円城寺士門の謎解きディナー〜浪漫亭へようこそ〜

あの時、入院中の弟に抱いた恨みがましい気持ちが、中江家の子供達に対して蘇る。
(ずるい。十七年間生きている僕がアイスクリームもバナナも口にしたことがないというのに、なんで小学生が美味しそうに食べているんだ。高額な料金を親が支払ったというならわかるけど、無料だぞ。僕とのこの違いは、あまりにも理不尽だ……)
中江家の子供らが夢中で食べる様子を、大吉は半開きの口で、三歩ほど離れた横からじっとりと見つめている。
すると小さなため息をついた穂積が近づいてきて、大吉の前に立ち塞がった。
注意をしても、よだれを垂らさずにはいられない様子なので、背中に隠すしかないと思ったようだ。
その時、ホールの端にある階段に靴音が響いた。
一同が注目する中、微笑した左門が優雅な足取りで下りてくる。
「私の浪漫亭へ、ようこそ」
挨拶が遅れたことを詫びるのではなく、主役は後から登場するものだと言わんばかりの堂々とした態度だ。
中江一家のテーブル脇まで来て足を止めた左門に、女児が頬を染めた。
「異人さん、綺麗ね……」
男児の方は、「背が高くてかっこいい」と元気な感想を口にする。
「日本人です」と簡潔に間違いを訂正してから、左門は松太郎と視線を交える。
なぜか松太郎は驚いた顔をしていた。
「あんた、この間の……」
松太郎が言うには一昨日の夜、入会している囲碁クラブに左門がフラリと現れ、一局碁を打ったそうだ。
松太郎はそのクラブ内で一二を争う猛者だと自負していたのだが、聞いたこともない戦法で華麗に攻めてくる左門にあっさりと負けてしまった。
全く歯が立たないという経験が、久しぶりであった松太郎は、悔しがるよりも喜んだ。
自分はまだまだ未熟で、これからもっと強くなれるという可能性を見つけたからだ。
それで今後も左門と対局を重ねたいとの思いから、熱心に囲碁クラブへの入会を勧めたのに、仕事が忙しいとの理由で断られたらしい。
「また遊びに行かせてもらいます。その際には一局、お相手願いたい」
口の端をニッと吊り上げた左門に右手を差し出され、松太郎は握手を交わした。
その目は明らかに動揺している。
碁を通じて敬意と好感を抱いた相手が、憎むべき浪漫亭のオーナーであったと知り、どういう顔をしていいのかわからぬ様子である。
それと同時に、この招待の主たる目的が、自分を呼び出すためではないかと勘付いたようで、「わしに、なにか――」と言いかける。
けれども左門が不思議そうに首を傾げて見せたため、黙ってしまった。
大吉を背中に隠していた穂積は、いつの間にか厨房に行っており、ワゴンに新たな皿をのせて戻ってきた。
五人分のライスカレー用の皿には少なめのご飯が盛られ、ソース入れも人数分ある。
ソース入れは銀製で、先が尖った船形をしており、持ち手と脚が付いている。
そこに半量のカレーソースが入っていた。
「お出ししてもよろしいですか?」と問う穂積に、左門は頷く。
これに戸惑ったのは、中江家の大人達と大吉である。
アイスクリームを食べた後にライスカレーとは、これいかに。
それに加え、「あの、もう満腹なので……」と君枝が困り顔になるのも頷けた。
それでも中江一家の前にはそれぞれにひと皿ずつのライスカレーが並べられ、左門が手のひらで指し示す。
「残しても構いません。味見程度で結構ですのでお召し上がりください」
「お腹一杯」と言いながらも、子供らは率先して、カレーソースを皿に流し入れている。
困惑気味な中江家の大人達もソースをかけ、スプーンですくった。
ひと口味わって首を傾げたのは、君枝だ。
「この前とお味が違いますね。なんと言いますか、昔懐かしいような……」
君枝が感じた違いは漠然としたものであるが、以前食べたライスカレーの方が美味しかったと思っていることは、表情や話し方から窺えた。
一方、松太郎と正一郎は、なにかをはっきりと感じ取ったらしく、目を見開いている。
「こ、この味は……」
正一郎が絞り出すように呟いてスプーンを手から滑り落とし、松太郎は険しく顔をしかめた。
左門は余裕の表情で後ろ手を組み、松太郎に感想を求める。
「二十八年前のライスカレーの味は、いかがですか?」
ライスカレーは今の浪漫亭のレシピで作られたものではなく、過去の味。
ふたりの驚き方から察するに、おそらくスエが自宅で作っていたライスカレーと同じ味がしたのではないだろうか。
“二十八年前”と離縁した年を示されたこともあり、松太郎の眉間には深い皺が刻まれた。
「どういうことだ?」
鋭い視線と問いかけは、隣で青ざめている正一郎に向けられたものである。
スエに関することを、息子が勝手に他人に話したのだと思ったのだろう。
「いや、その――」
しどろもどろになっている正一郎に代わり、左門が説明する。
「あなたの離縁についてのお話は息子さんから聞きましたが、スエさんに会いに行き、当時のライスカレーの再現レシピを書いたのは、私が独断でしたことです」
「スエに会いに行っただと? わしになんの恨みがあるのか知らんが、こんな仕打ちをするために、わざわざ作り方を教わりに行ったとはご苦労なことだ」
「教わったのではありません。スエさんは痴呆症にかかってしまわれ、会話が成立しません。そのため、他の方法で再現しました」
交流を断たなかった正一郎は、密かに母親の世話を焼いてきたが、松太郎はスエの現状を少しも知らなかったようである。
険しくしかめられた顔はそのままに、「痴呆……」と呟いて、少なからず衝撃を受けている様子だ。
大吉はテーブルから数歩離れた通路で、ワゴンの取っ手を握りしめてハラハラしていた。
赤の他人であるスエの自宅の洗い物をしてあげた時、我ながらお節介なことをしていると思ったが、左門には敵わない。
相手を怒らせるほどに介入するとは、一体なにがしたいのか。
誰も声を荒げず、静かに会話をしているというのに、大人達の不穏な様子は子供らにも伝わってしまった。
急に黙り込んで不安げにスプーンを置き、身を縮こまらせている。
(どうしよう。こんな話を子供に聞かせてはいけないよな。でも、僕が外に連れ出していいものか……)
全ての料理を出し終えたコックがふたり、厨房から出てきて、壁際で成り行きを静観してしていた。
それは、森山と柘植だ。
柘植はこのピリピリとした雰囲気の中で、平和な家族の象徴のような国民的飲料、カルピスの小瓶を持っている。
子供の滋養強壮や、“この一杯に初恋の味がある”という乙女心をくすぐる宣伝文句で、数年前に発売されたカルピスは、爆発的に国内に広まった。
大吉も実家にいた頃、年始の挨拶などでのいただき物を、兄弟で競うように飲んでいた。
そんなカルピスの小瓶を持った柘植が小声で森山になにかを伝え、了承を得てから中江一家のテーブルに歩み寄る。
「お話中、すみません」と柔らかな声をかけ、閉じた目を子供らに向けた。
「お嬢ちゃんとお坊っちゃん、良かったらおじさんと二階に行きませんか? レコードがたくさん置いてあります。カルピスを飲んで音楽を聴き、楽しく待っていましょう」
子供らはその誘いを喜び、君枝は「ありがとうこざいます」とホッとしていた。
(良かった。僕がまごついている間にサッと動ける柘植さんはすごいな……)
柘植に連れられた子供達が二階へ上がると、話は続きに戻される。
元妻が痴呆症であるという衝撃から回復した様子の松太郎が、フンと鼻を鳴らして忌々しげに左門を見た。
「このレストランの昔の料理帳でも引っ張り出して拵えたのか。あいつは浪漫亭の料理人とねんごろになり、作り方を教えられたのだからな。それを家で作ってわしに食わせるとは、全くもってけしからん」
羽織の袖口に手を差し入れた松太郎は、ライスカレーの皿を睨みつけている。
その姿はまるで、囲碁において嫌な局面に差し掛かった棋士のようである。
昔のレシピ帳を引っ張り出したという推測を、左門が落ち着いた声で否定する。
「違います。当時の浪漫亭の名誉のために言いますが、二十八年前の浪漫亭のライスカレーは、これよりずっと美味しいものでした」
左門は二階に保管してあった古いレシピ帳を開いて、当時の浪漫亭のライスカレーも森山に再現させたそうだ。
香辛料は七種類が使われ、ココヤシの実の汁でまろやかさを出し、牛肉がホロホロになるまで煮込んで作る、高級かつ本格的な味わいであったという。
それを聞いた大吉の口内に、唾が込み上げた。
(再現料理の味見に、僕も立ち会いたかった。呼んでくれたら良かったのに……)
今の浪漫亭のライスカレーは身悶えするほど絶品だが、賄い飯として何度か食べさせてもらったため、それほど羨ましく思わない。
けれども二十八年前のものは、金を払ったって食べられないので、強く興味を引かれる。
(ココヤシの実の汁とは、どんなものだ? 甘いのか、辛いのか。ああ、知りたい、食べたい……あっ)
大吉のお腹がグウと鳴り、左門に横目で睨まれてしまった。
邪魔をするなと目線で叱られたが、腹の虫の鳴き声は制御できないので許してほしい。
咳払いをして、元の真剣味のある空気感を取り戻した左門は、背広の懐からなにかを取り出した。
それは和紙を束ね、こよりで綴った古い雑記帳で、大吉は見覚えがあった。
(スエさんの自宅から、左門さんが勝手に持ち帰ったやつだ……)
左門が(しおり)を挟んだページを開き、読み上げる。
半斤(はんぎん)の牛腿肉と玉葱ひとつを細かく切りて、牛脂を溶かした鉄鍋にて、良く返しながら焼き付けるべし。一度鍋より取り出して、メリケン粉大匙二杯と、カレー粉中匙一杯を炒め、出汁四合を少量ずつ注ぎ入れて……」
それは、ライスカレーの作り方であった。
二ページに渡って詳しく書かれており、難しい調理工程はなく、大吉でも再現できそうな気がする。
読み終えて視線を松太郎に戻した左門は、淡々とした口調で続ける。
「これはスエさんの料理帳です。ライスカレーだけではなく、他の料理についても書かれています。その料理を初めて作った日付や、食べたご家族の反応、その時の彼女の気持ちまで綴られているので、日記の要素もあるでしょう」
それに書かれているライスカレーの作り方は、浪漫亭のレシピと別物であった。
浪漫亭で使われていた高価で珍しい輸入食材を、一般の主婦が入手するのは困難で、スエでも美味しく作れるような材料と作り方を浪漫亭のコックが教えたのだ。
それは推測ではなく、レシピの下にそのように書かれているという。
(ということは、夫の留守に浪漫亭のコックを家に上げて、教えてもらっていたのかな。それが切っ掛けでただならぬ関係になり……やはり離縁されても仕方なかったということか)
大吉がそのようなことを考えている間、左門はスエの自宅を訪問し、料理帳を見つけて拝借した話を聞かせていた。
散らかって汚れたひどい室内の有様や、息子と勘違いして、食べられない弁当を大吉に押し付けてきたことも。
それを知った正一郎は、病に侵されてもなお自分を想う母親に目頭を熱くしている。
目を閉じて口を引き結び、涙を流すまいと耐えている正一郎に同情した君枝も、泣きそうな顔をしていた。
松太郎はなんとも居心地悪そうに、息子夫婦から目を逸らしている。
息子がわからぬほどのスエの病状と悲惨な生活を知っても、心配してやるものかという意地が感じられた。
左門は構わず、説明を続ける。
「料理帳に詳しくレシピが書かれておりましたので、スエさんのライスカレーを再現するのは容易だと思われました。しかしながらひとつだけ、わからない点が。それは出汁の種類です」
“出汁四合を少量ずつ注ぎ入れて”と書かれているが、なんの出汁なのか。
おそらくは和風出汁だと思われるが、昆布に鰹節、煮干しなど、その家庭で日常的に使っているものは異なる。
それについて左門が悩んでいたのは、三日前の夜のこと。
書斎にて考えつつ、役所で写したスエの戸籍用紙を眺めていたら、あることに気づいた。
スエの出生地は函館ではなく、近郊の漁村である。
子供の頃に一家で函館へ移り住んだ記載があった。
その出世地の漁村が偶然にも大吉と同じであり、地番を見れば集落も近いようだ。
出汁というものは母親から娘に受け継がれるものであると同時に、地域性もある。
それで左門は大吉に、実家の出汁の種類を聞こうとしたそうだ。
そこまでの話で、大吉はあることをハッと思い出した。
三日前の夜、試験期間が終わったので、その日は遅くまで勉強することなく、午後十時頃に床に就いた。
うとうとと夢の世界に落ちかけた時に、『入るぞ』と声がして、襖が開けられたのだ。
驚いて目を開ければ、廊下から差し込む黄ばんだ光の中で、上から見下ろす左門の顔があった。
『夜這いですか……?』
上擦る声でそう問いかけたら、怖い顔をした左門に腹を踏まれそうになったのだ。
勘違いを謝って布団に身を起こし、用向きを尋ねると、『実家で使っている出汁の種類はなんだ』とおかしな質問をされた。
なぜ夜中にそんなことをと思ったが、今やっと腑に落ちた。
(スエさんのライスカレーのことだと、最初から言ってほしかった。気になって寝付けなくて、翌日の授業がつらかったんだぞ)
大吉の実家で使っていた出汁は、“鮭節”だ。
鰹と昆布も使うが、一番使用頻度が高いのはそれだ。
秋になれば近くの川に鮭が大量に遡上(そじょう)し、魚卵を獲るための鮭漁も盛んであった。
魚卵は言わずもがな高価格で取引されるけれど、腹を割いた後の身の方は困りもの。
遡上に力を使うため脂が少なく、“ほっちゃれ”と呼ばれて、食べても美味しくない。
鮭とばに加工して売ってもいたが、それにさえできないものは肥料にするか、捨ててしまうかのどちらかであった。
もったいないと思った漁村の女性達は、それを蒸してから乾燥させ、出汁を取るために使っている。骨も焼いて粉末にし、味噌汁などに入れていた。
それは大吉の実家近くの集落に限られる。
鮭節という言葉は広まっていないし、商品化できる代物でもなかった。
左門は出汁の種類を大吉に聞いただけで終わらせず、きちんと裏付けも取ったそうだ。
翌日にスエの自宅に二度目の訪問をして勝手に家探しし、台所の引き出しからカビの生えた鮭節らしきものを見つけたという。
そこまでの説明を、大吉は興味を持って聞いていたが、松太郎はやめろと言いたげに左門の話を遮った。
「だからどうした。わしに食わせて、懐かしがれとでも言うのか。ふしだらなあの女は赤の他人だ。あいつが今、どんな状況にあろうとも、わしには関係ない」
怒りの理由は、面倒を見てやれと言われた気がしたからだろうか。
苛立つ松太郎と、睨めつけられても全く動じない左門を見比べた大吉は、どっちの側につけばいいのかと心が揺れている。
(スエさんの生活を垣間見たら、誰かが世話してあげないと可哀想だと僕も思う。けれど、大旦那さんの気持ちもわかる。自分を裏切った相手を、今さら許せと言われてもな……)
数秒の沈黙の後に、左門が静かに問いかけた。
「ふしだらな女……果たして、そうでしょうか」
「不貞を働いた女が、ふしだらではないとでも言うのか? ならば阿婆擦れと言い直そう」
松太郎は鼻を鳴らして、スエを侮辱する。
すると左門は不愉快そうに眉を寄せ、料理帳を手荒くテーブルに置いた。
「どうぞ、このページをご覧ください」
「読まんぞ!」
声を荒げて拒否した松太郎に代わり、息子がそれを手に取る。
正一郎の目は真剣で、なにかを期待しているような顔に見えた。
「よせ」と父親に止められても構わず読み上げる。
「七月十一日、初めて西洋料理を拵えました。件の浪漫亭の方にご教授いただいたライスカレーです。正一郎は大喜びして三度もお代わりし、最近食欲が落ちて心配していた松太郎さんも大盛りを完食してくれました。私は涙が出るほど嬉しく……」
レシピの下には、初めてライスカレーを家族に出した時の様子が書かれていたようだ。
そこには間男と情を交わすようなふしだらさは微塵もなく、ただ家族を喜ばせたいという主婦の純粋さのみが綴られていた。
もしや、不貞などというのは勘違いだったのでは……そのような疑問を顔に表しているのは、中江夫妻や大吉、松太郎もである。
松太郎はなにも言わないが、ライスカレーに向けられた瞳が左右に揺れており、激しい動揺が感じられた。
その時、階段に近い窓際の席から、「まぁ、美味しいライスカレーね」という年配の女性の声がした。
開店前の店内には中江一家の他に客はいないはずなのに、どういうことだろう。
一同が声の方へ振り向けば、ふたり掛けのテーブル席でライスカレーを食べているのは、スエであった。
誰が世話したのか、きちんとした訪問着姿で結髪も整っている。
薄化粧もしており、大吉が出会った数日前とは別人のようだ。
今のスエなら、六十二の実年齢より若く見える。