一瞬で燃え尽きる激しさで

 ピンクと青のトラベルセット。持ち運び用の小さいシャンプーとトリートメント。その他ありふれた旅行道具。
 私と莉緒の手にはそれぞれ一つずつ袋が下げられている。
 半月前にも訪れた大型商業施設を歩く私達の足取りは軽く、急遽決まった旅行に心が弾んでいるのが分かる。
「よかったんですか?」
「ん?」
「この間みたいに別々に行動しなくて」
「私は前回も、一緒に行く? って聞いてたじゃん」
「そうでしたっけ?」
 彼女との距離は縮まった。以前は別々で行動していた私達も、こうして隣を歩くようになった。半月も一緒に生活していたら、誰かに見られてしまうかもなんて危機感は麻痺してしまった。生徒と出くわす可能性も前は考えていたが、今ではそれも別にいいかと思ってしまっている。
「私と一緒にいると、変な噂が経っちゃいますよ?」
「別にいいんじゃない? なんかもう、それでもいいかなって」
「駄目ですよ~」
 莉緒は嬉しそうに大きく腕を振りながら歩く。その姿はやはり小学生の女の子の様で、私の頬も勝手に緩む。
「ほかに買う物ってありましたっけ?」
「んー。粗方買ったんじゃない? 何か莉緒は欲しいものある?」
「私は今の所、大丈夫です。麻里さんは?」
「どうしよっかな。新幹線で読む本とか?」
「私がいるのに、本読んじゃうんですか?」
「……でもさ。電車の中って喋りづらくない?」
「そんなことないですよ。本読むなんてもったいないです」
 施設をぶらぶらと適当に歩く。色々な店が目に入るが、これといって欲しい物もない。
 隣でぴょこぴょこと歩く灰色のニット帽を見る。買い物が楽しいのだろう。欲しいものは無いと言いながらも、物珍しそうに周囲を見回している。
 私がプレゼントした灰色のニット帽と元々莉緒が被っていたニット帽。彼女はその二つを毎日交互に被っている。雨が降ったら洗濯が間に合わなそうだ。もう一つくらいプレゼントしてもいいのかもしれない。
 あ、そうだった。そういえば。
「そうだ。この間言ってたやつ。莉緒の服を私が選ぶってやつ、やる?」
「急ですね」
「丁度買い物にも来たからさ」
「麻里さん、私に隠れて勉強してましたもんね」
「……知ってたの?」
「だって麻里さん携帯見てる時にチラチラ私のこと見てたじゃないですか。あんなことされれば誰でも気付きますって」
「あまり期待しないでね」
 莉緒が頷くので、私達はアパレルのフロアへ移動する。
 実は、もし莉緒がこの話を持ち出して来たらと思って、既にこの商業施設内の店はネットで予習済み。私は迷うふりをしながら目当ての店へ足を進める。
 ここ数日、莉緒の服を考えることに結構な時間を費やした。最適解が出たのかは分からないけれど、莉緒は私が好きならば何でもいいと言っていたから、これで正解なんだろう。
 普段ならば一人で入らないであろう店に入り、二人でゆっくりと店内を回る。
 一度店員が近づいてきたが、莉緒が私の後ろに隠れるので適当にあしらった。
「私達、周りからどう見えてるんだろ」
「どうって?」
「教師と生徒って言うのは見て分からないじゃん? でも、友達って言うには年も離れてる」
「麻里さんだって若いし、友達に見えるんじゃないですか?」
「いや、莉緒の見た目が幼すぎるから」
「怒りますよ?」
「でも、親子には見えないじゃん? 姉妹とか?」
「麻里さんと私、全く似てないじゃないですか」
「それもそうだ」
 目つきの悪く死んでいる私とキラキラ輝く大きな瞳の彼女じゃ姉妹には間違われないだろう。
 目当ての物をラックから探しながら、私は考える。友達、に見えていればいいけど。そもそも友達ってすごく幅の広い表現だし。年が離れていても仲が良い関係だってあるか。
「麻里さんと私の関係って何なんでしょうね」
 ぼそっと莉緒が呟き、私の手が止まる。
「家主と居候?」
 自分と莉緒を交互に指差しながら首を傾げてみると、莉緒も真似をする。
「介護者と要介護者の間違いじゃないですか?」
「最近は私だって多少は」
「まだまだです。目玉焼きもまともに焼けない人が何言ってるんですか」
「料理なんてできなくても生きていけるでしょ」
「あ、じゃああれです。お母さんと子供。勿論私がお母さんの方で」
 また私の手が止まる。
「莉緒に育てられたら、性格曲がりそう」
「元々曲がってるじゃないですか」
「じゃあ、莉緒に育てられたのかも」
「女手一つでここまで育てるには苦労しましたよぉ」
「――」
 会話のノリでふざけてみただけ。分かってはいるけど、心の中に小さな痛みが生まれる。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
「ふーん」
 莉緒はじっと私を見た後、興味を失ったかのようにふらっと別の棚に向かう。
 懐かしい痛みはすぐに引き、胸の中からなくなった。私はまた引き続きラックに手を掛ける。
 まずはスカート。莉緒には何でも似合うから取っ掛かりに迷う。スカートを使うという条件を指定してくれたのはありがたい。
 幾つか絞った候補の中から私は黒い膝丈の物を手に取る。
 キュロットスカート? だっけ? 
 スカートに見えるけどズボンみたいな。勉強して手に入れた知識だ。触るのは初めてなのに名称を覚えてしまっているのが悪い癖だ。こんなのテストに出ることでもないのに。
 スカートが嫌いな莉緒に無理やり履かせるのは抵抗がある。だからこれが丁度いいかななんて。
 手に持ったものを腕に掛け、私は別の棚に移動する。
 でもどうして彼女はスカートが嫌いなんだろうか。私もスカートを履かないタイプの人間だけど、莉緒みたいな可愛さを持っていれば履こうと思えるかもしれない。
 莉緒なら似合うのに、勿体ないな。
 そう思いながら服を選ぶ私の頭の中は、もう着せ替え人形で遊ぶ少女の思考回路。ファッションに無頓着な私でも、あれだけ顔のいい人形なら楽しくなってしまう。
 次に見たのは夏物のカーディガン。淡い色が並ぶのを端から触っていく。
 いっそのこと思いっきり可愛いのにしてやりたいな。彼女が自分じゃ買わなそうな色。
 身長の低い彼女にはサイズが多くないから、小さめのレディースでも彼女には多分余る。なるべく彼女の小さな体に合う物を探し、視界に映った薄い桃色を手に取る。
 こんなもんかな。あとは目星をつけていたシャツを取り、コーディネートが完成。
 黒の膝丈スカート。桃色のカーディガン。襟付きの白いシャツ。
 落ち着きと清楚な印象の中に、年相応の可憐さがある。……気がする。
 莉緒に着せたい服か。多分少し違う。これは私の中にあるあこがれの服。
 過去の私が着たかった服だ。
「荒れてたからなぁ、私」
 私が高校生の時に着たかった服。というよりは、大人になった私があの頃こんな服を着ていたら、なんて後悔している服。
 グレてしまった高校生活、こういった可愛い服を着て、まじめに友達と遊んで、生活を謳歌して。そうしていれば今は変わったんだろうか。
 佳晴に出会わなければ、今の私と違った私がいたんだろうか。
 そんな今を想像することなんてできないけど。
「麻里さん?」
「……びっくりした」
「麻里さん、一人でぼーっとしてること多いですよね。寝不足ですか?」
「それもあるかも」
「さっき雑貨の所にアロマありましたよ。少しは変わるかも」
「うーん。どうだろ」
 心配するように私の顔を下から覗き込む彼女に服を手渡す。
「これ、選んだ奴。気に入るかは分からないけど」
「ありがとうございます! じゃ、試着してきます!」
 嬉しそうにその布を受け取り、足早に試着室へ向かう彼女を見る。
 あぁ、自分のできなかったことを他人に押し付けるのはこういう気分なのか。
 そんな背中を見送りながら、口の中に自己嫌悪の味が広がった。
「……狡いなぁ、私」
 自責の念に捕らわれながら莉緒を追いかける。店の端、細い通路に試着室は備え付けられていて、私は壁にもたれるようにして彼女の着替えるカーテンを見つめる。
「ねぇ、莉緒」
「え? なんですか?」
 カーテンの一部が開き、莉緒がそこから顔だけを覗かせる。
「あ、いや。着替えてからでいいよ」
 声を掛けることに失敗し、私は彼女の衣擦れの音を聞きながら手持ち無沙汰に踵をトントンと壁に打つ。
 暫くして物音は無くなり、莉緒が着替え終わったことが分かる。鏡でも見ているのだろうか。静かになった莉緒に私はもう一度声を掛ける。
「莉緒」
「なんですか?」
 今度はカーテンが開かない。だから私はカーテンに話しかける。
「一つさ、提案があるんだけど」
「提案?」
「ん」
「なんですか? 今度は私が麻里さんの服選びましょうか?」
「そうじゃなくてさ」
 カーテンを凝視したまま、私は小さく息を飲む。
 そろそろ踏み込まないといけない。彼女の問題に少しでも近づいて、解決策を見出さなければならない。だから私は余計なお世話を口に出す。
「その服を着る時はさ。……ニット帽、被らない練習しない?」
 彼女はニット帽をかぶる理由を鎧だと言っていた。外部からの視線を弾く強固な心の鎧。それが何かと直結しているのかは分からないけど、いつまでも殻にこもっている訳にいかないだろう。
 人は慣れる生き物だ。殻を剥かれてから暫くは痛くて痛くて仕方ないかもしれないけど、どうせいつかは慣れていく。私がトラウマと寄り添って生きていけるくらいだ。きっとどうにかなる。
「どういう意味ですか?」
「意味なんてないよ。私のコーディネートにはニット帽が含まれてないってだけ」
「……なるほど。そういう事ですか」
「どう?」
「仕方ないですね。スタイリストには逆らえません」
「ありがと」
 莉緒は恐らく私の考えなんてお見通し。それでも私の案に乗ってくれるということは、きっと彼女も周囲からの目を克服したいんだろう。
 物音のしなかったカーテンの向こうで、小さな音と床にそれが落ちる音が聞こえる。
 そしてカーテンが開かれた。
「……どうですか?」
 帽子を取ったからか、それともスカートを履いているからか。少し恥ずかしそうに体を揺らす莉緒を見て胸に様々な感情を抱いた。
 今の私が過去の自分にしてほしかった恰好。その存在が目の前にいることに、きっと私は目を見開いてしまったんだと思う。それを見て恥ずかしがる莉緒は、すぐにカーテンを閉めてしまった。
「あ、ごめん。似合ってるよ莉緒。想像してた通り」
「……そうですか」
「気に入らなかった?」
「いえ、とても気に入りました」
「よかった」
「あの、これ、旅行に着て行ってもいいですか?」
「え? まぁ、いいけど」
「ありがとうございます。帽子を取る練習にもなるので。……じゃあこれ脱いじゃいますね。このままレジに行く訳にもいきませんし」
 分かったと伝えて私はまた壁にもたれる。深いため息が漏れ、慌てて口を押えた。

「お金は出すって言ったじゃないですか」
「プレゼントってことで、いいでしょ?」
「そりゃ、嬉しいですけど……」
 試着室から出てきた彼女が真っ直ぐにレジに向かったので、咄嗟に私が会計を済ませた。私の着たかった服を着せてしまった罪悪感があったのかもしれない。
 ただ彼女に何かを買い与えることで快感を得ている私もいる。なんでも喜んでくれるから、その顔を見ているとこっちも嬉しくなってくる。これは言語化するならばなんて言葉が適切なんだろうか。国語は苦手ではないけど、自ら表現するのは話が別。つくづく私は教師に向いていないのかもしれない。
「あ、麻里さん。これ」
「ん?」
 せめてものお礼にと、私の分の荷物まで両手に下げた莉緒がその荷物ごと腕を上げて何かを指差す。
「花火大会。八月九日って明日じゃないですか」
「そうだね」
「麻里さん、どうせ行かなそうですよね」
「莉緒も人込み苦手でしょ?」
「はい。私も毎年家から音を聞く程度でした」
「行きたい?」
 莉緒は少しだけ悩んで、首を縦に振る。
「麻里さんと一緒なら」
「じゃ、行こうか。それこそ夏って感じのイベントだし」
「麻里さん。夏の行事苦手じゃなかったんですか?」
「苦手だったよ。でもさ」
「でも?」
「莉緒と一緒なら参加しないと後悔するかなって。明日、眠るときに後悔しそう」
 莉緒は嬉しそうに笑う。
「それは仕方ないですね。後悔はしたくないですし」
「何年ぶりだろ。花火大会」
「私も。……って、まともに行くのは初めてかもしれません」
「え?」
「だからエスコートしてくださいね。麻里さん」
「人込みだから頼りにならないよ」
「まぁ、期待せずに期待しておきます」
「なんだそれ」
 笑いながら店内を歩く私たちの足取りは、毎日の輝きに弾んでいた。
「麻里さん。おはようございます!」
 目覚ましも鳴り始めぬ午前八時。私は莉緒の声で叩き起こされる。
 いつもよりも一時間近く早い起床に戸惑う私に、莉緒は身支度をしろと訴える。机の上には既に湯気の立つ朝食が並べられていて、私は目を擦りながら口にブドウ糖を入れた。
「で。これはなに?」
「なにとは?」
「なんで今日はこんなに朝が早いのかってこと」
「九時には家出ますから」
「は? どこに行くの」
 今日は夕方から花火大会に行く約束。花火なんだから早めに家を出たとしても夕方だろう。それ以前にどこかに行こうというのだろうか。
 それにしても急すぎる。朝になってから報告するなんて、私じゃなかったら予定が入っているかもしれないのに。
 これだから莉緒は。
 毎日忙しくて。唐突で。慌ただしくて。私の毎日を否応なしに色づけてしまう。
「で、どこ行くの?」
「花火大会って言ったら浴衣じゃないですか」
「……まさか、買いに行くとか言わないよね?」
「まさか。レンタルですよ。昨日帰りの電車で調べたんです。当日に着付けまでやってくれるレンタルのお店」
「予約とれたの?」
「はい。他の所より千円くらい高いお店でしたけど、何とか全日に予約とれました」
「昨日予約したなら昨日言ってよ。びっくりしたじゃん」
「サプライズと思って」
 数時間寝かせるくらいだったらその場で言ってくれても変わらないだろと思いつつ、口に朝食を運ぶ。
「ていうか、よく空いてたね」
「残念ながら朝一の回ですけどね」
 なるほど。開店直後だから予約が空いていたのか。朝から浴衣を着て、夜まで待ってるのはしんどいだろうし、分からなくもない。
「近いの?」
「電車で二駅くらい」
「じゃあ一人で行ってきなよ~」
 花火大会に行くんだから浴衣を着ないと始まらない。なんてことは莉緒が言いそうな言葉ではあるけど、わざわざ私が保護者役としてついていく必要もない。そもそも私には浴衣を着てほぼ丸一日を過ごす気合なんてない。
「何言ってるんですか。麻里さんも来るんですよ」
「だって私行っても莉緒が終わるまで待ってるだけでしょ? だったらこんな炎天下で外に出たくない」
「違いますって」
 莉緒は溜息交じりの呆れ顔を向ける。
 溜息をつきたいのはこっちだ。まさかな、なんて思考がよぎるが、そろそろ目の前の少女の考えも読めてくる。
「麻里さんも着るんですよ。浴衣」
 やっぱり。
「言ったじゃないですか。花火大会と言ったら、浴衣ですもん」
「私は着ないよ」
「残念ながらそう言うと思って、もう麻里さんの分も予約済みです。代金は私が持つんで安心してください」
「なんで……」
「誕生日プレゼント、パートワンです」
 今度はいたずらに成功した子供の様な笑顔。
 こうなった莉緒は止まらない。半月の共同生活で私が学んだのは彼女に対して諦めること。
 私は莉緒よりも大きな溜息を吐き出して、代わりに白米を飲み込んだ。

 夜の帳が下りはじめ、段々と藍に染まっていく道の上を少女が歩く。
 カランカランと鳴る足元には下駄。黒と深いえんじ色の浴衣には白の蔦模様。そして薄い桃色の帯。短い髪は結ってはいないが、外の風に揺れるその髪はそれだけで私の目には珍しい。
「大丈夫? 莉緒」
「え?」
 私の声に反応して彼女が振り返ると、その短い髪が揺れる。
「そろそろ人も多くなってきたし。きつくなったらすぐに言うんだよ?」
「なんですか、人を病人みたいに」
「だって、今日は帽子被ってないし」
「あー」
 照れくさそうに髪を手で弄りながらゆらゆらと揺れて見せる。左右にふわりと舞う髪を私に見せつけながら、どうですか? なんて聞いてくる。
「はいはい。可愛い可愛い」
「それ、浴衣への感想じゃないですか。そっちじゃなくてこっち。いつもは帽子に隠れてるんですよ? 何か感想とかないんですか?」
「だって家の中でいつも見てるし」
「つまんなーい」
 莉緒の髪は空の藍に溶けるように黒い。その黒は世界に漆を零したように黒く、白い肌を際立たせる。
 それに加えて、その黒は近くの街灯の光を反射して偶に輪のように光る。天使の輪って言うんだっけ? それがとても綺麗で、彼女に似合っていて、目を逸らしたくなる。
「どうしたんですか?」
「ううん。なんでもない」
「麻里さんこそ大丈夫ですか? 人込み、私ほどじゃないにしろ苦手でしょ?」
「私は大丈夫。今は慣れない格好をしてる緊張の方が強いから」
「似合ってますよ?」
「やめてよ」
 溜息をつきながら視線を下げるとそこにも見慣れない布が映る。浴衣なんて着たのはいつぶりだろう。ひょっとすると小学生の頃まで遡るかもしれない。浴衣に帯に下駄。占めてレンタルで六千円と少し。お金を払って窮屈さと辱めを受けるなんてとんだイベント。
 いざ会場に足を運んでみると、浴衣を着る人はそこまで多くなく、どこか浮いているように感じる。
 年の離れた二人が浴衣で歩いているのが目立つのか、それとも莉緒の顔が周囲の目を引いているのか、すれ違いざまによく視線を向けられる気がする。その度に自分が恥ずかしい格好をしているように思えて胸が跳ねて。きつく巻かれたさらしがそれを押さえつけて苦しくて。
 莉緒に乗せられて浴衣を着たことを後悔すらしている。
「そんなに機嫌悪そうにしないで下さいよ」
「正直もう帰りたい」
「何言ってんですか。大丈夫ですって、似合ってますよ」
「やめてって」
「綺麗ですよ?」
「だからやめてって」
 深い溜息をつく私を見て莉緒はからかうように笑う。そんないつもの構図が広がった時、けたたましい拍手と歓声が広がり視界が晴れた。
 慌てて空を仰ぐと、そこには大きな赤い花。
 少し遅れて鼓膜が大きく揺れ、夏を感じさせた。
「始まりましたね」
「始まったねぇ」
「どこか座れるところ、行きましょう?」
 頭上には続けて花が咲き続ける。オープニングの勢いは激しく、出し惜しみはしないと言わんばかりに鼓膜が振動を続ける。
 道に溢れた人たちは皆立ち止まり空を見上げている。
 前を行く莉緒は興奮を抑えきれない様子で、立ち止まる人間の間を縫いながら隙を見て空を見上げていた。その顔は子供の見せる表情そのもの。
 私はと言えば、そんな莉緒の顔を見ることも、空を見上げることもせず。ただただ人にぶつからぬように前だけを向いて歩き続ける。
 目的地を目指すようにただ前を見て歩く。それしかできない。
 だって。
 その少女の顔も、その空の模様も、私にはまだ眩しかったから。

 すこし歩いて私達は会場から少し離れた公園に腰を下ろした。
 手には屋台で買った焼きそばとりんご飴。それによくわからない光る剣のおもちゃ。
「屋台の食べ物は高いって言って買わないタイプかと思ってた」
「逆に高いからいいんじゃないですか。特別って感じがします」
「そのおもちゃも?」
「はい。ちょっと気になったので買っちゃいました」
「子供っぽくて莉緒と印象違うかも」
 見た目の幼さには似合ってるけど。
「こういうの、いいじゃないですか。その瞬間だけ価値のあるものってあると思うんですよね」
「あー。修学旅行のお見上げとか」
「そんな感じです。きっとこれも今日が終わればただのゴミになっちゃうんですけど。それでも、あとでふと出てできた時に今日の事を思い出すきっかけになるじゃないですか」
「そっか」
 プラスチックの剣を空に掲げてスイッチを押すと、赤と緑に安っぽくチカチカと光る。
 きっと私も小さな頃はこれを見て憧れを持ったのかもしれない。だってお祭りの場ではこの玩具はなによりも高価で無価値で。持っている男子はきっと人気者だった。
 今ではもう、思い出せない感情。
 夏の空気を胸いっぱいに吸い込んで伸びをする。浴衣はきつくて苦しいが、袖の隙間に流れ込む空気は心地よかった。八月の風に僅かな火薬の香りを感じながら空を見上げると、また一発の花火が打ちあがる。
「ゆっくり花火を見るの。本当に久しぶり」
「麻里さん、お祭りに来るイメージ無いですもんね」
「うん。子供の頃から来なかったなぁ」
「親と一緒にお祭りとか行かなかったんですか? 私、あんまりそういう記憶なくて。みんな普通はそうやって行くんだと思ってました」
 小さく体を跳ねさせて、考える。
 もう隠さなくてもいいか。
 別に大した話じゃない。私のほんのちょっとだけ普通とは違う家族の話。それでも、どこにだってある特別ではない家族の話。
「じゃあ、私も莉緒と同じ、普通じゃない人なのかも」
「え……?」
 私の切り替えしに莉緒は私の顔を見る。不安そうに歪む目は、私の地雷を踏んでしまったのか不安になっている目だろう。ちょっと言い方を間違えたかもしれない。
「ごめん。変ないい方しちゃったかも」
「え、いや……」
「私のお父さん、私が小さい時に死んじゃって。だから、こういうイベントってあまり来たことないのかも。それこそ、屋台の食べ物は高いから勿体ないなんて思ってたし」
 私の口角はへらへらと上がり、喉は次々に言葉を並べる。
 気を使って欲しいわけでもないけど、伝えたら気まずくなる話だ。いつもなら極力避ける話題を出すと、こうやって口が回るのか。
 まるでいつもの莉緒みたい。
「え、あ、ごめんなさい」
「いいのいいの。もう何年も前の話だし。もう慣れちゃったから。ただ莉緒には話してもいいかなって思っただけ」
 本当に大した話じゃないんだ。
「えっと、なんて言えばいいのか分からないですけど。じゃあ、気にしません。……ありがとうございます」
「お父さんが亡くなられた原因とかって、聞いてもいいですか?」
「え?」
「あ、ごめんなさい。不謹慎ですよね。忘れてください」
「ううん。ちょっと病気でね。私が小学校に上がる頃にはもう入院してたから、パパとの記憶はまともな記憶は全部病院の中なの」
 春も夏も秋も冬も。あの人の記憶には病院の消毒液の匂いが付きまとう。
 その匂いは私からすれば父親の香りで、小さい頃は大好きで。それから少し経ってからは大嫌いな匂い。
 あの清潔すぎる白は、私から大切な物を奪う匂い。
「パパ……?」
「え?」
「いま、パパって」
「言ってた?」
「はい」
「うそ。恥ずかしい」
「可愛いですね。麻里さんのイメージと違ってビックリしました」
「……忘れて。ちゃんとした記憶が昔のばっかりだから呼び方まで戻っちゃったんだ」
「良いじゃないですか。それもいい記憶ですよ」
「……そうだけど」
 話してしまえば簡単な過去。
 今では丁度今の時期。お盆の季節にしか思い返すことのない記憶。
「じゃあ、実家に帰らなきゃならないじゃないですか」
「そうなんだよね。でも、今年は莉緒もいるしさ」
「それは駄目ですよ」
「なんで」
「なんでって、お父さんが悲しむからに決まってるじゃないですか」
「莉緒ってそういう考え方するんだ」
「そういうって?」
「なんかもっとドライな考え方すると思ってた」
「失礼ですね。怒りますよ?」
「だっていつも淡々と話すから」
「それは当事者だからです。でも、残された方はまた別ですよ。それに忘れられたら寂しいじゃないですか。私だって死んだらお盆くらい会いに来てほしいですもん」
 一切私の方は向かず、打ち上げ花火を見上げながら莉緒は話す。
 また一つ、莉緒という人間を知ることができた気がした。
「ごめん。行かない言い訳に莉緒を使っただけ。本当はあんまり行きたくないの」
「なんでですか?」
「……気まずくて」
「お母さんと仲悪かったりするんですか?」
「まぁ、そんな感じ」
「じゃあ、今まで大変だったですね」
 そっと頭を撫でられるような言葉に驚きながら、私はゆっくり首を振る。
「ううん。私が悪いの。……昔は仲が良かったんだ。お父さんが死んでからは特にね。二人で生きて行かないとって思ってたし、お母さんは私が守らなきゃって思ってた。だから将来お母さんを楽にしてあげるんだなんて思って沢山勉強してたし、性格も生真面目になっていったし。こう見えて昔は優等生だったんだよ?」
「にわかには信じられませんね」
「でしょ?」
 二人でクスクスと笑う。
「でもさ、丁度高校受験モードでピリピリしてた頃、お母さんに知らない男を紹介されてさ。その時なんか糸が切れちゃって。あー、この人は私の助けなんて必要なかったんだって考えちゃったら、もう何もできなくなっちゃったの。それで、結構荒れちゃった」
「それで煙草も?」
「……よく覚えてるね」
「煙草を吸ってる麻里さんが想像できなくて、ずっと違和感だったんですよ。今度、吸ってみてください」
「なんか恥ずかしい」
「あとでせがみますね」
 無言が続いて私は言葉を探すために空を見上げる。沈黙が生まれないこの場は良い。空を見上げるだけで、会話に待ったがかけられる。
「その、新しいお父さんとは?」
「ずーっと気まずい関係。一番荒れてた時からのスタートだからね。色々と迷惑もかけちゃったし」
「優しい人なんですか?」
「うん。優しいって印象が筋肉つけて服着て歩いてるような温厚な人。体が大きいんだ。それが昔は怖かったってのもあるけど」
「……やっぱり帰りましょうよ。実家。なんか今の麻里さんならそのお父さんとも話せそうですよ?」
「……そうかな」
「まだ一カ月も一緒にいないですけど、私にもわかりますもん。麻里さんすごく変わりましたよ? 今までできなかったこともできちゃうくらいには変わりました」
「莉緒が言うと本当にそんな気がする」
「それでも不安なら裏技を教えちゃいます」
「裏技?」
「はい。ノートに書くんですよ。お父さんと打ち解けるって。そうすれば絶対に叶います」
「莉緒らしい」
 未来を作る魔法のノート。莉緒の後押しがあれば、その奇跡を信じ切れていない私でも、逃げ道を断つくらいには役立ちそうだ。
「善は急げですよ。もうすぐお盆は終わっちゃいますけど、墓参りに期間なんてありません」
「……そうだね。じゃあ、来週にでも帰ろうかな。実は母親からいつ帰ってくるのかってメール来てるんだ」
「それなのに帰らないつもりだったんですか?」
「まぁ、毎年何かしらの口実をつけては逃げてたから」
「……帰るの何年ぶりですか?」
「社会人になってからは帰ってないかも」
「ちゃんと帰ってください! というか帰りなさい!」
「はーい」
 もう一人の母親ができたかのように叱られる。それがどこか心地いい。
 ここ最近帰省が頭にチラついていたから、丁度いい機会だ。
 お父さん……パパの墓参りと。それと、佳晴の墓参り。
 パパのは数年ぶりだけど、もう片方は本当にいつぶりか分からない。
 存在を頭から追いやっていたくらいだ。それが墓参りに行こうと思うようになったのはそれこそ奇跡だろう。
 最近夢に出てくることに対して文句の一つや二つ言ってやりたい。
 びっくりするかな、あいつ。
 あの能天気な顔に冷や水を浴びせられるなら、楽しみだ。なんて、緊張を誤魔化す為に自分で自分に虚勢を張ってみたり。
「どうしました?」
「ううん」
 莉緒が私の顔を覗き込む。
 私はそれから逃げるように空を見上げた。
 莉緒の顔を直視できなかった。私を暗い闇の奥から引っ張り上げてくれた彼女を見るのが、気恥ずかしい。
 多分それは今、心の底から彼女に感謝してしまっているから。
 そして逃げた視線の先で見る花火は、プログラムの一部の終盤に差し掛かり、夜空を埋める程に咲き乱れる。
「綺麗……」
 夜空に咲く花々に私の視線は釘付けになる。
 まるでそれに吸い込まれるように、私の網膜は日の花に焼かれた。

 赤に緑に金。頭上に数々の花が爆音を轟かせながら咲いては、すぐに枯れてく。
 炭酸ストロンチウムに硝酸バリウムにチタンの合金。高校化学の範囲である炎色反応の応用。受験期に興味本位で調べた知識を今でも覚えている。
 昔、父親と一緒に見た花火は、それをただ本当に空に咲く火の花だと認識して、綺麗な物というカテゴリに分類していたのに。いつからかそこに不純物のような知識が混入してしまった。
 毎年毎年、その美しいはずの花に感動を覚えなくなっていく自分を客観視して、こうして人間は大人になるんだなと感想を持っていたことを覚えている。
 毎年、そうだった。
 そうだった、はずなんだ。
 花火の音を聞いても心は跳ねず。祭りが開かれても足は向かわず。
 地域の盛り上がりなんて私には一切関係なくて、その日はただ過行く日々の一部でしかなかった筈なのに。
 今年は無性に胸が騒がしい。
 鼓膜が強く震える度に、心臓が呼応する。
 網膜が炎に焼かれる度に、感情が躍る。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
 不意に空を見上げる莉緒が口を開く。
 その声は破裂音の間に生まれる闇に見事に溶け、はっきりと私の耳に聞こえた。
「綺麗ですね」
 視線は空の黒に向けたまま、唇だけを滑らかに動かす。
 薄暗い中で動く彼女の横顔を見つめる。
 そしてもう一度花が咲き、空が光り、彼女の輪郭が明瞭になった時、私は息を飲んだ。
 あぁ、そういう事か。
「綺麗」
 咲いて。鳴って。散って。
 それは派手で華々しくて、そして儚げで。
 もう一度空に咲いた花に私ははっきり「綺麗だ」と感想を持った。
 この感情を私は知っている。
 息が止まって、心拍数が跳ね上がって。そして熱が生まれる感情。
 空に浮かぶ花は、目の前の少女に似ている。
 空に浮かぶ花は、彼女が一生懸命に燃やす彼女の命に似ている。
 だからこれ程までに惹かれ、胸を抉るんだ。
「花火みたい」
「なにがですか?」
「莉緒が」
「私ですか?」
「莉緒は、花火に似てる」
「そうですか?」
「うん」
「あー。でも、わからなくもないです」
「不服?」
「まぁ、でも、あんなふうに死ねたら本望ですね」
 莉緒は笑う。
「高く飛んで、空高く舞い上がって。そしてこの上なく綺麗な花みたいに死ねたら。私は、うれしい」
 瞬間。今日一番に高く花火が打ち上げられる。煙を尻尾のように伸ばしながら高く高く舞い上がる。
 そして、夜空に赤い花が咲いた。
 大きな花弁を広げて華々しく一瞬の命を誇示する。
 その激しい激しい爆発は刹那の沈黙を掻き消すように、最後の存在証明を響かせる。
「綺麗……」
 無意識に私はその花に手を伸ばした。
 一瞬で燃え尽きてしまうその儚く激しい花に手を伸ばす。
 ただ、私の左手はその熱を掴むことは出来ずに、夏の空気をかき混ぜた。
「麻里さん……?」
 気が付けば私の目からは一筋の涙が伝っていて、慌てて右手の指でそれを拭う。
「ねぇ、麻里さん。……大丈夫ですか?」
 私は虚しく散った空の花と、隣で咲く激しい命、その両方に目を向けることが出来なくて、その場で静かに視界を手の平で覆った。
「大丈夫。ちょっと、眩しかっただけ」
 感情を落ち着かせようと大きく吸い込んだ空気からは、確かに夏の匂いがした。
「やっと着いたー」
 電車を降りると、世界は蝉の音で充満している。心なしかいつもよりもその声が激しく聞こえるのは緑の深い場所に来たという気持ちから来ているのだろうか。
 電車を乗り継ぐこと三時間。
 目の前には「箱根へようこそ」なんて大きな看板が構えられている。
 周囲には観光客と思われる人間しかいない。ホームを見回すとまさに観光地らしく、様々な施設の広告が並んでいる。その延長でふと隣を見てみると、長旅に少々疲れ気味の莉緒が汗を拭っていた。
「大丈夫?」
「はい。こんなに電車に乗ったの、久しぶりだったので、ちょっと疲れちゃいました」
 家を出る頃のウキウキと弾むような顔はもうなく、萎れた花のように芯の無い立ち姿の莉緒は笑う。
 温泉街だったら正直どこでもよかった。温泉に入って宿でゴロゴロして、そんな非日常を味わえればよかったから、行き場所は莉緒に任せてしまった。莉緒は熱海と箱根とその他何か所で迷っていたが、探した宿のホームページが気に入ったとかそんな感じの適当な理由でここに来ることになった。
「とりあえず行こっか」
「はい」
 左手首の腕時計が示す時間は午後一時。予定は軽くしか決めていない。
 とりあえず駅前で適当にお昼ご飯を済ませて、どこかへ観光へ。宿のチェックインは五時ごろ。それまで適当に見て回って、って。結局全然予定決まっていないじゃん。
「莉緒、お腹空いた?」
「麻里さんは?」
「微妙」
「私もです」
 ふらふらと駅から出ると辺りには饅頭やらかまぼこやらのお土産が並ぶ店が並ぶ。箱根って何が有名なんだろう。調べておけばよかった。
 駅前に人はいるもののメインの商店街ではない寂しい雰囲気がある。ここの駅の数駅前で一気に人が電車から降りる場所があったからそっちが箱根の核となる駅なんだろう。莉緒がここで降りると言っていたから何かしら理由はあるんだと思うけど、それにしてももう少し賑わいがあってほしかった。折角の旅行だし。
「お昼ごはんどうしよ」
「麻里さんが大丈夫なら私は後でも」
「でも、山の方行ったら飲食店なさそうじゃない?」
「流石にあるんじゃないですか? 観光地だし」
「じゃ、先に観光回っちゃおうか」
「はーい」
 莉緒は携帯を弄りながらうんうんと唸っている。これから観光に行く場所も実は莉緒に一任している。莉緒の行きたいところに、と言えば聞こえはいいが、実際は私が面倒臭いだけ。
 予約した宿が山を登った先だったから、そっちの方角に進むことしか知らない。
「私、行きたいところがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ。莉緒に任せる。近いの?」
「まぁ、そこそこです」
「どんなとこ?」
「ガラスの美術館らしいです」
「へぇ」
 美術館か。旅行先の珍しい美術館に行くのは、旅行の醍醐味と言えるかもしれないが、ガラスの美術館とはまた面白い。有名な作品が展示されているのか、はたまたガラスの歴史をなぞる美術館なのか。知識欲が僅かに疼く。
「そこでいいですか? バスでニ十分くらいらしいですけど」
「うん。いいよ」
「まぁ、美術館の最寄り駅で降りたんでそこ以外に行く場所もないんですけどね」
「だろうと思った」
 自販機でお茶を買ってからバスの待機列に並ぶ。列にはそこそこの人が並んでいて、皆照り付ける太陽に汗を滲ませていた。
 
 現地に到着してみると期待以上に施設は広く、予想以上に人で賑わっていた。老夫婦や若いカップルに紛れてちらほらと子供の姿も視界に入り、夏休みを感じさせる。
 入ってすぐに大きな池を取り囲むような庭園が広がる。水辺に掛かる橋やアーチ状のモニュメント。そして緑と共に並ぶガラスのオブジェ。
 視界を揺らすたびに必ず視界のどこかがキラキラと光る。そんな幻想的な空間の中を歩く。
「正直ここまで期待してなかったかも」
「そこそこ有名みたいですよ? ここ」
「莉緒、こういうの好きなの?」
「まぁ、見るのは」
 生返事が返ってくる莉緒を見てみると、空間に広がるガラスの煌めきを瞳に映したような眩しい目で辺りを見回している。相当気に入っているらしい。太陽が私達の肌を焼くがそれもお構いなしに、ゆっくりゆっくり足を進める。
 室内に入れば、また雰囲気は打って変わった。先程までの庭園では子供の声が環境音に交じっていたが、一度屋根の中に入るとコツコツと鳴る足音だけが響く様な空間が広がる。やはり子供には美術館はつまらないものなのだろうか。視界にも子供は映らない。
 作品は壁に掘られたショーケースの中に展示されている。建物自体も作りが凝っていてまるで海外の教会にいるようだった。
 アーチ状の梁のようなものが天井に掛かっていて、実際展示には関係ないであろう箇所に興味が引かれる。ヴェネチアングラスって書いてあったし、建物もイタリアを意識しているのだろうか。やはり専門性の必要となる分野は難しい。私の浅い知識では何も分からない。
「ねぇ、麻里さん。なんかここでバイオリンのコンサートあるらしいですよ」
「今日? 偶然」
「いや、なんか夏休み中はほぼ毎日やってるっぽいです」
「なんかありがたみが薄れた」
「ごめんなさい」
「有名な人なのかな」
「わかんないですけど、調べてみます?」
「別にいいや。時間は?」
「あと少しで始まると思いますよ。この建物の中の小さいホールでやるみたいです」
「行く?」
「まぁ、せっかくなんで」
 美術館を進んでいくと視界の開けた空間に出る。と言ってもそこまで広い場所ではない。三階建てのデパートの吹き抜けくらいの大きさだ。美術館の内部で壁や天井は不規則に曲がっていて、素人目でも良い環境ではなさそうだと分かる。
 無料のコンサートに文句を言っても仕方ないが、観客は結構な数いるようで。設けられた椅子やベンチに入りきらず、立ち見の客もちらほらと目に入る。みんな一様に期待に胸を膨らませている様子なので、つられて私も少し期待してみたり。
 私達はあまり人のいない壁際によって遠目からそれを見る。暫くすると美術館のスタッフの司会セリフと共にバイオリンを持ったふくよかなヨーロッパ系の男が登場した。挨拶もほどほどに演奏が始まり、私はそれに耳を傾ける。
 お世辞にも音楽を聴く方ではない私には音の違いは分からなかった。それでも流石プロだなと思うくらいにはその音は私の琴線に触れる。生のバイオリンを聞く機会なんてそこまで多くない。いつしか私は目を閉じてその空気の振動に身を預けていた。
 三十分程の演奏が一瞬のように過ぎ去った。終わってみればそれは心地よい時間で、始まる前は少し長いなと感じたそれも、もう少し延長しても良いと思える時間だった。
「よかったですね~」
 それは隣の少女も同意見だったようで。
「私バイオリンの演奏生で見たの初めてです! 空気って震えるんですね」
「気に入った?」
「はい! 目で見て楽しんで、おまけで耳で楽しませてくれるなんてすごいお得感です」
「言われてみればそうかも」
 美術館の順路を進みながらする会話はどことなく明るい。芸術に触れるとテンションがお互いに上がるらしい。
「麻里さん、お腹すきました?」
「んー。まぁ、ほどほどに?」
「さっき外の庭園の端に」
「あったね。レストラン」
「ちょっと高そうでしたけど、この際、味覚もって考えちゃう私は欲張りですかね」
「すっごく欲張り。でも、私も同じくらい欲張りかも」
「どんな感じの店なんですかね」
「美術館がこれだからイタリアンじゃない?」
「最高ですね」
 
 それから私達は少し高めのレストランに移動し、少し贅沢をしたランチを食べ。おまけに食後の珈琲なんかも頼んじゃったりして、旅行という非日常を楽しんだ。
 食後にふらふらと園内を散歩してみたり、お土産を覗いてみたり。
 お土産コーナーはかなり広く、三階建ての建物全てがそれにあてられていた。三階ではリアルタイムにガラス細工職人がその技を見せており、高熱のバーナーとガラスの棒が見る見るうちに芸術品になっていく過程に私達の口は塞がらなくなったり。そんな光景を見せられれば財布の紐も緩むもので、その後私達は別々に買い物を始めた。
 私は来週急遽変えることになった実家への手土産として、ガラス細工と関係があるのかは知らないが綺麗なボトルに入った酒を一本買った。酒の置かれる場所の近くは比較的高価な物が並んでいて、ショーケースに並ぶアクセサリーなんかも目に入る。
 綺麗だけど私が付けてもな、なんて思いながら見ていた筈なのに、気が付けばこれは莉緒に似合うだとか、莉緒に付けてほしいだとか、そんな考えに変わっていて笑ってしまう。
 莉緒はアクセサリーとか嫌がるだろうな。
 そう思いながらも私は悪戯心半分に、ショーケースの端にある比較的安いものの中から莉緒に似合いそうなイヤリングを買った。
 主張し過ぎない小さくて透明のガラス。
 店員さんに包んでもらったそれを丁寧に鞄にしまい、私は何気ない顔で莉緒と合流した。
「この後どうするの?」
「今何時ですか?」
「もう少しで四時」
「じゃあもうチェックインは出来ますね」
「ようやく温泉だ」
「麻里さん、すぐ宿に行きたいですか?」
「どうして?」
「いや、実はなんですけど、ここの近くにある場所にちょっと寄ってみたくて。そんなにいるつもりはないのでちょっと見て終わると思うんですけど」
「別にいいよ。どこ?」
「ここから歩いてもいける所なんですけどね……。えっと」
 なぜか莉緒は恥ずかしそうに私から視線を逸らす。
 恥ずかしがる莉緒が珍しくて、私はそれを覗き込むように腰を曲げる。
「なんでそんなに恥ずかしがってるの?」
「いや、ちょっと、なんか言いづらくて」
「なにそれ」
 私がケタケタと笑うと、莉緒はそれに怒るように小さく頬を膨らませながら、私を上目遣いで見上げる。
「……麻里さんは、星の王子さまって読んだことありますか?」
「え、なに? もう一回」
「星の王子さま」
 一切予期していなかった場所からの話題を唐突に出されて私は軽く混乱する。
「えっと……。星の王子さまってあの学級文庫とかによく置いてあるやつ?」
「はい。サン=テグジュペリの星の王子さまです」
「作者の名前は覚えてないけど、読んだことはある気がする。それこそ小学生の頃だけど」
 最後まで読んだかは覚えていないけど。なんとなく覚えてる。小さい星の王子さまが色んな星に行って色んな人と話す話。内容もほとんど覚えていない。
「で、その星の王子さまがどうしたの?」
「えっと……。ここの近くにそれのミュージアムがあるんですよ」
「それに行きたいと」
「麻里さんがいいなら」
 なぜかいつもと違いやけに低姿勢な彼女に笑みがこぼれる。
「私が駄目っていうことなんて滅多にないでしょ」
「でも、早く温泉行きたいかなって」
「莉緒が行きたいところあるなら任せるって。ほら、私って主体性ないし」
「そういえばそうでしたね」
 じゃあ、行きましょうと莉緒の顔に活気が戻る。この旅行のプランニングが強引だったから私に遠慮しているのだろうか。
 あ、もしかして私が明日誕生日だから気を使ってくれているのかも。この旅行も元はと言えば私の誕生日を祝うなんて名目だった気がするし、ありえなくはない。
 そんな気使わなくていいのに。
 一足先に外に出る彼女を追うように私もエアコン下の室内から出る。蒸し暑い空気と鋭い日差しが私を襲うがそんなことお構いなしに莉緒についていく。
 視界はキラキラと光り、彼女と歩くその道はまるで夢の世界の様だった。

 ガラスの美術館から歩いて数十分。目的の園内に入ると周囲は西洋の街並みに変貌した。作者はフランスの出身だという事を莉緒から聞き、この街並みもフランスの再現なんだろうかなんて考えながら見上げてみる。石造りの家や井戸、教会なんかが並び、それに隣接するようにヨーロピアンガーデンなんて書いてある庭園が広がる。閉園時間まで一時間と少しとなった園内には人影は少なく、異国の地に二人で降り立ったかのような感覚だった。
「好きなんですよ」
「星の王子さま?」
「恥ずかしくて誰にも言えないですけどね」
「恥ずかしくはないでしょ」
「だってなんか。幼く見えないですか?」
「そんなことないよ」
 ここまで足を踏み入れても作品の内容はほとんど思い出せない。園内には作品に登場するキャラクターの像がいくつか点在したけれど、それを見ても誰だかはっきりとしない。
「なんかごめんなさい」
「なにが?」
「つまらないですよね。私だけはしゃいじゃって」
 興奮を押し殺すようにして私のテンションに合わせていた彼女が申し訳なさそうに口にする。
 そんなにつまらなそうにしていただろうか。顔に出てしまっていたなら申し訳ない。
「もう話の内容も覚えてないからなぁ。ここに来るならもう一回読んでおけばよかった」
「ごめんなさい。私もここを知ったの今日の朝だったので」
「ううん。大丈夫。分からなくてもそれなりに楽しめるから」
 私は西洋風の町中を見回す。作品を知らなくてもこの雰囲気だけで充分楽しめる。
「でもそれじゃ……」
「あ、じゃあさ、莉緒が解説してよ。どうせ客もそんなにいないし、迷惑にはならないでしょ」
「それいいですね。賛成です」
 私は運よく無料の案内人を雇い、そのままふらふらと園内を歩く。
「麻里さん、この話ってどれくらい覚えてますか?」
「うーん。ほんとにほとんど覚えてないよ。小学校の低学年じゃないかな、読んだの。それこそ学校に置いてあったのを読んだ気がする」
「例えばどんなキャラクターが出てきたなとか」
「主人公? でいいんだっけ? 砂漠に飛行機が墜落した人。その人と星の王子さまが会話をする内容だったのは覚えてる。王子さま、地球に来るまで色んな星を渡り歩いてきたんだっけ。内容は覚えてないけど」
「結構覚えてるじゃないですか」
「そう? 実は記憶力はなぜかいい方なんだ」
「それはにわかに信じられないですねー」
 これでも結構いい大学を出てるんだけどなぁ。なんて面倒臭い返しをしてみても、莉緒は鼻で笑うように私の記憶力に首を振った。そんなに頭いいイメージ無いのかな。私。
「あ、この人とか分かりません?」
 敷地の端にある小さな教会に向かうと、いくつかのキャラクター像が出現した。机に座って怖い顔をしている男と、棒を持っている男、かな。
「全然わかんないや」
「星の数をただただ数え続ける男と、灯台の火をただただ点けたり消したりしている人です」
「……そんな話だったっけ?」
「そうですよ。二人とも違いはあれど使命に捕らわれてしまった人達」
「なんかもっとファンタジーな世界観だと記憶してた」
「小学生が読んだらファンタジーに読めるんじゃないですか?」
「そうかも。よくあるもんね。大人になってから読むと意味が変わってくるやつ」
「多分この作品も同じ類だと思いますよ」
 夏が終わったらもう一度読んでみようかなと思いながら、そのキャラクター達の像を見る。花壇の中に浮かぶ彼らはお世辞にも幸せそうな顔をしていない。
「莉緒はこのキャラクター達、好きなの?」
「……どうでしょう。物語の登場人物としては好きですけど。キャラクターとしてはそうでもないかもです」
「なにそれ」
「伝えたいことは色々とあるとは思うし、物語的には仕方ないとは思うんですけど、ただそういうキャラクターだって言われても、朝から晩までその仕事を全うしてる彼らが私は可哀想に見えちゃうんですよ。憐れんだ目で見ちゃいます。だってこの人達の生活は私から見たら幸福とは呼べないんですもん」
 莉緒の感受性は高い。これまでの生活からも十分にそれは分かる。必要以上に考えて、必要以上に感情を起伏させて。それでこそ彼女だと言えるのかもしれないけど、やっぱり隣で見ている私からは生き辛そうだななんて感じてしまう。
「このキャラクター達はきっと、私に似てるんだろうね」
「……はい。私にはそう見えました」
「そのさ。本編ではそうやって何かに縛られてるキャラクターに王子さまはなにか言及したっけ?」
「たしか、してたと思いますよ。特に星を数えるだけの人には辛辣だった気がします」
「そっか……。じゃあやっぱり少し可哀想だね」
「強く言われたからですか?」
「ううん。王子さまはその人達にその後なにもしてあげなかったから。……なんとなく覚えてるんだ。あの王子さま、行く星々の問題は解決してないよね。私さ、小学生にしては大人びた考え方してたんだと思う。当時、王子さまのこと無責任だなって思ってたもん」
「確かに。言うだけ言って去っていきますもんね。そういう見方をすればそうかもです」
 私は止まっていた足を前に進め、二人のキャラクター像から離れて小さな教会へ向かう。莉緒はそんな私の背中を慌てて追う。
「だったら私はこのキャラクター達より幸せだよ」
 恥ずかしい台詞だったから莉緒から私の顔が見えない今がチャンスとばかりに呟いてみる。
「どういうことですか?」
「私の星に来た王子さまは無理やり私を変えてくれたから」
 違う価値観を提示されるだけされたこのキャラクター達は王子さまが去った後にふと自分の生活のことを考えてしまうかもしれない。今の自分が幸せかそうでないのか。考えるだけ無駄なことが頭にチラついてしまうかもしれない。それまで無知なりに幸せだった彼らにとってそれは不幸でしかない。
 だったら私はきっと幸せな方。
「私、ですか」
「だって私、変わったもん。最近自覚できるくらいには、変わった。莉緒に変えられた」
「夏が終わったら私はいなくなっちゃうんですよ? それこそ無責任です」
 不安げに呟く莉緒の声は沈んでいる。多分俯いているのだろう。
 そんな彼女に私はまた熱い感情を抱く。
 恋心の様でそうではない。でも多分、幼い私だったら勘違いしていただろう程に恋心に近い感情。
 むずがゆくて、こそばゆくて、温かい感情。
 私は莉緒にもっと恥ずかしい台詞を吐きたくなって、くるりと体を反転させる。背景に教会を背負って放つこの言葉は少し重いかもしれないけど、なんだか今の気分にはぴったりだった。
「じゃあ、もっと私を変えてよ。莉緒がいなくなっても、その後に私が幸せだって思えるくらい、私を変えて」
 告白のような言葉に莉緒は目を見開く。
 そしてすぐにその目を逸らした。
「これ以上麻里さんに踏み込んでいいんですか?」
 私はその言葉に迷うことなく、首を縦に振る。
「莉緒になら、いいかなって」
「私気付いてますよ? 麻里さんまだ大きいものを私に隠してる。それを私に見せちゃったら、きっと傷だらけになっちゃいます。きっとすごく痛いです。それでもいいんですか?」
 私はまた頷く。
「多分私のこれはさ、この先の人生を考えても莉緒にしか話せないんだと思う」
「そんな大層な人間じゃないですよ」
「大層な人間だよ」
 莉緒は驚いたような顔をして溜息をつく。
「なんか今日の麻里さん、いつもと違います」
「旅の恥はなんとやらってね」
「それ使い方あってます?」
「まぁ、雰囲気は?」
 莉緒は長い溜息をつきながら私の隣を通り抜けて教会へ入る。
「やっぱりさっきのキャラクター達、麻里さんに似てます」
「なんで?」
「だって王子さまが彼等に抱いた台詞が今、そのまま引用して私の気持ちになりますもん」
「それってどんな台詞?」
 教会の中に入った彼女の頭上には小さなステンドグラスの窓がキラキラと輝いている。それに負けないくらいの美しさで彼女も笑っていた。
「大人って、何を考えてるんだか、ほんとにわからないなぁ」
「疲れましたぁ~」
「そうだね~」
 二人並んでベッドに倒れ込む夕方。窓から入る日差しは橙色。顔を埋める枕はいつもよりも柔らかい。
 莉緒の予約した温泉宿は正面玄関の風格から高級という二文字が相応しい雰囲気を放っていて、一度宿の名前を確認してしまう程だった。勿論客への対応もそれ相応のものを準備されていて、接客に慣れていない私達はびくびくしながら部屋へ案内された。
 この宿の中では恐らく一番小さいであろう二人部屋。普段の私の部屋よりも小さい部屋だが、流石はリゾート地。そこに狭さは感じられず寧ろその纏まった空間に安らぎを覚える。茶色に統一されたフローリングの一室にはソファにテレビ、ダブルベッドが置かれ、大きく開かれた窓からは箱根の緑が広がる。
 ベランダに出ればこの宿の目玉ともいえる備え付けの客室露天風呂。私達は真先にベランダに出てその檜の箱に興奮し、一通り室内を見て回った後こうしてベッドに倒れ込んだ。
「麻里さんへとへとじゃないですか」
「莉緒に言われたくない」
「二十超えると下り坂って言いますもんね」
 とりあえず寝転がったまま莉緒の足に蹴りを一発お見舞いする。
「いたーい」
「私まだ若いから」
「まだ若い人は年のこと言われて人のこと蹴ったりしないですよ」
「うるさい。そもそもその下り坂の人間と同じ体力してる若者ってどうなの」
「なんか最近体力なくなってきちゃって」
 ミュージアムを出てからは顕著にそれが表れていた。疲れを感じ始めた私の横で息切れしていたくらいだ。何度か心配したがその度に大丈夫だと言うのでそのままにしたけれど、やはり体調でも悪いのかも。
 振り返れば昨日の花火大会も疲れていたように見えたし、最近の朝の散歩もそう言われてみればと思うところがある。先入観の方が強いかもしれないけど。
「夏バテ?」
「んー。どうなんでしょ。私夏バテってなったことないんですよね」
「怠くなったり食欲がなくなったり?」
「じゃあ、麻里さんは年中夏バテじゃないですか」
「そうやってすぐ誤魔化すんだから」
「別に誤魔化してはないですけど……」
 莉緒は体を捩らせながら短い脚で私の足を弱々しく蹴り返す。彼女の裸足が私の太ももに当たり、それがひんやりと冷たかった。
「麻里さん温泉入ってこないんですか?」
「私?」
「だって、ずっと入りたがってたじゃないですか」
「まぁ、そうなんだけど。莉緒は?」
「えっと、私は……。いいかなって」
 申し訳なさそうに声を小さくする莉緒に驚く。折角箱根まで来て温泉に入らないなんて、メイン料理を食べない様なものじゃないか。
「なんで?」
「いや……」
「やっぱり体調悪い?」
「えっと」
「生理?」
「……躊躇いなく聞きますね。恥ずかしながらそれも理由の一つではあるんですけど」
「わざわざ私の誕生日に合わせたの? 温泉入れなかったら元も子もないじゃん」
「違うんですよ。いつもならもう終わってるんです。なんか偶々長引いちゃって」
「あー」
 それに関しては何とも言えない。運が悪いと言ってしまえばそれまで。
 彼女の体調が悪いのもそれに関係しているんだろう。
「って、それだけじゃないですから。そもそも私、長引いてなくても温泉には入ってなかったと思いますし」
「なんで」
「……温泉、慣れてないんですよ」
 隣を見てみると、莉緒は顔を枕に埋めている。声が籠って聞きづらい。
「こういうとこ、あまり来ないの?」
「あまりっていうか、ほとんど行ったことないです」
「それで恥ずかしいってこと?」
「……まぁ、そうです」
「なにそれ可愛い」
「馬鹿にしないでください。……他の人の裸とか、ほとんど見たことないんですよ。だからなんか怖くて」
「見たことないって……」
 たまにそういう子もいる。高校教師になって最初の年、引率としてついて行った泊まり込みの学校行事でそんな小さなトラブルを経験したこともある。その時は特別に教師陣の入浴時間にその子を招いたんだっけ。教師に見られるのはなんとか平気だけど、同級生にはどうしても無理だと泣いていたのを覚えている。
 思春期だと自分の体を見られることにも抵抗があるだろうし、温泉施設に行くことの少ない子には色々と難しいことがあるのだろう。
 莉緒も人生経験が偏っている人種だし、そういう何かがあるのだろう。
「だから麻里さんが薄着でうろうろするの正直苦手だったんですよ」
「……ごめん?」
「麻里さんの家なので、謝る必要はないですよ」
「言ってくれればよかったのに」
「言えないですよ。それにもう慣れましたし」
 無垢な彼女を無意識に苦しめていたことを知り、ほんの少しだけ申し訳なくなる。でもまぁ、彼女の言う通りあそこは私の家だし、仕方ないよね。
「じゃあなんで温泉に行こうって」
「麻里さんが行きたいって言ってたからですよ」
「無理しなくてよかったのに……」
「無理はしてないですよ。私はここの客室露天風呂で十分です。これでも楽しみにしてきたんですよ?」
 私は彼女の気遣いが嬉しくて。そして私の為にそんなことをしてくれる彼女にお礼を言いたくて。枕に顔を埋めたままの彼女の頭をそっと撫でてみる。頭に手が触れた瞬間、びくっと体を跳ねさせる。もじもじと落ち着かないように動いた後、震えるように体を固くしていたが、そのうち緊張を解いて頭を撫でられることに抵抗しなくなっていく。
「ありがとね。莉緒」
「何もしてないですよ」
「こんな楽しい誕生日はじめて」
「麻里さんの誕生日明日じゃないですか」
「そうだっけ?」
「自分の誕生日くらい忘れないでください。本当に記憶力いいんですか?」
「冗談。流石に覚えてる」
「もう」
 莉緒の小さな頭を撫でる。ゆっくりゆっくり、その短い髪に手の平を合わせていく。
 黒く細い髪はさらさらと私の指を滑り落ち、夏の日差しに当たり続けた頭からはシャンプー越しに彼女の匂いを感じる。
「私が髪の毛を触らせるなんてレアなんですよ?」
「そうなの?」
「物心ついてからは誰も触ってません」
「誰も?」
「はい。誰も。親でさえも触ってません」
 私の手が少しだけ止まる。
「でも今日は機嫌がいいので許します」
「そんなに重大なことだとは思ってなかった」
「髪を触られると、かなりのストレス値が出るらしいですよ」
「嫌ならやめるけど?」
「……やっぱり今日の麻里さん、少しおかしいです」
 緊張を隠すためにへらへらと笑いながら、私はまた彼女の髪を撫でる。
 彼女のパーソナルスペースはきっととてつもなく広い。私との共同生活は彼女にとって異常なレベルの行為なんだろう。学校での彼女の姿を見たことは無いけど、恐らく誰も寄せ付けない雰囲気を醸し出しているんじゃないか。顔が整い過ぎて近寄りづらいというか、そもそも考えていることが周囲と違い過ぎるというか。彼女への理解を深めるとそんな光景が浮かぶ。最初は莉緒に友達が多そうなんて印象を抱いていたのに、不思議なものだ。
「莉緒、お風呂部屋ので済ませちゃうんでしょ?」
「はい。っていってもここの客室風呂、凄いんですよ。見晴らしもいいし、露天風呂だし。それに檜だし。ちょっと有名らしいです」
「じゃ、私も一緒に入っていい?」
「……え?」
 濁点が付いたような驚きの声が返ってくる。距離を詰めるには裸の付き合いから。私も人に見せられる体をしている訳じゃないけど、自分の過去を話すならそれくらいの恥をかかないと踏み出せない。
 それに、一緒に温泉旅行に来たのに私だけ大浴場になんて行けないじゃん。
「駄目?」
「…………駄目じゃ、ないです、けど」
「そっか」
 より強く枕に顔を埋める彼女の頭をまた撫でる。恥ずかしがっている彼女は可愛い。まるで初めて一夜を共にする若いカップルみたいだななんて考えながら、そもそも自分にそんな経験が無かったことを思い出す。
「……準備してきます」
 莉緒は不意にベッドから起き上がると、私から逃げるように荷物を置いた壁に向かう。そして幾つかの袋を手に取って今度はトイレへ向かう。家出をしてきた彼女の手荷物は可愛いポーチなんかではなく、薬局の紙袋やスーパーのビニール袋。その可愛げのなさと彼女の顔とのミスマッチが莉緒らしくて笑ってしまう。
 暫くして莉緒がベランダに出るので、私はそれを目で追った。
「こっち見ないでください」
「だってガラス張りなんだもん。目に入るじゃん」
「目瞑って寝ててください」
「はーい。しばらくしたら行く」
 莉緒の機嫌を損ねないように、私は彼女の言い分を聞きベッドにまた倒れ込む。目を閉じて数分待つとベランダからお湯の音が響き、その数秒後に檜の箱からお湯が大量に流れ出る。
 いい音だ。私の家だとシャワーが多いから浴槽の音はあまり聞くこともない。目と鼻の先で莉緒が風呂に入っている光景を思い浮かべて危なさを感じたけど、同居生活をしていてなにを今更と笑い飛ばした。
 私は極力外の風景を見ないように動きながら荷物をまとめ、入浴の準備を済ませる。
 服を脱ぎ一応髪を束ね、左の手首に多めの髪留めのゴムを通した。
 温泉用にと買った新品の手ぬぐいで体を隠しながら窓を開けると、心地よい風が体に当たる。裸で風に当たるのも久しぶりだ。夏の外気温は全裸には丁度良い。風邪をひく心配がないのが夏の露天風呂のメリット。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「ここ、絶対一人で入る大きさですよ?」
「だろうね」
「だろうねって……。分かってたんですか?」
「まぁ、だいたいそうじゃない?」
 驚きつつ私を睨みつける莉緒の視線を避けながら、桶で浴槽から湯を掬って体に掛ける。
「狭い所に二人で入るのも一回くらいいいでしょ。旅の恥は――」
「だからそれ、私がいる時点で使い方違うんで」
 旅先には知り合いなんていないから恥をかいても大丈夫的な言葉だっけ。
「莉緒との生活も一時的な物なんだし、似たようなものでしょ」
 もう三分の二に差し掛かる同居生活の終わりをわざと口に出しながら、私はもう一度体に湯を掛ける。
「ほら詰めて」
 立ち上がって上から見下ろすように莉緒を見る。変な所で律儀なのか、礼儀正しいのか、あれだけ恥ずかしがっていたのに、湯船にタオルを浸けていない。だから彼女は何も隠さないまま無防備にすべてを晒している。
 風呂なんだから当たり前なんだけど、その肌面積の多さに少し驚く。莉緒の裸をちゃんと見るのは初めてかもしれない。いつも露出している箇所ですら白いのに、普段布に隠れている場所は更に一段と白さが増す。白を通り越して不健康に青く見えるその肌は美しかったが、あまり人間味を感じなかった。
「なに見てんですか」
 私の視線に気が付いたのか莉緒は体を隠すように身じろぐ。それでもちゃんと私の入るスペースを空けるように詰めてくれるので、私は右手で持った手ぬぐいを浴槽の淵に置きながら、左手で照れ隠しをするように鼻をかいた。
「……隠さなく――」
「なに?」
「何でもないです。早く入ってください。なんでベランダに全裸で立ってるのに仁王立ちでいられるんですか」
「別に誰も見てないから」
「見てたら問題ですよ。ほら、早く入ってください」
 莉緒に急かされながら私は湯船に足を入れる。足先から熱めのお湯に浸かっていき、ゆっくりと体を檜の箱に収めていく。その過程で私の体積分の水が零れ落ち、また豪快に音を立てた。
 私と莉緒は肩を並べるようにして外を眺めている。空は橙が終わり、殆どが藍色に変わっていた。夏の空気には蝉が一生懸命存在を誇示して喧しい鳴き声が溶け込んでいて、目の前に広がる緑は青々しく生い茂っている。まさに夏。夏の夕暮れを二人で暫くの間、黙って見ていた。
「ねぇ、悲しいときって、夕日が見たくなるよね」
 莉緒がポツリと言葉を漏らした。
「え?」
「これも引用です」
「王子さまの?」
「はい」
 よほどさっきのミュージアムが楽しかったのだろう。去ってもなお余韻が抜けきれない彼女に子供を見る時の可愛さを感じる。
「麻里さんは夕日ってどんな時に見たくなりますか?」
「その質問難しいね」
「そうですか?」
「だってそんなこと普通考えないよ。夕日を見たらどうか、ならまだしもどんな時に夕日を見たいかなんて考えたこともない」
「私は考えますよ」
「死ぬときに見たいとか言うんでしょ」
「……よくわかりましたね。正解です」
「これだけ一緒に入れば分かっちゃうよ。嫌でもね」
 額の汗をぬぐうように左手で顔を撫でる。湯船にその手を戻ると静かに水面に波紋が生まれた。
「綺麗な夕日ができる日の法則って麻里さんに言いましたっけ?」
「なんだっけ。聞いたような聞いてないような」
「雨ですよ。午前中に雨が降って、午後はカラっといい天気になって。そんな日の夕暮れは空が綺麗に橙に染まるんです」
 今日は雨が降ってないんで五十点くらいです。なんて言いながら莉緒は水面に映る藍色をぱしゃぱしゃと弄ぶ。
「私の人生って、言ってみれば雨続きみたいなものだったんですよ。そこから人生ノートを書き始めるようになって。無理やり自分の人生を晴れにしようと藻掻いてるんです。だから最期の日はそんな一日がいいなって。雨が降って晴れて、多分私の人生に虹は似合わないので雨上がりはすこし泥で汚くて。それで太陽が沈む時には真赤に世界が染まる。そんな一日」
 莉緒との出会いを思い出す。あの空が真赤に染まった夏の入り口。空の赤を背負う彼女の姿はとても美しかった。
 きっと彼女もあの美しさに魅了されていたのだろう。あの景色が美しかったから彼女は死に近づいた。死に近づいたから、きっと彼女はまだ生きたいと思えた。
「私、命って炎だと思うんですよ。毎日毎日燃料を投下して消さないように守っていく炎。弱くても強くても駄目で、丁度いい火力を保たなきゃいけないんです。あまり強すぎると、燃料が直ぐになくなっちゃいますから」
 例えば、なんて、莉緒は初日に私に説明したような例を持ち出す。
「芸術家って短命の方が多いじゃないですか。何かを創り出すって相当エネルギーを使うから、だから芸術家は命の炎を激しく燃やして早くに燃料を使い切っちゃうんじゃないかなって。これも比喩なんですけどね。多分生活リズムとかそんな話だと思いますけど、なんとなくかっこいいじゃないですか。そう考えた方が」
 やっぱり言葉にするのは難しいですと唸る莉緒を見る。すると莉緒は恥ずかしがって私の顔に腕を突き付けて無理やり首を逆に回そうとする。
「こっち見ないでください」
「もしかして恥ずかしさを誤魔化す為に難しい話してる?」
「……そういうのは分かっても口にしないもんですよ?」
「じゃあ黙る」
「もう遅いです」
 沈黙が生まれ、軽やかな水音だけが響く。
 無言の状態に耐え切れなくなるのは莉緒だと分かっていて、私は無言を貫いてみる。すると案の定、莉緒はすぐに続きを話し始めた。
「私。自分で言うのは烏滸がましいけど、芸術家の人達と同じだと思うんです。人生の燃料を過剰に燃やして生きてるって自覚があります。なにも作ってないので無駄遣いとも言えるんですけど。暗いのが怖いから炎を大きくして少しでも明るくしようとしてるんだと思います」
「ちょっと分かるかも」
「え?」
「命を燃やしてるって表現。莉緒から言われなくても、勝手に莉緒にそういう印象持ってた。……莉緒の目ってさ、たまに燃えてる時があるの。って、急に詩的な表現になっちゃったけど。……なんて言えばいいのかな、ギラギラしてて怖い時があるって言えばいいのかな」
「そうなんですか」
「初めて会った時とか、なぜか莉緒が怖くて足が震えたもん」
 そう言うと莉緒はケタケタと笑った。
「知らなかったです」
「言いたくなかったからね」
 もう一度莉緒は笑い、声のトーンをさっきまでの真面目なものに戻す。
「私が怖いかはともかく、私は命を燃やしてるんです。だからほら。夕日って空が燃えてるみたいでしょ? ピッタリかなって。燃える世界に燃え尽きる私。そんな綺麗な世界で私は死にたい。だから私は死ぬときに夕日が見たいんです」
「そういえばそんな話だったね」
「はい。次、麻里さんの番です」
 莉緒は私に会話を投げる。
「私、か」
「どんな時に見たいですか?」
「夕日……」
「夕日の話じゃなくてもいいですよ?」
「え?」
「何でもいいです。話したいことがあるならなんでも。私は何でも聞きますよ」
 莉緒の目は優しく、私を救ってくれる慈愛に満ちているように見えた。
 私の過去。私のトラウマ。
 私の終わりと今の私の始まり。
 全部、莉緒に話してしまおう。
 全部、蹴りをつけてしまおう。
 きっと潮時だ。
 この道が正しいと思っていた私に、莉緒は間違っていると言ってくれた。そして正しい道に手を引いてくれた。
 そんな莉緒になら話してもいい。
 そんな莉緒だから、救ってくれる。
 過去のまま凍り付いてしまった私の時間を莉緒なら溶かしてくれる。
 彼女にはそれだけの熱量がある。
「じゃあ、一つ。話をしていいかな」
「はい」
「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけれど」
「どんな話ですか?」
「莉緒に合わせるなら、そうだな。じゃあ、朝焼けの話。私の過去の話」
「聞きますよ。どれだけ長くなっても」
 私は一度湯船に深く浸かる。温かい水が体をほぐして口も軽くしてくれる。
 ふと、莉緒の顔が見たくなって首を捻った。
 もう一度くらい彼女を恥ずかしがらせてもいいだろう。
 悪戯心で私の隣にいる美しい少女を見る。
 視線が合うように顔と顔が向き合い、彼女の白い肌が私の網膜を焼く。
 そしてその美しさの中に不純物が混じった。
「莉緒、鼻血……」
「……え?」
 真白な肌に一筋の赤が流れている。さらさらと鼻から流れ落ち、あっという間に首、鎖骨を下ると水面に到達した。
「大丈夫?」
 ゆっくり水面に彼女の赤が広がっていく。
 莉緒は動かない。驚いたように目を見開きながら動かない。
「莉緒?」
「…………鼻血?」
 ようやく動いた莉緒はゆっくり自分の口元を手の甲で拭う。白い肌の上に彼女の赤が広がり、それを視界に収めた莉緒は固まる。いや、固まったように震えだした。水面は彼女を中心として波を作りはじめ、その波は彼女の赤を運ぶ。
「ねぇ、莉緒? 大丈夫?」
「…………やだ。――やだ――やだ」
 最初はゆっくりと、そして次第に加速して莉緒は何度も何度も自分の口元を擦る。
「莉緒、大丈夫。鼻血くらいすぐに止まるって」
「やだ、やだ……」
「のぼせちゃっただけだよ。長話してたからさ。血行が良くなったんだって!」
 聞く耳を持たない彼女を何とか正気に戻そうとへらへらしながら彼女を宥めてみる。しかし彼女は一向にこちらを向かない。
 どう見てもおかしい。周囲の言葉なんて耳に入らず、彼女の目はうつろに揺れる。
 私はこれを知っている。
「とりあえず上がろ? 立てる?」
 私は震える彼女の体に触る。その体は熱くて冷たい。
 脇の下に手を入れ、とりあえず湯船から出そうとする。
 口元を真赤にした彼女の顔は真青で、白と赤と青がチカチカと私の視界で揺れて、脳を掻き回す。
「ほら、せーの」
 掛け声と共に彼女を持ち上げ、浴槽の淵に座らせる。
 座らせるや否や、彼女は私の手を手繰り寄せ、勢いよく抱き着いた。
 私の背中に手を回し、力強くも弱々しく体にしがみつき、胸に顔を埋める。
「ねぇ、……。やだ。ねぇ……。やだよ」
 震えた手は固く、私を話さない。
「やだ、やだ」
 私はこの状況に驚きながらも咄嗟に彼女の頭を撫で始める。
「私、やだよ……」
 ゆっくりゆっくり彼女の心拍数を下げるように頭を撫でていく。
「大丈夫。大丈夫」
 彼女がどうしてここまで鼻血を恐れているのかは分からない。血が怖い? そんな馬鹿な、さっきも生理だと言っていた。血が怖いなら毎月こんなことをやっているのだろうか。そんな筈はない。じゃあ、どうして。
 私は腕の中にいる少女を何一つとして理解できないまま、無責任な言葉を吐き続けることしかできない。
「……こわい」
「大丈夫だよ。私が付いてる」
「やだ……。もう、やだ」
「大丈夫。大丈夫」
 かなりの時間をそうやって体を抱きしめたまま過ごした。
 少女の鼻から流れる血はしばらく止まらず、浴槽は血で汚れた。
 少女のパニックが収まり、鼻の血も止まる頃には空は星空に変わっていて、いつもより多くの星が空に浮かんだ。
「大丈夫だよ。私がいる」
 そんな言葉を何百回と掛けた。
「大丈夫。落ち着いて」
 意味のない言葉を何百回と囁いた。
 少女の身体から力が抜け、眠りに落ちる寸前、小さく彼女の喉が鳴る。
「おとうさん。おかあさん。……せんせい。……まりさん」
 そして莉緒の意識はすっと抜け落ち、血だらけのまま寝息を立て始めた。
 静かに、日付は変わった。
 静かに、私は二十五歳になった。
 静かに、眠る莉緒の頬に手を添えた。
 静かに、私も目を閉じた。

 部屋は暗い。
 日付が変わってどれほどの時間が経っただろう。
 ダブルベッドの上には莉緒と私の体。
 拭ききれなかった血液は彼女の皮膚の上で固まり、白い身体に美しく文様を作っている。
 シーツを汚さぬようにバスタオルの上に寝かせた彼女の体に、また別のバスタオルを掛ける。夏の夜は蒸し暑く、これくらいで風邪をひくことはないだろう。
 私はその隣で今日のために買った新しい寝間着を身に纏い、横になっている。
風呂場でパニックを起こした莉緒を部屋に連れ戻し、どうにか寝かせつけた後、彼女は何度か目を覚ました。彼女の意識ははっきりしていたが明らかに目に光は灯っていない。体調の確認の会話を何度か交わし、彼女の意見を尊重して救急車は必要ないと判断した。
だから私は彼女に何もしてあげられないまま、こうして隣で眠る彼女の顔を眺めていることしかできない。
まだ太陽が空に浮かんでいた数時間前の彼女の行動を思い返す。自分の血液を見て真青になりながら混乱する彼女。私はあの行動に覚えがある。
そう。あれはまるで高校生の時の私。
佳晴が死んでからしばらくの間、私は先ほどの莉緒のようなパニック障害を度々発症させていた。莉緒のあれは私のそれと同じだった。何かの心意的ショックがフラッシュバックして自分に制御が利かなくなる現象。だったら彼女が抱えているものも何かしらのトラウマなのか。例えば私と同じように、身近な人間の死。大量の血を見てパニックを起こしたところを見ると納得できないこともないが、普段の生活で日常的に目にする血液で毎回同じような症状を起こしているのだろうか。
 彼女の中身が真暗な闇のように見える。どこまで進んでも先は分からず、輪郭すらも視認できない。そんな不安を胸の中で御しつつ莉緒の頬に手を当ててみる。白い頬は冷たく滑らかで、人間というよりは人形という表現がしっくりくるような完成された顔だった。撫でるようにしてゆっくり下へ手の平を動かし彼女の首を撫でるように触れる。そこからはしっかりと心臓の鼓動を感じ、私はまた胸をなでおろす。
「ん……」
 首を触られたのが不快だったのか莉緒は私の腕から逃れるように身動ぎ瞼を開ける。
 何度かゆっくりと瞼を開閉させ、首を回す。壁に掛かった時計を見て時間を確認すると、数秒間の情報整理と思われる硬直のあと、私のほうに向き直り弱々しい笑顔を見せた。
「……ごめんなさい。こんなみっともない姿見せちゃって」
「ううん。大丈夫だよ」
 私が首を振ると、莉緒は申し訳なさと恥ずかしさが同居したような表情でへへへと笑って見せる。
 私はそんな笑顔に胸を熱くしながら、もう一度莉緒の頬に手を添える。そこには先ほど感じた冷たさはなく、人間の温かさがあった。
「ねぇ、麻里さん」
「なに?」
「お誕生日、おめでとうございます」
「忘れてた」
「うそだ」
「うそ」
 力無く二人で笑いあう。
「麻里さん、二十五歳かぁ」
「なに? また歳だって言うの?」
「いや、遠いなって」
「気づいたらあっという間だよ」
「それでも、やっぱり私にはすごく遠いですよ」
 莉緒はごろんと体を転がし、天井を見上げる。その眼はずっと遠くを見据えていて、まるで天井を超えて星空を見ているようだった。
「そういえば莉緒の誕生日っていつなの?」
「秘密です」
「教えてよ」
「別に面白くないですよ?」
「でも知りたいじゃん?」
「……やっぱり駄目です」
「えぇ」
「じゃあ特別に季節だけ。……前に私が言った、死んだ時には木を植えたいって話、覚えてますか?」
 突然話が過去に飛ぶ。莉緒との会話は忙しい。私は急いで過去を振り返ってその時の記憶を深い場所から引っ張り上げる。
「……樹木葬、だっけ?」
「よく覚えてますね。麻里さん、本当に記憶力いいのかも」
「そう言ってるじゃん」
 莉緒はまた私の言葉を鼻で笑い、話を続ける。
「実は私の家には既に一本、他の記念樹があるんですよ。誕生記念樹ってわかりますかね。死んだときに植えるのとは別に、こっちは生まれたときに親が子供に植えるんです」
「知ってるよ。最近よく聞くもん」
「それがヒントです。私の家には杏の樹が植えられているんです。私の誕生日には毎年杏の花が咲くんですよ。何月かは教えてあげませんけど」
 誕生記念樹を植えてくれる親。やっぱり莉緒の両親は彼女に良く接していると考えていいのだろうか。彼女の抱えている問題を今でも考え続けている。彼女は否定していたが親からのストレスという問題を可能性の一部からずっと外せないでいた。
 親に悪意がなくたって子供は心に傷を負うものだ。中学の時の私しかり。親の教育で追い詰められた佳晴しかり。
「杏の花の時期くらい知ってるよ。春でしょ。桜に似てる花」
「わぁ、すごい」
「これくらいは一般教養」
「じゃあばれちゃいましたね。私の誕生日。春なんですよ。小さい頃は麻里さんが言う通り自分の木に咲く花を桜だと思い込んでました」
 ね、そんなに面白くないでしょ? と、こっちを横目に見て莉緒は鼻を鳴らす。
「ううん。いいことを聞いた」
「何がです?」
「だってこれから杏を見るたびに莉緒を思い出せるもん」
「……麻里さん、たまにロマンチックなこと言いますよね」
「そう?」
 自覚のない私に莉緒はため息をついて天井を見つめる。
「……私、庭に植わっている杏の樹、嫌いなんですよ」
「杏の花、綺麗じゃん」
「綺麗すぎるんですよ。私がこんなにも毎年必死に生きてるのに、何もしてなくてもあの花は毎年その季節になれば凄く綺麗に咲くんです。なんだか私の必死さが馬鹿みたいじゃないですか」
 理不尽な言いがかりをつけられる杏の樹に同情する。
「だから年を一つ重ねる度に、この樹には負けたくないって思ってるんですけど。中々枯れないんですよね。樹って」
「可哀想」
「それに花言葉も嫌いです。臆病な愛とか疑いとかそんなのばっかりで。私、なよなよしてるのって嫌いなんです。昔の自分を見てるみたいで」
「昔の?」
「……何でもないです。この話はここで終わりにしましょう。杏の話もお終いです。これ以上する話題もないですし」
「なにか杏のいいところないの? このままじゃ莉緒のせいで私も杏が嫌いになっちゃう」
「なんでしょうね。杏酒がおいしいくらいじゃないですか」
「えーっと。未成年さん?」
「麻里さんだって、高校の時に煙草吸ってたんでしょ。お互い様」
 深夜の会話は脳みそを使わないで済む。頭に浮かんだ言葉をするりと投げれば、向こうからも同じように適当な返事が返ってくる。それが心地よい。
「こんな人間でも学校の先生になれるんだよ」
「先生失格の一か月だけどね」
「莉緒も共犯」
 自分の非行に話題が向いたことに居心地の悪さを感じ、天井を見たまま体を動かす。すると左手に莉緒の右手が触れたので、そのまま軽く手を握ってみる。びくっと莉緒の体が跳ねた。
「莉緒さ、家の杏で杏酒作ってるの?」
「……はい。親が毎年律儀に作ってます」
「じゃあさ、莉緒の二十の誕生日に一緒に飲もうよ。今までの人生なんか振り返りながらさ」
 莉緒は私の言葉を聞きながら一度強く手を握り返し、私の言葉を聞き終えると同時にその力を抜いた。
「……それは、約束できません」
「そっか」
「約束は、できません」
 もう一度莉緒は震えた声で言い切る。
 私がそれに返事するように長い息を吐くと、部屋は深い深い沈黙に溺れた。

「ねぇ、麻里さん」
 それから会話が生まれたのは深夜を回りしばらく経った頃。あと一時間もすれば空が明らむといった時間帯だった。
 お互いに何度か浅い眠りに落ちては、すぐに目を覚ます夜。
 丁度私は瞼が重くなる瞬間で、意識を手放しそうになった時、繋がれた私の左手に彼女の力を感じ体をびくつかせながら目を覚ました。
 首を回転して顔を横に向けると、そんな私にくすくすと笑いながら天井を見つめている莉緒がいる。
 どうしたの? と擦れたような声を投げかける。すると莉緒はこちらを向くこともないまま、真面目な表情になり、言葉を天井に投げかけた。
「……麻里さんの話、聞かせてよ」
 ずっと遠くを見るその目と私の目は交わらない。
「麻里さんも、今の私になら話せでしょ?」
 言葉の意味が分からないと首を捻ってみると、彼女は笑って続けた。
「だって今の私は絶対麻里さんより弱いじゃん。弱い人になら、自分の弱い所も晒せるでしょ?」
 繋がれた手が解かれ、莉緒の指が私の手の平を登る。
 そして私の左手首に巻かれた腕時計の上に彼女はそっと手を重ねた。
「ねぇ、麻里さん。一つ、聞いていい?」
「……なに?」
「私さ、麻里さんを変えられたかな」
「なに、今更。昼間も言ったでしょ。私は莉緒に変えられた」
「……私さ、麻里さんを救えたかな」
「……なにそれ?」
 莉緒はおもむろに上体を起こした。彼女の体に掛けていたバスタオルがはらりと滑り落ち、その細く白い裸体が月明かりに照らされる。
 私はその身体を直視できずに目を逸らし、先程までの彼女のように天井を見つめることで視線を逃した。
「私はね。麻里さんに救われたんだ」
「私、何もしてないよ」
「したんだよ。……してくれた。だから今度は私の番だった」
「意味が分からない」
 莉緒は息を吸い、私の手首に圧力がかかる。それを感じて私の身体は固まり、汗が噴き出る。
 四肢は硬直し動かず、左手を彼女から逃がすこともできない。辛うじて動いた首を回し、天井から自分の左手に視線を移動させる。
 私の腕に彼女の手の平が重なっている光景に釘付けになっていた。
「私ね。知ってるんだよ」
 私の左手首でカチカチと時計が秒針を鳴らしている。五月蠅い程に時を刻んでいる。
「麻里さんが辛い思いをしてきたって知ってる」
 莉緒はその腕時計を私の左手首から静かに外した。
「本当は逃げたいんだって、知ってる」
 そうして露わになった私の手首に莉緒の涙が落ちた。
 皮膚の色が変色したリストカット痕の上に彼女の涙が落ちた。
「気付いてたんだ……」
「二十日も一緒に過ごしてるんだよ? 気付かない筈ないじゃん」
「隠せてると思ってたんだけどな」
「寝る時に腕時計する人なんていない。家にいたっていつも何か手首につけてるんだもん。すぐわかる」
「そっか」
「麻里さん、隠し事下手だもんね」
 ずっと手首を隠して生きてきた。
 外に出る時はファンデーションを必ず乗せるし、手首を露出させる時にはそれ用のテープすら使用してきた。だから多分、誰にもこの傷の存在は知られていない。
「ずっと隠して来たんだけどな」
「多分気付いてる人いると思うよ?」
「そうかな?」
「話題を出していいこともないし。きっと放っておいてくれてるんじゃない?」
「それはそれでショック」
 いつしか私の身体から力は抜けている。瞬間的に緊張した筋肉が弛緩し、ベッドにだらしなく体重を預けていた。
「でも、私は少し嬉しい」
「なにが」
「だって、この傷を言及したのは私が初めてってことでしょ?」
「だね」
「じゃあ、この傷の意味を知っているのは麻里さんと私だけってことになるね」
「それが嬉しいの?」
「嬉しい」
 莉緒の言葉は砕けている。たまに彼女がリラックスしている時に出る素の彼女。
 私が心を開き始めているから彼女もそれに応えてくれているのだろうか。
 莉緒は私の痣をそっと撫でながら笑う。夏の月に照らされるその顔はとても美しく光っていた。
「汚いでしょ。かなり昔の傷なんだけど、ずっと消えないの」
「汚くないよ。それにこういうのは消しちゃいけない。消えちゃったらその時の自分を忘れちゃう」
「私は、忘れたいかな」
「駄目。今の麻里さんはその過去があってここにいるんだもん」
「今の場所、そんなに気に入ってないからなぁ。知らない線路に乗ったまま、気づけばここまで来ちゃった」
 莉緒と目が合う。
「ある人の夢、でしたっけ?」
「え?」
「麻里さんが言ったんですよ。別に自分は教師になりたい訳じゃなかったって」
「あぁ」
 この話をしたのももう一週間以上前のことか。
「聞かせて。麻里さんの過去。この傷も。心の傷も。私なら受け止められる」
「うん」
 元より彼女に話す覚悟はできていた。
 だから私はゆっくり深呼吸をして目を瞑る。
 すると彼女は私の隣にもう一度寝転がり、手探りで私の左手を掴んだ。
 彼女から差し伸べられた手をまるで救いの手のように強く握り返し、私は話し始める。
「どこから話せばいいのかな」
「一番最初から聞きたいな」
「長くなりそうだね」
「いいじゃん。チェックアウトまではまだまだ長いからさ」
「そうだね」
 私は一から彼女に話し始めた。
 それは長い長い私の過去。
 今の私が誕生したきっかけ。

「おはようございます」
 朝、目覚めた彼女はまだ気分の悪そうな顔をしていて、それでも私に心配を掛けまいと気丈に振る舞い朝の挨拶をした。
 私と彼女の手は繋がれたままで、目を覚ました私はそれに赤面してすぐに手を離す。大の大人が恥ずかしい。
「離しちゃうんですか?」
「え?」
「手」
「だって」
 結局私の過去話は朝の七時頃まで続いた。
 過去話をしていると途中から半ば夢を見ているような感覚に襲われ、話し終えると同時に私の意識は泡となって消えた。莉緒もそれは同じなようで、二人で目を覚ましたのはチャックアウトまであと少しという太陽も真上に昇る時間帯だった。
「莉緒、大丈夫?」
「少し気分は悪いですけど大丈夫です。昨日はごめんなさい」
「いいって。気にしないで」
「そして、ありがとうございます」
「ううん」
「ありがとうございます」
 莉緒は私の過去に何一つとして言葉を返さなかった。
 それが莉緒の優しさなのかは分からないが、きっと今のお礼には過去話を打ち明けたことに対する感謝も含まれているのだろう。感謝しなければならないのは寧ろこっちの方なのに、先を越されれしまった。
 私達はそれから急いでチェックアウトを済ませて、そのまま帰路についた。
 莉緒は体調は大丈夫と観光を続けようとしていたが流石にそれは容認できず、駄々をこねる子供を連れて帰る母親の気分を味わいながら温泉旅行は終わりを告げた。
 彼女のパニック症状の原因は分からないまま。謎は深まっただけだ。ただ彼女の身に何かがあるという疑念は確信に変わった。
 すべてを開示した私に彼女も心を開いてくれたら、なんて淡い期待を持ちながら私達は一晩締めきってサウナと化した我が家に帰るのだった。
「外、暑そうですね」
「そうだね」
「夏も本番ですもんね」
「もう少しで終わるけどね」
「こんなことしてる場合じゃないのになぁ」
 二人でフローリングに寝転がる昼下がり、私の肌に触れる木目は冷たい。
 片や莉緒は真白な敷布団の上で窓を見上げ、外の夏空を眺めている。
「わざわざ敷布団なんて買わなくてもよかったのに……」
「毎晩ソファで寝てたから体調崩したのかもしれないでしょ?」
「それでも私、あと半月もしないうちにここから出てくんですよ?」
「……まぁ、高い買い物でもないし」
「私が来てから金使い荒くなってる。絶対」
「そうかも」
 昨日箱根から帰る電車の中、どう見ても莉緒は体調が悪そうで、その場でインターネット通販を開いた。適当に安い敷布団をカゴに入れ、届いたのが今日の朝。昨日の夜は仕方ないから莉緒を私のベッドに寝かせて私はソファーで眠った。それが原因なのか、はたまた久しぶりの旅行が原因なのか、とても腰が痛い。
「いつの間に注文してたんですか」
「昨日の電車の中」
「よく今日の朝に届きましたね」
「あー。なんか私、有料会員だったみたいでさ。プライムってやつ」
「だった見たいって何ですか……」
「数年前に有料の方に登録してたみたいなんだけど、忘れてて。最近あまり使ってなかったから」
「数年間お金を払い続けてたんですか?」
「そうみたい。でもそんなに高くなかったから大丈夫。高くなかったから気付かなかったのかもしれないけどね」
「普通気付きますよ。どれだけずぼらなんですか」
「口座の中身なんてろくに確認しなかったからなぁ」
「そのうち詐欺に引っかかりますよ」
 莉緒はいつもの溜息をつき、布団の上に両腕を投げ出す。
 その姿はいつもの彼女で、そこまで重症には見えない。昨日は顔が真青だったことを考えると幾分はマシになっているのだろうか。胸を撫でおろしながら私は寝ころんだままノートパソコンを開く。
「仕事ですか?」
「ううん。大した仕事はないから」
「良いご身分ですね」
「その分、夏休みは無給だけどね」
 立ち上がりの遅い旧モデルの駆動音を待ちながら欠伸をしてみる。
 午後二時。今日は公園にランニングに行ってもいないし、彼女に急かされて家事をした訳でもない。正真正銘何もしていない日。だったらもう少し自堕落を満喫しよう。
「プライム会員だとね、映画見放題なんだって」
「映画見るんですか?」
「いや?」
「ううん」
「じゃあ、見ようよ。どうせ莉緒は起きれないんだし」
 ようやくパスワードを入力し、デスクトップが開く。
 噂の見放題画面を開くと数々の映画やアニメが並んでいて、こんな良い暇つぶしがあったのだと驚く。まぁ、莉緒が来るまでの私が映画を一人で見たかと考えれば、恐らく見ていなかったと思うけど。
「莉緒ってどんな映画見るの?」
「えっと……」
「あまり見ない?」
「いや、結構見るんですけど、何でも見るかなって。麻里さんは?」
「私はそもそも映画を見ないかな」
 マウスホイールをクルクル転がし、ページを下げていくと様々なジャンルが出てくる。アクション、キッズ、アニメ、ドキュメンタリー、ホラー。
「あ、でもホラーは見ないです」
「そうなの? ホラー耐性強そうなのに」
「別に怖いって訳じゃないんですけどね。自分のこと比較的に現実主義だとは思ってるので」
「じゃあなんで見ないの?」
「……なんか、可愛そうだなって」
 画面を見つめながら放つ莉緒の言葉を私はもう理解できる。彼女の考えが段々と分かるようになってきた。
「ホラー映画って死ぬ人も死んだ人も可哀想じゃないですか。ゾンビとか幽霊とかを見てるとこの人達は死んでからも苦しんでるんだなって思っちゃいますし。死ぬ人は大抵恐怖の中で死ぬじゃないですか。それって、私の理想とは正反対なんですよ」
「そうだね」
「だから……って、あ、ごめんなさい」
 莉緒は言葉の途中で謝り、画面から目を背ける。
 その反応は今まで見たことが無くて私は驚く。理由を考えてみて、なるほどななんて笑う。
 多分、昨日話した私の過去のせい。
 私のトラウマを知って死について話すことを躊躇ってしまったのかもしれない。
「……優しいね」
「なんですか?」
「ううん。何でもない」
 間違っていた時には深読みした私が恥ずかしくなるから何でもないとはぐらかす。
 私は誤魔化し半分にまたページを下げていく。タイトルをぼんやりと口に出しながら一つづつ確認していく。
 映画を見ない私でも内容を知っている物が多い。有名作品の欄に差し掛かり、恐らく世間では名作なんて言われている物を眺めていく。
「死ぬまでにしたい10のこと……」
 そしてその中で地雷を踏む。
 あ、と読み上げた後声が漏れてしまい、反射で莉緒の顔を見てしまう。
 なにしてるの、私。
 何事もなく読み飛ばさなきゃ。
 緊張の中画面に向き直りマウスを動かした時、莉緒が口を開いた。
「それは見たくない、かな。自分自身で十分」
 私は返事をすることもできないままページを動かし、その映画を画面の外に追いやる。
「麻里さん、それ、見たことある?」
「え?」
「その映画」
「……ない、けど」
「そっか」
 莉緒は寝たまま突いていた肘を倒し、布団に顔を埋める。
 そのまま私に聞こえぬように彼女が布団の中に捨てた言葉を私の耳は拾ってしまった。
「十個じゃ、足りないよ……」
 その声は弱く弱く、震えていた。
「おはようございます」
「……おはよ」
 朝。何もない朝。
 ここ最近は生活習慣が回復して自ずと目が開く。だから時計を見なくても大体の時間は分かったり。もう休日の朝に時計の針を見て頭を抱えることもない。
 ただいつもとは違うのは視界の端に莉緒の姿があること。特に用があるわけでもなさそうな顔で私に朝の挨拶をする。
「起きて大丈夫?」
「え?」
「体調」
「あーすっかり元気です。多分」
「多分て」
 会話をしながらゆっくりと状態を起こす。
「昨日からずっと寝てたから、早朝に目が覚めちゃって」
「それで?」
「麻里さんの顔見てました」
「なんでよ……」
 莉緒の視線をあしらいながら、体に掛かった薄い茶色地のタオルケットを足元に蹴る。
 一度大きな欠伸をしてベッドから降りようとする私を見つめる莉緒に居心地の悪さを感じて見つめ返すと、にっこりと笑う。
「やっぱり麻里さん、変わりましたねー」
「なにが」
「気づいてないんですか?」
「……うん?」
「結構前からですよね。……あ、そういえば前にも一回言ったかも。麻里さん変わりましたねって」
「言われたかも。あとで教えるから今は教えてあげない的なこと言われた気がする」
 莉緒はもう一度、そういえばと笑って私の枕元に移動すると、ローテーブルの上をこんこんとノックするように叩く。
「麻里さん、あれが無くても起きれるようになってるじゃないですか」
「……あ」
 視線を向けると、そこにいつも存在していた緑色のプラスチックケースはない。
 ここ数年、必ずと言っていい程に毎朝口に放り込んでいたラムネ菓子。生活の一環になってしまいあれがないと起きれないくらいには依存していた筈なのに。
「いつから切らしてたんだっけ……」
「麻里さんが寝込んだ辺りじゃないですか?」
「もう十日くらい前じゃん……」
「いつになったら気付くのかなって思ってたんですけど、結局気づきませんでしたね」
「いつの間にか起きられるようになってる」
「まぁ、毎朝誰かと喋る生活なんて今までの麻里さんになかったと思いますし、それのお陰じゃないですか?」
 朝、時間になればおはようと声を掛けられて、それに私も乾いた喉でおはようと返す。それだけでこんなにも簡単に生活習慣が変わってしまう物なのか。
「よかったですね。ラムネ断ちに成功して」
「薬みたいに言わないでよ」
「実際似たようなもんじゃないですか」
 私はすっかりと覚醒した頭でベッドから降りる。
 寝起きに声を出すと喉の渇きが強く感じられる。この不快感も目覚めの役に立ってるのかも。
 依存を断ち切ったことを自覚した私は二本足で立ちあがり、大きく伸びをする。
「でも、これからは一人で起きられるようになってくださいね」
「え?」
 彼女の言葉に振り向く。背中に冷たい何かを突き付けられたかのような感覚だった。
「え、って。だって私、もう少しでいなくなるんですよ?」
「……あぁ」
「ラムネで起きるのも多分体に悪そうですし。これからは目覚まし時計とかで起きられるように癖を付けとかないと」
「……そう、だね」
「それに家事とかも。一通り教えて一通りできるようになったんですから。ちゃんと続けるんですよ?」
「……。はーい」
 私はきゅっと締まる胸を彼女に悟られないように軽い返事を口に出す。
 キッチンに逃げ込み、蛇口を捻る。綺麗な水が勢いよくガラスコップに注がれる様を凝視しながら、私は自分がはっきりと自覚してしまったことに気が付く。
「でもさ、まだ二週間くらいあるじゃん? そんな後のこと急に言われたらびっくりするじゃん」
 キッチンの死角となる私のベッドに話しかけるが、彼女は言葉を返さない。
「そりゃ私だって、莉緒にあれやこれや変えてもらったし、今後もできる限り続けるけどさ」
 ぺらぺらと口が回る。なぜか緊張していた。
「けどさ……」
 言葉が見当たらなくなり口籠る。
 自分が現在どんな場所にいるかを俯瞰して見て、戸惑う。
 いつの間にこんな所まで来てしまったんだろう。なるべく意識をし続けて、ブレーキを踏んでいた筈なのに。気づけば来るところまで来てしまった。
「ねぇ、麻里さん」
「……なに?」
「ううん。やっぱり何でもない」
 莉緒の顔は見えない。彼女の声は小さくて水流の音に吸い込まれる。
 視界に広がる静寂が私は耐えられずに、私は蛇口を捻り締め、一気にコップを煽る。
 ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら水を体内に流し込む。
 息ができない。苦しい。そしてそのうち気管に水が入り盛大に咽る。
 大きな音を立ててコップをシンクに落とすと、莉緒が呆れ半分にこちらにやってくる。
「なにやってんですか……」
 優しく背中を擦られ、暫くして呼吸が始まる。
 転がったコップと、広がった水溜り。それに映る私を見る。
 なんて顔してるの、私。こんなの最初から分かってたことでしょ。頭の隅ではずっと自覚していた筈でしょ。
 苦しく鳴る胸を押さえながら、私はもう一度頭の中で反芻する。
 私は彼女に。藍原莉緒に、どうしようもなく依存していた。
「ねぇ、麻里さん」
「なに?」
「水族館行きたくない?」
 彼女が作った朝食を口へ運んでいると、まるで些細な世間話のように莉緒は今日の一日を提案してきた。通りで今日はいつもは見ない小鉢が添えられている訳だ。そんな遠回りな媚び方をしなくても、言ってくれれば連れていくのに。
「べつにー」
 でもここまでされたら一度は否定しておいた方がいいのかな、なんて思ったりして。
「私は行きたい」
「それ結局行くことになるじゃん」
「そんなことないです。ただの提案」
 莉緒が白米を口に運ぶので私も一口。
「あー。そういえば昨日、夕方のニュースで特集されてたもんね。どっかの水族館」
「そう! そこの映像がすっごく綺麗で!」
「特集されてたの、どこの水族館だっけ?」
「海外」
「いや、行けるわけないから」
「そこに行きたいって言ってる訳じゃないことくらい分かってほしいんですけど?」
「分かってるけどさぁ。近くに水族館ないじゃん」
「まぁ、ちょっとした遠足ってことで。……駄目ですか?」
「別に、駄目じゃないけど……」
「やった」
 私から無理やりその言葉を引き出した莉緒は満足げな顔をすると、急いで机の上に広がった朝食を口に詰めていく。それからほんの数秒で朝食を終えた彼女は、口を膨らませながら立ち上がり自分の分の皿をシンクへ運ぶ。
「麻里さん、急いでくださいね!」
「急かさないでよ」
「せっかくのデートですもん。少しでも長い方がいいじゃないですか」
「はいはい」
 屈託ない彼女の目に頷き、私も食べるスピードを速める。
 水族館に行くのも久しぶり。本当に、いい夏休みだ。
 自分の中に生まれる少女のようなワクワクした感情も一緒にのみ込んで、私も食器を下げる。
 弾む心を押さえつけ、一刻も早く玄関を出る為に、私は朝の支度を始めた。

 電車に揺られて一時間。移動圏内で水族館と言えばここかなといった、大きくもなければ小さくもないほど良いサイズ感の水族館に到着する。
 さすがは夏休みの真っ盛り。園内には多くの家族連れが歩き、あちらこちらに走り回る子供や親とはぐれて辺りを見回す子供が見て取れる。
「麻里さん、はぐれないでくださいね」
「私を何歳だと思ってるの」
「でも、私の方が保護者っぽいし」
「莉緒こそ。小学生に間違われないようにね」
「流石にそこまで小さくない」
「じゃあ、中学生?」
「それは、まぁ。あるかもしれないけど」
 軽口を叩きながら入場口へ並ぶ。
「高校生から大人料金だってさ」
「だからなんです?」
「中学生って言えば安く入れるじゃん」
「そんなせこい真似しませんし」
 莉緒はちょっと膨れて、大人の入園券を二枚購入する。
 そのうち一枚を受け取り入場すると、すぐに視界が暗くなった。
 水中生物の豆知識や様々な展示、ドクターフィッシュの体験コーナーに、小魚の水槽。
 足を進めるごとに視界は暗くなり、照明は青みを増す。
 足を進めるごとに水槽は大きくなり、期待感も膨らんでいく。
 徐々に視界に入る魚は大きくなり、比例してフロアも広がる。水槽の上部から夏の日差しが入り込み、水とアクリル板で屈折を繰り返し、フロア内をキラキラと輝かせていた。
「ねぇ! 見て! これ凄い!」
 隣にはその光を反射するように目を輝かせた莉緒がはしゃいでいる。
 何かを見つけたのであろう彼女は大きな水槽に向かってトテトテと小走りで跳ねていく。その背中は周囲にいる小学生の子供たちと大差ない。
「ちょっと、走らないでー」
「麻里さん、早く!」
「館内は静かにお願いしまーす」
「ごめんってば。でも、ほら、見て!」
 忙しなく動く彼女にはいつもの中途半端な敬語は見当たらない。
 それが年の差とか立場とか、そんな様々な要因を忘れてくれているような気がして嬉しかった。
 莉緒と本当の友達になれればよかったのに。
 願ってもしょうがない、もしも、を思い描きながら、私も彼女の視線に合わせて顔を上げる。
「あぁ、イワシの群れ。莉緒、見るの初めて?」
「はい。動きがぴったりで、狂いがない。調教されたショーみたいです。どうやってコミュニケーション取ってるんだろ。仲間はずれがいないのが凄い」
 小さな魚が寄り添って、一匹の大きな何かのように動き回る。そんな奇妙で神秘的な光景を目で追っていると、視界の端で別の魚を見つけた。
「あ、でも、あそこにいる」
「何がです?」
「仲間外れ」
 指を刺すと、その先を莉緒が追う。
「あ、ほんとですね」
「本能に従ってる動きでも、やっぱり例外はいるんですね」
「大勢のところと合わなかったのかな」
「どうでしょう」
 莉緒はその場でしゃがみ込み、大きな水槽にこつんと額をつける。
 さっきまではダイナミックな魚群に目を奪われていたのに、今でははぐれた一匹を目で追っている。
「私達みたいですね」
 ぼそっとそんなことを言うもんだから、私は彼女の隣にしゃがんで彼女の頭に手の平を乗せる。
「しかたないよ。溶け込むのは、難しいもん」
「そうですね」
 社会に順応できない人間に、今の社会は生き抜き難い。
 小学校では皆で同じことをする習慣を植え付ける。中学校、高校ではそれの延長を。大学では自由と言ってはいいもののグループに属さないものは淘汰されていく。
 私は勉強に縋りついて、自分一人で何とか歩み続けた。辿り着いた場所が正解かは分からないが、まだ及第点。でも莉緒はどうなんだろうか。
「麻里さん、小学校の時、スイミーって話習いました?」
「もちろん。一応の教育者だったら誰でも知ってると思うし」
「あの話を最初に聞いた時、素敵だなって思ったんです。他人と違う個体はその個体の適材適所があって。あの話ではそれが魚群の目になることで。それって一番の花形じゃないですか」
「でも、実際は違う。って?」
「はい。実際、大多数からズレている個体があんな中心に迎え入れられることなんて、絶対に無いじゃないですか。グループに入れて貰えれば御の字で、良くて後を付いて回るだけです。それこそ魚の糞みたいに」
「それをどうにかしろって言われる教師側もまいっちゃうけどね。一人一人違う人間を平等に扱え、なんて無理」
「平等なんてこの世にないんですよ。生まれた時に決まってるんです」
「否定はできない」
「だったらせめて。……普通で生まれたかった」
「……莉緒は普通だよ。むしろ良くできてる方。こんなしっかりしてる高校生他にいない」
 莉緒の頭をポンポンを撫でると、莉緒は弱々しく笑った。
「麻里さんが何も知らないだけ」
 そしてゆっくりと首を振ると、子ども扱いしないで下さいと頭にのせられた手をそっと払った。
「だって莉緒が、何も教えてくれない」
 莉緒は払った手をゆっくりと握る。私の左手を両の手で包みながら、願うように私を見る。
「何も知らないままの麻里さんでいてくださいよ」
「前も言われた」
「それを望んでるんです。知らなくていいことなんて、世界に山ほどあるんですから」
 水槽に映る彼女の表情は暗い。
 私はそんな彼女が見たくなくて、いつもより二割増しに明るい声を出してみる。
「次の水槽行こ? まだまだ水槽もあるんだし」
「……そうですね」
 私は膝に手を置いて立ち上がる。んっと声を出してしまい、少し恥ずかしがりながら背後の莉緒に振り返る。
 その時だった。
 立ち上がろうとしていた莉緒の身体が平衡感覚を失ったように傾いた。
 咄嗟に手を伸ばすも私の手は空を切り、莉緒はそのまま水槽の前に鈍い音を立てて転がった。
「大丈夫……?」
 幸い床はカーペット生地で硬くない。お尻から落ちたから怪我はないだろう。
 それでもひ弱な彼女の体が心配で、転んだ彼女に手を差し伸べる。その手を取りながら莉緒はいつもの軽い笑いを浮かべる。
「大丈夫。大丈夫。ちょっとくらっとしただけです。立ち眩みです」
 私の腕に彼女の軽すぎる体重がかかり、少し力を入れて引き、ひょいと立たせる。
 莉緒は床に接した場所をパンパンと叩き、まいりましたねなんておどけている。
 私は何の気なしにその行動を眺めていて、彼女の腕に違和感を覚えた。
「それ……痣?」
「え?」
「左の肘らへん。青くなってない?」
「どこですか?」
「ここ」
 彼女の手を取り、指差すと先程と同じように彼女が私の指先に視線を合わせる。
 左肘の下部。やはりそこが青紫色に染まっていた。
 莉緒はその痣を視認すると、一度大きく目を見開き、細い呼吸を何度かした後、私の腕を振り払った。
「あ……。ほんとですね。今できちゃったのかな。もしかしたら最近どっかにぶつけたのかも」
「痛くない?」
「大丈夫ですよこんなの。なんてこったないです」
「だったらいいけど……。うちに湿布あったっけ」
「麻里さん心配し過ぎですよ。うちの親みたい」
 それだけ言うと、ほら行きましょうと歩き始める。
 温泉旅行の日から彼女の顔色は目に見えて悪い。そんな中でも、今の彼女の顔がいつにも増して青ざめて見えたのは、きっと照明のせいだと自分に言い聞かせて心配を頭の隅に寄せた。
 大小の水槽を幾つか通り過ぎ、莉緒と幾つかの会話を交わした。
 莉緒は今日のことをデートと言ったけれど、実際男と水族館に来たらこんな感じなのだろうか。それとも他の雑念が渦巻く一日になるんだろうか。それだったら純粋に水族館を楽しんだ方がいいかななんて思って、ゆっくりと静かな空間を歩く。
「そういえば麻里さん、いつ実家帰るんですか?」
 お互いに水槽を見ながら適当な会話を始めては、泡のように会話が終わっていく。そんなキャッチボールの繰り返し。
 莉緒が次に投げたのは数日前の花火大会で決意した実家への帰省の話。
「お盆中には帰りたかったんだけど、電車とか込むからさ。お盆終わってからかなって」
「せっかくいいタイミングでお盆だったのに」
「それくらいで怒る人達じゃないから大丈夫」
「それ墓参りする人間が言い始めたら終わりですよ」
 実際、お盆の時期に私が帰っていいのかなんて考えてしまって、お盆は避けた。
 パパも佳晴も私が帰ったらどんな顔をするんだろうか。こんな私を許してくれるんだろうか。
「でも、早く行かなきゃ決心が鈍っちゃうから、十六日には帰ろうかなって」
「明後日ですか。まぁ、盆明けですしね」
「うん。それだったら多分親戚に会うこともないと思うし」
「なるほど」
 足を進めると私達を迎えるように大きな水槽にぶつかった。多種多様な魚が水槽内を泳ぎ、色鮮やかに視界を彩る。そんな水槽を二人で見上げていると、私の口から溜め息が漏れた。
 美しい光景だ。水族館に来た記憶なんて遥か遠くで、いつの間にか色褪せて陳腐なイメージがついてしまっていた。
「水族館、いいですね」
「うん」
「来てよかったでしょ?」
「まぁ、そうだね」
「この夏の思い出の一つになりますね」
 及第点くらいはあげてもいいかなと強がる私を莉緒はあしらって、きらきらした眼差しで水槽を見つめ直す。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「麻里さんが実家に帰る間、私も家に帰ろうかなって思います」
「――っ!」
 想像もしていなかった彼女の言葉に私は驚き、横顔を見る。
「そんなに驚くことですか?」
「え……? だってあれだけ帰りたくないって。……それこそ死んだ方がマシだって」
「そうだったんですけど、まぁ、なんて言いますか。気が変わった、みたいな」
「なにそれ……」
 私がここ数週間を彼女と共にして、必死に解決しようとして、それでもどうにもならなかった問題なのに。なのにそんな、気が変わった程度の言葉で片付いてしまうの? そんな簡単に終止符が打たれてしまうような問題だったの?
「普通の事じゃないですか。家主がいない家に居座れませんよ」
「私は別に莉緒が居座ってたって……。本当に、帰れるの?」
「なんでそんなに心配してるんですか。ただ生まれ育った家に帰るだけですって。なんならノートを取りに一回帰ってますし」
 なんで心配するかって。そんなの聞く方がおかしい。
 あれだけ嫌がっていたものをすんなりと受け入れることが出来るはずない。
 受け入れたとしてもこんなに些末な話題として出せる筈がない。
 だって。莉緒は今、いつもみたいにへらへらと誤魔化すように笑ってる。
「だって莉緒。今、嘘ついてる」
「……麻里さんにしては鋭い。…………狡いなぁ」
 莉緒は違う表情でへなっと笑う。
「そんなに優しい目で見られたら、笑えないじゃないですか」
「誤魔化さないで」
「もう、麻里さんは。……優しいんだから」
 莉緒は私と視線を交えてからすぐに顔を逸らす。
 そして私を追い越して水族館の順路を歩き始めた。
 コツコツコツ。柔らかい床に二人の靴が鳴る。周囲には家族連れが溢れてきっと騒々しいはずなのに、私には彼女の足音と彼女の声だけが鮮明に聞こえた。
「本当は嫌ですよ。帰るの」
「じゃあ、帰らなくても――」
「私だってできるならそうしたいです」
「だったら!」
「麻里さん……」
 莉緒は前を向き、歩き続ける。私の視界には彼女の小さな背中だけが揺れていた。
 薄暗い道に深い青の証明。彼女の背中が悲しく見えて私は声を上げてしまう。
「だったらうちにいていいよ。まだ夏休みは終わってない! まだ約束は終わってない。……ううん。終わってからだって、帰らなくていい。ずっとうちに――」
「麻里さん」
「――っ……」
 莉緒が振り返る。口に人差し指を立てて当て、ゆっくりと首を振る。
「それ以上は駄目です」
「だって……っ!」
 彼女の目は赤く腫れていた。
「麻里さん。ここは水族館です。……館内は静かにしないと。ね?」
「……って」
 周囲から多くの視線が私達に向けられていることに気が付いたけれど、そんなのどうでもよかった。周囲の目だけを気にして生きてきた私にとって、こんなことを思う日が来るなんて思わなかった。
 私達の周りにいる人間なんて気にならない。今はただ、莉緒だけが私の視界の中にいた。
「家に帰る理由が出来ちゃったんです」
「……どんな」
「……それは、言えません」
「……」
「でも、これは親との約束です。私には麻里さんとの約束と同じくらい、あっちとの約束も守らなきゃいけないんですよ」
 頭の中を駆けずり回っても、莉緒に返す言葉が見当たらなかった。
 だって私は莉緒にとっての何でもない。親という単語を出されたら、私に勝てる手札は何もない。
 沈黙のまま足だけを動かす。頭の中はごちゃごちゃと様々な感情が渦巻いていて。しかしそれは言葉にも思考にもならずに漂っている。
 彼女の靴と私の靴だけがほのかな明かりに照らされる視界が途端に明るくなる。床は柔らかなマット生地からアクリル板に変わり、視界全体が晴れる。
 顔を上げると私達は水族館の名物である水中トンネルに立っていた。
「やっと顔を上げてくれました」
「……ごめん」
「私こそ謝らなくちゃです。……ごめんなさい。言うタイミングを間違えちゃいました」
「……ううん。取り乱した私が悪い」
「大袈裟ですよ麻里さん。家に帰るだけです」
「……なんか、莉緒が遠くに行っちゃいそうで」
「何言ってるんですか。元はと言えば麻里さんが遠くに行ってしまうのが悪いんです」
「……ごめん」
「いや、言い返してくださいよ。麻里さんが帰省するのも私が背中押したんですよ?」
「……そうだったね」
 さっき見た時は腫れていた莉緒の目は既に収まっている。
 私を揶揄って笑う姿はいつもの彼女で少し安心する。
 でも同時に、そんな風にすぐに通常通りになってしまう彼女がとても怖かった。
「ほんとに麻里さんは……」
 莉緒が溜息を一つ吐いた時、私達に影が落ちる。見上げると大きな魚が頭上を通り過ぎて行った。
「せっかくのデートなんですから。笑ってくださいよ。麻里さん」
「……そうだね」
「そんなくしゃくしゃな顔、麻里さんには似合いませんよ」
「なにそれ」
「それに、アイラインもぐっちゃぐちゃですし」
「それは困るな」
 目元を触ると涙で濡れた黒が指に乗る。
「まぁ、水族館は暗いし、大丈夫ですって」
「そうだといいけど」
 正面を向くと、遠くに白い光が見える。この水族館ももう出口だ。
 私は流れた涙の残りが零れないように目元に力を入れて、莉緒に向かって不格好に笑う。
「いいですね。私は笑ってる麻里さんが好きですよ」
「なにそれ」
 私の笑顔は綻び、柔らかい物になる。
 そうして順路終盤の小さな水槽を見ながら、ゆっくりと光の方へ歩く。
「あ、水族館ってエビいるんですね」
「伊勢海老の生きてるのなんて私も初めて見た」
 いつしかさっきまでの空気感は無くなり、水族館を楽しむ二人が戻ってきている。
「そういえば麻里さん。今日の夕飯てどうします?」
「どこかで食べて帰ってもいいけど?」
「私、お寿司食べたい」
「莉緒が食べたい物いうなんて珍しい」
「そうですか?」
「あまり聞いてない気がするから」
「それはいつも私が料理をしているからじゃないですか?」
「あー。そうかも」
 くすくすと笑いながら伊勢海老の前を離れる。隣の水槽にはカラフルに光るクラゲが漂っていた。
「水族館に来て、寿司が食べたいと思ったことなんてなかった」
「なんでです?」
「だって目の前で生きた状態で泳いでる魚見ちゃったらさ」
「麻里さん、目の前で魚捌かれるの駄目なタイプ?」
「たぶん。莉緒は? そんな店は入ったことあるの?」
「全然ないです。そもそも私、生の魚って食べた記憶殆どないんですよ」
「は?」
「だから勿論目の前で捌かれるなんて体験ないです」
「いや、そっちじゃなくて。生魚食べられないの?」
「いや、食べられるとは思うんですけどね。ちょっと親から禁止されてて」
「寿司も、刺身も?」
「はい」
「なんでまた、禁止なんて」
「古い考えを持ってるんですよ。よくわかんないですけど」
 ヴィーガンとか、そういう事だろうか。親の考え方は子にも影響を及ぼすものだから仕方ないと言ってしまえば、仕方ないけど。それでも、寿司を食べられないなんて可哀想に。
「アレルギーとかじゃないんだよね?」
「はい。多分」
「気持ち悪くなったら言うんだよ?」
「だから心配し過ぎですって。自分の体は自分が一番分かるんですから」
 出口が目の前に現れ、外へ踏み出すと世界が真白に染まる。
「眩し」
 莉緒が光によろめくので、吸血鬼みたいなんて揶揄う。
「血なんて吸いたくないですよ」
「そう? 莉緒、似合いそう」
「コスプレとかですか?」
「肌白いし」
「嫌ですよ。恥ずかしい」
 水族館の外は夏の日差しが傾き始めている。彼女の真白な肌が日差しに焼かれる様は見ていて痛々しい。そんな綺麗な肌に一ヶ所だけ異質な青い痣。この痣がどうしても私に胸騒ぎを起こす。
「ほら、早く行きましょ? 私お腹すきました」
「私もお腹すいた。何食べよ」
「私、イワシ食べたいです」
「えぇ。流石にさっきの流れでそれは……」
「普段から命に感謝していればそんなこと思わないんじゃないですか。中途半端な感謝をしているから生きてるのを見たら食べられなくなっちゃうんですよ」
「普通の人は普段からそんな命と向き合ってないの」
「はいはい。どうせ私は普通の人じゃないですよ」

「麻里さん。水取ってください」
「はいはい」
「ありがとうございます」
 昨日は水族館の後に寿司屋へ行き、電車でまた一時間ほどかけて帰宅した。
 私は一日の疲れに今にもベッドに倒れたかったのだが、先に倒れたのは莉緒だった。
「ほんと、大丈夫?」
「大丈夫ですって」
「やっぱり魚のアレルギーとか……」
「アレルギーだったら体中すごいことになってるか、昨日のうちに死んでます。ちょっとここ数日寝不足だっただけ」
「一昨日の朝なんて、寝すぎて目が冴えちゃって、とか言ってたじゃん」
「えっと……」
 布団に寝転がる莉緒はゆっくりと私から視線を逸らす。
「どっちが嘘?」
「……えっと。最近眠れないのが本当です」
 私はいつも彼女がしているようにわざとらしく溜息をついてみる。
「寝不足で体調悪くて、疲れと相まって翌日寝込むって……」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいけど……。自分の体は自分が一番わかるって言ってたよね?」
 薄いタオルケットを口元まで引き上げて、さらに上目遣いを加えたような表情で私を見上げる莉緒の頭をポンポン叩く。
「……分かってますよ」
「分かってないじゃん」
「分かってるからっ――。やっぱ……何でもないです」
 言葉を飲み込む莉緒に呆れて、私は布団の傍を離れる。
「寝れるんなら今寝ちゃいな。どうせやることなんてないんだし」
「……はい」
 
 私は莉緒から離れ、家事やら何やらを片付ける。
 午前中は雨がしとしと降っていたから洗濯物を回すのを諦めていたけど、午後からは一変して晴れ間が広がった。明日には私も莉緒もここを離れる。数日間の帰省だけど、洗濯物を溜めとくのはなんかちょっぴり嫌だ。こう思うようになったのも私が変わったせい。そもそも変わらなければ帰省なんてしなかったけど。
 気が付けば莉緒は眠りに落ちていて、私は起こさないように一日を過ごした。
 莉緒が目を覚ます頃にはもう時計の単身は垂直に垂れ下がっていて、空は久しぶりの夕日に染まっていた。
 今日の夕日はなんだか綺麗だななんて思いながら、半日で乾いてしまった洗濯物をベランダから取り込んでいると、寝たままの莉緒が目を擦りながら声を掛けてくる。
「おはよ……」
「もう夕方だけどね」
「部屋が真赤だからわかる」
 私はぐちゃぐちゃの洗濯物をそのままベッドの近くに放り投げ、莉緒の布団の方へ移動する。
「水とかいる?」
「ううん。大丈夫」
「そ」
 莉緒は何度かゆっくりと瞬きをした後、半分だけ瞼を持ち上げて静かに天井を見つめた。
 そんな彼女をソファに座って見下ろす気分にもなれず、私は床に腰を下ろし、肘を立てて彼女の横に寝転がった。
「夕日、綺麗ですね」
「そうだね」
「今日の夕日はこの夏でもトップレベルかも。すごく濃い」
「うん。濃い赤」
「麻里さんと初めて会った時みたい」
「言われてみれば」
 莉緒の瞼は細く割れている。上を見上げているのが眩しいのか、それともこの美しい夕日に浸っているのかは分からない。
「麻里さん、初めて会った時、すごくかっこ悪かったよね」
「言わないでよ。誰だって自殺現場を見たらパニックになるって」
「私、あの時は本当に飛び降りる気なかったんですよ?」
「傍から見たらそんなの分からないって」
 誰よりも死ぬことを恐れる人間が死の淵に立つ。私にはその瞬間の感情なんて分かりっこない。
 万が一、手が滑ったら。万が一、バランスを崩したら。そう考えるだけで悍ましいのに、彼女はそれを能動的に行っている。
 莉緒のことは徐々に理解してきたつもりだけど、私はまだこの子のことを何も分かっていない。だって抱える問題すらも知らないままだ。彼女との関係を深めれば、抱えたものも打ち明けてくれると信じてここまでやってきたけど、どうもそうはいかないらしい。
「私、夕日に物足りなさを感じてたんです」
「物足りなさ?」
「夕日は大好きで。死ぬなら夕日をバックになんて昔から考えてたんですけど。なんだか空虚っていうか。自分でもよく理解はできていないんです」
 ずっと一人で考えていた莉緒は自分の中にあるものを人に伝える手段を持っていない。多分言葉なんて簡単な物では表すことが出来ないんだろう。もっと抽象的な、例えば感覚をそのまま表現できるすべを彼女が持っていたら、彼女は自分の中身を上手くアウトプットすることが出来るのだろうか。
「でも、今は違う」
「え?」
「夕日を見ると、麻里さんの顔が浮かぶんです。この夏の思い出が色々と浮かぶんです」
「なんかそれ恥ずかしい」
「それが凄く幸せで。胸が一杯になって」
 莉緒は薄く開いた眼を閉じると、ゆっくり息を吸った。
「夕日を見ると、あぁ、こんな日なら死んでもいいな。って思えるようになった」
「……やめてよ」
 彼女が死について話題を出したのは久しぶりだった。
 なぜか私の中で、もう彼女は死ぬことは無いと考えてしまっていた。問題を打ち明けてはくれなくても、ふと消えるように死んでしまうことは無くなったと、勝手に考えていた。
「あーあ……。こんな日に、このまま、麻里さんに看取って貰えたらいいのに」
 目を瞑って布団に寝る彼女が遠く感じる。手を伸ばしてもどこかへ消えてしまいそうで、私は衝動的に隣に寝る彼女を捕まえるようにして抱きしめた。
「わっ。……びっくりしたぁ」
「そういうこと……言わないでよ」
「……ごめん」
「どこにもいかないでよ」
「……」
 私の頬と彼女の頬が触れる。そこに温かく濡れるものを感じてもう一度強く抱きしめた。
 どちらの涙かなんて関係ない。ただ私は彼女を繋ぎとめようと、優しく、強く、夕日が沈むまで抱きしめ続けた。

「麻里さん。苦しい」
「ごめん」
 莉緒が口を開いたのは夕日が沈む直前。部屋の中には闇が入り込み、電気をつけないと世界の輪郭がぼやけてしまう時間帯。
 私はそっと莉緒から離れて、彼女と反対側に体が向くまで転がって離れる。
 恥ずかしくて彼女の顔が見れなかった。
 自分の行動を自覚した今の瞬間から心拍数が跳ね上がったのが分かる。
 何やってんの。私。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「一つ、お願いしていい?」
「難しいこと?」
「ううん。簡単」
「じゃあいいけど」
 私が彼女に背を向けたまま寝転がっていると、徐に彼女は布団から起き上がる。
 気配を感じて顔を天井に向けると、四つん這いになった彼女の顔がそこにあって、思わずまた顔を背ける。
「私、麻里さんが煙草吸ってるところ見たい」
「は?」
 そんなこと? と口から漏れそうになる。
「だって麻里さん。私がここに来てから煙草吸ってないでしょ? 花火大会の時に言ったじゃないですか。あとで吸ってるところ見せてって」
「見たって何も面白くないよ」
「麻里さんのかっこいい姿見たいじゃん」
「煙草を吸ってる姿がかっこいいと感じる年なのが羨ましいよ」
「いいじゃん。吸ってる所見せてよ。もうちょっとで夕日も沈んじゃう。折角空綺麗だからさ。ベランダで」
「人前で吸いたくないんだけどなぁ」
「いいからいいから」
 私の意見なんて聞かずに、莉緒は本棚から煙草とライターを手に取ってベランダに向かう。
 彼女が鍵を開けてベランダへの戸を開けると、暑苦しい空気がむわっと室内に流れ込んだ。
「仕方ないなぁ」
 私は立ち上がり、キッチンに片付けてしまっていたガラスの灰皿を片手にとって、ふらふらと彼女の後を追う。
 ベランダのサンダルは一つしかない。だから彼女は裸足だった。
「足汚れるよ」
「洗えばいいだけじゃん」
 莉緒が裸足で高い場所に立っている。それだけで少し胸の仲がざわついた。
「はい。麻里さん」
 莉緒が煙草を手渡してくるので、無意識に受け取る。
「かっこいいもんじゃないよ?」
「そうですか? 女の人が煙草吸ってるのってかっこよく見えません? 自分は絶対に吸わないと思いますけど」
「そうじゃなくて……。多分。私のはかっこよくないと思う」
「どういうことですか?」
「見ればわかるよ」
 パッケージを見て小さな溜息をつく。煙草を吸い始めてから今まで、一度も銘柄を変えたことは無い。
「煙草、好きじゃないんだけどなぁ」
「だったら辞めればいいのに」
「私だって辞めたいよ」
 小さな箱から一本を抜き取り、左手の人差し指と中指で挟む。ライターを探してきょろきょろと見回すと、莉緒が自分の手の中にあるライターを主張する。
「一回、人の煙草に火つけて見たかったんだぁ」
「はいはい」
 左手で顔を覆うようにして、煙草の端に口をつけ、まるでキスをするように彼女に顔を近づける。
 満足そうに莉緒は口角を上げ、風を避けるように左手で煙草を覆いながら、もう片方の手で火を灯した。
 ジジジと紙が焼ける感覚と共に、その害ある煙を吸う。
 あぁ、久しぶりだ。この味だ。
 苦くて、辛くて。美味しくない。
 過去を想いだす味。
 一杯に不幸を吸い込んで、溜息のように不幸を吐き出す。
 そしてさらに込み上げてきた物を体から外に追い出すように、美しい夕焼けに向かって咽る。
 何度も何度も咽て息が出来なくなる。ベランダの手すりを掴んで体を上下に揺らす。
 驚いた莉緒が固まっているのが面白くて、呼吸を落ち着けてから彼女に向かって自嘲的な笑顔を向けてやった。
「ほら、かっこよくないでしょ?」
「まともに吸えてすらないじゃないですか」
「だって嫌いだもん」
「じゃあなんで家に置いてあるんですか」
「……忘れない為、かな」
 私にとって煙草は自傷行為。
 気取ってこれを始めて買った時には隣に佳晴がいて。
 それから何度も挑戦して咽る度に、佳晴に呆れた目で見られて。
 そんな彼を忘れないように。何度でもすぐに地獄を思い出せるお守り。
 苦しくて、苦くて。最悪な時間を吸うことで。彼を思い出す。思い出すことで彼への贖罪の気持ちになれる。
 そんな簡単な自傷行為。
「思ってたのと違いました」
「でしょ?」
「かっこよくはないですね」
 喉に残る違和感を何度も咳で誤魔化し、目頭に溜まる涙を拭いた。
「麻里さんにとって、煙草は大切なものなんですね」
「……なんで?」
「そんな顔、してました」
 やっぱり莉緒は鋭い。それとも私が昔を懐かしむような顔をしていたのだろうか。
 一度しか吸わなかった煙草を灰皿の上に置き、大きく深呼吸をする。煙草の後の深呼吸はより空気が美味しく感じる、なんて言ったら笑われるだろうか。
「煙草の煙とかふーってして欲しかったのに」
「なにそれ」
「あの、あるじゃん。煙を頭にかけるやつ」
「浅草寺のやつ?」
「多分そうかな。悪い場所に煙かけると治りますよ、みたいな。ほら、私頭悪いから」
「煙草の煙じゃ、もっと頭悪くなるよ」
「そう? 逆に麻里さんパワーで奇跡とか起こったりして。全身に浴びたら不老不死とかになれるかも」
「なに馬鹿なこと言ってんの」
「……馬鹿だからさぁ。奇跡なんかに縋っちゃうのかもね」
 私は煙草の煙の代わりに、大きな溜息を彼女に振りかける。
「勉強しなさい」
「勉強なんて意味ないもん。朝起きたら天才になってるなら話は別だけど」
「中身スッカスカの天才になっても仕方ないでしょ?」
「私にはどうしようもない血と肉が沢山詰まってるからそれでいいの」
「よくわかんないよ」
 やれやれ、と大袈裟に身振りを加えて呆れて見せる。その手が灰皿に当たって動いたので、慌ててその手で灰皿を掴む。
「麻里さん、それ下手したら人が死にますよ」
「あっぶなかったあぁ……」
「アパートの上層階からガラスの灰皿が降ってくるなんて笑えないですからね」
「一気に変な汗かいちゃった」
「もう、ドジですね」
 莉緒は私の方をトントンと小馬鹿にするように叩いて、ベランダから顔を覗かせる。
「まぁ、人はいませんでしたし。落ちても最悪セーフでしたよ」
「色々問題にはなるでしょ」
 莉緒がさらにベランダから身を乗り出す。瞬間、心臓の下部をぎゅっと掴まれたような痛みが走り、咄嗟に彼女の服を掴む。
「なに?」
「やめて。……怖い」
「あぁ……。ごめん」
 手すりに体重を掛けて浮かせていた裸足をペタと地面につけて、数歩ベランダから遠ざかる。もう一度ごめんと付け加えて、恐らく不安そうな表情をしているであろう私の頬に手を添える。
「ねぇ、麻里さん。……私が今、ここから飛び降りたらどうする?」
「……どうするって」
「追いかけて飛び降りたり、してくれる?」
「……しないかな。……しない」
「そっか。よかった」
「……なにも、よくないよ」
 そのまま莉緒は黙ってしまう。
 蝉とカラスの声を聴きながら、肌に寄ってくる夏の虫を払う。
 腕に留まった蚊を叩くと、小さく血が広がった。
「私さ、死ぬときは麻里さんの視界の中で死にたいな」
「……嫌だよそんなの」
「そう?」
「死ぬときが来るにしても。これからずっと長生きして。私が莉緒の事を忘れて。そして、私の知らないところで私が知らないまま死んでよ」
「死んでよなんて、酷いなぁ」
「馬鹿」
 莉緒は私の隣を擦り抜け、室内への戸を開く。ひんやりと冷たい室温が私の肌をなぞり、生理的に体が大きく震える。
「大丈夫だよ。麻里さんは私が救うから」
「……?」
「ううん。なんでもない。中入ろ?」
 莉緒が室内から手を伸ばす。ただ私はそっちがとても寒そうで、彼女の手を取ることが出来なかった。
「……ごめん。先は入ってて」
 私は自分の中に震える何かから目を逸らすように、灰皿から煙草を持ち上げ咥えてみる。
 少し吸って、先端が少し明るくなる。そして私はその煙に喉を焦がす。
 控えめに咳き込んで、煙草を灰皿に捨てた。
 煙草の先に灯った炎は今にも消えそうに弱く弱く光っていて。私はそれを見るのが、どうしようもなく辛かった。
 
「さっきの煙草、なんか思ってたのと違ったから、もう一つお願いしてもいいですか?」
「なにその制度」
「いいからいいから」
 風呂から上がり明日の帰省の準備をする私に、寝間着姿の彼女が唐突に話しかけてくる。
「で、そのお願いって?」
「えっと……。なんて言うか」
「自分で持ちかけてきて、言い淀まないでよ」
「だって恥ずかしいじゃん! 最近夜、まともに寝れないの!」
「だから?」
「鈍感すぎる」
「ごめんわざと」
 莉緒はぺちんと私の肩を叩く。最近手を上げられることが多くなってきたように感じる。
「色々と、考えることがあって……」
「だから?」
「もう! 一緒に寝たいの! ほら、早くベッドに行って!」
 タックルするようにして私を無理やり立たせ、ベッドの方に押していく。絶対照れ隠しだ。
「ちょっと、せめて歯磨かせてよ」
 莉緒はむくれると私を放って自分だけベッドに寝転がる。一度その場を離れて寝る準備を済ませ、ベッドに戻っても同じ体制で私を待っていたので笑ってしまう。
「何笑ってるの?」
「かわいいなって」
「うるさい」
 部屋の電気を消し、エアコンのタイマーをセットする。私がベッドに近づくと更に莉緒が端によってスペースを空けるので、そこに横たわった。
「狭い」
「文句言わないでくださいよ」
「言う権利くらいあるんじゃない?」
「……えっと、ごめんなさい?」
「別にいいけど」
 隣に並んで寝ると温泉旅行の夜を思い出す。あの日はベッドが今日の倍くらい広かったけど、隣の莉緒が血塗れではない分、今日の方が遥かに精神が楽だ。
「寝れそう?」
「うん」
「なんで最近寝れないの?」
「秘密」
「そっか」
「……ちょっと不安になっちゃって」
「……そっか」
 二人で天井を見上げて会話をする。私達の体の上には一枚の薄いタオルケットが掛かっていて、どちらが動くたびにもう片方にそれが伝わる。それに不思議な感覚を覚えながら、沈黙の中をお互い少しずつ身動ぎながら過ごす。
「ねぇ、麻里さん」
「あ、そいえば」
「なんです?」
「ごめんね、遮っちゃって」
「べつに」
 彼女に話したかった話題を思い出し、首を九十度曲げると、彼女も同じように同じタイミングで首を回す。動きがシンクロしてしまったことに笑いながら、私はここ数週間ずっと彼女に言いたかったどうでもいい話をする。
「莉緒ってさ、何か話し始める時に、毎回私の名前呼ぶよね」
「え?」
「しかも毎回、ねぇ、ってつけてさ。口癖?」
「そんなこと言ってました?」
「言ってるよ。ねぇ、麻里さん。って。さっきも言ってた」
「……なんか恥ずかしいです」
「気づいてなかったんだ」
「はい」
 莉緒は目を瞑り、タオルを引っ張って顔を隠す。
 彼女の可愛らしい仕草と引き換えに、私の背中がエアコンの風に当たる。
 私はくすくすと笑いながら、彼女の名前をあからさまに揶揄って呼んでみる。
「ねぇ、莉緒ー? ……痛っ」
 タオルケットの下で私の足が蹴られる。売られた喧嘩は買う主義だと、私も莉緒の足を蹴ってみる。
「いったーい」
「そんな強く蹴ってないでしょ」
「痣できちゃうじゃん」
「寝ながら蹴って痣を作れるほど私は怪力じゃない」
「私はか弱い少女なんです。そもそも生徒に暴行を加えてる時点で教師失格だよ?」
「私を教師だなんて思ったことないくせに」
「麻里さんには先生らしさが微塵もないからね」
「ひどいなぁ。夏休み開けたら、私の事学校で先生って呼ぶんだよ?」
「……そうですね~。でも元々学校で会ったことなんて殆どなかったじゃないですか。校舎広いし、担当学年違うし、私は半分学校に行ってないし」
「ちゃんと来なさい」
「麻里さんが学校にいるなら行ってもいいかなぁ。会いに来てくれる?」
「絶対行かない」
「じゃあやっぱり、麻里さんを先生って呼ぶ機会ないじゃん」
 学校で会ったらどんな顔をしていいのか分からない。絶対に莉緒には笑われるし、私も教師っぽく振る舞えなくなるし、会わないに越したことは無いでしょ。
 生徒と一カ月を過ごしていたなんてバレたらそれこそ問題になるし。
「まともに会話したこともないのに、莉緒よく私の事覚えてたよね」
「まぁ、先生の顔くらい全員一回は見たことあるもんですよ。そっち側と違って見る母数も多くないですし」
「それにしては私の名前まで覚えてたよね。学校の先生の名前覚えるタイプ?」
「いや、全然」
「じゃあなんで」
「なんででしょうね。ボケッとしてる先生だったから記憶に残ってたのかも」
「もう一回蹴るよ?」
「体罰反対」
 会話に終止符が打たれると、世界は突然静かになる。
 エアコンの駆動音。外で車が走る音。時計の秒針のリズム。
 会話に紛れていた音たちが主張を始めると、段々と眠気が私を包んでいく。
「私、もう寝ちゃいそうなんだけどいいかな?」
「別に確認取ることじゃないでしょ」
「莉緒は?」
「私はまだいいや。麻里さんの寝顔見てる」
「……そんなこと言われたら寝れないんだけど」
「嘘、嘘。大丈夫。私もすぐに寝るって」
「んじゃ。おやすみ」
「おやすみ」
 ふぅと一度息を吐いて、体の力を抜くと、すぐに眠りはやってきた。