「疲れましたぁ~」
「そうだね~」
 二人並んでベッドに倒れ込む夕方。窓から入る日差しは橙色。顔を埋める枕はいつもよりも柔らかい。
 莉緒の予約した温泉宿は正面玄関の風格から高級という二文字が相応しい雰囲気を放っていて、一度宿の名前を確認してしまう程だった。勿論客への対応もそれ相応のものを準備されていて、接客に慣れていない私達はびくびくしながら部屋へ案内された。
 この宿の中では恐らく一番小さいであろう二人部屋。普段の私の部屋よりも小さい部屋だが、流石はリゾート地。そこに狭さは感じられず寧ろその纏まった空間に安らぎを覚える。茶色に統一されたフローリングの一室にはソファにテレビ、ダブルベッドが置かれ、大きく開かれた窓からは箱根の緑が広がる。
 ベランダに出ればこの宿の目玉ともいえる備え付けの客室露天風呂。私達は真先にベランダに出てその檜の箱に興奮し、一通り室内を見て回った後こうしてベッドに倒れ込んだ。
「麻里さんへとへとじゃないですか」
「莉緒に言われたくない」
「二十超えると下り坂って言いますもんね」
 とりあえず寝転がったまま莉緒の足に蹴りを一発お見舞いする。
「いたーい」
「私まだ若いから」
「まだ若い人は年のこと言われて人のこと蹴ったりしないですよ」
「うるさい。そもそもその下り坂の人間と同じ体力してる若者ってどうなの」
「なんか最近体力なくなってきちゃって」
 ミュージアムを出てからは顕著にそれが表れていた。疲れを感じ始めた私の横で息切れしていたくらいだ。何度か心配したがその度に大丈夫だと言うのでそのままにしたけれど、やはり体調でも悪いのかも。
 振り返れば昨日の花火大会も疲れていたように見えたし、最近の朝の散歩もそう言われてみればと思うところがある。先入観の方が強いかもしれないけど。
「夏バテ?」
「んー。どうなんでしょ。私夏バテってなったことないんですよね」
「怠くなったり食欲がなくなったり?」
「じゃあ、麻里さんは年中夏バテじゃないですか」
「そうやってすぐ誤魔化すんだから」
「別に誤魔化してはないですけど……」
 莉緒は体を捩らせながら短い脚で私の足を弱々しく蹴り返す。彼女の裸足が私の太ももに当たり、それがひんやりと冷たかった。
「麻里さん温泉入ってこないんですか?」
「私?」
「だって、ずっと入りたがってたじゃないですか」
「まぁ、そうなんだけど。莉緒は?」
「えっと、私は……。いいかなって」
 申し訳なさそうに声を小さくする莉緒に驚く。折角箱根まで来て温泉に入らないなんて、メイン料理を食べない様なものじゃないか。
「なんで?」
「いや……」
「やっぱり体調悪い?」
「えっと」
「生理?」
「……躊躇いなく聞きますね。恥ずかしながらそれも理由の一つではあるんですけど」
「わざわざ私の誕生日に合わせたの? 温泉入れなかったら元も子もないじゃん」
「違うんですよ。いつもならもう終わってるんです。なんか偶々長引いちゃって」
「あー」
 それに関しては何とも言えない。運が悪いと言ってしまえばそれまで。
 彼女の体調が悪いのもそれに関係しているんだろう。
「って、それだけじゃないですから。そもそも私、長引いてなくても温泉には入ってなかったと思いますし」
「なんで」
「……温泉、慣れてないんですよ」
 隣を見てみると、莉緒は顔を枕に埋めている。声が籠って聞きづらい。
「こういうとこ、あまり来ないの?」
「あまりっていうか、ほとんど行ったことないです」
「それで恥ずかしいってこと?」
「……まぁ、そうです」
「なにそれ可愛い」
「馬鹿にしないでください。……他の人の裸とか、ほとんど見たことないんですよ。だからなんか怖くて」
「見たことないって……」
 たまにそういう子もいる。高校教師になって最初の年、引率としてついて行った泊まり込みの学校行事でそんな小さなトラブルを経験したこともある。その時は特別に教師陣の入浴時間にその子を招いたんだっけ。教師に見られるのはなんとか平気だけど、同級生にはどうしても無理だと泣いていたのを覚えている。
 思春期だと自分の体を見られることにも抵抗があるだろうし、温泉施設に行くことの少ない子には色々と難しいことがあるのだろう。
 莉緒も人生経験が偏っている人種だし、そういう何かがあるのだろう。
「だから麻里さんが薄着でうろうろするの正直苦手だったんですよ」
「……ごめん?」
「麻里さんの家なので、謝る必要はないですよ」
「言ってくれればよかったのに」
「言えないですよ。それにもう慣れましたし」
 無垢な彼女を無意識に苦しめていたことを知り、ほんの少しだけ申し訳なくなる。でもまぁ、彼女の言う通りあそこは私の家だし、仕方ないよね。
「じゃあなんで温泉に行こうって」
「麻里さんが行きたいって言ってたからですよ」
「無理しなくてよかったのに……」
「無理はしてないですよ。私はここの客室露天風呂で十分です。これでも楽しみにしてきたんですよ?」
 私は彼女の気遣いが嬉しくて。そして私の為にそんなことをしてくれる彼女にお礼を言いたくて。枕に顔を埋めたままの彼女の頭をそっと撫でてみる。頭に手が触れた瞬間、びくっと体を跳ねさせる。もじもじと落ち着かないように動いた後、震えるように体を固くしていたが、そのうち緊張を解いて頭を撫でられることに抵抗しなくなっていく。
「ありがとね。莉緒」
「何もしてないですよ」
「こんな楽しい誕生日はじめて」
「麻里さんの誕生日明日じゃないですか」
「そうだっけ?」
「自分の誕生日くらい忘れないでください。本当に記憶力いいんですか?」
「冗談。流石に覚えてる」
「もう」
 莉緒の小さな頭を撫でる。ゆっくりゆっくり、その短い髪に手の平を合わせていく。
 黒く細い髪はさらさらと私の指を滑り落ち、夏の日差しに当たり続けた頭からはシャンプー越しに彼女の匂いを感じる。
「私が髪の毛を触らせるなんてレアなんですよ?」
「そうなの?」
「物心ついてからは誰も触ってません」
「誰も?」
「はい。誰も。親でさえも触ってません」
 私の手が少しだけ止まる。
「でも今日は機嫌がいいので許します」
「そんなに重大なことだとは思ってなかった」
「髪を触られると、かなりのストレス値が出るらしいですよ」
「嫌ならやめるけど?」
「……やっぱり今日の麻里さん、少しおかしいです」
 緊張を隠すためにへらへらと笑いながら、私はまた彼女の髪を撫でる。
 彼女のパーソナルスペースはきっととてつもなく広い。私との共同生活は彼女にとって異常なレベルの行為なんだろう。学校での彼女の姿を見たことは無いけど、恐らく誰も寄せ付けない雰囲気を醸し出しているんじゃないか。顔が整い過ぎて近寄りづらいというか、そもそも考えていることが周囲と違い過ぎるというか。彼女への理解を深めるとそんな光景が浮かぶ。最初は莉緒に友達が多そうなんて印象を抱いていたのに、不思議なものだ。
「莉緒、お風呂部屋ので済ませちゃうんでしょ?」
「はい。っていってもここの客室風呂、凄いんですよ。見晴らしもいいし、露天風呂だし。それに檜だし。ちょっと有名らしいです」
「じゃ、私も一緒に入っていい?」
「……え?」
 濁点が付いたような驚きの声が返ってくる。距離を詰めるには裸の付き合いから。私も人に見せられる体をしている訳じゃないけど、自分の過去を話すならそれくらいの恥をかかないと踏み出せない。
 それに、一緒に温泉旅行に来たのに私だけ大浴場になんて行けないじゃん。
「駄目?」
「…………駄目じゃ、ないです、けど」
「そっか」
 より強く枕に顔を埋める彼女の頭をまた撫でる。恥ずかしがっている彼女は可愛い。まるで初めて一夜を共にする若いカップルみたいだななんて考えながら、そもそも自分にそんな経験が無かったことを思い出す。
「……準備してきます」
 莉緒は不意にベッドから起き上がると、私から逃げるように荷物を置いた壁に向かう。そして幾つかの袋を手に取って今度はトイレへ向かう。家出をしてきた彼女の手荷物は可愛いポーチなんかではなく、薬局の紙袋やスーパーのビニール袋。その可愛げのなさと彼女の顔とのミスマッチが莉緒らしくて笑ってしまう。
 暫くして莉緒がベランダに出るので、私はそれを目で追った。
「こっち見ないでください」
「だってガラス張りなんだもん。目に入るじゃん」
「目瞑って寝ててください」
「はーい。しばらくしたら行く」
 莉緒の機嫌を損ねないように、私は彼女の言い分を聞きベッドにまた倒れ込む。目を閉じて数分待つとベランダからお湯の音が響き、その数秒後に檜の箱からお湯が大量に流れ出る。
 いい音だ。私の家だとシャワーが多いから浴槽の音はあまり聞くこともない。目と鼻の先で莉緒が風呂に入っている光景を思い浮かべて危なさを感じたけど、同居生活をしていてなにを今更と笑い飛ばした。
 私は極力外の風景を見ないように動きながら荷物をまとめ、入浴の準備を済ませる。
 服を脱ぎ一応髪を束ね、左の手首に多めの髪留めのゴムを通した。
 温泉用にと買った新品の手ぬぐいで体を隠しながら窓を開けると、心地よい風が体に当たる。裸で風に当たるのも久しぶりだ。夏の外気温は全裸には丁度良い。風邪をひく心配がないのが夏の露天風呂のメリット。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「ここ、絶対一人で入る大きさですよ?」
「だろうね」
「だろうねって……。分かってたんですか?」
「まぁ、だいたいそうじゃない?」
 驚きつつ私を睨みつける莉緒の視線を避けながら、桶で浴槽から湯を掬って体に掛ける。
「狭い所に二人で入るのも一回くらいいいでしょ。旅の恥は――」
「だからそれ、私がいる時点で使い方違うんで」
 旅先には知り合いなんていないから恥をかいても大丈夫的な言葉だっけ。
「莉緒との生活も一時的な物なんだし、似たようなものでしょ」
 もう三分の二に差し掛かる同居生活の終わりをわざと口に出しながら、私はもう一度体に湯を掛ける。
「ほら詰めて」
 立ち上がって上から見下ろすように莉緒を見る。変な所で律儀なのか、礼儀正しいのか、あれだけ恥ずかしがっていたのに、湯船にタオルを浸けていない。だから彼女は何も隠さないまま無防備にすべてを晒している。
 風呂なんだから当たり前なんだけど、その肌面積の多さに少し驚く。莉緒の裸をちゃんと見るのは初めてかもしれない。いつも露出している箇所ですら白いのに、普段布に隠れている場所は更に一段と白さが増す。白を通り越して不健康に青く見えるその肌は美しかったが、あまり人間味を感じなかった。
「なに見てんですか」
 私の視線に気が付いたのか莉緒は体を隠すように身じろぐ。それでもちゃんと私の入るスペースを空けるように詰めてくれるので、私は右手で持った手ぬぐいを浴槽の淵に置きながら、左手で照れ隠しをするように鼻をかいた。
「……隠さなく――」
「なに?」
「何でもないです。早く入ってください。なんでベランダに全裸で立ってるのに仁王立ちでいられるんですか」
「別に誰も見てないから」
「見てたら問題ですよ。ほら、早く入ってください」
 莉緒に急かされながら私は湯船に足を入れる。足先から熱めのお湯に浸かっていき、ゆっくりと体を檜の箱に収めていく。その過程で私の体積分の水が零れ落ち、また豪快に音を立てた。
 私と莉緒は肩を並べるようにして外を眺めている。空は橙が終わり、殆どが藍色に変わっていた。夏の空気には蝉が一生懸命存在を誇示して喧しい鳴き声が溶け込んでいて、目の前に広がる緑は青々しく生い茂っている。まさに夏。夏の夕暮れを二人で暫くの間、黙って見ていた。
「ねぇ、悲しいときって、夕日が見たくなるよね」
 莉緒がポツリと言葉を漏らした。
「え?」
「これも引用です」
「王子さまの?」
「はい」
 よほどさっきのミュージアムが楽しかったのだろう。去ってもなお余韻が抜けきれない彼女に子供を見る時の可愛さを感じる。
「麻里さんは夕日ってどんな時に見たくなりますか?」
「その質問難しいね」
「そうですか?」
「だってそんなこと普通考えないよ。夕日を見たらどうか、ならまだしもどんな時に夕日を見たいかなんて考えたこともない」
「私は考えますよ」
「死ぬときに見たいとか言うんでしょ」
「……よくわかりましたね。正解です」
「これだけ一緒に入れば分かっちゃうよ。嫌でもね」
 額の汗をぬぐうように左手で顔を撫でる。湯船にその手を戻ると静かに水面に波紋が生まれた。
「綺麗な夕日ができる日の法則って麻里さんに言いましたっけ?」
「なんだっけ。聞いたような聞いてないような」
「雨ですよ。午前中に雨が降って、午後はカラっといい天気になって。そんな日の夕暮れは空が綺麗に橙に染まるんです」
 今日は雨が降ってないんで五十点くらいです。なんて言いながら莉緒は水面に映る藍色をぱしゃぱしゃと弄ぶ。
「私の人生って、言ってみれば雨続きみたいなものだったんですよ。そこから人生ノートを書き始めるようになって。無理やり自分の人生を晴れにしようと藻掻いてるんです。だから最期の日はそんな一日がいいなって。雨が降って晴れて、多分私の人生に虹は似合わないので雨上がりはすこし泥で汚くて。それで太陽が沈む時には真赤に世界が染まる。そんな一日」
 莉緒との出会いを思い出す。あの空が真赤に染まった夏の入り口。空の赤を背負う彼女の姿はとても美しかった。
 きっと彼女もあの美しさに魅了されていたのだろう。あの景色が美しかったから彼女は死に近づいた。死に近づいたから、きっと彼女はまだ生きたいと思えた。
「私、命って炎だと思うんですよ。毎日毎日燃料を投下して消さないように守っていく炎。弱くても強くても駄目で、丁度いい火力を保たなきゃいけないんです。あまり強すぎると、燃料が直ぐになくなっちゃいますから」
 例えば、なんて、莉緒は初日に私に説明したような例を持ち出す。
「芸術家って短命の方が多いじゃないですか。何かを創り出すって相当エネルギーを使うから、だから芸術家は命の炎を激しく燃やして早くに燃料を使い切っちゃうんじゃないかなって。これも比喩なんですけどね。多分生活リズムとかそんな話だと思いますけど、なんとなくかっこいいじゃないですか。そう考えた方が」
 やっぱり言葉にするのは難しいですと唸る莉緒を見る。すると莉緒は恥ずかしがって私の顔に腕を突き付けて無理やり首を逆に回そうとする。
「こっち見ないでください」
「もしかして恥ずかしさを誤魔化す為に難しい話してる?」
「……そういうのは分かっても口にしないもんですよ?」
「じゃあ黙る」
「もう遅いです」
 沈黙が生まれ、軽やかな水音だけが響く。
 無言の状態に耐え切れなくなるのは莉緒だと分かっていて、私は無言を貫いてみる。すると案の定、莉緒はすぐに続きを話し始めた。
「私。自分で言うのは烏滸がましいけど、芸術家の人達と同じだと思うんです。人生の燃料を過剰に燃やして生きてるって自覚があります。なにも作ってないので無駄遣いとも言えるんですけど。暗いのが怖いから炎を大きくして少しでも明るくしようとしてるんだと思います」
「ちょっと分かるかも」
「え?」
「命を燃やしてるって表現。莉緒から言われなくても、勝手に莉緒にそういう印象持ってた。……莉緒の目ってさ、たまに燃えてる時があるの。って、急に詩的な表現になっちゃったけど。……なんて言えばいいのかな、ギラギラしてて怖い時があるって言えばいいのかな」
「そうなんですか」
「初めて会った時とか、なぜか莉緒が怖くて足が震えたもん」
 そう言うと莉緒はケタケタと笑った。
「知らなかったです」
「言いたくなかったからね」
 もう一度莉緒は笑い、声のトーンをさっきまでの真面目なものに戻す。
「私が怖いかはともかく、私は命を燃やしてるんです。だからほら。夕日って空が燃えてるみたいでしょ? ピッタリかなって。燃える世界に燃え尽きる私。そんな綺麗な世界で私は死にたい。だから私は死ぬときに夕日が見たいんです」
「そういえばそんな話だったね」
「はい。次、麻里さんの番です」
 莉緒は私に会話を投げる。
「私、か」
「どんな時に見たいですか?」
「夕日……」
「夕日の話じゃなくてもいいですよ?」
「え?」
「何でもいいです。話したいことがあるならなんでも。私は何でも聞きますよ」
 莉緒の目は優しく、私を救ってくれる慈愛に満ちているように見えた。
 私の過去。私のトラウマ。
 私の終わりと今の私の始まり。
 全部、莉緒に話してしまおう。
 全部、蹴りをつけてしまおう。
 きっと潮時だ。
 この道が正しいと思っていた私に、莉緒は間違っていると言ってくれた。そして正しい道に手を引いてくれた。
 そんな莉緒になら話してもいい。
 そんな莉緒だから、救ってくれる。
 過去のまま凍り付いてしまった私の時間を莉緒なら溶かしてくれる。
 彼女にはそれだけの熱量がある。
「じゃあ、一つ。話をしていいかな」
「はい」
「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけれど」
「どんな話ですか?」
「莉緒に合わせるなら、そうだな。じゃあ、朝焼けの話。私の過去の話」
「聞きますよ。どれだけ長くなっても」
 私は一度湯船に深く浸かる。温かい水が体をほぐして口も軽くしてくれる。
 ふと、莉緒の顔が見たくなって首を捻った。
 もう一度くらい彼女を恥ずかしがらせてもいいだろう。
 悪戯心で私の隣にいる美しい少女を見る。
 視線が合うように顔と顔が向き合い、彼女の白い肌が私の網膜を焼く。
 そしてその美しさの中に不純物が混じった。
「莉緒、鼻血……」
「……え?」
 真白な肌に一筋の赤が流れている。さらさらと鼻から流れ落ち、あっという間に首、鎖骨を下ると水面に到達した。
「大丈夫?」
 ゆっくり水面に彼女の赤が広がっていく。
 莉緒は動かない。驚いたように目を見開きながら動かない。
「莉緒?」
「…………鼻血?」
 ようやく動いた莉緒はゆっくり自分の口元を手の甲で拭う。白い肌の上に彼女の赤が広がり、それを視界に収めた莉緒は固まる。いや、固まったように震えだした。水面は彼女を中心として波を作りはじめ、その波は彼女の赤を運ぶ。
「ねぇ、莉緒? 大丈夫?」
「…………やだ。――やだ――やだ」
 最初はゆっくりと、そして次第に加速して莉緒は何度も何度も自分の口元を擦る。
「莉緒、大丈夫。鼻血くらいすぐに止まるって」
「やだ、やだ……」
「のぼせちゃっただけだよ。長話してたからさ。血行が良くなったんだって!」
 聞く耳を持たない彼女を何とか正気に戻そうとへらへらしながら彼女を宥めてみる。しかし彼女は一向にこちらを向かない。
 どう見てもおかしい。周囲の言葉なんて耳に入らず、彼女の目はうつろに揺れる。
 私はこれを知っている。
「とりあえず上がろ? 立てる?」
 私は震える彼女の体に触る。その体は熱くて冷たい。
 脇の下に手を入れ、とりあえず湯船から出そうとする。
 口元を真赤にした彼女の顔は真青で、白と赤と青がチカチカと私の視界で揺れて、脳を掻き回す。
「ほら、せーの」
 掛け声と共に彼女を持ち上げ、浴槽の淵に座らせる。
 座らせるや否や、彼女は私の手を手繰り寄せ、勢いよく抱き着いた。
 私の背中に手を回し、力強くも弱々しく体にしがみつき、胸に顔を埋める。
「ねぇ、……。やだ。ねぇ……。やだよ」
 震えた手は固く、私を話さない。
「やだ、やだ」
 私はこの状況に驚きながらも咄嗟に彼女の頭を撫で始める。
「私、やだよ……」
 ゆっくりゆっくり彼女の心拍数を下げるように頭を撫でていく。
「大丈夫。大丈夫」
 彼女がどうしてここまで鼻血を恐れているのかは分からない。血が怖い? そんな馬鹿な、さっきも生理だと言っていた。血が怖いなら毎月こんなことをやっているのだろうか。そんな筈はない。じゃあ、どうして。
 私は腕の中にいる少女を何一つとして理解できないまま、無責任な言葉を吐き続けることしかできない。
「……こわい」
「大丈夫だよ。私が付いてる」
「やだ……。もう、やだ」
「大丈夫。大丈夫」
 かなりの時間をそうやって体を抱きしめたまま過ごした。
 少女の鼻から流れる血はしばらく止まらず、浴槽は血で汚れた。
 少女のパニックが収まり、鼻の血も止まる頃には空は星空に変わっていて、いつもより多くの星が空に浮かんだ。
「大丈夫だよ。私がいる」
 そんな言葉を何百回と掛けた。
「大丈夫。落ち着いて」
 意味のない言葉を何百回と囁いた。
 少女の身体から力が抜け、眠りに落ちる寸前、小さく彼女の喉が鳴る。
「おとうさん。おかあさん。……せんせい。……まりさん」
 そして莉緒の意識はすっと抜け落ち、血だらけのまま寝息を立て始めた。