僕は隣で静かに目を閉じている紗綾樺さんに声をかけることもできず、ただひたすら目的地を目指して車を走らせた。
僕のために今日の仕事をお休みにさせてしまったが、生活は大丈夫なんだろうか?
見た目で判断するのはよくないことだとはわかっているけれど、お兄さんと二人で暮らすには、プライバシーもないような小さなアパートだったし、姿を現したお兄さんも、バリバリのビジネスマンという雰囲気ではなかった。
紗綾樺さんはスマホを持ってはいるが、同じ年代の女性のように使いこなしている風ではない。お兄さんがGPSで居場所を特定していると知っても怒りもしないところを見ると、兄妹の関係はとてもよく、紗綾樺さんはとてもお兄さんを信頼しているみたいだ。でも、昨夜のお兄さんの態度は、ちょっと過保護な気がする。あれじゃ、まるで女子高生に対するような態度だ。
どう見ても、紗綾樺さんは成人に達しているし、姉じゃなく、お兄さんと住んでいるということの方が不思議な感じがする。
震災で被災したというから、家族で離れ離れに暮らしているのだとしたら、仕方ないか。
「何か、音楽でもかけましょうか?」
何とか沈黙を破りたくて声をかけてみたが、紗綾樺さんは眠ってしまったようで、答えなかった。
警察官なら、襲われる心配はないか。
完全な安全パイとして扱われていることに、僕は寂しさを感じた。
いけない、いけない。『惚れっぽいのが、あなたの欠点なのよね』という母の言葉が思い出される。確かに、過去何度となく道ですれ違う女性に恋い焦がれたこともある。そんな僕にとって紗綾樺さんは一目で恋に落ちてもおかしくないくらい素敵な女性だ。
ストレートの黒髪、卵型の顔、理知的な額を隠す揃えられた前髪。白い肌に鮮やかな紅の唇は蠱惑的といえる。それなのに、なぜか僕は紗綾樺さんに恋をしなかった。
あの出会った日、普通なら最初にすれ違ったときに恋をしていてもおかしくないのに、僕は紗綾樺さんに恋しなかったとハッキリ言いきれる。そして今も。それが、仕事に関係しているからなのか、それとも、何か特別な理由があるのか、それは僕にもわからない。
もちろん、好意はもっているし、信頼もしている。紗綾樺さんなら、この行き詰った捜査に何らかの光を与えてくれると、僕は確信している。これが超能力者とか、霊能力者と呼ばれる人たちに捜査を依頼するのと同じだという事はわかっている。そして、これがとても軽率な行動と人に言われることも分かっている。でも、一つだけ僕には確信がある。紗綾樺さんは僕が事件の話をする前から、事件の事を知っていた。僕の心を読んだにしろ、他の何かから情報を得たにしろ、警察しか知らないことを知っていた。
普通、捜査協力というものは、こちらの手の内を明かして、相手に協力を求めるもの、でも、今回は違う。紗綾樺さんは犯人でもなく、関係者でもなく、事件について知り得る能力を持っている人だ。だから、紗綾樺さんになら、行方不明の崇君を見つける突破口を開くことができると、僕は信じている。
たとえ誰も信じてくれなかったとしても、僕は信じているし、これからも紗綾樺さんの能力を信じられる。
夕方の渋滞も、隣で紗綾樺さんが体を休めていると思うと、苦ではなかった。
逆に、目的地の学校が近づくにつれ、また紗綾樺さんに無理をさせることになるという不安な気持ちになっていった。
警察車両ではなく、個人の車なので、迷惑にならないように学校近くのコインパーキングに再び車を停めた。
崇君の家から学校までは近く、学校からの帰りに少し足を延ばせば、崇君の家の近所を歩くこともできる場所を選んだ。
本当は、紗綾樺さんに負担をかけたくないのだが、住宅街にある崇君の家の近くには駐車できる場所が少なく、現在も誘拐の線を含めて捜査が進められていることもあり、路上駐車をしていれば、顔見知りに職務質問を受ける事になるのは間違いなかった。
「紗綾樺さん」
僕が声をかけると、彼女の切れ長の目がパチリと開き、黒曜石のような瞳が現れた。
「ここから学校まで、五分ほどの距離です。それから・・・・・・」
「崇君の家も、この近くなんですね」
僕が説明する前に、紗綾樺さんが口を開いた。
「少し、一人にしてください」
紗綾樺さんの言葉に、僕は慌てて頭を横に振った。
「ダメです。今日は、何度も具合が悪くなったじゃないですか。一人だったら、倒れてしまうかもしれません。少し距離を置いて、自分もご一緒します」
今にも車を降りそうな紗綾樺さんに言うと、僕は車のエンジンを切ってシートベルトを外した。
「じゃあ、少し離れてついてきてください」
紗綾樺さんは言うと、僕を待たずに車を降りてしまった。
急いで車を降りると、僕は紗綾樺さんの後に続いた。
紗綾樺さんの歩みはゆっくりとしていたが、確かに学校の場所を知っている人の歩き方だった。それは、普通の人が通る大通りを通らず、子供たちが良く使うであろう通学路を少し逸れた近道となる細い道を迷うことなく学校へと向かっていたからだ。
たぶん、他の人から見たら、彼女が初めてこの場所を訪れたとは信じられないくらい確かな歩調だった。
紗綾樺さんは時々立ち止まり、壁や木に手をついて瞑想しているように見えた。
時にはすぐに歩き出し、時には苦痛に耐えるように顔をゆがめながら、しばらくその場に立ち尽くしたりもした。
『そうか、紗綾樺さんの顔色が悪くなるのは、苦痛のせいなんだ』と、少しずつ顔色が蒼くなっていく紗綾樺さんを見つめて僕は思った。それでも、距離を置いてくれと言われているので、僕には紗綾樺さんの事を離れて見つめる事しかできなかった。
学校の壁に手をついてしばらく瞑想した紗綾樺さんは、糸の切れた操り人形のように、その場に再び膝をついて座り込んだ。
「紗綾樺さん!」
僕は慌てて走りよると、紗綾樺さんの体を抱き寄せた。
「すいません。・・・・・・この地の気が荒くて」
紗綾樺さんは、僕の事を気遣うように言った。
実際、説明されても『地の気が荒い』とどうなるのか、自分には全く理解できなかったが、少なくとも力を使う度に紗綾樺さんに激しい苦痛が伴うのだという事を僕は痛いほど理解した。
そう、あんなに紗綾樺さんのお兄さんが心配したのは、僕のような何も知らない他人が、紗綾樺さんの力を頼みにして、どれ程の負担が紗綾樺さんの体や精神にかかるかも顧みず、無責任な頼みごとをして紗綾樺さんに力を使うことを強要することだったのだと、僕は痛いほど思い知らされた。
あの占いの館で、何もないようにして占いを行っていた姿から、紗綾樺さんが難なく力を使うことができるのだと勘違いした愚かな自分に、僕は自分で腹さえ立ってきた。
「大丈夫です。すぐに立てるようになります」
紗綾樺さんの言葉は、このような症状がいつものことだと教えてくれた。
紗綾樺さんには、縁もゆかりもない崇君の非公式な捜査依頼を受けるという事が、眩暈や、貧血、痛みと言った色々な苦しみを自分にもたらすことだと知りながら、協力してくれたのだと、僕は気付くとともに、更に激しく後悔した。
「申し訳ありませんでした」
僕は腕の中で力なく体を預けている紗綾樺さんに謝罪した。
「僕は、もっと簡単に考えていたんです。あの占いの時みたいに、ほんの数分で、何もかもわかるんじゃないかって。こんな風に、あなたが苦しむのだと分かっていたら、お願いしたりしませんでした」
血の気の引いた蒼い顔を見れば、全てが苦痛以外の何物でもないことは、誰の目にも明白だった。
「大丈夫です。・・・・・・崇君の家のそばに連れて行ってください」
「紗綾樺さん、自分には、これ以上あなたの苦しむ姿を見て居られません」
僕は自分の気持ちを偽ることなく伝えた。
すると、紗綾樺さんは僕の腕に手をかけて僕の顔をまっすぐに見上げた。
「探させてください、私に・・・・・・。私に、死体ではなく、生きている崇君を私に見つけさせてください」
その瞳には強い意志が込められていた。
細く華奢な体からは想像もできないくらい強い意志が・・・・・・。
「車で近くを走ります。それで良いですか?」
僕がダメだと言っても、駐車場から学校までの道が分かった紗綾樺さんなら、自力で崇君の家にたどり着くことができる。ここで言い争うよりも、紗綾樺さんが自力で目的を達成するのではなく、体力を温存できるように、そして今みたいに外で倒れそうになることを防ぐことができるように、車で移動するという妥協案を承諾してもらえるように祈るほかなかった。
「そうですね。今日は、家の前を通ってもらえれば、それでいいです。お家を訪ねたり、ご家族や知り合いに会う必要はありません」
なんとか紗綾樺さんの合意を得ると、僕は再び紗綾樺さんを抱き上げた。
「あの、恥ずかしいです」
街中で抱き上げた時は、ほとんど意識がなかったので抵抗がなかったのだろうが、紗綾樺さんはお姫様抱っこされたことに顔を赤らめていた。
「今日、二回目です。今更、恥ずかしがらないでください」
僕が言うと、紗綾樺さんの顔はさらに赤くなり、両手で顔を覆ってしまった。
「できたら、手を僕の首の後ろに回してつかまってください。落ちて怪我しないように」
紗綾樺さんは、おっかなびっくりといった感じで、僕の首に手を回した。
「走りますから、口は閉じていてください」
僕は言うと、紗綾樺さんを抱いて駐車場まで走り続けた。幸運にも、誰ともすれ違うことなく、僕たちは車まで戻ることができた。
車のロックを解除するのももどかしく、僕は紗綾樺さんを助手席に座らせた。
それでも、苦しそうな紗綾樺さんの顔色は少しも良くならなかった。
「大丈夫です」
心配する僕の心を読んだのだろう紗綾樺が尋ねもしないのに答えた。
「近くに車を止めると、職質をかけられる可能性があります。走り抜けますが、それで良いですか?」
念のため、僕は紗綾樺さんの確認を取る。
「はい。大丈夫です」
紗綾樺さんの答えを聞いた僕は、住宅街の制限速度をかなり下回るゆっくりとしたスピードで崇君の家へと向かった。
「この道で崇君は通学していたと思われます」
尋ねられていなかったが、少しでも紗綾樺さんの役に立てばと、説明を続けた。
「ここを右に曲がって・・・・・・」
「大丈夫です。見えます。崇君が歩いているのが」
紗綾樺さんの声は、僕の言葉が邪魔になっていることを伝えていた。
半ば閉じかけた瞳で紗綾樺さんは僕には見えない崇君を見ているのだと、僕も気付いた。
☆☆☆
僕のために今日の仕事をお休みにさせてしまったが、生活は大丈夫なんだろうか?
見た目で判断するのはよくないことだとはわかっているけれど、お兄さんと二人で暮らすには、プライバシーもないような小さなアパートだったし、姿を現したお兄さんも、バリバリのビジネスマンという雰囲気ではなかった。
紗綾樺さんはスマホを持ってはいるが、同じ年代の女性のように使いこなしている風ではない。お兄さんがGPSで居場所を特定していると知っても怒りもしないところを見ると、兄妹の関係はとてもよく、紗綾樺さんはとてもお兄さんを信頼しているみたいだ。でも、昨夜のお兄さんの態度は、ちょっと過保護な気がする。あれじゃ、まるで女子高生に対するような態度だ。
どう見ても、紗綾樺さんは成人に達しているし、姉じゃなく、お兄さんと住んでいるということの方が不思議な感じがする。
震災で被災したというから、家族で離れ離れに暮らしているのだとしたら、仕方ないか。
「何か、音楽でもかけましょうか?」
何とか沈黙を破りたくて声をかけてみたが、紗綾樺さんは眠ってしまったようで、答えなかった。
警察官なら、襲われる心配はないか。
完全な安全パイとして扱われていることに、僕は寂しさを感じた。
いけない、いけない。『惚れっぽいのが、あなたの欠点なのよね』という母の言葉が思い出される。確かに、過去何度となく道ですれ違う女性に恋い焦がれたこともある。そんな僕にとって紗綾樺さんは一目で恋に落ちてもおかしくないくらい素敵な女性だ。
ストレートの黒髪、卵型の顔、理知的な額を隠す揃えられた前髪。白い肌に鮮やかな紅の唇は蠱惑的といえる。それなのに、なぜか僕は紗綾樺さんに恋をしなかった。
あの出会った日、普通なら最初にすれ違ったときに恋をしていてもおかしくないのに、僕は紗綾樺さんに恋しなかったとハッキリ言いきれる。そして今も。それが、仕事に関係しているからなのか、それとも、何か特別な理由があるのか、それは僕にもわからない。
もちろん、好意はもっているし、信頼もしている。紗綾樺さんなら、この行き詰った捜査に何らかの光を与えてくれると、僕は確信している。これが超能力者とか、霊能力者と呼ばれる人たちに捜査を依頼するのと同じだという事はわかっている。そして、これがとても軽率な行動と人に言われることも分かっている。でも、一つだけ僕には確信がある。紗綾樺さんは僕が事件の話をする前から、事件の事を知っていた。僕の心を読んだにしろ、他の何かから情報を得たにしろ、警察しか知らないことを知っていた。
普通、捜査協力というものは、こちらの手の内を明かして、相手に協力を求めるもの、でも、今回は違う。紗綾樺さんは犯人でもなく、関係者でもなく、事件について知り得る能力を持っている人だ。だから、紗綾樺さんになら、行方不明の崇君を見つける突破口を開くことができると、僕は信じている。
たとえ誰も信じてくれなかったとしても、僕は信じているし、これからも紗綾樺さんの能力を信じられる。
夕方の渋滞も、隣で紗綾樺さんが体を休めていると思うと、苦ではなかった。
逆に、目的地の学校が近づくにつれ、また紗綾樺さんに無理をさせることになるという不安な気持ちになっていった。
警察車両ではなく、個人の車なので、迷惑にならないように学校近くのコインパーキングに再び車を停めた。
崇君の家から学校までは近く、学校からの帰りに少し足を延ばせば、崇君の家の近所を歩くこともできる場所を選んだ。
本当は、紗綾樺さんに負担をかけたくないのだが、住宅街にある崇君の家の近くには駐車できる場所が少なく、現在も誘拐の線を含めて捜査が進められていることもあり、路上駐車をしていれば、顔見知りに職務質問を受ける事になるのは間違いなかった。
「紗綾樺さん」
僕が声をかけると、彼女の切れ長の目がパチリと開き、黒曜石のような瞳が現れた。
「ここから学校まで、五分ほどの距離です。それから・・・・・・」
「崇君の家も、この近くなんですね」
僕が説明する前に、紗綾樺さんが口を開いた。
「少し、一人にしてください」
紗綾樺さんの言葉に、僕は慌てて頭を横に振った。
「ダメです。今日は、何度も具合が悪くなったじゃないですか。一人だったら、倒れてしまうかもしれません。少し距離を置いて、自分もご一緒します」
今にも車を降りそうな紗綾樺さんに言うと、僕は車のエンジンを切ってシートベルトを外した。
「じゃあ、少し離れてついてきてください」
紗綾樺さんは言うと、僕を待たずに車を降りてしまった。
急いで車を降りると、僕は紗綾樺さんの後に続いた。
紗綾樺さんの歩みはゆっくりとしていたが、確かに学校の場所を知っている人の歩き方だった。それは、普通の人が通る大通りを通らず、子供たちが良く使うであろう通学路を少し逸れた近道となる細い道を迷うことなく学校へと向かっていたからだ。
たぶん、他の人から見たら、彼女が初めてこの場所を訪れたとは信じられないくらい確かな歩調だった。
紗綾樺さんは時々立ち止まり、壁や木に手をついて瞑想しているように見えた。
時にはすぐに歩き出し、時には苦痛に耐えるように顔をゆがめながら、しばらくその場に立ち尽くしたりもした。
『そうか、紗綾樺さんの顔色が悪くなるのは、苦痛のせいなんだ』と、少しずつ顔色が蒼くなっていく紗綾樺さんを見つめて僕は思った。それでも、距離を置いてくれと言われているので、僕には紗綾樺さんの事を離れて見つめる事しかできなかった。
学校の壁に手をついてしばらく瞑想した紗綾樺さんは、糸の切れた操り人形のように、その場に再び膝をついて座り込んだ。
「紗綾樺さん!」
僕は慌てて走りよると、紗綾樺さんの体を抱き寄せた。
「すいません。・・・・・・この地の気が荒くて」
紗綾樺さんは、僕の事を気遣うように言った。
実際、説明されても『地の気が荒い』とどうなるのか、自分には全く理解できなかったが、少なくとも力を使う度に紗綾樺さんに激しい苦痛が伴うのだという事を僕は痛いほど理解した。
そう、あんなに紗綾樺さんのお兄さんが心配したのは、僕のような何も知らない他人が、紗綾樺さんの力を頼みにして、どれ程の負担が紗綾樺さんの体や精神にかかるかも顧みず、無責任な頼みごとをして紗綾樺さんに力を使うことを強要することだったのだと、僕は痛いほど思い知らされた。
あの占いの館で、何もないようにして占いを行っていた姿から、紗綾樺さんが難なく力を使うことができるのだと勘違いした愚かな自分に、僕は自分で腹さえ立ってきた。
「大丈夫です。すぐに立てるようになります」
紗綾樺さんの言葉は、このような症状がいつものことだと教えてくれた。
紗綾樺さんには、縁もゆかりもない崇君の非公式な捜査依頼を受けるという事が、眩暈や、貧血、痛みと言った色々な苦しみを自分にもたらすことだと知りながら、協力してくれたのだと、僕は気付くとともに、更に激しく後悔した。
「申し訳ありませんでした」
僕は腕の中で力なく体を預けている紗綾樺さんに謝罪した。
「僕は、もっと簡単に考えていたんです。あの占いの時みたいに、ほんの数分で、何もかもわかるんじゃないかって。こんな風に、あなたが苦しむのだと分かっていたら、お願いしたりしませんでした」
血の気の引いた蒼い顔を見れば、全てが苦痛以外の何物でもないことは、誰の目にも明白だった。
「大丈夫です。・・・・・・崇君の家のそばに連れて行ってください」
「紗綾樺さん、自分には、これ以上あなたの苦しむ姿を見て居られません」
僕は自分の気持ちを偽ることなく伝えた。
すると、紗綾樺さんは僕の腕に手をかけて僕の顔をまっすぐに見上げた。
「探させてください、私に・・・・・・。私に、死体ではなく、生きている崇君を私に見つけさせてください」
その瞳には強い意志が込められていた。
細く華奢な体からは想像もできないくらい強い意志が・・・・・・。
「車で近くを走ります。それで良いですか?」
僕がダメだと言っても、駐車場から学校までの道が分かった紗綾樺さんなら、自力で崇君の家にたどり着くことができる。ここで言い争うよりも、紗綾樺さんが自力で目的を達成するのではなく、体力を温存できるように、そして今みたいに外で倒れそうになることを防ぐことができるように、車で移動するという妥協案を承諾してもらえるように祈るほかなかった。
「そうですね。今日は、家の前を通ってもらえれば、それでいいです。お家を訪ねたり、ご家族や知り合いに会う必要はありません」
なんとか紗綾樺さんの合意を得ると、僕は再び紗綾樺さんを抱き上げた。
「あの、恥ずかしいです」
街中で抱き上げた時は、ほとんど意識がなかったので抵抗がなかったのだろうが、紗綾樺さんはお姫様抱っこされたことに顔を赤らめていた。
「今日、二回目です。今更、恥ずかしがらないでください」
僕が言うと、紗綾樺さんの顔はさらに赤くなり、両手で顔を覆ってしまった。
「できたら、手を僕の首の後ろに回してつかまってください。落ちて怪我しないように」
紗綾樺さんは、おっかなびっくりといった感じで、僕の首に手を回した。
「走りますから、口は閉じていてください」
僕は言うと、紗綾樺さんを抱いて駐車場まで走り続けた。幸運にも、誰ともすれ違うことなく、僕たちは車まで戻ることができた。
車のロックを解除するのももどかしく、僕は紗綾樺さんを助手席に座らせた。
それでも、苦しそうな紗綾樺さんの顔色は少しも良くならなかった。
「大丈夫です」
心配する僕の心を読んだのだろう紗綾樺が尋ねもしないのに答えた。
「近くに車を止めると、職質をかけられる可能性があります。走り抜けますが、それで良いですか?」
念のため、僕は紗綾樺さんの確認を取る。
「はい。大丈夫です」
紗綾樺さんの答えを聞いた僕は、住宅街の制限速度をかなり下回るゆっくりとしたスピードで崇君の家へと向かった。
「この道で崇君は通学していたと思われます」
尋ねられていなかったが、少しでも紗綾樺さんの役に立てばと、説明を続けた。
「ここを右に曲がって・・・・・・」
「大丈夫です。見えます。崇君が歩いているのが」
紗綾樺さんの声は、僕の言葉が邪魔になっていることを伝えていた。
半ば閉じかけた瞳で紗綾樺さんは僕には見えない崇君を見ているのだと、僕も気付いた。
☆☆☆