小柄な体は尻餅をつくように土の地面に倒され、君枝が悲鳴を上げる。
正一郎は、鬼の形相で見下ろしている。
「コックという職業の奴らは、全くもって信用ならん。特に浪漫亭の者はな。人妻に手を出す習わしでもあるのか?」
「なにを言っているんですか!」
「ええい、間男の分際で言い訳するな。早く立ち去らんと蹴り飛ばすぞ。今度、妻に近づいてみろ。警察を呼ぶからな」
足を振り上げる真似をされ、肝を冷やした大吉は慌てて起き上がると、一目散に駆け出した。
怒りで聞く耳を持たない相手では、どのようにして誤解を解いていいのかわからない。
何度も痛い目に遭うのは嫌なので、今は逃げ帰るしかなかった。
通りの住人たちには白い目で見られ、散々な思いをした大吉は、坂道を駆け上がって浪漫亭に戻ってきた。
勝手口から厨房に入ると、森山に驚かれる。
「その顔、どうした!? お前が坂道で転んだのか」
大吉の左頬は赤く腫れ、口の端は少し切れて血の味がする。
泣いて心を乱していた女性客が、坂道で転ばぬようにと大吉に送らせたのに、お前が転んでどうすると言いたげな、呆れの目で見られてしまった。
「違いますよ。これは殴られたんです。あの奥さんの亭主に」
「どういうことだ?」
柘植が背もたれのない簡素な椅子を持ってきて調理台の横に置き、大吉を座らせてくれた。
冷蔵庫の上段の氷を崩して氷嚢(ひょうのう)を作り、腫れている頬に当てなさいと、気遣ってもくれる。
お礼を言った大吉が、まずは痛む頬を冷やしていたら、厨房に左門と穂積がやってきた。
客との揉め事だということで、どうやらコックのひとりが知らせに走ったらしい。
左門は浪漫亭に常駐していない。
他にも事業を手がけているため、出かけていることが多いのだが、今は屋敷の書斎で仕事をしていたのだろう。