雪花 ~四季の想い・第一幕~

「朋也……」

 紫織はゆっくりと朋也に近付こうとした。

 と、その時だった。


 パシンッ!


 朋也が立ち上がって振り返ったのと同時に、紫織のコートに雪玉がひとつ飛んできた。

 一瞬、何が起こったのか理解出来ず、そのまま呆然としていたら、今度は二発目が飛ばされた。
 それは、宏樹の肩に当たって砕けた。

「と、朋也……?」

 紫織の頬がヒクヒクと痙攣する。

 それを見て、朋也は、してやったり、と言わんばかりにニヤリと笑った。

「油断大敵ー!」

「……こー、のー、やー、ろーっ!」

 紫織が掴みかかろうとする前に、朋也はすでに家の敷地内から逃亡していた。

「もう!」

 悔しがって地団駄を踏む紫織の肩を、宏樹が小さく叩いた。

「紫織、反撃してやろう」

 宏樹はそう言って、いつの間に作っていたのか、雪玉をひとつ差し出してきた。

「そうだね! このまんまじゃ怒りが治まんないもん!」

 紫織は雪玉を受け取ると、朋也を追い駆けながら投げる。
 だが、それは標的に当たるどころか、距離が届かず途中で虚しく落ちてしまった。

「へっへーん! へったくそー!」

 離れた場所から、舌を出して紫織を挑発する朋也。

 怒りはさらに倍増した。

(悔しい悔しい悔しい……!)

 肩を怒らせ、両手の拳を強く握り締める。

 確かに、朋也の運動神経は遥かに高い。
 諦めるしかないかと思ったのだが。
「減らず口を叩けるのも今だけだと思うぞ!」

 紫織のすぐ横に宏樹が現れ、今度は彼が雪玉を投げる。

 それは紫織のとは比べ物にならないほどのスピードで飛んで行き、見事、朋也の背中にヒットした。

「なんで兄ちゃんが投げんだよっ? きったねえぞっ!」

「俺も紫織も別にルール違反なんてしてないぞ? お前にやられたから、やり返してやっただけだ!」

「――クッソオ!」

 朋也は立ち止まってその場にしゃがみ込むと、すぐ近くの雪を掴んだ。
 また、雪玉を作っているらしい。

(懲りないなあ……)

 そう思いつつ、紫織も宏樹も反撃用の雪玉をこさえている。

 気が付くと、朋也のペースにすっかりはまっていた。
 あんなに嫌だと思っていたのに、雪玉を投げ合っているうちに楽しくなり、身体も汗ばむほどになっていた。

 雪合戦は、しばらく続いた。

「――まさか、ここまで雪と戯れることになるとは……」

 紫織の隣で、宏樹がぽつりと呟く。

「そうだね。――結局、宏樹君も私も、朋也には敵わないってことなのかな?」

 紫織が訊ねると、宏樹は「そうだな」と目尻を下げながら肩を竦めた。

[プロローグ-End]
 ピピピピピ……


 夢と現実の境をさ迷っている中で、けたたましいアラーム音が辺りに響き渡った。

「もう……、煩い……」

 加藤(かとう)紫織は鬱陶しげにぼやくと、瞼を閉じたままの状態でベッドの上の目覚まし時計に手を伸ばし、手探りでスイッチを止めた。

 部屋の中に、静けさが戻る。

 紫織は今度は腕を引っ込め、頭から布団を被った。
 あと少しだけ、と思いながらウトウトととまどろむ。
 布団の中の温もりも手伝い、幸せは絶頂に達している。

 だが、そんな幸せは決して長くは続かない。

 しばらくすると、部屋の向こうから微かに階段を昇ってくる足音が聴こえてくる。
 心なしか、その足取りは荒々しい。

(あ、そろそろかも……)

 そう思っている間にも、足音は階段を完全に昇りきったようだった。
 同時に、自室のドアがもの凄い勢いで開かれた。

「紫織!」

 予想通りの第一声だった。
 その声は考えるまでもなく母親だ。
 声を聴いただけでも、相当お怒りであることは明白である。

「全く! 目覚ましが鳴っても起きないなんて……。ほら! とっとと起きなさい! 遅刻しちゃうでしょ!」

 お説教を言い終える間もなく、母親が布団を剥ぎ取ろうと手をかけてきた。

「ダメダメダメ! だるいし眠いし寒い!」

 負けじと布団をがっつりと掴んで抵抗を試みるも、母親の力は思った以上に強く、バサッと音を立ててあっさりとよけられてしまった。

 目の前に現れた母親の顔は、まさに鬼の形相であった。

 紫織は言葉を失ったまま、母親を凝視する。

「さあ紫織ちゃん、起きましょうね。『寒くて眠いから学校に行きたくない』なんて屁理屈は、いっさい聞きませんよ?」

 先ほどとは打って変わり、母親の口調は丁寧さを増していた。
 怒鳴られている時よりも、遥かに恐怖を感じる。

 母親の言葉に、紫織は黙って頷いた。

 これ以上、よけいなことは言うまい。
 そう自分に言い聞かせながらのろのろとベッドから降りた。
 ◆◇◆◇

「忘れ物はない?」

 玄関先でコートを着込み、ローファーを履いている紫織に母親が訊ねる。

「うん、大丈夫」

 紫織は頷くと、カバンを手にしてドアを開けた。

「それじゃあ、行って来ます」

「はい、気を付けて行ってらっしゃい!」

 母親に見送られながら、外へ足を踏み出した。
 凍えそうなほどの冷気が全身を覆う。

 それもそのはずである。
 今は十一月下旬。
 本格的な冬は、すぐ目の前に迫っている。

 紫織は出来る限り、身を縮ませながら歩く。
 それでもスカートの中まではさすがに防御が利かず、ひんやりした空気がスースーと入ってくる。
 寒さ対策のために履いている分厚い黒タイツも、あまり意味をなしていない。
 歯の根も噛み合わず、意識を全くしていないのに勝手にガチガチと震えた。

(冬なんてなければいいのに……)

 そんなことを思いながら、隣家の前を通り過ぎようとした。

「紫織」

 低くて穏やかな声に呼び止められた。

 紫織ははたと足を止め、首だけを動かしてその主を確認する。

 そこにいたのは、その家の長男である高沢(たかざわ)宏樹。
 彼は口元に小さな笑みを浮かべながら、「おはよう」と挨拶をしてきた。

「どうした? 憂鬱そうな顔をしてるぞ」

「――そんな風に見える?」

「うん。『学校なんてかったるい!』って言いたげにしてる」

「そ、そこまで酷いことは思ってないけど……。――ただ、寒くて嫌だなあと……」

「あはは、なるほど」

 紫織の言葉に、宏樹は乾いた笑い声を上げた。
「そういえば、紫織は冬が一番苦手だったっけ? ちっこい頃も寒いのを嫌がって、自分から外に出ようとはしなかったもんな。そのたびに、朋也に無理矢理連れ出されて……」

「――憶えてたの?」

「憶えてたもなにも、当時の紫織も今と全く同じ表情をしてたから。俺は可哀想だと思ったんだけど、年中無休で元気がありあまってる朋也には、紫織の気持ちなんて理解出来なかっただろうし……」

「――俺が何だって?」

 宏樹が言い終えるのと同時に、彼より少しばかり背の高い少年がヌッと現れた。

「と、朋也!」

 予想外の人物の出現に、紫織はわずかに動揺する。
 今の会話、全て聴かれていたのだろうか。

 だが、弟の高沢朋也の話題を出していた張本人である宏樹は慌てている様子が全くない。
 それどころか、まったりとした口調で、「やっと出て来たのか」と呆れたように言う。

「いつまで経っても起きてこないから、遅刻するんじゃないかと心配したよ」

「フン、よけいなお世話だ。それよりもお前ら、何コソコソと人の陰口を叩いてんだ?」

「べっ、別に陰口なんて叩いてないもん!」

「そうだな。『朋也は年中無休で元気』だと堂々と話していたんだから、陰口を叩いてたとは言わない」

「ここ……、宏樹君!」

 誤魔化しもせずにサラリと言ってのける宏樹に、紫織の方がオロオロしてしまった。

 案の定、朋也の顔は紅潮している。
 怒りが爆発するのも、もはや時間の問題といった感じだ。

(宏樹君! なんでわざわざ怒らせるようなことを……!)

 そう思いつつ、宏樹の狙いも実は分かっている。
 宏樹は昔から、朋也をからかうという悪い癖があった。

 朋也はすぐにムキになるため、宏樹としてはそれがとにかく面白いらしい。
 面白がっているだけならまだ良いのだが、さらに煽るような発言をするから、朋也はまた怒りを露わにする。
 そして、またさらに挑発しては怒鳴らせるという悪循環を繰り返す。

 からかわれ続ける朋也も憐れだが、一番の被害者は、ふたりのやり取りを傍観し続けている紫織である。
 黙って見ているのは辛いし、何より疲れてしまう。
(いい加減にしてよ……)

 祈るような気持ちで、紫織はふたりを交互に見比べた。

「――もういい!」

 吐き捨てるように言い放ったのは朋也だった。

「その代わり、人を馬鹿にしやがった罰として俺と紫織を学校まで送れ!」

 朋也がビシッと指を指した先には、宏樹の車が置かれている。

「ああ、それは無理」

 朋也の命令に対し、宏樹はけんもほろろに断った。

「お前達を送っていたら俺が仕事に遅れちまうだろうが。それに紫織はともかく、朋也は充分に体力がありあまってるんだからな。よく言うだろ? 『子供は風の子、大人は火の子』ってね」

「またガキ扱いしやがって……!」

「俺から見たらまだまだ子供だ。ほら、とっとと行かないとほんとに遅刻しちまうぞ?」

「チックショー……。あとで憶えてやがれ!」

 朋也はまだ言い足りなさそうにしていたが、諦めたように背中を向けた。
 もの凄い大股で歩いて行き、一気に距離を広げてゆく。

「あ、宏樹君。私もそろそろ……」

 言いながら、紫織も朋也を追う姿勢を見せた。

「ああ、気を付けてな」

「うん! 行って来まーす!」

 小走りをしながら、宏樹に手を振り続ける。

「おーい! 慌て過ぎて転ぶなよっ?」

 背中越しに、宏樹の声がこだましていた。
 朋也にやっと追い着いた紫織は、息を切らせながら彼の隣に並んで歩いた。

「はあ、はあ……。もう、学校行く前から疲れさせないでよ……」

「そりゃあ単に、普段から運動不足なせいだろ?」

 図星を突かれた紫織はムッとして、朋也を恨めしげに睨んだ。

「その言い方はないでしょっ? なによ、せっかくこっちは朋也を心配してあげてるってのに!」

「はあ? お前に心配されるいわれなんてねえよ!」

「――いちいち腹立つなあ……」

「うるせえ! どうせ俺は兄貴と違って馬鹿だよ。んなもん、ガキん頃から分かってらあ!」

 朋也は口を尖らせて下を向いた。
 隣でそれを見ている紫織からは、ただ、溜め息しか出てこない。

 あっという間に成長し、気が付くと兄である宏樹の身長も超してしまった朋也。
 だが、それは外見だけであって、中身はまるっきり子供のままである。

 反応を面白がってからかう宏樹君も宏樹君だけど、すぐに真に受けて本気で怒る朋也にも充分問題があるんじゃ、と紫織は思った。

 毎度、間に挟まれてしまう紫織は堪ったものではない。
 宥めようにも、先ほどの状況が表していたように、治まるどころか悪化の一途を辿るばかり。

 人知れず、紫織は苦労をしているのだ。
 だからと言って、この兄弟と縁を切りたいと思ったことは一度たりともない。

 どちらも大切で、ことに宏樹に対しては、子供の頃から特別な感情を抱いている。

 それを〈恋〉だと自覚したのは、今から四年ほど前。
 小学生だった紫織に対し、宏樹はすでに二十歳を超えていた。

 〈妹〉としか見られていないのは、ずっと前から分かっていた。
 早く大人になりたいと、どれほど切実に願ったことだろう。
 それでも、十歳という年の差は埋まらない。
 紫織が年を重ねれば、宏樹もその分だけ年を取ってゆく。

 もちろん、宏樹が気持ちに応えてくれる可能性はゼロではないと思うが、期待出来るわけでもない。

 どうして、宏樹を好きになってしまったのか。
 そんな自分に、ほとほと嫌気が差すことがあった。

 ふと、何気なく朋也を見た。
 彼は相変わらず不貞腐れたままである。

 実の兄弟であるはずなのに、どうしてこうも違うのだろうか。

 共通点のほとんどない兄弟を頭の中で比べながら、朋也には恋愛感情が湧くことはないだろうと、紫織は漠然と感じていた。
 ◆◇◆◇

 四時限目の授業が終わって昼休みに突入すると、教室は徐々にざわめいてくる。
 持参した弁当や購買で買ったパンなどを持ち寄り、仲の良い者同士で集まってめいめいに食べる。

 その中で、紫織は親友の山辺涼香(やまのべりょうか)とふたりで弁当を広げていた。
 休み時間に入るのと同時に、涼香が椅子と弁当を持って紫織の席まで来るのが日課となっているのだ。

「あのさあ紫織、ひとつ訊いてもいい?」

「ん」

 涼香に訊ねられ、紫織は卵焼きを頬張りながら短く答える。

「あんたと高沢って、出来てんの?」

 突拍子もない質問が飛んできた。紫織は思いきりむせ、危うく卵焼きを戻しそうになってしまった。

「げほっ、ごほっ……。なっ、何でそんなこと……」

 狼狽している紫織に対し、涼香は淡々としていた。

「いや、紫織って男子と話すことが滅多にないじゃん。それなのに、高沢とは仲良くしているからさあ。幼なじみだってのは前にも聞いていたけど、もしかしたら、って思って」

「――だからって、なんでそんな発想に至るわけ?」

 お茶で卵焼きを流し込んだあと、紫織は逆に訊き返した。

「発想もなにも、いくら幼なじみでも高校生にもなれば関係が煩わしくなって、どちらからともなく離れるもんじゃないかと思ったからさ。――まあ、私はそうゆうのがいないから、実際はどんなもんなのか分かんないけど」

 涼香の言い分は、紫織も妙に納得した。

 確かに、朋也と紫織のように仲が良いのは、幼なじみといえども特殊なのかもしれない。
 子供っぽい朋也に疲れを感じても、煩わしいとは決して思わない。
 それどころか、一緒にいるのは安心出来る。

「朋也のことは嫌いじゃないよ」

 紫織は箸を止めて言った。

「でも、これだけははっきり言うけど、私は朋也に恋愛感情を抱いた事はないから。――だって……」

 言いかけて、紫織はそのまま口を噤んだ。

 頭の中に浮かぶのは、穏やかな笑みを浮かべる十歳も離れた幼なじみの顔。
 紫織や朋也にいつも優しいが、心の中はどんなに手を伸ばしても届かない場所にある。

 遠い日に交わした約束も、彼にしてみたら幼い子供の戯れ言程度にしか考えていなかったであろう。
 その当時の宏樹と同じ位の年齢になった今は、それが嫌と思えるほど理解出来る。

 考えるうちに、深い哀しみが押し寄せてきた。
「ふうん」

 涼香は食べかけの弁当箱に箸を置くと、紫織をまじまじと見つめた。

「なるほど。あんたの心には、誰か別の人がいるわけだ。それも、高沢では敵わないような相手とか?」

 何も言っていないのに、見事に涼香に図星を突かれた。

「ど、どうして……?」

 紫織が訊ねると、涼香は黙って自分で自身の頬を指差した。

「ここに書いてる」

「え……?」

「あんたは頭に〈馬鹿〉が付くほど正直だからねえ」

 そう言うと、涼香はさも愉快そうにケラケラと笑い出した。

「――そんな風に言わなくっても……。それに笑い過ぎ……」

 紫織は頬を膨らませると、眉をひそめながら涼香を睨む。

 だが、それがさらに涼香の笑いに拍車をかけてしまったらしく、今度は腹を抱えて涙を浮かべながら爆笑した。

「あっははは……! 紫織ってば最高ー!

 よし! これからもお姉さんが、純情可憐な紫織ちゃんを可愛がってあげよう!」

(完全に遊ばれてる……)

 紫織の不満は増大する一方であったが、これ以上、よけいなことは言わずにおこうと心の中で決めた。

 ふと気が付くと、クラスメイトがこちらを見ている。
 どうやら、涼香のはた迷惑な笑い声に周りもビックリしてしまったようだった。

(もう……、最悪……)

 注目されることが苦手な紫織は、恥ずかしさと申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

 一方、当の涼香は周りの視線など全くお構いなしといった様子で、再び箸を手にして弁当を食べ始めた。

「どしたの紫織? とっとと食べないと休み時間終わっちゃうよ?」

「――ずいぶんと能天気だね……」

 紫織は露骨に嫌味を口にした。

 だが、涼香はそれすらもあっさりと受け流す。

「私には悩みなんてないからねー。毎日を面白おかしく過ごす! それが私のモットー!」

 涼香は言い終えると、今度こそ食べることだけに専念した。

 そんな親友の姿を、紫織は恨めしく思う半面、羨ましい気持ちで眺めていた。

(涼香ぐらい明るかったら、ほんとに毎日が楽しいだろうに……)

 紫織は、まだ半分以上も残っている弁当にちびちびと箸を付けた。

 色々と考え過ぎたせいか、食欲はとっくに失われていた。

[第一話-End]