「あ、あの」
「ん?」
「私、ここで、暮らしたいです。カフェで働いて、祖母の味を、たくさんの方々に、味わっていただきたいなと、思います」
もちづき君は、すっと目を細めた。
つごもりさんは、柔らかく微笑んでくれる。
良夜さんは、「仕方がない」とばかりに、腕を組んでいた。
昨晩と違って、態度が柔らかくなっているような?
「わかった。花乃、あんたを、巫女として認める」
つごもり君が差し出した手を、握り返した。すると、手のひらが光り、パチンと音が鳴る。
なんと、驚いたことに、手の平に満月の形が浮かんだ。これは、満月大神の巫女の証らしい。
同時に、体がじわじわと温かくなる。これが、満月大神から授けられし、神通力なのか。
目に見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりと、不思議な現象は起きないけれど。
「神通力は巫女によって異なる。花乃は花乃だけの、能力があるはずだ」
「私だけの……!」
いったい、どんな能力があるのか。なんだか、楽しみだ。
何はともあれ、私がやりたいことの方針が固まった。
窓の外を見てみたら、庭にある桜の花に目が留まる。強い風が吹き、枝が揺れた。
花びらが、舞う。
私の涙雨は、桜の花びらとなった。
もう、大丈夫だろう。私は、ひとりではないから。
新しい人生の門出を、晴れやかな気持ちで迎えることとなった。
ひとまず、祖母の遺品整理をする。良夜さんが手伝ってくれるようだ。
「お手数おかけします」
「別に、あなたのためではありません。幸代の部屋を、荒らされたくないだけです」
「そうでしたか」
ツンツンとした態度を取っている良夜さんだが、先ほどクマのパジャマ姿を見てしまったからか、そこまで怖く思わなくなった。クマのパジャマに感謝だ。
しかし、あのクマの絵柄は妙に覚えがある。そういえば二年前、祖母と買い物に出かけたとき、裁縫店で似たような柄の布を買っていたような。
「あの、良夜さん。もしかして、クマのパジャマは祖母の手作りですか?」
「そうですよ」
やはり、そうだったのだ。
なんでも、もちづき君はウサギ柄、つごもりさんはワニ柄のパジャマを作ったらしい。さすが、手先の器用な祖母だ。チョイスする布の柄もセンスがいい。
「もしかして、昨日もちづき君が着ていたウサギ耳のパーカーも、お祖母ちゃんの手作りなんでしょうか?」
「そうですが――口ばかり動かしていないで、手も動かしてください」
「す、すみません」
遺品整理を開始する。
断捨離が趣味だった祖母の押し入れには、ほとんど物がなかった。
寄り木細工の美しい木箱の中には、数冊のアルバムと私が贈った手紙や贈り物が詰められていた。
「これは――!」
「幸代の息子ですね」
「え、ええ」
アルバムの一冊は、父の幼少期の姿が写真に収められていた。本当に、つごもり君そっくりだった。
現在の父は眉間に皺ばかり寄っている気難しい中年親父だが、可愛い時代が確かにあったのだ。
一冊だけ、本が収められていた。ゲーテの詩集である。まさか、祖母にゲーテを嗜む趣味があったとは意外だ。
パラパラとページを捲っていたら、古びた一枚の写真も出てきた。よくよく見たら、つごもりさんそっくりだったので驚く。
「それは、幸代の初恋の人ですよ。戦争に行って、そのまま帰らぬ人となってしまったようで」
「は、はあ……」
初恋の人の姿をもう一度――その希望を叶えたのが、現在のつごもりさんの姿らしい。
「幸代は毎日毎日、飽きもせずにつごもりの顔をうっとり眺めていましたよ」
物静かなつごもりさんと違い、明るいけれどいじわるな一面もある青年だったらしい。
「幸代は、初恋の彼の顔が、猛烈に好きだった、と思い出を語っていました」
そうなのだ。祖母は大変な面食いで、イケメンアイドルにハマっているという話を聞いた覚えがある。
「ちなみに、良夜さんは……?」
恐る恐る質問してみる。もちづき君は父の幼少期。満月大神は祖父の姿。つごもりさんは初恋の人。
他に、祖母の愛する男がいたというのか。
祖父を亡くしたのは、祖母が二十歳のときだったと聞いていた。それから、恋のひとつやふたつしていても、なんら不思議ではないが……。
ただ、銀髪に赤目の人とは、いったい何関係の人なのだろうか。漫画のキャラクターとか?
「私は最近祖母が熱を上げていた、韓流スターから姿を拝借したものです」
「ああ、韓流スター!」
言われてみたら、良夜さんは背が高くて、細身で、シュッとしている。確かに韓流スターっぽい。
ふたりとも、雰囲気が異なるわけだ。
雰囲気が異なるといえば、名前もそうだ。つごもりさんはどこか古めかしくて、良夜さんは現代風だ。聞いてみたところ、ふたりの神使の誕生は、神社に作られた神使像がきっかけだったらしい。
つごもりさんの神使像が神社に作られたのは、約千年前の鎌倉時代。月が隠れて見えなくなる、月隠りの晩に奉納されたので、“つごもり”と名付けたのだとか。
一方で、良夜さんがやってきたのは、二百年前の江戸時代。中秋の名月の、月明かりが眩しい晩に奉納されたために、月が明るくて良い夜という意味の“良夜”と命名したようだ。
ともに、名付け親は満月大神である。
「満月の名を冠する神様なので、月にちなんだお名前なのですね」
「ええ」
と、喋りながら整理をしているうちに、遺品整理は終わった。というか、整理はされていて、捨てるものはいっさいなく、祖母との思い出を語る時間になってしまった。
「あの、良夜さん、ありがとうございました」
「なんですか、急に」
「気持ちに、整理がついたんです」
祖母が亡くなってから一ヶ月――ずっと、私の心は沈んだままだった。
けれど、祖母が生きた歴史がこの家にあって、祖母を大事に思ってくれる存在がいて、皆の心の中で祖母は生きている。
人の死によって受けた心の傷は、永遠に癒えないだろう。だからといって、ずっと悲しんでいるわけにはいかない。
心の傷と向き合い、上手く付き合っていく。それが、私にできるものなのだろう。
祖母が、初恋の人や祖父の死と共に明るく生きたように、私もそうでありたい。
話が途切れたタイミングで、襖が開かれる。キャベツを片手に持ったつごもりさんだった。
「あ、あれ、どうしたんですか?」
「お昼……」
「あ、もう、十二時なのですね」
お昼のサイレンにも気付かないほど、作業に集中していたようだ。
「つごもり、なんでキャベツを持っているのですか?」
「収穫、できた」
少し誇らしげに、キャベツを見せてくれた。なんだろうか、ボールを投げた犬が拾ってきて、ご主人に褒めてもらいたいような雰囲気は。
じっと私に視線を向けるので、褒めておく。
「ひとりで採れたのですね! 偉いです」
そう言うと、つごもりさんは淡く微笑んだ。犬の姿だったら、「よーしよしよし」と言って撫でただろうが、今は成人男性の姿である。伸びそうになった手は、ぎゅっと握りしめた。
「えっと、では、この春キャベツで、何か作りましょうか」
と、宣言したのはいいものの、何を作れるだろうか。そういえば、五合炊いたご飯は、すべて食べ尽くしてしまった。男子の食欲を、舐めていたのだ。
つごもりさんが、キャベツを持って台所までついてくる。ボール遊びをしてほしい、犬みたいだ。キャベツなので、「取ってこーい!」と投げるわけにはいかないけれど。 台所の棚を探っていたら、スパゲッティを発見した。
「春キャベツのパスタにしましょうか!」
提案すると、つごもりさんは嬉しそうにコクリと頷いた。ここでも、「そうかそうか、パスタが嬉しいか!」とよしよししたくなる願望が湧いてくるが、ぐっと我慢した。
春キャベツのパスタ――私はアンチョビを混ぜて作るのが好きだ。けれど、祖母の家にアンチョビの缶詰などあるわけがなく。代わりに、乾燥させた桜エビを発見した。
他、タマネギ、にんにく、鷹の爪、オリーブオイルを用意する。
まず、スパゲッティを茹でる。底が深い鍋に水を注ぎ、塩をひとつまみ振って入れた。沸騰したら、パスタを入れるようにとつごもりさんにお願いしておく。
その間に、絡める具を作る。フライパンにオリーブオイル、ニンニク、鷹の爪を入れて、火を弱めて炒めた。
そこに、ザク切りにしたキャベツと薄切りしたタマネギを加える。 火が通ったら、桜エビを加えた。
ここでほんのちょっと、パスタのゆで汁を加える。塩と醤油を入れて味を調え、茹で上がったパスタを入れた。
しっかり混ぜたら、“春キャベツのパスタ”の完成だ。
お皿に盛り付け、トッピングとして桜エビを振りかける。我ながら、おいしそうに仕上がった。
つごもりさんと一緒に居間に運ぶ。まずは、もちづき君の前に置いた。
「へー、パスタか」
まさか、祖母の家にパスタがあるとは思っていなかった。今まで、洋食を作ってもらった覚えはないから。
「もしかして、みなさんのために、パスタを買っていたのでしょうか?」
「いいえ、これは近所の人からもらった物です」
ご近所トラブルを解決したお礼をして、受け取っていたらしい。神饌としてお供えしていたものの、調理法に困って放置されていたのだとか。
「ということは、このパスタは神様から下げ渡された、神聖なパスタなのですね」
「そういうことです」
というわけで、「いただきます」だけではなく、食前の和歌を詠まなければならないようだ。良夜さんが口にした言葉を、そのまま繰り返すだけでいいらしい。
まずは、一礼一拍手。それから、和歌を詠む。
「――たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神のめぐみえてこそ――」
「あっ、ちょっと待ってください。思っていた以上に長っ……!」
良夜さんに、ジロリと睨まれてしまった。面目なく思う。
つごもりさんが棚の中からメモと鉛筆を取り出し、サラサラと書いてくれた。
いただきますだけでなく、ごちそうさまに当たる和歌もあった。なんて優しい人なのか。思わず、手と手を合わせて拝んでしまった。
「いただきますの時に詠むのは、この世のすべての恵みは、天照大御神のご加護のおかげです、という意味。ごちそうさまの時に詠むのは、食事の度に、神様に感謝しよう、という意味」
「な、なるほど。ありがとうございます」
メモもあるので、大丈夫だろう。良夜さんは渋々といった感じで、二回目の和歌を詠む。いただきますのときと同じく、一礼一拍手をした。
「――たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神のめぐみえてこそ――」
残りの人達は息を合わせ、和歌を詠む。
「――たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神のめぐみえてこそ――」
神饌を調理し、食べることを“直会”と呼ぶらしい。神と人が同じ食べ物を口にすることによって、縁を深める上に守護の力を高めるのだとか。
「では、心して食べろ」
尊大なもちづき君の言葉のあと、いただきますと口にして春キャベツのパスタをいただく。
フォークにパスタを巻き付けて、パクリと一口。シャキシャキとした春キャベツの甘さと、サクサクの桜エビの香ばしさが口いっぱいに広がる。
皆、パクパク食べてくれた。感想を聞かずとも、どうだったかは一目でわかる。
暖かな日差しが差し込む中で、春の味覚を存分に味わった。
今度はつごもりさんが、ごちそうさまの和歌を詠む。
「――朝よひに 物くふごとに とようけの かみのめぐみを おもへよのひと」
同じ言葉を復唱する。
食後のお茶を飲んでほっこりしたところで、今度は和風カフェ『狛犬』について質問してみた。
「えっと、お店は今、営業しているのですよね?」
「まあ、一応ね」
なんでも、今日までプレオープンを続けていたらしい。
「営業時間や定休日は特に定めず、幸代の気が向くままに営業していました」
「そうだったのですね」
メニューはお茶と季節のお菓子のみ。祖母の気まぐれで、さまざまな甘味を出していたようだ。
「幸代が亡くなってからは、お茶とぬか漬けだけで営業していました」
それでも、イケメン店員を目当てに、一日数名の客が訪れていたようだ。
「やはり、カフェには甘い物が必要です」
「春だったら、桜まんじゅうでしょうか?」
祖母が毎年作ってくれた薄紅色の饅頭に、桜の塩漬けを添えたお菓子だ。中には、甘く炊かれた粒あんが詰まっていた。
「それは、作れるのですか?」
「はい。毎年お手伝いをしていたので」
「では花乃。桜まんじゅうを作ってくれ」
「わかりました」
去年、祖母が漬けていた桜の塩漬けがあるはずだ。毎年、庭の桜で作っているのだ。
棚を探ると、予想通り桜の塩漬けが入った瓶を発見する。
冷凍庫に、作り置きのあんこもあった。祖母は私が突然やってきて「食べたい」と言ってもいいように、こうしてあんこのストックを作ってくれていたのだ。
日付が、書いてある。亡くなる三日前に、作ったあんこのようだった。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
有給なんてたくさんあったのに……。今年はお正月にしか会っていない。
電話をするだけではなくて、もっと遊びにくればよかった。そして、小学生のときみたいに、台所でふたり並んで、お菓子作りをしたかった。
悔やんでも遅い。
「お祖母ちゃん、使わせてもらいます」
ここで、台所につごもりさんと良夜さんがやってきた。ふたりとも、和装姿である。
つごもりさんは、ねずみ色の半着に萌葱色の袴を合わせていた。大人でシックな着こなしである。
良夜さんは、若草色の半着に灰白色の袴を合わせている。色白なので、明るい組み合わせがよく似合っていた。
共に、邪魔にならないよう襷で袖を結び、腰には獅子に似た狛犬の絵が描かれた『狛犬カフェ』の前掛けを掛けていた。
なんというか背筋がピンと伸びた青年の和装姿は、大変美しい。こんな店員がいるお店があったら、毎日通ってしまうだろう。
祖母がかつて愛していた人々に、心の中で感謝をしてしまう。
「これは、幸代がかけていたエプロンです」
良夜さんから差し出されたエプロンを受け取る。ふたりの前掛けと同じように、獅子の絵がプリントされたものだった。ありがたく、使わせていただく。
「よし! では、作りますか」
久しぶりに、桜まんじゅう作りを行う。
最後に祖母と作ったのはいつだったか……。
おそらく、高校二年生の春休みだろう。翌年は塾に通っていたので、遊びに来られなかったのだ。
年齢が上がるにつれて、毎週遊びに行くなんてことはなくなった。それでも、夏休みや冬休みになったら毎年遊びに行っていたが。
パティシエールとなってからは、夏休みという概念はない。人々が休んでいる期間はかき入れ時のため、長く休めなかった。
それでも、年末年始は一週間の休みがあったため、祖母と共に年を越し、お正月を過ごしていたが。
大晦日とお正月は、唯一父と私、祖母が揃うときでもあったのだ。
と、祖母との思い出について考えていたらキリがない。桜まんじゅう作りに集中しなければ。
「まず、桜の塩漬けの塩抜きをします」
水の量と浸けておく時間をつごもりさんに伝えておく。
「良夜さんは、あんこの解凍をお願いします。あんこが緩いようでしたら、鍋で水分を飛ばしてください」
「わかりました」
ふたりがせっせと作業している間、私は生地作りを行う。
ボウルに薄力粉、ベーキングパウダー、砂糖、水を入れて、滑らかになるまで生地を混ぜる。生地がまとまってきたら、桜の花を粉末化させた桜パウダーを加えて捏ねた。
ふと、東京で桜まんじゅうを見かけ、買った日の記憶が甦る。喜んで頬張ったのだが、桜の風味がまったくしなくて、驚いたのだ。
原材料を見て見たら、まんじゅうの生地の色づけが桜パウダーではなく、食紅だったのだ。桜の風味がしないわけである。
そんなわけで、桜まんじゅうに使う桜パウダーは、重要なものなのだ。
桜色に色付いた生地を、しばし休ませる。
つごもりさんは塩抜きした桜の塩漬けを丁寧に並べ、良夜さんはあんこを一口大に丸めてくれていた。きっと、彼らは祖母の手伝いをしていたのだろう。できる狛犬だ。
「そういえば、カフェはつごもりさんと良夜さんが担当しているのですよね?」
「ええ、そうですよ」
「もちづき君は、いったい何を?」