灯りが点り始めた頃、空から真白な粒が舞い降りてきた。
音も立てずに地上へと落ち、辺りをゆっくりと銀色に埋め尽くしてゆく。
紫織はそれを、自室の窓から眺めていた。
美しく、懐かしささえ感じさせる雪。
見つめるほどに、遠く過ぎ去った日のことを想い出す。
あの時に交わした約束。
彼にとってはほんの些細なものでも、紫織にとっては今でも大きな意味をなしていた。
◆◇◆◇
翌朝、紫織は頬にひんやりとした空気を感じて目を覚ました。
首をもたげながら、ベッドの上の目覚まし時計を見上げる。
時計の針は七時ちょうど。
学校へ行く日であればすでに起きている時間だが、今日は日曜日である。
(もうちょっと寝よ)
紫織は布団を頭から被り、目を閉じる。
数分ほど、夢と現の境界線をさ迷うが、しだいに頭が冴えてくる。
結局、紫織はのろのろと身体を起こした。
凍ってしまいそうなほどの冷気が全身に纏わり付き、無意識に自身を抱き締める。
室内だというのに、吐き出される息も白く染まっていた。
「下の方があったかいかも……」
紫織は机の椅子にかけてあるカーディガンに手を伸ばし、パジャマの上から羽織ると、「寒い寒い……」をしつこく繰り返しながら部屋を出た。
◆◇◆◇
リビングへ入ると、期待通りの温かさが紫織の全身を包んだ。
台所では母親が忙しそうに動き回っている。
「おはよう」
紫織が声をかけると、母親はこちらを振り返った。
「あら、おはよう。日曜なのに早いのね」
挨拶を返しながらも、全く手を休めない。
大変そうだな、と紫織は他人事のようにそれを傍観していた。
「あ、そうそう。紫織、ちょっと外を見てみなさい」
「外……?」
紫織は言われるがままにリビングのレースカーテンを開けて外を見た。
すると、辺りは町中を覆い尽くさんばかりに雪景色が広がっている。
昨晩から降り始めた雪は、寝ている間に町を銀色に染め上げていたのだ。
「うわあ……!」
紫織は感嘆の声を上げた。
「凄いでしょう」
いつの間にか、母親が紫織の側にいた。
同時に、味噌汁の香りが仄かに匂った。
どうやら、朝食を運んで来たようだった。
「こんなに積もるのなんて、本当に久しぶりだものね。昨年も降ったけど、ここまで積もることはなかったし」
「うん、そうだよね」
紫織はしばらく、雪に魅入っていた。
寒いのは大が付くほど苦手だが、そんな彼女も、暖房の効いた部屋の中で雪を見るのは好きだった。
何色にも染まらない純白の雪。
ただ、見つめているだけで心が洗われるような気持ちになる。
「紫織、そろそろこっちに来なさい。せっかくのご飯が冷めちゃうわよ」
母親の声に、紫織はカーテンをゆっくりと閉めた。
テーブルの上には、先ほど匂っていた味噌汁と白いご飯、そして焼き魚が並べられている。
紫織は手近な場所に座り、箸を手に取った。
「そういえば、お父さんは?」
食事に手を付ける前に、紫織は訊ねた。
母親は困ったように眉根を寄せながら小さく笑んだ。
「紫織が寝ている間に仕事に行ったわよ。お父さんの仕事は、みんながお休みの日が一番の働き時だからね」
「そっか」
予想通りの答えだったので、紫織の返事も短かった。
父親が滅多に家にいないのは、昔から当たり前だったので淋しいと感じたことはない。
その代わり、母親は常に家にいたし、すぐ隣には兄弟同然の幼なじみもいる。
むしろ、この境遇を幸せだと思っているぐらいだ。
「ほら、片付かないから食べちゃいなさい」
母親に促され、紫織はやっと箸で魚を突いた。
◆◇◆◇
食事も終盤に差しかかった頃だった。
「おはようございまーす!」
廊下から、少年の元気な声が飛び込んできた。
紫織と母親は顔を合わせる。
「――あの声……」
母親は苦笑しながらリビングを出る。
紫織もそのあとを着いて行った。
「よっ、紫織!
あ、おばさん、おはようございます!」
ふたりを見るなり、声の主である少年は、寒さも吹き飛ばしてしまいそうなほどの大声で挨拶してくる。
「おはよう、朋也君」
母親は先ほどまでの苦笑をいつの間にか引っ込め、それと入れ替わりにニッコリと微笑んでいる。
「――朝っぱらからなに……?」
母親とは対照的に、紫織は愛想笑いすら浮かべずに冷たく訊ねた。
だが、少年――朋也は全く意に介していない様子だった。
「紫織、外見たか? すっげえ雪が積もってんぞ!」
「知ってる。さっき窓から見たもん」
「だよなっ? あんだけの雪見たら、誰だってテンション上がるよ!」
全く会話が噛み合っていない。
紫織は思わず眉間に皺を刻んで口角を歪めた。
「で、それだけをわざわざ伝えに来たの?」
「んなわけねえだろ……」
紫織の冷めた口調に、さすがの朋也も力なく漏らす。
「せっかく雪が積もったんだから、久々に外で遊ぼうかと思ったんだよ。お前、冬になると、ずーっと家に閉じ籠りっ放しだしな」
「え、やだ」
朋也の言葉に、紫織はきっぱりと否定した。
「雪は好きだけど、冬は大っ嫌いだもん。それに雪を触ると冷たいし痛いし……。だったら、家でぬくぬくと大人しくしていた方が何十倍もマシ!」
「――なんだかなあ」
朋也は大袈裟に思えるほど、深い溜め息を吐く。
「お前さあ、そんなんじゃこれから先、何にもやってけないぜ。『寒いのが嫌』、『痛いのが嫌』だとか……。
いいか? すぐに着替えて外に出て来い! 俺は俺ん家の庭で待ってる。 絶対来い! 分かったな?」
朋也はそこまで言うと、玄関のドアを開けて出て行った。
「――そんなあ……」
朋也が立ち去った後、紫織は半泣き状態でぼやいた。
「確かに、朋也君の言うことももっともね」
「お母さん!」
紫織はキッと母親を睨んだ。
母親は微苦笑を浮かべながら、紫織の肩を小さく叩いた。
「今日は朋也君に鍛えてもらいなさい。寒さに強くなれば、風邪だって引きにくくなるかもしれないでしょ?」
やんわりと言っているようだが、異を唱えさせる気が全くないのが嫌というほど伝わってきた。
紫織は肩を落としながら、二階の自室へと戻って行った。
◆◇◆◇
外に出ると、中とは比べものにならないほど空気が痛い。
天気予報では今日の最低気温がマイナス十度を切ったと告げていたらしい。
それを母親から改めて聴かされた紫織は、さらに憂鬱が増した。
「おっ、来た来た!」
隣の家に行くと、予告通り、朋也が庭の中で待っていた。
寒さをものともせず、それどころかよけいにハイテンションになっている朋也と、その隣には、彼の兄の宏樹の姿もある。
「紫織、おはよう」
朋也とは対照的に、宏樹は穏やかな笑みを浮かべた。
「宏樹君、おはよう」
紫織は宏樹に抱き着きたい衝動に駆られる。
だが、すんでのところで思い留まり、その代わり、ニッコリと微笑み返した。
「寒いのに悪いな。朋也が、どうしても紫織も誘って雪遊びしたいって言い張るもんだから……」
「うーん……。確かに、ちょっと強引かなあ、とは思ったんだけどね」
「やっぱり」
宏樹は微苦笑を浮かべると、肩を竦めて見せた。
その様子から、宏樹も紫織同様、無理矢理外に連れ出されたのだろうと推測出来た。
十歳も年の離れた弟には甘い彼だから、つい、わがままを聴いてしまったのだろう。
せっかくの休みなのだし、本当は家の中でのんびりと過ごしたかっただろうに。
「で、これから何をするんだ?」
雪ではしゃいでいる朋也に、宏樹が訊ねた。
「そうだなあ……。雪ダルマを作るとなると時間がかかるし、かまくらは、時間どうこうよりも、ここじゃあ場所が狭過ぎるし……。
よし! 雪合戦はどうだ? これならすぐに出来るし、身体も温まって一石二鳥!」
「――なに言ってんの……?」
「なんだよ? 不満なのかよ?」
「当然でしょ! 雪合戦なんて……、雪が当たったら痛いもん。だから嫌!」
紫織はプイと横を向いた。
宏樹は何も言わず、ただ、先ほどと変わらずに苦笑いを浮かべているだけだった。
「んだよ、ふたりしてさ。人がせっかくよお……」
朋也はブツクサとひとりで文句を言いながら、背中を向けてその場にしゃがみ込んだ。
拗ねてしまったのだろうか。
紫織はチラリと朋也に視線を向ける。
心なしか、背中が淋しそうに見えてしまった。
「朋也……」
紫織はゆっくりと朋也に近付こうとした。
と、その時だった。
パシンッ!
朋也が立ち上がって振り返ったのと同時に、紫織のコートに雪玉がひとつ飛んできた。
一瞬、何が起こったのか理解出来ず、そのまま呆然としていたら、今度は二発目が飛ばされた。
それは、宏樹の肩に当たって砕けた。
「と、朋也……?」
紫織の頬がヒクヒクと痙攣する。
それを見て、朋也は、してやったり、と言わんばかりにニヤリと笑った。
「油断大敵ー!」
「……こー、のー、やー、ろーっ!」
紫織が掴みかかろうとする前に、朋也はすでに家の敷地内から逃亡していた。
「もう!」
悔しがって地団駄を踏む紫織の肩を、宏樹が小さく叩いた。
「紫織、反撃してやろう」
宏樹はそう言って、いつの間に作っていたのか、雪玉をひとつ差し出してきた。
「そうだね! このまんまじゃ怒りが治まんないもん!」
紫織は雪玉を受け取ると、朋也を追い駆けながら投げる。
だが、それは標的に当たるどころか、距離が届かず途中で虚しく落ちてしまった。
「へっへーん! へったくそー!」
離れた場所から、舌を出して紫織を挑発する朋也。
怒りはさらに倍増した。
(悔しい悔しい悔しい……!)
肩を怒らせ、両手の拳を強く握り締める。
確かに、朋也の運動神経は遥かに高い。
諦めるしかないかと思ったのだが。
「減らず口を叩けるのも今だけだと思うぞ!」
紫織のすぐ横に宏樹が現れ、今度は彼が雪玉を投げる。
それは紫織のとは比べ物にならないほどのスピードで飛んで行き、見事、朋也の背中にヒットした。
「なんで兄ちゃんが投げんだよっ? きったねえぞっ!」
「俺も紫織も別にルール違反なんてしてないぞ? お前にやられたから、やり返してやっただけだ!」
「――クッソオ!」
朋也は立ち止まってその場にしゃがみ込むと、すぐ近くの雪を掴んだ。
また、雪玉を作っているらしい。
(懲りないなあ……)
そう思いつつ、紫織も宏樹も反撃用の雪玉をこさえている。
気が付くと、朋也のペースにすっかりはまっていた。
あんなに嫌だと思っていたのに、雪玉を投げ合っているうちに楽しくなり、身体も汗ばむほどになっていた。
雪合戦は、しばらく続いた。
「――まさか、ここまで雪と戯れることになるとは……」
紫織の隣で、宏樹がぽつりと呟く。
「そうだね。――結局、宏樹君も私も、朋也には敵わないってことなのかな?」
紫織が訊ねると、宏樹は「そうだな」と目尻を下げながら肩を竦めた。
[プロローグ-End]