冷たい雨が降っている。夜半には雪へと変わると予報が出ていた。こんな夜は客足も遠のく。静かな夜になるだろう。ここは駅前からのメイン・ストリートから一本路地を入った場所で旧市街という街並だから今は静かな方だ。あたしは踵を返して階段で地下に降りる。
 小さなビルの地下にあたしの店はある。

 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 ドアを開けるとカウベルが鳴る。この音を聞くとホッとするという常連の愚か者達も多い。カウベルはこの店がまだマラエ・ランガと呼ばれた頃からある。
 店の奥からはピアノの音が流れて来る。
 アップライトのピアノが店の奥に置かれてあって、カウンター席が五つしかないこの店ではピアノが占める面積はかなり大きい。
 ピアニストのマリアはこの店には無くてはならない存在となっていた。愚か者達の心を映すピアニストとマリアは呼ばれていた。
「外は冷たい雨だよ」
「こんな夜にはブルースが似合うかしら、ママ」
♪ ねぇ ジョニィ

 ヤスミンのブルース。消えちまったジョニィが教えてくれた話を懐かしむ詩がついている。そして、ジョニィが帰って来たら・・・もしもなんて考えるのはあたしらしくない。静かな夜がセンチメンタルを連れて来る。この曲を作ったOSAMUというギタリストの男はもう亡くなっていた。ボーカルのmichiという女が残ってこの曲を歌っているはずだ。まるで、いずれOSAMUが、ジョニィになると知っていたかのような曲だ。
 ジョニィか、と思った。誰にでもジョニィのような存在がいる。マリアにもいた。そして、あたしにも・・・。

 マラエ・ランガという店の名を、Foolという名のBarと変えてどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。ほんの短い時間のような気もするし、長い時間が過ぎたような気もする。
 ふと、あたしは、マリアと初めて出会った夜のことを想い出した。店の名を変えた日がマリアと出逢った夜だった。マリアのジョニィの話を聞いた夜だった。
 あたしはマリアが好きなギムレットを用意した。ジンとライムを一対一でシェイクではなくステアで作るあたしのギムレットをマリアは好んでくれた。
 あたしの分は作らない。あたしが好きなこのギムレットは自分では作らない。あたしが飲むギムレットは冬木が作るものだけだ。このバーにいたバーテンダーの冬木はあたしにとってのジョニィかも知れない。
 ギムレットをマリアのピアノに運んだ。
「ありがとう、ママ」
 髪を軽く流してマリアが微笑んだ。誰もが息を止めるクールな美貌と、マリアの繊細なピアノの音が愚か者達の心を掴む。最初に心を掴まれたのはあたしだった。
 
 マリアのピアノの音に引き込まれてゆく。音が途切れたことに気がつかなかった。でも、ギムレットのグラスはいつの間にか空になっている。
 マリアのピアノの曲が変わった。

♪ In A Sentimental Mood

 心がマリアと出逢った夜に飛んだ。


「ねぇ、ママ、ピアノを弾いていい?」
 クールな美貌な女が言った。初めて来た客だった。ここに辿り着くように店に入って来た時には既に酔っ払いだった。
「構わないよ、多分、音くらい出る筈だよ」
 あたしはカウンターの中から出ようとさえせずに言った。あたしは彼女の水割りのグラスの汗を拭った。彼女の奢りのあたしの分の水割りを口に含む。
 女はふらつきながらもピアノに辿り着いた。
 女はピアノの前に座って鍵盤をいくつか鳴らす。そして、一気に鍵盤の上を指が走った。

♪ In A Sentimental Mood

 愛されることの嬉しさと不安、そんな詩が付いている。Jazzのスタンダード・ナンバーだ。
 酔っ払いが弾いているとは思えない。見事な演奏だ。髪を泳がせてピアノを弾く女に見覚えがあることにあたしは気付いた。新進気鋭のジャズ・ピアニストとしてテレビでも取り上げられていたことを想い出す。

♪ In A Sentimental Mood

 ピアノの音に引き込まれていた。彼女が弾くピアノはあたしの何かに触れて来る。
 音の連なりの中で時折感じる何か・・・足りないものを補おうとする何か。
 この曲は、元々はデューク・エリントンが母の死を悼んで作ったレクイエム、後からラブ・ソングの詩が付けられた。
 失くしたものへの鎮魂歌。彼女は誰かを失くしたのか。どうであれ、場末のBarでピアノを弾く女ではない筈だ。

カシャ
 グラスの中の氷が溶けてグラスに触れた音が軽く響いた。

「やっぱり、だめ。音が飛んだわ」
「音が飛んだ?しばらく調律してないからね」
「いいえ、違うのよ、ママ。私の左手の薬指が動かないから。技術でカバーしきれなかったの」
 彼女はピアノの前で大きく息を吐いた。
「左手の薬指が動かない。それを技術でカバー出来るものなのか、あたしには分からないけど・・・そのピアノが音を紡いでいたらそれだけでピアニストが弾いていると思うものさ」
「頭で考えて弾いている時は技術で何とかカバー出来るのだけど・・・」
「心で奏でると音が飛んでしまうことがあると言うのかい?」
「そう、ママは何でもお見通し?」
「まさか、あたしには何も見えないよ。ただね、あんたが紡ぐピアノの音が心に触れて来る、そう感じただけ。心の隙間に出来た何か足りないものを埋めようとして、あがいているあたしにそっと寄り添うようにあんたのピアノが入り込んできたのさ」
「ママは、何か失くしたの?」
 ピアノから振り向いた彼女は悲しい瞳を向けた。
「ふふん、愚か者さ。あたしを置いて一人で無期懲役に行ってしまった愚か者が一人、ここにいたのさ。バーテンダーだった」
「なんて悲しい目をしているの?ママは」
「これでも、女、だからね」
 バブルの絶頂期、この辺り一帯も地上げが横行した。この小さなビルもその中に呑まれていた。立ち退きを迫られ、暴力的な嫌がらせも受けた。もう、終わりだと思った時、バーテンダーの冬木は動いた。何人かが死んだ。
 何をやればそんな罪になるのか常人には分からない。あたしは彼の罪を許さない。だから一度も面会には行かなかった。
 だけど、あたしは待っている。無期懲役。帰れるあてなどあるのか。それは考えてはいけないことだ。待つ。それがあたしの愛し方だと思った。それがあたしの勇気だ。

「似たもの同士かしら、私達」
「あんたも誰かを失くしたのかい?」

♪ ピアノの音
 何かを探すように音が流れる。

♪ I'm A Fool To Want You

 まるであたしの心を映しているかのように紡ぐ彼女のピアノ。
「私も愚か者を一人、失くしたの。ねぇママ、一杯だけカクテルを作ってくれない?強いカクテルが飲みたいの」
「どんなカクテルがいい?」
「そうね、ママが一番好きなものがいいわ」

♪ I'm A Fool To Want You

 あたしはカウンターにプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。ミキシング・グラスに氷を詰めてジンとライムをハーフ&ハーフで注いだ。バースプーンでステア。ミキシング・グラスにストレーナーを被せ、氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに中身を注いだ。きっちり一杯だけ。
「クラシック・ギムレットだよ」
 あたしはカウンターを出てピアノにギムレットを運んだ。
 彼女は一息でグラスを空けた。
「美味しい。こんなギムレットは初めて」

♪ I'm A Fool To Want You

「ママは飲まないの?」
「あたしの分のギムレットは作らない。あたしが一番好きなギムレットは自分では作らない」
「そう、分かるわ。その愚かなバーテンダー?」
「冬木って言う男さ」
「冬木さんが作るギムレットしか飲まないわけね」

♪ I'm A Fool To Want You

カシャ
 カウンターの上の水割りの中で氷が溶けた。

 あたしは気がつくとカウンターのスツールに腰掛けていた。
 ピアノの音の中を漂っていたようだ。
「あんたのピアノは心を映す」
「ギムレットのお礼になったかしら?でも、ステアしたギムレットは初めて飲んだわ。シェイクしたギムレットしか知らなかったから」
「レイモンド・チャンドラーが書いた小説でフィリップ・マーロウという探偵がいてね。 “THE LONG GOOD-BYE(長いお別れ)”という作品の中に出て来るギムレットさ。優しい甘さと鋭さが一つになった味、一九三〇年に発行されたサヴォイ・カクテルブックにも登場するクラシックなギムレットだよ」
「漂うような甘さの中にあるシャープな鋭さが、眠りの中から意識が覚醒する、そんな気がしたわ」
「嬉しいねえ、あたしのカクテルを気に入ってくれて」

♪ ピアノの音。曲が戻った。

♪ In A Sentimental Mood

「私が愛した男が好きだった曲なの・・・今はもういない」

♪ In A Sentimental Mood

「彼のお腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして私、左手の薬指を傷つけてしまった。ピアニストとしては致命的な怪我だった。堕ちて逝く女の言い分けだと言われるかもしれない・・・」
「何かが足りない、あんたのピアノだから。あたしのような愚か者の心に入り込んで来るのかも知れないね。あんたのピアノは愚か者を救う」
「私のピアノはまだ人を救えるのかしら?」
「ああ、多分ね」
「人を救うなら・・・マリア・・・」
「えっ?」
「うふふ、私はこれからマリアと名乗ろうかしら」
「マリア・・・うん、あんたにぴったりの名前だよ。あたしはユウコだ」

♪ In A Sentimental Mood

「私は新進気鋭のピアニストとして脚光を浴びていたの。コンサートツアーも組まれて全国を回ったわ。そして彼がいる街にもやって来た。彼の名前は、“秋川 柊(あきかわ ひいらぎ)”・・・私の幼馴染だったの」

 あたしはマリアのためにもう一杯のギムレットを作った。今度は少しずつギムレットを口に含んだ。少しずつ酔いの中に堕ちて行くように。

♪ In A Sentimental Mood

「柊と私は幼い頃から一緒にピアノ教室に通った。いつかプロのピアニストになろうと競うようにピアノを弾いた。プロになったら、お互いに一曲、オリジナル曲を贈ろうと約束もしたのに・・・」

♪ In A Sentimental Mood

「柊のお父さんの会社が傾いてしまったの。柊はピアノどころではなくなってしまった。少しずつ、彼は荒んで行った。何の障害もなく好きなピアノを弾ける私は後ろめたさを感じてしまうくらい、柊の人生は一変してしまったわ。でもね、一度だって柊は私を傷つけるようなことはしなかった。優しかった。いつも応援してくれた。そして、ただ、離れて行った。私から離れて行ってしまったの」

 マリアはピアノと一体化しているかのようだった。マリアの言葉なのか、ピアノが語っているのか分からない。
 冬木と同じように、ただ黙って離れて行った柊の想いを感じた。 

♪ In A Sentimental Mood

「風の噂では、仲間達と法に触れるような危険な物の売買をしていると聞いたわ。そしてそれは事実だった。ある街で地元の筋者とぶつかった。彼らから見れば柊達は子供だった。取り込もうとした。でも柊はそれを拒絶した」
「そうなれば、今度は潰されるだけだね」
「柊は仲間を逃がすために盾になって刺された・・・」

♪ In A Sentimental Mood

「死んだと思われたのかも知れない。でも、柊は生きていた。そのまま病院に駆け込めば助かったかも知れない」
「柊は最後の力を使ってマリアのコンサート会場に来たのだね」
「そう、チケットを持っていたみたい。最前列の席にいた。コートを身体に巻きつけるようにしてシートに蹲っていた。ステージから見た柊は変わり果てた姿だった。頬は痩せこけ、無精髭を生やして、薄汚れたコートを着て。でもね、私のピアノを聴く柊の瞳は優しかった。昔のままの柊だった」

♪ In A Sentimental Mood

「私はアンコールにこの曲を弾いた。もちろん柊のために彼が好きだったこの曲、 In A Sentimental Moodを」
 マリアの心と一緒にあたしの心もコンサート会場に飛んだ。

「柊が優しく笑った・・・」

♪ In A Sentimental Mood

「会場から悲鳴が上がった。何が起きたのか分からなかった」

♪ In A Sentimental Mood

 マリアの心と一緒にあたしもそのまま、コンサート会場の中にいるようだった。

「柊の足元に血が広がっていた。悲鳴は柊の周りにいたお客様達のものだった」

 マリアの指が鍵盤を走る。音が飛んでいるのかなんて分からない。

「私はステージを駈け下りた。警備員の制止など振り切って。走ったわ。黒いドレスを着たまま私は柊の座席まで走った」

『いいピアノだったよ。君は僕の誇りだよ』

「柊の言葉、消えてしまいそうなくらい細かった。私は柊のコートを無理矢理開いた。ナイフの柄がお腹から生えているみたいだった」

『痛いなあ、痛い』

「柊の瞳から生気が消えた。私は右手でナイフの柄を握った。必死に引き抜こうとしたわ。誰かがやめなさいと叫んでいた。でも私には遠い声にしか聴こえない」

♪ In A Sentimental Mood

「邪魔をしないで。柊が痛いと言っているの!こんなものが刺さっているから!」

 マリアに声などかけられない。マリアの心はここにはない。

「私は引き抜けないナイフに左手も加えた。左手の薬指がナイフの刃を握ってしまった」

 曲が止まった。

「私の左手の薬指から血が流れていた。その血は柊の血と混ざって行く。私の血と柊の血が混ざって行くのを視ていた。血ってこんなにも真っ赤なのだって、その時に初めて知った」

カシャ
 グラスの中の氷が溶けてグラスが鳴った。

 曲が変わった。

♪ I'm A Fool To Want You

 愚か者が一人、ここに流れて来た。

「ねぇ、ママ。そう言えば店の看板に灯りが点いてなかった。まだ店は開けてなかったの?」
「マラエ・ランガという看板に灯りは点けてないんだよ。店の名前を変えたいと想っていてね」
「そうなの?」
「マラエ・ランガは太平洋に沈んだ楽園の名前なんだよ。ここにあったマラエ・ランガも欲望という名の海に沈んでしまったから」

♪ I'm A Fool To Want You

「I'm A Fool To Want You ・・・まるであたし達のためにあるような曲だね・・・Foolという名のBar・・・」

「それが新しい名前?ぴったりの名前だと思うわ」
「愚か者が愚か者を待つ店だから、愚か者が静かに酔い潰れるための店として、Foolという名のBarと付けようか」

♪ I'm A Fool To Want You

「マリア、愚か者が静かに酔い潰れるにはお前のピアノが必要になりそうだよ」
 マリアは微笑んだ。まるで聖母のように。
「ママのぶれない愛が愚か者を引き寄せたの、多分ね。そして、これからも」

 そして、マリアの曲が変わった。

 ♪ ねぇ ジョニィ
 ヤスミンのブルースに誘われて、マリアと出逢った夜から現在へと意識が浮上して来る。
 あたし達のジョニィ、冬木というバーテンダーと柊というピアニストに捧げたい曲だ。

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。


 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

 看板のライトを消して間もなく、ドアが開いてカウベルが鳴った。
 陣野は中へ入ると素早く店の中をチェックする。店に他の客がいないか確認しているのだ。
 カウンターの中のあたしと、店の奧のピアノの前にマリア。カウンターの五つのスツールには客はいないと判断してようやく陣野はスツールに向かって歩き出す。
「すみません、ママ。店の外の看板の灯りが消えたので・・・」
「気にしないでいいさ、陣野・・・うちは職業を選ばない」
 と言って、あたしは笑っておしぼりを用意した。
 陣野は黒いスーツに濃いグレーのシャツ、黒地に紅い薔薇の刺繍が着いたネクタイ。どこから誰が見ても筋者だった。
「ママ、こんな格好の奴がこの店に入ることをバーテンダーの冬木なら許しませんよ。そこのカウンターを飛び越して踊りかかって来ます」
「相変わらず、不器用な生き方しているんだね、陣野・・・」
「忘れちゃならない、私は、外道だってことを忘れちゃならないと思っています」
 あたしはボトルをカウンターに置く。
 ミュコーのブラック・パンサー。黒豹の浮き彫りがボトルにデザインされているブランデーだ。冬木が陣野のために選んでやったボトルだった。

「しかし、このボトルはあんたにぴったりだね」
 と言って、あたしはブランデー・グラスにブラック・パンサーを注ぐ。
「冬木はバーテンダーとして一流でした、そのまんま、バーテンダーだけやっていれば良かったんです」
「こんな風に、客に似合う酒だけ用意していればね」
 あたしはボトルを掴んで呟いた。
「ママもやって下さい」
「あたしはロックでもらうよ」
 グラスを軽く合わせる。

♪ ピアノの音

♪ ST. JAMES INFIRMARY

 陣野の夜にはどこか気だるいブルースが似合う。
「たまには、その鎧を脱ぐ気はないのかい?」
 とあたしは陣野の黒づくめの衣装に視線を向けた。
「漁夫の利を得た。と今も思っています。冬木に私がやるべきことを掠め取られた、いや、逃げていたのを見かねて持っていかれただけかもしれません」
 陣野はグラスを呷る。
「私はこの街の裏社会を牛耳る顔役になりました、冬木を踏み台にしてね、しょうがねえ外道です」
「だから、どこから誰が見ても外道にしか見えない格好をするのかい?」
 あたしは陣野のグラスを満たしながら言った。
「鏡に写った自分が顔役とか祭り上げられても、所詮は外道だってことを忘れないように」
 陣野はグラスを手の中で転がす。
「あんたの仕事を正当化する気はあたしにはないよ、必要悪、それも違う、そんなものも認める気持ちもない。外道は外道・・・だけど、陣野には、自分の命を盾にしてあんたを守る子分がいる。あんたの生き様を視ている奴がいる・・・それは、頭に入れて置くべきこと」
 と言ったあたしが浮かべた微笑の中に救いを求めるように陣野はあたしを見つめていた。
 あたしのグラスが空になっていた。陣野はブラック・パンサーをあたしのグラスに注ぐ。
「会いに行く気はないのですか?冬木はシャ場には戻れませんよ。それだけのことをやっちまった」
「ここで待つよ、会いに行ったら、冬木の外道な部分を認めてしまうことになるからね」
「ママも、不器用な人ですね」
「女って、だけさ」

 曲が変わる。ボブ・ディランの名曲
♪ Blowin' In The Wind
 
♪♪ どれだけ歩けば人として認めてくれる?
    どれだけ飛べば砂の上で安らげる?
     その答えは風の中、風に吹かれている

 マリアのピアノはその瞬間を映すと言う。その時の心を映す。
 左手の薬指が動かないピアニスト。そんなピアニストが弾く音だから、何かが足りない愚か者でさえ、酔いの中に堕ちてしまいたいと誘うのだろう。

カシャ
 あたしが飲んでいたロック・グラスで氷が溶けてグラスに触れる音が響いた。

 陣野がグラスを飲み干した。
「ママ、私もオン・ザ・ロックに」
「あんたも酔うのだね」
 陣野はふっと息を吐いた。
「それでいいんだよ、陣野、たまには酔ってしまえばいい・・・でも、それをあんたは赦さないのかな・・・不器用な男だね、あんたと冬木は似ている・・・」
「違うなぁ、私は人のために戦ったりはしない」
「この街がこれ以上、汚れないように、あんたが目を光らせているだろう?」
「せっかく漁夫の利を得て手に入れた地位だから・・・一度、上り詰めちまったら降りられない・・・それも欲望、ただの欲望さ」
「欲望かい?冬木にはどんな欲望があったのだろう?」

♪ Blowin' In The Wind

♪♪どれだけ戦えばわかるのだろう殺戮の虚しさを
    その答えは風の中、風に吹かれている

「生きられるだけ、愛し続ける・・・冬木の欲望は、ママを守る、ただ、それだけ・・・そのためなら、奴は何処までも堕ちて逝くでしょう」
「愚か者だね、どいつもこいつも」
「少しは照れくさいと感じましたか?ママ」
「ふん、生意気なことを言うじゃないか、陣野」
 陣野の視線があたしに何かを求める。
 何を探しているのか・・・答えは風の中、風に吹かれたままなのか。

♪ Blowin' In The Wind

 マリアのピアノとブランデーの香りがあたしと陣野を酔いの中に引き込む。

♪ Blowin' In The Wind

「マリアのピアノにギムレットを」
 ドライジンとライムジュースをハーフ&ハーフでステア。

「漂う様な甘さとシャープな鋭さが「覚醒」へと導くような気がするとマリアが言っていましたね、ママのギムレットは」
「陣野は覚醒よりも、少しは惰眠って奴を貪った方がいい」
 陣野の口元に笑みがこぼれた。
「私が店を閉めようと灯りを消した時にだけ、いつも陣野は現れる・・・」
 と言ってあたしはギムレットをピアノの上に置く。
「他の客の前に面を出してはいけないことは分かっています。通りすがりに灯りがついていれば今夜はまだ酔ってはいけない夜なのだと自分に言い聞かせてます」
 マリアはピアノを弾きながらグラスに手を伸ばす。
 音は途切れない。もう、あたしの心の中にピアノの音が染み込んでいるかのように音は途切れない。
「冬木が陣野のために用意したブラック・パンサーは、陣野のためにだけネームタグはぶら下がっているよ」

 陣野はグラスを呷る。

♪ Blowin' In The Wind
♪♪ どれだけ生きなきゃ人は自由になれないのだろう?
    どれだけ天を見上げなきゃ空は見えないのだろう?
     その答えは風の中、風に吹かれている.

「心が破れそうな夜・・・戦うことを忘れたい夜・・・通りすがりに灯りが消える・・・そんな夜は迷わずここで酔えばいいさ、陣野」
「あぁ…そうだね、ママ。その時は冬木が用意してくれたブラック・パンサーを飲むとしよう」

 曲が戻った。

♪ ST. JAMES INFIRMARY

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 Fool という名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

『いつか、スタレビのいる街で会えたらいいね』と自分で打ち込んだメールにキュンとなったよ」
 と恋次郎は言った。

カシャ
 氷が溶けてグラスに当たる音が響いた。

「お別れに、そんなメールを打ったんだよ」
 恋次郎は、照れ臭くなって苦笑いを浮かべた。
「ふうん、会社の業務用のパソコンからかい?誰かに見られることはないのかい?」
 あたしはグラスの汗を拭いながら言った。
「システム管理の連中にかい?それはないとは思うけど・・・でも、送信してすぐに消したよ。業務内容だけしかメールボックスには残してない」
 カウベルが鳴って客が一人入って来た。
 スリーピースに身を包みベレー帽を被っている。
 細面で唇には菩薩のような笑みを浮かべた男だ。
「すみませんね、折角、ママさんと水入らずのところ、お邪魔してしまったかな?」
 恋次郎は、苦笑して隣の席を進めた。
「あたしと水入らずで、何が楽しいのさ。探偵さん」
「私の調査では、この店のお客様は、ほとんどがママさん目当てのママさんの“しもべ”だということですよ」
「しもべ、ですか?面白いですね」
 恋次郎は、くっくっと笑った。
「ウケて下さいましたか?」
「何、言っているのだい、探偵さん。みんな、この店の居心地がいいってだけだよ」
 あたしは探偵のボトルを用意しながら笑った。妙に人を和ませる男だ。用意したボトルはBallantineだ。

「キザだろう?英国紳士を気取っているのさ。だからスコッチ・ウイスキー」
 あたしがグラスにBallantineを注ぐ。
「シャーロック・ホームズに憧れておりまして」
 探偵はベレー帽に手をかけた。
「坊主を辞めて探偵になりました」
 ベレー帽を脱いだ。
 恋次郎は、口があいたまま探偵の頭を見つめていた。
 あたしは声を出して笑った。
 探偵の頭は綺麗に剃られたスキンヘッドだ。
「元、坊主の探偵、七尾探偵社の所長さんだよ」
「七尾霊四郎です」
「恋次郎です。似た名前だけど」
 恋次郎も名乗ってグラスを合わせた。恋次郎は本名ではない。
「菩薩のような笑みが常に口元に浮かぶ理由がわかったような気がしますよ」
 探偵は、スキンヘッドだと言っても凄味があるわけではなく、菩薩のような笑みが似合う優男だ。
「探偵さん、彼は恋話(こいばな)聞かせの恋次郎。いつも切ない恋をしてはここで語るのさ」
「もちろん、恋次郎は 源氏名です。僕は夜の街に出る時には恋次郎と名乗って歩いているのですよ」
「おもしろい、お客の方が源氏名とは、私も最初にそうすれば良かった」
「元坊主の探偵で十分別の顔があるだろう?」
 と言ったあたしに向かって七尾は肩をすくめてみせた。
「ところで、スタレビってなんだい?」
 あたしは勝手に探偵のボトルで自分の分の水割りを作りながら言った。
 グラスを合わせる。

♪ ピアノの音・・・

♪ THE STRANGER

 いつものようにマリアが黒い服でアップライトのピアノを弾き始めた。
 ビリー・ジョエルの名曲。誰だって別の顔があると言う詩がついていることはあまり知られてない。

「スターダスト・レビューというバンドだよ。僕らはそのバンドのファンなんだよ。お互いファンだなんて知らなくて、風の噂で知ったんだ、お互いスタレビのファンだと」
「同じ会社なのだろう?」
「僕がいる街の事業所と彼女の所属する事業所は別の土地で僕らは一度も会ったことがないのさ。仕事上での電話やメールのやり取りもあまりなくて、月に一度位かな、連絡するのも」
「大きい会社だこと」
「寂しいと言えば寂しいね、中途半端な規模の会社は」
「遠距離恋愛ですか?」
 探偵が恋次郎の顔を覗き込む。
「違うのさ、探偵さん、彼は彼女の顔さえ知らないのだよ、恋愛にまで発展してないのさ」
 あたしのツッコミに恋次郎は肩をすくめてみせる。。
「ママさん、夢がないことをさらりと言うのですねぇ・・・」
 探偵は静かにBallantineを飲む。
 あたしも肩をすくめて笑う。

♪ THE STRANGER

 いつものようにマリアが黒い服でアップライトのピアノを弾く。
「その愛しい人の調査、七尾探偵社でお引き受けしますよ」
 探偵は、パイプをくわえながら恋次郎に微笑みかけた。
「営業かい?あたしの店の中で?」
「ママさんの紹介なら特別な低料金でやりますよ」
「パイプくわえた、英国かぶれの元坊主の探偵なんて、胡散臭いだけだよね?」
 探偵はパイプを持て遊ぶだけで火を付けるつもりはないようだ。
「あの、そのパイプは?もしかして飾りでしょうか?」
 恋次郎は、勧誘には答えずパイプを指さす。
 探偵は満面の笑みを浮かべた。
 あたしは結末を聞く前から声を出して笑ってしまう。
「はい、その通りです、ちょっと探偵らしく見えるかな?と思いまして・・・」
 探偵は頭を撫でた。
 恋次郎も、ついに吹き出してしまった。
「人間、素直が一番です」
 探偵はまた、菩薩のような笑みを口元に浮かべる。
「人間、素直が一番です・・・元坊主という感じだろ?」
 あたしは探偵のアクセントを真似しながらちゃかす。
「私は忍耐に疑問を持ちましてね、素直に生きたいと考えたのですよ」
「心のままに、生きられたら楽ですよね」
 恋次郎は、グラスを傾けてから息をつく。いつも素直な回答をする男だと思った。
「心に嘘をついて生きていると歪みが生じます。結果、少しずつ不満が蓄積され、禍いに繋がる場合がある」
「そうやって愚か者達が道を外れて行くんだよ。探偵さん」
 と言ってあたしは遠くを見る。冬木の顔が浮かんだ。
「でも、彼は後悔してないと思います」
 と、言われたのは恋次郎のことではない。あたしの視線と探偵の視線がぶつかっていた。
「このBarには昔、冬木と言うバーテンダーがいたのですよ」
 探偵はあたしの視線から逃げるように恋次郎に顔を向けた。
 あたしの視線に追い駆けられて恋次郎は軽く咳払いをした。
「聴いてはいけない話のようだなぁ」
「愚か者さ、ただの愚か者なバーテンダーがいたってこと」
「ただ、心のままに愛するママを守っただけだと思います」
 沈黙・・・
 沈黙の中でマリアのピアノ。
 誰のために弾いているのか。

♪ THE STRANGER

 どこか気だるく、そして愛しく、甘く…
 マリアのピアノがあれば、これ以上、言葉はいらない。
 探偵も、それ以上は何も語らず、あたしも目を閉じてピアノの音に身を委ねだ。

♪ THE STRANGER
 があまりにも心地よく心に流れ込む夜だ。

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「想う・・・だけでもいいんじゃないですか?」
 と恋次郎は、思わず口にしていた。やはり素直な男だと思った。
 あたしと探偵が顔を向ける。
「そうだね」
 あたしが優しく笑うと、
「なるほど・・・」
 と探偵がうなずく。

「♪会えないよ、今も君が好き・・・だから・・・スタレビの曲なんですよ」
 と恋次郎が、鼻歌混じりに口ずさむ。
 すると、マリアのピアノが恋次郎のハミングに重なって行く。

♪ 会えないよ
 に変わった。マリアのレパートリーはどれだけ広いのだろう。
 マリアのピアノは心を映す。誰かが呟いた。

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「あんたは会社を辞めてしまったから、もう彼女に連絡取れないってことかい?」
 とあたしは氷が溶けてしまった恋次郎のグラスを新しいグラスに変えながら言った。
「会社の業務用パソコンでスタレビファンにしか分からない歌詞を織り混ぜながらのメール会話はまるで暗号だったなぁ・・・」
「会えないからいいってこともあるさ」
 とあたしはため息のように言った。
「風の噂では、とっても美しい人だという」
 恋次郎は、グラスを傾ける。
「会えないから、いい・・・か」
 探偵は、菩薩のような笑みを浮かべながら呟いた。
 マリアのピアノは誰のために弾いているのか?恋次郎なのか、あたしのためなのか?

 誰かのケータイが震えた。
「着信音がなく、バイブだけなのは、その他の一般メールの設定なんです。未登録の。何かの広告だろう」
 と言いながら恋次郎はケータイを開いた。

『スタレビの居る街で・・・会えたら、なんて素敵なの』
 とメールを読み上げる恋次郎の声が弾けた。
「あっあの人からメールが届いた」
「えっ?あんたのケータイのアドレスは知っているのかい?」
 あたしがキョトンとした顔で聞く。
 探偵は、探偵らしくこの状況を分析しようとパイプをくゆらせる振りをする。
「僕は、会社からの最後のメールに、『スタレビのいる街で会えたらいいね』と書いて、最後の最後の行に、僕のケータイのアドレスを入れておいたんだよ」
「キザだね、あんたも」
 マリアのピアノの曲が変わった。

♪ ふたり

「♪ふたり、すれ違うだけで、出会わなければ・・・スタレビの曲にある、“ふたり”という歌だよ」
「ケータイで繋がってしまったのでは探偵の仕事はありませんね」
 探偵はスツールを降りた。
 ベレー帽をしっかり被ると、また会いましょうと言って帰って行く。
「なんて返事をするのだい?」
「『どこかの、スタレビの居る街で』と返信したよ」
「不器用な男だねぇ」
 恋次郎は、肩をすくめて見せた。
「そういうママだって・・・あてもないまま、待つのだろう?それも不器用と言うのさ」
「生意気だねぇ」

 今夜の最後の曲は

♪ THE STRANGER
 誰にだって他人には見せない顔がある。冬木を待つと決めたあたしの顔は表の顔なのか、それとももうひとつの顔なのか?


 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店…


「私、馬鹿だからさ、うまく言えないんだけど、何故、ここに来たのか分からないんだあ」

 と女は言ってショット・グラスを唇に寄せた。女は頭を動かさないで手首を返すだけでグラスの中身を口の中に放り込むように空けた。
「ここは、Foolという名のBar・・・愚か者が静かに酔い潰れるための店さ」
「なるほど、そうかあ」
 女は初めてあたしと視線を合わせて笑顔を見せた。儚さの中の一瞬の希望、そんな笑顔に見えた。
 
 今宵、紛れ込んだ愚か者は初めての客なのに妙に心に引っ掛かる女だった。ふと、前から知っているような錯覚を覚えた。

 彼女が現れたのは、ほんの少し前だった。カウベルが鳴った。そっとドアを開け、顔を出して店の中を覗き込んだのは四十前後の一人の女だった。ドアの外から冬の匂いがした。
 女はあたしと目が合うと、「いいかしら?」という視線を投げて来た。
「いらっしゃい、どうぞ」
「私、一人なんだけど・・・」
「構わないよ、ここは静かな店だから」
 女は頷くように微笑んでから入って来た。
「あんたが開けたドアの外から冬の匂いがしたよ。まだ春にはならないようだね」
「私、北から下りて来たところだから。向うはまだ雪の中」
「ふうん、雪の中から来たんだね」
「私が春を知らない女で、いつも冬をまとっているのかも」
 と言って女は舌をチョロっと出した。だから冬の匂いがするのだと彼女流のジョークのように見せた。でも彼女は視線が合うと逸らした。
 
 店の奥からピアノの音。
♪ The way we were・・・

「マリアのピアノはその瞬間の心を映す」
「ピアニストがいるバーだって聞いていたんだけどさ、この雰囲気、私なんかが入れる店じゃなかったみたい」
「ここは気取った高級な店じゃない。場末のバーさ。安心して大丈夫だよ」
「そうかぁ、聞いた話では愚か者が集う店だって」
「ふうん、この店のことを色々と聞いて来たのかい?」
「うん、私を失くして悲しみに暮れる男が、この店で酔い潰れたとメールをくれたんだ」
 と言った彼女の瞳はちょっとだけ悪戯っぽく笑った。
「あんたを失くした男かい?」
 彼女は目を逸らした。
「あっママ、バーボンをストレートで下さい、ショット・グラスで」
「はいよ、バーボンは何がいいかな?」
「うん、ワイルド・ターキー」
 ワイルド・ターキーはアルコール度が五〇、五度のバーボンだ。あたしは黙ってショット・グラスにワイルド・ターキーを注いで彼女の前に出した。

「私、馬鹿だからさ、うまく言えないんだけど、何故、ここに来たのか分からないんだあ」
 と女はそう言ってショット・グラスを唇に寄せた。女は頭を動かさないで手首を返すだけでグラスの中身を口の中に放り込むように空けたのだ。
「ここは、Foolという名のBar・・・愚か者が静かに酔い潰れるための店さ」

「どう、ママ。さっきの飲み方?」
「あざやかだね、頭も動かさずに綺麗に喉に放り込んだよ」
「ハード・ボイルドの主人公がそんな風に飲むんだって、その男が教えてくれたんだ。彼はかなり練習したそうだよ。初めは胸に全部こぼしてしまったって」
 あたしはその話を前に聞いたことがある。この店の客、すなわち愚か者の一人、恋次郎だ。
「私は、一発で決めて見せたんだよ、その途端、彼は私に夢中」
 と言って彼女は舌を出した。
 あたしが空いたグラスに手を伸ばす。
「あっママ、今度はソーダ割りにして。もうストレートはおしまい。女の酔っ払いはカッコ悪いでしょ?」
「酒に呑まれなきゃいいのさ」
「そうかぁ、ママの言葉は説得力があるね、あっ私のことはアイって呼んで」
「アイかい?あたしはユウコ、ピアニストはマリア」
「アイは、アルファベットのiだからね」
「アルファベットのiなんて洒落ているね」
「でしょう?」
「どんな男だったから彼はアイを失くしたのだろうね」
「遊び人のくせにさ、紳士だったからだよ」
「ふうん、意味深だね。紳士だったからなんて」
 あたしは水割りを出しながら、アイに視線を向けた。アイは視線を合わせない。
 今度は少しずつ水割りを飲んでいた。
「チョイ悪親父を気取って、名前は恋次郎、恋多き男だからだって言ってさ。夜遊びする時の源氏名なんだって。私達もバイト先のスナックでは源氏名使うのだからお互い様だって。ふざけているでしょう?早い話がさ、本名の彼には普通の生活があるってこと。だから、俺に本気で惚れるなよってこと」

♪ The way we were・・・

「この曲、聞いたことがあるけど・・・」
「The way we were・・・追憶っていう映画のテーマ曲だよ」
「あぁそうなんだあ。曲は聴いたことはあるけど曲名は知らなかったなぁ。映画の名前も知っているけど観たこともない。でもショーワの時代のものって妙に懐かしいものね」
「うん、そうだね。あたしも映画を映画館で観たわけじゃない、多分テレビで観ただけだと思うよ」
「追憶かぁ」
「ここは、アイにとっての追憶の街になるのかな?」
「追憶の街・・・とFoolという名のBar・・・ぴったりな取り合わせじゃない?ママ?」
「そうだね、そしてマリアのピアノ」
「うん、ピアノの音が気持ちいいって初めて感じたかも私」
「マリアの左手の薬指は動かない。素手でナイフの刃を握ってしまった。好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとしてね。その時、マリアは左手の薬指を傷つけてしまった。堕ちて逝くピアニストの言い訳だけかも知らない。でもね、だからかもしれないけどね、ここに流れて来たマリアが弾くピアノはその瞬間の心を映すのさ」
「そうかぁ、この曲は私の過去を映しているのかぁ。だから気持ちいいんだね、きっと」
「アイにとってこの街は気持ちのいい想い出なんだろう?」
 アイは遠くを見るような目をして、グラスを揺らした。
 氷がカシャンと気持ちよく響いた。アイは少しずつ酔いながら想い出に心を向けていた。

♪ The way we were・・・

 アイは友達を頼ってこの街に流れて来た。古いライトバンの車には生活必需品が詰め込まれていた。いつでも何処へでも逃げ出せるように車には運転シートしか空きスペースがないくらい車の中は荷物でいっぱいだった。
 友達は子供が産まれて同棲していた彼氏と入籍したばかりだった。アイに寝床を用意するのも大変な2DKのアパートなのに同郷の仲間だと言って、アイを快く迎え入れてくれた。
 アイは長居をするつもりはなかった。北国で育ったアイにとってこの街の夏は耐えがたい暑さになると感じていたからだ。季節はもうすぐクリスマス。春までには次の街へ向かいたいとアイは考えていた。

『何しているの?』
 彼からのメールだった。
『居場所がないから空を視ている』
 とアイは返信した。友達家族には余計な負担はかけさせたくないと考えていた。だから寝床だけ用意してもらえれば十分。食事は自分で調達すると言ってお昼前にアイはいつも外に出ていた。日曜日だった。行くあてもないし、きっちり三食食べなくてもいい。その日は荷物の詰まった車の中でぼんやりと晴れた空を視ていただけだった。
 彼とはバイト先のスナックで二度ほど席についただけだった。といってもバイトはまだ初めて五日だから彼はもうアイの客という感じになり始めていた。

 昼食がまだなら何か食べに行こうと言われた。日曜日はバイトも休みだった。お昼はしっかり食べて夕食は抜いてもいいと思った。
 駐車場の近くに迎えに来てもらった。
『ガソリン代ケチって毛布にくるまっていたよ。私の車を見るか?生活必需品揃っているんだ。いつでも好きな時に消えることが出来るように』
 そう言ったアイの目を彼が見つめていた。本当は荷物だらけの車を彼には見せるつもりなどない。アイはすぐに瞳を逸らしていつものように笑った。アイの瞳に、瞳の奥にどうしようもない絶望があるのを彼に気づかれたような気がした。

『何が食べたい?』
 彼の車に乗ってまもなく聞かれたが特に食べたいものなど浮ばなかった。
『お腹がいっぱいになれば何でもいいよ』
 アイは深く考えないで答えていた。多分、彼は色々と考えていたようだ。連れて行かれたのは大きなショッピングモールだった。
『ここなら色々な店がある、視て回ろう。食べたいものがあったらそこへ入ろう』
 ショッピングモールには映画館も入っていた。
『へえ、ここはショッピングモールなんだね。映画館もあるよ。あの映画、今年ヒットするって言っているね、でもそれが私達にとって面白いかは別。映画なんて生きるのに無くても平気、恋次郎もそう思うタイプじゃないかしら?』
 彼はヒットする映画なら後学のために今度一緒に観ようと誘って来た。
『しょうがないな、男が一人で観るような映画じゃないし、女が一人で観るようなものでもない、いいよ!一緒に行ってあげよう』
 とアイは悪戯っぽく笑って見せた。
 アイは何でもありそうな洋食レストランを選んで入った。
『私、ハンバーグランチ、ライス大盛りで』
 アイは夕食は菓子パンで済ませようと考えていた。その時、彼が自分の分はパスタだけ注文していたのを見て彼は家で昼食を済ませてから出て来たのだとアイは感じた。彼には家族がいるということを一瞬忘れかけた自分を恥ずかしいとアイは思った。

♪ The way we were・・・

カシャ
 とグラスの中で氷が響いた。
 あたし達はアイの過去から現実に戻って来た。

「彼がただの遊び人なら、騙された振りをして、私が彼を転がして貢がせてやろうと思っていたんだ、最初はね」
「だけど彼は違ったんだね」
「最初に会った時はスナックの女と客、それだけだと思った」

♪ The way we were・・・

 アイがバイト先のスナックで恋次郎の席に着いた二度目の時に
『あんたのその飲み方、カッコいいね』
 と言ったら、ハード・ボイルドの主人公がグラスを呷る時、頭を動かさないで手首を返すようにして喉に放り込む。そんな話を読んだことがあって練習したのだと彼が答えた。アイは腹を抱えて笑った。
『練習したんだ?すごーい。どうでもいいことに努力するって面白いよ。でも、なんで?』と聞いたら、彼は急に赤くなって黙り込んでしまった。
『ははあ、わかった!女の子の前でカッコつけたいわけだ』
 と追い打ちをかける様に図星を突いた。
 図星をつかれた彼は何も答えずグラスを呷る。
『だけど、うまくいったじゃん』
 アイは瞳をくるくる回して顔を近づける。
『だって私のお目に止まったわけだから』
 舌を出してアイは笑いながら、私もやってみると言ってグラスを構えた。
『折角のドレスが濡れるぞ』
 と言った彼の制止には耳も貸さず、アイはグラスを呷った。
 見事に手首を返すだけでグラスを空にした。
 得意気に鼻を上げてにやりと微笑み、
『どうよ、見直した?努力するのはあなただけじゃないのよ』
『練習したのか?』
『先週、あなたに初めて逢って、カッコつけた飲み方しているなあって思って。帰ってから自分でもやってみたら、シャツがビショビショになっちゃったよ』
『ばかだなあ、何だってそんなことするんだ』
『ばかはお互い様でしょう。努力は報われるものなのよ』
 アイは悪戯っぽく笑う。
『だって、あなたはもう私に興味津津じゃない?私の勝ちよ』
 声を上げて笑う彼にアイは名刺を渡した。名刺には携帯の電話番号とメールアドレスが書かれてあった。

カシャ
 とグラスの中で氷が響いた。
 あたし達はアイの過去から現実に戻って来た。

♪ The way we were・・・

「名刺を渡した翌日にメールが来たの。ホントは昼間からお客とは会わないの、店に呼んでナンボだからさ。私達の世界は」
「だけど、会ってしまったのは、彼に何かを感じたのかい?」
「寂しさかなあ、彼も居場所がない。そんな風に感じたの。ねぇママ。このバーボン・ソーダはいくら飲んでも丁度いい。酔いに合わせて調節してくれているの?」
「美味しいならよかった」
「あの頃、私、この街に少し住みたいと思い始めていた。友達の家に居候していることを私、彼に話してしまったの。私、あの時、何かを期待したのかなあ?」
「どうかな?純粋にアイは相談しただけだと思うよ。彼が部屋を借りてくれると言ったら、アイはそれを受け入れたと思うかい?」
「そんな負担を彼には掛けさせないよ、多分。どうだろう?ママ。私、分からない」
「実際はどうだったんだい?」
「スナックのオーナーはだいたい緊急用に部屋の一つはキープしているものだからって掛けあってくれたの」
「なるほど」
「店があるビルの上に女の子の着替え用に部屋が借りてあって昼間は空いているから暫く使っていいという事になったの」
「それは良かったね。でも着替えに皆が来るってことだね」
「寝泊まり出来れば十分。でも聞いてくれてありがたかった。ガス、電気、水道、冷暖房完備だし。夜、皆が着替えに入るけど夜は私も仕事だし。何よりお金が掛からなかったから。一人でいる時間が出来たこと、一人でいる場所が出来たことが嬉しかったよ」
「時には、孤独な時間は必要なものだからね」
「ママは何でもお見通しだね。彼には店には週に一度くらい顔を出してもらったけど、私達、毎日会う様になった。一時間でも、三〇分でもいいから何か理由を付けて会おうとしていた。昼間だったり、私が仕事を上がる深夜だったり・・・」

♪ The way we were・・・

『洗濯機に繋ぐホースがボロボロなんだ、買いに行くの付き合ってくれる?』

『電池が必要』

『シャンプーきれた、私、使うメーカにこだわりがあるんだ』

『猫がいるんだよ。ママには内緒で店の女の子達が二階で飼っていたんだ。これからは私が面倒をみるんだあ。餌、近くに売っている所、あるかな?』

 アイは毎日、小出しに用を作った。彼はそれをいつも待っていてくれた。彼は仕事の合間に時間を作って買物につき合った。そして買物のネタが尽きた頃、アイは一枚のチラシを見せた。

『有酸素運動がいいんだって、駅前になんかできたよ。一〇分間、台の上に乗ってブルブルするだけでいいみたいだぞ』

 彼は入るのが恥ずかしいから嫌だと言った。一緒にいる時間が出来るとアイは誘った。そのチラシは半月前に彼も見た覚えがあった。アイがそのネタをキープしていたことに彼は気づいていた。

♪ The way we were・・・

「理由がなけりゃ逢えない・・・なんて不器用な二人なんだろうね」
 あたしはアイのグラスの汗を拭う。
 アイはバーボン・ソーダを喉に放り込む。
「私達は毎日、ダイエット施設で待ち合わせた。私がブルブルマシンと呼ぶダイエットマシンに並んで乗ったよ」

♪ The way we were・・・

『体脂肪測定のデータをみせてよ』
 
 データを見せようとはしない恋次郎から、アイはデータを奪い取った。

『なんだあ、こりゃあ。あり得ない、どうすんだ』

 彼の数値が標準値より高いのを見つけると鬼の首をとったかのようにアイは笑った。

『ヤバいよ、もう肉は食べられないよ、ベジタリアンになれよ、草食系男子になるしかないね』

『悪いけど、私は肉を食べるよ。体がもたないもの。あなたは私の横で指を咥えて見ているのね』

『これからは、私があなたの健康管理をしてあ、げ、る』

一瞬、彼は笑顔を消してじっとアイを見た。

『なあんて・・・ね』

 アイはまた悪戯っぽく笑ってごまかした。

カシャ
 と氷とグラスの触れる音。

♪ The way we were・・・

「新しく作り直すよ、薄くなってしまっただろう?あたしも一杯もらうよ。切なくなってしまったから」
 アイはマリアにも一杯奢りたいと言った。

「マリアにはギムレットでいいかい?」
 あたしは手際よくプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。
 ローズ社のライムジュース。レイモンド・チャンドラーが作った孤高の探偵フィリップ・マーロウで有名になった。
 ジンとライムをハーフ&ハーフで氷と一緒にミキシング・グラスに入れ、バースプーンでステア。
「クラシック・ギムレットだよ」
 あたしはピアノにギムレットを運んだ。
「シェイクじゃないギムレットがあるなんて知らなかったよ」
 カウンターに戻ったあたしにアイが言った。
「ママは?」
「あたしの分のギムレットは作らない」
「自分の分は自分では作らないということ?」
「そう、あたしが好きなギムレットは自分では作らない」
「他に作ってくれる人がいるってことかぁ」
「今はいないよ、愚か者さ、あたしのために人生を棒に振っちまったバーテンダーが昔、ここに居ただけ」
「ママ、なんて悲しい目・・・なんでそんな悲しい想いをしたの?」
「女・・・だからさ」
 あたしはアイと同じバーボン・ソーダを作って、アイのグラスと合わせた。
「女、だからかあ。私達、みんな、女だね」

♪ The way we were・・・

 マリアのピアノの音は一度も途切れず、気づいた時にはギムレットは空になっていた。
 あたし達ははまた、マリアのピアノと一緒にアイの過去へと潜って行った。

『恋次郎の仕事っていいね』
 そう言った時のアイは真剣な顔をしていた。
 彼は脱サラして介護事業を起業していた。
『僕の会社の仕事は訪問介護だよ。働きたくても介護の仕事をするにはヘルパーの資格を取らないと出来ないんだよ』
『そうか、見習いとかあればいいなって思ったんだ、資格取るなんて無理、諦めるよ』
『諦めるのは早い、資格を取りたいという気持ちがあるなら協力するよ。夜の仕事は若いうちだけで長くは続けられないだろう?』
『うん、私が可愛いと言われるのもあと数年だけだしさ、だけど私の年齢でこの美貌ってかなり凄いことじゃないかしら?』
 アイはいつものように最後はジョークで話を濁してしまおうとしているのを彼は気がついていた。
『資格を取ったら僕の会社で最低三ヶ月働く条件で学費の半分を出してやるよ』
『えっ?本当か?恋次郎の会社で働くよ。あんたが教えてくれるなら安心だし。私さ、がんばるから』

カシャ
 と氷とグラスの触れる音。
 あたしはアイのグラスの水滴を拭った。

「ふうん、でもアイはすんなり「うん」と言ったのかい?実際は、ああでもない、こうでもないと理由をつけて彼を困らせたんじゃないのかい?」
「なんでもお見通しだね、ママは」
「手を伸ばせばすっと離れてしまう、怖いのだろう?優しが」
「特にさ、それを失う時が来ることが分かっているから・・・」
 と言ったアイの悲しい横顔をあたしは見ていた。
「恋次郎が言ったことがあるんだ、雪に願うって」
「雪に願う?」
「恋次郎が好きなchiiの曲に、“願い雪”というのがあって、chiiに聞いたことがるんだって、タイトルの意味を」
「それで?」
「溶けて消えて無くなる前のその一瞬に、願えたなら叶いそうな・・・そんな気がする、からと。だから私、恋次郎なら何を願う?って聞いたんだ」
「ふうん、いつ消えてしまうか分からないアイに恋次郎は何を願ったんだろう?」
「消えてしまう前に残してくれたんだとと思うよ、恋次郎という存在を」

♪ 願い雪

 あたし達はまた、酔いの中に堕ちて行く。

♪ 願い雪

『ねぇ、こっちの夏は、じめじめして暑いのだろうなぁ。私さクーラーなんてない北国で育ったから暑さに弱いんだ。ここへ来る前は北陸、そんなに暑くない町にいたから・・・友達がここへおいでよと言ってくれた時も迷ってね』
 アイは別れの日を匂わせた。それでも資格を取りたいというようにアイの瞳には意思があった。
 アイは彼を信じようとしていた。依存してもいい、そう感じさせるものを持った男だと思った。
 アイが一つの町に居られる時間には限界がある、アイは普段、携帯電話の着信音はOFF、バイブもOFFにしていた。全てから逃げていた。

 夏までまだ時間がある、資格取っておけば他の町へ流れても使えるからと彼が説得した。

“夏まで、あとどのくらい?”

ふと、そんなフレーズが心をよぎった。

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

『春までに資格が取れれば夏まで仕事できるね』
 アイは自分に言い聞かせるように言った。
 かなりのハード・スケジュールになるし、学校が終わってから夜のアルバイトまで時間もそんなにない。

『時間がないのもいいさ、余計なこと考えなくていいから』

 朝から学校に行き、夕方に帰宅したら夜の仕事の準備、そして深夜まで働らく。それを毎日繰り返した。アイはそれを苦しいとは言わなかった。彼も毎日、送迎をした。

 ダイエット施設には週一だけしか通えなくなっていた。
『あと、もう少しだね、実習が始まるよ。実習場所が決まったら連絡するからルート調べてね』

 忙しさに没頭することで何かを忘れようとしている。
 でもそれはアイだけではない。
 春が近づいていた。
 彼もあのフレーズを忘れようとしていた。

“あと、どのくらい?”

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

カシャ
 氷とグラスの触れる音。

「別れの気配を感じながら過ごすなんて苦しかっただろう?」
「うん、『また明日』という言葉が別れに近づくだけだと知った時、時間は加速するって感じたよ、ママ。学校、介護実習、バイトを繰り返しながら冬が終わったよ」
♪ I'm A Fool To Want You
 曲が変わった。この店のテーマ曲のようなものだ。

「春になって私は資格をとった。最短だったよ」
「頑張ったのだね、多分、彼もね」
「なんでもお見通しね?ママ。ハード・スケジュールの中でも何も言わず、毎日、送迎してくれたよ」
「彼の会社で仕事したのかい?」
「うん、給料もちゃんとくれたよ。特に色など付けずに規定通りにね」
「そしてくり返すんだね、僅かな時間を作って必死に会おうとする」
「でも、冬から春に変わって時間は加速するばかり・・・“また、明日“がさよならに近づくだけ」

♪ I'm A Fool To Want You

 梅雨になった。

『きついよ、この湿気。やっぱりきつい』
 冬、どんなに忙しくても大丈夫だったアイもこちらの梅雨の暑さには体調を崩してしまった。

『仕事は休めないよ、お金にならないだろう。ちょっと風邪がこじれただけ。風邪薬買って来て欲しい。心配ないって言ってもあなたは心配するでしょう?だから言わな〜い』
 いつものように悪戯っぽく笑う。

 彼は、薬屋に行って頭痛薬から風邪薬、胃腸薬を買って届けた。
 彼女の部屋は店の寮のようなものだから、店のスタッフが突然来る場合がある。彼は部屋には上がらなかった。食事はインスタント物を用意するしかなかった。
 アイは彼の仕事も休まなかった。彼との約束だから?それだけのはずがない。

“梅雨が終わるまで、あとどのくらい?”

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

 加速する時間の中では逢うことが辛くなる。

♪ I'm A Fool To Want You

「時が過ぎて行くことが切ないね」
 アイの過去の中にあたしも入り込んでいた。
 あたしが作るグラスが濃くなっていることに気付いた。
 それでもあたしもアイも酔い切れない、回想が夏に近づいて行く。
 痛みが、心の痛みがあたし達を酔わせないのか?夏が近づく中、アイの身体は少しずつ回復して行く。

『もう、大丈夫だよ。でもね、この暑さは厳しい〜』

 彼の会社の仕事も約束の三ヶ月が来て、ギリギリまで続けてもいいと言うアイの申し入れを彼は断った。
「それは何故だい?」
「組まれたシフトあるからだと思うよ」
「そんなことはどうにでも出来ただろう?」
「もう、夏だった。ママ、もう暑い夏がそこまで来ていたんだよ」

 あたしもアイもグラスを呷るしかない。

「そして七月の初めから突然、彼からの連絡が途絶えたの」
 アイは八月の頭に地元の祭りがあるから、それに合わせて帰りたいと言った。
「逢うのが辛くて、彼はアイを拒絶したのだね」
「カウントダウンに耐えられなかったんだよ。一日、一日、別れの日が近づくのは耐えられない悲しみだったよ」

 そして、二週間が過ぎた。

『今日は店が早く終わりそうだから他の店で歌おうよ。いつもの駐車場で待っていて』

 何事もなかったようなアイからの一通のメールで恋次郎は崩れてしまった。
 冬はエンジンを切ってガタガタ震えながら待っていた駐車場で、今度は暑さで窓を全開にして待っていた。

『久しぶり!と言っても二週間かあ』

 アイは二週間前と全く変わらない笑顔で路地を駆けて来た。
 車で五分位の場所にある彼の行きつけのスナックに行った。
『ねぇ、恋次郎はあの娘が好きでしょ?私を出汁(だし)にしてここに連れて来たわけだ』
 アイは平然と“麗”という名前の女の子を指差した。
『やばい、私たちの席に来るぞ』
『恋ちゃん、いらっしゃい、相変わらず可愛い女の子を連れて』
『よろしくう、私は恋次郎が麗ちゃんに会うための出汁(だし)ですう』
 彼は、あたふたして何も言えないでいた。
 アイはそんな彼を見て、笑いまくっていた。

『ねぇ、とっておきの曲を教えてあげるよ。でも悲し過ぎて、私がいなくなったら歌えなくなるから嫌か?』

 アイは、サザンオールスターズの曲で“夢に消えたジュリア”を歌った。
 夏に消えた恋人を想う歌。
 歌詞の語尾に自分達に重なる部分があると、その曲を歌いながら彼に視線を向けた。
 この別れはもう止められない。胸を抉るような叫び、そんな歌をアイは熱唱した。

「何故、俺の傍にいるんだ」
 彼が聞いた。

『あなたもいつも居場所を失くして寂しい顔していたからさ。それにあなたは、優しさだけじゃ生きていけないって知っていたから、私、ちょっと甘えてみせただけ』

 アイは深夜遅くまでやっているスナックで切ない歌ばかり歌って聞かせた。

『ねぇ、こんな切ない曲が好きだよね、どう私の好みと一緒じゃないの?』

 どの曲も彼が好む切ない曲ばかり選んだ。
 カラオケがやんだ時、アイは口ずさむように歌った。

『♪ 少し肌寒い夜 想い出の場所であなたと二人
   星空眺めて寄り添ったね
  白い車の中で後悔するなと
   背中を押してくれた日からもう
    どのくらい経つのだろう』

 恋次郎が知らない曲だった。カラオケにもない。北海道出身の女性二人のデュオの曲だと恋次郎に教えた。

『♪ほつれた糸に落ちる涙
   もう繋がるのは難しいけど
    もう少しだけ信じたくて

  いつまでも忘れられない
   優しさがわすれさせない
  苦しいよ今すぐ抱きしめてほしい
   強くないから私
  いつまでもあなたはずるいよ
   もういい加減引き離して
    じゃなきゃ私はこのまま
  あなたを思い続けてしまうから・・・』

『この曲はconsado(コンサド)というデュオの歌なんだ。今度、続編が出来るのだって。忘れられない果てには何があるのかな?・・・ねぇ、私の地元のお祭りに来る?ねぇ、追いかけて来る?六三〇キロあるよ、私の故郷まで。私が教えた歌、悲しくて歌えなくなっても知らないよ?六三〇キロ、北に私は行くよ』

『ねぇ、追いかけて来る?』
 本気なのか?試しているのか?彼はアイの目を視た。
 アイはいつものように目を逸らした。

♪ ピアノの音

♪ 夢に消えたジュリア

 これは、マリアのピアノなのか?
 それとも、あたし達の心の中に流れているだけなのか?

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「彼は何も答えなかった」
「ずるいと思ったかい?」
「思わないよ、それはその瞬間だけの夢だもん」
「そうだね、勇気と無謀は違うからね」
「ママの言葉は深いね」

♪ 夢に消えたジュリア

『バイトは昨日の夜で終わったんだ。今夜は友達の家に行くよ。お別れを言いにね。この街に来れたのは友達のおかげだし・・・明日の夜にはこっちを発つよ』
 
『そうだ、今夜は花火が上がるよ。どうだ?見に行かないか?』

『一緒に並んで見ない方がいいよぅ』

『どうして・・・』

『だって花火は綺麗だからさ・・・』

『想い出になっちまうからか?』

『花火を見る度に私を想い出しちゃうぞ』

 アイはいつものように悪戯っぽく笑おうとした。でも、そこには唇を噛み締めるアイの横顔があるだけだった。

『明日の夜、見送ってね。初めて迎えに来てくれた私の車がある駐車場・・・間違えるなよ、いつも待ち合わせた店の近くじゃないからね』

明日なんて嘘だ。アイは、今夜中に発つつもりだった。

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「夜、私は車の中で泣いていた。明日の夜にはもう田舎に着いていて、見送ることなど出来ない筈だった。私は黙って消えようとしていた・・・」
「彼がアイの嘘を見抜くと、気づいていたんだろう?」
「そうかな・・・」
「そうさ・・・」
「私、彼を振り切るためにアクセルを踏み込んだ。でも、その直後にブレーキを踏んでしまったあ。バカだね」
「ためらいのブレーキを踏んだアイを誰がバカだなんて言うもんか」

 アイの車のヘッドライトが闇を裂くと、彼が浮かんだ。
 動き出したアイの車は一瞬、止まって、また動き出す。
 車の中のアイは泣きながら叫んだ。

『何故、来たんだ!』

 アイは泣いている自分が信じられなかった。いつも強く、どんなに苦しくても前へ踏み出す私が泣くなんてありえないとアイは自分が分からなくなっていた。
 彼が手を伸ばそうとした刹那、アイはアクセルを踏んだ。

 アイの車のドアガラスが降りる。

 彼は彼女の名を呼ぶ。

 アイの声・・・
 最後に彼の名がエンジン音に千切れて行く。

 アイの車が加速する。

 車のテールランプは灯らない。
 ただ、遠ざかって逝く。

 夏が来た。
 別れの夏が来た。
 遠くで花火の音が聴こえた。

カシャ
 氷とグラスの触れる音。
 
「『それでよかったのか?僕はずるいよな』と彼がここで話したことがあったよ」
「勇気と無謀は違う・・・とママがさっき言っていたけど私もそう思うよ」
 アイがグラスを合わせる。
「大人だね、アイは」
「難しいことは私、馬鹿だから分からないよ」
「アイも彼も小さい夢に想いを託したのだよ。私はここにいたバーテンダーの冬木が私を守るために犯した罪を許さない。でもね、私のために人生を棄てた冬木を待っているんだよ。冬木の想いはしっかりと受け止めているんだよ…」

♪ The way we were・・・
 曲が戻った。

「ねぇ、ママ。彼が私を失くした時にママが作ったカクテル“Lost・・・”を私にも作ってもらえない?」
「あぁいいよ」
「メールをもらったんだ、私の誕生日に。私を失くした時にママが作ってくれたカクテルが心まで酔わせようとしたって。ジョークのようにごまかそうとしていたけど、マジだったと思うよ」
 ジョークのようにしようとしているのはアイも同じだろうと言いたい言葉をあたしは飲み込んで、プリマス・ジン、スロージン、ライムジュース、アンゴスチュラビターズをカウンターに並べた。
 プリマス・ジン、スロージン、ライムジュースを、それぞれ20ミリをシェイクして氷を詰めたロンググラスに注いで、トニック・ウォーターでグラスアップし、最後にアンゴスチュラビターズを1ダッシュ入れたら軽くステアした。
「Lost・・・だよ」

 アイは、ケータイでカクテルを撮影していた。
「ママ、この画像を彼に送っていい?」
「あぁ構わないけど、アイがここにいると」
「私がここにいると分かったら彼はどうするだろう?」
 アイは視線をあたしに向けた。今度は目を逸らさない。
 アイは手慣れた操作でケータイから画像を送ったようだ。
「画像だけ送ったよ。文書は全く無し」
「ここへ来るよ、アイがLost・・・を送ったなら」
 アイがLost・・・を少し口に含んだ。
「あぁ、シャープ!なんてシャープな切れ味。あぁ、でも、ママ、ふんわりと甘味が広がるよ、美味しいよ、このカクテル」
 アイはしっかりとあたしの目を見て言った。
「ママ、お願いがるんだ、聞いてもらえないかなあ。お願い」
「あぁ、言ってごらん」

♪ The way we were・・・

 ドアが開いてカウベルが鳴った。
 恋次郎が少し息を切らして入って来た。
 誰も居ないカウンター。私は今までアイが座っていたスツールの隣の席を用意した。
「帰ってしまったよ」
「そうか、でも正直なところ、少しホッとしている。彼女がまだ居たら僕はどうしたらいいか分からない、ここへ向かいながら足が止まりそうになったよ」
「アイがお前にカクテルを一杯奢りたいと」
「アイ?」
「アルファベットのiだと名乗ったよ。お前の前ではホントの名前だったんだろうけど」
 あたしは、プリマス・ジン、スロージン、ライムジュースをシェイカーに入れてシェイクした。オールド・ファッションド・グラスに注いだ。

「久しぶりだなあ。でも、Lost・・・の材料だけど、グラスも色もいつもと違う」
「材料は同じでもレシピは変えたよ。このカクテルをお前に出す時は、Lost・・・という名前ではなく」
「えっ?なんて?」
「リメンバーと呼んで欲しいとお願いされたんだよ」
「リメンバー・・・」
「お前ならどう訳す?」
「忘れない・・・かな」
「良い言葉だね」

♪ 追憶

 曲が変わった。

「この曲はスターダスト・レビューの追憶。彼女が教えてくれた一曲だよ」
『切ないぞ、この曲を覚えてしまっていいの?私を失くしたら悲しくて歌えなくなっても知らないから』
「って、からかいながら歌っていたよ」

 ほんの十数分前、アイがお願いしたいと言ったのは一つではなかった。

「帰ってしまうのかい?」
『ねえ、ママ、私が帰ってから彼が現れたら、私が偶然会えたらいいなぁって思いながら、さっきまで飲んでいたよって』
「わかった、伝えるよ」
『それから、マリアさん、この曲を弾いて』
 と言ってアイは、追憶を口ずさんだ。

♪ 追憶


『昔、この街に来た時は私の車の中は生活必需品でいっぱいだったけど、今日は空っぽ』
 あたしはアイの言葉をそのまま伝えた。
 恋次郎は、カクテル・リメンバーに手を伸ばした。
「それは君に帰る場所があるって意味だね」
 恋次郎はいかにも隣に彼女がいるかのように呟いた。
 そして、リメンバーを手首を返すだけで飲み干した。
 彼女がグラスをロングからショートに変えて、更に氷も抜いてくれと頼んだ理由が、恋次郎にはちゃんと伝わっていた。

♪ 追憶

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

「午前四時頃、ふと目が覚めた時に気づいてしまったの。彼と私の心音がズレているって。今更?だと思ったけど、気になってしまって。必死に合わせようとするけど、心音を重ねるなんて無理。だから、そのカクテルがリメンバーという名前なら、私、飲めないわ」
 と、エムは微笑みながら言った。
 カウンターの隣には常連客の恋次郎がいて、あたしのオリジナル・カクテルのリメンバーを飲んでいるのを見て、エムが興味あり気な視線を投げたから、
「リメンバー、飲みたいなら奢るよ」
 と恋次郎が気を利かせてくれたのに対してエムが答えたのだ。
「だって、私は終わらせた恋は忘れたいから、“忘れない”なんてカクテルはだめ」
 と、ホントは飲みたいけど飲まないのだと言いたいようだ。

♪ Once I Loved

 マリアのピアノが絶妙なタイミングで流れて来た。
 左手の薬指が動かなくなったピアニストのマリアが弾くピアノ曲はその瞬間の客達の心を映すと言われていた。好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして左手の薬指を傷付けてしまったマリアは華やかな音楽業界からここへ彷徨い流れついた。
 カウンター席が五つしかないこの店では、奥のアップライトのピアノが占める面積は大きい。そして、そのピアノを奏でるマリアの存在も大きくなった。
 何処にでもある繁華街の小さなビルの地下にあるこの店は、
 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。

「ママのオリジナル・カクテルなの?それもあなた専用のカクテル?、えっと?」
「恋次郎と呼んでくれ、恋多き青年さ」
「青年?」
 エムはわざと顔をしかめて見せた。
「中年だよね」
 あたしが合いの手を入れると、恋次郎は肩を竦めて笑った。
「初めて会うよね?」
「うん、何度か仕事の打合せの後、ここに連れて来てもらっただけだから」
「ふうん、仕事かあ」
 恋次郎はちらっとあたしを視た。
「なんだい恋次郎?」
「いや、あんまり話しかけてはいけないかな?と思ってさ」
「彼女次第さ、あたしは保護者じゃない。エム、迷惑ならあたしに言ってくれ。遊び人を店の外に摘まみだしてあげるからさ」
「ママ、大丈夫よ。恋次郎さんは何となく紳士みたいだから」
「紳士、恋次郎はいつもそう呼ばれるね」
「紳士だからさ。あっそうだ、ママ、エムちゃんにカクテルLost・・・を」
「はいよ」
 あたしはカウンターにプリマス・ジン、スロージン、ライムジュースを並べた。それぞれを一対一対一で、シェイカーに入れてシェイクした。氷を詰めたロング・グラスに注ぐと、トニック・ウォーターでグラスアップして最後にアンゴスチュラビターズを一ダッシュだけ入れ軽くステア。
 エムの前にカクテル・Lost・・・を出した。
 恋次郎がグラスを掲げるとエムは嬉しそうにグラスを持って、
「ありがとう、頂きます」
 Lost・・・と、リメンバーのグラスを合わせた。
「あっシャープ。でもほんのりと甘さが漂って美味しい。恋を失くした味かしら」
「僕も恋を失くした時に、このカクテルを飲ませてもらったんだよ」
「ふうん、でも今は、リメンバー、“忘れない”というカクテルなの?」
「そう、恋次郎を捨てた女がね、Lostではない、リメンバーだと伝言を残してくれてね。ロング・グラスからショートに変えてレシピも少しいじったのさ」
 とあたしが言うと、エムは納得したという様に大きく頷いた。
「それからママ、私の名前を覚えていてくれたの?嬉しい」
「エムと一緒に来た、沢村正義はここの常連客だからね」
「正義の味方弁護士事務所というふざけた看板を上げている弁護士先生だったね?弁護士関係の仕事なの?」
 恋次郎は直接、沢村正義を知らないかも知れないが、この街にいる愚か者なら、噂くらい聞いているのだろう。
「そこに正義がない限り弁護を引き受けないという沢村先生が投げた悪党の仕事を何度か回してもらったの、うちの先生は」
 悪党の仕事を回してもらったと言った時にエムは悪戯っぽく笑った。
「ふうん、普通の弁護士だね」
「お金になる仕事が好きなのよ」
 恋次郎が肩をすくめて笑いながら、あたしに視線を向けたので
「正義先生が変わり者なんだろうさ」
 と答えた。
「うちの先生は仕事を紹介してもらって儲かったら、私が沢村先生の事務所にお礼の品を届けに来ていたの。正義の味方は決して賄賂は受け取らないから。お菓子と」
「お菓子?それから?」
「ふふっ。それから、私のスマイルよ」
「なるほど」
 恋次郎が大きく頷いた。
「正義は、お菓子だって受け取るつもりはないだろうさ。でもエムが足を運んで来たことに対して倍返しをしたいと考えてここに連れて来たのだろ」
「私の顔をたてるためにお菓子を受け取ってくれたのだと思うわ」
「正義先生はママにぞっこんなんだろ?彼女の事務所の先生ならここへは連れて来ないだろうから。ライバルを増やす真似は決してしない。エムちゃんが女の子だから連れてきたんだろう」
「ママにぞっこんなんだ?正義先生。でもそれは何となく感じたわ」
「何かにブレそうになった時、ママを求めるのさ。ここの愚か者達は」
「ブレない、信念を貫く女?ママはそんな女なのでしょうね」
「ママは、一人の男だけを待ち続けているのさ、無期懲役、帰れるあて等ない男を」
「愚か者さ、あたしのために人生を棒に振っちまった」
「悲しいね、ママ」
「ふうん、仕方ないさ。女、だからね」
「女、だからか」
 とエムは言って、Lost・・・を飲み干した。それを見ていた恋次郎もリメンバーのグラスを口にあてると頭を動かさないで手首を返すようにして喉に放り込んだ。

♪ Once I Loved

「いい曲」
 エムは心地よいという顔をしてマリアのピアノに耳を傾けていた。
「マリアのピアノは心を映す。ママ、僕にはバーボン・ソーダを」
 と言ってから恋次郎はエムの顔を見る。
「私も同じものを」
 恋次郎が頷いた。
「奢ってもらうなら同じもの。それって普通でしょう?」
「大人だね、まだ若そうなのに」
「そうね、まだ若いわ。でも心はもう、しわしわ」
「何故?と聞いていいのかい?」
「女、だからよ。なんてね。うちの先生に大人の世界を散々教えられたから」
 と言って、エムはあたしに視線を向けて笑った。
「エムの笑顔は嘘がないから好きだよ」
 と言って、あたしは恋次郎のボトル、ワイルド・ターキーでバーボン・ソーダを二つ作って二人の前に置いた。
「恋次郎さんの優しさに乾杯」
「ありがとう」
 二人は軽くグラスを合わせた。

♪ Once I Loved

「この曲のことを知っているなら教えて」
 エムはあたしと恋次郎を交互に見ながら聞いた。
「この曲はOnce I Loved 愛してた という曲だよ。元々はボサノバで原題はAmor em paz かつての愛。マリアはジャズ風にアレンジしてくれているのがまたいいね」
「愛してた・・・か」
 エムは一瞬、遠い目をした。
 恋次郎は続けようとした言葉を止めた。この曲は、かつて愛した恋人と別れて絶望しているところに、また恋人と再会し、よりを戻す。今度は別れないと再燃する恋心の歌詞がついている。でも、恋次郎はエムが恋を再燃させたいと願っていないことに気づいたのだと思う。だから、言葉を止めた。
「今日も正義先生の所にお礼に来たのかい?」
 あたしは話題を変えようとした。
「違うの。お別れを言いに。それから、ここで飲みたいと思ったから」
「お別れ?正義先生にかい?」
「私ね、弁護士事務所を辞めたのよ」
 恋次郎もあたしもその言葉に反応しても顔には出さず流した。
「悪党を救うのが嫌になっちゃったから」エムは冗談めかした言い方をした。「なんてね。そんなことは嘘だとお見通しよね」
 恋次郎は思わずエムに顔を向けた。あたしはまだ、反応せずに流した。
「うちの先生と別れたからよ。うちの先生は月の半分は私の部屋に泊ったわ。そして半分は奥さんと子供がいる自宅に帰るの。そんな生活を十年も続けてしまって私は三十二才になってしまった」
 限界だった。あたしもエムに視線を向けてしまった。
「愛人生活で、私の青春時代は消えてしまったわ。恨んでいる分けではないわ。後悔?悔しさ?何だろう?」
「思わぬ答えだったよ」
 恋次郎が口に運ぼうとしたグラスを止めて答えた。恋次郎が動揺しているのが分かった。
「彼のケータイのメールを読んでしまったの」
 あたしも恋次郎も黙ってエムの話を聞いていた。
「子供からのメール。誕生日には何が欲しい。連休には遊園地に行きたい、とかね。そんな幸せな生活の場面ばかり」
「そうかい、そうだったのかい」
「私、子供が欲しいと言ったの?でもね、先生は子供ならもういると言って、それ以上はその会話はさせてくれなかったわ」
「ずるいね」
「でも、私もずるいよね、そんな答えが返って来ると予想していたもの。でもね、言わずにはいられなかったの」
 エムはグラスを傾けた。
「私、いくら飲んでも酔わないの。先生に鍛えられたから」
 そして一気にグラスを飲み干した。
「私、この十年で大人の社会を嫌というほど見て来た。何を求めていたのだろう?」
「幸せ?」
 恋次郎の問いに、エムは首を振った。
「愛人生活の未来に幸せなんてあるはずがない。それは気づいていたと思う。私、奪いたかったのかな?嘘で塗り固めた幸せの形って奴を」
「嘘で塗り固めた虚構の街を、全部黒く塗り潰してしまいたいと言った刑事がいたよ。そうすれば何が正しくて何が悪いのかさえ分からなくなるからと」
「なんか、ハード・ボイルドな会話ね」
「その刑事は、犯罪者となったかつての親友を自分の手で射殺してしまった」
「弁護士が必要ね」
 とエムは悪戯ぽく笑った。
「必要なのは正義の弁護士?それとも悪かしら」
 と言ったエムに、あたしは答えることが出来なかった。

♪ Once I Loved

 マリアのピアノ、それは一種の現実からの離脱に必要なキーになる。今宵もマリアのピアノに心を乗せることで救われたような気がした。

「私ね。世界一周旅行して来たの。全部を切り捨てるために」
「それはいいね」
「でもね。帰って来ると、周り中がまた、同じ鞘に収めようと私を巻き込むのよ。人は今ある形が壊れることを恐れるのかしら?」
「世間って奴は変化を嫌うものかもね」
 恋次郎が呟いた。
「うん、私もそう思った。だから、ここにも来たの。終わったってことを伝え歩くことでそこにはもう戻れないように」
「戻れない、戻らないという意思表示のためにね。終わらせた恋にけじめをつけたいのだね、エムは」
「忘れてしまえばいいの?」
「恋次郎も忘れようとした。でもそれは忘れた振りをしようとしただけ。忘れることなど実際は出来ないものなのさ」
「ひきずって生きていくってことなの?」
「引き摺るのではない。積み重ねるのさ」
「なるほど、ママの言うことは未来に繋がる」
「そう、過去の上に今がある。今を経験して未来が来る。その経験をどう、生かすかでそれぞれの人生が変わるのさ。また同じことを繰り返してしまう者もいる、同じ過ちはもう犯さない者もいる。お前達はどちらを選ぶのか?あたしはこのカウンターの中で見ているだけ」

Once, once I loved
And I gave so much love to this love you were the world to me
Once I cried
At the thought I was foolish and proud and let you say goodbye

And then one day
from my infinite sadness you came and brought me love again
Now I know
That no matter what ever befalls I’ll never let you go
I will hold you close, make you stay
Because love is the saddest thing when it goes away
Love is the saddest thing when it goes away

私は愛した
おそらく 愛しすぎたんだ
自分自身が苦しむとわかった時
絶望するとわかったとき
私は泣いた
すると 終わりのない悲しみの底から
あなたが現れたんだ
あなたの中に
私は生きる理由を見出して
平和に愛する理由を見つけた
もう悲しまなくてもよくなった
壊れた愛ほど悲しいものは
この世にはないのだから
愛の終わりほど悲しいものは
この世にはないのだから


「記憶は消せない。過去にするだけさ」
「へえ、恋次郎もいいことを言えるようになったじゃないか」
「これでも、ママの説教を聞いて成長しているんだよ」
 今度はあたしが肩を竦める番だった。
「ハード・ボイルドな会話ね。ねぇママ。私にもカクテルを作ってもらえる?」
「お安い御用さ」
 パルフェタムール、プリマス・ジン、ブルーベリーリキュール、レモン果汁を15mlづつ、シェーカーに入れてシェイクした。
 きっちり二杯。恋次郎の分は、オールド・ファッションド・グラス、エムの分はカクテル・グラスに注いだ。
「暁の空のイメージで作ってみたよ」

 二人は、一息にグラスを空けた。
「夜と朝の境界線、求めるのは朝か?夜の続きか?」
 恋次郎は空のグラスを置いた。
「最初にポワ〜と甘味が広がったと思ったのに、後味がさっぱりしたカクテル、理想的な恋の味かしら」
 エムがグラスを掲げて微笑んだ。
「カクテルの名前は、そうね、午前4時はどうかしら?」

 暁の空に、朝陽を求めるか、夜の延長を求めるかは、その時の状況で人それぞれ違っている筈だ。エムが求めるのは新しい朝か、それとも夜の延長か、次に彼女がここの扉を開いた時には分かるだろう。
 今宵の最後の曲は、美羽希の曲、

♪ 午前4時

 ここは、
 Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。