私が初めてあやかしの世界に足を踏み入れてから2日後。
 赤い月が――ついに満ちる。
 
 そして噂は正しかった。 
 伝説のあやかし『大嶽丸』は、この日をもって〝復活〟を遂げる。

「――あれが大嶽丸」

 私は山頂にある小さな高台から遠目にその姿を確認する。
 彼の出で立ちはまさに伝説に相応しいもので、巨大な2本の角はまさに天を貫きそうなほどだ。

「この距離で視認できるってことは、体長は少なく見積もっても100メートルはあんな」
「でもどくろさん、なんだか全体的に薄くないですか? 特に足下とか見えないですよ」
「まだ復活してすぐだからな。完全には顕界できてねぇんだろ」
 
 しかしその禍々しいオーラは既に伝わってくる。
 ゆっくりの移動だが、その進路は間違いなく私たちの街へと向かっている。
 やはり多くの人とあやかしがいる場所を目標としているのだ。

「まだ完全体じゃない。つまりチャンスは今この瞬間だけ――」
「えぇ。分かってますよ――」

 仁王立ちを決め込む私の前には、一枚の巨大なキャンバスがある。
 そして左右には水の入ったバケツが十数個。
 用意した簡易組み立て式の机にはこれでもかと絵の具が用意されている。
 家や学校の美術室にあるものを、ありったけここに持ってきている。

「皆さんが協力してくれなければ、こんな山頂まで持っていくことはできなかったです。ろくろさんたちに感謝しないと」

 ろくろさんはあやかしたちを説得し、協力者を増やすことに成功した。
 もちろん大多数が応じてくれたというわけではないけれど、それでも味方がいるというのは強い。

「おい、にんげん」
「……あ、豆腐小僧さん」
「筆、一式、言われたとおり、持ってきた、ここ置いとくぞ」
「ありがとうございます」
 
 どくろさんにパシリあやかしと呼ばれたけれど、彼もまた残って協力してくれている。もうただのパシリと揶揄することはできないだろう。

「頼むぞ、にんげん」
「はい」
「ところで、豆腐いるか?」
「いりません」
「冷たい、だから、ボッチ、納得」
「あぁ? なにか言いましたかパシリあやかしさん?」
「な、なな、なんでもない、です」

 豆腐小僧さんはやはり脱兎の如くどこかに去って行った。
 やれやれ。
 人間を相手にする時と同様、あやかしとのコミュニケーションも難しいものだ。精進しなければ。

「俺からしみれば、精進する気は更々ないって顔してるけどな」
「そんなことありませんよ。ただまぁ誰しも得意なことと不得意なことがありますから。不得意なことはじっくり克服していくつもりです」
 
 だからまずは第一歩。
 私は下書きのための鉛筆を握る。

「いいか怜。タイムリミットは1時間だ。それをすぎれば大嶽丸がこの山を越え街へと辿り付く」

 つまり私たちのいるこの場所こそが最終防波堤。
 脅威に対する最前線ということ。

「もしも街に入れてしまえば、あやかしたちは駆逐され、また人間どもはその生気を吸われることになる。肉体的に死にはしないだろうが活気は死ぬだろう」

 と、ここでスマホの電話が鳴る。
 私はこれから絵を描くので、その間は代わりにどくろさんに応対してもらうことになっている。

『もしもーし。ろくろですけど』
「俺だ」
『大嶽丸の進路に全ての足止め用トラップを仕掛け終えたわ。多分意味を為さないでしょうけどね。様子を見ながらそっちに向かう』
「りょーかい」
『それから既に大嶽丸による被害を確認できた。歩くところの自然が全部壊滅、生気を吸われてるんだわ』
「やっぱ平和的に解決できるようなやつじゃない、か。ホント史実通りだな」
 
 どくろさんは、実は大嶽丸が優しい奴だったというオチでもいいのにと愚痴を漏らした後、ろくろさんにに「そっちも気をつけろ」と忠告し電話を切る。
 連絡手段として電話は普通であるが、あやかしたちがこうも円滑に現代機器を使っているとどうも違和感がある(あやかしが機械が苦手だというのは私たち一般人の偏見だとどくろさんに説かれた)。

「どくろさん、しっかり撮影してくださいね」
「あいよ。約束は果たさねぇとな」

 スクープの件のことはまだ続いている。
 しかしこれはシャッターチャンスであると同時に、スマホでの撮影は封印をする上でも役に立ってくる。
 いかんせん今は遠目でしか視認できないので、現状ではなんとなくなディティールしか描けない。しかしカメラ機能の拡大を使うことによって細部を現時点から鮮明に描くことが可能になるのだ。
 つまりどくろさんは撮影係兼監視係ということ――
 
「ついでに言うと最後の大取役でもあるけどな」

 ガシャガシャと、楽しみにしとけと笑う。

「じゃあ――始めます」

 私は数多の道具を翼のように広げ、目の前のキャンバスに鉛筆の先端を向ける。
 冒険の最終決戦が静かに幕を上げるのだった――

     ※

 加速する筆の勢い。
 ほとばしる絵の具の色。
 着ていた制服は飛んで来た絵の具の飛沫を受けて、ある種前衛的な格好と変化を遂げていた。
 
(――手を止めるな。観察を止めるな。この世の誰よりもアレ(、、)を上手く描き上げろ。この狭いキャンバスに第二の鬼神を作り出せ)

 加速しろ、加速しろと脳が命じる。
 どれだけ腕が痛くとも止まることは許されない。
 しかし雑に仕上げることも許されない。
 
「怜! あと5分もねぇぞ!」
「待ってください。まだ、まだあと少し――」

 アレと称すほどに、大嶽丸は目前へと近づいていた。
 もはや姿が完全に明瞭となった彼は、暗雲を鎧のように巻き付け、雷雲を鳴らしながら迫り来る。

「も、もう完成でいいだろ! どうみても――」
「まだ足りないんです。これでは完成と言えない……!」

 段々と足が震えてくる。
 疲労からではなく、純粋な恐怖から。
 死にたくないとこれほど想ったことが過去あっただろうか。
 いや、今この時が初めてである。

「まだだ、まだ行ける、まだ進める――」

 けれど私にも譲れない覚悟があった。
 だから死を目前にしても、筆を走らせ続けることができた。
 十数年間、今までの積み上げてきた技術と経験の全て集約させることができたのだ。いやむしろもっと先の領域に指先が届くまで来た。

「もう限界だ! 怜!」
 
 私のやってきたことは無駄じゃなかった。
 この日この時、私の絵は真価を見い出すのだ。
 飛翔しろ! 私の心――! 

「これで完成し――」

 画竜点睛。
 最後の仕上げは大嶽丸の真っ赤な目を入れること、ただそれだけ。
 血のような紅色にそまった筆の先、後は落とすだけというところで――

『――――――――――――――――――――――――』

 轟音。
 否、それは大嶽丸の放つ咆哮であった。

 流石に目と鼻の先の距離だ、私が良からぬことしていると察知したのかもしれない。
 だから彼は叫んだ。
 その絶叫は大地を揺るがす。
 私の立っていた高台どころか、山そのものを崩壊されるほどに強大な一撃。
 まさに天災、身をもって理解する。
 戦おうとすることすら烏滸がましいと言われる所以である。

「――っ」

 足場が崩れ、足下が宙に浮く。
 しかし完成寸前まで来ていたのだ、キャンバスだけは絶対に離さないと意地で掴んだ。

「あ」

 だがそこに力を入れた反面、右手にあった筆を手放してしまう。

(ここまで来て――)

 どうしようもないのか、思考を高速で回転させるも――活路が見つからない。
 私ではこの状況を……。

「んなら俺がやる――!」

 私の背後から真っ白な腕が伸びてくる。
 しかしどくろさんの腕でも筆まで届かない――と思いきや、なんと彼は自分の左腕を外し、それを右手に掴んで腕を延長させた。そしてマジックハンドと同じ要領で見事にキャッチしたのだ。

「怜!」

 渡された筆を握りしめ、落下をしながらも力を込める。
 そして――

「完成!」

 これが私の持てる全てを注ぎ込んだ一作。
 どくろさんに絵を渡そうとするが、彼は私ごと抱きかかえてしまう。

「作戦変更! 一緒にやるぞ!」
「――――はい!」

 お互いの手で支えた一枚のキャンバス。
 それを空中にいながら、雷雲に巻き込まれながら、大嶽丸に叩き付けるように振りかぶる。
 
「「封印――!」」

 眩い光が辺りを覆った。
 私たちの冒険は、怒濤のフィナーレを迎えたのだった。

     ※

 高度数百メートルからの落下だった。
 しかも下には岩や木やらが散乱している。
 普通であれば死んでいる。
 
「だがしかし、俺というすげえあやかしがいたことによって九死に一生というわけだ」

 どくろさんは以前学校の窓から飛び降りたときのように。
 私の下敷きとなることで落下から助けてくれた。
 といっても私の格好は絵の具まみれな上に砂で汚れたり、木の枝が刺さっていたりも、まぁひどい格好になっていた。

「でも一件落着、だな」
「はい」

 見上げた空には美しい満月があった。
 それを遮るような巨大な鬼はもういなかった。
 私たちの手元には凄まじい形相のあやかしが描かれた一枚のキャンバスが転がっている。

「はぁ……」

 自然と溜息が出てくる。
 立つこともできず、どうやら腰が抜けているようだった。

「――くくく」
「なに笑ってるんですか?」
「いや改めて振り返るとバカみたいなことやったなと。しかも人間の小娘と一緒にだ」
「ひどい言い草ですね」
「そういう割にはお前も笑ってるじゃん」
「面白くて笑っているわけじゃないです。これは私の心が少なからず成長したことにいって生じる自然発生的な微笑です」
「意味わかんね。あと成長したとか自分で言うかね」
「いけませんか?」
「いや、いけてるよ」

 なら良かった。
 あなたにいけてると思われているのなら、それでいい。

「怜」
「なんですか?」
「これはハッピーエンドってことでいいんだよな?」
「少なくとも私の心はハッピーを感じてます。強いてバッドで終わってしまったものを挙げるとすれば私の制服くらいです。お母さんに怒られます」
 
 それを聞いてどくろさんは、いつもみたいにガシャガシャと音を鳴らす。

「前のお前の告白に今更ながら言葉を返すが――俺も、お前のことは好きだぜ」
「……なんですか藪から棒に。これから死ぬんですか? それフラグってやつですよ」
「あれ、ここって照れたりする場面じゃないの?」
「私をそこらのJKと一緒くたにしないで頂きたい」
「何様!? まぁお前らしいけどさ」

 照れていないわけでは、ない。
 それでもこっちの表情を見えないよう、どくろさんの顔面を殴らないあたり、紳士なら不器用ながらも1つの変化と捉えて欲しいものだ。

(そんなことを考える私も、相当めんどくさい女なんだろな――)

 でも、大事なことだけは外さない。

「ありがとうございます。素直に嬉しいです」

 私もどくろさんのことが、大好きだから。
 想いには想いで報いねばならないのだ。

「ところで、俺たちの好きをここで明確にしておくべきだと思うか? つまりライクかラブかどっちの意味なのかを」
「別にいいと思いますよ」

 だって、

「怪しい方が面白いじゃないですか」
「オカルトだな」
「ええ、オカルトです」
「俺は好きだぜ」
「私も好きです」

 私たちの向ける好意の形は、あえて口にしない。
 オカルトという謎はいつだって私と彼をつないでくれる。
 だからもう少し、このままの関係が続いてもいいだろう。

(でも残念なこともある――)

 ここまで彼の言う通りハッピーエンド、良いことづくめだった。
 そこで残念なのが、私と彼を繋いでいた『願い事』の約束が完了してしまったということである。
 これで関係は終わらないかもしれないが、これまであった糸が切れてしまったのは悲しくなってくる。大事なものを失った気分だった。
 それでも――

「どくろさん、これからも私と仲良くしてくれますか?」
「もちろんだとも。俺たちは共に冒険だってしたんだ。逆に結ばれた縁が強すぎてあやかしからはもう逃れられないかもしれねぇが」
「構いません。あやかし――好きですから」

 これからあやかしたちとすごす時間を想像する。
 果たして彼らは私をどのようにして驚かせ、楽しませてくれるのか。
 もしかしたら次の冒険はすぐそこにあるのかもしれない――

「さて、円満に解決した……ということで、怜、お前にもう1つ言っておきたいことがある」
「なんでしょう?」

 私は珍しく笑って応えた。
 
「お前出会った時に俺に言ったよな。この世の中にはバランスがある。良いことがあれば、それを(なら)すように悪いことが起きるって」
「えぇ、言いましたね」
「でだ。それを踏まえた上で俺はお前にこれを渡したい」

 どくろさんは、脇からそっとなにかを出す。
 
「借りてたスマホ、壊れちゃったわ」
「な……」
「だから撮影していた大嶽丸の映像もぜーんぶ消えてしまったわけで……でも落下からお前を救うことに専念した結果なんだぜ? 仕方ない、仕方ないだろう?」

 どくろさんは調子良さげにウインクする。
 加えて悪気はないの一点張りをずっと続けている。

「ということで、お前との約束は果たせなかったということだ。残念だがちょっと嬉しい部分もあるんじゃないか? 切れたと思っていた糸が実はまだ切れていなかったんだから」

 しかも開き直ってそんなことまで言い始める。
 するといつしか、私の抜けていたはずの腰が回復していた。
 私はすくりと立ち上がる。

「こんなに頑張ったのに――」
「おい。なぜ拳を固める」
「制服だけじゃなくスマホまで死んで――」
「に、にじり寄ってくるな、おい怜、怜さん!?」
「悪霊――」
「ま、まっ……」
「退散――!」
 
 渾身の右ストレートが炸裂。
 どくろさんの『ガシャ』という心地よい音で、今宵の物語は幕を降ろすのだった。