に触れ、男の欲望が怒涛の如く頭の中に流れ込んで来た。
『こんなダサい男じゃ、まともな指輪も買えないだろうに。なんだって、こんな男とこんないい女が・・・・・・。』
一流店だからと言って、働いているスタッフの人間性が一流というわけではない。流れ込んでくる不愉快な妄想に私は弾かれたように手を引っ込めた。
「紗綾樺さん?」
驚いたような宮部の腕に私は顔を寄せて『この男の人に触られたくない』と囁いた。
「すいません。やはり男の方に触れられるのは抵抗があるようで、失礼します」
宮部は言うと、男からリングの束を受け取り、私に手渡してくれた。
事実、宮部の言葉は嘘ではない。私は兄以外の男性に触れられる事をとても不快に感じる。
もしかしたら、相手が男性ならば仕方がない事なのかもしれないが、妄想の中とは言え、自分が辱められているのを目の当たりにするのは不愉快極まりない。
そういう点、警察官だからなのか、宮部からはそういったいやらしい妄想を感じたことは一度もないし、洋服越しに触れても不愉快さを感じない。
「ちょうどいいのを探してください」
優しく言われても、私にはサイズの検討もつかなかったので、とりあえず片っ端から指を入れてみることにした。その様子に男は呆れたように一歩後退すると、若い女性店員に対応を代わるように言った。
「申し訳ありません。私の方がお客様にもご不快な思いをさせないかと思いますので、交代させていただきます」
笑みを浮かべて言った女性は、宮部の顔を見るなり驚いたような表情を浮かべた。
「刑事さん」
漏れ出た言葉をかき消すように、宮部が『今日は結婚指輪を見に来ました』と言った。
私は思わず『この馬鹿』と、心の中で呟いた。
婚約指輪を見に来たはずの客が、いきなり結婚指輪に変わったら、絶対に疑われるに決まっているのに、まったくこの男、本当に警察官なのかしらと、私は聞こえないのを良いことに心の中で愚痴った。
「婚約指輪ではなく、結婚指輪ですか?」
店員の戸惑いも当たり前だ。婚約指輪にふさわしいダイヤのソリティアリングの並んだショーケースの前で、結婚指輪といわれて困惑しない人のほうが少ないだろう。
次の瞬間、彼女の考えがなだれ込んできた。
『この刑事さん、まさか私が誘拐犯とか疑ってるの? 勇気を出して協力したのに・・・・・・。』
このままでは、彼女に逃げられてしまう。
「婚約指輪です・・・・・・」
私は言いながら、そっと彼女のほうに頭を近づける。
「私、男の方が怖くて・・・・・・」
彼女の顔が『可哀想に』という暗さを持った。
たぶん、彼女のような普通の女性の場合、異性が怖くて交際をスムーズに進めて行かれないような私みたいな女性は、可哀相な女性の部類に入るのだろう。別に、兄がいてくれるから、他に男が必要な理由を私は感じていないのだけれど。
私は少しきつめの指輪がはまった左手を彼女のほうに突き出した。
「ごめんなさい、初めての指輪なので、サイズがわからなくて。その、抜けなくなってしまったんです」
正直に言えば、宮部が結婚指輪なんて言い出したせいで、びっくりした瞬間、思わず小さいサイズをはめてしまったのだ。
「失礼致します」
彼女は言うと、まるでこわれものに触れるように私の手に触れた。
本当は、誰とも肌を触れ合わせたくはない。でも、古くなった記憶をごっそりまとめて手に入れるには、これしかない。
彼女が一生懸命、指輪を抜いてくれる間に、私は彼女の中の記憶を読み込んだ。
『男の子は、まっすぐにデパートの中を抜けて出て行った。
停まっている白いバンに向かって、引き寄せられるかのように、そうしたら、ドアーが開いた。スライドドアーだ。
言葉を交わしている。でも、あの子はさっきお店の前を父親と通っていったはずなのに、入ったばかりで一人で出て行くのはおかしい。
あの子の着ているTシャツ、おかしいと思ったら、女性モノの着古しだわ。子供用じゃなくて、大人用のが縮んだんだわ。
え、乗ってしまうの、あの車はあの子がお店に来る前から停まってる。だとしたら、誰の車? どうして一人なの?
警察が来て、あの子を探してる? 白いバンに乗ったまま、行方不明? でも、これ以上、面倒に巻き込まれたくない。へんな事言って、疑われたくない。偶然、見たことにしよう。そうじゃないと、疑われる。昔、傘を盗んだと疑われたときみたいに。
もう、あんな思いしたくない。』
「痛くありませんか? お顔の色が優れませんが?」
彼女の手が離れると同時に、思考からも切り離された。
「大丈夫?」
宮部の顔が明らかに心配そうになっている。
ああ、相当顔色が悪いんだ。酷く体も重い。
「ごめんなさい、気分が悪くなって。今日は、もう帰りたいです」
嘘でも仮病でもなく、本音だった。
これから、占いの館に出向いて、延々長蛇の列の人々を鑑定するのは、出来たら遠慮したい。
「すいません、今日は失礼します」
宮部は丁寧に謝ると、指輪のサイズも訊かないまま、私の体を支えて店を後にした。
「どこかで休みますか?」
宮部が気遣うように問いかけてきた。
「顔色がすごく悪いです。どこか座れるところを探しましょうか?」
段々に宮部の声が遠くなっていく。
足がもつれそうになりながらも、私は宮部に支えられて駐車場へと歩を進めるが、思うように進んでいないことは明白だ。それでも、私は一生懸命に駐車場を目指した。
「無理しないでください」
宮部の心配げな声にも、応える余裕もない。そして、目の前がどんどん暗くなっていった瞬間、『コーン』という甲高い獣の鳴き声を聞いた気がした。
☆☆☆
突然、ガクリと膝をついた紗綾樺さんに、僕は驚いて彼女の顔を覗き込んだ。
さっきまで蒼かった顔は、まるで土色のようで血の気がない。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
声をかけても反応がないので、僕は仕方なく彼女の事を抱き上げた。
救助訓練で抱いた人形よりも恐ろしく軽い。まるで空気のようだと思うと、訓練用の人形が取れだけ重く作られていたのだろうかなんて、つまらない考えまで次から次へと湧いてくる。
「紗綾樺さん!」
名前を呼んでも反応しない彼女を抱いたまま、僕は人込みを走り抜けて愛車に急いだ。
助手席に彼女を座らせ、シートを限界まで倒してみたが、気休めにしかならない。これがワンボックスなら、後部の座席でゆったりと横になれるのだろうが、そう都合よくはいかない。
ポケットからハンカチを取り出し、車の中に常備している水のボトルを開け、三分の一ほどの水を捨ててからボトルを紗綾樺さんの口にあてた。
こぼれないように注意しながら、ボトルを傾けて水を口の中に流し込む。
コクリと小さな音がして、紗綾樺さんが水を飲んでくれているのが分かり、少しだけ僕は安心した。
貧血だろうか、それとも、彼女のような特殊な力を持った人がこんな人込みの中に連れてきたのが間違いだったのだろうかと、僕は自問自答を繰り返したりした。
「紗綾樺さん」
何度目かの呼びかけに彼女の瞼がかすかに動き、僕は心から安心した。
☆☆☆
『なんだ、狐憑かと思ったら、そなた半妖か・・・・・・。』
頭の中に響く声に、私はあたりを見回すが、真っ暗で何も見えない。
『狐憑きを街中で見るのも幾歳ぶりかと思うたが、半妖とはまた珍しい。』
どういうこと、私が半妖って、どういうこと?
『人には関わらぬことだ。所詮、人と妖とは相いれない。』
どういう意味?
『妖が戯れに人との間に成した子、哀れな半妖。妖の力を封じて人として生きるか、人から離れ、妖として生きるか、早く決めるのだな。』
待って、何を言っているの?
私は必死に声の主を探そうとした。
「紗綾樺さん!」
闇を祓うように聞き覚えのある声が耳に届いた。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
再び声が聞こえ、私はその声が宮部のものだと気付いた。それと同時に、視界に明かりが戻ってくる。
「紗綾樺さん、気が付きましたか?」
宮部の顔が視界に入り、私は目を開けている事に気付いた。
「貧血を起こされたみたいで、途中で動けなくなったの覚えてますか?」
そうだ、私は気分の悪さに耐えられず、途中で意識を手放したんだ。でも、車にいるってことは、宮部が私を車まで運んでくれたってこと?
「意識が戻ってよかったです。もし、しばらく待ってもだめなら、救急車を呼ぶしかないなって。でも、脈もしっかりしていたし、水も飲めたので、大丈夫かなって、思って回復するのを待っていました」
宮部は言うと、嬉しそうにペットボトルを手渡してくれた。
「よかったら、飲んでください。僕は口をつけていませんから」
「ありがとうございます」
「お疲れだったんですよね。毎日、あんなに沢山の人の鑑定をして、それなのに、昨夜は食事に付き合わせたり、今日も、こうしてお仕事前に引っ張りまわしたりして、本当にすいません」
宮部は申し訳ないという表情を浮かべて頭を深々と下げた。
「ご心配かけてすいません。もう、大丈夫ですから」
さらに言葉を継ごうとしたところで、私の携帯が鳴り始めた。いつもなら、この時間電話をかけてこないはずの兄だった。
私は、宮部に携帯を見せてから、電話に出た。
「もしもし?」
『さや、どこにいるんだ仕事も休んで!』
「えっ!?」
『昨日の事が心配で、いま占いの館まで来たら、お休みだって言われたんだ。今日、休むなんて聞いてないぞ。』
兄の声は、心配というより、怒りを含んでいる。
『まさか、あの警察官に頼まれて、何か厄介事に巻き込まれているんじゃないだろうな?』
うーん、我が兄ながら鋭い。
「そんなことないよ」
『今日は、何時に帰ってくる?』
立て続けに、答えられない質問ばかりだ。困ったな。
「そんなに遅くならないようにする」
『わかった。じゃあ、家で待ってる。・・・・・・頼む、さや。これ以上、お前が傷つくのを見たくないんだ。だから、もう、力は使うな。』
電話の向こうの兄が泣きそうになっているのが、手に取るように分かった。
「お兄ちゃん」
『じゃあ、家で待ってる。』
兄は言うと、私の返事を待たずに電話を切った。
「お兄さん、お怒りのようですね」
宮部の声は心配げだ。
「兄は、心配性なんです」
私が答えると、宮部は心の中で私の家族構成を思い描いている。
本当なら、話す必要もない間柄だけれど、これからこの事件の解決まで、ある程度の時間を一緒に過ごすとなると、宮部の事も知る必要があるし、宮部にも私の特殊な状況を知っておいてもらう必要があるのかもしれないと思った。
「今日、仕事はお休みにしますから、崇君の家と学校まで連れて行ってもらえますか? それから、静かに事件のお話ができる場所に連れて行って下さい」
私が言うと、宮部は少し考えてから、『わかりました』と答え、一度車から降りて行った。宮部が車から降りた理由がわからず、キョトンとしていた私は、彼が駐車料金の支払いに精算機のところに行ったのだと、『百円玉、百円玉・・・・・・』と、繰り返している彼の考えを聞いて理解した。
「お待たせしました。じゃあ、車を出しますね」
宮部は丁寧に声をかけてから車を出した。
☆☆☆
僕は隣で静かに目を閉じている紗綾樺さんに声をかけることもできず、ただひたすら目的地を目指して車を走らせた。
僕のために今日の仕事をお休みにさせてしまったが、生活は大丈夫なんだろうか?
見た目で判断するのはよくないことだとはわかっているけれど、お兄さんと二人で暮らすには、プライバシーもないような小さなアパートだったし、姿を現したお兄さんも、バリバリのビジネスマンという雰囲気ではなかった。
紗綾樺さんはスマホを持ってはいるが、同じ年代の女性のように使いこなしている風ではない。お兄さんがGPSで居場所を特定していると知っても怒りもしないところを見ると、兄妹の関係はとてもよく、紗綾樺さんはとてもお兄さんを信頼しているみたいだ。でも、昨夜のお兄さんの態度は、ちょっと過保護な気がする。あれじゃ、まるで女子高生に対するような態度だ。
どう見ても、紗綾樺さんは成人に達しているし、姉じゃなく、お兄さんと住んでいるということの方が不思議な感じがする。
震災で被災したというから、家族で離れ離れに暮らしているのだとしたら、仕方ないか。
「何か、音楽でもかけましょうか?」
何とか沈黙を破りたくて声をかけてみたが、紗綾樺さんは眠ってしまったようで、答えなかった。
警察官なら、襲われる心配はないか。
完全な安全パイとして扱われていることに、僕は寂しさを感じた。
いけない、いけない。『惚れっぽいのが、あなたの欠点なのよね』という母の言葉が思い出される。確かに、過去何度となく道ですれ違う女性に恋い焦がれたこともある。そんな僕にとって紗綾樺さんは一目で恋に落ちてもおかしくないくらい素敵な女性だ。
ストレートの黒髪、卵型の顔、理知的な額を隠す揃えられた前髪。白い肌に鮮やかな紅の唇は蠱惑的といえる。それなのに、なぜか僕は紗綾樺さんに恋をしなかった。
あの出会った日、普通なら最初にすれ違ったときに恋をしていてもおかしくないのに、僕は紗綾樺さんに恋しなかったとハッキリ言いきれる。そして今も。それが、仕事に関係しているからなのか、それとも、何か特別な理由があるのか、それは僕にもわからない。
もちろん、好意はもっているし、信頼もしている。紗綾樺さんなら、この行き詰った捜査に何らかの光を与えてくれると、僕は確信している。これが超能力者とか、霊能力者と呼ばれる人たちに捜査を依頼するのと同じだという事はわかっている。そして、これがとても軽率な行動と人に言われることも分かっている。でも、一つだけ僕には確信がある。紗綾樺さんは僕が事件の話をする前から、事件の事を知っていた。僕の心を読んだにしろ、他の何かから情報を得たにしろ、警察しか知らないことを知っていた。
普通、捜査協力というものは、こちらの手の内を明かして、相手に協力を求めるもの、でも、今回は違う。紗綾樺さんは犯人でもなく、関係者でもなく、事件について知り得る能力を持っている人だ。だから、紗綾樺さんになら、行方不明の崇君を見つける突破口を開くことができると、僕は信じている。
たとえ誰も信じてくれなかったとしても、僕は信じているし、これからも紗綾樺さんの能力を信じられる。
夕方の渋滞も、隣で紗綾樺さんが体を休めていると思うと、苦ではなかった。
逆に、目的地の学校が近づくにつれ、また紗綾樺さんに無理をさせることになるという不安な気持ちになっていった。
警察車両ではなく、個人の車なので、迷惑にならないように学校近くのコインパーキングに再び車を停めた。
崇君の家から学校までは近く、学校からの帰りに少し足を延ばせば、崇君の家の近所を歩くこともできる場所を選んだ。
本当は、紗綾樺さんに負担をかけたくないのだが、住宅街にある崇君の家の近くには駐車できる場所が少なく、現在も誘拐の線を含めて捜査が進められていることもあり、路上駐車をしていれば、顔見知りに職務質問を受ける事になるのは間違いなかった。
「紗綾樺さん」
僕が声をかけると、彼女の切れ長の目がパチリと開き、黒曜石のような瞳が現れた。
「ここから学校まで、五分ほどの距離です。それから・・・・・・」
「崇君の家も、この近くなんですね」
僕が説明する前に、紗綾樺さんが口を開いた。
「少し、一人にしてください」
紗綾樺さんの言葉に、僕は慌てて頭を横に振った。
「ダメです。今日は、何度も具合が悪くなったじゃないですか。一人だったら、倒れてしまうかもしれません。少し距離を置いて、自分もご一緒します」
今にも車を降りそうな紗綾樺さんに言うと、僕は車のエンジンを切ってシートベルトを外した。
「じゃあ、少し離れてついてきてください」
紗綾樺さんは言うと、僕を待たずに車を降りてしまった。
急いで車を降りると、僕は紗綾樺さんの後に続いた。
紗綾樺さんの歩みはゆっくりとしていたが、確かに学校の場所を知っている人の歩き方だった。それは、普通の人が通る大通りを通らず、子供たちが良く使うであろう通学路を少し逸れた近道となる細い道を迷うことなく学校へと向かっていたからだ。
たぶん、他の人から見たら、彼女が初めてこの場所を訪れたとは信じられないくらい確かな歩調だった。
紗綾樺さんは時々立ち止まり、壁や木に手をついて瞑想しているように見えた。
時にはすぐに歩き出し、時には苦痛に耐えるように顔をゆがめながら、しばらくその場に立ち尽くしたりもした。
『そうか、紗綾樺さんの顔色が悪くなるのは、苦痛のせいなんだ』と、少しずつ顔色が蒼くなっていく紗綾樺さんを見つめて僕は思った。それでも、距離を置いてくれと言われているので、僕には紗綾樺さんの事を離れて見つめる事しかできなかった。
学校の壁に手をついてしばらく瞑想した紗綾樺さんは、糸の切れた操り人形のように、その場に再び膝をついて座り込んだ。
「紗綾樺さん!」
僕は慌てて走りよると、紗綾樺さんの体を抱き寄せた。
「すいません。・・・・・・この地の気が荒くて」
紗綾樺さんは、僕の事を気遣うように言った。
実際、説明されても『地の気が荒い』とどうなるのか、自分には全く理解できなかったが、少なくとも力を使う度に紗綾樺さんに激しい苦痛が伴うのだという事を僕は痛いほど理解した。
そう、あんなに紗綾樺さんのお兄さんが心配したのは、僕のような何も知らない他人が、紗綾樺さんの力を頼みにして、どれ程の負担が紗綾樺さんの体や精神にかかるかも顧みず、無責任な頼みごとをして紗綾樺さんに力を使うことを強要することだったのだと、僕は痛いほど思い知らされた。
あの占いの館で、何もないようにして占いを行っていた姿から、紗綾樺さんが難なく力を使うことができるのだと勘違いした愚かな自分に、僕は自分で腹さえ立ってきた。
「大丈夫です。すぐに立てるようになります」
紗綾樺さんの言葉は、このような症状がいつものことだと教えてくれた。
紗綾樺さんには、縁もゆかりもない崇君の非公式な捜査依頼を受けるという事が、眩暈や、貧血、痛みと言った色々な苦しみを自分にもたらすことだと知りながら、協力してくれたのだと、僕は気付くとともに、更に激しく後悔した。
「申し訳ありませんでした」
僕は腕の中で力なく体を預けている紗綾樺さんに謝罪した。
「僕は、もっと簡単に考えていたんです。あの占いの時みたいに、ほんの数分で、何もかもわかるんじゃないかって。こんな風に、あなたが苦しむのだと分かっていたら、お願いしたりしませんでした」
血の気の引いた蒼い顔を見れば、全てが苦痛以外の何物でもないことは、誰の目にも明白だった。
「大丈夫です。・・・・・・崇君の家のそばに連れて行ってください」
「紗綾樺さん、自分には、これ以上あなたの苦しむ姿を見て居られません」
僕は自分の気持ちを偽ることなく伝えた。
すると、紗綾樺さんは僕の腕に手をかけて僕の顔をまっすぐに見上げた。
「探させてください、私に・・・・・・。私に、死体ではなく、生きている崇君を私に見つけさせてください」
その瞳には強い意志が込められていた。
細く華奢な体からは想像もできないくらい強い意志が・・・・・・。
「車で近くを走ります。それで良いですか?」
僕がダメだと言っても、駐車場から学校までの道が分かった紗綾樺さんなら、自力で崇君の家にたどり着くことができる。ここで言い争うよりも、紗綾樺さんが自力で目的を達成するのではなく、体力を温存できるように、そして今みたいに外で倒れそうになることを防ぐことができるように、車で移動するという妥協案を承諾してもらえるように祈るほかなかった。
「そうですね。今日は、家の前を通ってもらえれば、それでいいです。お家を訪ねたり、ご家族や知り合いに会う必要はありません」
なんとか紗綾樺さんの合意を得ると、僕は再び紗綾樺さんを抱き上げた。
「あの、恥ずかしいです」
街中で抱き上げた時は、ほとんど意識がなかったので抵抗がなかったのだろうが、紗綾樺さんはお姫様抱っこされたことに顔を赤らめていた。
「今日、二回目です。今更、恥ずかしがらないでください」
僕が言うと、紗綾樺さんの顔はさらに赤くなり、両手で顔を覆ってしまった。
「できたら、手を僕の首の後ろに回してつかまってください。落ちて怪我しないように」
紗綾樺さんは、おっかなびっくりといった感じで、僕の首に手を回した。
「走りますから、口は閉じていてください」
僕は言うと、紗綾樺さんを抱いて駐車場まで走り続けた。幸運にも、誰ともすれ違うことなく、僕たちは車まで戻ることができた。
車のロックを解除するのももどかしく、僕は紗綾樺さんを助手席に座らせた。
それでも、苦しそうな紗綾樺さんの顔色は少しも良くならなかった。
「大丈夫です」
心配する僕の心を読んだのだろう紗綾樺が尋ねもしないのに答えた。
「近くに車を止めると、職質をかけられる可能性があります。走り抜けますが、それで良いですか?」
念のため、僕は紗綾樺さんの確認を取る。
「はい。大丈夫です」
紗綾樺さんの答えを聞いた僕は、住宅街の制限速度をかなり下回るゆっくりとしたスピードで崇君の家へと向かった。
「この道で崇君は通学していたと思われます」
尋ねられていなかったが、少しでも紗綾樺さんの役に立てばと、説明を続けた。
「ここを右に曲がって・・・・・・」
「大丈夫です。見えます。崇君が歩いているのが」
紗綾樺さんの声は、僕の言葉が邪魔になっていることを伝えていた。
半ば閉じかけた瞳で紗綾樺さんは僕には見えない崇君を見ているのだと、僕も気付いた。
☆☆☆
普段ならば絶対にしないことだったけど、私は思い切って心の扉を全開にした。
一気に隣の宮部の心だけでなく、周辺の住宅の住民、近くの道路を歩いている通行人、路地に車を止めて不審者を警戒している警察官達の意識、そして普通の人には見えないし聞こえないモノたちが私の中に流れ込んできた。
厄介なのは、事件のことを知っている警察官の記憶だ。思い込みによってゆがめられた記憶が私の判断を鈍らせる事がよくある。だから、人の記憶は当てにならない。でも、それ以外のモノたちの記憶は役に立つ。
私は崇君の情報を求めて意識の中を彷徨った。
大量の意識と記憶を相手にしているせいで、自分自身が体から離れてしまいそうになる。でも、これ以上体からかはなれるのは危険だ。それこそ、意識を失って病院にでも運ばれたら大事になる。
注意深く、体に自分を繋ぎ止めながら崇君に関する記憶を探す。
大きな光がはじけるように、あふれる光の中に崇君の姿が浮かび上がった。
ああ、母さんの想い出だ。愛にあふれて、崇君のことを探している。覗いている私の胸が温かくなるくらい、お母さんの愛は深い。
崇君の記憶を探している私に語りかける意識があった。
『さがして、はやく。』
目の前に赤い花びらが舞う。
『あの子をさがして、早く。』
椿の木だ。
次の瞬間、ねっとりとした闇の固まりに飛び込んだ私は、恐怖で心を一気に閉ざした。
体の感覚は戻ってきていないものの、全身が嫌な汗でべたついているのがわかる。
瞼は重く、開こうとしても持ち上がらない。全身の感覚が戻ってくると、全身が軋むような痛みに襲われた。
これだから、力は全開にするものじゃない。
見たくなかったものも、聞きたくなかったことも、今は全て私の中に記録されてしまった。記憶なら改竄できても、記録は改竄できない。どんな醜いものも、汚いものも、記録されてしまったら、私はそれと共に生きていくしかない。
悔やんでも、いまさらなかったことには出来ない。
痛みに慣れ、諦めがつくと、やっと瞼が持ち上がった。
目の前の風景は動いておらず、コンビニのまぶしいほど明るい看板が目に痛い。たぶん、私のことが心配で宮部が車を止められる場所を探してここに来たに違いない。
シートは限界まで倒されているので、他に見えるのは人口の光にかき消された星空くらいだ。
その時になって、隣に宮部が座っていないことに私は気付いた。
『お前、差し入れのためにわざわざこんなとこまで来たのか?』
『ちょっと用があって、近くまで来ただけです。』
『本当か?』
『本当ですよ。』
『差し入れなら歓迎だったのに。』
『すいません、連れの気分が悪くなって寄っただけです。』
『なんだよ、デートか?』
『ノーコメントです。』
『ったく、いいよな、相手がいる奴は。しっかり励めよ。』
私の知らない警察官の頭の中に、露骨に卑猥なイメージが浮かび上がった。
いけない、閉じたはずが、閉じきっていなかったのか・・・・・・。いや、それとも、私の中の力が閉じ込められなくなっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、車のドアーが開き、宮部がペットボトルに入ったお茶と紅茶を持って戻ってきた。そして、私が目を開いているのを見ると、一気に気まずそうな表情を浮かべた。
「すいません。あの人、悪気はないんです」
宮部の言葉の意味がわからなかった私に、彼は更に言葉を継いだ。
「すぐに、励めとか卑猥な事言う人なんですけど、悪い人じゃないんです」
その言葉から、さっき会話していた相手がいやらしい妄想をしていたことに対してのフォローだと理解した。
「大丈夫です。慣れてますから」
私は良く考えもせずに答えたが、宮部の顔はすごく申し分けそうなままだった。
「あの、温かい飲み物が良いかとおもって、お茶と紅茶を買ってきました」
二本のペットボトルを差し出され、私は紅茶のボトルを受け取った。
普通ならお茶がいいのだが、ここまで力を使うと、エネルギーが足りなくなって甘いものが欲しいと体と脳が訴えてくる。
「もし、甘すぎたら言ってください。こっちのボトルは開けずに置きますから」
紅茶を飲み下す私の姿に、宮部は少し安心したようだった。
「ミルクもお砂糖も入っているし、少しは紗綾樺さんが元気になるかと思ってミルクティーにしたんですけど、甘すぎるかなって心配になって、それでお茶も買ってみました」
宮部の優しさはうわべだけでなく、本当に心根の優しい人間なんだと、私は改めて思った。
「お家まで送りますね」
少し寂しげに言う宮部の心は、既にがっちりとガードされていて、彼が何を考えているかを読むことは出来なかった。
「家に帰る前に、どこかゆっくりとお話の出来る場所に連れて行ってください」
「でも、お兄さんが心配されるでしょう?」
宮部の言う事は最もだ。私は、兄の電話に遅くならないと返事をした記憶がある。それでも、今日見たり聞いたりしたことを宮部に話す必要がある。
「いえ、手遅れになる前に、きちんと話しておきたいんです」
「わかりました。じゃあ、着くまで紗綾樺さんは休んでいてください」
宮部は言うと、残ったお茶のボトルを私に手渡し、自分はろくに休憩もしないまま車を走らせ始めた。
どこに行くのかわからないドライブだったが、宮部が私をいかがわしいところに連れて行く心配もなかったし、安心感からか、宮部の流れるような運転技術のせいか、気付けば私は再び眠りに落ちていた。
「紗綾樺さん、つきましたよ」
ちょっと困ったような声で私を呼ぶ宮部に、私は驚いてパチリと目を開けた。
「すいません、ぐっすり眠ってしまって」
私が謝ると、宮部は安心したのか、少し笑みをもらしたが、すぐに不安げな表情になった。
「誰にも邪魔されず、話ができるところって、ここしか思いつかなかったんです」
宮部の言葉に、私は眼前に迫る怪しい建物に目を細めた。
私は行ったことがないが、あれは話に聞く、ラブホテルと言われる建物に違いない。
確か、お役所への届出は、宿泊施設。公安に風俗施設の届出をしていない場合、おおっぴらに看板を出せない宿泊施設。普通は、恋人同士など、男女が合意の上で肉体関係を持つためにお金を払って部屋を借りる場所。
確かに防音なんだろうし、誰にも邪魔されないだろうし、ゆっくり二人で話は出来るだろうが、目的にあっているからといってモラルをなくして良いということにはならない。前言撤回だ。こいつのどこが心根の優しい良い男だ。ちょっと油断したら、ホテルに女を連れ込もうとするろくでなしと大して変わらないじゃない。警察官のくせに、この男、いったい、何をどう考えたらこういう結果になるのよ!
今にも私の怒りが爆発しそうなのを察したのか、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。あそこじゃありません。周りの道路が一方通行なもので、駐車場の出入り口が風紀の悪い側にあるんですが、ここはカラオケです」
宮部の言葉に私の暴走しかけた怒りはすぐにおさまった。
「こっちが入り口です」
先に立って歩く宮部に続き、私は駐車場の奥にある自動ドアーをくぐった。
確かに、そこはカラオケ店だった。
自動ドアー一枚で、ここまで防音効果があるのかと思うくらい、店内は音で溢れていた。敢えて音と称するのは、鳥を絞めたような叫び声から、野獣の雄叫びのような声まで、ありとあらゆる声が音楽と一緒にあふれかえっているからだ。
宮部は受付を済ませると、私を連れて上階の個室へと向かった。
「まだ、お客さんの入ってないフロアーを開けてもらいました」
どうやら、以前勤務していた署の管轄内にあるお店らしい。
「前に、何度か非公式にというか、個人的にといいましょうか、店でのもめごとで呼び出されたことがあって、ほんのちょっとなんですけど顔がきくんです」
自慢するというでもなく、どちらかといえば、ちょっと照れたように説明すると、宮部は部屋番号を確かめながら、人気のないフロアー奥の個室の扉を開けた。
個室の中は、照明も一番暗く設定されていて、機械の電源も入っておらず、とても静かだった。
入り口でエアコンのスイッチをオンにした宮部は、部屋の照明を一気に目一杯明るくした。
「飲み物は、とりあえずアイスのウーロン茶を頼んでありますけど、他にご希望があれば、すぐに注文しますので、遠慮なく言ってください」
促されるまま、奥のソファ席に腰を下ろした私に、まるで店員のように宮部はメニューを広げて見せた。
「大丈夫です」
私が答えると、宮部は私の向かいにキャスター付きの椅子を動かして座った。
「詳しい話は、お茶が来てからにしましょう」
さっきまでとは違い、宮部の顔は警察官の顔になっていた。
そう、さっきまでの宮部は、警察官ではなく、宮部尚生という一個人として私と接していたんだ。
警察官に戻った宮部の心はがっちりとガードされていた。これは、彼が持って生まれた才能だ。兄と同じ、放射能すら通さない鉛の箱のようなもので心を覆い、私に読まれないようにする。大抵の人は、丸見えかよくても襖越し程度で、頑張ってもベニヤ板程度だ。その程度のガードであれば、私が本気になれば、叩き壊して踏み込むことができる。でも、兄と宮部の才能は特別だ。
別に心が読めなければ、一緒に居ても苦痛ではない。相手が何を考えているか、ぼんやり必要なことだけがわかる生活は、言わば熟年夫婦のあうんの呼吸のような関係だ。でも、心の中まで丸見えになる相手と長く過ごすことは苦痛だ。知りたくないことまで知ってしまうし、相手のプライバシーを知らない間に侵害し続けているという罪悪感も私の中に生まれてしまう。だから、兄の才能を喜んでも疎んだことはない。
ノックの音が部屋に響き、店員が飲み物を運んできた。
「機械の電源は入れなくてよろしいですか?」
店員の疑問は当然だ。
カラオケ店に来て、機械の電源が入ってない部屋で、しかも誰も居ないフロアーで私たちが何をしようとしているのか、疑問に思うのは当たり前のことだろう。
「用があれは、こちらからフロントに連絡します」
宮部は言うと、さりげなく警察手帳を見せた。
これは、怪しい客が来ていますと、店長に相談もせず、スタッフが警察に通報するのを防ぐためらしい。
「飲み物ばかりですいません。ここの食べ物はあまりお勧めできないので」
宮部は言うと、グラスを私の前に押して寄越した。
「戴きます」
私は宮部を安心させるため、グラスを手に取るとアイスウーロン茶を一口飲んだ。
☆☆☆
「崇君が行方不明になったのは、父親が深く関係しています」
グラスを置いた紗綾樺さんは、いきなり本題に入った。
「崇君は、お父さんからデパートの外に止まっているバンに乗っているおじさんがディズニーランドに連れて行ってくれると言われたんです。それで、喜んで一人でデパートを走り出て、バンに乗ったんです」
突然の話の展開に、僕は思わず目を見開いて紗綾樺さんのことを見つめた。
「車を運転していた男性と、崇君に面識はなく、崇君は車に乗る際、本当にこの車でいいのかを確認しています。男性の話し方には訛りはありません」
「ナンバープレートは?」
「はっきりとは見えませんでした。石や植物には、数字とか見分けがつかないんです」
紗綾樺さんの言葉に、質問したいことは沢山あったが、僕は口をつぐんだまま紗綾樺さんの言葉に耳を傾けた。
「つい最近、学校で崇君の友達の誰かが家族でディズニーリゾートに言ったようです。その話を聞いて、崇君は行きたいとお父さんに頼んだみたいです。でも、病気のお母さんの看病があるので無理だと言われ、その代わりにデパートに連れて行ってもらい、おもちゃを買ってもらう約束をしたようです」
そこまで言うと、紗綾樺さんは再びウーロン茶を一口飲んだ。
「お母さんは心から心配していらして、一日も早く崇君が帰ってくるのを待っています。でも、お父さんは違います。後ろ暗い事があって、それが知れるのを怯えています。たぶん、崇君の行方に関してでしょう。・・・・・・ここまでで、質問はありますか? 間違っていることとか」
紗綾樺さんに問われ、僕は事件の資料から起こしてきたメモを取り出した。
実際、ディズニーランドなどという単語は、どこからも出てきていない。
「子供でも、二十四時間経たないと失踪になりませんよね?」
突然の問いに、僕は慌てて紗綾樺さんの方に顔を向けた。
「そうですね。行方不明として扱うには、通常二十四時間の猶予をもってからですが、今回の場合は七歳の子供ですから、行方不明というよりも誘拐の線で初動捜査は行われました」
「そこが誤算だったのかもしれません」
紗綾樺さんは、こめかみを押さえながら言った。
「届け出たのは、お母さんですよね? お父さんではなく」
「そうです。ご主人は、心配ないと、すぐに帰ってくると言っていたそうなんですが、母親のほうが心配して、ご主人に内緒で通報したんです」
「喧嘩になりましたよね?」
紗綾樺さんの言葉に、僕は二人が警察官の前で大喧嘩をしたという話を思い出した。
「それが、すべて計算外だったんでしょう」
「どういうことですか?」
「いまは、どこに行くにも警察の監視つきでしょ? 口座のお金の動きも監視されて、電話も盗聴されている」
「そうです」
「お父さん、どこかで公衆電話を使いませんでしたか?」
紗綾樺さんの問いに、僕はメモにもう一度目を通した。
「あ、あります。携帯の電池が切れたとかで、公衆電話から家に電話したことがあります」
「その時、連絡を取ったんですね」
紗綾樺さんは納得したといった様子で、何度か頷いた。
「この事件は、たぶん公にしてもあまり良いことのない事件です。きっと、みんなが不幸になります」
紗綾樺さんの言葉に、僕は首をかしげた。
病気の母親が子供のことを心配している以上に不幸なことがあるのだろうか?
僕はその問いを飲み込み、紗綾樺さんが言葉を継ぐのを待った。
「大体はわかっています。でも、本当に正しいのか、悩んでいます」
紗綾樺は話すべきか悩んでいるように見えた。
「これから話すことは、確定ではないです。でも、可能性として聞いてください」
紗綾樺さんは始めに断ってから話し始めた。
「森沢さんのご家庭は、奥様の病気のせいでかなり困窮しています。再婚ですし、ご主人の崇君に対する愛情はあまり深くありません。奥様が病気になった最初の頃に、自棄になってギャンブルで作った借金もあり、医療費の支払いも滞りがちです。崇君の学費や、将来のことを考えると、最終的には、亡くなった奥さんの連れ子の世話を一生することになります。それを考えると、崇君の存在はご主人にとっては苦痛以外の何物でもありません。そんな時、子供を欲しいという人が現れます。その人は裕福で、でも子供がありません。ご主人はその家に崇君が養子に入れば、将来の不安もなくなりますし、大切に育ててきた子供を養子に出すのですから、それ相応の謝礼を受けることができます。悪く言えば、子供を売るということになります。たぶん、崇君は今頃、不自由のない生活をしています。お母さんに会えないことを悲しがっているとは思いますが、崇君にも理解できる理由、例えば、お母さんの病気が悪くなってお父さんも家には居ないとか、そんな理由だと思います。崇君は、それで我慢しています。今頃は、迎えに来た新しいお父さんとその奥さんとディズニーリゾートに遊びに行ったり、いろいろなところに行って楽しんでいるはずです。ただ、連絡をしようにも、誘拐として捜査されていると言われ、きっと生きた心地がしないでしょう。だから、多分、関東にはいないと思います。それに、崇君のお父さんは、お金の支払いを受けられず、このまま踏み倒されたら、誘拐犯としてその家族を訴えるつもりです」
そこまでいうと、紗綾樺さんは驚いてぽかんとしている僕のことを見つめた。
「信じられないなら、それでいいです。でも、調べてみてください。学校で、ディズニーリゾートに遊びに行ったのを自慢した子供が先生に叱られています。崇君がいなくなる、何週間か前です」
「わかりました、先生に訊いてみます。ところで、紗綾樺さんは、崇君がどこに居るのかもわかっているんですか?」
僕は、恐る恐る尋ねてみた。
「いえ、今日行ったあたりには居ません。たぶん、今はかなり遠くに居るでしょう。今日のような力の使い方で私に分かるのは、近くのものだけですから」
紗綾樺さんは言うと、再びウーロン茶に口をつけた。
「ごめんなさい、今日私にわかったのはこれだけです」
申し訳なさそうに言う紗綾樺さんに、僕は慌てて頭を横に振った。
「とんでもないです。すごい手がかりです。ありがとうございました」
僕はお礼を言うと、心配げに紗綾樺さんの事を見つめた。
「具合は大丈夫ですか? 夕飯に場所を変えようと思ったんですけど、お身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。力を使うと、体力の消耗が激しいんです。少し休めば、問題ないです」
紗綾樺さんの声は、さっきまでよりもしかっりしてきていた。
「夕飯は、何がいいですか? なんでも、お好きなものをご馳走します」
言ってみたものの、時計を見ると既に夕飯には遅い時間になっていた。
思えば、夕方から始めた崇君の情報集め、本当は最終目撃地点だけで済ませるはずが、紗綾樺さんの厚意に甘えて学校や家と、県をまたいでの移動をしたため、とっくに十一時を過ぎていた。これでは、まともなレストランは開いていない。
「昨日のファミレスで良いですよ。身の丈に合った場所がふさわしいですから」
紗綾樺さんの笑顔に、僕は思わず紗綾樺さんの事を見つめてしまった。
「身の丈にふさわしいですか?」
普通、若い女性が口にする言葉ではなかったので、思わず聞き返してしまった。
「ええ、兄の口癖なんです。私が贅沢をし過ぎないよう、常に身の丈に合った暮らしをするようにって」
紗綾樺さんは何事もなかったように言うが、どう見ても彼女と兄の生活が贅沢すぎることはない。どちらかと言えば、質素で堅実という感じだ。
「厳しいお兄さんですね」
思わず、思ったことがそのまま口をついて出てしまった。
「わかりません。私、自分でもよくわからないんです」
「わからない?」
「ええ」
そう答える紗綾樺さんは、まるで透けて壁が見えそうなくらい、存在感がなかった。
もっと詳しく彼女の事を知りたいと思ったが、僕はなぜか今はその時ではないと自分で感じた。
「今日は疲れていらっしゃるでしょう。お言葉に甘えて、昨日と同じファミレスで食事をしたら、送っていきます」
僕が言うと、紗綾樺さんはカバンを手元に引き寄せた。
「きっと、今晩は、昨夜よりももっといろいろ兄が質問すると思います」
その不安げな瞳に、僕は紗綾樺さんに多大な迷惑と苦労を掛けていることを実感した。
「本当に申し訳ないです」
「いいんです。でも、兄には崇君の捜索を手伝っていることは知られたくないんです。きっと兄は、最悪のケースを考えて、必ず反対しますから」
紗綾樺さんの言った『最悪のケース』という言葉が、崇君の学校のそばで彼女が口にした『死体』という言葉に重なった。
そうか、紗綾樺さんのお兄さんは、事件の捜査に巻き込まれて、彼女が被害者の死に責任を感じることを心配しているのか。
納得はしたものの、これと言ってよい言い訳は思いつかなかった。
「とりあえず、お付き合いしているってことにしておいてください」
「えっ?」
驚いた僕は思わず聞き返した。
「私みたいなのが相手では、お嫌かもしれませんが、兄もそれなら少しは納得します」
「いや、逆じゃないですか? 可愛い妹に悪い虫がついたと、お怒りになるでしょう?」
紗綾樺さんのように、美しくて可憐な妹がいたら、自分だって絶対に若い男を近寄らせたくないと思うだろうと、僕は思いながら、昨晩、怒りと心配を露わにして階段を駆け下りて来たお兄さんの姿を思い浮かべた。
「たぶん、兄は、私が人と個人的な関わりを持つことができるようになったと、少し安心します」
紗綾樺さんの言葉は静かだった。
「私には友達もいませんし、話をするのは、お客さんと兄だけです。だから、お付き合いをしていると言ったら、私が少し年頃の女の子らしくなったと、安心すると思います」
彼女の説明に納得したわけではなかったが、ここで反対しても、彼女がその言い訳で通そうとすることははっきり見て取れた。
「紗綾樺さんが良いなら、僕は構いませんよ。紗綾樺さんみたいな素敵な人の恋人になれて幸運です。しかも、婚約してるんですからね」
少し暗い表情の紗綾樺さんを力づけようと、僕は少しだけ茶目っ気たっぷりに言って見せた。
「そうですね。婚約指輪、買いに行ったんですもんね」
紗綾樺さんもいうと、笑みを浮かべて見せた。
「あ、でも、そのことは兄には内緒で」
「もちろんです。じゃあ、行きましょう」
僕が声をかけると、紗綾樺さんはゆっくりと立ち上がった。
「本当に、このフロアー、まだお客さんが入ってないんですね」
完全に空室のフロアーを歩きながら、紗綾樺さんが呟いた。
「僕たちが出たら、たぶん満室になりますよ」
言いながらエレベーターのボタンを押すと、ウィーンという音を立ててエレベーターが上昇を始めた。
エレベーターは音もなくと言うには程遠い、また客が暴れたんだなと思わせる立て付けの悪そうな音をたててドアーを開けた。先に乗り込む紗綾樺さんに続いて僕は乗り込むと、一階のボタンを押した。
エレベーターがフロアーを通過するたび、叫び声のような嬌声が扉越しに聞こえ、消えていった。
「ここで待っていてください」
駐車場の出入り口に近いエレベーター脇の椅子に紗綾樺さんを座らせ、受付のカウンターに行くと、顔見知りの店長がホッとしたように僕の事を見つめた。
溢れかえる受付フロアーから、店長が満室扱いにしてフロアー全体を使用できないようにしていたくれたことがわかる。
丁寧にお礼を言い、一室分の料金を支払ってから、僕は紗綾樺さんのところに戻った。
「じゃあ、行きましょう」
「はい」
紗綾樺さんは返事をすると、僕に続いて風紀の悪い街へと開く駐車場のドアーへと向かった。
人間の心理は面白いもので、ドアーの向こう側に並んでいるのが背徳的なホテル街だと分かると、カラオケから出る自分たちまでが、なんだか背徳的な行為に及んでいたような変な罪悪感を感じてしまう。
僕は車のロックを解除すると、紗綾樺さんを助手席に隠すように乗り込ませ、自分も小走りで運転手席に乗り込んだ。そして、闇を切り裂くように、一気に薄暗く細い路地から抜け出した。
車を走らせながらも、紗綾樺さんに訊きたいことは沢山あった。
どうやってあの情報を入手したのか、今日みたいに力を使うことによって、紗綾樺さんの健康に問題はないのか、それに、あの言葉の意味も。でも、臆病な僕は、せっかく紗綾樺さんと話したり、こうして捜査のためとは言え、会うことができるようになったのに、不用意な質問で紗綾樺さんとの関係を壊したくないと、自分でも不思議なくらい臆病になっていた。
☆☆☆
何度スマホのアプリを更新しても、さやの居場所は依然、同じ場所を示している。
「ありえない。あのさやに限って!」
何度も口にした言葉を俺はもう一度叫んだ。
昨夜のあの警察官という男に何か弱みでも握られたのだろうか? 警察官だって、昨今は清廉潔白とは限らない。痴漢もするし、覗きもする。それこそ、婦女暴行事件も起こすし、恐喝まがいの事もする。もしかしたら、さやが気付いてないだけで、さやのストーカーだったのかもしれない。考えたら、あの好青年に見えた男だって、おっとりとして、世間知らずなさやを脅して無理やりホテルに連れ込むくらいやってやれないことはないだろう。背も高かったし、警察官なら腕力もあるだろう。そうでなければ、不可解な動きをした挙句、さやの居所がいかがわしいラブホテルでかれこれ一時間以上も動きが止まるはずがない。
昨日の今日だし、心配になって様子を見に行けばさやは仕事を休んでいたし、電話に出た時は、なんだか話しにくそうにしていた。あれは、誰かが近くにいるからだ。それくらいは、さやのような能力のない俺にもわかる。
確かに、意識を取り戻してすぐのさやは他人のようだった。
俺の事だけじゃなく、家族の事も分からなかったし、ましてや、自分の事も分からなかったのは、ショックのせいだろう。何しろ、目覚めたら死体の山の上で、棺桶に入れられるところというセンセーショナルな目覚めだったときかされている。れだけでも記憶障害を起こしてもおかしくない年頃だと医師は言っていたし、あの日、家で寝ているはずの俺を探しに行ったさやは、きっと倒壊寸前の家の中を俺を探してまわり、気付いたら津波に飲み込まれ、家財道具や家共々もみくちゃにされ、最終的には海岸に打ち上げられた。何十人もの人々が遺体となって打ち上げられたのに、さやは奇跡的にも生きていた。いや、もしかしたら、俺の事が心配で生き返ったのかもしれない。
だから、さやがなにも覚えていなくても俺はいい。さやが幸せになれれば。さやが昔のさやでなくなってしまっても、不思議な力を持っていても、俺は気にしない。たとえ、さやが目からレーザービームを出せるサイボーグになっていたとしても、俺はさやを妹として愛し続けられる自信がある。
実際、さやは何も覚えていないし、俺はさやの高校の入学式の日に家の前で自分のスマホで撮影した家族写真を見せて、入院していたさやに家族であることを証明した。
あの後、写真館で撮った家族最後の記念写真をデータから起こしてもらっても、さやは俺のスマホにあった隣の犬が映っている写真が良いと、家にもその写真を印刷して飾っている。そう、あの写真の中で生きているのは、今はさやだけだ。
俺は、さやに今も嘘をついている。本当は、両親が災害よりもずっと前に亡くなっていた事を俺は隠している。だから、さやは両親もあの日に亡くなったと思ったままだ。両親と一緒に津波に飲み込まれ、助かったのはさやだけだと、俺は嘘をついている。
両親の墓があるお寺は倒壊し、墓地はどれがどの家の墓だかわからないありさまで、俺は敢えて真実を隠したままあの地を離れた。それが、さやにとっていいと思ったからだ。
なのに、鈍い俺は、さやが警察官に脅されてホテルに連れ込まれるなんて事態に発展した事にも気付かずにいたなんて。さやのことだから、占いの仕事の事を詐欺行為とか、悪い未来を告げたことが脅迫に当たるとか、なんかそんな警察らしいもっともな脅し文句で脅され、素直に従っているのかもしれない。
さやは、あの日、命を取り留めた代わりに、全ての記憶と人間らしさを失った。何にも固執しない。おしゃれも、化粧もしない。じぶんが年頃の女の子であることすら忘れたように、恥じらいも感じない。
退院の日、それこそ小学校の時以来、一緒にお風呂にも入ったことのない俺の前でいきなりパジャマを脱いで裸になった時は、俺も度肝を抜かれた。我が妹ながら、良く育っている。これじゃあ、年頃の男が放っておかないだろうと、そこまで考えて、俺は慌ててベッドの周りのカーテンを閉めた。
いまだに、油断すれば、さやは風呂から出て裸で寝てしまうし、パジャマ代わりの部屋着で外出しようとする。そんなさやが、恋愛して、あの男とホテルに行く関係になったなんて、俺は絶対に信じられない。
俺は何度もさやのスマホに電話をかけようとしては、その手を止め、再びかけようとしては、また手を止めた。
相手が誰にしろ、ホテルに連れ込まれているのだとしたら、電話になんて出られる状況にないはずだ。それなのに、出られないのをわかってかけて、さやが出なかったらと思うと、悔しさで腕が振るえる。
あの日、俺がさやに嘘をついて仕事なんかに行かなければ、さやは今頃、大学を卒業して、就職して、それこそ彼氏の一人や二人、恋愛の一つや二つ経験して、俺を違った意味でヤキモキさせて、幸せな人生を送っていたはずだ。それなのに、あの日、俺が嘘をついたばかりに、さやは全てを失ってしまった。記憶も、自分も・・・・・・。その代わりに身に着けた能力は、さやを苦しめることはあっても、幸せにはしてくれない。
父さんと母さんに合わせる顔がない。二人に約束したのに。
俺は握りしめていたスマホを部屋の隅に投げ捨てた。
☆☆☆
ファミレスに入った紗綾樺さんは、昨日と同じくクラブハウスサンドイッチとオニオングラタンスープを注文した。確かに、僕の財布には優しかったが、なんだか僕は好きな人に窮屈な思いをさせているような肩身の狭い気分になった。
「あの、デザートとか、スイーツもいかがですか?」
僕は、女性が好きそうな色とりどりのデザートの写真で埋め尽くされたメニューを紗綾樺さんに手渡そうとした。
「大丈夫です。どれを食べたらいいかわからないので」
紗綾樺さんの返事は、女の子の返事というよりも、男子の返事のようだった。
「甘いもの、お嫌いですか?」
「そういうわけじゃないんです。ただ、どれを食べたらいいのかわからないんです。いつもは、兄が適当に頼んでくれるので」
こんなところまでお兄さん任せなんだ。
「写真を見たら、ピンと来ませんか?」
「ピンとですか?」
紗綾樺さんは、首を傾げながら、メニューを受け取った。
そして、見ている方がおかしくなるくらい真剣にメニューの写真を見つめ続けた。
結局、ウェイトレスがスープを運んでくるまで、じっとメニューを見つめ続けたものの、紗綾樺さんは首を横に振ってメニューを片付けてしまった。
「いただきます」
紗綾樺さんはオーブンから出てきたばっかりのスープに嬉しそうに取り掛かった。
伸びるチーズを器用にスプーンで手繰り、紗綾樺さんは幸せそうにスープを平らげた。そして、運ばれてきたサンドイッチに取り掛かる様子は、まるで子供ように可愛かった。
「お兄さん、心配していらっしゃいますね」
ふと壁の時計が目に入り、僕は思わず口にした。
「きっと、またスマホで居場所を調べてますよね」
僕は口にしてから一瞬で青ざめた。
そうだ、あのカラオケの場所は位置情報に正しく表示されていたのだろうか?
もし、裏のいかがわしい場所が表示されていたら大変なことになる。なんてバカだったんだ、あのカラオケを選んだときは紗綾樺さんのお兄さんが居場所を調べることをすっかり忘れていたなんて。痛恨のミスだ!
頭を抱えなくなりながらも、僕は必死で言い訳を考えた。
☆☆☆
車の停まる音に、俺は玄関の扉を開け放したまま階段を駆け降りた。
いつもさやに怒られることだが、夜中の住宅街に安いつっかけサンダルが金属を叩く音がこだまする。
もちろん、近所迷惑だと言うことは分かっているし、夜間の騒音はある種の犯罪になることも知っている。だが、今日だけはそんな事を気にしている場合じゃない。
警察官という公職についている公僕でありながら、一般市民に権力を振りかざして私利私欲を満たし、あまつさえ、か弱い女性にふしだらなことをする奴を捨て置くわけには行かない。
車から降り、今にもいつもの小言を言おうとするさやの無事を確認すると、俺は遅れて車から降りてきた奴を睨みつけた。
「ただいま」
俺を心配させない為なのか、さやは何もなかったように笑って見せた。この笑顔を踏みにじるような奴を俺は生かしておけない。
ぎゅっと拳を握り締めると奴を見据えた。
「車を寄せて停めて、エンジンを切ってください。ここは住宅街で、近所に迷惑ですから」
奴は俺の言葉に素直に従った。しかし、さやは何かを悟ったのか、不信感を露わにして俺のことを見つめた。
「立ち話も何ですから、あがってください」
俺の言葉にさやは驚いて俺の腕を掴んだ。
「お兄ちゃん」
「さや、先に部屋に戻ってなさい」
何時になく厳しい俺の声に、さやは何も言わず従った。
アパートの敷地内に車を停めた奴が降りてくると、俺は『どうぞ』と二階の部屋を指し示し奴を前に階段を上がった。
相手が警察官だろうが、さやを弄んだことを後悔させてやる!
俺は無意識に指の間接を鳴らして相手を威嚇した。
「失礼いたします」
後ろから来る俺に一礼すると奴は敷居をまたいだ。
「狭いところですいません」
さやは申し訳無さそうに言うと、部屋が狭すぎてどこが上座とハッキリ判断できないものの、一応上座と言える玄関から一番遠い部屋の奥側の席を奴に勧めた。しかし、奴は逃げやすいとも言える玄関に一番近い下座に腰を下ろした。
「お茶、これでいい?」
さやが心配げに訊くので、俺はさやを座らせて自分でお茶の用意をした。
貧相な部屋には似合わない電気ケトルでお湯を沸かし、急須の代わりのティーポットにお茶のパックを放り込み煮え立った熱湯を注いだ。さやが怖がるから、このアパートの部屋には火の出るものは置かれていない。
もともと客の来る予定などない部屋だから、奴を部屋にあげてみたものの、実際は座布団一つ用意がない。
食器棚代わりに使っているカラーボックスから二人分のマグカップを取り出し、流し台の下に押し込んであった携帯電話会社から貰った犬の写真がプリントされているマグカップを取り出し、手早く洗って使えるようにした。
お盆なんてしゃれたものもないし、使う必要もない距離なので、半身振り向きながら折り畳み式のちゃぶ台の上にマグカップを並べ、最後にティーポットを手にとった。一度おいてから注ぐのも面倒だったので、そのままちゃぶ台に向き直り並べたカップにお茶を注いだ。
湯気とともに、香ばしい煎り麦の香りが部屋に広がっていった。
「どうぞ」
一応、客ではあるので、奴に一番にお茶を勧めた。
俺が茶を勧めたタイミングで、さやは自分のカップを手元に引き寄せ、俺のカップが正面に残された。
「いただきます」
奴は礼儀正しくお礼を言ってからマグカップを手に取った。しかし、八分目まで注がれた熱湯同然の麦茶はそう簡単に口をつけられるような代物ではない。
それをよく知っているという事もあり、さやはいつものように『この香り好き』と言って、マグカップから漂う湯気と香りを楽しむだで口を付けようとはせず、俺と奴との間にある緊張感など全く感じていないように和んでいた。
俺は最初から半分以下しか注いでいない自分のマグカップを手に取ると、やけどに気を付けながら一口すすった。
さあ、開戦だ。
「昨夜も妹と一緒でしたよね?」
俺が問いかけると、奴は慌ててカップから手を離した。
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
何を謝っているのか知らないが、奴は額がマグカップに当たりそうな勢いで頭を下げた。
「あなた、警察官でしたよね?」
俺の問いに、奴は懐から警察手帳を取り出して見せた。
「宮部尚生と申します。階級は巡査部長です」
見せられた警察手帳は、両親の事故や、あの災害の時に何度も見せられたものと同じで、偽警官ではなさそうだ。
「宮部さん、あなた、いったい何が目的で妹を連れまわしているんですか?」
語気を荒くしてて訪ねると、奴が後ろに下がった。『逃げるのか?』と、思わず腕をつかもうとした俺の前で、いきなり奴は床に両手をついて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。紗綾樺さんとは、結婚を前提にお付き合いさせて戴いております」
俺には奴の言っている言葉の意味が理解できなかった。それだけ『交際』という言葉も、『結婚』という言葉も、さやからは縁遠いものだったからだ。
本当なら、さやだって同級生達と変わらず、二十歳を過ぎたら何時でも結婚適齢期なんて言う、近所のジジババが自分達のことのように楽しげに話す噂話のネタにされてもおかしくない歳だ。
兄の贔屓目と言われてしまえばそれまでだが、実際、中学の頃から男子に告白されて困っていると相談されたこともある。
でも、今は違う。あの地震と津波がさやからすべてを奪い、さやを変えてしまった。
「は? あんた一体何を言ってるんだ?」
驚くというよりも、呆れる俺の腕をさやがつかんだ。
「本当なの」
感情のこもっていないさやの言葉からは、真偽を確かめることができない。
「そんなこと、いきなり言われて、はいそうですかって信じられるわけがないでしょう」
俺はさやの言葉を聞かなかったことにして、宮部に言い放った。
「確かに、お兄さんのお気持ちはわかります。この交際は、自分が紗綾樺さんに一目ぼれして、お付き合いして戴いているんです。でも、自分は結婚を前提とした、清く正しいお付き合いを続けていきたいと思っています」
奴の言葉に、怒りが燃え上がった。
二回目のデートでさやをホテルに連れ込んでおいて、何が『清く正しい』お付き合いだ。ふざけるな!
思った瞬間、左手がちゃぶ台を思いっきり叩いていた。
「最近の警察官は、平気で嘘をつくんですね。あなたが、今日、妹をどこへ連れて行ったかなんて、わかってるんですよ!」
普通に座っていてくれたら、胸倉をつかむくらいしてやりたかったのに、奴はまだ土下座したままだった。
「カラオケです」
「カラオケ」
奴と、さやが、ほぼ同時に答えた。
「さや、お前がカラオケに行かないことくらい、俺が一番よく知ってるんだ」
俺が言うと、さやは緊張感のない態度でお茶を一口飲んだ。
「結局、機械の使い方とか、いろいろ教えてもらったけど、歌を知らないから、お話だけして帰って来たの」
さやのことばに、奴が頭を上げた。
「ほんとうです。お話しかしていません」
いや、別にカラオケに行ったんなら、あんたは歌を歌ったってかまわないんだよ、そんなことをとがめる気はないんだから。でも、一番の問題は、二人して俺を騙そうとしているところなんだよ。
苛立ちを抑えるため、俺は香ばしい麦の香りを大きく吸い込んでお茶をすすった。
「どうしてそんなに怒っているの? 二人っきりでカラオケに行くのは悪い事なの?」
不思議そうにさやが尋ねた。
「カラオケなら別にいいんだよ。まあ、密室で二人っきりというのは問題がないとは言えないが、今の問題は、二人が口裏を合わせて嘘をついているってことなんだよ」
「嘘じゃありません。いまお見せします」
奴は言うと、自分のスマホを取り出し、地図を開いて場所を説明した。
確かに、俺がさやの居場所を調べた時に表示された場所のすぐ隣だった。
「店の裏側がちょっと風紀の悪い場所なんですが、店長が知り合いで予約が取りやすいので自分はよく利用するんです。あ、証拠のレシートがどこかに・・・・・・」
地図まで見せられて説明されると、これ以上追及するための根拠もないので、俺は仕方なく怒りの矛をおさめるしかなかった。
「本当に、お兄さんにご挨拶もしないまま交際を始めて申し訳ありません」
奴は床に頭をこすりつけそうなくらい平身低頭していた。
「頭をあげてください。状況は分かりました」
俺は言うと、さやの方に向き直った。
「さや、本当に、この人と付き合うつもりなのか?」
俺の問いに、さやはこくりと頷いた。
「さや、交際するっていう事がどういうことかわかっているのか? その、大人の男と女が交際するってことがどういう意味か・・・・・・」
俺の言葉が露骨だったのか、奴の顔が真っ赤になったが、さやは何のことかわらないと言った様子で、キョトンとして俺の事を見つめた。
「さや、他人と付き合うってことがどれだけ大変か、お前はよくわかってないんだ」
俺は言うと、さやの手を取った。
さやの手は冷たく冷え切っていた。あの日以来、さやの手はいつも冷たい。以前の、温かかった手とは全く違う。さやの手を握る度、俺は本当はさやも失ってしまっていて、さやが隣にいる夢を見ているだけなんじゃないかと不安になる。
「さや・・・・・・。お前は、人と違うんだ。わかっているだろ」
俺は説得するように話しかけた。
「紗綾樺さんの力の事なら、自分は全面的に信じていますし、知っています」
俺とさやの会話に、奴が割り込んできた。まったく、なんて奴だ。怒りが腹の底から溢れてくる。
「さあ、どうでしょうね。あなたは、妹の何を知ってるんですか?」
俺はさやの手を握ったまま奴に再び向き直った。こうして、ずっと握り続けていたら、いつか昔の温かいさやの手に戻るんじゃないかと、俺は今も思っている。
「紗綾樺さんは、とても的中率の高い占い師で、自分をはじめ人の考えを読める能力を持っていると思っています」
奴は真っ直ぐに俺の目を見つめ返して答えた。
「それ以外は?」
「それ、以外ですか・・・・・・」
途端に奴の声のトーンか下がった。
「すいません、いつも紗綾樺さんが自分のことをわかってくれるもので、自分は紗綾樺さんのことを知ってるつもりでしたが、本当は何も知りません。自分が知ってるのは、紗綾樺さんが素敵な女性であることだけです」
「それで、あんたは遊びじゃなく、本当に結婚をしても良いと思えるのか? この先、あんたが浮気をしたら、妹はすぐにわかる。あんたがちょっとほかの女に興味を持っても妹にはわかる。そのうち、それが嫌になって、最後は厄介になって、妹を捨てるんじゃないのか?」
俺は遠慮なく言葉をぶつけた。本当に俺以外の誰かがさやのことを理解してくれて、側にいてくれるなら、それはとても喜ばしいことだ。でも、人間はそんなにキレイな生き物じゃない。すぐに秘密が無いことに耐えられなくなる。どこまでさやに知られているのか、疑心暗鬼になる。そして、最後は化け物呼ばわりでお終いだ。
もう二度と、あんな悲しくて、つらい思いをさやにはさせたくない。
「自分は、紗綾樺さんを裏切るようなことをするつもりはありません。傷つけたり、苦しめたりするつもりはありません」
そう、恋する男にとって試練は燃焼促進剤みたいなものだ。俺が反対すれば、それだけ奴は燃え上がる。だから、反対するのは間違いだ。そんなこと、もう若くない俺ならよくわかる。
「わかりました」
俺があっさり承諾すると、奴は驚いたような表情を浮かべた。それに対して、さやは表情一つ変えずにお茶を飲んでいる。
この温度差が、正直俺には理解できない。どう考えても、さやが結婚を前提に奴と交際しようとしているように思えない。でも、本人達がそう言うなら信じるしかない。
「そのかわり、デートの予定は保護者代わりである自分に報告すること」
「あの、紗綾樺さんは、既に成人されてますよね?」
恐る恐る訊くあたり、本当にこいつはさやのことを何も知らないらしい。
「とにかく、妹と交際しようと言うなら、条件は飲んでもらいます。妹を成人していると思わず、未成年の女の子と付き合っている位の用心深さで、清く正しく交際すること。デートの日は、帰りは送ってくること。いいですか?」
俺の言葉に不承不承、奴が頷いた。たぶん、奴にはなぜ俺がさやのことを未成年扱いさせようとしているのかがわからないんだろう。まあ、当然と言えば、当然だが、交際を続けていれば、そのうちわかるはずだ。
「お兄ちゃん、お茶ちょうだい」
こういう、重要なときでも、さやは何も変わらない。俺はさやの願い通り、ティーポットからお茶を注ぐ。
「あついぞ」
念の為、一声かけると、さやはコクリと頷いた。
「あの、お兄さんの連絡先を教えていただけますか?」
奴の問いに、俺は手近なメモに携帯電話の番号を走り書きして手渡した。
不服そうな奴の表情から、名刺が欲しいのだとはわかる。でも、今の俺はしがない派遣スタッフで、名刺なんてものは持たされていない。今やっている仕事だって、元々自分がやっていた設計士の仕事ではなく、設計士のアシスタント業務だ。
「すいませんね。名刺なんて洒落た物を持てる仕事に就いてないんですよ」
俺が言うと、奴は返事に困ったように沈黙した。
「あ、もう一つ、条件があります」
俺が言葉を次ぐと、さやが少し鋭い視線を向けた。
「さやの過去を知ろうとしないでください」
俺の要求が意外だったのか、さやはすぐに視線を緩めた。
「さやに家族のこととか、昔のこととか、訊かないでください。それが、最後の条件です」
確かに、俺の言葉は矛盾している。さやの何を知っているのかと問うたのに、知ろうとするなと言うなんて、大きな矛盾だ。でも、さやにつらい思いをさせないためには、それしかない。奴が勝手に調べるなら仕方ないが、何も覚えていないさやを質問責めにして苦しめられるのは困る。何しろ、さやは何も覚えていないんだから。
「あの、お兄さんのお名前も伺ってよろしいですか?」
奴が控えめに言う。
「天生目です」
「あ、下のお名前です」
言われてから、奴が苗字を知らないはずがないことに俺は気付いた。
「ああ、すいません。天生目宗嗣です」
「宮部尚生です。よろしくお願い致します」
奴は礼儀正しく名乗りなおし、頭を下げた。もしかしたら、俺が思っているほど悪い奴ではないのかもしれない。
「お茶を戴きます」
そう言うと、奴は飲み頃になった麦茶に口を付けた。その向かいで、さやが大きなあくびをした。
「宮部さん、ご覧の通り、妹も疲れていますので、今晩はこの辺で」
俺が声をかけると、奴は一気に麦茶を飲み干した。警察官になるくらいだ、俺が思っていたよりも、根性があるらしい。
「お兄さん、では、今日はこれで失礼いたします。遅い時間から、お茶までご馳走になったあげく、快く紗綾樺さんとの交際も認めていただき、本当にありがとうございました」
奴はもう一度、深々と頭を下げた。
「さや、宮部さんはお兄ちゃんが見送るから、お前は早く風呂に入りなさい」
俺は言うと、さやの正式な交際相手となった宮部を見送りに外まで出向いた。