「私、馬鹿だからさ、うまく言えないんだけど、何故、ここに来たのか分からないんだあ」

 と女は言ってショット・グラスを唇に寄せた。女は頭を動かさないで手首を返すだけでグラスの中身を口の中に放り込むように空けた。
「ここは、Foolという名のBar・・・愚か者が静かに酔い潰れるための店さ」
「なるほど、そうかあ」
 女は初めてあたしと視線を合わせて笑顔を見せた。儚さの中の一瞬の希望、そんな笑顔に見えた。
 
 今宵、紛れ込んだ愚か者は初めての客なのに妙に心に引っ掛かる女だった。ふと、前から知っているような錯覚を覚えた。

 彼女が現れたのは、ほんの少し前だった。カウベルが鳴った。そっとドアを開け、顔を出して店の中を覗き込んだのは四十前後の一人の女だった。ドアの外から冬の匂いがした。
 女はあたしと目が合うと、「いいかしら?」という視線を投げて来た。
「いらっしゃい、どうぞ」
「私、一人なんだけど・・・」
「構わないよ、ここは静かな店だから」
 女は頷くように微笑んでから入って来た。
「あんたが開けたドアの外から冬の匂いがしたよ。まだ春にはならないようだね」
「私、北から下りて来たところだから。向うはまだ雪の中」
「ふうん、雪の中から来たんだね」
「私が春を知らない女で、いつも冬をまとっているのかも」
 と言って女は舌をチョロっと出した。だから冬の匂いがするのだと彼女流のジョークのように見せた。でも彼女は視線が合うと逸らした。
 
 店の奥からピアノの音。
♪ The way we were・・・

「マリアのピアノはその瞬間の心を映す」
「ピアニストがいるバーだって聞いていたんだけどさ、この雰囲気、私なんかが入れる店じゃなかったみたい」
「ここは気取った高級な店じゃない。場末のバーさ。安心して大丈夫だよ」
「そうかぁ、聞いた話では愚か者が集う店だって」
「ふうん、この店のことを色々と聞いて来たのかい?」
「うん、私を失くして悲しみに暮れる男が、この店で酔い潰れたとメールをくれたんだ」
 と言った彼女の瞳はちょっとだけ悪戯っぽく笑った。
「あんたを失くした男かい?」
 彼女は目を逸らした。
「あっママ、バーボンをストレートで下さい、ショット・グラスで」
「はいよ、バーボンは何がいいかな?」
「うん、ワイルド・ターキー」
 ワイルド・ターキーはアルコール度が五〇、五度のバーボンだ。あたしは黙ってショット・グラスにワイルド・ターキーを注いで彼女の前に出した。

「私、馬鹿だからさ、うまく言えないんだけど、何故、ここに来たのか分からないんだあ」
 と女はそう言ってショット・グラスを唇に寄せた。女は頭を動かさないで手首を返すだけでグラスの中身を口の中に放り込むように空けたのだ。
「ここは、Foolという名のBar・・・愚か者が静かに酔い潰れるための店さ」

「どう、ママ。さっきの飲み方?」
「あざやかだね、頭も動かさずに綺麗に喉に放り込んだよ」
「ハード・ボイルドの主人公がそんな風に飲むんだって、その男が教えてくれたんだ。彼はかなり練習したそうだよ。初めは胸に全部こぼしてしまったって」
 あたしはその話を前に聞いたことがある。この店の客、すなわち愚か者の一人、恋次郎だ。
「私は、一発で決めて見せたんだよ、その途端、彼は私に夢中」
 と言って彼女は舌を出した。
 あたしが空いたグラスに手を伸ばす。
「あっママ、今度はソーダ割りにして。もうストレートはおしまい。女の酔っ払いはカッコ悪いでしょ?」
「酒に呑まれなきゃいいのさ」
「そうかぁ、ママの言葉は説得力があるね、あっ私のことはアイって呼んで」
「アイかい?あたしはユウコ、ピアニストはマリア」
「アイは、アルファベットのiだからね」
「アルファベットのiなんて洒落ているね」
「でしょう?」
「どんな男だったから彼はアイを失くしたのだろうね」
「遊び人のくせにさ、紳士だったからだよ」
「ふうん、意味深だね。紳士だったからなんて」
 あたしは水割りを出しながら、アイに視線を向けた。アイは視線を合わせない。
 今度は少しずつ水割りを飲んでいた。
「チョイ悪親父を気取って、名前は恋次郎、恋多き男だからだって言ってさ。夜遊びする時の源氏名なんだって。私達もバイト先のスナックでは源氏名使うのだからお互い様だって。ふざけているでしょう?早い話がさ、本名の彼には普通の生活があるってこと。だから、俺に本気で惚れるなよってこと」

♪ The way we were・・・

「この曲、聞いたことがあるけど・・・」
「The way we were・・・追憶っていう映画のテーマ曲だよ」
「あぁそうなんだあ。曲は聴いたことはあるけど曲名は知らなかったなぁ。映画の名前も知っているけど観たこともない。でもショーワの時代のものって妙に懐かしいものね」
「うん、そうだね。あたしも映画を映画館で観たわけじゃない、多分テレビで観ただけだと思うよ」
「追憶かぁ」
「ここは、アイにとっての追憶の街になるのかな?」
「追憶の街・・・とFoolという名のBar・・・ぴったりな取り合わせじゃない?ママ?」
「そうだね、そしてマリアのピアノ」
「うん、ピアノの音が気持ちいいって初めて感じたかも私」
「マリアの左手の薬指は動かない。素手でナイフの刃を握ってしまった。好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとしてね。その時、マリアは左手の薬指を傷つけてしまった。堕ちて逝くピアニストの言い訳だけかも知らない。でもね、だからかもしれないけどね、ここに流れて来たマリアが弾くピアノはその瞬間の心を映すのさ」
「そうかぁ、この曲は私の過去を映しているのかぁ。だから気持ちいいんだね、きっと」
「アイにとってこの街は気持ちのいい想い出なんだろう?」
 アイは遠くを見るような目をして、グラスを揺らした。
 氷がカシャンと気持ちよく響いた。アイは少しずつ酔いながら想い出に心を向けていた。

♪ The way we were・・・

 アイは友達を頼ってこの街に流れて来た。古いライトバンの車には生活必需品が詰め込まれていた。いつでも何処へでも逃げ出せるように車には運転シートしか空きスペースがないくらい車の中は荷物でいっぱいだった。
 友達は子供が産まれて同棲していた彼氏と入籍したばかりだった。アイに寝床を用意するのも大変な2DKのアパートなのに同郷の仲間だと言って、アイを快く迎え入れてくれた。
 アイは長居をするつもりはなかった。北国で育ったアイにとってこの街の夏は耐えがたい暑さになると感じていたからだ。季節はもうすぐクリスマス。春までには次の街へ向かいたいとアイは考えていた。

『何しているの?』
 彼からのメールだった。
『居場所がないから空を視ている』
 とアイは返信した。友達家族には余計な負担はかけさせたくないと考えていた。だから寝床だけ用意してもらえれば十分。食事は自分で調達すると言ってお昼前にアイはいつも外に出ていた。日曜日だった。行くあてもないし、きっちり三食食べなくてもいい。その日は荷物の詰まった車の中でぼんやりと晴れた空を視ていただけだった。
 彼とはバイト先のスナックで二度ほど席についただけだった。といってもバイトはまだ初めて五日だから彼はもうアイの客という感じになり始めていた。

 昼食がまだなら何か食べに行こうと言われた。日曜日はバイトも休みだった。お昼はしっかり食べて夕食は抜いてもいいと思った。
 駐車場の近くに迎えに来てもらった。
『ガソリン代ケチって毛布にくるまっていたよ。私の車を見るか?生活必需品揃っているんだ。いつでも好きな時に消えることが出来るように』
 そう言ったアイの目を彼が見つめていた。本当は荷物だらけの車を彼には見せるつもりなどない。アイはすぐに瞳を逸らしていつものように笑った。アイの瞳に、瞳の奥にどうしようもない絶望があるのを彼に気づかれたような気がした。

『何が食べたい?』
 彼の車に乗ってまもなく聞かれたが特に食べたいものなど浮ばなかった。
『お腹がいっぱいになれば何でもいいよ』
 アイは深く考えないで答えていた。多分、彼は色々と考えていたようだ。連れて行かれたのは大きなショッピングモールだった。
『ここなら色々な店がある、視て回ろう。食べたいものがあったらそこへ入ろう』
 ショッピングモールには映画館も入っていた。
『へえ、ここはショッピングモールなんだね。映画館もあるよ。あの映画、今年ヒットするって言っているね、でもそれが私達にとって面白いかは別。映画なんて生きるのに無くても平気、恋次郎もそう思うタイプじゃないかしら?』
 彼はヒットする映画なら後学のために今度一緒に観ようと誘って来た。
『しょうがないな、男が一人で観るような映画じゃないし、女が一人で観るようなものでもない、いいよ!一緒に行ってあげよう』
 とアイは悪戯っぽく笑って見せた。
 アイは何でもありそうな洋食レストランを選んで入った。
『私、ハンバーグランチ、ライス大盛りで』
 アイは夕食は菓子パンで済ませようと考えていた。その時、彼が自分の分はパスタだけ注文していたのを見て彼は家で昼食を済ませてから出て来たのだとアイは感じた。彼には家族がいるということを一瞬忘れかけた自分を恥ずかしいとアイは思った。

♪ The way we were・・・

カシャ
 とグラスの中で氷が響いた。
 あたし達はアイの過去から現実に戻って来た。

「彼がただの遊び人なら、騙された振りをして、私が彼を転がして貢がせてやろうと思っていたんだ、最初はね」
「だけど彼は違ったんだね」
「最初に会った時はスナックの女と客、それだけだと思った」

♪ The way we were・・・

 アイがバイト先のスナックで恋次郎の席に着いた二度目の時に
『あんたのその飲み方、カッコいいね』
 と言ったら、ハード・ボイルドの主人公がグラスを呷る時、頭を動かさないで手首を返すようにして喉に放り込む。そんな話を読んだことがあって練習したのだと彼が答えた。アイは腹を抱えて笑った。
『練習したんだ?すごーい。どうでもいいことに努力するって面白いよ。でも、なんで?』と聞いたら、彼は急に赤くなって黙り込んでしまった。
『ははあ、わかった!女の子の前でカッコつけたいわけだ』
 と追い打ちをかける様に図星を突いた。
 図星をつかれた彼は何も答えずグラスを呷る。
『だけど、うまくいったじゃん』
 アイは瞳をくるくる回して顔を近づける。
『だって私のお目に止まったわけだから』
 舌を出してアイは笑いながら、私もやってみると言ってグラスを構えた。
『折角のドレスが濡れるぞ』
 と言った彼の制止には耳も貸さず、アイはグラスを呷った。
 見事に手首を返すだけでグラスを空にした。
 得意気に鼻を上げてにやりと微笑み、
『どうよ、見直した?努力するのはあなただけじゃないのよ』
『練習したのか?』
『先週、あなたに初めて逢って、カッコつけた飲み方しているなあって思って。帰ってから自分でもやってみたら、シャツがビショビショになっちゃったよ』
『ばかだなあ、何だってそんなことするんだ』
『ばかはお互い様でしょう。努力は報われるものなのよ』
 アイは悪戯っぽく笑う。
『だって、あなたはもう私に興味津津じゃない?私の勝ちよ』
 声を上げて笑う彼にアイは名刺を渡した。名刺には携帯の電話番号とメールアドレスが書かれてあった。

カシャ
 とグラスの中で氷が響いた。
 あたし達はアイの過去から現実に戻って来た。

♪ The way we were・・・

「名刺を渡した翌日にメールが来たの。ホントは昼間からお客とは会わないの、店に呼んでナンボだからさ。私達の世界は」
「だけど、会ってしまったのは、彼に何かを感じたのかい?」
「寂しさかなあ、彼も居場所がない。そんな風に感じたの。ねぇママ。このバーボン・ソーダはいくら飲んでも丁度いい。酔いに合わせて調節してくれているの?」
「美味しいならよかった」
「あの頃、私、この街に少し住みたいと思い始めていた。友達の家に居候していることを私、彼に話してしまったの。私、あの時、何かを期待したのかなあ?」
「どうかな?純粋にアイは相談しただけだと思うよ。彼が部屋を借りてくれると言ったら、アイはそれを受け入れたと思うかい?」
「そんな負担を彼には掛けさせないよ、多分。どうだろう?ママ。私、分からない」
「実際はどうだったんだい?」
「スナックのオーナーはだいたい緊急用に部屋の一つはキープしているものだからって掛けあってくれたの」
「なるほど」
「店があるビルの上に女の子の着替え用に部屋が借りてあって昼間は空いているから暫く使っていいという事になったの」
「それは良かったね。でも着替えに皆が来るってことだね」
「寝泊まり出来れば十分。でも聞いてくれてありがたかった。ガス、電気、水道、冷暖房完備だし。夜、皆が着替えに入るけど夜は私も仕事だし。何よりお金が掛からなかったから。一人でいる時間が出来たこと、一人でいる場所が出来たことが嬉しかったよ」
「時には、孤独な時間は必要なものだからね」
「ママは何でもお見通しだね。彼には店には週に一度くらい顔を出してもらったけど、私達、毎日会う様になった。一時間でも、三〇分でもいいから何か理由を付けて会おうとしていた。昼間だったり、私が仕事を上がる深夜だったり・・・」

♪ The way we were・・・

『洗濯機に繋ぐホースがボロボロなんだ、買いに行くの付き合ってくれる?』

『電池が必要』

『シャンプーきれた、私、使うメーカにこだわりがあるんだ』

『猫がいるんだよ。ママには内緒で店の女の子達が二階で飼っていたんだ。これからは私が面倒をみるんだあ。餌、近くに売っている所、あるかな?』

 アイは毎日、小出しに用を作った。彼はそれをいつも待っていてくれた。彼は仕事の合間に時間を作って買物につき合った。そして買物のネタが尽きた頃、アイは一枚のチラシを見せた。

『有酸素運動がいいんだって、駅前になんかできたよ。一〇分間、台の上に乗ってブルブルするだけでいいみたいだぞ』

 彼は入るのが恥ずかしいから嫌だと言った。一緒にいる時間が出来るとアイは誘った。そのチラシは半月前に彼も見た覚えがあった。アイがそのネタをキープしていたことに彼は気づいていた。

♪ The way we were・・・

「理由がなけりゃ逢えない・・・なんて不器用な二人なんだろうね」
 あたしはアイのグラスの汗を拭う。
 アイはバーボン・ソーダを喉に放り込む。
「私達は毎日、ダイエット施設で待ち合わせた。私がブルブルマシンと呼ぶダイエットマシンに並んで乗ったよ」

♪ The way we were・・・

『体脂肪測定のデータをみせてよ』
 
 データを見せようとはしない恋次郎から、アイはデータを奪い取った。

『なんだあ、こりゃあ。あり得ない、どうすんだ』

 彼の数値が標準値より高いのを見つけると鬼の首をとったかのようにアイは笑った。

『ヤバいよ、もう肉は食べられないよ、ベジタリアンになれよ、草食系男子になるしかないね』

『悪いけど、私は肉を食べるよ。体がもたないもの。あなたは私の横で指を咥えて見ているのね』

『これからは、私があなたの健康管理をしてあ、げ、る』

一瞬、彼は笑顔を消してじっとアイを見た。

『なあんて・・・ね』

 アイはまた悪戯っぽく笑ってごまかした。

カシャ
 と氷とグラスの触れる音。

♪ The way we were・・・

「新しく作り直すよ、薄くなってしまっただろう?あたしも一杯もらうよ。切なくなってしまったから」
 アイはマリアにも一杯奢りたいと言った。

「マリアにはギムレットでいいかい?」
 あたしは手際よくプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。
 ローズ社のライムジュース。レイモンド・チャンドラーが作った孤高の探偵フィリップ・マーロウで有名になった。
 ジンとライムをハーフ&ハーフで氷と一緒にミキシング・グラスに入れ、バースプーンでステア。
「クラシック・ギムレットだよ」
 あたしはピアノにギムレットを運んだ。
「シェイクじゃないギムレットがあるなんて知らなかったよ」
 カウンターに戻ったあたしにアイが言った。
「ママは?」
「あたしの分のギムレットは作らない」
「自分の分は自分では作らないということ?」
「そう、あたしが好きなギムレットは自分では作らない」
「他に作ってくれる人がいるってことかぁ」
「今はいないよ、愚か者さ、あたしのために人生を棒に振っちまったバーテンダーが昔、ここに居ただけ」
「ママ、なんて悲しい目・・・なんでそんな悲しい想いをしたの?」
「女・・・だからさ」
 あたしはアイと同じバーボン・ソーダを作って、アイのグラスと合わせた。
「女、だからかあ。私達、みんな、女だね」

♪ The way we were・・・

 マリアのピアノの音は一度も途切れず、気づいた時にはギムレットは空になっていた。
 あたし達ははまた、マリアのピアノと一緒にアイの過去へと潜って行った。

『恋次郎の仕事っていいね』
 そう言った時のアイは真剣な顔をしていた。
 彼は脱サラして介護事業を起業していた。
『僕の会社の仕事は訪問介護だよ。働きたくても介護の仕事をするにはヘルパーの資格を取らないと出来ないんだよ』
『そうか、見習いとかあればいいなって思ったんだ、資格取るなんて無理、諦めるよ』
『諦めるのは早い、資格を取りたいという気持ちがあるなら協力するよ。夜の仕事は若いうちだけで長くは続けられないだろう?』
『うん、私が可愛いと言われるのもあと数年だけだしさ、だけど私の年齢でこの美貌ってかなり凄いことじゃないかしら?』
 アイはいつものように最後はジョークで話を濁してしまおうとしているのを彼は気がついていた。
『資格を取ったら僕の会社で最低三ヶ月働く条件で学費の半分を出してやるよ』
『えっ?本当か?恋次郎の会社で働くよ。あんたが教えてくれるなら安心だし。私さ、がんばるから』

カシャ
 と氷とグラスの触れる音。
 あたしはアイのグラスの水滴を拭った。

「ふうん、でもアイはすんなり「うん」と言ったのかい?実際は、ああでもない、こうでもないと理由をつけて彼を困らせたんじゃないのかい?」
「なんでもお見通しだね、ママは」
「手を伸ばせばすっと離れてしまう、怖いのだろう?優しが」
「特にさ、それを失う時が来ることが分かっているから・・・」
 と言ったアイの悲しい横顔をあたしは見ていた。
「恋次郎が言ったことがあるんだ、雪に願うって」
「雪に願う?」
「恋次郎が好きなchiiの曲に、“願い雪”というのがあって、chiiに聞いたことがるんだって、タイトルの意味を」
「それで?」
「溶けて消えて無くなる前のその一瞬に、願えたなら叶いそうな・・・そんな気がする、からと。だから私、恋次郎なら何を願う?って聞いたんだ」
「ふうん、いつ消えてしまうか分からないアイに恋次郎は何を願ったんだろう?」
「消えてしまう前に残してくれたんだとと思うよ、恋次郎という存在を」

♪ 願い雪

 あたし達はまた、酔いの中に堕ちて行く。

♪ 願い雪

『ねぇ、こっちの夏は、じめじめして暑いのだろうなぁ。私さクーラーなんてない北国で育ったから暑さに弱いんだ。ここへ来る前は北陸、そんなに暑くない町にいたから・・・友達がここへおいでよと言ってくれた時も迷ってね』
 アイは別れの日を匂わせた。それでも資格を取りたいというようにアイの瞳には意思があった。
 アイは彼を信じようとしていた。依存してもいい、そう感じさせるものを持った男だと思った。
 アイが一つの町に居られる時間には限界がある、アイは普段、携帯電話の着信音はOFF、バイブもOFFにしていた。全てから逃げていた。

 夏までまだ時間がある、資格取っておけば他の町へ流れても使えるからと彼が説得した。

“夏まで、あとどのくらい?”

ふと、そんなフレーズが心をよぎった。

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

『春までに資格が取れれば夏まで仕事できるね』
 アイは自分に言い聞かせるように言った。
 かなりのハード・スケジュールになるし、学校が終わってから夜のアルバイトまで時間もそんなにない。

『時間がないのもいいさ、余計なこと考えなくていいから』

 朝から学校に行き、夕方に帰宅したら夜の仕事の準備、そして深夜まで働らく。それを毎日繰り返した。アイはそれを苦しいとは言わなかった。彼も毎日、送迎をした。

 ダイエット施設には週一だけしか通えなくなっていた。
『あと、もう少しだね、実習が始まるよ。実習場所が決まったら連絡するからルート調べてね』

 忙しさに没頭することで何かを忘れようとしている。
 でもそれはアイだけではない。
 春が近づいていた。
 彼もあのフレーズを忘れようとしていた。

“あと、どのくらい?”

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

カシャ
 氷とグラスの触れる音。

「別れの気配を感じながら過ごすなんて苦しかっただろう?」
「うん、『また明日』という言葉が別れに近づくだけだと知った時、時間は加速するって感じたよ、ママ。学校、介護実習、バイトを繰り返しながら冬が終わったよ」