「――千夜子」
宏樹は、一番訊きたかったことを訊ねてみた。
「お前は、俺といて幸せだったと想ってくれたことがある?」
千夜子は一呼吸吐いたあと、『もちろんよ』と答えた。
『私にとって、コウは初めての恋人だったもの。コウといられた時間は、本当に幸せだった。でも……、今はもう、コウを愛せる自信がないから……』
「――そう……」
『ほんとにごめんなさい。せっかく久々に電話してきてくれたのに……。いきなり別れを言うなんて私もどうかしてると自分でも分かっているけど、今言わないと、もっとコウを傷付けていたと思う……』
千夜子はそこまで言うと、『それじゃあ』と切り出した。
「あ、待って」
宏樹は、慌てて電話を切ろうとしている千夜子を引き止めた。
「ひとつ、お願いしたいんだけど……」
『――なに?』
「最後に、一度だけ逢えないかな……? もちろん、それで俺も終わりにするから……」
千夜子は少し黙り込んでいたが、結局、彼女から肯定の返事はなかった。
『ごめんなさい。もう、コウとは逢わないと決めてるから……』
ここまではっきりと言いきられてしまっては、引き下がる以外にない。
宏樹は、「分かった」とだけ答えた。
「それじゃあ、元気で……」
『うん、コウも……』
それを潮に、今度は本当に千夜子は電話を切ってしまった。
耳の奥に、電話が切れた後の音が鳴り響いている。
もう、千夜子の声は聴こえない。
それなのに、その無機質な音のどこかで、千夜子の声の幻が届いてきそうな気がしていた。
宏樹は目を閉じた。
そうしていれば、しばらく逢えなかった千夜子の笑顔が見えるかもしれない。
そんな幻想を抱きながら、宏樹は受話器からゆっくりと耳を離した。
[第三話-End]
刻々と時は過ぎ、気が付くと日曜日となっていた。
学校はもちろん、大抵の会社も休みであるが、紫織の父親は周囲が休日を満喫している時にこそ働きに出ている。
今日も朝早くから出勤したようで、紫織が起きた頃にはすでに父親の姿はなかった。
幼い頃には、どうして自分のお父さんはよそのお父さんと違うんだろう、という疑問を抱いたこともあったが、今となっては、父親のいない休日は当たり前のようになってしまい、特に気にならなくなっていた。
父親が不在の中で、紫織と母親はふたりで朝食を食べ、食事を済ませたあとは、母親は後片付けをし、紫織はコタツに寝転んでテレビを観ている。
何もせずに、ただのんびりと過ごす。
それが紫織にとって、何より幸せな休日である。
「ちょっとあんた……」
後片付けを終えた母親はリビングへと戻って来るなり、紫織を呆れたように見下ろしていた。
「いくら休みだからって何ぐうたらしてんの? ちょっとは手伝いのひとつもしようって気持ちにならないの?」
「うーん……、めんどくさい……」
紫織はだるそうに答えると、首だけを出す格好でコタツに潜り込んだ。
その行動は母親の癇に障ってしまったらしい。
突然、何の前触れもなしに頭に平手が飛んできた。
「……ったあ……」
紫織は首をわずかにもたげると、コタツから手を出して自らの頭を何度もさすり、母親を恨めしげに見上げた。
「いきなり叩くことないでしょ! 暴力反対!」
「なにいっちょまえな口利いてんのよ」
母親は腰に両手を当て、それこそ仁王像のような凄まじい形相で紫織を睨んでいる。
「ちょっとぐらい痛い目に遭わないと、あんたは全く人の言うことなんて聴かないでしょうが。それに、そんなに強く叩いてないでしょ。――ほんとに大袈裟なんだから!」
「――だって……」
「『だって』じゃないの! もう、あんたがここにいると掃除もロクに出来ないからどっかに行ってらっしゃい!」
「ええーっ……!」
「――何か、ご不満でもあるのかしら?」
母親は紫織に、満面の笑みを浮かべている。
だが、実は全く笑っていないのは、紫織も重々承知していた。
「――いえ、ありません……」
力なく答える紫織に、母親は満足気に頷く。
「分かればいいのよ」
母親から追い出された紫織は、自室へと戻ってコートを着込んだ。
本当は家から出たくなかったのだが、自分の部屋にいたとしても、先ほど同様、酷い扱いを受けるのは目に見えている。
(風邪を引いたら、絶対にお母さんを恨んでやる)
紫織はそう思いながらコートを着込み、お気に入りのクリーム色のマフラーを巻いた。
手ぶらで出るのも何だか虚しいような気がしたので、小さなバッグを手にし、その中に財布を忍ばせた。
財布の中身は雀の涙ほどしかないが、ないよりはましである。
贅沢は出来なくても、せいぜいファーストフードぐらいは口に出来る。
「さてと……」
ひととおりの準備を終えると、紫織は再び部屋を出た。
◆◇◆◇
外に出ると、凍り付かんばかりの冷気が全身に纏わり付く。
口からは真っ白に染まった息が吐き出され、それがよけいに寒さを感じさせた。
紫織はコートのポケットに手を入れた。
手袋を嵌めてはいるが、それでも、出したままでの状態では少しずつ指先から体温を奪われてゆく。
(とりあえず、駅の方まで行こうかな)
紫織は身を縮ませながら、駅へと向かおうとした。
と、その時であった。
「紫織」
背中越しに低く穏やかな男の声に呼び止められた。
紫織は立ち止まって後ろを振り返る。
紫織を呼んだのは、隣人の幼なじみである宏樹だった。
「珍しいな、こんな寒い日に外に出るなんて」
宏樹は紫織と視線が合うなり、小さく笑みながら言った。
宏樹も出かけるところだったのだろうか。
紫織同様、上半身にコートを纏っている。
「どこ行くんだ?」
まるで保護者のように訊ねてくる宏樹。
完全に子供扱いされていると感じた紫織は、不満げに口を尖らせた。
「別にどこ行くって目的はないけど……。ただ、お母さんに邪魔扱いされちゃったから……」
紫織の答えに、宏樹は、あはは、と声を上げて笑った。
「なるほど。それじゃあ、俺と同じってわけだ」
「え? 同じって、まさか……」
「そ、俺も、追い出されたクチ」
宏樹は屈託なく言った。
「いい大人が、家にばかり閉じ籠ってるんじゃない、ってね。確かに、親の言うことももっともだけどな」
「そうなんだ。――あ、でも、朋也は?」
「ああ、あいつは朝早くから出かけてるよ。どうやら、学校の友達と約束があったみたいだな」
「ふうん」
紫織は短く答えると、寒さも関係なく、意気揚々と出かける朋也を思い浮かべた。
年中元気がありあまっているというのは、呆れる半面、羨ましくも感じる。
(朋也ほどじゃなくても、私ももうちょっと寒さに強ければ……)
そう思いつつ、紫織は身体を鍛えようという気は全く起きない。
やはり、家でぬくぬく過ごすのが一番幸せだと改めて考え直した。
「――紫織?」
思案に耽っている紫織の顔を、宏樹が怪訝そうに覗き込んでくる。
宏樹の顔がすぐ目の前にある。
紫織は驚いて目を見開き、思わず背を仰け反らせた。
「別に、そんなにビックリすることないだろ?」
宏樹は呆れたように苦笑した。
「だ、だって……! 急に宏樹君が顔を近付けてくるから……!」
紫織の心拍数は徐々に上がっている。
宏樹とは長い付き合いだし、幼い頃は、抱っこもおんぶもしてもらっていたこともあるが、今は違う。
ほんの少し、宏樹の吐息を感じただけで紫織は本気で失神寸前まで追い込まれる。
だからと言って、突き放されてしまうのも淋しい。
本当に、恋心というものは厄介に出来ている。
(私、このままで大丈夫なのかな……?)
そんなことを思っていたら、宏樹が、「おい」とまた声をかけてきた。
「紫織、特に予定がないなら、ちょっと俺に付き合わないか?」
「え……?」
突然の申し出に、紫織はポカンと口を開けたまま何度も瞬きした。
宏樹は紫織に自分の言葉が伝わっていないと思ったらしい。
「だから、俺に付き合って、って言ったんだけど」
「あ、それは分かったんだけど……。――なんで?」
「『なんで』って言われてもなあ……」
さすがの宏樹も困惑していた。
「深い意味はないんだけどねえ。――まあ、いいから来い」
珍しく命令口調で紫織に促してくる。
紫織は言われるがまま着いて行くと、隣家の車庫に停められている宏樹の車の前まで来た。
宏樹はコートから車のキーを取り出すと、鍵穴にそれを差し込んでドアを開けた。
「ほら、紫織も乗った」
「あ、うん」
抵抗する間もなかった。
いや、宏樹に抵抗する気など元からなかったが。
紫織はドアを開けると、助手席に座り、シートベルトを着用する。
宏樹はそれを見届けると、車のキーを回した。
◆◇◆◇
車を走らせてから、一時間ほどが経過していた。
宏樹はどこへ向かうつもりなのか、途中で国道を逸れ、民家の疎らな道を走らせてゆく。
ふたりの間に会話はない。
カーオーディオも切っている状態なので、車内にはエンジンの騒音とタイヤの擦れるような音だけがやけに響いている。
そのうち、紫織に眠気が襲ってくる。
ほど良い振動と、外とは対照的な暖気がやけに心地良く、船を漕いでは慌てて目を覚ますという行為を何度も繰り返していた。
「寝ていいぞ?」
見かねたのか、運転席の宏樹が紫織に言ってくれたが、ずっと運転している宏樹に対してさすがに躊躇いを覚える。
「――大丈夫だよ」
だが、そう言った側からまたしても睡魔に襲われる。
宏樹は紫織を一瞥すると、呆れたように苦笑を浮かべた。
「いいから。我慢されるより、素直に寝てもらった方が俺も助かるから」
そこまで言われると、遠慮するのがかえって悪い気持ちになる。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
紫織が言うと、宏樹は満足げに頷いた。
「もうちょっとかかるからな。到着するまでゆっくり寝てろ」
「うん……」
紫織は頷くと、間もなく深い眠りに就いた。
◆◇◆◇◆◇
紫織が寝ている横で、宏樹は車を目的地に向けてひたすら走らせる。
千夜子に電話越しで別れを告げられてから、十日が経っていた。
突然ではあったが、それまでの経緯を考えればあり得ないことでもなかった。
逢うこともままならなくなった宏樹より、近しい存在に心変わりしてしまうほど、千夜子は不安に陥っていたのだ。
これは、自分に非があった、と宏樹は思っている。
ほんの少しだけでも、自分を切り捨てた千夜子を恨みかけたが、それは違う。
(俺は、何を考えているのか分からないとよく言われていたしな)
目の前に広がる灰色のアスファルトと白いセンターラインを見ながら、宏樹は自嘲するように口の端を上げる。
宏樹は自分の感情を抑える癖がある。
子供の頃はもう少し素直だったと思うが、年の離れた弟――朋也が生まれてから、無意識のうちに、変わらなければ、と思うようになっていたのかもしれない。
(からかうのは、面白いんだけどな)
朋也が真っ赤になってムキになる姿を想像して、宏樹は思わず笑いが込み上げた。
朋也も最近は大人ぶっていても、紫織が絡むと滑稽なほど豹変する。
紫織に冷たくあしらわれると、情けないほど萎縮し、かと思えば、少しでも微笑まれると、釣られたようにニンマリと笑う。
(俺が今、紫織とこうして一緒にいるなんて知ったら、あいつはどうなることやら……。いや、それはそれで面白いかもな)
宏樹は悪戯を思い付いたあとの子供のような心境で、強くアクセルを踏み込んだ。
◆◇◆◇◆◇
「……り、紫織……」
どこか遠くで、自分を呼んでいる声が聴こえてくる。
だが、辺りを見回してみても、声の主の姿は全く見当たらない。
(――宏樹君の声、どこから……?)
そう思っていると、今度ははっきりと「紫織」と耳に飛び込んできた。
紫織はハッと我に返った。
否、正確には夢の世界から現実へ舞い戻った。
「すっかり熟睡していたみたいだな」
紫織の目の前には、呆れたように苦笑を浮かべる宏樹の顔があった。
「――宏樹、君……?」
頭がぼんやりしている紫織は、未だに夢と現実の区別が付いていない。
(あれ? 私は何してたんだっけ……?)
宏樹を仰ぎながら、紫織は記憶を遡ってみる。
まず、家でゴロゴロしていて母親に叱られ、追い出しを食らったところまでは憶えている。
それから、簡単な身支度をしてから外に出たところ、隣人の宏樹と遭遇した。
(そうだ!)
そこでやっと想い出した。
(私、宏樹君に誘われて……)
宏樹の運転する車に乗っている最中、急に眠気が遅い、そのまま宏樹の好意に甘えて眠ったのだ。
しかも、その後はすっかり深い眠りに落ちてしまった。
もし、宏樹に起こされなければ、まだ眠り続けていた可能性は充分にあり得る。
(私ってば、最低……)
頭の中が完全に活動を始めたとたん、紫織は自己嫌悪に陥った。
間抜けな寝顔を晒していたのではないかと思うと、急激に羞恥心が芽生え出し、宏樹をまともに見ることが出来ない。
気まずさのあまり俯いている紫織に、宏樹は追い討ちをかけるように真顔で言った。
「紫織の寝顔、久々に見させてもらったよ。それにしても、なんか面白い夢でも見てたのか、時々笑い出したかと思ったら、モニョモニョと寝言も言ってたぞ。ついでに涎も出してた」
「えっ……!」
紫織は慌てて口を覆った。
(笑ってただけじゃなくて寝言まで言ってたなんて……! しかも涎って……!)
紫織はこのまま、穴があったらすぐに飛び込んでしまいたい、と心底思った。
だが、車内には当然ながら紫織が入れるほどの手頃な穴などあるはずもないので、両手で頬を押さえるのが精いっぱいだった。
「……ぷっ……!」
突然、宏樹が吹き出したかと思ったら、そのまま声を上げて笑った。
「あっはははは……! 冗談だ、冗談! 別に寝言も言ってなかったし、笑ってもいなかった。涎も出してなかったよ」
「――へ……?」
紫織はポカンとして、宏樹を見つめた。
一瞬、状況が掴めずにいたが、落ち着きを取り戻すにつれ、何とも言いがたい複雑な想いが紫織の中で渦巻き出した。
朋也が弄ばれている姿はよく見ていたが、まさか、自分までもが宏樹のターゲットにされようとは予想だにしなかったのである。
(――酷い……)
今さらながら、からかわれ続ける朋也の気持ちが分かったような気がした。
一方、宏樹は悪びれた様子などいっさいない。
してやったり、と言わんばかりに、未だに涙を浮かべながら笑い続けている。
紫織には優しいはずの宏樹。
しかし、今は明らかに違う。
(私、道を間違えちゃったのかな……?)
宏樹の隣で、紫織はひっそりと溜め息を吐いた。