キッチンに立つ母の姿を見るのが好きだった。
 記憶にある母はエプロンの似合う優しい女性だった。柔らかくいい匂いのする手が美味しい料理を作り出す。触られると嬉しい気持ちになった。
 佐和子が立つようになっても、見ていた。どうしても重なる。佐和子の向こうに母を見ていた。
 時間とともに記憶は朧げになり、自分ではどうしようもなくなる。
 母よりも佐和子の後ろ姿のほうが濃くなっても、まるで自分の記憶を塗りつぶすようにして、乃里は無理やり母の姿を形作った。
 わたしが忘れたら、誰がお母さんを思い出すの。
 体調を崩して熱を出したとき、怖い夢を見た。夢でうなされ、薄く覚醒を繰り返し、間に触れる母の手の温かさを覚えている。この手に触れるために怖い夢から這い上がるようにしてもがいた。
 母は優しく手を握って頭を撫でてくれていた。
 ずっと、優しく、温かな手で。大丈夫よ、お母さんここにいるから。
 その声を目指して、手を伸ばす。

「大丈夫よ」
「おか、さん」
 ふっと目を覚ますと視界が歪む。
 母の手が額にあるのか。
 夢でも嬉しくて、そのせいで涙が出て視界が歪んでいたのだと気付く。
「目が、覚めた?」
 しっとりと優しい女性の声だった。シズかと思ったが、違う。
 そうだった。自分は眠っていたのだ。背中に当たる布団、腹にかかるタオルケット。
 視線を天井からずらすと、こちらを見て優しく微笑む顔。額に手を乗せていたのは佐和子だった。
「き、来たの……」
「当たり前でしょう。起きられそう? 寝ている間に熱測ったら下がったみたいだから、帰ろう。家でゆっくり休もう」
 しろがねに、佐和子がいる。ぎゅっと目を閉じた。
 ここは、乃里の居場所になるところだ。あの家には自分の場所が少なくなっている。息が詰まる。リビングにも、玄関にも、廊下にも。
 悲しくなって、余計に母を思い出す。思い出がじゅうまんして、息ができない。自分は、なにに対して泣いているのかわからなくなるほど。
「具合、悪いのね。泣かなくても大丈夫よ。一緒に帰ろうね」
「どうして、来たの」
「当たり前でしょう。心配だから。お父さんも里司も心配してる」
 佐和子の手が額に置かれたまま。乃里は体をよじって横を向き佐和子に背を向けた。その拍子に、腹の上にいた牡丹が畳に降り立った。
「乃里ちゃん」
「嫌。帰らない」
「え?」
 にゃお、と牡丹がひとつ鳴いた。なにか言っている? 行くな、だろうか。それとも。言葉がわからないのがもどかしい。人間になって話してくれればいいのに。牡丹を見ていたら襖を前足で開けて、部屋を出て行った。
「乃里ちゃん……ね、帰ろう」
 背を向けたままで首を振る。優しくしてくれているのはわかる。けれど、出て行ってほしい。帰ってほしい。
「家に、プリンあるから」
「こ、子供じゃないんだから。プリンとか、そんなのいらない。帰らない」
「子供だよ、乃里ちゃんは、」
「うるさい」
「乃里ちゃん」
 聞きたくない。名前を呼ばないでほしい。指を突っ込んで耳をふさいだ。子供だよって、どういう意味だ。
 わたしは、あんたの子供じゃない。
「迎えに来てほしいなんて、頼んでない。家にいたって息ができないよ!」
 佐和子は続けてなにかを言ったのかもしれないけれど、乃里には聞こえない。
 耳をふさいでじっとしていると、まるで水の中にいるようだ。ずっとこのままでいたいとすら思う。
 耳を塞ぐ指を抜くと、ちょうど襖がノックされた。「失礼します」と牡丹の声だ。廊下で人間になったのだろう。
 佐和子が返事をし、牡丹が入ってきた様子。ふたりに背を向けているので見えないが。
「お母さん、乃里ちゃん目が覚めましたか? お話声が聞こえたので」
「あ、はい。すみません……お世話になってしまって。熱も下がったようで、連れて帰ります」
「熱下がりましたか、安心しました。少し遠出をする用事があったので、冷えてしまったのかもしれません。申し訳ございません」
「そんな、うちもご迷惑おかけしました」
「大事な娘さんですから。乃里ちゃんが一生懸命働いてくれるのですごく助かるんですよ。料理あ、大好きなんですね。お母さんの影響でしょう」
 知っているくせに、なんでそんなことをいうの。牡丹はいじわるだ。
「乃里ちゃーん。どうかな、帰れそう?」
 牡丹の問いかけに乃里は答えない。佐和子も黙っている。静寂が乃里の気持ちを追い込んだ。
 ふたりがどんな話をしていたかなんて聞こえていたくせに。乃里は親指を齧った。
「乃里ちゃん」
 乃里はふたりに背中を向けたまま、布団をかぶった。
 ああ、本当に駄々をこねる子供のようだ。