…助かった。
 僕が咳込みながら目を開けると、同じく身体全体で激しく咳込む辺見先輩の背中が見えた。僕はしゃがみこんで彼女の背中をさする。
「なんなの!なんなのよ今の!あんなのシャレになんないよ!死ぬかと思ったッ!」
 辺見先輩は涙を流してそう叫んだ。
「すみません、まさかちょっと離れている隙に、向こうから近づいてくるとは」
 文乃さんは誰にでもなく全員に対してそう謝罪し、頭を下げた。
「あー、びっくりしたあ。今のがなんか、そういうアレなんか」
 池脇さんは自分が体験した事象が信じられない様子で、首筋を手で押さえながら文乃さんに尋ねた。
「管理事務所にいても分かったよ。恐ろしく巨大な、なんだろう、夜が訪れたような印象だった」
「お前またなんかデカい力使ったろ。体は平気なのか?」
 何気ないトーンで文乃さんを心配する池脇さんの親密そうな声よりも、僕には彼の言葉の意味が気にかかった。文乃さんは決して明るくはない笑みを口もとに浮かべて、
「平気、あれくらいなら、多分なんともないから」
 と曖昧に答えて頷き返す。
 イタタタタ…。
 腰を押さえながら、うずくまっていた三神さんが立ち上がった。
「いやぁー、まいったぁ。いきなりそうくるんかぁ。もうちっとこう、前触れのようなものを感じとらせてもらわんと、ありゃあ手の打ちようもない」
「三神さん、ありがとうございます、来てくださって。それなのに…」
 事前にもっと情報を教えといてくれよ。愚痴とも嫌味ともとれる三神さんの言葉に、文乃さんは泣きそうな顔で頭を下げた。しかし三神さんは自分の言葉が皮肉と捉えられたことに驚いた様子で慌てて右手をかざし、
「なんのなんの。今んとこなーんの役にも立っとらせん。不意を突かれはしたが、次はこんなへまはせんよ」
 と鼻息を荒くして答えた。強がりだと思いたくはないが、彼の顔とて冷や汗が浮かんだままである。文乃さんは改めて三神さんに頭を下げ、そして僕と辺見先輩の前に立つとさらに深々と頭を下げた。
「危険な目にあわせてしまって申し訳ありません。私の認識が甘かったです。ごめんなさい」
 あれはなんなんですか。恐らく辺見先輩はそう尋ねようと口を開いた。しかしそれより先に立ち上がった僕の方が、質問を口にしたのは早かった。
「文乃さん、その目は…?」
 初めて会った時とは、左目の色が違って見えた。外傷があるわけでもないのに、右目よりも少し色素が薄いようだ。
「あれ、ああ、コンタクトが落ちてしまいましたね」
 文乃さんは左手で眼を覆い隠して微笑んだ。
「私の特異体質は、どうやら体に負荷がかかるみたいです。日常生活で使う事はまずないので問題ありませんが、こうして何か咄嗟に大きな力を使うと、体のどこかが機能を失ってしまうこともあるようで…」
「ひょっとして、見えてないんですか?」
「はい」
 そんな…。
「あ、別に今ので見えなくなったわけじゃありませんよ。今ぐらいの力であれば、多分大丈夫ですから」
 それはつまり、文乃さんは先ほど見せた波動のような力を、更に強力な状態で使用した経験があることを意味し、それは言い換えれば、今回僕らの身に起きた事象よりも恐ろしい何かを相手にした事がある、そういう意味合いなのだと僕は受け取った。
 返す言葉を失う僕の隣で、
「あれは、なんだったんですか」
 と辺見先輩が尋ねた。立ち上がってもなお僕の肩を掴んでふらついている辺見先輩に向き直り、文乃さんはしかし、すまなそうに首をかしげた。
「私にもまだ詳しいことはわかりません。目で見れるわけではないので表現するのが難しいのですが、モヤとか黒い霧状のものが皆さんを覆っているように感じました」
 移動する地獄。僕は文乃さんの言葉を聞いて、そう自分に表現した。
「相当大きな力であることは間違いないと思います。ここにいる竜二くんには、正真正銘霊感の類はありません。それどころか大体の事には、彼は気付く事すらない。竜二君をここまで絡めとる程の霊障は、私自身も経験したことがありません」
 そうなのか?そんなに強く恐ろしいものを一瞬にして消し飛ばした力を使っても、文乃さんの身体は果たして全く無事ですんでるのか?ならば一体、左目の視力を失う程の力とは…。
「いやはや、ワシがついていながら、あいすまんかった」
 僕たちの輪に、三神さんが加わった。
「三神さんには、あれはどのように感じられましたか?」
 僕の問いに、三神さんは悔し気に頭を振った。
「お嬢と同じだねえ。厄介だ、としかまだ言えんよ。だけどもな、今ワシらの身に起きたことが、いわゆる敵さんの霊障の全てだとは到底思えんのだ」
「そう、なんですか?」
 辺見先輩が顔を青くして尋ねる。三神さんは頷く。
「ここへ来るのにタクシーを使った。普段この身体から取り外したことのないワシの数珠を、まんまとそのタクシーへ置き忘れた。もう既に、ワシはとっくの以前から嵌められとったように思えてならんなあ。それに…」

 い、い…。
 …い、…せい。…せい。

 声が聞こえる。
 一同に、全身が総毛立つ程の恐怖がゾワリと伝播した。
「ありゃりゃ、忘れてた」
 しかしそう軽い調子で口にしたのは三神さんだった。三神さんは辺りを見回すと、地面に落ちていた細長く黒い物を拾い上げた。
 携帯…?
 さきほど辺見先輩のそばに何かが落ちたように見えたのは、これか。
 三神さんは開いたままの二つ折り携帯電話を手に乗せると、通話口に顔を寄せた。
「どうだったね。なんとかぁ、なりそうかね」
 また、声が聞こえた。


 先生? …あれは…。