雪花 ~四季の想い・第一幕~

 ◆◇◆◇

「……や。……もや……」

 夢と現実の境目で、誰かが呼んでいるような気がした。

「……ん……」

 朋也は小さく呻くと、重くなっている瞼をこじ開けた。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 陽はすっかり暮れ、点けっ放しにしていた電気ストーブの明かりが暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 朋也はゆっくりと身を起こして、ベッドの上で胡座を掻いた。

 すると、今度ははっきりと、「朋也!」と苛立ちの籠った声が耳に飛び込んできた。

「んだよー!」

 その場から一歩も動かず、朋也は面倒臭そうに怒鳴り返した。

 ドアの向こう側からは、階段を昇ってくる荒々しい足音が聴こえてくる。

「『んだよ』じゃないの! こっちは何度もあんたを呼んでたのに!」

 部屋のドアを開けたのと同時に、母親が朋也を嗜めると、辺りをグルリと見回して大きな溜め息を吐いた。

「あんた、真っ暗にして何ぼんやりしてんの……?」

「別に好きで暗くしてたんじゃねえよ。寝てたら暗くなってただけで」

「呆れた! ほんとにあんたは暇さえあればよく寝るわねえ……。だから図体だけがやたらとデカくなったのかしら?」

「うるせえ! それより何なんだよ? 用がないならとっとと出てけ!」

「何なのその言い方は……!」

 母親は朋也を一瞥すると、再び溜め息を漏らした。

「ご飯が出来たから呼びに来たのよ。――食べたければ降りてらっしゃい」

 これ以上は相手しきれない、とでも言いたげに母親は黙って部屋を出て行った。

 残された朋也は、ストーブの明かりをしばらく見つめていた。

 とりあえず、母親のお陰で頭も完全に覚めた。
 同時に、〈ご飯〉という台詞を耳にしたとたん、急に空腹を感じ始めた。

「飯、食うか……」

 朋也はひとりごちると、ベッドから降りてストーブのスイッチを切り、静かに部屋を出た。
 ◆◇◆◇

 いつもと変わらない夕飯を済ませてから、朋也は再び自室へ向かった。

 母親には、「ちょっとぐらい、家族と過ごそうって気持ちにはならないの?」と小言を言われたが、宿題があるからと適当にあしらった。
 もちろん、そんなものは方便だ。

 とにかく、朋也は自室に着くなり、一度消した電気ストーブを点火し、学校から帰った時と同様にベッドに転がる。

 夕飯前まで寝ていたせいか、横になっても全く眠気を感じない。
 もしかしたら、本でも読めば眠くなるだろうかとも思ったが、朋也は活字を読むと、哀しいことに睡魔よりも頭痛に襲われる。

(どうしたもんか……)

 ぼんやりと天井を睨んでいたその時、部屋のドアが軽くノックされた。

 また、母親だろうか。

 朋也はベッドに横たわったまま、「ああ?」と無愛想に応答した。

「俺だよ」

 ドアの向こうから聴こえた声は、母親とは全く正反対の低い声だった。

 父親に至っては息子達の部屋をわざわざ訪れることなど滅多にないから、消去法でいくと残るはあとひとりである。

 面倒臭いと思いつつ、朋也は起き上がり、ドアの前まで行って開けた。

 やはり、兄の宏樹だった。

「退屈そうだな」

 宏樹は朋也を確認するなり、ニヤリと口の端を上げた。

「――何だよ……?」

 つっけんどんに訊ねると、宏樹はわざとらしく肩を竦めた。

「そんなにピリピリするな。俺も暇だったから、お前と話でもしようと思っただけだよ」

 宏樹はそう言いながら、朋也にコーラ缶を手渡してきた。
 よくよく見ると、コーラ缶を持っていた逆の手にはビール缶が握られている。

「――酒なら親父と飲め」

 朋也が突っ込むと、宏樹は「まあまあ」と彼の肩を軽く掴むと、どさくさに紛れて部屋に侵入してきた。

「ほら、その辺に座れ」

 朋也の部屋なのに、宏樹は逆に朋也を自室に招き入れたように振る舞う。

(俺の部屋だっつうの……)

 そう思いつつ、気付くと宏樹のペースに乗せられている。

 朋也は畳の上に胡座を掻き、宏樹も同様に向かい合わせに腰を下ろした。
「朋也、訊いてもいいか?」

 未開封のビール缶を手にしたまま、宏樹が口を開いた。

「訊くって、何をだよ?」

 朋也は怪訝に思いながら訊き返す。

 宏樹は自らの顎をさすり、少し考えるような仕草を見せてから、「紫織のことだよ」と言った。

「お前、紫織が好きだろ?」

「なっ、なな……!」

 あまりにもストレートな訊き方に、朋也は目を見開いたまま、言葉にならない言葉を発していた。

「図星だな」

 朋也の反応を見ながら、宏樹はさも愉快そうにニヤリと笑う。
 明らかにからかわれている。

「わ、悪いかっ!」

 気が付くと、宏樹に啖呵を切っていた。

「俺は誰にも迷惑をかけてねえじゃねえか! 紫織にだって好きだって言ったことはない! どうせ、俺のはただの片想いだしよ!」

「ああ、少しは落ち着け」

 宥めようとしているのか、興奮している朋也の肩を宏樹は何度も叩いた。

「誰も『悪い』なんて言ってねえじゃねえか。――全く、早とちりもいいところだな。
 俺はただ、朋也の気持ちをお前の口から聞いてみたかっただけだ。まあ確かに、お前の過剰過ぎる反応もおも……、あ、いやいや」

 宏樹は言いかけた言葉を、慌てて咳払いで誤魔化していた。
 何を言おうとしていたかは、考えるまでもない。

「とにかく、紫織をそこまで好きならば、もっと頑張らないとだぞ? あんまりモタモタしてると、他の男に持ってかれるかもしれないからな」

「――言われなくても……」

 朋也は力なく肩を落とした。

「でも、いくら頑張ったって無駄なんだよ。――だいたい、紫織は……」

 朋也はそこまで言うと、宏樹を睨んだ。

「ん?」

 宏樹は怪訝そうに首を捻る。

 朋也が言わんとしていることを全く分かっていないのか、それともポーズなのか、宏樹の表情から覗うことが出来ない。

「――何でもない」

 朋也は宏樹から視線を外し、コーラ缶のプルタブを上げた。

「変な奴だな」

 宏樹は苦笑しながら、自らもビール缶を開けてそれを口に運んだ。

(ほんとに食えない男だよ、兄貴は……)

 黙々とビールを流し込んでいる宏樹を、朋也は苦々しく思いながら睨み続けた。

[第二話-End]
 その日の朝、宏樹は陽が完全に昇る前に目が覚めた。
 普段であれば珍しくもないのだが、今日は仕事の公休日である。

(もう少し寝るか)

 そう思い、目を閉じてみるものの、何故か深い眠りに落ちない。
 頭の中もすっかり冴えてしまったので、半ば諦めてベッドから降り、自室を出て洗面所へと向かった。

 ◆◇◆◇

「はへ?」

 洗面所で真っ先に遭遇したのは、歯磨き途中の朋也であった。

「はひひ、ひょうってひゃひゅみひゃなひゃっひゃっへ……?」

 歯磨き粉でいっぱいにした口で、朋也は宏樹に訊ねてくる。
 そのせいで、この世のものとは思えない意味不明な言葉を並べ立てていたが、『兄貴、今日って休みじゃなかったっけ?』と訊かれたのはすぐに理解した。

(なにもそんな状態で話しかけてこなくていいものを……)

 宏樹は心底呆れた。

「――まずは口をすすいだらどうだ?」

 やんわり指摘すると、朋也はハッと気が付いたように、宏樹に背中を向けて歯磨き粉を洗面台に吐き出した。
 そして、コップに満たしていたぬるま湯で口を数回すすいでから、再びこちらを見た。

「で、なんで早起きしたんだ?」

「何となく目が覚めてしまっただけで……。別に早く起きるつもりはなかったんだけどな」

「ふうん……」

 わざわざ訊ねてきたわりには、ずいぶんとあっさりした反応が返ってきた。

(まあ、こんなもんだとは分かっていたけどな……)

 宏樹は苦笑しながら、朋也と代わって洗面台に立った。
 ◆◇◆◇

 朋也が学校へ行ってから、宏樹はしばらくリビングでコーヒーを飲みながらテレビを観ていた。

 時間帯的に、どこの局も競うように情報番組ばかり。
 しかも、毎日同じことを繰り返し報道しているので、観ている側としてはさすがに飽き飽きしてしまう。

「宏樹」

 台所仕事を終えた母親はリビングへ来るなり、腰に両手を当てながら仁王立ちした。

「あんたねえ、休みのたびに家でグダグダ過ごすのはやめたら? それに、二十六にもなって結婚もしないで家に居座っちゃって……。全く! 我が息子ながら情けないわねえ」

 そう言うと、母親は大袈裟に深い溜め息を漏らす。

 母親の気持ちはよく分かる。
 確かに、真っ当に働きに出て家にも収入の一部を入れているとはいえ、世間的には宏樹のようなタイプは引き籠りにしか映らないであろう。

 両親の気苦労を考えると、自立して身を固めるべきかとも思うが、家にいる方が何かと楽だし、それ以前に、結婚というものが未だに実感が湧かない。
 もちろん、考えている相手がいないわけではないが、最近は互いに忙しく、すれ違いばかりが続いている。
 彼女と別れることは本意ではないが、そのうち、関係が自然消滅してしまうのではと、不意に考えてしまうこともある。

「ちょっと! 聴いてるのっ?」

 母親のヒステリックな声に、宏樹はハッと我に返った。

「とにかく、大の男にずっと家にいられるのは迷惑なの! だからどっか行ってちょうだい!」

 ここまで言われてしまったら、この場に居座り続けるわけにはいかない。

 宏樹は重い腰を上げ、一旦自室へ引っ込むと、ハーフコートを羽織ってから車のキーに手を伸ばした。
 ◆◇◆◇

 ちょっとしたドライブは、暇潰しにちょうど良いと思う。
 目的を決めず、ただ走らせているだけで憂鬱な気持ちも少しずつ和らいでゆく。

 国道は業者のトラックや営業車が行き来しているため、平日であってもそれなりの台数が走っている。
 だが、国道を逸れた裏道に入ると、さすがにそこはガラガラだった。

(やっぱり、こういう所を走らせるのが楽しいんだよな)

 宏樹は口の端を上げ、標識がないのをいいことににアクセルを踏み込む。

 メーターはじわじわと、だが確実に上がっている。
 一瞬、メーターの存在を忘れて走っていたが、ふと気が付いてチラリと確認した。すると、100kmに到達しそうになっていたので、クラッチを踏み、ギアをシフトダウンして調節する。

 まさかとは思いつつ、目だけを動かしてどこかにパトカーが潜んでいないかと確認してみるが、この辺はパトカーどころか、人が歩いている姿さえ見受けられなかった。

 宏樹はホッと胸を撫で下ろすと、今度は辺りに広がる田園風景を流し見ながら車を走らせる。

(俺がガキの頃は、こういった光景は当たり前のように見ていたよな)

 そんなことを考えながら、宏樹は改めて自分の幼い頃を懐かしく想い出していた。

 宏樹達の住む辺りも、少し前まではのどかな田園地帯であったが、近頃では開発が進み、大型のショッピングセンターや、それに便乗して新たな住宅地が次々と誕生している。
 その影響で、子供達の遊び場もどんどんと縮小されてしまっている。
 だが、今時の子供は外で遊ぶことよりも、家の中でゲームをしている率の方が高いようだ。
 考えてみると、朋也や紫織が幼い時にはすでにその傾向が表れていたような気がする。

(まあ、朋也は違ったけどな)

 不意にその頃の朋也を想い浮かべ、宏樹は苦笑する。

 年中、元気がありあまっていたが、その中でも冬――特に雪が降ると、周りが呆れてしまうほどテンションを上げていた。
 その巻き添えを食らっていたのは、宏樹と紫織。
 特に宏樹は朋也と十歳も離れていることもあって、駄々をこねられてしまうと否とは言えず、黙って付き合っていた。
 だが、それも小学校までのことで、中学に上がってからはさすがに外で駆けずり回るようなことはしなくなり、その代わり、部活で存分に身体を動かしていたようだ。
 高校では部活に入らなかったようだが。

(分かりやすい奴だよ、ほんとに)

 思わず笑いが込み上げてくる。

 朋也があえて部活動をしない理由。
 それは考えるまでもなく、紫織といる時間を少しでも長く作りたいと考えているからだ。

 中学では部活動は強制だったのでそうはいかなかったようだが、高校は週一の必修さえ出れば問題ない。
 しかし、そこまで頑張って紫織に近付こうとしても、当の紫織は全くその気がないらしい。

 その原因が、自分にあることも薄々ながら感じている。

 紫織が迷子になったあの時は、確かに〈兄〉として見られていたのだが、いつからか女の目で宏樹を見るようになっていた。
 紫織は必死でそれを隠そうとしているのは分かったので、宏樹も気付かないふりをしている。
 それに、宏樹自身が紫織を〈妹〉としてしか見ることが出来ない。

 紫織のことは可愛いと思っているが、それはあくまでも家族を想うような感情であって、決して恋愛に結び付かない。

 恋愛感情を抱くのは、高校の頃から付き合っている彼女だけ。
 他の異性から告白されたことも何度かあったが、それでも気持ちが揺らぐことは決してなかった。

(逢いたい……)

 彼女のことを考えていたら、無性に恋しさを感じた。
 逢うのが難しいのであれば、せめて声だけでも聴きたい。
 彼女の都合を考えた方が良いとも思いつつ、しかし、一度心に広がってしまった感情は決して止められない。

(今夜、電話してみるか)

 宏樹は目に付いた空き地に車を乗り入れると、人が来ないのを確認してバックさせ、元来た道に逆戻りさせた。
 ◆◇◆◇◆◇

 今日は一日、朝から放課後まで良い天気が続いていた。

 現在は午後四時だが、日の短い今の時季、太陽はすでに西に傾いている。

 その中を、紫織と涼香は並んで歩いていた。

「あーあ! 今日も一日疲れたわあ!」

 往来のど真ん中だというのに、涼香は全く気に留めた様子もなく、豪快な大欠伸をする。

「ちょっと! やめてってば!」

 本人より、一緒にいる紫織の方がオロオロする。
 いつもながら、この羞恥心のなさだけはどうにかしてもらいたいと切実に思う。

 同性の紫織から見ても涼香は相当な美人なのに、このオヤジ臭さでいっぺんにだいなしになってしまう。
 そう何度注意してもいっこうに治る気配がない。
 それどころか、日に日にエスカレートしているようにも感じる。

(もったいないよなあ……)

 涼香の整った横顔を見るたび、深い溜め息が漏れる。

「紫織」

 寒空の下で背伸びをしながら、涼香は目だけを動かして紫織を見た。

「そういえばさ、あんたに聴いてなかったよね?」

「え……?」

 涼香が言わんとしている意図が掴めずに紫織は首を傾げていると、涼香はズイと顔を近付けてきた。

「もう、とぼけんじゃないよ!」

「だって、ほんとに分かんないんだもん……」

 すっかり困惑している紫織は、眉をひそめて涼香を睨む。

「もう、しょうがないなあ」

 涼香はニヤリと笑みを浮かべた。

「ほら、あんたの好きな人のこと。いるのは分かったけど、具体的にどんな人かは教えてもらってなかったでしょ?」

「――まだ憶えてたの……?」

 過ぎたことだと思っていただけに、涼香のしつこいほどの記憶力には呆れるのを通り越して感心してしまう。
 そんな紫織に、涼香は「あったりまえじゃん!」と答える。

「いっつも一緒にいる高沢を差し置いてでも紫織が惚れてしまうような相手。どんだけいい男なのか、すっごく興味あるもんねえ」

「きょ、興味って……」

 涼香の失礼極まりない発言に、さすがの紫織も頬と口角を痙攣させた。

 興味があるというのは分からないでもないが、自分の中の大切な想いをそんな軽々しい言葉で片付けてほしくない。
 そう思っていると、涼香にも紫織の気持ちが伝わったのか、不真面目な笑いを引っ込めて真顔になった。

「まあ、興味ってのは言葉が悪かったけどさ。でも、紫織のことは何でも知りたいから。あ、でも、変な意味じゃないからその辺は誤解しないで。要は、あんたは高校に入ってからの一番の友人だと私は思っているから興味が……、っと! ああもう! 何て言ったらいいんだ!」

 無遠慮な涼香にしては珍しく、必死で言葉を選ぼうとしているらしいが、普段が普段だけに軽率な台詞しか浮かばないようだ。

 考えを巡らせている涼香を見つめながら、紫織もつまらないことで腹を立てたことが馬鹿馬鹿しくなってきた。

「――もういいよ」

 紫織は口元を綻ばせた。

「私も涼香は一番の友達だと思ってるからね。――でも、もしかしたら、聴いてもつまんないかもしれないよ?」

 紫織が念を押すように訊ねると、涼香は横に首を振った。