場所を移した。
 時刻は午後の七時半を回り、辺りは天空の夕焼けをわずかに残し、そのほとんどが夕闇に沈んだ。僕らはまるで逃げるように、近所に住むというマンション管理人である岡本さんのご自宅へとお邪魔した。
 管理事務所を飛び出す際、文乃さんは岡本さんと、相談者である大家の長谷部さんにはついてこないよう言い残していた。後に聞いた話では、管理事務所の辺りからでは、少し離れた位置にいた僕らが感じた凄まじい悪臭や、その他一切の異変は全く感じられなかったそうだ。ごくごく限られた狭小範囲にしかその事象は起きないものと断定出来るが、その情報だけが、あれほどの恐怖を味わいながら知り得た唯一の手掛かりだった。
 岡本さんのご自宅は、『レジデンス=リベラメンテ』から徒歩十分程の場所にある集合住宅だった。
 またマンションか…。
 僕の隣で溜息をつく辺見先輩の口調はいつものような軽口ではなく、常人ならトラウマになってもおかしくない恐怖体験からくる本心であると推測できた。彼女は今年の夏にサークルで行った、大学構内での肝試しでは全くと言って良いほど無反応、無感動を貫いた。あの時も幽霊騒動が起きるには起きたが、彼女にしてみれば、正体不明の幻覚、幻聴などは無視してしまえばどうということもない、と断じてしまえる小事でしかなかったという。そんな辺見先輩でも、そしてこの僕も、今日自分の身に起きたことについては全く気持ちの整理がつかなかった。
「先に帰りますか?」
 小声で聞くと、
「君は帰らないんだろう。なら、私も付き合うよ」
 と答えて、辺見先輩は前を行く池脇さんの背中にトトトと駆け寄った。
 岡本さんの住む部屋は、敷地の奥まったところにある十四号棟の二階だった。玄関口に辿り着いた頃、丁度、音もなく雨が降り始めた。


 岡本さんは四年前に奥様を亡くし、今は一人暮らしだという。
 間取りは2LDKだが、ファミリー層向けというよりは社会人の一人ぐ暮らしに丁度いいサイズの部屋だった。
「息子が一人いるけどね、おかげさまで会社勤めで忙しくしとりまして、盆暮れ正月くらしか帰ってこないよ。今は気楽はセカンド独身貴族ってわけ」
 どこで覚えた知識か知らないが、初めて耳にする言い回しだった。
 例の現場からは、全員で移動してきた。僕たちはダイニングとリビングにばらけて腰を落ち着けたが、広い部屋ではないため、どこからでも全員の顔が見渡せる。今はその近い距離感がありがたいとさえ思えた。リビングでは文乃さんと岡本さん、そして相談者の長谷部さんがテーブルを囲み、床に座って話し始めた。三神さんも、同じ輪に参加している。池脇さんは少し離れて部屋の隅で壁に背を預け、僕と辺見先輩はダイニングで食卓についている。
「ちょっと、いいかね」
 そう言ったのは、長谷部さんだ。
「気になるんだがね、さっきはちらっとしか話せなんだが、そちらの二人はこうして改めて見るとやはり、相当若いね。いやいや、僕にしてみりゃあ文乃ちゃんだって十分若いんだが、彼らもその、君のお仲間というか、そういう関係のあれなのかい?」
 長谷部さんなりに言葉を選んだようだったが、僕たち(とくに僕)に向けられた目の奥には、はっきりと『頼りない』という感情が浮かんでいた。しかし、そりゃあそうだろうな、と僕は別段怒る気にもならなかった。事態を把握せぬままついてきた未熟者であるばかりか、ただ文乃さんにお願いされてのこのことやって来ただけだ。本当にそれだけなのだ。自分に何が出来ると、そもそも過信していたわけではない。
 しかし文乃さんは背筋を伸ばして胸をはり、
「現時点で、私がご用意出来る最高のチームであると信じ、今日お集りいただいた皆さんにお声掛けしました」
 ですが、と彼女は声を落とし、
「事態は思っていたよりもずっと深刻で、危険であることも身に沁みました。長谷部さんの仰る通り、未成年である新開さんや、まだお若い女性である辺見さんには、外れていただくのが最善かもしれません」
 そう言った。
 僕は声をあげようとした。しかし食卓の上で僕の手を握った辺見先輩の横顔が、それを許さなかった。
「私はそういう意味で言ったわけじゃないんだけど、まあ、そう言われてみればそうなのかなあ。しかし困ったもんだな、君がそこまで言うんじゃ、簡単にお祓いしてもらって終わりって話じゃないんだろうね。だけどあれだね、若いとはいえ、君、文乃ちゃんに見込まれるなんて相当腕が立つんだろうね?」
 そう言った長谷部さんの目が不意に僕を捉え、岡本さんや池脇さんの視線まで飛んできた。僕は気圧され、言葉を探した。腕が立つと言われても、そんな事実はない。ただ見える、ただ感じる、それだけの大学生なのだ。
「あー、えーっと、私が見初めたというよりは、どちらかと言えば三神さんからのご紹介といいますか」
 え?
 文乃さんの言葉に、三神さん以外の全員が驚いた。
 当然ながら僕も辺見先輩も、三神三歳などという変わった名前の人物とは知り合いではなかったし、そもそも今日お会いしたばかりである。三神さんはやや慌てた様子で片手を挙げ、
「いやー、ワシもな、ワシというか、ワシじゃないというか」
 と、しどろもどろに言葉を濁した。
「あ、もしかして?」
 と文乃さんが声を上げた。思い当たる節があるような彼女の口振りに、三神さんは「うむ」と頷き返し、こうこ語った。
「ワシの弟子と言っていいのか、いやはや、師匠と呼ぶべきか、まあ、そういう、親子のように共に暮らしている者がおりましてな。まだ十七歳の娘っ子なんだが、これがまあ、いわゆる神の子とでも言いますか。わかりやすく言えば、べらぼうに霊感が強い。霊能力と言い換えたほうが良いほどの、桁外れの器を持っておる。おそらく物理的に作用する力に関しても、この、西荻のお嬢に匹敵するだろうな。その子が、そこの二人を遠視(とおみ)で見たんだよ。この二人が良いと、その子が選んだんだ。名前は幻の子、ゲンコと書いて三神…」

 まぼろし。

 僕と辺見先輩をこの事件に引っ張り込んだ張本人が、その十七歳の女の子であるという。