冷蔵庫を開いて、缶ビールを持ってくる。ふたつ。
ひとつを開けて、私の方へ置いた。
「ありがとう。前の彼女、飲む人だったの?」
吹いて、咳き込んだ。こんな漫画みたいな動揺の仕方ってあるの。
悪戯心に火が点く。
「ねーねー今はどんな人と付き合ってるの」
「付き合ってません」
「飲む彼女とは別れたの?」
「鵠は」
袖口で顔を拭って、翡翠は言う。私は置かれた缶ビールを持ち上げて、視線を逸らした。
「どうだろうねえ」
「お前は自分のことに関してはあんまり喋んないから」
ごくり、と翡翠の喉が鳴る。
今まで翡翠が飲酒してるの見たことないなあ、と思っていたけれど、そういえば成人してから一度も会ったことがなかったからだ。
「シャベルと喋る、かけてる?」
「でも、人を殺したんだとしても、だ」
「無視された」
「ここに来てくれたなら、それで良いや」
目を瞬かせた。
翡翠ってやっぱり少し変わってる。
「そんなだとダメ女が寄生してくるよ」
「お前が言うな」
二人でケラケラ笑った。
ビールを飲んで、私はまた翡翠のベッドで眠った。
深夜、目が覚めてソファーで眠る翡翠の寝顔を見た。
静かに眠っていた。
「翡翠ってうちと同じマンションに住んでるよね」
二年の最初の席が、鵠の前だった。
朝のホームルームが始まる前に、後ろから話しかけられた。
鵠は明るい奴だった。常に周りに人がいて、よく笑っていた
色白で美人で、手足が細長い。聞けば何度もモデル事務所からスカウトを受けているらしい。
そんな奴が同じマンションに?
「……まじ?」
「大まじ」
「知らなかった」
「だよね。私も今朝知った」
担任が入ってきて、教室内が静かになる。
同時に声を潜めた。
「……今朝」
「うん、屋上から見えた。朝早いんだね」
「鵠、あの時間に起きてんの?」
俺が家を出る時間は早い。その時間に起きているということ、か。
「いつも始業ギリギリに入ってくるだろ」
質問の理由を述べる。
それに納得したらしく、曖昧に笑ってみせた。
鵠はよくふざけた話を振ってきて、俺もそれに付き合った。
席替えをしてからそれが減った。理由が明確だ。俺は鵠の周りに他人がいると、絶対に近くに寄らないから。
でも、食堂でひとりで飯を食べているところを見つかった。
「私も明日からここで食べたい」
「え、やめとけよ」
「なんで?」
「変に勘繰られるから」
正面の席に座って鵠はお弁当を広げる。俺はコンビニで買ったパンとお茶を飲んでいた。
「そんなの、別に良いじゃん……」
鵠は唇を尖らせる。
「俺が嫌だ」
鵠と俺が噂になって、被害を被るのは明らかに鵠の方だった。
……嘘だ。
俺が傷つきたくないからだ。
「鵠は俺に近づかない方が良い」
そんなことを、誰かに言う日がくるなんて。
「それは私が決めることで、翡翠が決めることじゃない」
思ったより強い声で、鵠が言い返したので驚いた。
「……ごめん」
小さく謝る。
鵠もそれに驚いたようにこちらを見た。正面から見ると、本当に綺麗な顔をしている。それは俺にも分かった。
「でもほら、翡翠が本当に嫌ならやめるよ!」
「いや……そうでもないけど」
「本当に!? 言質取ったから!」
「鵠、声が大きい」
「やったー」
にこにこと屈託のない笑顔。
俺の人生で初めて現れた人間だった。
いつ干したのか忘れた洗濯物。
この前食べた弁当パックのゴミ。
埋もれた洋服と、出しっぱなしの扇風機。
家に帰ると溢れている物。片付けられず、そこにずっとある物。
足の踏み場のないリビングに足を踏みいれて、いつしか置いたはずの教科書を探す。
鵠閑は、高校からここへ引っ越してきたらしい。
さっきエレベーター前で、マンションの住人が話しているのを聞いた。
そうか、何も知らないから俺に近づいてくるのか。
”家のこと”を知ったら、またあの曖昧な笑みを浮かべるんだろう。
もしかしたら、憐れんでくるかも。
そうしたら、離れていくのかもしれない。
教科書を見つける。俺はこの部屋の片づけ方が分からない。
そうしたら、少し、寂しいなと思った。
「よく持ってたね、一年の頃の教科書なんて」
生物室。隣に座った鵠が、頬杖をつきながら教科書を覗き込んでいる。
「放置してた」
「私なんてすぐに捨てちゃった」
「思い切りが良いな」
「物が増えるの、怖いんだよね」
ぽつりと呟いた言葉。
それに合わせるように、俺も返す。
「俺は物が捨てられない」
ずっとあの部屋で、あのままで、待ってる。
「そうなの? 物持ちが良いだけじゃない?」
ふふ、と鵠は笑った。その声が意外に響いて、注意された。
クラス内で、鵠は一番派手で発言権のあるグループにいた。
反対に俺は、グループを作ってと言われればどっかであぶれた奴と組むような、そういう人間だった。特別誰かと仲良くしてるわけでもなければ、誰かに嫌われてるわけでもない。
「翡翠クンって鵠と付き合ってんの?」
ふと廊下で尋ねられた。
クラスも知らない、唯一上履きで同じ学年だと分かった男子から。
「違う」
「あ、そうなん? よく鵠といるじゃん」
「同じ……マンションの誼みで?」
我ながら苦しい言い訳。
「へー、なるほど。じゃーね」
なるほど、で片付けられた。深く言及されなかったことにほっとして、俺は廊下を歩いていく。