半月の弧を描くそれは、肉の色を透かして桃の果肉の照り。先端は白く濁り、人体の有する数少ない武器として、小さいながらも確かに存在を主張していた。
 この道具、いかに切るべき。
 必要と余剰の狭間を探り、じっと睨む。白い地肌の年輪に、黒い線が見えた。
 ここ。
 線が消えるまえに、素早く刃を当て、力を込める。
 ぱちり、と小気味いい音が弾けた。角張った箇所は弱味になる。やすりで丁寧に削る。満足のいく丸みになった。足指で畳を握る。確かな反作用が骨に伝わる。
 善し。実に善し。







「お兄、何やってんの?」

「足の爪切り」

「それは見れば分かるけど、爪切りに30分かける意味は?」

 稲の目が厳しい。月曜日の朝のことである。

 「ふむ。いいか稲、俺は昨日、他流死合というものをやった」

 「そこからおかしいけどまあ許す。で?」

 妹が寛大だ。あと字もおかしい。

「手応えはあったが詰めを誤り逃げられてしまった」

「うん」

「俺はこれに足の爪が秘密とみた!」

「うん、お兄、病院いこっか」

 妹の目が優しい。

「待て待て、今説明するから待て」

「聞こう」

 妹が携帯を下ろす。

「俺はあの時確かに奴に切り込んだ。だが奴はそれほど応えた様子を見せなかった。これは恐らく変わり身かなにかだな」

「ふんふん」

「その後形勢不利と察して奴は逃げだした。俺には奴がどうやってあの場から抜け出たのかまるでわからない」

「それで?」

「これは一種の催眠と特殊な歩法による幻惑だと感じた。これには自重と地面の反発を最大に利用する必要がある。そのために指の力を地に押さえつけるのに適切な形の爪を作る。よって足の爪切りだ」

 「なる……ほど……?」

 ”ねーよ”

 聞こえない。

「そして俺はついに爪切りを完成させたのだ!見よ!この足指を」

「おお!爪が指先の曲線と完璧に一致している!最早芸術品……ってあほかー!!」

 妹怒りの十文キックが堂馬の顔面に炸裂した。







 玄関のチャイムが鳴った。嫌な予感。

「私知らないよ」

「じゃあ俺だ」

 玄関を開ける。

「どちら様で」

「君が、芦屋堂馬くんかな」

「そうですが」

 立っていたのは50代くらいの長身の男性。やつれてはいるが、壮年とは思えない引き締まった体型。どこか優しげな目もとに覚えがある。後ろにはその一人娘。

「私は能島道場の道場主を務めている、能島花伝(のうじまかでん)と申す者。此度は娘を助けていただいたばかりか、私の不徳ゆえに起こった惨劇を食い止めていただき、感謝の言葉もない」

 娘と同い年の少年に、深く、深く頭を下げる。

「いえ、こちらも巻き込まれただけなので、ちゃぶ台の補償をしていただければ言うことはありません。出来れば腕時計も」

 ああ、Gショック。心の傷は深い。

「勿論出来る限りの謝礼はしよう。そこで、相談があるのだが」

 相談?首を傾げると、控えていた風雅が引き継いだ。

「お礼は今出来る限りのことはします。ですが、知っての通り我が道場は事件の影響で大変苦しい状況にあり、満足な補償も出来ません」

「まあ、今すぐ金払えないのなら待ちますけどね」
 
「いえ、それもあるんですが……」
 
「ん?」

 口ごもる風花。ますます訳がわからない。と、また花伝が話しだした。

 「私はこれまで流派の振興ばかりを考え、強さと格式が全てと思っていた。女子供を排して、流派の力の向上を追い求め、その結果がこれだ。鍵坂師範代にはいくら詫びても足りない。今の体制で道場を維持するのは不可能だろう」

 過ちを認め、自らの非を改めて未来を見据える。どんな人でもそう簡単なことではない。

「そこでだ。経営方針を転換して、体術を取り入れたエクササイズ教室を開こうと思っているのだよ!」

「あれ?」

 何かが崩れ落ちている気がする。前提とか。

「しかしそうなると剣術の指導が難しくなる。私一人では厳しいだろう。そこでだ。堂馬くんに我が道場の師範代をやって欲しい!君ほどの腕だ、師範代を務めるには何の支障もない。さらに妖刀事件を解決に導いた英雄となれば入門者も倍増」

「帰れぇぇえええ!」

 靴箱を踏み切り天井すれすれまで跳躍。縦に半回転しつつ、上になった脚に身体全体でひねりを加え、後ろから延髄蹴りをかます。
 天山鳶流、枯葉蟷螂(かれはとうろう)
 だが、既に首に回されていた腕に防がれる。

「ぬう!素晴らしい蹴りだ。ますます欲しくなった。給金も弾むぞ!」

「やかましい!胃袋ひっくり返っちまえ!」

 構えた堂馬に風花が縋りつく。

「お願いしますぅ。今回の事件でお弟子さんも減ってしまって今月ほんとに厳しいんですよぉ」

「ええい!寄るな寄るな貧乏神が!厄いのが移るじゃねーか!」
 
「ふむ、今回は時期が悪かったようだね。だが私は諦めんぞ。君とならエクササイズ業界で天下を狙える!」

「核心がすり替わってんぞこのタコ!とっとと出てけぇぇええ!」

 きちんと一礼して出て行く。礼儀の他にわきまえて欲しいものがあるのだが。

「稲、バルサンないか!?」

「そんなのないよ。第一煙たいでしょーが」

「ならゴキジェットだ。ゴキジェットをくれ。あとファブリーズ」

「普通塩じゃない?」

「塩なんて撒いたところで山羊が寄ってくるだけだ。真の近代人は化学で勝つ!」

 玄関に殺虫剤と消臭剤をかけ終わり、部屋に戻る。

”それにしても幸先がいいねえ。3日おかずに化生の類と連戦とは。お前さんよっぽど才能があるんだな”

 一人の部屋だ。稲は朝練。静けさが訪れる。

”やっぱり無視かい。まあいい。最早(えにし)はつながったんだ。解るだろ?俺様がどこに在るか。何を思うか。俺様の渾名は無縁。主との縁しか持たぬ、名もなき太刀よ。仲良くいこうぜ、なあ”

 剣は喋らない。妖刀の夜は明け、人の時間が来る。図らずも手に入れてしまった太刀をしまい、準備を終えた堂馬は学校に向け走り出した。

 だが、夜が明ける時、次の夜は既に忍び寄っているのだ。