雪花 ~四季の想い・第一幕~

 朋也にやっと追い着いた紫織は、息を切らせながら彼の隣に並んで歩いた。

「はあ、はあ……。もう、学校行く前から疲れさせないでよ……」

「そりゃあ単に、普段から運動不足なせいだろ?」

 図星を突かれた紫織はムッとして、朋也を恨めしげに睨んだ。

「その言い方はないでしょっ? なによ、せっかくこっちは朋也を心配してあげてるってのに!」

「はあ? お前に心配されるいわれなんてねえよ!」

「――いちいち腹立つなあ……」

「うるせえ! どうせ俺は兄貴と違って馬鹿だよ。んなもん、ガキん頃から分かってらあ!」

 朋也は口を尖らせて下を向いた。
 隣でそれを見ている紫織からは、ただ、溜め息しか出てこない。

 あっという間に成長し、気が付くと兄である宏樹の身長も超してしまった朋也。
 だが、それは外見だけであって、中身はまるっきり子供のままである。

 反応を面白がってからかう宏樹君も宏樹君だけど、すぐに真に受けて本気で怒る朋也にも充分問題があるんじゃ、と紫織は思った。

 毎度、間に挟まれてしまう紫織は堪ったものではない。
 宥めようにも、先ほどの状況が表していたように、治まるどころか悪化の一途を辿るばかり。

 人知れず、紫織は苦労をしているのだ。
 だからと言って、この兄弟と縁を切りたいと思ったことは一度たりともない。

 どちらも大切で、ことに宏樹に対しては、子供の頃から特別な感情を抱いている。

 それを〈恋〉だと自覚したのは、今から四年ほど前。
 小学生だった紫織に対し、宏樹はすでに二十歳を超えていた。

 〈妹〉としか見られていないのは、ずっと前から分かっていた。
 早く大人になりたいと、どれほど切実に願ったことだろう。
 それでも、十歳という年の差は埋まらない。
 紫織が年を重ねれば、宏樹もその分だけ年を取ってゆく。

 もちろん、宏樹が気持ちに応えてくれる可能性はゼロではないと思うが、期待出来るわけでもない。

 どうして、宏樹を好きになってしまったのか。
 そんな自分に、ほとほと嫌気が差すことがあった。

 ふと、何気なく朋也を見た。
 彼は相変わらず不貞腐れたままである。

 実の兄弟であるはずなのに、どうしてこうも違うのだろうか。

 共通点のほとんどない兄弟を頭の中で比べながら、朋也には恋愛感情が湧くことはないだろうと、紫織は漠然と感じていた。
 ◆◇◆◇

 四時限目の授業が終わって昼休みに突入すると、教室は徐々にざわめいてくる。
 持参した弁当や購買で買ったパンなどを持ち寄り、仲の良い者同士で集まってめいめいに食べる。

 その中で、紫織は親友の山辺涼香(やまのべりょうか)とふたりで弁当を広げていた。
 休み時間に入るのと同時に、涼香が椅子と弁当を持って紫織の席まで来るのが日課となっているのだ。

「あのさあ紫織、ひとつ訊いてもいい?」

「ん」

 涼香に訊ねられ、紫織は卵焼きを頬張りながら短く答える。

「あんたと高沢って、出来てんの?」

 突拍子もない質問が飛んできた。紫織は思いきりむせ、危うく卵焼きを戻しそうになってしまった。

「げほっ、ごほっ……。なっ、何でそんなこと……」

 狼狽している紫織に対し、涼香は淡々としていた。

「いや、紫織って男子と話すことが滅多にないじゃん。それなのに、高沢とは仲良くしているからさあ。幼なじみだってのは前にも聞いていたけど、もしかしたら、って思って」

「――だからって、なんでそんな発想に至るわけ?」

 お茶で卵焼きを流し込んだあと、紫織は逆に訊き返した。

「発想もなにも、いくら幼なじみでも高校生にもなれば関係が煩わしくなって、どちらからともなく離れるもんじゃないかと思ったからさ。――まあ、私はそうゆうのがいないから、実際はどんなもんなのか分かんないけど」

 涼香の言い分は、紫織も妙に納得した。

 確かに、朋也と紫織のように仲が良いのは、幼なじみといえども特殊なのかもしれない。
 子供っぽい朋也に疲れを感じても、煩わしいとは決して思わない。
 それどころか、一緒にいるのは安心出来る。

「朋也のことは嫌いじゃないよ」

 紫織は箸を止めて言った。

「でも、これだけははっきり言うけど、私は朋也に恋愛感情を抱いた事はないから。――だって……」

 言いかけて、紫織はそのまま口を噤んだ。

 頭の中に浮かぶのは、穏やかな笑みを浮かべる十歳も離れた幼なじみの顔。
 紫織や朋也にいつも優しいが、心の中はどんなに手を伸ばしても届かない場所にある。

 遠い日に交わした約束も、彼にしてみたら幼い子供の戯れ言程度にしか考えていなかったであろう。
 その当時の宏樹と同じ位の年齢になった今は、それが嫌と思えるほど理解出来る。

 考えるうちに、深い哀しみが押し寄せてきた。
「ふうん」

 涼香は食べかけの弁当箱に箸を置くと、紫織をまじまじと見つめた。

「なるほど。あんたの心には、誰か別の人がいるわけだ。それも、高沢では敵わないような相手とか?」

 何も言っていないのに、見事に涼香に図星を突かれた。

「ど、どうして……?」

 紫織が訊ねると、涼香は黙って自分で自身の頬を指差した。

「ここに書いてる」

「え……?」

「あんたは頭に〈馬鹿〉が付くほど正直だからねえ」

 そう言うと、涼香はさも愉快そうにケラケラと笑い出した。

「――そんな風に言わなくっても……。それに笑い過ぎ……」

 紫織は頬を膨らませると、眉をひそめながら涼香を睨む。

 だが、それがさらに涼香の笑いに拍車をかけてしまったらしく、今度は腹を抱えて涙を浮かべながら爆笑した。

「あっははは……! 紫織ってば最高ー!

 よし! これからもお姉さんが、純情可憐な紫織ちゃんを可愛がってあげよう!」

(完全に遊ばれてる……)

 紫織の不満は増大する一方であったが、これ以上、よけいなことは言わずにおこうと心の中で決めた。

 ふと気が付くと、クラスメイトがこちらを見ている。
 どうやら、涼香のはた迷惑な笑い声に周りもビックリしてしまったようだった。

(もう……、最悪……)

 注目されることが苦手な紫織は、恥ずかしさと申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

 一方、当の涼香は周りの視線など全くお構いなしといった様子で、再び箸を手にして弁当を食べ始めた。

「どしたの紫織? とっとと食べないと休み時間終わっちゃうよ?」

「――ずいぶんと能天気だね……」

 紫織は露骨に嫌味を口にした。

 だが、涼香はそれすらもあっさりと受け流す。

「私には悩みなんてないからねー。毎日を面白おかしく過ごす! それが私のモットー!」

 涼香は言い終えると、今度こそ食べることだけに専念した。

 そんな親友の姿を、紫織は恨めしく思う半面、羨ましい気持ちで眺めていた。

(涼香ぐらい明るかったら、ほんとに毎日が楽しいだろうに……)

 紫織は、まだ半分以上も残っている弁当にちびちびと箸を付けた。

 色々と考え過ぎたせいか、食欲はとっくに失われていた。

[第一話-End]
 その日の授業が全て終わると、朋也はコートを羽織り、通学用バッグを肩にかけて足早に教室を出た。
 向かう先は、ふたつ隣の教室である。

(いるか?)

 朋也は目的の場所に着くと、締め切られた戸に小さく貼られたガラスから首をわずかに伸ばして教室内を覗う。

 中ではごちゃごちゃと人間がごった返している。
 ほうきや雑巾を手にしている者、そして、周りに急かされるようにいそいそと帰り支度を始める者――

 その中で、ひとりのんびりとバッグに教科書を詰め込んでいる少女がいた。
 容姿自体はそれほど目立たない。
 しかし、せっかちな連中の中では、彼女のマイペースぶりは妙に浮いている。

 朋也は苦笑しながら、戸をゆっくりと開けた。

「おいっ!」

 教室中に響き渡る大声で、朋也は少女を呼んだ。

 生徒達は一斉にこちらを見る。
 ある者は何事かと言わんばかりにポカンとし、またある者は好奇の目を朋也に向けてくる。

 朋也はそんなものはお構いなしに、堂々と教室に入って少女の席の前まで行った。

 少女――紫織はしまいかけた教科書を手にしたまま、呆然と朋也を見つめている。
 いや、正確には〈睨んでいる〉といった表現が正しい。

「――なに?」

 予想はしていたものの、紫織の冷ややかな反応に朋也の頬はヒクヒクと痙攣する。

「お前、少しぐらい愛想良くする気はないのかよ……」

 堪らずに朋也は本音を漏らした。

「何であんたに愛想ふりまかなきゃなんないの? それに何しに来たのよ?」

「何しにって……。そりゃあ……」

 言いかけて、朋也は口ごもる。
 まさか、紫織と一緒に帰るために迎えに来た、とはさすがの朋也も公衆の面前では言えない。

 そんな朋也を紫織は怪訝そうに見つめていた。

「――用がないなら私は帰るよ?」

 紫織はそう言うと、コートを着込み、バッグを手にしてその場を立ち去ろうとしていた。

「待て! 紫織!」

 朋也は慌てて呼び止めた。

「俺も、帰るから……」
 ◆◇◆◇

 外に出ると、室内とは比べものにならないほどの冷気が身体中に纏わり付いてきた。

 朋也はともかく、寒いのが大の苦手な紫織は自らを抱き締めながら全身をカタカタと震わせている。

「お前、今からそんなに寒がっててどうするよ? これからもっともっと寒さが厳しくなるってのに……」

 並んで歩きながら、朋也は呆れ口調で言った。

「しょうがないでしょ。寒いものは寒いんだから……」

 口を尖らせて屁理屈をこねる紫織に、朋也も思わず溜め息を吐いた。

 考えてみると、紫織は昔から冬は自ら進んで外に出たがらなかった。
 極端に身体が弱いわけではないが、免疫力があまりないせいか、冬になると必ずと言っていいほど風邪をひいて寝込んでしまう。

 幼い頃は、彼女が風邪を引くたびに母親が用意してくれた果物や菓子などを手土産に見舞いに行っていた。
 だが、今は、学校や外で顔を合わすことがあっても、互いの家への行き来は少なくなった。

 特に紫織は、朋也から声をかけない限り絶対に家に来ようとしない。
 来たとしても、朋也や兄の宏樹の部屋にはいっさい入らず、リビングで母親を交えて談笑をする程度。
 それも、心なしかよそよそしさを感じさせる。
 きっと、年を重ねてゆくごとに分別が付くようになっただけであろうが、それでも朋也の中の違和感は拭いきれなかった。

 いや、本当は朋也も紫織の心情に気付いていた。
 紫織は宏樹を好きなのだ。
 〈兄〉としてではなく、ひとりの〈男〉として。
 あまり異性に興味を示さない紫織だけに、宏樹を見る目が全く違うことは、鈍い朋也でもすぐに勘付いた。

 宏樹を好きになる理由は分かる。
 朋也が劣等感を抱くほど賢く、常に穏やかな笑みを絶やさない。
 そして何より、紫織は幼い頃、極寒の日に家に帰れなくなり、最終的には宏樹に助けられたということもあった。
 そんな正義のヒーローとも呼べる宏樹に、紫織が惚れてしまったとしても無理はない。

 時々、紫織を救ったのが自分だったら、と思うこともある。
 しかし、当時は朋也もあまりにも小さ過ぎた。
 紫織を助けるどころか、逆に自分も紫織と同じように迷子になり、途方にくれてしまっていたかもしれない。
 それ以前に、朋也も一緒になって紫織を探すという頼みを誰も聴き入れてはくれなかったのだが。

「――俺は結局、兄貴以下かよ……」

 無意識のうちに口に出して呟いていた。

 紫織は怪訝そうに首を傾げている。

「ねえ、なんか言った?」

 どうやら、紫織には聞こえなかったようだった。

「別に」

 朋也は素っ気なく答えながら、内心、聞こえていなかったことにホッとしていた。

「ふうん……」

 紫織はまだ何か言いたげにしていたが、それ以上は追求してこなかった。
 もしかしたら、本当に朋也の何気ない一言など全く興味が湧かなかったのかもしれない。
 それはそれで、虚しいような気がする。

(俺はずっと、兄貴のオマケ程度にしか見られることがないんだろうな……)

 そんなことを考えていたら、さらに気分が重くなってきた。
 ◆◇◆◇

 あれから朋也は、紫織とほとんど会話を交わすことがないまま家に着いた。

 何とも言いがたい重苦しい気持ちのまま、朋也は玄関のドアを開けると、スニーカーを脱いで中へと入り、そのまま自室のある二階へ向かおうとした。

「朋也?」

 階段を上りかけた時、リビングから母親が出て来た。

 朋也は片足を一段目に載せたまま、首だけを動かし、わずかに顔をしかめている母親と視線を合わせた。

「あんた、帰ったんなら挨拶ぐらいしなさい」

 予想通りの小言が彼女の口から飛び出した。

 朋也は心の中で軽く舌打ちすると、「はいはい」と軽く受け流して再び足を動かした。

「全く! 可愛げがないったら……」

 階段の下で、母親がブツクサ言っていたが、まともに聴いていたらキリがないのも嫌と言うほど分かっていた。

 朋也は知らんふりを貫き通し、階段を上りきって自室へと入った。
 ◆◇◆◇

 中に入ると、白い息が浮かび上がるほど冷えきっている。

 朋也は部屋の隅に置かれた電気ストーブのスイッチを入れると、学生服を脱ぎ、寛げるスウェットに着替えた。

 着替えてからは、脱ぎ捨てた学生服を手に取り、面倒臭いと思いつつハンガーに掛け、全ての作業が終わると、崩れるようにベッドに倒れた。

 考え込むのはあまり好きではない。
 しかし、ひとりでいると嫌でも紫織のことばかりを考えてしまう。

 自分に対しては可愛げがなく、愛想の欠片も見せようとしない。
 それなのに、ふとした瞬間に見せる笑顔を見ると、やはり紫織を好きなのだと自覚させられてしまう。
 もちろん、笑顔は宏樹だけに向けられているものだと分かっていても、だ。

「――めんどくせえ……」

 天井に向かって、朋也は呟く。

 いっそのこと、紫織を嫌いになってしまえたらどんなに楽かとも思ったが、一度意識してしまった気持ちはそう簡単に切り替えられるものではない。

 紫織が宏樹に切ない想いを抱いているように、朋也もまた、届かぬ紫織への想いに苦しんでいる。

 恋というのは、何故こんなにも複雑で厄介なのか。
 悩みばかりが増えてゆくばかりで、楽しいことなど全くない。
 まるで、出口の見えない迷路の中を延々と歩き続けているようだ。

(こんなに悩んじまうなんて、ほんと、あの頃の俺には考えられねえよ……)

 不意に、まだ無邪気だった幼い頃を想い出しながら、朋也は自らを嘲り笑った。
 ◆◇◆◇

「……や。……もや……」

 夢と現実の境目で、誰かが呼んでいるような気がした。

「……ん……」

 朋也は小さく呻くと、重くなっている瞼をこじ開けた。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 陽はすっかり暮れ、点けっ放しにしていた電気ストーブの明かりが暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 朋也はゆっくりと身を起こして、ベッドの上で胡座を掻いた。

 すると、今度ははっきりと、「朋也!」と苛立ちの籠った声が耳に飛び込んできた。

「んだよー!」

 その場から一歩も動かず、朋也は面倒臭そうに怒鳴り返した。

 ドアの向こう側からは、階段を昇ってくる荒々しい足音が聴こえてくる。

「『んだよ』じゃないの! こっちは何度もあんたを呼んでたのに!」

 部屋のドアを開けたのと同時に、母親が朋也を嗜めると、辺りをグルリと見回して大きな溜め息を吐いた。

「あんた、真っ暗にして何ぼんやりしてんの……?」

「別に好きで暗くしてたんじゃねえよ。寝てたら暗くなってただけで」

「呆れた! ほんとにあんたは暇さえあればよく寝るわねえ……。だから図体だけがやたらとデカくなったのかしら?」

「うるせえ! それより何なんだよ? 用がないならとっとと出てけ!」

「何なのその言い方は……!」

 母親は朋也を一瞥すると、再び溜め息を漏らした。

「ご飯が出来たから呼びに来たのよ。――食べたければ降りてらっしゃい」

 これ以上は相手しきれない、とでも言いたげに母親は黙って部屋を出て行った。

 残された朋也は、ストーブの明かりをしばらく見つめていた。

 とりあえず、母親のお陰で頭も完全に覚めた。
 同時に、〈ご飯〉という台詞を耳にしたとたん、急に空腹を感じ始めた。

「飯、食うか……」

 朋也はひとりごちると、ベッドから降りてストーブのスイッチを切り、静かに部屋を出た。