「俺はあんたを殺したんだ」
突拍子も無い告白で面を食らう私に、彼はいっそ真摯な程直線的な眼差しで、宣言した。
「だから、今度は守る」
【交錯勇者 - 2.再来宣言】
駆け付けた教員に救助された灯子は、生徒二人と新井、倒れた闖入者の四人と共に病院へ搬送された。
空き教室の惨状に比べ騒ぎがそこまで大きくならなかったのは、生徒が殆ど残っていなかった御蔭だろう。ご近所はそれなりにお騒がせしたようだが。
灯子は大した怪我をしておらず、始めは養護教諭として付き添いのつもりだったけども、一応傷を負っているので大事を取って診てもらうことになった。
「埜途!」
診察が終わり、替えのシャツに着替えた灯子が他の教師と落ち合ったとき。保護者だろうか、四十代の女性が病室に駆け込んで行くのが見えた。
どなたですか、と訊いた灯子に、運ばれた生徒の属する学年の学年主任が神妙な顔で囁いた。
「冴紀くんのお母様だ」
「冴紀くん……ですか?」
確か、今日運ばれた生徒は田代と里中だったはず、と灯子が不思議そうに首を傾げていると、学年主任は続けた。
「冴紀埜途……きみが支えていた男だ。四年前行方不明になったウチの生徒だよ」
「……もう、あかりは寝ちゃったかな?」
最近顔も合わせていない家族のことを思い浮かべ、気分が沈んだ。
────あのあと、灯子が教員たちと合流した警察に事情聴取を受け、解放されたときにはすでに二十三時を回っていた。
闖入者が実は四年前に消えた生徒だったなんて、灯子は思いも寄らなかった。
「まさか、あんなときに帰って来るなんて」
帰って来たのはよろこばしいことだ。だが、と、灯子は暗い帰路を歩きながら考える。
“何で……何で、“勇者様”がいるんだよっ!”
「……」
結局、アレは『何』だったのだろうか。
ヒトとは思えぬ色彩はともかく、不審者のあどけない顔立ちに年の位は、普段見ている生徒たちとそう変わらないみたいだった。
「いったい何だったんだろ……彼、冴紀くんとは知り合いっぽかったけど────」
余り良い知り合いでは無さそうだ。灯子がそう考え、公園の前を横切った瞬間。
「……ぇ、」
背後で公園の木が折れた。木の幹が、中程から真っ二つに折れたのだ。枝の重さに轟音を立て木は倒れた。立派に伸びたその太い枝は、まるで退路を絶つように横たわっている。
「見付けた、偽物」
呆然とする灯子に、上から声が降って来た。
何でこんなことに────灯子は公園の中を疾走していた。
前門の狼後門の虎ではないが、前に不審者後ろに樹木では公園を突っ切る外無い。
「あっははははっ! 逃げろ逃げろー!」
公園は木々が繁る中を遊歩道が敷かれ休憩スペースが設けられている、所謂散歩やウォーキングを目的とした場所だった。
平時なら、灯子も好んでいた木漏れ日を葉に透かす木々も、足の鉤爪を器用に使って空を疾駆する不審者に、今は灯子を追い詰める仕組みと化している。
「……っはぁっ……はぁっ……」
背中に打ち身、胸に浅くは在るけれど切り傷だ。ましてやさっきの現在では、体力の限界だって来ている。だからと言って、木の間を飛び回って煽る不審者の追跡が、止まることは無い。
灯子が止まればトドメを刺され兼ねない。灯子はよろめこうとも、歩みを止めなかった。
しかし。
「……っ」
木の根に引っ掛かり転倒する。疲労で縺れ掛け堪えたところ、引っ掛けしまったみたいだ。
灯子が転がった体を起こすと頭上に影が落ちた。
「終わりだな? 偽物」
仰ぎ見た不審者はニタリと笑った。
「────ぁっ……」
俯せで上体を起こした灯子を不審者は蹴り上げる。勢い余って後ろに引っ繰り返った。
「……仲間を殺され国を奪われ、やっと世界を越えて逃れたのに……まさかまだこんな目に遭うとはな……」
不審者は手のひらを灯子に翳す。座り込んだまま、灯子は動けない。
「……お前を壊せば……私の溜飲も下がるだろう」
ゴゥッと音を立て、空き教室のときのように、風が不審者の手に集中する。冷や汗が灯子の頬を伝う。
「吹き飛ばしてやろうか? 切り刻んで晒したほうがヤツらには効果的かな?」
不審者のベージュの瞳は楽しげに歪んでいて、けれども本気で灯子を殺そうとしていることだけは見て取れた。
「……何で、」
思わず、灯子の口から洩れたのは質疑、だった。不審者は灯子の言葉を聞き咎め、笑みを引っ込めた。
「何でいきなり私が殺されなきゃならないの」
純粋な疑問だった。
赴任して来たばかりの学校で見回りの最中不審者が暴れていて、生徒を助けようとすれば訳のわからないことで狙われ、自分を不審者から庇ったのは数分前話に聞いた四年前消えた生徒で。
全部偶然ではないか。到底、灯子が標的として殺される要素なんか無い。死ぬ要素、なら別として。
「何で、私が、殺されなきゃいけないの」
真っ直ぐ見据え、不審者に灯子は問う。一つ一つ区切って噛んで含めるみたいに。この話し方は灯子の癖だった。子供に言い聞かせるとき、相手にちゃんと伝えようとしたときなど、よくこう言う話し方をした。
効果が在ったか定かじゃないが、不審者が、ぐっと飲み込む仕草をする。叱られている子供のように。姿形は奇妙だけれど、容貌には似合った幼さだった。灯子は不意に我が家で待つ家族を思い出した。
「……」
灯子は怒っているでも悲しんでいるでもなかった。
ただ、純粋に不可解だった。
なぜ、自分がここまで付け狙われ殺されなければならないのか、と。
誰かと勘違いされているのは自明にしても、殺される謂れは何なのかと。
「────……うるさいっ!」
しばし見詰め合い、膠着していたが、不審者が耐え切れなくなったらしく手を振り被った。今回は輪の形状だった。高速で風が回っている。回転する刃みたいな形状を見るに、どうやら切り刻むことを選んだようだ。キィーンッと、甲高く耳鳴り染みた音を出して風が鳴っている。
けれど次には不審者の背が爆発した。
「ぐぅっ……」
受けた衝撃に不審者は前のめりに灯子の後方まで飛ばされた。一連の出来事を目で追っている灯子の横で土を踏む音がした。
「随分回復が早いじゃないか、“ケライノォ”」
滑り込んで来た声音に灯子は目を剥いた。声がしたほうへ首を巡らせた。
「どうしてっ?」
「気配がしたからな。辿って追った」
灯子の脇を摺り抜け、然も大したことなど無いと言う風に彼、闖入者こと冴紀埜途はそう言って退けた。病院で着替えさせられた入院着の上に、例の外套を羽織っている。
「よぅ、ケライノォ」
「……」
『ケライノォ』と呼ばれた不審者は、覗き込む埜途を地面に伏したまま悔しげに睨み上げていた。背中から煙が立っていることを鑑みて、先の爆発で火傷を負っているのかもしれない。灯子からだと暗闇も相俟って、角度的にも窺い知ることは出来ないが。
「……お前……何人か人を食ったな」
埜途が僅かに沈黙を挟んで口にした科白で、灯子はぎょっとした。とんでもないことを当然みたいにして、埜途は話を進める。
「でなきゃ、さすがに腕を吹き飛ばされてそんな短時間で動き回れないだろう。何人か、殺って食ったな」
埜途は冷静に不審者、ケライノォを問い詰める。伏せた体勢のまま、ケライノォが高笑いした。
「────そうだよ……絶対お前を殺し、“勇者様”の偽物を壊すためには、迅速な回復が必要だったからな! それが何か? お前らだって、魔力を奪うために我らを相手にやってるじゃないか!」
吼えるケライノォを無表情で眺めていた埜途は、何の感慨も無く「そうだな」とケライノォに同意し、ケライノォの首根っこを掴むと持ち上げた。ケライノォもそうだが、埜途も軽々と人一人を片手で持ち上げる。
そして空いているほうの手で、ケライノォの体を貫いた。
「っ……!」
灯子が息を飲む。今日の放課後から先程まで、生徒に対する暴行や灯子自身が暴力に晒されていた。
それでも、まだ、平静を保っていられた。
殺され掛けていたのにおかしな話では在るけども、きっとどこか現実味が欠けていたせいだろう。あるいは、追い付かない理解に追及することを放棄したのか。
そうして今、人がまさに殺されようとしていて、一気に目が覚めたような感覚に陥った灯子は無意識に叫んでいた。
「冴紀くん!」
埜途の体がびくりと跳ねた。ちらりと視線を寄越す埜途に、灯子はそれ以上は駄目だと首を振る。埜途は舌打ちして、ケライノォを貫通した手を引き抜く。手には何かが握られているみたいだが、灯子にはよく見えなかった。
手が引き抜かれると、首根っこを掴んでいたほうの手から蜃気楼でも作られるかの如く空間が歪んだ。小さかった歪みは次第に大きくなり中心が黒くなった。
「止められたからな。殺さないでやるよ」
発生源の手に掴まれているからか頭半分歪みに埋まっていたケライノォを、更に押し込む。反発力が働いているのか、ズムズムと言った体で押し込んで行く。やがてケライノォの全身を飲み込むと、ファーンッとトランペットに似た音を立て歪みは消えた。
後に残されたのは、静かな公園の拓けたところに佇む埜途と、座り込んでいる灯子だけだ。はっとして、灯子は立ち上がると埜途に詰め寄った。
「コレはいったい何なの?」
「……」
「訳がわからない。何が、どうして……」
灯子は様々な疑問点が脳内を駆け巡り、最終的には俯き絶句していた。そう言う灯子をなぜか痛ましそうに見ながら、埜途は口を開いた。
「あんたと俺は、前に会ってるんだ。
ここじゃない世界で」
灯子は顔を上げた。埜途を凝視する。
「俺はあんたを殺したんだ」
埜途は嘘偽りの一片も見当たらない、真剣な表情だった。
突拍子も無い告白で面を食らう灯子に、埜途はいっそ真摯な程直線的な眼差しで、宣言した。
「だから、今度は守る」
「向こうのあんたは俺を知っていた。でも、こっちのあんたは俺を知らない」
困惑する私に彼は私を見ずに答えた。
「そうかもしれない。あるいは────
これから、か」
【交錯勇者 - 3.質疑応答】
「……はい、終わり」
「ありがとうございましたー」
「はーい。気を付けてね」
怪我の処置を終え生徒が出て行くと、灯子はそのまま机に向かった。とは言え、書類を前に一向に握ったペンは揺れるだけで動きはしなかった。
学校で騒ぎに巻き込まれ、公園で埜途に助けられてから二週間が経過していた。
不審者、ケライノォが消えて、二人だけになった公園で灯子は埜途に問い詰めていた。
次から次へと異常なことが起きて、その上命を狙われた挙げ句に人────人、と言って良いのだろうか不明だが────が明らかに殺され掛けているのだ。事情を聞きたいと思うのは巻き添えを食らった身として当然の行動だろう。
埜途は、混乱する灯子に言った。
“あんたと俺は、前に会ってるんだ。ここじゃない世界で”
“俺はあんたを殺したんだ”
“だから、今度は守る”
「……それ、どう、」
呆然とする灯子に埜途が片手を上げて制止した。
「もう、戻らないと」
外套の下、入院着を着ている埜途は、ケライノォの気配がしたのでとっさに病院を抜け出してしまったのだ。余り遅いと騒ぎになってしまう。ただでさえ、四年前、急に消息を絶った埜途がまた突然現れたのだから。再び姿を消せばどうなるか。
今度きちんと説明する、と言い残して踵を返す埜途を、灯子もわかるだけに何も言えず見送った。
検査入院を経て警察の事情聴取を終えた埜途は、結局本人の強い意向で復学した。
現在埜途は入学より四年経っていて戸籍上は十九歳になる。これだけでも浮くと言うのに、突如戻って来た噂の生徒に、学校は戸惑い生徒たちは強い関心を寄せていた。しかし無遠慮に質問攻めにしていたのは最初の二日三日程度で、あとは距離を取って観察しているようだった。
割と埜途が如才無く振る舞い、質問もはぐらかしているせいだろう。興味は尽きないけど、それ以上進展は無いだろうと当たりを付けた、と言うところだろうか。高校生は、子供に変わりは無いけれど、子供は子供で空気を読む。集団生活とはそう言うものだ。
「……」
埜途は、親にも学校にも警察にも、「記憶が無い」と通した。ある日思い出して帰って来たのだと。
そんな言い分よく通るなと思ったが、実際精神的肉体的な健忘で行方不明になる事象は現実に起きている。全部が嘘だと仮定するには、実証が必要だろう。
「まぁ、当人が元気で健康にも問題が無い、なら、掘り返すことはしないでしょうねぇ」
真実、ただの記憶喪失で在るならば。灯子はこれが嘘だと知っている。灯子だけが。
警察も暇では無いからか、埜途の行方不明だった件の捜査にはすでに消極的だった。あのケライノォによる騒ぎも、灯子や生徒たち、新井の証言と現場検証で不審者が他にいて暴れていたことも立証されている。
不可解なことも多く、一部では、埜途と不審者の繋がり、たとえば犯罪組織に関わっていて今回戻って来た、とか疑っているらしいが。
如何せん、不審者ことケライノォの行方がわからないため未だ未成年且つ記憶喪失を自称する埜途に強く出られないと言った辺りか。
「……」
ケライノォは絶対見付からないだろう。灯子はそれも知っている。
灯子の目の前で体を貫かれ、黒い歪みに押し込まれ消えたのだから。あの歪みが何で、どう言う構造なのかさっぱり灯子にはわからないけれども。
周囲も沈静化して様子見に転化した。そろそろ、答えてくれるころだろう。
「失礼します」
「……。いらっしゃい、冴紀くん」
引き戸が開いて入室の声がした。進まない書類から顔を上げてそちらへ向けば、扉を閉め立っていたのは勿論埜途だった。
「説明、してくれるんでしょう? いろいろ」
ケライノォが何者で、埜途が四年間どこにいて、風を集めたり爆発させたりしたのはどんな原理なのか。わからないことだらけだ。
だけども、何より知りたいのは。
「どうして、私が、殺されそうになったのかしら」
“何で……何で、“勇者様”がいるんだよっ!”
ケライノォの驚愕。
人違いにしては明確な殺意を以て、標的にされた訳。
埜途は灯子の真っ直ぐな視線を受けて、やがて一つ溜め息を吐いた。
「不在の札とか、鍵は要らないな」
「聞かれても良いの?」
「このご時世、ゲームの話くらいにしか思わないさ」
肩を竦め埜途は灯子の前まで来ると椅子に腰掛けた。
「それくらい、ぶっ飛んでるんだ」
そう笑った埜途は、どこか疲れたような笑いを浮かべた。
端的に言って、埜途の話は確かに信じ難い内容だった。
「入学して、半月くらいかな? 同級生が部活の先輩に度胸試しだって、空き教室に行くよう命じられたんだ。俺は、付き添いだった」
埜途曰くあの人が消える噂と言うのは昔から在ったらしい。度胸試しや肝試しも、昔から伝統として在ったみたいだ。ただ、本当に消えたのは埜途だけだったようだけど。
「鏡に付けた付箋紙を取ったら帰る……そう言う、はずで」
だのに埜途は吸い込まれて消えた。ただし。
「姿見……鏡に吸い込まれたってこと?」
「吸い込まれたのは、発生した歪みにだ……事実、もう鏡なんか無かったんだろう?」
そうだ。姿見は、撤去されたのだ。と言うことは、姿見は関係無く、空き教室自体に何か在るのだろうか。
「何で……」
「さぁ? わからないな。ただ、帰って来たのもあそこだった。何か在るんじゃないか? 条件とか」
「条件、ねぇ……。それで、アレ、歪みってどこに繋がってるの?」
「……」
「冴紀くん?」
埜途が言い淀んだ。下唇を噛み、一瞬だけ瞳を伏せると意を決した風に続けた。
「簡単に言えば異世界だな。飛ばされた世界は魔法が存在していて、俺が保護された国では生まれ付き魔法が使える訳ではなくて魔術として技術を用いて魔法を行使していた」
「こっちで言う、科学みたいなものかしら」
「そうだな。科学で良いと思う。錬金術とか。俺はそこで……人を殺していた。戦争をしていたんだ。その世界では、国のピンチに『異人』が現れて救うって伝承が在って……俺は、保護された国で『勇者』として担ぎ出された」
勝利のシンボルとして戦争に参加させられた。埜途はそう言っているのだ。
「……で、魔法を使うのには材料が必要だった。要するに燃料だ」
「燃料……」
「弾丸や爆弾で言う火薬とか機械を使うための電気に相当するモノ。ケライノォみたいな、魔法を身体の一部として使うヤツらのことだよ」
「────」
灯子は目を見開いた。ケライノォ。あの少女のような不審者。確かに異形では在った。有り得ない色と有り得ない部位、怪力……。けど、灯子には人間に思えた。今、目前で喋る埜途とそう変わらない年齢の少女に。
「正確には、ケライノォたち、俺のいた国では“マルム”って呼ばれてた。こっちで近いのは『魔族』って意味かな。魔法を作り出す器官を持った……人じゃないって教えられてた」
「……」
「……でもさ、言葉が通じていて、自分を家族を仲間を守ろうとしたり、交渉しようとしたりする生き物を、人じゃないって言えるのか……」
吐き出されたのは、きっと戦う埜途がずっと抱えていた想いだったのだろう。
「要は、侵略戦争だったんだ。肌の色、自分たちと違う姿形をした人間を略取していた。自分たちと違うって理由だけで……自分たちには無いものを持っている、これを利用したいって、だけで。だんだん、状況がわかって来て……だけど、行くとこも無かったし……逃げても、すぐ捕まったしな」
灯子は想像した。当時十六の埜途に、向こうの大人たちが何と言っていたか。聞いた埜途がどれ程心細かったか。項垂れて奥歯が軋む。会ったことも無いヤツらに腹が立つ。
「そんなときに」
「……」
「向こう側にも“ペレグリーニィ”……『異人』が召喚されたんだ。
それが、あんただった」
真剣な面差しで灯子を注視する埜途が嘘を付いている様子は欠けらも窺えない。
だが灯子は到底信じられなかった。
「私……ずっとここにいたわよ? 四年前は、私、だって、」
なぜなら、灯子はその当時こっちにいたと言う確たる証拠が在るからだ。
「知ってる。結婚したんだろ? 俺が捕虜になったとき、あんた言っていたしな」
驚くことも無く埜途は頷いた。だけれど、埜途は灯子の発言を覆すことを言った。
いや、発言だけでなく、見解を覆すことを。
「けどな。あんた、こう言ったんだよ。“五年前”って。結婚したのは、五年前だってあんたは言ったんだ」
「嘘。四年よ、だって、」
「旦那さんが死んだのが、結婚して二年後、この高校に赴任する二年前だから?」
灯子は言葉を失った。会ったばかり、戻ったばかりの埜途が知り得ないことだったからだ。
灯子のこの事情だって、校長や教頭、副校長などの上司にしか話していないはずだ。個人情報にうるさい昨今で、埜途みたいな生徒へ安易に口外するとも思えない。
「どうして……」
「あんたが言ったんだよ。向こうで。だけど、あんたは“結婚して二年後、赴任する三年前”って言ったんだ」
「……」
「向こうのあんたは俺を知っていた。でも、こっちのあんたは俺を知らない。逆に、向こうの俺はあんたを知らなかったけど、こっちの俺はあんたを知ってる」
「……。何それ。違う世界……並行世界の私に、向こうで会ったとでも言うの……?」
異世界が在るなら、並行世界も在ると言うのだろうか。SFやファンタジーじゃ在るまいし。困惑する灯子に埜途は、灯子を見ずに答えた。
「そうかもしれない。あるいは────
これから、か」
「落ち着いて聞いてくれ」
きょとんとする私に、彼は短い付き合いの今までで見たことの無い形相で告げた。
「娘さんが、いなくなった」
【交錯勇者 - 4.時系列変】
「……ぅ、あ……」
ケライノォが気が付くと、いろんな顔が揃っていた。
「ぇ……」
「起きたぞー! 意識が戻った!」
一人として欠けていない、仲の良かった者たちの安堵の表情に、うれしさより先に驚愕が浮かぶ。
「何で! 何でお前らが生きているんだっ?」
寝台の上、丁寧に寝かされていたケライノォは上体を起こして叫ぶ。囲む仲間たちは顔を見合わせた。
「そりゃ、こっちの科白だ。お前、何で生きていたのに帰って来なかったんだ?」
「……は……?」
「それ、どう言うこと……?」
灯子は埜途の発言に驚いていた。話自体、妄言にしか思えないのに、だ。向こうで自分は埜途にプライベートを明かしていて、尚“結婚から五年経っている”と教えたと言う。今の灯子が四年であると言うのに。
苦し紛れに並行世界の灯子なのかと訊けば、埜途は真剣に答えた。
“そうかもしれない。あるいは────”
同意と。
“これから、か”
否定を。問う灯子に埜途は重い口を開いた。
「……たとえば、現在から一年後、あんたは向こうの世界へ呼ばれるのかもしれない」
「何で、おかしいでしょ! だって、冴紀くんは終わって帰って来たんでしょ? だったら向こうではもう終わってるんだから、私が呼ばれることなんて……」
詰め寄る灯子の両腕を掴み埜途は灯子を覗き込んで目線を合わせた。
「俺は、向こうで二年しか過ごしていなかった」
ともすれば、抱き寄せているような至近距離で、埜途が喋る。
「なのに、帰って来たら四年も経っていた。殺したあんたはぴんぴんしていて、けど、あんたは俺のことも、仲間だったケライノォのことも憶えていなかった。隠している訳でも、惚けている訳でもなかった。あんたは、俺たちを、知らなかったんだ」
コレが、何を意味していると思う────息が掛かりそうな近さで埜途の視線が灯子を射抜いて質す。
「時間の流れはおろか、何一つ、時間軸が合っていない。つまり、あの歪みは過去の戦争中に繋がることも在るってことだ」
「……」
埜途は唖然とした灯子の腕を放す。灯子から離れ、距離を取った。
「……向こうのあんたは何も彼も知っているみたいだった。俺が捕虜になったときも、……俺に斬られるときも」
“良いよ”
「あんたは」
“わかってたことだから”
「笑ってたんだ」
“だから、良いよ”
「わかってたから、良いよって、抵抗もせず斬られた」
「そんな……」
埜途の言葉に、再度灯子は項垂れた。埜途も、灯子の様子をしばらく静観して俯いた。
元の世界に戻されたケライノォは、混乱していた。
以前の戦いで死んだはずの仲間と再会し、更に仲間はケライノォのわからないことばかり話すのだ。
「……今は、だって、中心街にまでヤツらが迫っているんだろっ? だったら“勇者様”と捕らえてた『ディオス』の『異人』がいただろっ!」
ケライノォたちにとっての侵略国家『ディオス』。そのシンボルたる『異人』の埜途を捕縛したことで、交渉するつもりだったがヤツらに攻め入る口実を与えてしまった。
コレが、灯子が死に、ケライノォたちマルム────ケライノォたちは自らを『ハエレシス』と呼んだ────の国が滅んだ切っ掛けだった。
だが。
「違うよ、何言ってんだ。ヤツら、召喚した『異人』を攫われ掛けたことを理由に勢い付いて、ここまで攻めて来たんだ」
「第一、ウチは“勇者様”を喚べなかったじゃないか」
ケライノォは頭がおかしくなりそうだった。
“勇者様”がいない? どうして?
少なくとも一年前には寝食を共にし、いっしょに戦った。
「……何で、嘘だ……」
容量オーバーした思考回路に呆然とするケライノォ。仲間たちも目配せして困惑を隠し切れない。
「て、言うかな、ケライノォ。お前が生きていることも俺たち信じられないんだぜ?」
「……ぇ……」
「お前、俺たちの目の前で『ディオス』の『異人』の落雷で打ち落とされたんだ」
「他のハルピィーヤの姉妹と『異人』へ特攻掛けてさ。……ちゃんと、埋葬だってしたんだ……お前も」
「……」
口々にケライノォが倒されたときのことを説明して来る。ケライノォは身に覚えの無い出来事を語られ、当惑し押し黙っていた。そして唐突に。
「……つ」
「え?」
「いつ、私はそうなった……?」
下がっていた目線をケライノォは仲間に向けた。ケライノォの突然の質問に視線を交わして。
「つい……一月前だ。今日で三回目の新月だから……」
ケライノォたち『ハエレシス』では満月新月の周期で月日を計算した。一月……ケライノォは言ちた。
ケライノォは考えていた。ここは、間違い無くケライノォの国だ。日の数え方も合っている。
だのに、逃亡した世界で『ディオス』の『異人』に無理矢理帰還させられたこちらでは、ケライノォの体験していないことが起きていた。
戦争中確かに死んだ仲間は生きており、逆にケライノォが仲間たちの前で命を落としていたと言う。どう言うことだ……? しばしの黙考の末、ケライノォは一つの可能性に気付いた。
「なぁ」
「何だよ、ケライノォ」
「“勇者様”をお迎えに行った者たちはどうした?」
ケライノォたちは『ディオス』のように、歪みに手だけ突っ込んで誰彼構わず否応無く引き込むのでは無く、礼を以て説得するため自分たちが直接赴いて連れて来る方法を取っていた。自分たち『ハエレシス』は野蛮な『ディオス』とは違うと言う思いと、単純に『ディオス』のやり方に嫌悪を抱いているためだ。
「何言ってるんだよ。第一陣を含めて、みんな帰って来ていないじゃないか」
「……!」
「誰一人、こっちには戻らなかった。だから、俺たちは『ディオス』の『異人』を誘拐しようとしたんじゃないか。士気を殺ごうとして」
そこは同じだ……訂正するところが在るとすれば、作戦は誘拐ではなく“救出”の名目だった。“勇者様”の意向で。ケライノォは黙って聞き入る。
「まぁ、結局失敗したんだけどな」
ここは違う……あのときは、“勇者様”が、『異人』が一人になったところを話し掛けたはず、とケライノォは記憶を浚う。
「そのときの編成にお前が入っていたんじゃないか……大丈夫か?」
ここも記憶と同じだった。て言うことは……。ケライノォは察する。
“勇者様”がいない。この一点が相違点だ。
“勇者様”を呼べなかった。正確には招聘することが出来なかった。
ケライノォの記憶では、“勇者様”は、────“トーコ様”は、招聘に応じて来てくれて、共に戦ってくれた。
……じゃあ、今、トーコ様は?
「まさか」
敗戦し、蹂躙されるだけの身に落ちたことで別世界へ逃げ延びようとした。
しかし逃げた先では“勇者様”がいて、『異人』もいて。
ケライノォが戻された世界は記憶と異なっていて。
「まさか……こんなことって……」
ケライノォもようやく察した。
「────おい!」
「な、何だよ」
「複数で次元移動出来るヤツを連れて来い! すぐに向かうぞ!」
バサリと掛かっていた上掛けを捲り寝台から降りるケライノォを訳もわからず仲間たちは目を白黒させた。
「敵が攻めている現状で急に何言ってるんだ! だいたい、その状態でお前何する気だよ!」
「そうだよ、体の傷は塞がってるけど、魔生器官を抜かれているんだから無茶したら駄目だって」
“魔生器官”。『ディオス』の人間に無く、『ハエレシス』の民のみが持つ魔力生成器官である。『異人』こと埜途に体を貫かれた際、ついでに抜かれたのだろう。
良く生きていたものだと、新しい外套を羽織りながらケライノォは思い、即、頭を切り替える。
「“勇者様”を……トーコ様を迎えに行く!」
一方、灯子と埜途は沈黙が支配していた。
それはそうだろう。平穏な日常で突如奇妙なことに巻き込まれたのだ。まともに受け止められるほうがどうかしている。埜途も、百も承知だった。
「……。ともかく、だ」
「……」
埜途の一声に、途方に暮れていた灯子が床を這っていた目線を上げた。
「あんたがこっちで生きているなら、事は簡単だ。あんたを連れて行かせなければ良い。そうしたら、あんたは死なない」
「……」
「今度は、守る。絶対に。俺が。今度こそ」
誰にも、あんたを殺させない────いっそ怖いくらいの直向な瞳だった。
「光元先生!」
二人の間を割って入る叫びが扉が勢い良く開く音と飛び込んで来たのはこのときだった。
元より離れていた二人は別段慌てることも無く乱入した人物を見詰める。
乱入したのは、ケライノォに飛ばされた生徒を庇って壁にぶつかり入院したものの、命に別状も無く生活に支障を来たすことも無く現場復帰していた数学教師、新井だった。
「どうか、されたんですか?」
慌てて来た新井は室内の埜途へ一瞬逡巡する様子を見せたけれど、即座に思い直したらしい。灯子に足早に近付き声を潜めた。
「落ち着いて聞いてくれ」
きょとんとする灯子に、彼は短い付き合いの今までで見たことの無い形相で告げた。
「娘さんが、いなくなった」
「……ごめんなさい」
私は、あかりを抱く腕の力を強めながら、ゆるゆる首を振って、泣きそうなケライノォにきっぱり言い放った。
「私は、行けない」
拒絶を。
【交錯勇者 - 5.奇襲決意】
光元あかりは、帰り道が同じ友達といっしょに帰っていた────はずだった。
帰り道、友達越しに見た黒い影に驚き、目を瞠ったまま「ごめん、一沙ちゃん……先に帰ってて」と言うのが精一杯だった。
脇目も振らず走り去るあかりに、一沙と呼ばれた友達は「あかりちゃ、」呼び止め掛け。
「────」
大きな黒い影が自身の横を摺り抜け、あかりのあとを追うのを見た。
「あかりはだいたい一人なんだけど、今日“一沙ちゃん”て言う子と帰ってて……」
高校を飛び出し、あかりが消えた通学路に灯子と埜途は急ぐ。
あかりと一沙は幼稚園時代、家が近かったことを切っ掛けに親しくなり、あかりが引っ越してからも仲が良かった。あかりの引っ越し先は学区内で小学校までの道程に一沙の家が在った。自然と帰り道は同じになる。
しかし一沙は生まれ付き体が弱かった。だので、一沙の調子が良く下校まで学校にいられた日は共に帰っていた。
「友達と帰っていたのが、幸いした訳だ」
余りに一沙が騒ぐので、在宅仕事の父親が灯子に一報を入れた。灯子の私用番号を知らなかったので、職場に連絡するしか無かったが。
嫌な予感がした。大事にならないよう、小学校や他の保護者には、未だに連絡はしていないそうだった。
「反対方向、とすると……」
あかりがいなくなった地点であかりの自宅方向と逆の道を見た。小学校から初めて二手に分かれる道だ。
灯子たちが見やった先には例の山が見えた。
「……疑問だったんだ」
埜途が、すっと両目を眇て零した。
「次元が歪んで、あの世界と繋がるとき、いつもあそこの山に雷が落ちてた。この前帰って来れたときもそう。四年前だって、天気が悪くて────」
「そう言えば……さっきも雷が……」
あかりがいなくなったと知らせが入ったのと落雷したのは同時だった。よく出来た演出だな、なんて、呆然とした中思った。山を注視する灯子を見、次いで山へ視線を戻すと「あの山に何か在るのか……?」埜途は呻く。
そして瞼を閉じる。気配を探るためだ。
本当は目を閉じずとも捜せるのだけれど、より正確に捕捉するためには視界を遮断するのが一番だったからだ。
「マジかよ……」
「え、何、」
時間にして数秒。目を開いた埜途の呟きに、灯子は胸騒ぎを覚える。埜途は難しい顔をしながら、灯子に向かい告げた。
「まさに、今あの山の中だ」
あかりは全速力で木々の隙間を逃げ惑っていた。
ガサッガサッと後方頭上から音が追い掛けて来る。────大きな鳥だ、とあかりは思った。人程の大きさの鳥の影が二羽、あかりに迫っている。
草木が繁るここでなら、枝が障害になり隙を見て背の高い草に身を潜めれば、あかりは追跡者たちを撒けるのではないかと考えていた。
が、所詮浅知恵だったらしい。
あかりは、脳裏で父と、二人の母を描いた。あかりを産んでしばらくして亡くなった母と、灯子だ。
灯子はあかりと血の繋がらない母だった。けれど、母がおらず父が亡くなった現在、唯一の家族だった。
あかりは、必死に心中で叫んでいた。
“お母さん、たすけて”、と。
祈りが通じた訳では無い。神なんていない。父が病気で逝去した時分、そう感じた。
だから、コレは、神様なんて曖昧なものでは無かったのだ。
「あかりっ……!」
あかりの腕を、強く横から引く力が在った。とっさのことに、あかりはバランスを崩し前に倒れ込む。あかりが倒れ込んだ先は柔らかく、あたたかった。
「あかり、良かった」
母だった。あかりの母にしては若い灯子。普段灯子に迷惑を掛けたくなくて頼れなかったあかりは、母の灯子に力一杯しがみ付いた。
「……お母さん……」
「怖かったね、もう、大丈夫だから」
常日頃何が在っても大人びて、夫の葬式以来泣いたことの無いあかりが涙ぐんでいる事実に、灯子も泣きそうになる。ガサァッと音が上方でして止まった。
音のしたほうと、灯子たちの間を埜途が遮る形で立つ。
しばらくして、影が一つ、地に降り立った。新しい外套に身を包んでいたが、紛うこと無くケライノォだった。影の片方は降りず「何でこんなところに『ディオス』の『異人』が!」ケライノォに喚いている。ケライノォはそれに反応せず「“勇者様”……」灯子を見詰めていた。
ケライノォが近付くと、灯子たちを庇うみたいに片手を広げる埜途が警戒から後退する。
「近寄らないで!」
灯子が、あかりを覗き込んでいた顔を上げ声を荒げた。
「コレが、あなたたちのやり方なの? 娘まで巻き込んで!」
睨み据える灯子に、ケライノォが慌てて否定した。
「ち、違います! “勇者様”、トーコ様! トーコ様を捜していたら、トーコ様のお子様を見掛けたので声を掛けようと……」
以前写真を見たことが在ったのだと、ケライノォは弁明した。ケライノォの世界にも、写真は存在しているらしい。
「……。異形に追い回されれば、ガキじゃなくてもそりゃあ一目散に逃げるだろ」
埜途が嘆息しつつ突っ込むと、ケライノォが「うるさい!」噛み付いた。だけども、灯子も埜途の意見に賛成だ。ケライノォに追い掛けられたあの夜、正直灯子も生きた心地はしなかった。小学生なら如何程か。
一つ息を吐き、気を取り直したケライノォは埜途を無視し一歩、灯子へ距離を詰める。埜途も、合わせて後退る。
「“勇者様”……トーコ様」
あかりを抱え身構える灯子にちょっとだけ悲しそうな顔をしながら、ケライノォは真剣な眼差しを灯子へ向けた。
「お願い致します。私たちと、私たちの国へ来てください」
「……」
「このままでは私たち『ハエレシス』の民は、『ディオス』のヤツらに嬲り者にされてしまいます。女子供老人の区別無く、悪逆非道の限りを尽くし、ヤツらは私たちを蹂躙するでしょう……お願い致します……私たちと戦ってください」
「……」
ケライノォの真摯な願いに、灯子は再び俯いた。埜途から聞いた断片的な情報、当初のケライノォの様子だけでも、埜途がいた国は人非道的なのだと推察出来る。灯子一人で何が出来るとも思えない。象徴がいるだけでも士気の勢いが変わると信じているのだろうか。それだけ、ケライノォたちは追い詰められているのか。
灯子は、困惑していた。訳がわからない状況、自分は関係無いと思う傍らケライノォの年相応でない覚悟を見て。都合が良いとは思う。最初襲って来たくせに、今更手のひらを返し助けを請うなど。だけれど。灯子は埜途へ焦点を合わせる。
向こうの埜途は、どうなるのだろうか。埜途の言う通り時空が歪んでいるのなら、まだ向こうに戦中の埜途がいるはずだ。担がれて苦悩する埜途が。
埜途は灯子を守ると言った。そんな埜途が苦しんでいるのに置いていて良いのだろうか。向こうに行った灯子は助けようとしたのに?
それに灯子が行かなければ、またあかりを巻き込んでしまうのでは無いだろうか。少しだけ揺れる灯子は強い力を感じた。
「お母さん、どこにも行かない……?」
あかりだった。潤んだ瞳で、灯子に問う。あかりを援護するように、埜途も口を開いた。
「余計なことを考えるな。あんたが一等たいせつなものを選べ」
埜途の言葉に、灯子は決める。
「……ごめんなさい」
灯子は、あかりを抱く腕の力を強めながら、ゆるゆる首を振って、泣きそうなケライノォにきっぱり言い放った。
「私は、行けない」
拒絶を。
「……!」
ケライノォは下唇を噛んだ。噛んだ唇が解けケライノォが何某か発する前に、埜途が口を挟む。
「あんたは娘を連れて早く去れ。酷い場面は見せたくないからな」
灯子は「冴紀くん!」埜途を呼ぶが、埜途は振り返らなかった。
「わかっただろ? 生かして置けば、こうやって早々追っ手が掛かるんだ。少なくとも、ここで終わらせて置けば次の追っ手まで時間が出来る。……上手く行けば二度と来ないかもしれない」
生半可な行動は周囲への被害を大きくする。今回あかりを巻き添えにしたみたいに。埜途の言いたいことを察して、灯子は反論しなかった。何も言わず、立ち上がるとあかりの手を引いて、山を降りた。
途中「トーコ様!」ケライノォの悲鳴染みた呼び声が響いたけれども、灯子は一切見返ることもしなかった。
「お前から奪った魔力、返してやるから感謝しろよ」
埜途の宣告が耳を掠めても。
山の麓で、灯子は埜途と合流した。制服は汚れ、一部切れている部分も在った。
「……ありがとう、冴紀くん」
人を殺めて、礼を口にするのは間違っている。だが、埜途こそ人を殺すことに苦悶していた。その埜途は灯子を再度殺したくないと言って、灯子を守るために手を汚している。
矛盾していることを、埜途は灯子以上に理解しているのだ。ゆえに、この礼は灯子とあかりを助けてくれたことへの礼だ。
「……あんたは選んだ。だから俺もすべきことをした。これだけのことだよ」
「……」
灯子は選んだ。
異世界の埜途より、異世界の大勢より、あかりを。
その選択が、誤っているかどうかなど、現状灯子にはわからない。
もしかしたらとんでも無いことに発展するかもしれない。
「お母さん……」
だとしても。灯子は、不安そうなあかりに微笑んだ。繋ぐ手に力を込める。
「大丈夫。お母さん、どこにも行かないよ」
ただ、手を繋ぐあかりのそばを離れないことだけを、灯子は誓っていた。
【 邂逅編・了 】
邂逅編全体の粗筋です。
※次回続編を読むとき便利です。
養護教諭の光元灯子は、赴任したばかりの高校で異形の少女ケライノォに襲われる。そんな灯子を救ったのは、ある日学校から忽然と姿を消し行方不明となった男子生徒、冴紀埜途だった。埜途は灯子を凝視し「何で、あんたが」と呟いて気絶してしまう。
騒ぎから帰途に就く灯子を再びケライノォが襲来する。ケライノォに追い詰められた灯子の前、またも埜途が現れケライノォを退ける。ケライノォから異様な殺意を向けられ困惑したままの灯子に、埜途が言う。「俺はあんたを殺した」「だから、今度は守る」と。
詳しい事情を聴くため、退院し復学した埜途を待っていた灯子。埜途から、埜途は異世界の戦争に巻き込まれたこと、互いに勇者として召喚された灯子とは異世界で会っていたことを聞かされる。何ら覚えも無い灯子が、埜途に質せば、向こうで出会った灯子は今の灯子ではなく未来の灯子ではないかと言われる。
信じられない灯子はますます混乱するのだが、そこへ灯子の家族であるあかりがいなくなったと報せが入る。一方、埜途による強制送還で元の異世界に戻されたケライノォは、自らの記憶と世界での出来事が一致せず、更に勇者のトーコ(灯子)が来ていないことを知り、自身が会ったのは過去の灯子で世界間には時空に歪みが在ることに気付く。すべてを察したケライノォは灯子を再度迎えに行くため世界を越える。
あかりを捜す灯子と埜途は、捜す過程で異世界と繋がる状況と隣町の山の関係性に考えが及ぶ。が、居場所を突き止めるべくあかりの気配を探った埜途が、あかりが何者かに追われまさに隣山の中を逃げていることを察知。灯子の所在を知りたいケライノォたちに追い回されていたあかりと合流し、ケライノォを批難するも、埜途から戦況を聞いていた灯子はケライノォに些か同情の念を抱いていた。しかしあかりの涙ながらの問いと、埜途に「一等たいせつなものを選べ」と言われケライノォからの要請を断りあとのことを埜途に託して山を下山する。片付けた埜途へあかりを助けてくれたことの礼を述べた灯子は、あかりを選んだことに悔いは無い反面、この先を案じていた。