マンションの前に立ち、屋上の辺りを見上げて煙草を吸っていた池脇さんに声を掛けた。ただそこに立っているだけで見栄えのするシルエットだと僕は羨んだが、振り返った彼の顔はやはり怖かった。
僕の隣には自らついて来る事を希望した辺見先輩が立っていたが、その視線はどうにも池脇さんから逸れているように思えてならず、顔色も、やはり良いとは言えなかった。
「大丈夫ですか?」
と小声で問うも、返事はなく胸を押さえたまま頷くのみだった。僕はそれ以上深入りする事をためらい、池脇さんに顔を向けた。
「お伺いしたい事がありまして」
と切り出すと、池脇さんは意外そうな表情で僕を見返し、
「俺に? 俺、なーんも知らねえでここに来たんだぞ?」
と笑った。
「今回の件で言えば、僕もほとんど把握していません。ですがそもそも、何故僕がここに呼ばれたのか、それが一番分からないんです」
「…ん?」
「文乃さんとお会いしたのはつい先日の事です」
「へえ」
「池脇さんは、知り合って長いそうですね」
「どうかな」
長そうだな。
「僕の事を、何か聞いていらっしゃいますか?」
「何も」
「何ひとつ?」
「自分にないものを持ってる連中に助けを頼んでるって。他にも誰か呼んでるっつー話はしてたかな。だけどそれがお前らの事だなんて俺が知るわけねえしよ。今回の話で俺はあいつと一回しか電話で話してねえんだよ。だからほとんど全部、共通のツレから依頼というか、助けてやってくれーみたいに言われて来ただけだから」
自分にないもの。…目のことだろうか?
「先程の紹介で、文乃さんはあなたを物理系最強アタッカーだと言いました。それを聞いた時僕は、池脇さんには霊感はないんだろうなと直感しましたが、違いますか?」
「ねえよ」
「そうですか。では、文乃さんの体質についてご存知ですか?」
「なんでそんな事お前に教えなきゃなんねえんだよ」
これは、知っている時の反応だ。
「お前はデカか。これは職質かなんかか?」
「すみません。不愉快にさせたなら謝ります。だけど先ほども申しました通り、僕は何故ここに呼ばれたのか、いまだに分かっていないんです」
「お前阿保なのか。なんでそれを聞かねえでこんなトコまで来たんだよ」
自分だってよくわからずに来たくせに。
「それも、わかりません」
射貫くような池脇さんの視線が、僕の顔に突き刺さった。
「…もしかして、あいつに惚れてんのか」
「そうかもしれません」
「ほー。正直でいいな。なら悪いことは言わねえ、やめとけ。あいつには決めた男がいる」
「…そうですか。池脇さんは、文乃さんの事を好きなわけではないんですか?」
「好きさ、ツレとしてな。けど俺には俺で、決めた女がいる」
「そうでしたか」
「あいつなんかよりも、そこの可愛い姉ちゃんを大事に見てやれよ」
「へ? あ、辺見先輩とは、それこそこの春に出会ったばっかりで」
「文乃より長いじゃねえか」
「いやいや、そんなそんな」
「あ」
池脇さんはそう言って、吸い終わった煙草をブーツの踵に押し当てて火を消した。
「そう言えば、あいつなんか、おかしな事言ってたな。…なんだっけなァ」
「なんです?」
「確か、『その二人には会ったことがないんだ』、とか」
鳥肌が。
蜘蛛の巣を張るように全身を走った。僕たちのやりとりを大人しく聞いていた辺見先輩が、あえぐように空気を吸い込み「はぁ」と喉を鳴らした。
「なんだよ」
異変を感じ取ったのか、池脇さんは目を細めて僕を睨んだ。
「おかしいと思いませんか」
と僕は尋ね返したが、その声は震えてとても小さかった。
「ああ?」
「『その二人』というのが僕と辺見先輩であるなら、僕の頭に渦巻いている謎はまさにそこにあります。文乃さんは僕に会った事がないにもかかわらず、僕が通う大学のキャンパスまで足を運んでくださいました。何故僕がそこにいると分かったのか。何故会った事もない僕に会いに来たのか。そして何故、池脇さんにお話をされる段階で、これから会うのが『僕たち二人』だと分かっていたのでしょうか。僕は何故か、その事を聞かないままでこの現場を訪れています。…何故なんでしょうか、これは」
長い沈黙の後、池脇さんは平然と答えた。
「知ーらーねえーよ」
まるで止まっていた呼吸が再開したように、僕たちは大きく息を吐いた。机の上に散らばった紙屑を突風が吹き飛ばすような、そんなある種の爽快感が池脇さんの声にはあった。僕はあまりの気持ち良さに身震いし、そういうスタンスだから竜二君が必要なんだ、と語った文乃さんの言葉を少しだけ理解した気がした。
「何だお前、何故何故くんか? 普通よ、出会った時にそれは聞いておくもんなんじゃねえの? あなた誰ですか、何でここへ来たんですかって」
「そうなんですよね。そうなんですよ。だけど、何故だかタイミングを逸してしまって」
「誰かの紹介とかなんじゃねえの? あとは、俺らが知らねえだけで、実はお前ら二人はすげえ有名な『何故何故オカルトハンター』かもしれねえだろ」
「違います」
「知らねえよ俺は!」
池脇さんが声を荒げた瞬間、熱風が僕と辺見先輩に向かって吹き付けるのを確かに感じた。すると今の今まで黙って塞ぎ込んでいた辺見先輩が、手を叩いて笑い声を上げた。
…ああ、いつもの辺見先輩だ。
「いやー、愉快だわ、新開君。痛快だね、この人。こーれは、うん、凄いわー」
感心しきり拍手を続ける辺見先輩に、池脇さんは怒るかと思われた。しかし彼は明るい辺見先輩の様子にニンマリを笑みを浮かべ、
「遅せえよ、気付くのが」
と言った。
「なんじゃあ、ここ。よう、こんな所に住めるもんだなぁ。なぁ、お前さんら、よう住んでんな、こんなとこに」
作務衣の上に黒のMA-1という、おかしな風体をした男が現れた。四十代から五十代、短く刈った清潔感のある髪は白髪混じりだが、優しい表情の中に浮かぶ両の目は眼光鋭く、肌艶も良い為一見しただけでは年齢不詳である。男の背後に走り去るタクシーの音が聞こえ、これで四台目か、と僕は心で呟いた。
「お前さんら、こんなとこ住んでて体なんともないのか?え?」
表情はニコニコとして穏やかなのに、軽妙な口振りから発せられる言葉の内容は不躾であると言わざるを得ない。
「あの、僕らここの住人じゃないですよ。それにもし住人だったら、失礼ですよ、その言い方は」
僕たちのいる方向へマンションを見上げながら歩いて来たその男性は、僕の顔に視線を下げた瞬間ピタリと足を止めた。男性はそれまで浮かべていた笑みをさっと消し、僕に向かってこう言った。
「お前さん、どっから来た」
文乃さんから聞いた話である。
管理会社から派遣され、『レジデンス=リベラメンテ』の管理人を務める岡本さんの話では、異変に気が付いたのは今年の夏の初め、との事だった。
「ゴミがね、ぽつりと落ちてるんだよ」
その言い方がなんとも奇妙だった。たまたま路上で見かけたという話ではない。岡本さんが日課としているマンション清掃の話なのだ。
「色んな作業を私一人でやってるんだけどね、中でも一番重労働なのはやっぱり掃除なんだよ。だから自分の中でルートと手順を決めて、毎朝午前中一杯かけてやるわけ。今はゴミ出しの日も分別方法もきちーと決められてるからね、さぼったりしなきゃ、ゴミなんてそう溜まるもんでもない。だけどね、ゴミがね、ぽつりと落ちてるんだよ。廊下にね」
「もちろん、掃除し終わった後の廊下、という事ですよね?」
文乃さんの問いに、岡本さんは神妙な面持ちで頷いた。
「ゴミ、とひと口に言っても色々ありますが、どのような?」
「ああ、ゴミ袋みたいなのを想像してるんなら、違うよ。あれは何かなあ、剥き出しの、生ゴミのような」
生ゴミ?
文乃さんはピンと来て、
「匂いの正体というのは、それですか?」
と聞いた。
岡本さんはマンションオーナーである長谷部さんと顔を見合わせて頭を振り、違う、と答えた。
このマンションのゴミ置き場には、蓋つきの大きな鉄製の箱が並んで四つある。左から二つは可燃ごみ。右二つが不燃ゴミと空き缶、空き瓶を分けて入れる箱として使われている。当然各家庭から出るゴミはその段階で専用のゴミ袋に入れられる為、管理人である岡本さんの目に触れる機会はほとんどない。カラスなどの鳥害を考慮しての蓋である為に、散乱している現場にも滅多に出くわさない。生ゴミが廊下に落ちていた事など、この年の夏になるまで一度もなかったそうだ。
しかし生ゴミと言えど、これはこれで色々ある。キッチンの排水溝などで受け止めるような、例えば野菜の皮とかヘタとか切れ端だとか、あとはバナナの皮とか、それこそ残飯だってあるだろう。
「レバー…みたいな」
岡本さんがそう言った途端、文乃さんは突き上げて来る吐き気に口を押さえたそうだ。
廊下にポツリと、…レバー?
「あんまり近くに顔を寄せて見れたもんじゃないよ。なんか、薄気味悪いんだよね。赤黒いというか」
「それは、大きいんですか?」
「サイズはこんなもの」
岡本さんが片手で作った輪っかの大きさは、ゴルフボール程の大きさだった。
気持ちは悪かったが、ゴミはゴミである。管理人としては掃除するほかなく、時折顔を出すオーナーの長谷部さんには報告するものの、だからと言って解決策など考えても無駄だと分かっていた。ゴミなのだ。誰かが落とすか捨てるかする現場を押さえねば、注意のしようもない。
「その頃からですわ。私は最初の頃何を言ってるのか分からなかったんだけど、異臭がするというクレームがちょくちょく、この管理事務所に入るようになってね。朝でも夜でも、昼夜問わず、だもんで、ここに寝泊りして、呼ばれたら見に行く」
「現場は、住人の方の部屋なんですか?」
「の時もあるし、廊下とか、エレベーターとか。階段だった事もあるし、色々。だけどね、これは毎度そうなんだけど、私がそこに辿り付いた時には何も匂わないんだよね」
「皆さん、同じように悪臭がすると?」
「そう。どんな匂いなの、もうしないじゃないって言うとさ。皆怒っちゃうのよね。あんだけ臭かったのにおかしい!なにかあるはずだ!って。何かって言われてもさ、現場には何もないんだよ」
「例の、ゴミも?」
「ないね。あっても、そのゴミが臭いと感じた事はないよ。無臭ではなかったと思うけど、そんな大騒ぎするような匂いはないね。まあ、あんまし顔近づけてないから断言は出来ないけどね」
「どんな匂いなんですかね、その、実際に住民の方達が嗅いだ匂いって」
「それがさー」
痛い、と皆口を揃えるそうだ。
例えば糞尿や吐瀉物、他人の汗や唾液、そして腐敗臭など、そういった強烈に不快な匂いが自分の周囲を取り囲み、一瞬にして地面から湧き上がるように立ち昇る。その勢いと匂いの量に鼻目が潰される、そう恐怖する程痛くて臭いのだという。実際クレームを入れる住人は、誰もが涙や鼻水を垂れ流し、咳き込みながら助けを求めてくる。その様子は確かに只事ではないと感じるし、岡本さんも住人たちがウソをついているとは思っていないそうだ。
「一度経験した住人はなんか敏感になっちゃってね。ちょっとでも何かが臭いと、またアレが来るんじゃないかと怯えるみたいでね。こっちも日課の掃除頑張んないと、今まで以上に目が厳しいんだよ」
「だけど、対策のしようがない、と」
岡本さんに代わり、今度は長谷部さんが頷いて、答える。
「こっちもね、何もしないまま指くわえて住人が出て行くのを見てらんないからさ。藁にもすがるつもりで、色んな横のつながり頼って情報収集したんだけどね。わけ分かんないんだよ。原因が分かれば対処のしようもあるけどさ」
「お二人はこれまで、匂いを嗅いだことは一度もないんですか?」
ない、と二人ともが揃って否定したそうだ。
「これまでざっと何人くらいの方が被害にあわれたんです?退居された方も含めて」
岡本さんと長谷部さんは顔を見合し、無言で相談し合う表情を見せた。文乃さんには依頼事で来てもらったとは言え同じオーナーという立場もあり、体裁を気にして返事を渋っているのだろう。やがて決心したように長谷部さんが答えた。
「うちのマンションは八階建てで各階四部屋あるから、三十二世帯なんだよね。ひとつはここの管理事務所にあてているから、実質三十一だ。この夏を迎えるまではおかげ様でそのうち二十九世帯が埋まっていたんだが、先月までで、十二世帯が出ていったよ。今月も、出て行く予定の家族が何組か…」
「十二…」
文乃さんが想像していたよりも、事態はずっと深刻であった。
「…あの、被害に合われた方々の部屋番号や、お名前を教えていただく事はできますか?」
「そりゃさ、こっちから依頼してるからね、それなりの協力はさせてもらうけど。くれぐれも個人情報は慎重に扱ってよ。学生さんもいるみたいだし、そこらへん雑にされるとアレだから」
「もちろんです」
「どこから、というのは、どういう意味ですか?」
上擦るような声の問い掛けに、その男性は僕の顔を見つめる表情を急に和らげた。
「いや、全部ただの冗談だ。思わぬこぼれ話でも出てこんかと、ちょっくらからかってみただけだ。まあまあ、そう怖い顔しなさんなって」
男性は自らを三神と名乗った。
「年は五十四歳なのよ。だけどよ、下の名前が三歳なんだわ、三神三歳。これ鉄板!」
三神さんは自分の名前で遊んだ後、バッシバッシと手を叩いて笑った。しかし誰も笑っていない事に気がついて、「おう。そういうこと」と咳払いひとつで真顔に戻った。
「オッサン来る場所間違ってねえか?」
池脇さんが腕組みしながらそう言うと、三神さんはマンションを見上げて顎を指でなぞりながら、
「かもしれんなぁ」
と、しみじみとした声でそう答えた。そして三神さんは池脇さんを横目でじっと見据えた後、「ほう」と喜びをにじませた声をあげた。
「兄ちゃん、あんたどえらいもん背負っとるなぁ。見たところ霊感の類はなさそうだが、いやー、あんた、相当喧嘩が強かろう?」
池脇さんは驚いた顔で顎を引き、
「どえらいもんて何だよ」
と返した。
「詳しい正体まではワシにも分からんが、相当なもんだよ。まあそうさな、あんたがおるんなら、おう、ワシも付いてたっても構わんな。それはそうと、このワシを呼びつけた西荻のお嬢はどこにおるんかね?」
「オッサンも文乃に呼ばれたクチか。かー、あいつ何人呼んでんだ?」
呆れた様子で答えようとしない池脇さんの代わりに、指でさし示しながら管理事務所の場所を告げると、三神さんは「ほおん」と頷きながら僕ではなく辺見先輩に視線を移して、不意に目を細めた。
「…気苦労が絶えんな」
三神さんは温もりを感じさせる低い声でそう語りかけると、辺見先輩に向かってウィンクを飛ばした。辺見先輩は素早く上体を逸らしてウィンクをかわすと、
「セクハラッ」
と鋭い答えを返した。
不思議な事を言うな…。笑顔の三神さんを見ながら僕は考えていた。
池脇さんが強い陽の気をまとっていること自体は、実を言えば僕にもなんとなく分かっていた。池脇さん自身が「霊感はない」と口にしたことで、おそらくそれが加護や守護と呼ばれるオーラなのだろうと理解していた。
しかし果たしてそれを見て「どえらいもんを背負っている」と表現するだろうか。僕の目には池脇さんが何かを「背負っている」ようには見えなかったし、喧嘩が強いとか、そんな事の根拠になりえるものでもないと思っていた。
「何をされてるんです?」
思わず僕はそう尋ねた。ずっと気になっていたのだ。三神さんは僕たちと話しながらずっと、両手で自分の身体をペタペタと触っていた。話す間も彼の視線は池脇さんや辺見先輩を行ったり来たりで、しかしにこやかで愛想の良い表情を浮かべていた為、誰もその事に触れなかった。
「煙草でも探してんのか?」
やがて池脇さんがそう言い、三神さんに向かって自分の煙草を差し出した。すると三神さんははたと気が付いたように振り返り、
「しまった!タクシーに置いてきてしもうた!」
と血相を変えて元来た路地へ戻りかけた。
「何をだよ」
「数珠だよ、数珠!」
その時だった。
「ガッ!」
池脇さんの口から言葉にならない呻き声が発せられ、激痛か何かに顔を歪めて白目を剥いたまま硬直した、所までは見えた。
「いけ、わき、さ?」
…それは、突然やってきた。
「ぎゃああッ!」
辺見先輩が絶叫を上げて口鼻を押さえると同時に、僕の鼻と口両方に極太の棒が突っ込まれた。人糞を塗りたくった指で鼻の穴を勢いよくほじくり返されたような息苦しさと痛みが走り、あまりの臭さに喉の奥から胃液の濁流がさかのぼってきた。僕はそのまま盛大に吐いた。
「グギギイイー!グザアア!ザアアッ!」
辺見先輩が喉を引き裂かれたような悲鳴を上げ、身もだえしながら体を折り、両膝を付いた。彼女の前にポトリと何かが落下したのが見えた。しかしそれが何かを考える余裕などあるはずもなく、この世のものとは思えぬ程激烈な臭気と実体を伴った暴力的な痛みに、意識すら失いかけた。
数珠を忘れたと言った三神さんがこの時、どのような様子だったか僕には分からない。
あるいはその瞬間、本当にそうだったかもしれない。僕たちの周囲に、暗闇が訪れたと思ったのだ。
視界が歪み、咳き込もうにも喉を糞尿と自分の吐瀉物で塞がれ、目の中は涙ではなく唾や小便で淀んでいるのが直感で分かる。しかしそれでも、僕たちの周囲が急激に暗さを増したのが分かった。…地獄だ。地獄が向こうからやってきた。
その時、何かが僕の腕にそっと触れた。ひんやりとしたそれは生身の肉体を思い出させ、前後不覚に陥った僕をこの世に留め置く存在であると感じた。
「滴る命の垂れ行くを、赤きを知らず、愛とは知らず…」
声が、聞こえてきた。
地上にいながらにして汚泥に沈んでしまった身動きの取れない僕の耳に、その声は微かに届いた。
「襲い来る激流の本能の、行き先を見ず、淡さに抱かれ。アアーア オオーオ。膨れる我が腹に満ちたるものよ、その名を叫べ、語り掛けよ。戻り来る静謐を退けよ、うち震えるわが身、全ての色消え去るまで」
これは何かの経か祝詞か、呪文の類だろうか。
細く消えかかる意識の中で、僕はその声を聞き逃すまいと集中し、踏ん張った。
「アアーア オオーオ! 天空を駆け行く星線となる、赤き半身、愛なるすべて。その一歩をして嘆きなどなし、導きたまへ、銀色の地平線まで!アアーア! オオーオ! 仰ぎたる我、白き蟷螂となりせば!」
パシッと空気の爆ぜる音が聞こえた。
その声は言った。
竜二君!叫んで!
その瞬間、すぐ側で狂暴な獣が吼え上げる声が轟いた。それは『声』と呼ぶにはあまりにも規格外の『大音量』だった。
「俺はここにいるぞォッ!」
池脇さんの声だった。僕の目から大粒の涙が溢れて零れ落ちる。
出会って間もない池脇さんの声とすぐ側に感じる彼の存在が、確かに僕を勇気づけた。
「いきます」
文乃さんの声ととも、僕の体の中を波のような温もりが通過した。
熱波のようなそれはお腹のあたりから背中、肩、腿裏といった場所を通って外へと飛び出し、と同時に僕を掴んでいた暗闇と臭気が一瞬にして霧散した。
…助かった。
僕が咳込みながら目を開けると、同じく身体全体で激しく咳込む辺見先輩の背中が見えた。僕はしゃがみこんで彼女の背中をさする。
「なんなの!なんなのよ今の!あんなのシャレになんないよ!死ぬかと思ったッ!」
辺見先輩は涙を流してそう叫んだ。
「すみません、まさかちょっと離れている隙に、向こうから近づいてくるとは」
文乃さんは誰にでもなく全員に対してそう謝罪し、頭を下げた。
「あー、びっくりしたあ。今のがなんか、そういうアレなんか」
池脇さんは自分が体験した事象が信じられない様子で、首筋を手で押さえながら文乃さんに尋ねた。
「管理事務所にいても分かったよ。恐ろしく巨大な、なんだろう、夜が訪れたような印象だった」
「お前またなんかデカい力使ったろ。体は平気なのか?」
何気ないトーンで文乃さんを心配する池脇さんの親密そうな声よりも、僕には彼の言葉の意味が気にかかった。文乃さんは決して明るくはない笑みを口もとに浮かべて、
「平気、あれくらいなら、多分なんともないから」
と曖昧に答えて頷き返す。
イタタタタ…。
腰を押さえながら、うずくまっていた三神さんが立ち上がった。
「いやぁー、まいったぁ。いきなりそうくるんかぁ。もうちっとこう、前触れのようなものを感じとらせてもらわんと、ありゃあ手の打ちようもない」
「三神さん、ありがとうございます、来てくださって。それなのに…」
事前にもっと情報を教えといてくれよ。愚痴とも嫌味ともとれる三神さんの言葉に、文乃さんは泣きそうな顔で頭を下げた。しかし三神さんは自分の言葉が皮肉と捉えられたことに驚いた様子で慌てて右手をかざし、
「なんのなんの。今んとこなーんの役にも立っとらせん。不意を突かれはしたが、次はこんなへまはせんよ」
と鼻息を荒くして答えた。強がりだと思いたくはないが、彼の顔とて冷や汗が浮かんだままである。文乃さんは改めて三神さんに頭を下げ、そして僕と辺見先輩の前に立つとさらに深々と頭を下げた。
「危険な目にあわせてしまって申し訳ありません。私の認識が甘かったです。ごめんなさい」
あれはなんなんですか。恐らく辺見先輩はそう尋ねようと口を開いた。しかしそれより先に立ち上がった僕の方が、質問を口にしたのは早かった。
「文乃さん、その目は…?」
初めて会った時とは、左目の色が違って見えた。外傷があるわけでもないのに、右目よりも少し色素が薄いようだ。
「あれ、ああ、コンタクトが落ちてしまいましたね」
文乃さんは左手で眼を覆い隠して微笑んだ。
「私の特異体質は、どうやら体に負荷がかかるみたいです。日常生活で使う事はまずないので問題ありませんが、こうして何か咄嗟に大きな力を使うと、体のどこかが機能を失ってしまうこともあるようで…」
「ひょっとして、見えてないんですか?」
「はい」
そんな…。
「あ、別に今ので見えなくなったわけじゃありませんよ。今ぐらいの力であれば、多分大丈夫ですから」
それはつまり、文乃さんは先ほど見せた波動のような力を、更に強力な状態で使用した経験があることを意味し、それは言い換えれば、今回僕らの身に起きた事象よりも恐ろしい何かを相手にした事がある、そういう意味合いなのだと僕は受け取った。
返す言葉を失う僕の隣で、
「あれは、なんだったんですか」
と辺見先輩が尋ねた。立ち上がってもなお僕の肩を掴んでふらついている辺見先輩に向き直り、文乃さんはしかし、すまなそうに首をかしげた。
「私にもまだ詳しいことはわかりません。目で見れるわけではないので表現するのが難しいのですが、モヤとか黒い霧状のものが皆さんを覆っているように感じました」
移動する地獄。僕は文乃さんの言葉を聞いて、そう自分に表現した。
「相当大きな力であることは間違いないと思います。ここにいる竜二くんには、正真正銘霊感の類はありません。それどころか大体の事には、彼は気付く事すらない。竜二君をここまで絡めとる程の霊障は、私自身も経験したことがありません」
そうなのか?そんなに強く恐ろしいものを一瞬にして消し飛ばした力を使っても、文乃さんの身体は果たして全く無事ですんでるのか?ならば一体、左目の視力を失う程の力とは…。
「いやはや、ワシがついていながら、あいすまんかった」
僕たちの輪に、三神さんが加わった。
「三神さんには、あれはどのように感じられましたか?」
僕の問いに、三神さんは悔し気に頭を振った。
「お嬢と同じだねえ。厄介だ、としかまだ言えんよ。だけどもな、今ワシらの身に起きたことが、いわゆる敵さんの霊障の全てだとは到底思えんのだ」
「そう、なんですか?」
辺見先輩が顔を青くして尋ねる。三神さんは頷く。
「ここへ来るのにタクシーを使った。普段この身体から取り外したことのないワシの数珠を、まんまとそのタクシーへ置き忘れた。もう既に、ワシはとっくの以前から嵌められとったように思えてならんなあ。それに…」
い、い…。
…い、…せい。…せい。
声が聞こえる。
一同に、全身が総毛立つ程の恐怖がゾワリと伝播した。
「ありゃりゃ、忘れてた」
しかしそう軽い調子で口にしたのは三神さんだった。三神さんは辺りを見回すと、地面に落ちていた細長く黒い物を拾い上げた。
携帯…?
さきほど辺見先輩のそばに何かが落ちたように見えたのは、これか。
三神さんは開いたままの二つ折り携帯電話を手に乗せると、通話口に顔を寄せた。
「どうだったね。なんとかぁ、なりそうかね」
また、声が聞こえた。
先生? …あれは…。
場所を移した。
時刻は午後の七時半を回り、辺りは天空の夕焼けをわずかに残し、そのほとんどが夕闇に沈んだ。僕らはまるで逃げるように、近所に住むというマンション管理人である岡本さんのご自宅へとお邪魔した。
管理事務所を飛び出す際、文乃さんは岡本さんと、相談者である大家の長谷部さんにはついてこないよう言い残していた。後に聞いた話では、管理事務所の辺りからでは、少し離れた位置にいた僕らが感じた凄まじい悪臭や、その他一切の異変は全く感じられなかったそうだ。ごくごく限られた狭小範囲にしかその事象は起きないものと断定出来るが、その情報だけが、あれほどの恐怖を味わいながら知り得た唯一の手掛かりだった。
岡本さんのご自宅は、『レジデンス=リベラメンテ』から徒歩十分程の場所にある集合住宅だった。
またマンションか…。
僕の隣で溜息をつく辺見先輩の口調はいつものような軽口ではなく、常人ならトラウマになってもおかしくない恐怖体験からくる本心であると推測できた。彼女は今年の夏にサークルで行った、大学構内での肝試しでは全くと言って良いほど無反応、無感動を貫いた。あの時も幽霊騒動が起きるには起きたが、彼女にしてみれば、正体不明の幻覚、幻聴などは無視してしまえばどうということもない、と断じてしまえる小事でしかなかったという。そんな辺見先輩でも、そしてこの僕も、今日自分の身に起きたことについては全く気持ちの整理がつかなかった。
「先に帰りますか?」
小声で聞くと、
「君は帰らないんだろう。なら、私も付き合うよ」
と答えて、辺見先輩は前を行く池脇さんの背中にトトトと駆け寄った。
岡本さんの住む部屋は、敷地の奥まったところにある十四号棟の二階だった。玄関口に辿り着いた頃、丁度、音もなく雨が降り始めた。
岡本さんは四年前に奥様を亡くし、今は一人暮らしだという。
間取りは2LDKだが、ファミリー層向けというよりは社会人の一人ぐ暮らしに丁度いいサイズの部屋だった。
「息子が一人いるけどね、おかげさまで会社勤めで忙しくしとりまして、盆暮れ正月くらしか帰ってこないよ。今は気楽はセカンド独身貴族ってわけ」
どこで覚えた知識か知らないが、初めて耳にする言い回しだった。
例の現場からは、全員で移動してきた。僕たちはダイニングとリビングにばらけて腰を落ち着けたが、広い部屋ではないため、どこからでも全員の顔が見渡せる。今はその近い距離感がありがたいとさえ思えた。リビングでは文乃さんと岡本さん、そして相談者の長谷部さんがテーブルを囲み、床に座って話し始めた。三神さんも、同じ輪に参加している。池脇さんは少し離れて部屋の隅で壁に背を預け、僕と辺見先輩はダイニングで食卓についている。
「ちょっと、いいかね」
そう言ったのは、長谷部さんだ。
「気になるんだがね、さっきはちらっとしか話せなんだが、そちらの二人はこうして改めて見るとやはり、相当若いね。いやいや、僕にしてみりゃあ文乃ちゃんだって十分若いんだが、彼らもその、君のお仲間というか、そういう関係のあれなのかい?」
長谷部さんなりに言葉を選んだようだったが、僕たち(とくに僕)に向けられた目の奥には、はっきりと『頼りない』という感情が浮かんでいた。しかし、そりゃあそうだろうな、と僕は別段怒る気にもならなかった。事態を把握せぬままついてきた未熟者であるばかりか、ただ文乃さんにお願いされてのこのことやって来ただけだ。本当にそれだけなのだ。自分に何が出来ると、そもそも過信していたわけではない。
しかし文乃さんは背筋を伸ばして胸をはり、
「現時点で、私がご用意出来る最高のチームであると信じ、今日お集りいただいた皆さんにお声掛けしました」
ですが、と彼女は声を落とし、
「事態は思っていたよりもずっと深刻で、危険であることも身に沁みました。長谷部さんの仰る通り、未成年である新開さんや、まだお若い女性である辺見さんには、外れていただくのが最善かもしれません」
そう言った。
僕は声をあげようとした。しかし食卓の上で僕の手を握った辺見先輩の横顔が、それを許さなかった。
「私はそういう意味で言ったわけじゃないんだけど、まあ、そう言われてみればそうなのかなあ。しかし困ったもんだな、君がそこまで言うんじゃ、簡単にお祓いしてもらって終わりって話じゃないんだろうね。だけどあれだね、若いとはいえ、君、文乃ちゃんに見込まれるなんて相当腕が立つんだろうね?」
そう言った長谷部さんの目が不意に僕を捉え、岡本さんや池脇さんの視線まで飛んできた。僕は気圧され、言葉を探した。腕が立つと言われても、そんな事実はない。ただ見える、ただ感じる、それだけの大学生なのだ。
「あー、えーっと、私が見初めたというよりは、どちらかと言えば三神さんからのご紹介といいますか」
え?
文乃さんの言葉に、三神さん以外の全員が驚いた。
当然ながら僕も辺見先輩も、三神三歳などという変わった名前の人物とは知り合いではなかったし、そもそも今日お会いしたばかりである。三神さんはやや慌てた様子で片手を挙げ、
「いやー、ワシもな、ワシというか、ワシじゃないというか」
と、しどろもどろに言葉を濁した。
「あ、もしかして?」
と文乃さんが声を上げた。思い当たる節があるような彼女の口振りに、三神さんは「うむ」と頷き返し、こうこ語った。
「ワシの弟子と言っていいのか、いやはや、師匠と呼ぶべきか、まあ、そういう、親子のように共に暮らしている者がおりましてな。まだ十七歳の娘っ子なんだが、これがまあ、いわゆる神の子とでも言いますか。わかりやすく言えば、べらぼうに霊感が強い。霊能力と言い換えたほうが良いほどの、桁外れの器を持っておる。おそらく物理的に作用する力に関しても、この、西荻のお嬢に匹敵するだろうな。その子が、そこの二人を遠視(とおみ)で見たんだよ。この二人が良いと、その子が選んだんだ。名前は幻の子、ゲンコと書いて三神…」
まぼろし。
僕と辺見先輩をこの事件に引っ張り込んだ張本人が、その十七歳の女の子であるという。
ご本人の話によれば、三神さんは『天正堂』という名の拝み屋衆に所属しているという。
『まぼろし』という名前の少女とは、彼女が幼い頃にそこで知り合った。その少女には物心がつく前から超常的な力が強く備わっており、あまりにも強烈な症状で周囲を混乱に陥らせる為、事態を重くみた両親により症状が落ち着くまでという一時的な名目で、天正堂へ預けられたという事だった。
数ある症状の中で最も強力な力を発揮していたのが、三神さんの語った、遠視(とおみ)。遠隔透視と呼ばれ、離れた位置にある人物、物体を見る、察知するというものだった。一般的には広く『千里眼』という呼称で知られており、そこへ加えて彼女は、未来予知の能力までも備えているというのだ。
「ワシら拝み屋衆に属する者はそのほとんどが政治家や一般企業のトップなんぞを相手にして、まあ世俗的な事も含めて吉凶を占う生業なわけだ。そういう意味でもあの子は、精神の病と片付けられて狭い病院へ放り込まれるよりかは、力の使い道のあるワシらの所へ来る方が良い判断だったのだとは思う。これはワシ個人の話で痛み入りますが、古来より忌み云われのある土地に出向いて行ってまじない事を施すという、いわば地鎮祭における神主とか、そういった立場で裏仕事をこなすのがこのワシの専門でしてな。ここの、西荻のお嬢と知り合いになれたのも、そういった土地持ちとの縁があったからなんだ」
だが、と三神さんは声を低くして言う。
「あの子の持つ力は、ちいとばかしキツすぎてな。本来の正業である拝みでは、まぁやらん領域にまでその力は及んでいくようになった」
どういう意味だろう…?
正業の拝み屋というものがどのような仕事なのか僕も詳しいわけではなかったが、先程三神さん自身が仰ったように、占いやお祈りが仕事ではないのか。そこ以外の、あるいはそれ以上の領域とは一体何を指すのだろうか。
「あの子は人を、呪えるんだ」
一同が息を呑んだ。誰も、その言葉の意味を聞き返したりなどしなかった。
「親元を離れた幼い少女の寄る辺ない自我では、良い行いと悪い行いの線引が大人のそれとは食い違う場面もままあった。それは、仕方のないことだ。だがそれを利用する悪い人間もいて、例えば政敵、あるいは企業世襲の諍い相手、そういった特定の個人に対して攻撃させる目的としてあの子の力は使われ始めた。実際それを金に換えて実行に移すよう働きかけたワシら管理側にも責任はある。だからワシは、あの子の力を逆手にとって、組織に対して自立を約定させた。つまり屋号だけを借り受けた、いわば個人事業主となったわけだな」
「彼女の力は本物です」
と文乃さんが言った。
「三神さんのいる組織では、誰もがそれを理解している。その彼女を怒らせたらお前らの命はないぞーって、そう脅しをかけたんですよね?」
文乃さんはいたずらっぽい顔で、三神さんに微笑みかけた。三神さんは照れたように頭を掻き、
「脅しなんていうとまあ、聞こえは悪いんだがなあー」
と、明言を避けた。だが否定はしなかった。
「おっさん、やるじゃねえか」
と池脇さんが目を細めてそう言うと、三神さんはますます照れて赤くなった。
「先程、電話で話しておられたのは、その女の子ですか?」
辺見先輩が聞いた。
アレが僕たちの周囲で発現した時、辺見先輩の目の前に何かがポトリと落ちた。それが実は三神さんの携帯電話で、あの時既に誰かと通話中だったらしい。その相手が、幻子(まぼろし)という名の少女だったのだろうか。
「こらいかん、やばいと思うてな。短縮ダイアルを押してすぐにあの子とつないだんだ。あの子はどこにいてもワシの事なら即座に視ることができる。反射的に、助力を仰ごうとすがったんだがなぁ」
「何か、仰ってましたね」
と、文乃さんが聞いた。
「うーむ。この人らがおる前で口にしてええものか分からんけども」
三神さんは目の前に座る長谷部さんと岡本さんに気を配り、口ごもった。
「いや、や、や」
と長谷部さんが慌てて腰を上げる。
「そんなにどえらい力を持った娘さんがこちらサイドに付いているんなら、百人力じゃないかね。何を気にすることがある?」
それは確かに、長谷部さんの言う通りだ。少なくともここにただ座っているだけの僕や辺見先輩などより、何倍もこの件に関して力になってくれるだろう。しかし三神さんは困り果てた様子でテーブルに肘をつき、指で皺の寄った額を支えた。
「あの子は普段ワシを先生と呼ぶんだがね。あの時電話で、こう言ったんだよ」
『先生。…あれは、無理です』
「無理」
文乃さんが繰り返した。
ざわざわと絶望感が押し寄せて来るのを、僕は感じていた。
文乃さんは言う。
「私は普段自分の力をひけらかすような真似はしませんが、自分に何が出来、何が出来ないかは分かっているつもりです。そんな私の目から見ても、まぼちゃんは…まぼろしさんは桁外れの能力者だと思っています。年齢的なことを考えて、彼女ではなく師匠である三神さんにご依頼したわけなのですが、正直私は今回のケースにおいては彼女を頼る他ないと考え始めていました。まぼちゃんは、実際には、なんと?」
三神さんに詰め寄る勢いの文乃さんを前に、長谷部さんと岡本さんがこそこそと「桁外れ?」「能力?」と囁き合っている。実際にあの地獄を味わっていないともなると、当事者であり相談者であるにも関わらず呑気なものだなと僕の目には映る。文乃さんにも彼らの声は届いていたはずだが、彼女の表情がそれどころではないと物語っていた。
「実際にと言ってもなあ。無理は無理としか…」
三神さんは困り顔でうんうんと唸りながら、
「とりあえずは、こちらに向かうと言ってくれはしたがね。正直、お嬢には悪いがワシ個人としては来てほしくなんかないね。危険すぎる」
来るのか…。人を呪えるという十七歳の少女が、ここへ?
だがそんな超常的な存在を持ってしても、地獄と言う名の釜の蓋が開いたようなあの「何か」には、太刀打ち出来ないのだろうか。
そこへ、壁際で一同の話を黙って聞いていた池脇さんが割って入る。
「呪いだの能力だの、そんな与太話は一旦脇に置いといてよ。だからなんなんだよ。今あそこのマンションにゃあ、何が起きてるってんだ。それをまず俺やこのオッサンらに説明してみせろ。んーで文乃は、お前はそれをどうしようと思って俺たちをかき集めたんだ」
彼氏?彼氏?またもや長谷部さんと岡本さんが顔を突き合わせている。その隣では、「与太…」はっきりとこき下ろされた三神さんがあんぐりと口を開けていた。
池脇さんの口調は痛快そのもので、悪い方向へ流れっ放しだった場の空気を全て自分に向けさせる程の剛腕だった。見た目も、年齢も、住む世界の違い感じさせる人ではあったが、僕はこの池脇竜二という人間を好きになり始めていた。
「マンション全体を現場とする大規模な霊障、悪臭、激臭を伴う霊害。それが何を意味するのかを考えた時に、私はまず、こちらの長谷部さんにご自身が所有する土地の歴史を調べていただくよう、お願いしました」
居住いを正し、文乃さんは全員に向かってそう話を始めた。
「それはまあ、簡単だったよ」
そう、長谷部さんは言う。
長谷部さんは文乃さんから話を聞いてすぐ、街へ降りて図書館へ向かったそうだ。そこで閲覧できる古地図で土地の履歴を調査した所、すぐに答えが出た。ほんの四十年ほど前まであの場所には何もなく、ただの小さな山だったという。
つまり、山を切り開いて平らな土地に整備し、その場所に今あるリベラメンテの前身とある賃貸マンションが建てられた。それが今から四十年前。やがてオーナーが長谷部さんへと代わり、フルリフォームされて今のマンションへと様変わりしたのが十年前だ。当然名前も変わっている。が、あの土地の歴史は、わずかにそれだけであるという。
「よくある忌み地ではない、ということですな」と三神さんが言う。「そのー、山を切り崩して出来た土地というのはあのマンションだけはなく、あの土地一帯全部がそうなんですか? いわゆる新興住宅地というか」
「そうです」
三神さんの問いに、長谷部さんは頷く。
「ここいら一帯、いや、この岡本さんの住んでいる団地がどうだったかまでは調べちゃおりませんが、少なくともリベラメンテの建つ山裾からバス通りと呼ばれる大通り、そこから街へ降りる坂の中腹あたりまではみな、全て山だったようですね」
「四十年ほど前と言えば、歴史は浅いがまだバブル経済の前だ。景気は確かに良かったように思うが、結構大規模な開発があったんですなあ」
そのようですね、としか長谷部さんも答えようがなかった。文乃さんに言われて土地の歴史を調べようと意気込んだまでは良いが、いともあっさりと答えに辿り着いてしまったのだ。そこから先の事は、長谷部さんも知らないようだった。
僕は何かが気になったが、それが何かは分からなかった。
「ずっと、こちらにお住まいですか?」
と続けて三神さんが聞く。いえ、と長谷部さんは首を横に振った。
「何故です?」
「あなたは先程、古地図を閲覧して初めてこの辺りが以前山だった事に気づいたと仰った。ざっと顔ぶれを見渡した限りでは、四十年前から生きていそうなのは私と、長谷部さん、そしてこちらの岡本さんだけだ。もしこの辺りがお二人の地元であるならば、古地図なんぞに頼らなくても原風景を覚えていらっしゃったんじゃあないかと、そう思いましてな」
それだ。僕が気になったのも、そこである。
長谷部さんはまるで他人事のように、「全て山だったようですね」と答えている。
なんの前触れもなく、文乃さんが玄関を向いた。
視界の中で突如振り向いた彼女の動きに驚き、その視線を追った。辺見先輩が立ち上がり、僕の座っている方へ足早に回り込んで来た。
「な」
「静かに」
岡本さんの不安げな声を押しとどめ、文乃さんが中腰になった。
いくつもの視線が玄関に注がれる。そして誰もが微動だにしないまま三十秒が経過し、やがてしびれを切らした池脇さんが立ち上がって玄関へと向かった。
「竜二くん、まだ」
文乃さんの制止の声にも池脇さんの歩みは止まらず、ほんの数歩で鉄製の玄関扉に手をかけた。辺見先輩が僕の背後に回ってしゃがみ込む。僕は扉をじっと睨んで、目を凝らした。
肌色に塗られた鉄製の玄関扉の向こうに、おそらく子供のような背格好の何かが立っている。
「池脇さんいけない」
僕が声を上げると、彼はドアノブを握ったまま動きを止めた。しかし逡巡した後、ぐっと顎に力を込めて扉を外側に開いた。突風が舞い込み、悪臭がそれに乗って侵入してくる。
「誰だ!」
池脇さんが物凄い声で叫んだ、と同時に風が止み、匂いも消えた。
僕は見た。今まさにもろ手を挙げて駆け込んで来ようとする男の子の霊が、池脇さんが叫んだ瞬間背後に飛んで、消えた。ゆっくりと、文乃さんを見やる。彼女は鎖骨の間にある何か(ブローチかペンダント)を服の上から握り締め、玄関に向かって目を閉じていた。
「なんだよ、何を見たってんだ?」
池脇さんは鼻腔に残る悪臭を手で拭い落としながら、玄関から一歩外に出て辺りを見回している。おそらく周囲には誰もいないだろう。そもそも人間ではなかったのだ。何も痕跡は見つからないはずである。
池脇さんが扉を閉めた所で、
「男の子でした」
と僕は答えた。池脇さんはぎょっとして文乃さんを見やる。文乃さんは唇を真一文字に結び、否定も肯定もしない。
「まじかよ…」
なんか、ちょっと臭くありませんか? 掃除が行き届いてないのかな。
岡本さんが鼻の下を指で押さえながらぼやき、心配そうな顔をした長谷部さんはおどおどと辺りを伺っている。だがリベラメンテで味わった臭気はこの程度の残り香とは比べ物にならない。それでもやはり、恐怖はあとから追いかけて来た。
「新開さん。はっきりと見えましたか?」
と、文乃さんが僕を見つめる。
「扉の向こうに立っていた段階で、シルエットのようなものが見えていました。池脇さんが扉を開けた時、部屋の中へ侵入してこようとする状態でしたが…」
岡本さんの喉が、ヒ、と鳴る。
「顔や、服装まで?」
「服装は分かりませんでしたが…こう」
僕は両手を上にあげて、片方ずつ前後に振る。
「手を頭上で振っていました。小さな子供が逃げ惑うような、そんな風に見えました」
やめてくれ…。祈るような声を出し、岡本さんが頭を抱えた。
管理人として業務するリベラメンテでは、不可解な出来事に直面しようと仕事と割り切り正気を保っていられた。しかしプライベートなくつろぎの空間を怪異に侵されたとあって、恐怖が段違いに増しているのだろう。
「すまん」
扉を開けた事を後悔し、池脇さんが素直に頭を下げた。
「大丈夫だよ、ありゃ」
と三神さんが言った。岡本さんが顔を上げ、三神さんににじり寄った。その背中に取り付くように、長谷部さんも同じく移動した。
「もともとここいらに漂ってるだけの可哀想な魂だ。害はない。それより」
三神さんは僕を見て、ニッコリと笑みを浮かべた。
「ワシよりはっきり見えるんだなあ。いや、たまげた。見直したよ、若者」
「はあ」
ありがとうございます、そう頭を下げるべき場面なのだろうが、特にありがたいとは思わなかった。
「ただよ…」
三神さんは目を細めて宙を見据え、
「なーんでここへ来たかなぁ」
と、言った。
どういう意味です? 尋ねる岡本さんを見ずに、三神さんはまた僕に視線を向けた。
「ありゃあ、子供のナリをしとったが中身はそうじゃない。あれはなんというか、追い立られた末に変化した、あるいはそう、あんたが言ったように逃げまどっているうちに子供の姿になったんじゃないかと、ワシにはそういう具合に感じられたなぁ。お前さんはどう思うね?」
「僕は単純に見えるだけですから、その実態がなんなのかはわかりません。だけど、逃げるというのは、何からでしょう。既に亡くなっている幽体が今また、何から逃げるというんです?」
「それは分からん。おそらくここにおる、ワシか、お嬢か、はっきりと認識できるお前さんらに頼りたかったのじゃなかろうかねえ。いや、分からんよ。こればっかりは、死んだ人間とお話出来る程、ワシも万能じゃないもんでな」
引き寄せた、ということだろうか。
昔からよく怪談話のオチに使われるアレだろう。
怖い話をすると、怖いものが寄って来る。
ほら、こうしている間にも、君の後ろに…。
そういう事だろうか。
果たして、本当にそうなのだろうか…。
辺見先輩がそわそわと時計を見上げ、時間を気にし始めた。
岡本さんのご自宅からであれば、早くも帰りのバスの最終時刻が迫っているとの事だった。気が付けば既に午後九時時を回っている。来る時は勢いでタクシーを使ったがすぐに後悔し、帰りにはバスを使おうと事前に取り決めをしていた。万年金欠学生の身分で、タクシー利用はやはり贅沢なのだ。
この時点で事件の概要を掴み切れていないことや、解決に導く確固たる対処法を用意出来なかったことを、文乃さんは改まって詫びた。それは相談者である長谷部さんや岡本さんのみならず、説明を求めていた池脇さんや、応援のために駆け付けてくれた三神さん、そして僕と辺見先輩にまで彼女の謝罪は及んだ。
文乃さんは決して、自分の能力を過信していたわけではないと思う。その証拠にプロの拝み屋である三神さんや、昔ながらの友人であり、ひたすら強い陽の気を放つ池脇さんを側に置き、あまつさえ学生である僕や辺見先輩にまで助力を求めたのだ。彼女の言葉通り、文乃さんなりに人脈を駆使して集めたチームだったはずなのだ。本来どのような役割がそれぞれに与えられていたのか、今となっては定かではない。しかし言える事は、ただひたすらに、直面した事態が異常すぎたのだ。
僕はいたたまれない気持ちになり、頭を下げる彼女の側までいって、
「こちらこそ、なんのお役にも立てず、申し訳ありませんでした」
と謝罪した。自分でも何をしに来たのは分からないほど、何も出来なかったと痛感している。僕はただこの日、三神さんいわく害のない子供の霊を見ただけである。
しかし文乃さんは強い表情で、この埋め合わせは必ずすると僕に約束した。そして長谷部さんと岡本さんに対しては、事件が解決するまで責任を持って調査を続けますと再三にわたって頭を下げ、その日はあえなく解散となった。
帰りのバスの中で、僕と辺見先輩は一言も口をきかなかった。
きっと辺見先輩は後悔しているだろう。いつもの軽いノリで文乃さんの頼みを引き受けた事もそうだし、結果として僕を引き摺り込んだのは自分であると、そう悔んでいるであろうことも察せられた。
一つしか年の違わない辺見先輩は、サークル内だけに留まらず、とても交遊関係が広いと聞いている。人付き合いが上手く、誰からも気さくに声を掛けられ、それに応じる場面を実際に何度も目にしてきた。本来であれば今日一日を共にした行動も、傍から見ればデートのように受け取られる可能性もあるわけで、根暗な僕にとってはひょっとすると大学生活で一番楽しい日になっていたかもしれなかった。
だが僕は今日、この世と隣り合わせに確かに存在する幽闇の淵に呑み込まれ、いつも明るく朗らかな辺見先輩の口から、喉がひしゃげたような悲鳴を聞いた。
呼吸の音すら聞こえない程弱く疲弊しきった辺見先輩に、もし、「後悔しているか」と聞かれたら、僕はなんと答えていただろう。もちろん、もう二度とあんな恐怖を味わいたくはない。だがどこかで、後悔はしていないという気持ちもあった。
それは、やはり…。
バスが停車し、僕の降りる停留所に到着した。大学からなら辺見先輩の実家の方が近いのに、リベラメンテからでは彼女の方が遠い。その事が何だか、今は皮肉に思えた。立ち上がろうとする僕の背中に、辺見先輩が手を当てた。
動きを止める。
「…よし。元気出していこうか」
元気のない声で、辺見先輩はそう言った。
「はい」
と僕が答えると、彼女は周りが振り向くほどの勢いで、僕の背中をバシッと叩いた。
その日の晩遅く、机の上で僕の携帯電話が光った。もともと誰からも連絡が来ることはない為、着信音も鳴らさずバイブの設定も切っている。手のひらサイズの黒い箱は、先端の一部分を激しく明滅させて、奇跡のような着信を全力で僕に教えてくれた。
僕は勉強机に向かい、窓の外をただ眺めていた。いつの間にか雨は上がり、星が見える程には夜空が澄んでいる。着信の入った携帯に気が付き、壁掛け時計に目をやると、深夜一時半を過ぎていた。
「もしもし」
僕はそう答えたが、相手から反応があるまでに、ほんのわずかなノイズが聞こえた。
「新開さん、ですか?」
「…ああっ」
文乃さんだった。
「そうです、新開です。今日は、お疲れさまでした。今、どちらですか?」
「…今ですか? 今、ええーっと」
女性に尋ねてはいけない質問だっただろうか。僕はヒヤリとして背筋を伸ばし、
「いえいえ、仰らなくていいんです、すみません」
と一人で頭を下げた。
「…新開さんは、今ご自宅ですか?」
「そうです。部屋で、夜空を見ていました」
「ロマンチックなんですね」
彼女のあたたかな微笑みがすぐそばに感じられ、僕は顔を真っ赤にしながら、
「いや、あの、今日体験した事に対する恐怖を紛らわせるための現実逃避というか、なんというか」
と意味不明な言い訳を口にする。それはあながち間違いではなかったが、相手に理解を得られる話でもなかった。
「今日は、本当にすみませんでした」
「文乃さん、もう謝るのはやめにしませんか。僕は本当言えば、もっとあなたのお役に立ちたかったです」
「何を仰いますか。来て下さっただけでも、どれほど心強かったことか」
「いやいやいやいや」
「ですが、…新開さん?」
「…はい」
「お気持ちは、嬉しいのですが」
そこで、文乃さんは言葉を切った。
僕は一瞬何を言われたのか分からなかったが、突然ぽーんと体を小突かれ、階段を転げ落ちるような錯覚に陥った。
「もう、そのお気持ちは封印してくださった方が、よろしいのかと」