予想はしていたが、やはり、当時の宏樹は紫織を探すことに抵抗を感じていたのだ。
それを改めて宏樹の口から聴かされたことで、傷付いたりはしていない。
むしろ、最後まで諦めずに自分を探してくれた彼に感謝していた。
宏樹に〈ひみつきち〉のことを教えなければ、いや、想い出してさえくれなければ、紫織は、またずっと、あの暗くて凍える中で助けを待ち続けていたことになっていたかもしれなかったのだから。
「ありがとう」
今さらながら、紫織は宏樹に礼を述べた。
宏樹は一瞬目を丸くさせたが、すぐにニッコリと笑み、「どういたしまして」と返してきた。
「もう、無茶はするなよ?」
「しません! 私もう、あの時のような子供じゃないもん」
紫織がムキになって言うと、宏樹は、ハハッ、と乾いた笑い声を上げた。
「さてと、あんまり外に出っ放しでいるのも拙いな」
宏樹はそう言うと、自らが身に纏っているコートを脱いだ。
紫織は宏樹の行動を訝しく思ったが、すぐにその理由を察した。
コートが、紫織の肩からそっとかけられた。
それは自分が普段着ている物よりも重く、そして、ほんのりと温もりを感じる。
紫織は、目を大きく見開きながら宏樹を見た。
「また、紫織に風邪を引かせたりしたら、今度は朋也にぶん殴られかねないからな」
紫織にコートを預け、スーツだけの格好になった宏樹は微苦笑を浮かべた。
「遅くまで付き合わせて悪かったな。――それじゃあ、おやすみ」
宏樹が背を向けた瞬間、紫織は堪らず「待って!」と引き止めていた。
宏樹は首だけをこちらに動かした。
「あの……。ひとつ、訊いてもいい?」
「ん? どうした?」
紫織は少しばかり躊躇い、だが、すぐに思いきって口にした。
「ずっと……、私の側に、いてくれる……?」
宏樹のポーカーフェイスが崩れた。
思考を巡らすように目を宙にさ迷わせていたが、やがて、「ああ」と囁くように答えた。
「紫織が、ほんとの幸せを手に入れられるまでは、ね」
宏樹はそう言うと、今度こそその場から離れた。
静かな足取りで、自宅へと消えてしまった宏樹。
紫織はしばしの間、同じ所へ立ち尽くしていた。
コートからだけではない。
心なしか、紫織の周りには、先ほど感じた大人特有の匂いが漂い続けているように思えた。
(〈ほんとの幸せ〉は、宏樹君とずっと一緒にいることなのに……)
紫織の気持ちに気付いていながら、宏樹がはぐらかしたのは彼女も分かっていた。
ほんの少しだけ、朋也ならば、と思ってしまったこともないわけではない。
しかし、朋也ではいけないのだ。
宏樹じゃなければ意味がない。
「もう……、どうしたらいいのよ……」
紫織は両腕を交差させると、コートを強く握り締めて蹲った。
みんな苦しんでいる。
宏樹や朋也はもちろん、涼香だって、本当は堪らなく辛いに決まっている。
それなのに自分は何だろう。
まるっきり、悲劇のヒロイン気取りだ。
(もっと……、強くならないと……。みんなのように……)
紫織は顔を上げ、夜空を仰いだ。
限りある生命を燃やすように輝き続ける冬の星達。
それを見ていると、自分のちっぽけさを改めて思い知らされた。
「頑張らなきゃ……」
口に出してみた。
弱い自分の心に、強く言い聞かせるように。
[第七話-End]
初雪が降ってから二週間が経過した。
辺りを覆い尽くさんばかりに積もった雪は、ここ数日の間に天候に恵まれて徐々に融けつつあった。
(こういうのが一番ヤなんだよなあ……)
シャーベット状になった雪の上を歩きながら、紫織は顔をしかめた。
学校に行く時以外は長めのブーツを履いているが、すぐ側を車が通ると泥雪を撥ねられるから、それもあまり意味をなさない。
酷い場合は、足元だけでなく、コートまで汚されてしまう。
ちなみに今日は日曜日。
普段であれば自主的に出歩くことは滅多にないのだが、涼香と逢う約束をしたので、こうして外を歩いている。
(そういえば、涼香と学校の外で逢うなんて珍しいかも)
融けかけの雪をなるべく避けて歩きながら、紫織はふと思った。
紫織と涼香の家は、学校から全くの逆方向にある。
そのせいで、互いに用事があっても全て校内で済ませてしまうし、一緒に帰っても、結局は駅で別れることとなる。
(何だか変な感じ)
いつになく、紫織は緊張していた。
やはり、私服で逢うのは、制服の時とは気分が違う。
(涼香はどんな格好で来るんだろ?)
普段は決して見ることの出来ない涼香の私服姿を想像しながら、紫織は口元に笑みを浮かべた。
◆◇◆◇
待ち合わせ場所となっている高校の最寄り駅には、約束の十分前に到着した。
紫織は駅の構内を見渡して涼香を探すが、それらしき姿は見当たらない。
まだ来ていないのであろうか。
(しょうがないなあ)
紫織は一番分かりやすい改札の前に立ち、涼香が現れるのを待つ。
時間は刻々と過ぎてゆく。
そのうち、電車から降りて来た人達を数人見たが、その中にも涼香はいなかった。
(あーあ、時間過ぎちゃったよ)
腕時計に視線を落としながら、紫織は小さく溜め息を吐く。
マイペースな涼香のことだ。
もしかしたら、一本遅い電車に乗り込んだ可能性も充分に考えられる。
(ちょっとぐらいならいいけど、勘弁してほしいよ……)
そんなことを思っていた時だった。
突然、ガッツリと両肩を掴まれた。
「――……!」
紫織は驚き、危うく大声を上げそうになってしまった。
(だ、誰……?)
恐る恐る振り返る。
すると、そのすぐ目の前では、いつも見慣れた顔がニヤリと笑っていた。
「――りょ、涼香……」
正体が分かったとたん、紫織はホッと胸を撫で下ろした。
「ビックリさせないでよお……」
脅かされた恨みを籠めて涼香を睨みながら言うと、涼香は「ごめんごめん!」と謝罪してきた。
だが、どう見ても、心の底から申し訳ないとは絶対に思っていないのが嫌というほど伝わる。
「何はともあれ、お互い、無事にここまで来れて何より! よし! それじゃあ早速行こうか?」
紫織の複雑な心境などお構いなしに、涼香は意気揚々と歩き出す。
紫織は何も返す言葉が見付からなかった。
(全くもう……)
紫織は苦笑いを浮かべながら、涼香と並んで歩いた。
◆◇◆◇
街中は、どこもかしこもクリスマスムード一色となっている。
派手に装飾が施され、定番のクリスマスソングがひっきりなしに流れる。
そんな中を、紫織と涼香はしばらく歩き回っていたが、涼香が空腹を訴え出したので、手頃なファーストフード店へ入って昼食を摂ることにした。
「もう十二月なんだよねえ」
空いていた席に落ち着くなり、涼香が口を開いた。
「でも、クリスマスだからって、特別なことなんてなんもしないけどさ。ちっこい頃は、毎年、サンタさんからのクリスマスプレゼントが待ち遠しかったけど、さすがにこのトシになってまではねえ。
せいぜい、家族揃って、ちょっといいご馳走とケーキを食べるぐらいでさ」
「まあ、確かにそうだね」
これは紫織も涼香に同意した。
所詮、クリスマスなんてものは子供か恋人同士のためのイベント。
〈子供〉とも呼べなくなった年頃であり、報われることのない恋をし続けている紫織には、無縁としか言いようがない。
もちろん、それは涼香も同じだ。
「――上手くいかないね……」
ほとんど無意識に口にしていた。
涼香はテリヤキバーガーの包装紙を剥がそうとして、ピタリと動きを止めた。
「――大丈夫?」
いつになく深刻な表情で涼香が訊ねてくる。
紫織はそこで、ハッと我に返った。
「え? ああ、別に大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「ほんとだってば! もう! そうやって勘繰るのやめてよ!」
紫織は眉根を寄せながら、いそいそと自分のチーズバーガーを開けた。
水滴を吸い込んだバンズは重みがあり、口に入れてみると水っぽさを感じる。
決して不味いわけではないが、やはり、味より安さがウリなだけあるなあ、とついついよけいなことを考えてしまう。
「今さら隠しごとなんてなしだよ?」
不意に涼香が言った。
「確かに私はこんな奴だけど、これでも、紫織の話はいつだって真剣に聴いて考えてんだからさ。――まあ、ここじゃ話しづらいかもしれないけど」
涼香は辺りをグルリと見回すと、肩を竦めながら苦笑した。
それに釣られるように、紫織も口元に笑みを浮かべる。
涼香がいい加減な人間でないことは、紫織もよく分かっていた。
他人の目に付く場所では、救いようのないキャラを演じてはいるが、それも全て自衛のためなのだ。
本当は繊細で、誰よりも傷付くことを恐れている。
それは、授業をサボったあの日に改めて知ることが出来た。
「――食べたら、もう少し落ち着ける場所を探そうか?」
紫織は自然と口にしていた。
涼香は、それがよほど嬉しかったのか、ニッコリと笑った。
「よし! それじゃ、とっとと食っちゃいますか!」
嬉々として声を上げると、涼香はテリヤキバーガーとポテトをどんどんと胃に収めていった。
いつもながらの食べるスピードの速さに、紫織は呆気に取られつつも、自分もすぐに片付けないとと思い直し、黙々と食べ続けた。
◆◇◆◇
ファーストフード店を出てから、紫織達は公園を探し当ててその中へ入って行った。
寒さ対策も兼ねて、途中で見付けたコンビニで、紫織はホットミルクティーを、涼香はホットカフェオレを購入している。
公園内は人気が全くなかった。
あらかた融けつつある雪も、陽の当たらない部分にはまだ結構な量が残っている。
ベンチの上は、日向にあるだけあって融けてはいたが、その代わり、びっしょりと濡れていたので、紫織と涼香はお互いにポケットティッシュを取り出し、地道に拭いて乾かした。
「じゃ、座ろっか」
拭き終えるなり、涼香は真っ先に腰を下ろした。
紫織もそれに倣う。
「で、その後はどんな感じ?」
前触れもなしに、涼香は直球で訊ねてきた。
もちろん、彼女が回りくどい言い方をしないのは紫織も重々承知していたので、今さら驚くこともなかった。
ただ、どうなのか、と訊かれても答えようがないというのも正直なところである。
「どうなんだろ……」
そう返すのが精いっぱいだった。
涼香も芳しい答えは特に期待していなかったのか、「そっか」と手で握っているカフェオレ缶を弄ぶ。
「確かに、相手は十歳も年の離れた大人だもんね。そう簡単には揺らがないか」
「それもあるけど……」
紫織はミルクティー缶を両手で包みながら、自らの顎の辺りまで持っていった。
「宏樹君、他に好きな人がいるみたいだから。――ほんとは、朋也から聴く前から何となく気付いてた。
熱を出して寝込んでいる間もね、色んなことを考えてたんだ。望みのない恋なんて、棄て去った方が楽になれるんじゃないか、って。朋也には強気なことを言ったくせにね。
でも、忘れようと思うたびに、宏樹君とばったり、だもん。ほんと、やんなっちゃう……」
そこまで言うと、紫織はミルクティーを胸の前まで下ろしてプルタブを上げる。
仄かな甘い香りと湯気が、同時にふわりと立ちのぼった。
「無理して忘れる必要なんてないんじゃない?」
涼香はそう言いながら、カフェオレを開けた。
「片想いしてたってさ、別に相手に迷惑になるわけじゃないんだし。それに、私はともかく、紫織の場合、相手がお隣さんでしょ? だったら、全く逢わないなんて無理な話だよ。紫織か向こうさん、どっちかが遠くに越さない限りは、ね」
「――うん」
紫織は頷いた。
「ほんとに涼香の言う通りだね。――それこそ、宏樹君が結婚して家を出ないと……」
結婚――
自ら発した言葉に、紫織の鼓動が急激に速度を増した。
紫織にとっては未知なる世界だが、宏樹は違う。
近い将来、充分にあり得ること。彼が自分の好きな人と結ばれてしまったら、本当に手の届かない存在となってしまう。
(好きな人の幸せは願わなきゃいけない。それは分かってる。――でも……)
紫織の全身がカタカタと震え出した。
寒さだけではない。
残酷な現実を目の前に突き付けられた瞬間、平静を保っていられるだけの自信がないと思ったからだった。