『長瀬麻里さんのお電話で宜しいでしょうか』
 朝、携帯が震え慌てて耳にあてると、スピーカーの向こうから堅苦しい畏まった言葉が聞こえる。私は慌てて綺麗な声を作ると、莉緒ちゃんが気を利かせて紙とペンを持ってきてくれる。
「はい。はい。大丈夫です。ありがとうございます」
 喉を緊張させながら音を捻り出し、何とか電話を終える。社会人になっても電話には慣れない。
 大きく息を吐くと、近くに莉緒ちゃんが寄ってくる。
「なんの電話だったんですか?」
「一次試験の結果」
 彼女は興味があると言わんばかりに目を開くが、すぐに顔を引き締める。駄目だった時の事を考えてしまったのだろう。
「大丈夫。受かってた」
「――!」
 表情に花が咲く。
「本番はこれからだからそんなに喜べないんだけどね」
「それでも通ったんだからもっと喜びましょうよ!」
「ペーパーテストには自信あるんだよ。でも面接とか討論とか、あと模擬授業とか、別の難関がね」
 私が自虐気味に笑うと、莉緒ちゃんは断腸の思いをする様な苦しい顔をしながら言葉を出す。
「……私で、練習します……?」
 その顔があまりにも面白くて私は吹き出す。
「そんな嫌がってる人に模擬授業とかできないでしょ」
「あ、じゃあ討論だったら強いですよ!」
「莉緒ちゃん、討論は本当に強そうだから心折れそう」
「じゃあ面接は?」
「莉緒ちゃん相手じゃ笑っちゃうよ」
「麻里さんが頑なに対策したくないのは分かりました……」
「わかった?」
「そんなんじゃ二次試験おちちゃいますよ……」
「その時はその時」
「今、息子が働かない親の気持ちが分かった気がします」
「私はちゃんと働いてるから」
 彼女につかれる溜息はこれで何回目だろうか。どんどんと私の素の部分が出ているという事は、彼女相手に私が心を開いているという事だろうか。彼女の心を開かなければならないのに私が開いてどうするんだ。
「じゃあ、とりあえずお祝いという事で、夜は少し豪華な物作りますか?」
「それは嬉しいな」
「何言ってるんですか。麻里さんも作るんですよ」
「じゃあ簡単なのでいいや」
「私が教えますから」
 なんでもない会話をする彼女はやはりただの女の子で、また私はあの出会いの日が夢だったらよかったのにと思ってしまう。

「そういえば、莉緒ちゃん、実家に連絡入れた?」
 私の家に泊める代わりに実家にはきちんと報告を入れる。そういう約束をした。
「しましたよ。行方不明で捜索願い出されても困りますし」
「何も言われなかったの?」
「はい。なにも」
 一か月家を空けると報告され何も言わない親がいるとは思えない。正直彼女の親に僅かな期待を抱いていた節もある。何かしらのアクションを起こしてくれさえすれば、良くも悪くも事態が動くと思っていたのに。
 これは彼女の親にもなにか問題があるのかもしれない。
「厳しい親御さんって訳じゃないんだ」
「まぁ、ある意味放任主義って言うんですかね。もしかして、厳しい人だと思ってたんですか? だから私が逃げてきたって」
「それもあるかなって」
「親は私に優しいって最初に言ったじゃないですか。あれは本当ですよ。ちゃんと大切にされてます」
「放任主義は大切にされてるとは思えないけど?」
「私がそれを望んだので。そうしてくれてるだけです。過度な干渉が愛情って訳でもないじゃないですか」
 過度な干渉。私の記憶にもあるそれを思い出すが、彼女の言う通り決して純粋な愛情と言っていいものではなかった。
「そうだね」
「学校に親が乗り込んでくるパターンってあるじゃないですか」
「いわゆるモンぺとか?」
「そうです。あれって子供の為に怒ってるんじゃないと思うんですよね。なんとなくニュースを見てて思いました」
「現場の意見としても、同意」
 いかに上手くいっている学級でも文句の電話や直接的な抗議が無い訳ではない。私だって自分の抱える学年に数人の危険分子は認知しているし、たまにヒヤヒヤさせられることもある。
「ああいう人達って、きっと自分の為に怒ってるんだと思います。誰だって自分の所有物を害されたら怒りますもん」
「所有物……。何割かはちゃんとした意見を持ってくる人もいるけどね」
「でも、身に覚えはあると」
「実際いるから。私の子供にって怒る人。それに……」
 過干渉の親についての話題が深まるにつれて、昔の記憶が浮上してくる。ドロドロとした重い感情が胃の底に溜まっていく感覚があった。
「昔、友達にいたんだ。親に拘束されてる子」
「その子は幸せでしたか?」
 勉強机に縛り付けられる人間の姿が頭に浮かんで、吐き気を催す。
「絶対に幸せじゃなかった」
「極端な話をしたい訳じゃないですけど、そういう事です。干渉することが必ずしも幸せになるとは思えません」
「飛躍しすぎだよ」
「そうですね。すいません。でも、私は今これで十分なので」
 彼女は幸せとは言わない。
「多感な時期なんですよ。なんてったって、花の女子高生ですから」
 生と死の狭間で一人孤独に咲く花は、諦めるような笑いを浮かべた。