FOOLという名のBAR-SAUDADE-


「ねぇ、ママ、二人で初めて一緒に撮った写真」
 と言って夢美がケータイを開いて写真を見せた。それは西日に映ったふたつのシルエットだった。

「一緒の写真を撮っても、しまって置くことも出来ない私達って切ないね。このシルエットだけが精一杯」
 一緒に写真に写ることが許されない二人。ふたつのシルエットはどこか切なくてもどかしい。寄り添うことが出来ない、重なり合わない二つのシルエットに揺れる隙間に目が行ってしまった。
「逢わない、逢うのが怖いと思っていたのにさ、逢ってしまったの」
 夢美はアメリカン・レモネードを静かに撹拌しながら言った。
 あたしは、『妻を辞められても、母親は辞められない』と言った夢美を思い出した。
 マリアのピアノは何か音を探しているように鍵盤の上を模索している。

♪ もう少し あと少し

 ZARDの曲だ。許されない恋人達の切ない想いを歌っていたはずだ。

「彼が不安に思っていたから思いきって逢おうと決めたの」
「それが、彼と初めて逢った時の理由なのだね」
「ただの暇潰しじゃないかって思われたことがあった。あの時も、逢う、逢わないのやり取りから軽いケンカをした後だった」
「『八月末までじゃなきゃ時間が作れない。あなたがそう言うなら、よし、逢おう』って時間的な都合を言い訳にしたわ」

カシャ
 氷が溶けてグラスに触れた。

「私達は顔も知らないまま、逢うことを決めたの。私、前日から、逢うまで何も喉を通らなかった。夜もよく眠れず、朝が近くなるにつれ、不安はどんどん大きくなっていったよ。後ろめたさとワクワク感とで。まだ陽が高い夏の日の夕方に彼の会社の近くの大きなスーパーの駐車場で逢う約束をしたの」
「昼間のスーパーなら夢美も少しは安心するかと考えてくれたのだろう」
「ウブな私を気遣う優しさかしら」
「ただ逢いたい一心さと、極力、夢美の心の負担を失くしたいという優しさなのだろう」
「ケータイで話しながら駐車場に入って行った。ケータイを耳にあてながら車を降りる彼を見つけた時、お互い『あっ』と笑ったの。あぁ ほんとにこの人はいたんだって思った」
「ふうん、初めて二人が空想からリアルになった瞬間だね」
「どんな人か想像つかないし、旦那さん以外の男性に逢いに行くなんて考えられなかった。逢っている間は何を話したかなんてよく覚えてないわ」
「逢いに来てくれたこと、夢美の気持ちは届いていたさ」

♪ もう少し あと少し

「バイバイしてからは、罪の意識と、又、逢いたい気持ちがぐるぐる回っていたわ。一時間ほど、一緒に歩いただけなのに・・・別れた後、泣きそうになったよ。何でかな?一人で居たくなくて、自宅にすぐ帰ったよ。誰でもいいから家族に逢いたかった。そうしないと、そうしないと・・・現実を棄ててしまいそうだったから。あれっ?今も 泣きそうだぞ」

 数十年前にこの街ですれ違っていたかも知れないと、青春時代の恋人を想わせるような二つのシルエット。その隙間を埋める一歩が踏み出せない二人。

「若かった頃、二人が交差したかも知れない街かい・・・」
「私は結婚するまでこの街に住んでいたわ。凄い昔の話なんだなぁ。嫌になるくらい年を取ってしまったわ」
 夢美がアメリカン・レモネードを飲み干した。
「“ミラノの恋 ”というカクテルを作ってあげるよ」
「楽しみ。それはママのオリジナルなの?」
 あたしは、ディサローノ・アマレット、レモンジュース、ソーダ水をカウンターに並べた。
 グラスに氷を詰めて、ディサローノ・アマレットを四五ml、レモンジュースを二〇mlを入れてソーダでグラスアップ。軽くステア。
 グラスは一杯だけ。夢美の前に差し出した。
 夢美は一口飲んで、ぱっと顔を綻ばせる。
「ミラノの恋・・・ロマンティックな名前ね、ママ」
 
「純愛伝説があるんだよ、このディサローノ・アマレットというリキュールにはね」
 
 一五二五年、ルネッサンス時代のイタリア、ミラノ北部のサローノ村にあるサンタマリア・デレ・グラツィエ教会の聖堂にキリスト降誕の壁画(フラスコ画)を書くためにベルナディノ・ルイーニという画家が赴いた。ルイーニはレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子だと言われている。

 ミラノの北、サローノ町の聖堂で壁画を描く画家ルイーニ。壁画を描く間、ルイーニが滞在した民宿の女主人は、若く美しい未亡人だったそうだ。

『壁画は順調なご様子ですね』
『はい、今夜、聖母マリアを描いて完成です』
 
 精魂込めて壁画を描くルイーニ、それをそっと見つめる女主人。

 朝、聖母マリアの壁画の前で眠るルイーニ。

 そっと完成された壁画を見つめる女主人。

『あぁなんてことでしょう。なんて素敵なマリア』

 そこに描かれた聖母マリアは、女主人その人だった。

 ピアノの曲が変わった。

♪ ノスタルジア

 Chiiの曲だ。

「お礼にと彼女が贈ったリキュールが杏子の核を原料したディサローノ・アマレットだった。繊細な優しさに秘密の成分を混ぜて作った琥珀色のリキュール」

「うん、素敵な物語、言葉にならない」
 夢美がグラスを傾ける。
「ノスタルジア・・・この曲は許されない二人が凍てつく街で想い合う・・・画家ルィーニはどんな想いでミラノを去るのだろう?」
「女主人は、連れ去ってよと想ったのかしら・・・」

♪ ノスタルジア

「私達が知り合ったサイトには何十万人もいたのに出逢ってしまった。それは何故?それもこの街で青春時代を過ごしていたなんて初めは何も知らなかったのに。同学年だと知った時、心が引き寄せ合ったのを覚えているわ」
「そして、この街。この街を知っていたから」
「擦れ違っていたかも知れないねと言った彼の言葉に私は何かを感じた」
「そう、彼を、顔も知らない彼に逢ったかも知れない・・・きっとそれはノスタルジア・・・」
「通り過ぎた私達の青春時代・・・あの頃、出会っていたら、私達はどうなっていたのかしら」
 夢美はケータイを開いて二人のシルエットの写真を見た。
「この画像は、ロック出来るフォルダーをダウンロードして保存したわ」

♪ ノスタルジア

「 二つのシルエットの隙間を埋めるために一歩、踏み出すことは勇気だと思う?ママは」
「隙間を埋めてしまえば、歯止めがなくなるよ」
 とあたしが言うと、夢美が頷いた。

「堕ちて逝くだけ。きっと止まらない、私達・・・私ね、彼と逢ってから帰るといつも前に進めなかったことを後悔する・・・でも、進めない。今の家庭が不幸な分けではない、満足している分けでもない。でも進めない」


「ふたつのシルエットに色がつくことはないのかい?」
「シルエットに私達の顔が浮かんだら、背景が色褪せてゆくような気がするわ」
「現実が消えてしまうってことかい?」
「夢の街、私達は青春時代の夢の街にノスタルジーしているのかな?」

 現実の中ではふたつのシルエットには色はつかない。それは悲しいくらい純粋で、切なくて、そして若かった頃の幻のような儚さ。
「恋をしただけ・・・ではいけないかい?答えになってないかも知れないけど」

♪ ノスタルジア

「帰らなきゃ。『ねぇ、連れ去ってよ』 なんて言ったら彼は困るだけだもんね」
 夢美が悪戯っぽく微笑む。

 夢美はスツールを降りた。 
「おやすみ、夢の街で」

♪ ノスタルジア
 
 マリアのピアノは今宵も心を映す。

 人は遠い昔に失くしたものを求める、それをノスタルジアと呼ぶのだろうか?

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 あたしはユウコ。Barのカウンター越しに毎夜、様々な人生のワンカットシーンを見て来た。
 時にそのワンカットシーンをフィルムのように繋いで見ることがある。
 そこに浮かび上がる人生の悲哀、喜びにあたしが作ったカクテルが添えられた時・・・
 愚か者達の心が少しだけでも満たされたなら幸せだと思う。

 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。
 今宵はどんな愚か者達がやって来るだろうか・・・

 ドアが開いてカウベルが鳴った。

 マリアが傘を畳みながら冬の気配を連れて入って来た。
「ママ、外は冷たい雨がしとしとと降っているわ」

「雨か、この地下のカウンターの中にいると天気の変化さえ気付かないことがあるね」
「着替えて来ます」
 と言って、マリアは店の奥に消えた。

 マリアは気がつくとこの店のピアニストになっていた。
 そして今ではこの店の酒のように、この店には必要不可欠な存在になっている。
 マリアのピアノは愚か者の心を映す。
 人の心が読めるのかと、ふと思ってしまうくらいぴったりの選曲が愚か者の心に入り込む。

 いつもと同じように黒いドレスに着替えたマリアが店の奥のピアノに向かう。
「こんな雨の夜は悲しくなるね、ママ」

 マリアの指がピアノの上に走り出す。

♪ ♪ ♪

 初めて聴く曲だった。
「私が好きなChiiの曲・・・雨のリグレット」

 なるほど、リグレットだと思う。
 哀愁が走る曲。
 どこかもどかしくて、切ない・・・リグレット、そう後悔に涙したくなる、こんな夜にぴったりの選曲だと思う。

カウベルが鳴った。
 入って来た今宵の愚か者は珍しい組合せだった。

「珍しいじゃないか。藪医者先生が岸村の旦那とつるんで来るなんて」
 藪医者とは嫌味を言っているのではなく、藪という苗字に“医者”を付けて、“藪医者”と看板を上げているからだ。
 実際はヤブどころではなく、天才外科医として名を知られた大学病院の医師だった。
 この街に流れて来てからは表の診療はほとんどやらず、闇医者だという噂だ。
 数年前、患者の家族の悲しみに耐えられず、助かる見込みのなどない患者のオペを強行し、患者を死なせてしまった。
 裁判沙汰になり、医師免許剥奪という騒ぎになり、それだけはさせないと弁護したのが藪医者の親友で沢村正義という弁護士だった。
 藪はいつも沢村と二人で必ずやって来てライバル心剥き出しで騒ぐ。
 ありがたいことにあたしを口説きに来るのだ。二人は親友であり、恋敵でもあるわけだ。

「抜け駆けかい?藪先生」
「ママ、男、藪はそんな真似はせぬ。正義には岸村の旦那と先に行っていると伝えた。今頃、奴はヤキモキしながら仕事を進めているだろうぜ」

 時々、一人で抜け駆けして来ることがあるが、どういう分けか借りて来た猫のように静かになってしまう二人だった。
 親友を裏切ることが出来ない男達なのだと思う。
 あたしは岸村のヘネシーをブランデー・グラスに注いで出した。
 藪にはプリマス・ジンをロックで出して半分に割ったライムを皿に並べて添える。藪はライムを絞りながらジンを飲む。
 ジンは昔、熱病の特効薬として開発された由緒正しき薬なのだと藪はうそぶく。

「見つけたのだよ、ママ。奴を偶然に」
 岸村がブランデーを呷りながら吐き出すように言った。
 岸村の暗い目が更に深い闇を見ているようだ。
 岸村は犯罪者になって逃亡している友達を捕まえるために刑事になった。悪徳刑事と蔑まれながら裏社会に癒着して情報を探していると噂されていた。

「この街に現れたのだよ。女と同棲しながら流れて来たのさ。あいつが、よりによって俺がいるこの街に」
 岸村の空になったグラスをあたしは黙って満たした。
「奴と繁華街のど真ん中で鉢合わせしてしまったのだ。奴も愕然とした顔を俺に向けた、と同時に奴は俺に向かって拳銃を構えた。街のど真ん中で発砲されるわけにはいかなかった。だから、俺はよ、ママ・・・ダチをこの手で俺の拳銃で撃っちまった」

 藪は苦虫を噛むような顔をしながらライムを自分のグラスに絞った。
「ジンが効くぜえ、こんな夜にはよ」
 藪は一息でグラスを空けた。
 あたしは藪のグラスにジンを注ぐ。
「岸村の旦那がよ、うちの診療所のドアを叩くのさ。ガンガンとよ。俺は闇医者だぜ、昼間はやってねえとドアを開けたんだよ」
 藪はもう一つのライムを絞ってグラスを揺らした。
「岸村が血だらけの男を担いで立っていやがった」
 藪はその時の状況を自分で味を調整したジン・ライムを飲みながら説明した。

 岸村は自分で撃った友達を降ろして

『助けてくれよ、先生よ。ダチなんだよ。こいつは俺のダチなんだよ』

 と友人の血で汚れた岸村は鬼気迫る顔をして藪に縋ったそうだ。

「どうにもならねえさ。もう、そいつは生きてなかったんだよ、ママ。岸村は遺体を担いで俺の所まで来たんだ」
「そうすることしか出来なかった。他に考えることが出来なかった」
 岸村の目は何も見えないように虚ろだった。
 周りの状況を的確に判断し刑事としての本能で友達を射殺した刑事、岸村の悲しみを何で裁けるのだろうか。

♪ 雨のリグレット

 マリアのピアノが現実に引き止めてくれる。
 雨の街で起きた偶然が引き起こしたリグレット

「ママ、何かカクテルを作ってくれないか?太宰ミキオ、それがあいつの名前だ。ミキオを送るために」
 と言う岸村の言葉を聞いて息を呑んだのはあたしだけではない。
 マリアのピアノも音が止んだ。

 いつも雪乃という同棲している女とこの店で静かに飲んでいたミキオ。あたしは酒棚から“太宰”というネームタグがついたウィスキーのボトルをカウンターに置いた。
 岸村の目がネームタグに吸い込まれた。
「ここに来ていたのか?あいつは・・・」
「ああ、そうだよ。彼女と一緒にね。過去があるとは思ったけどね。まさかミキオがお前が追っていた友達だったとは」

♪ Summertime

 ミキオの中の何かを眠らせようとするかのようにマリアはいつもこの曲を彼らに弾いた。

「サマータイムか・・・子守歌だったかな?確か」
 藪が目を閉じてピアノに耳を傾ける。

 あたしはミキオのボトルとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。

「オールド・パル。古い友達っていうカクテルだったかな、ママ」
「ミキオのボトルから作った」
 あたしは岸村の前にカクテルを置いた。
 岸村は静かに呷った。

「ああ、ほろ苦くて、かすかに甘くて・・・美味いよ、ママ。餓鬼の頃を想い出す。そんな気分にしてくれる」
 岸村はふう〜と息を吐いた。
 悪徳刑事と蔑まれながら犯罪者となった友達を追いかけ、何かに取りつかれたように裏社会を彷徨っていた男。

「ようやく、息がつけたかい?旦那」
 あたしはオールド・パルのグラスを下げた。
 岸村は目を閉じて頷いた。

♪ Summertime

 子守歌が今はミキオへの鎮魂歌のように心に入り込んで来る。
 雪乃はどうしただろうか?ミキオの優しさに反発して、気がつくと浮気をしてしまう女だった。
 雨の街。ミキオの魂を探しながら彷徨う、雪乃の姿が目に浮かんだ。

 曲が変わった。
♪ 雨のリグレット

『全部、黒く塗り潰せたらいいのにな。白黒つけなくて済む』
 と岸村が数週間前に言った言葉が蘇った。

 カウベルが鳴った。
 ドアが開くと外の雨音が響いた。
「遅くなってしまった。揃っているか愚か者達」
 雨に濡れたコートを脱ぎながら沢村正義が言った。

「けっ、愚か者は正義、お前だろうが。折角掴まえた金持ちの坊っちゃんの弁護の依頼を断ってしまったのだろうがぁ」
 と藪が顔をネジ曲げて振り返った。
「ふん。その小僧には正義など欠片もなかったからな。弁護など必要なあい!」
 沢村は藪の隣に腰掛けた。

 正義がなければ弁護を引き受けない弁護士。まるでお伽の国の弁護士のようだとあたしは思う。
 でも、そのキャッチフレーズが浸透すれば沢村が受けた弁護には正義があると世間に知られることになる。裁判が有利に働くことがあるのかどうかはあたしには分からない。
 弁護士というと普通は、沈着冷静で冷徹なイメージを抱くものだが、沢村正義はここで見ている限り、熱く正義を追いかける男だと思う。
 沢村が飲む酒はテキーラ・エラドゥーラ。

 ショット・グラスにテキーラを注いで、サングリータをチェイサーとして並べる。
 沢村はサングリータを口に含み、テキーラを喉に放り込む。
「効くう。ママが作るサングリータは最高だよ。覚醒する」

 サングリータはトマトジュースにオレンジ、ライムジュースを加え、ウスターソース、胡椒、塩、タバスコをよく混ぜて冷やしたものでテキーラと同じショット・グラスに入れて出すスパイシーなジュースだ。
 作り方は沢村本人に教えられた。作る時にはいつも五〇〇mlのペットボトル一本分くらいを作っておくようにしている。
 藪はライムをジンに自分で絞って入れるだけだから、手の込んだチェイサーを沢村の為に作ることに焼きもちを妬くかと思ったが違った。
 お互いに酒の飲み方には一切ケチをつけない暗黙のルールがある様で、それは徹底している。
 それは、藪や沢村だけではなく、他の愚か者達にも共通していた。
 自分の飲み方にこだわりを持っている連中だ。そしてそれを他人に強要しない。

「さて、本題だ。諸君」
 一息ついたところで沢村が言った。

「何かあったのか?先日のソルジャー事件じゃないが」
 それまで黙っていた岸村が沢村に視線を向けた。
 藪もグラスを置いた。
「ところでママは何処かで自分の肖像画を描かせたことがあるのか?」
「なんだって?あたしが?あるわけないだろう?」
 沢村の意外な質問にあたしは噴き出した。
「だろうなあ。絵を描いてもらう間、じっとしていられるタイプじゃないものな」
 と言った沢村の言葉に藪が大きく頷いている。
 岸村もフッと笑みをこぼした。
「なんだって?それはどういう意味だい?」
「まあまあ、ママ。ここは落ち着いて話を聞こうじゃないか」
 藪が大げさなジェスチャーであたしをなだめる。
「ママの肖像画らしき写真を持って街をうろつく奴が現れたようだ。エンジェルが騒いでいるよ。ハード・ボイルドの幕開けだとな」
 あたしは大きく肩をすくめてみせた。
「あたしに似た絵を持っていただけじゃないのかい?」
「その絵には名前がついていたのさ。ユウコって女を捜しているようだ。七尾探偵社に依頼があったそうだから」
 あたしはその写真を視たエンジェルの大きな瞳がきらりと光る瞬間が目に浮かんだ。

「じゃあ早速、俺が職質して来るぜ」
 岸村が身支度を始めた。
「ちょっと待ちなよ。その人が何かした分けじゃないのだから」
「何かしてからじゃ遅いだろう。ママには指一本触れさせねえよ」
「何だって!岸村」
 藪が立ち上がろうとした岸村を押さえつけた。
「聞き捨てならねえ。お前はいつからママに」
 藪の目が据わっていた。
「俺が追いかけていたダチの件は終わったからな」
「だからと言って今度はママを追いかけるというのは浅はかというものだろう」
 と沢村も岸村の前に立ちはだかった。
「また、あたしを取り合いしてくれているのかい?嬉しいねえ」
 愚か者達はあたしが無期懲役となった冬木を待っていることは承知している。帰れるあてなどない男を待つ。でもそれがあたしの愛し方だ。勇気だ。

「ぶれない愛を貫くママに惚れたのさ」
 と誰かが言ってくれた。
 そんなあたしを視て愚か者達は安心するのだろう。
 何処かの街の片隅で、はぐれてしまいそうな愚か者達にとって、あたしは道標のような存在なのだろうか。

「こんな夜中に職質もないか、今夜は飲むとしようか」
 岸村が腰を落ち着けた。
「正義よう、岸村は平気な顔で抜け駆けする奴だぜ」
「藪よ、これは私達にとって由々しき事態だ。最大の危機だ」
 と藪と沢村がこそこそと話し合っている。
「両先生よ、俺はあんた等と違って一人でもここに飲みに来るぜぇ。一人になると照れて大人しくなってしまう両先生とは違うぜ」
「き、岸村。お前って奴は・・・」
 藪と沢村は可愛く思えるくらい悔しそうな顔をする。

♪ 雨のリグレット

「ママ、オールド・パルを今度は俺のボトルで作ってくれ。この二人にも」
「ブランデーでかい?それじゃぁ、それは新しいカクテルだね。名前を考えておくれ旦那」
 あたしは岸村のヘネシーとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。
 グラスを三つ並べて注ぐ。
 藪と沢村は何も言わずグラスを受け取った。
 三人は同時にグラスを傾けた。
「名前は、リメンバーだ」
 岸村がニヤリと笑って言った。
 藪も沢村もあたしのことでは騒ぐくせに人が飲む酒には嫉妬もしなければ何もケチはつけない。愚か者の流儀は徹底していた。

♪ 雨のリグレット
   ♪♪雨がしとしと降る音を聴けば・・・リメンバー・・・♪♪

 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵はどんな愚か者が紛れ込んで来るだろうか?

「ママ、今夜も綺麗な上に適度な翳りを漂わせて完璧。ハード・ボイルドないい女よ」
 と開口一番あたしを褒めてくれるのは探偵エンジェルだ。
「エンジェルにとっての最高の言葉、ハード・ボイルドの称号をありがとう」
 あたしはエンジェルにおしぼりを渡した。
 エンジェルはこの近くにある元坊主の探偵七尾が所長の七尾探偵社に勤める唯一の探偵所員だ。
 ハード・ボイルドな世界を夢見る少女だと思っていたがいつの間にか大学も卒業して探偵が本職になっている。
 エンジェルのためにカウンターに材料を並べる。
 チェリー・ブランデー
 コアントロー
 レモンジュース
 アンゴスチュラビターズ
 グラナデンシロップ
 そして、シェイカー

 カウベルが鳴った。
「待たせたな、エンジェル」
 入って来たのは、傭兵として鍛え上げられた屈強な身体に愛嬌のある顔をしたソルジャーだった。
 ソルジャーが太い唇をニヤリと曲げた。
「な、何ですって!ソルジャー。人聞きの悪いこと言わないで!」
 ソルジャーは気にせず、エンジェルの隣に平然と座った。
「待ち合わせだったのかい?」
 とあたしが言うとエンジェルは慌てて否定する。
「ママ、大きな勘違いよ。私がソルジャーと待ち合わせる意味が分からないわ」
 エンジェルは大きな目を更に大きく見開いて否定する。
「否定するとますます怪しまれるぜ。俺達、お似合いのカップルだと思うけどな」
「どの口が言っているの!?ソルジャー!」
「ドー」
 ソルジャーはドレミのドの音を出してエンジェルに顔を向けた。
 あたしは思わず噴き出してしまった。

「ママ、馬鹿はほっといて、いつものを下さい」
「はいよ」
 あたしはカウンターに並べた材料を氷を詰めたシェイカーに入れた。
シェイク。
 そしてカクテルグラスにエンジェル・ブラッドを注ぐ。真っ赤なのに透明に澄んだ色。天使の血液ならきっとこんな風に澄んでいるだろうとあたしがエンジェルの為に考えたカクテルだ。

「ほう、これが噂のエンジェル・ブラッドか?エンジェル専用のママのオリジナルだそうじゃないか?」
 エンジェルは嬉しそうに、そして自慢気に少し鼻を上げた。
「一口だけよ、ソルジャー」
 エンジェルがグラスを少しだけソルジャーの方に動かした。ちょっと意外だった。
 隣に腰掛けたソルジャーが言われた通り一口だけ口に含んだ。
「おう、爽やかな味だ」
「心が洗われたかしら?ソルジャー、天使の血液ならこんな風に真っ赤で、澄んでいると思わない?」
「そうだな。でもお前の血液なら一滴たりとも流させないがな」
 ソルジャーは不敵な笑みを浮かべた。
「ふうん、ソルジャー。私を口説いているわけ?無理もないけど。こんなキュートな女の子はアイドルくらいしか見たことがないと思うから」
 エンジェルは赤面ひとつせずに言ってのけた。
「アイドルの黒目の比率を知っているかしら?ソルジャー。一対二対一なの。そう、私と同じ。えっ?何故、アイドルにならなかったって?」
「いや、特には聞いてないけど」
「聞きなさいよ!探偵になるためよ。この世にある虚構を全て剥がすためにね」

 あたしはソルジャーのボトル、ワイルド・ターキーを用意した。ショット・グラスに注ぐ。
「普通ならその高慢ちきな態度に反感を抱くものだが、それを流してしまうものをお前は持っている」
 ソルジャーの目が優しくエンジェルを見つめる。
 エンジェルも少しは照れたのか、グラスを一息に空けた。
「美味しい。私のためのカクテル」
 エンジェルは満面の笑みを向けてくれた。
「エンジェルの純粋さが全てを許してしまうのさ。この街の愚か者達は皆がエンジェルの純真さに昔の自分を探すのさ」
「聴いたかしら、ソルジャー。ママのセリフはホント、ハード・ボイルド」
「ハード・ボイルドなら負けないぜ。喉を焼くバーボンで虚しさも飲み干すぜ」
 ソルジャーはバーボンを喉に放り込む様にしてグラスを空けてニヤリとエンジェルに笑って見せる。
「ハード・ボイルドなことをセリフで言ってしまってどうするのよ、ソルジャー。ト書きを読んでしまっている様なものじゃない」
 エンジェルはソルジャーを人差し指で小突きながら笑っている。
 本当は馬が合う二人なのだと思う。

♪ ピアノの音。
♪ 渇き

 絶望の中で必死にもがいて這い上がろうとした男が最後に作った曲。
 ソルジャーはこの曲の譜面をマリアに届けるために十数年降りに日本に帰って来た。それまでは海外で傭兵だった。
 この曲を作った柊という男はマリアが愛した幼馴染でソルジャーにとっては兄貴分だった。
 マリアの左手の薬指は動かない。柊の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとしてピアニストにとっては致命的な怪我を指に負った。
 柊は弟分のソルジャー達を逃がすために盾となって刺された。ソルジャーにこの曲の譜面を託して散って逝った。

「マリアさんにギムレットを。ママも好きなものを飲んでくれ」
 ソルジャーの奢りでマリアの為にギムレットを用意する。
 ミキシング・グラスにプリマス・ジンとローズのライムジュースをハーフ&ハーフで入れてステア。
 あたしが一番好きなクラシック・ギムレットだ。自分にはソルジャーのワイルド・ターキーをソーダで割らせてもらう。

「相変わらず、自分の分のギムレットは作らないのかい?ママ」
「あたしのためのギムレットは作らない」
「ママは冬木というバーテンダーが作ったギムレットしか飲まないの」
 と言ったエンジェルの頬が赤い。

「冬木というバーテンダーはママに拾われたやくざ者だって聞いたよ。この店を守るため、いや、ママを守るために単身、地上げ屋の事務所に殴り込んだって」
「愚か者さ。あたしは冬木の罪を許さない」
「だけど、待っているのだろう?帰れるあてなどない無期懲役の男を」

♪ 渇き

 心に沁み込む曲だ。それはきっと、あたしも愚か者だから。

「で、エンジェル、俺に仕事が舞い込むって話しは?」
 ソルジャーは何気なく話題を換えた。

「ねえ、ママ。ソルジャーは七尾探偵社の下請け調査員になったのよ」
「いや、それは違うだろう、調査の依頼を受けたらやってもいいけど、あくまでも本業が空いている時だからな。調査員は副業だ」
「本業?」
 エンジェルは目を見開いて驚く真似をした。
「ママ、俺はこの街に残ってボディ・ガード屋を始めることにしたぜ」
「もう、小説や映画じゃあるまいし、この日本でそんな稼業が成り立つと思っているわけ?ママ、注意してあげて」
 あたしが言葉に詰まっているとソルジャーはエンジェルに顔を向けて、
「ハード・ボイルドな探偵もこの日本には仕事はないぜ」
 と不敵な笑みを浮かべた。
「む、むかつく!その不敵な顔!」
 エンジェルは口を尖らせた。

 二人の会話を聞いているだけで楽しくなる。

「この街に残るのかい?ソルジャー」
 あたしはソルジャーのグラスにワイルド・ターキーを注ごうとすると
「ソーダ割りに変えて貰えるかいママ」

「この街・・・いや、この街の愚か者達を気にいってしまったのかもな」
 この街が、この店がまた一人、愚か者を引き込んでしまったようだ。

「あっそれでね、命がいくつあっても足りない男がこの街に紛れ込んで来たのよ」
 エンジェルはあたしとソルジャーを交互に見ながら言った。
「俺みたいな奴だな」
「そうよ、あなた以上に危険!だってママの絵を写真に撮って探しているのよ、ユウコという名前のママを」
 昨夜、藪達が話していた件だと思った。
「ホントにその絵はあたしなのかい?」
「間違いないわ。あの翳りはママよ」
「翳り・・・ね・・・」
「そりゃあ危ないぜ。ボディ・ガードが必要だぜ。そんな真似すりゃママのしもべ達が何をするか分からないからな」
「しもべって、誰だい?可笑しいねえ」
「しもべの筆頭は藪医者と正義の弁護士、それに純爺・・・」
 とソルジャーは指を折って数える。
「私ね、陣野組長は隠しているけど怪しいと思うのよ」
 エンジェルが口を挟む。
「ああ、なるほど。冬木の手前、口には出来ないだけだな。ありゃぁ。ママのしもべ。なるほど。裏しもべだな」
「それからね、藪先生がぼやいていたのよ。岸村のダンナぁが参戦して来たって。それって私とママを二股かけるってこと!?」
「いや、エンジェルって線はないだろ。あり得ない」
 ソルジャーはエンジェルの前で指を立てて振る。
「分かってないわねソルジャー。ダンナぁが私とここで飲んでいた時にね、私のあまりのキュートさにタジタジだったのよ。ねぇママ」
「ホントに?あのおっさんが」
「岸村の旦那は、エンジェルの純真さが眩しかったのさ」
 とあたしが言うとへらへらしていたソルジャーがふと真顔になった。
「私の瞳の比率はね・・・」
 横で騒ぐエンジェルをソルジャーが眩しそうに見ていた。
「一対二対一の比率で黒目が大きいわけ、それはね。アイドルの比率なの」

 曲が変わった。アップテンポな曲だ。
♪ 脱がせて純情
 
「昔、持っていた心を・・・愚か者達はエンジェルの中に探すのさ」
「純真さ・・・か。ああ、分かるような気がするよ、ママ」
 ソルジャーは静かにバーボン・ソーダを傾けた。
「大人だね。ソルジャー」
 あたしはソルジャーのグラスを新しいものに入れ替えた。
「ハード・ボイルドなだけさ、俺はよ」
 ソルジャーがグラスを掲げた。

「そうね、ソルジャー。確かにシルベスター・スタローンみたいなボディと戦闘能力を持っているあなたはハード・ボイルドだと思うわ」
 エンジェルの瞳が真っ直ぐにソルジャーを射抜いた。
「でも、だめ。あなたは無益な殺生を犯したから」
 エンジェルの瞳が曇った。
 そんなエンジェルの瞳から逃げるようにソルジャーは目を伏せた。
 ソルジャーは海外で傭兵として長く過ごした。過去は変えられない。

「でもね。罪は償えるわ、多分・・・」
 エンジェルがソルジャーの肩を叩く。
 ソルジャーは目を上げた。深い悲しみが見えたような気がした。

「ママ、オレンジジュース」
「はいよ。エンジェル」
 あたしはグラスにオレンジジュースを注いでからアンゴスチュラビターズを三ダッシュ入れて軽くステアした。

 エンジェルは一口飲んで微笑む。
「仄かな苦みがまるで人生のようね」
 エンジェルがソルジャーのグラスにカツンと合わせる。

「償なえるのか?」
「その気持ちが大事なの」
 エンジェルの微笑みに、ソルジャーが息をつくのが分かった。

♪脱がせて純情

「さて、行くか。明日一番で命がいくつあっても足りない奴にボディ・ガードを雇った方がいいと教えないとな」
 ソルジャーがスツールから降りる。
「待ちなさいよ、ソルジャー。か弱くCuteな私を送らないつもりなの!?」
 エンジェルが慌てて着いて行く。
「ハード・ボイルドな探偵らしくないなあ、エンジェル」
「馬鹿ね、ソルジャー。ハード・ボイルドの前にアイドル並みにキュートなの!」
 ソルジャーは肩をすくめてエンジェルのためにドアを開けた。

♪ 脱がせて純情
 
 急に静かになった店にマリアのピアノが流れる。

♪脱がせて純情

 エンジェルが言った言葉が心に残った。

『でもね。罪は償えるわ、多分・・・』

 この店を守るために、いや、あたしを守るために無期懲役となった男、冬木。
 あたしは冬木の罪を許さないと言って一度も面会には行かなかった。
 許してないのか・・・

「この店で待っている」
 マリアの声。ピアノの音だと思った。
「それがママの愛し方、ママの勇気だって言っていたじゃない?」

 あたしはマリアのためにクラシック・ギムレットを作った。
 無性に飲みたいと思った。でもあたしが飲むギムレットは冬木が作るギムレットだけと決めたのだ。

「ぶれない愛を貫くママだから、愚か者達を引き寄せるの」

 あたしはピアノにカクテルを運んだ。
 ピアノの音は途切れないまま、マリアはそれを一息に空けた。
 
♪ 脱がせて純情

 今夜は若い二人に見せつけられた純情が、鏡に映った自分に残る純情だと気がつかされた様に感じた夜だった。

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 そう、ここは愚か者を待つ、愚か者が作った、愚か者のための店。

 Fool という名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

「おかしな街ですね、ここは」
 その男はあたしの顔を見てホッとしたような顔をした。
「何かありましたか?」
 あたしはおしぼりを渡しながら男を観察した。
 記憶の隅に引っ掛かる。あたしはこの男に会ったことがあると感じた。
「いきなりね、若い頃のシルベスター・スタローンのような男にボディ・ガードを雇えよと押し売りされたのですよ」
 この男は愚か者達が騒いでいた、あたしを探す男だった。
 この街に異物が混入されると愚か者達が騒ぎだす。この店の常連客達だ。
 特にこの男は、あたしの顔らしき絵が描かれた写真を持ってこの街を歩いた。
『命がいくつあっても足りない奴だ』
 と愚か者達が動き出した。
「あんたかい?あたしに似た女の絵を写真に撮って街を歩いていたのは?」
 男はブレザーのポケットから写真を出してカウンターに置いた。
 写真の女の顔、確かにあたしだ。でも着ている服はとんでもない、あたしなどではない。
「聖母マリアですよ、これは。でも顔はあなただ、あなたをモデルにした」
 あたしは笑うしかなかった。
「私は桐生という者です。昔、一度だけここに来たことがあります。冬木さんに呼ばれてね」
 あたしの記憶の中に桐生の顔が浮上して来る。
「でも、あの時のあんたは若い、とても若かったね」
「ええ、まだ駆け出しの彫り物師でしたからね。この写真は冬木さんの背中です。私が彫りました」
 あたしは動揺を必死に押さえた。
「知らない?抱かれたことがない?これを見たことがないってことは」
 冬木の背中にあたしがいた。
「闇の中にしか居なかったからね、あの頃は」
 そこまで言うのが限界だった。あたしは喉がカラカラに渇いていた。

♪ ピアノ

 救いのようにマリアのピアノ。

♪ I'm A Fool To Want You

「やれやれですよ。どこからどう見ても刑事にしか見えない暗い顔をした男には、職質だと言われ引っ張られそうになりましたよ」
「岸村という刑事さ。人殺しになった友を追い駆けるために悪徳刑事になった男。裏社会と癒着して友の足取りを調べていると噂された男だよ」
「坊主のような探偵に依頼しに行くと、助手らしい可愛い女の子が写真を視るなり知っているぞと目を蘭々と輝かしているのに、坊主探偵はしゃあしゃあと調査しますと、うすらボケる」
「探偵エンジェルは純粋なんだよ。そんな真っ直ぐなところが気に入って元坊主の探偵七尾は彼女の面倒を見ている」
「胡散臭い爺さんには尾け回されました。そこへボディ・ガードはいらないか?ですから。結託しているに違いないと思いましたよ」
「純爺はね。表は古本屋、この街の生き字引でね、エンジェルは情報屋と呼んでいる。ボディ・ガード屋は通称ソルジャー、元傭兵だ。エンジェルにそそのかされて純爺と組んであんたに近づいたのだろう」
「挙句の果てには怖い顔したやくざ者に囲まれ黒塗りの車から黒いシャツに黒スーツ、黒地のネクタイに赤い薔薇を刺繍した親分が現れた時にはボディ・ガードを雇うべきだったと後悔しました」
「陣野かい?酷い目にあったのかい?」
「いや、かろうじて陣野さんが私の顔を知っていてくれたので助かりました」
「ふうん、ここに辿り着けたということは、桐生さんあんたは危険ではないと判断されたってことだね」
「ここに案内してくれたのは薄汚れた白衣の男と、弁護士だと名乗る男でしたよ」
「愚か者達のオンパレードだね。“ヤブ医者 ”とふざけた看板を上げているけど藪医者は腕のいい外科医だよ。一緒にいたのは藪の親友で正義がない限り弁護を引き受けないという沢村弁護士だ」
 あたしは笑った。愚か者達が桐生は安全だと判断したということだ。
 桐生は苦笑いを浮かべながら軽く頭を振っている。
「みんな、ママやこの店が大事だってことなんでしょうね」
「何を飲む?」
「実は下戸なのですよ」
 と言って桐生は財布の中から一枚のメモを出した。かなり傷んでいる。
 広げられたメモを受け取って視た。
「ミラノの恋・・・」
 カクテル名とレシピが書かれていた。そうだ、この字は冬木が書いたものだろう。
「私が下戸だと知っていた冬木さんがこれなら飲めると言って作ってくれたカクテルです。分かりますか?」
「分かるさ、あたしが考えたカクテルだから」

 ディサローノ・アマレット、レモンジュース、ソーダ水をカウンターに並べた。
 グラスに氷を詰めて、ディサローノ・アマレットを四五ml、レモンジュースを二〇mlを入れてソーダでグラスアップ。軽くステア。

 桐生が一口飲んだ。
「ああこれだ。甘味をレモンの酸味が押さえてまるでジュースを飲んでいる様な感じ。これなら下戸の私でも飲める」
 桐生は満足気に頷いた。
 懐かしい。このカクテルを冬木に教えたことをあたしは想い出した。まだ冬木がここに居た時だった。
「ミラノの恋、このカクテルの名前の謂れはママに聴けと言われました。恥ずかしくて語れないと冬木さんは言っていましたよ」
「だろうねえ。こんな恋愛伝説を冬木が語ったら見ている方が噴き出してしまうよ」

 一五二五年、ルネッサンス時代のイタリア、ミラノ北部のサローノ村にあるサンタマリア・デレ・グラツィエ教会の聖堂にキリスト降誕の壁画(フラスコ画)を書くためにベルナディノ・ルイーニという画家が赴いた。ルイーニはレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子だと言われている。

「ミラノの北、サローノ町の聖堂で壁画を描く画家ルイーニ。壁画を描く間、ルイーニが滞在した民宿の女主人は、若く美しい未亡人だったそうだ。

『壁画は順調なご様子ですね』
『はい、今夜、聖母マリアを描いて完成です』

 精魂込めて壁画を描くルイーニ、それをそっと見つめる女主人

 朝、聖母マリアの壁画の前で眠るルイーニ。

 そっと完成された壁画を見つめる女主人。

『あぁなんてことでしょう。なんて素敵なマリア』

 そこに描かれた聖母マリアは、女主人その人だった・・・」

♪ ピアノの曲が変わった。今夜の最後はボサ・ノヴァ。

♪ Chega de Saudade(想いあふれて)
 ボサ・ノヴァの創始者ジョアン・ジルベルトの代表作。

「お礼にと彼女が贈ったリキュールが杏子の核を原料したディサローノ・アマレットだった。繊細な優しさに秘密の成分を混ぜて作った琥珀色のリキュール」

 桐生は目を閉じてピアノを聴いている。

カシャ と氷が溶けてグラスが鳴った。

「あの日、冬木さんが私をここに呼んだのはママを見せるためだった。あの頃の私はまだ駆け出しの彫り物師でね。師匠は名の知れた人で陣野さんも知っていた。だから、すんなり私はここに来られたのでしょう」
「冬木はあんたの腕を見込んだのだろう」
「精魂込めて彫らせて頂きましたよ。あの絵がなけりゃ、今の私もなかったと思います。彫り物師として自信を持つことが出来た出世作でした」
 桐生はグラスを飲み干した。
 あたしは同じものを作って桐生の前に置いた。

「なぜ今になって訪ねてくれたのだい?」
「彫り物っていうのは未成年者には彫ってはいけない決まりなんですよ。まあ、あれです。それで捕まってしまった。初犯ではなかったし・・・ちょいとお務めに行くことになりましてね・・・そこで十数年振りに冬木さんの背中を視てしまったんでさあ」
 桐生は写真に目を移した。
 あたしは桐生を凝視した。“冬木 ”に会った桐生に何か聞かなきゃいけない、でも、何を聞けばいいか分からない。

「元気でしたよ。ママに会ったら伝えてくれと言われました」
 桐生が真っ直ぐにあたしの目を視る。

「生きています・・・」
「えっ?」
「生きています・・・と伝えてくれと」

 あたしの頬を涙が走った。

♪ Chega de Saudade(想いあふれて)

 いやらしいくらいマリアの選曲はその瞬間の心を映す。


「生きています・・・」
「はい、それだけ伝えてくれたらいいと」
「生きていりゃあ、それだけでいいさ」
 あたしの頬を走る涙は止まらない。生きていれば・・・

「模範囚だそうですよ・・・慰めにもならないかも知れませんが・・・」

 無期懲役。帰れるあてなどあるのだろうか・・・
 そんなことを考えてはいけないことは知っている。
 生きていれば・・・冬木もきっとあたしと同じことを考えている。

『ぶれない愛を貫くママだから、愚か者達を引き寄せるの』
 いつだったか、マリアのピアノが言った言葉。

♪ Chega de Saudade(想いあふれて)

 真夏の夕暮れに風が吹き、昼間の熱い陽射しを思い出すような感覚、それをブラジルでSAUDADE(サウダージ)という。
 ブラジルのピンガと呼ばれるカサーシャ51はラムと同じようにサトウキビから作る蒸留酒だが、ラムほど精錬されてなくて雑味が残っていて人間くさい。あたしはそんなカサーシャ51とライムジュースに真っ赤なグレナデンシロップを少々、それを氷ごとジューサーでミキシング。まるで大人のかき氷だ。これなら桐生にも飲めるだろう。
 私はオールド・ファッションド・グラスを二つ用意してジューサーの中身を注いだ。一つを桐生の前にスプーンを添えて出した。
「SAUDADE(サウダージ)、あたしは、失くした時間、と訳してみた」
「あぁ美味しい。妙に懐かしい味がします」

 カウンターに置かれた一枚の写真。
 冬木の背中に彫られた絵。
 あたしの顔をした聖母マリア。

 冬木の背中にあたしがいると想った瞬間、あたしはあたしの中の “女 ”が疼くのがわかった。
 冬木は灯りの下であたしに背中を見せたことはなかった。二度と戻らない覚悟であたしを抱いたあの日の最後の夜も。
 あたしはSAUDADEをスプーンですくった。口に含んだ。氷が溶けるように懐かしい想いが溢れて来た。

 火照った体を静めるのに外に出たいと思った。
 渇いた心が真夜中に吹く風を求めていた。

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

Chega de Sudade (想いあふれて)

 JOAO GILBERTO(ジョアン・ジルベルト)

悲しみさん 
彼女に言ってやってくれないか
おまえなしでは駄目なんだと
お願いだから 戻って来てくれと
僕は生きられないよ

思い出はもうたくさん
彼女なしでは 心の平和はあり得ない
この世にどんな美もあり得ない
それにしても 終わりがないのは
僕の中に巣くっている
この悲しみ この憂欝

でも 彼女が帰ってきてくれるなら
ああ こんなすばらしいことはない
海に泳ぐ魚の数よりも
もっとたくさんのキスをして

この両腕にしっかりと 彼女を抱きしめて
なにも言わずに その身体の温もりを
深く深く 吸い込むだろうに
あきるほど抱擁し キスをして
愛撫の雨を降らせてやれるのに
そんな生き方はさせないよ

僕と離れて生きるなんて
独りになど させておいたりしないのに
そんな生き方はやめるんだ
僕と離れて生きるなんて


 この街は政令都市になり変貌した。

 駅前からストリートが垂直に伸びる様に走っていた。ストリートの両脇には街路樹があった。それが何て名前の街路樹なのか知る前に色を変え枯れ落ちる。
 ふと、プラタナスの街路樹とはどんなものだろうかと考えた。何かの歌詞でプラタナスという言葉の響きが気にいって覚えていただけかも知れない。
 真っ先に開けるべきドアに向かうことが出来ずに私は街を彷徨していた。

 あたしの店がある路地の入り口で最近路上販売をやっている青年がいた。
「これは、ミサンガというものかい?」
「いや、違うんだマダム、ミサンガは切れてしまうかもしれないが、俺のはミサンガ風に糸で編むブレスレットなんだよ」
 あたしはマダムと呼ばれて新鮮な気持ちになった。
「だから、俺のブレスレットは切れないよ」
「切れないっていうのがいいね」
「どんな色で編む?」

 赤、黒、青、黄、緑、白、ほとんどの色の糸が並んでいた。
「悲しみの色って何色だい?」
「悲しみの色か、暗い色がベースだけど・・・ちょっと待って考えるよ」
 あたしは店の電話番号を彫った名刺を青年に差し出した。名前には”ユウコ”とだけ書いてある。
「出来あがったら連絡くれないか?取りに来るよ。あたしの店はこの路地の奥にある」
「Yes Ma'am 俺は虎次だよ」


あたしが店を開けて支度していると、ピアニストのマリアが入って来た。
「ママ、おはよう、路地の角で路上販売しているブレスレット屋さんが大繁盛してるわ」
 と言うとマリアは悪戯ぽく笑った。
「えっ?そうなのかい?」
「そう、誰かさんのせいで」
 そう言うとマリアはピアノを弾き始めた。

♪ MY FUNNY VALENTINE

 しばらくするとカウベルが鳴った。虎次だった。
「仕事の邪魔はしたくなかったのだけど」
「電話をくれれば取りに行ったのに。店をほったらかしておいて大丈夫なのかい?」
「お客さんが店番していてくれるから、早くマダムに届けて来いって」
「えっ?」
「最初にそこのお姉さんが、マダムと同じものをと注文くれて」
 虎次がマリアに視線を向けた。
 マリアは素知らぬ顔でピアノを弾いている。

♪ MY FUNNY VALENTINE

「そのあと屈強な身体をした体育系の男と、皮ジャンがキュートな美少女がやって来たかと思うと、「俺達にも同じものを」と言って、すかさず美少女がSNSで流したみたいでね」
「そういうことかい?マリア」

♪ MY FUNNY VALENTINE

「そうすると、あっという間に人が集まって来て。白衣をコート代わりに羽織ったおっさんとグレーのスーツを着た堅そうな紳士が競うように飛んで来て「ママと同じものを作れ」と目を剥いて迫って来た。そのあとは、悪そうな刑事風な奴が知らん顔して並んで、スリーピースにベレー帽をかぶった英国紳士のような男に、ひょこひょこ歩く爺さん、最後は全身黒づくめでネクタイにだけ一本の赤いバラが刺繍してある、どこからどう見ても筋者だろうという男が並んだんで、みかじめ料なんて払う気はないと言ったよ」

「この街の愚か者のオンパレードだね。最後の筋者はこの街の裏社会を牛耳る顔役の陣野だが、一般人に手を出すような奴じゃないから安心して大丈夫だよ」
「そういうことなんで、俺はこれを作りにすぐに店に戻らないとならない。マダムが気にいってくれたらだけど」
 と言って、虎次がブレスレットをカウンターに置いた。
 あたしは、それを手に取った。
「黒と白をベースにして編んだ糸が悲しみで、そこに走る涙のような青い糸。悲しみを涙で流した先に見つけるのは、黄色い糸で表現した希望、ということかい?」
「マダムには俺の想いが伝わると思っていた」
 あたしはそのブレスレットを腕にはめてもらった。
「いいねぇ、虎次。このブレスレット気にいったよ」



♪ MY FUNNY VALENTINE

 虎次には特に色を付けずに言われた金額を払った。

「このピアノいいね、俺は音楽のことは分からないけど、この曲がとても気持ちいい」
「マリアのピアノは心を映すのさ、虎次の心が優しい想いを連れて来てくれたのさ」


♪ MY FUNNY VALENTINE


 ♪♪ 素敵な私のヴァレンタイン
    私をいつも笑わせてくれる
    おかしな顔つきで、写真には向かないけれど
    でも私にはお気に入りの芸術品なの

    姿はギリシャ彫刻より劣るけど
    口元も弱々しい感じ
    話し方だって、とてもスマートとは言えない
    でも、髪の毛一本だって変えないでね
    もし私のことが好きなら
    そのままでいて 愛しいヴァレンタイン 変わらないで
    毎日がヴァレンタインディなの


「なぜ、マダムはそんなに悲しい目をしているの?」
 虎次がお金を財布にしまいながら、あたしの眼を見る。
「ふふん、女、だからね」
「マダムは、笑顔が似合うと想うよ。マダムを慕う愚か者達がいっぱい待っているのだから」
「虎次、ありがとよ。商売をがんばりな」
「Yes Ma'am 」

 虎次は愚か者達が待つ路地へと戻って行った。

「ねぇママ、あとでこの店の中は、同じブレスレットをした愚か者達でいっぱいね」
「おかしな風景だね、それも。でもあたしの可愛いヴァレンタイン達さ」

♪ MY FUNNY VALENTINE

「ここは、FOOLという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵は、どんな愚か者達がやって来るだろうか?」

あらすじ
FOOLという名のBARのママ ユウコと、左手の薬指が動かなくなってしまったピアニスト マリアが待つBARには、自分の生き様を曲げられない、不器用な生き方しかできない愚か者達が集う。
ある日、街の中に、マリアを探す怪しい人物が紛れこんだという情報から、ユウコを慕う愚か者達が、ユウコとマリアを助けようと調査を始め騒ぎ出す。
しかし、その男はマリアが過去に失った最愛の男からの使者だった。

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