家に帰ると溢れている物。片付けられず、そこにずっとある物。
足の踏み場のないリビングに足を踏みいれて、いつしか置いたはずの教科書を探す。
鵠閑は、高校からここへ引っ越してきたらしい。
さっきエレベーター前で、マンションの住人が話しているのを聞いた。
そうか、何も知らないから俺に近づいてくるのか。
”家のこと”を知ったら、またあの曖昧な笑みを浮かべるんだろう。
もしかしたら、憐れんでくるかも。
そうしたら、離れていくのかもしれない。
教科書を見つける。俺はこの部屋の片づけ方が分からない。
そうしたら、少し、寂しいなと思った。
「よく持ってたね、一年の頃の教科書なんて」
生物室。隣に座った鵠が、頬杖をつきながら教科書を覗き込んでいる。
「放置してた」
「私なんてすぐに捨てちゃった」
「思い切りが良いな」
「物が増えるの、怖いんだよね」
ぽつりと呟いた言葉。
それに合わせるように、俺も返す。
「俺は物が捨てられない」
ずっとあの部屋で、あのままで、待ってる。
「そうなの? 物持ちが良いだけじゃない?」
ふふ、と鵠は笑った。その声が意外に響いて、注意された。
クラス内で、鵠は一番派手で発言権のあるグループにいた。
反対に俺は、グループを作ってと言われればどっかであぶれた奴と組むような、そういう人間だった。特別誰かと仲良くしてるわけでもなければ、誰かに嫌われてるわけでもない。
「翡翠クンって鵠と付き合ってんの?」
ふと廊下で尋ねられた。
クラスも知らない、唯一上履きで同じ学年だと分かった男子から。
「違う」
「あ、そうなん? よく鵠といるじゃん」
「同じ……マンションの誼みで?」
我ながら苦しい言い訳。
「へー、なるほど。じゃーね」
なるほど、で片付けられた。深く言及されなかったことにほっとして、俺は廊下を歩いていく。
そうだ。鵠は同じマンションということを切欠に、俺に話しかけてきた。
それ以下も、それ以上もない。
「やっほー」
背中を叩かれる。痛くはないけど痛い。
振り向いて、その声の主を見下げる。
「おう」
笑顔でこちらを見上げていた。
「さっきさあ、担任に……」
鵠が笑いながら話し始める。本当にいつも楽しそうで、こういう人間の周りに人は集まる。
さっきの男子も鵠のことが好きなのかもしれない。
男子“も”?
ふと考えたそれに、自分で気付く。なんだ、今の。
口の中が、苦く感じた。
クラス替えがあった。二年の最初の席は指定で、私の前には翡翠がいた。
一年のとき、生物の先生から「鵠か……他のクラスに翡翠って生徒がいるんだよ」と言われたことがあった。
この男子が、翡翠。
今朝、同じマンションから出ていくのを見た。どんだけ早く学校行くの、というツッコミはブーメランになりそうだったので控える。
私だって、友人たちに囲まれるのが嫌で家を遅く出ているんだから。
「あんまり家に居たくないから」
その理由を躊躇いなく言った翡翠のことを、私はきっと信用したんだと思う。
去年、こっちに引っ越してきた。
親の仕事で転勤が多くて、小学校から計三回引っ越している。
そのことを翡翠に話すのに、そう時間はかからなかった。
私は自分のことを聞かれるのが苦手だったし、翡翠はあまり私に質問したりしない。
「三回か」
「うん。小四と中二と高一ね」
「俺も三回、苗字変わってる」
遊んで帰る私と翡翠のバイト帰りが被って、並んで歩いた。
本格的な冬の風が頬を撫ぜる。
「そうなの? 自分の名前間違えちゃいそう」
首を竦めながら言葉を返す。翡翠が少し笑った。
「確かに。変わってから苗字で呼ばれても気付かないことが多い」
「私なんて住所覚えらんないから。大変だよ」
「それは一大事だな」
翡翠はなんかいつも良い匂いがした。
香水使ってるの、と尋ねると、俺が使うように見えるか? と苦笑された。
「ただいまー」
母親が帰ってきて、リビングに来る。着ていたコートを脱ぎながら、私を見た。
何か言いたいことがあるらしい。
「うちの棟の五階の翡翠さんって知ってる?」
知ってるも何も、今日もクラスが同じだった。
そのままキッチンへ手を洗いに行く。
翡翠がどうかしたの、と尋ねる。
「何度か児相に通報されたらしいわよ」
「え?」
「隣の松田さんから聞いたの」
水の流れる音。
それが止められて、母がこちらを振り向く。
目が合って、我に返る。
「私、ちょっと行ってくる」
「え、どこに?」
「コンビ二!」
言いながら玄関に向かう。近所に出るときに履くサンダルをつっかけて、外に出た。
冬の冷たい空気が一気に肺に入ってくる。
階段をおりて、自分が泣きそうになっていることに気づいた。
五階のひとつの部屋の前で立ち止まる。息を整えて、チャイムを鳴らす。
ピンポーン、と外までその音は聞こえた。
電気が点いている。誰かは居るはずだ。
「はい」
扉越しに聞こえた声は、翡翠のものだった。
「く、鵠、です」
「どうした?」
玄関の扉が開いた。いつも見ている翡翠の姿があった。
それに酷くほっとした。
「どう……したんだろ」
「は? え、何だ、何かあったか」
反対に翡翠は意味なく現れた私に、困惑していた。
なんとなく玄関先を見た。うちと同じ構造の部屋。それなのに、全然印象が違う。
電気の色、置いてあるもの、匂い。
翡翠の家の玄関は、どこか、埃っぽい。
人が住んでいるのに。
「お母さん、まだ帰ってないの……?」