「お皿を洗わせてください!」
レストランの扉を開けると、少女は大声を張り上げていた。
「お願いします!」
日曜のお昼時。満席の店内。
すべての客、店員の目が一斉に少女へと注がれていく。
だが、彼女は少し頬を上気させただけで、躊躇することなくテーブルの間を進んでいくと、カウンター越しに見える厨房へ声をかけた。
「洗い物をさせてください! お皿でも鍋でも石ころでもなんでも洗います!」
ポカンとする店員をよそに、少女は潜り戸を抜けると、勝手に洗い場に陣取り腕まくりをする。
そして、
「いきまーす!」
返事を待つこともなくその場にあったありとあらゆるもの、食器や調理道具、調理人のつけていたエプロンまでわしゃわしゃと洗い始めた。
「ちょ、ちょっとお客さん。困りますよ」
調理長らしい、ひときわ高いコック帽をかぶった恰幅のいい男性が我に返るが、少女は、
「ごめんなさい! でも、わたしも困るんです!」
譲らない。それどころか、
「限界なんです! それよりもっと洗い物をお願いします! ──あっ、そのグラスとナプキンもください。むこうのフライパンも!」
さらに高速で手を動かし続けた。
──十分後。
「ありがとうございました。あと、ごめんなさい」
少女は、スッキリとした顔で頭を下げていた。
なにがしたかったのか? 調理長は見当がつかず「は、はあ……」としか答えようがなかった。
彼女の言葉をそのまま受け取れば、単純に洗い物がしたかったのだろう。店にも実害はない。だが、だからと言って日曜の昼にたまたま通りかかったお店へ乗り込んでまで洗い物がしたい人がいるのか? そう聞かれれば、そんな人はいないだろうと言うほかはない。
まったくの理解不能であった。
少女は律儀に店員全員に頭を下げると、満足顔で店を後にした。
しばらくの間この店では、謎の皿洗い少女の話題でもちきりだったが、一週間後にはほとんど忘れ去られていた。
なにをしようとしていたのか……忘れた。
北条来夢(ほうじょうらいむ)は、首を斜めに傾げた。
「……なんでしたか」
ポカポカ陽気の日曜日とはいえ、出不精の自分が外に出ている。
なにか用事があったから出ていたはずなのだ。
しかし、それが思い出せなかった。
それもこれも、すべてあれのせいである。
あれというのは物心ついたころから発症していて、次第にエスカレートしていき、高校生になった現在ではまったく押さえがきかなくなっている癖、というかもはや病気のようなものであった。
それは眠っている時以外、ご飯を食べていようが学校だろうが電車の中だろうが映画のラストどんでん返しの場面だろうが、おかまいなしに突然やってきては体を支配するまさに悪夢。
我慢なんてできない。多少は時間がかせげても永遠にトイレに行かずにはいられないのと同じで、いずれにしろ限界はやってくる。
【洗い物をせずにはいられない】という衝動が。
なぜ? なんてもはや愚問で、とにかくなにがなんでもなにかを洗わずにはいられなくなってしまうのだ。
授業中、教室を抜け出すなんてよくあることで、公園で砂をひたすら洗っていたら遅刻しただとか、美容院に駆け込んでシャンプー途中の人の頭を洗ったこともある。
さっきだって、歩いていたら突然なにかを洗いたいという欲望に取り憑かれて、運良く見つけたレストランで強引に洗い物をさせてもらった。
そのおかげで学校では変人扱いされているし、よく怒られるし、高2になっても恋人どころか友達も少ない。
外に出ているのに、用事も忘れてしまう。
一時的に【洗いたい!】という気持ちで脳がいっぱいになってしまうから、その前に考えていたことがどこかへ行ってしまうのだ。
「なんでしたかねえ……」
それでも根気よく思い出そうとしていると、
「おい」
誰かが声をかけてきた。
「ちょっといいか」
年齢は25歳ぐらいだろうか。高身長、黒髪の目つきの鋭いイケメン男性だった。
「わたし……ですか?」
「目が合っているのはお前だろ。ちょっとつき合え」
男性はそれだけ言うと、有無も言わさず来夢の腕を掴み歩きはじめた。
裏路地へ入り、ズンズンと進んでいく。
普通の女の子ならここで、危機感を覚えるところなのだろうが、【洗い癖】のせいか、物怖じしない性格に育った来夢は、
「あの、つかぬことをお聞ききしますが、あなたは変態さんですか」
と、ドストレートに疑問をぶつけた。
「……俺は神代司(かみしろつかさ)。お前に用がある。変態ではない」
「で、でも、司さん。突然道ばたで、見も知らぬ女の子を強引に連れ去ろうとするのは、常識的に変態さんだと思うのですが」
「お前、名前は?」
「来夢です、けど……」
「そうか来夢。安心しろ。俺はガキに興味はない」
「高校生はガキじゃありませんよ! 失礼です人攫いさん!」
「人攫いでもない」
「なら、わたしをどこへ連れて行くんですか」
「すぐそこだ」
「でも、わたしこの後用事があるんです」
「なんの用事だ」
「そ、それは……思い出せないと言うか、思いだそうとしているところなのですが……」
「なら、思い出すまで付き合えばいい」
「で、ですから、どこへ──」
「ここだ」
立ち止まったのは、一軒の古民家の前だった。
「カフェ、ですか?」
「いいや」
司は鍵を取り出し、扉を開ける。
と、
「うわあ、カワイイ」
なかは、大小たくさんのぬいぐるみで溢れかえっていた。
「ぬいぐるみ屋さんですか」
「正しくは人形屋だがな」
言いながら指し示した先、入り口上部に取り付けられた看板には、確かに【わらし人形店】と書かれていた。
「あの、なかを見てもいいですか」
「ああ」
どんな理由で連れて来られたのかはさておき、ここまでのやりとりから、司はぶっきらぼうではあるが不審者には思えなかったので、好奇心から来夢は中をのぞいてみることにする。
店内は木造で落ち着いた雰囲気はあるものの、そこに並んだ動物をデフォルメしたものや架空の生き物のぬいぐるみたちでファンシーな世界を作り上げていた。
そんな中でも来夢の目を引いたのは、
「これ、お化け? ですか。……ぶさいくです」
丸い体に短い手足のついたうす茶色の小さなぬいぐるみだった。
まん丸の大きな目は遠くを見ているようで、ボケッとしたまぬけ顔がなんとも言えない。
「……きつねだ。俺の手作りのな」
「手作り! ご、ごめんなさい! えっと、きつねには見えませんが、ブ、ブサカワイイです」
司は一瞬ムッとしたものの、慌てる来夢に悪気はないと思ったのか話を変えた。
「外見はともかく、そいつは小運のぬいぐるみと言って、少しだけ持ち主に運を運んでくれる」
「小運? ラッキーになるお守りみたいなものですか?」
「なごり持ち限定だがな」
「なごり、持ち?」
聞き慣れない言葉に、来夢が首をひねっていると、
「つかささん! 司さんはいますか!」
血相を変えた女の子が、店に飛び込んできた。
「陽葵ちゃん!」
それは、来夢の数少ない友達のひとり。クラスメイトの石田陽葵(いしだひまり)だった。
「来夢! どうしてここに──って、そんな場合じゃなかった」
陽葵は、来夢がいることに驚きながらもすぐにその隣へと視線を移した。
「あなたが、ここの店主の司さんですか」
「ああ」
司は陽葵をじっと見つめながら頷く。
「なら、助けてください! 私、なごりがあって、それで、ストーカーをなんとかしたいんです!」
「ストーカー!? 大変じゃないですか! 警察に行きましょう! ──あれ、でもどうして司さんに相談を? 司さん、刑事なのですか? ぬいぐるみ屋さんの刑事? んん……?」
陽葵の言葉が聞き捨てならずに来夢はあたふたしだすが、
「おい」
「え? わたし? ですか」
「そうだ、来夢」
「なんでしょう」
「少し黙ってろ」
「あうっ……」
司に静かに一喝され、素直に口を閉じた。
「そっちは陽葵と言ったか。詳しく話してみろ」
「はい。さっきも言ったとおり助けて欲しいんです。ストーカーを何とかしたいんです──」
そこまで言うと陽葵は一度躊躇うようにタメを作るが、
「──わたし自身がしてしまうストーカー行為を!」
すぐに、そう締めくくった。
「そうか」
それに対して、司はさして驚きもせず静かに頷くが、
「えええーっ!」
黙るよう言われたはずの来夢は、瞳を大きく見開いて驚きを露わにするのだった。
そっと、足音を立てず気配を消してついていく。
少し前を歩く結城智也(ゆうきともや)に気づいた様子はない。彼は振り返ることも立ち止まることもなく、住宅街に延びた小道をたんたんと進んでいく。
学校帰り。陽葵は偶然見かけたクラスメイトの智也の後をついて歩いていた。
なにがしたいのかは自分でもよくわからない。
ただ、付かず離れずで彼の後を歩いているだけ。
確かなのは、陽葵は智也のことが好きだということだ。
好きになったきっかけは単純だった。
一年前、高校入学初日。
新生活に気が高ぶり、前日すぐに眠れなかったせいで寝坊してしまった陽葵は、学校への道のりを懸命に走っていた。
そこへ後ろから同じ高校のブレザーに身を包んだ男子が、同じく必死に走りながら現れた。
彼は一端は抜き去っていったが、すぐにペースを落とすと走る速度を陽葵に合わせた。
『この先の路地を右に入って道なりに進めば学校までの近道だから』
それだけ言うと、再びスピードを上げ先に右の路地へと消えていった。
親切に教えてくれた。素直にそう思った陽葵も後を追って、言われた道を進んだ。
おかげで遅刻せずにギリギリ学校へたどり着くことができた。
隣町から電車通学の陽葵には土地勘がなかったため、もしあのままの道を真っ直ぐ進んでいたら、おそらく遅刻していただろう。
間に合った……。そう胸をなで下ろし教室に滑り込み息を吐くと、
『近道、だったろ』
すでに席についた彼の姿があった。
『同じクラスだったの?』
『そうみたいだね。俺は結城智也。よろしく』
『私は、石田陽葵。近道教えてくれてありがとう』
初日からそんなできごとがあったせいか、すぐに智也とは打ち解け、仲良くなるのに時間はかからなかった。
そして、あの出会いからずっと彼のことが気になっていた。
最初は、走っていたドキドキと遅刻しなかった嬉しさのせいだろうと疑うこともあった。
だが、仲良くなっていけばいくほど、好きという気持ちは大きく膨らんでいき、今では迷いなく智也が好きだと言える。
彼女になりたいという気持ちもある。このまま仲のいい友達では終わりたくないと。
それが、最近すごく大きくなっていることにも気づいた。
理由は陽葵自身心当たりはあった。
智也が告白されたからだ。
仲がいい異性は自分だけと安心していたが、仲がよくなくても好きになる相手はいる。
放課後、隣のクラスの女子にずっと好きだったと告白されているのをたまたま見てしまったのだ。
背が小さくて可愛らしい子で、明るくてちょっとガサツな陽葵とは対照的な女の子らしい子だった。
智也が返事をすぐにしなかったというのもあるが、それからというもの陽葵の胸の中にはいろいろな気持ちが渦巻いてずっとモヤモヤしている。