どれくらい時間が経ったのか。
司にとっては小一時間。実際は3分といったところだろうか。
ようやく来夢は首を縦に振ると、司を解放した。
と、ほぼ同時だった。
「がっ!?」
苦しげな声が耳に届いたのは。
振り向くと、雨に濡れた2人がもみ合っていた。
美波が高見沢の首を絞めている。
高見沢も抵抗しているように見えるが、相手のあやかしの血が覚醒し、人ならざる力を発揮するなごりの発動状態では、かなり分が悪い。
「男はみーんないなくなるしかないの。この世界から」
美波が叫びその手にさらに力を込めると、高見沢が膝を付いた。
「まずい!」
司は咄嗟に駆け寄ろうとする──が、動くことが出来なかった。
「どこにも行かないって言いました!」
走ろうとした司の腕に来夢がガッチリとしがみついていた。
「緊急事態だ!」
「あたしだって緊急事態です! いまプロポーズされたのに、もう破局です!」
「アホか……」
「アホです! 人を好きになったらみんなアホになるんです! それが──、それが恋なんです!」
来夢は司の首に腕を回すと、女子高生とは思えない力でそのまま彼を押し倒した。
「くっ!」
背中を打ちながらも、
「お前は──」
再び引き剥がそうとするが、
「……」
司の動きが止まった。
「好き! ……ごめ……さ……離さない! ……司さん、ごめんな、さい……」
「来夢……意識があるのか」
「ちょっと、だけ……でも好き! ……うう……無理、です……」
端からみれば支離滅裂なことを言っている。
だがそれは、来夢本人と清姫が体の主導権をめぐり争っているように見えた。
「そうか──」
司はポケットからそっと何かを取り出すと涙目の彼女の前に差し出した。
それは、小さなお守りだった。
大丈夫と書かれた小さな……。
「それは……」
「覚えてるか?」
「浮気は、ダメ……司さんも、持ってた、ん、ですか」
「記念だからな。来夢とのはじめてのデートの」
「へっ!? ……どうして?」
「さあな」
司は曖昧に答えるが、その目は確信に満ちていた。
「大丈夫だ」
そう言ってお守りの言葉をそのまま口にすると、来夢の頬へそっと手を添えた。
「司さん……」
さらに密着した2人の間から持っていた幸運のぬいぐるみを引っ張り出した。
「これ……」
「さあ、祈れ。小さな運だが、その運を生かすも殺すも来夢、お前次第だ」
その言葉に、すべてを理解した来夢はコクリ、やりにくそうにだが確かに小さく頷くと、その瞳をゆっくりと閉じた。
そして、司の温もりをその頬に感じながら、
「人を好きになることは、辛く苦しいこともあるけど、でもイヤなことばかりじゃないです。清姫さんだってきっとわかってるはずです──これは、この気持ちはとっても素敵なものです! いまならあたしにもわかります! だって……だって、あたしは司さんが、す──」
力強くそう宣言すると、なぜか魂が抜けたようにその身を司に預けた。
その瞬間──。
グニュッと2人に挟まれつぶされたぬいぐるみは微笑んでいた。
パッと眩い光が、ぬいぐるみから空へ舞い上がり四散する。
光の粒が学校中に舞い降りていく。
光を身に受けた弓長が動きを止める。
「……間に合ったか」
司は意識を手放した来夢をしっかり受け止めると、だれも見ていないからか、珍しくほんのわずかに口角を上げ、空を見上げた。
いつのまにか雨の上がった、澄み切った青空を。
「はーい、みんな、このバケツにも水が入っているよ」
「こっちにもあるから、みんな押さないでね」
学校はカオスだった……。
と言っても、
「お願い、私にも洗わせて!」
「お水ちょうだい!」
先ほどまでとは打って変わって、いまは可愛いものではあったが。
蒼士は一緒にみんなの元へと水を運ぶひかりに笑いかけると、額の汗を拭った。
「いやー、なんとか収まったね」
「うん。一時はどうなるかと思ったけど、司が止めてくれたのかな」
「たぶんね。ギリギリセーフって感じだね」
そう、嫉妬に狂った女子生徒たちと、逃げ惑う男子生徒たち。
その間でみんなに怪我のないよう立ち回っていた蒼士たちだが、体力にも限りはあった。
正直、疲労で限界が近づいていた。
そんな中、激高してモップを振り上げた少女がいた。
それに気付けはしたものの、重い足と荒い呼吸では蒼士もひかりも僅かに手が届かなかった。
間に合わない!
そう諦めかけた時、それは起こった。
一瞬、ビクンと震えたかと思うと、突然嫉妬に狂った少女たちが一斉に動きを止めたのだ。
そして、つぎの瞬間には、
『あれ……私……』
『どうして……』
夢から醒めたようなキョトンとした表情になり、さらに、
『あ! 洗い物がしたい!』
『お水! 水道はどこ!』
『なんでもいいから洗わせてーっ!』
なぜか全員が全員、洗い物依存状態に陥ったのだった。
急な光景に蒼士とひかりは口を揃えこう叫んでいた。
『来夢ちゃん!』
『来夢!』
そう、それはどこからどう見ても、来夢が持つあやかしなごり【あずきあらい】の症状だった。
どうやったのかはわからないが、女子たちが皆凶暴な清姫から害のないあずきあらいにシフトチェンジしてしまったのだ。
まあ、それでも人数が人数だけに水道の取り合いで騒ぎが起こっては元も子もない。
蒼士とひかりはどちらが言い出した訳でもなく、水がみんなに行き渡るよう学校中を走り回っていたというわけである。
最後に校庭で一働きしていたのだが、今はだいぶ落ち着いてきていた。
見回せば必死で洗い物をする女性たちと、それを不思議そうに見守る男性たちという図が学校のあちこちで繰り広げられていることだろう。
いま遅刻してくる生徒がいたら、この光景は絶対に理解不能であろう。
「それにしても司、どこにいるんだろう」
「来夢も見てないな」
ようやく水を求める声もなくなり、ホッと一息ついていると、
「怪我人はいないか?」
相変わらずポーカーフェイスの司がどこからともなく現れた。
その傍らには、
「来夢!」
「来夢ちゃん!」
幸運のぬいぐるみを抱えた少女の姿があった。
2人は駆け寄ると、なんだか疲れ果てた様子のその少女、来夢を凝視し、司へとジト目を向けた。
「……おい、俺が来夢になにかしたみたいな目はやめろ」
「してないの?」
「司のことだから、この状況、来夢ちゃんになにか無理をさせたんじゃないの?」
「私たちにしたみたいに超ドSにね!」
「アホゥか……ぬいぐるみに来夢が祈った結果だ」
「来夢のおかげで運が舞い降りて清姫の嫉妬からみんなを解放したってこと?」
「なんて祈ったんだい、来夢ちゃん?」
「え!? ……ええと」
これまで俯いていた来夢だが、蒼士に問われると、急に顔を赤くして明後日の方を向く。
「あれ? どうしたのかな」
「少なくとも、大丈夫そうではあるわね」
2人が注目すると、来夢はそろそろと司の後ろへと隠れる。
「ったく……」
司は首根っこを掴むと来夢を2人の前へ突き出した。
「説明してやれ」
「あ、あたしがですか!」
「お前がどう祈ったか、俺もまだ聞いてはいないからな」
「そうですけど! 司さんなら分かるはずです! ぬいぐみの製作者なんですから!」
「さあな!」
司は意地の悪い顔つきになると、さあ話せとばかりに来夢を見下ろす。
「うっ……さ、さっき言ったことは全部撤回しますからね! 司さんなんか大っ嫌いです!」
「望むところだ」
蒼士とひかりには伝わらないやりとりをすると、来夢は覚悟を決めたと言わんばかりにぬいぐるみをぎゅうっと握りしめる。
そして、
「え、ええと……実は突然、無償~に洗い物がしたくなっちゃいまして……」
ボソリ呟く。
「洗わせてくださいって……祈っちゃいました」
「「ええっ!?」」
蒼士とひかりはキョトンとした後、同時に笑い出した。
「なにそれ! アハハ! 私たち、あんなに必死でみんなを止めてたのに」
「クッ、ハハハ! それで、解決しちゃったの? 洗いたい~で、あのカオスを!」
「わ、笑わないでくださいよ! あんな状況で……、あたしも恥ずかしいんですから」
「清姫のなごりにあてられたみんなに、ぬいぐるみの力でより強いなごりを伝染させたわけだ」
「ほ、ほら! やっぱりわかっていたじゃないですか!」
「予想はしていたが、確信に変わったのはたったいまだ。──まあ、アホっぽい解決方法ではあるが、結果オーライと言ったところだろう」
「ヒドイです! 司さん!」
来夢の罵声はどこ吹く風で、
「さて、一応校内を見て回るか」
司はみんなに背を向けると、校舎へと消えて行った。
来夢はその背を恨めしそうに睨むと、
「ぜ~ったい、さっきのはなしですからね」
小さく歯ぎしりするのだった。
※※※※※
三十分程前──。
気づくと、来夢は司の腕の中にいた。
先ほどまでのことはうっすらと覚えている。
清姫のなごりのせいで、司を自分のものにしようと必死だった。
なごりのせいで……。
「あの……」
「起きたか」
「は、はい……ええと、どうなったんですか、あたしぬいぐるみに──」
「大丈夫だ」
言うと、司は遠くに見える校庭を指さした。
「全員無事のようだ。いまもなごりは継続中だがな」
見ればみんなが水道に集まって洗い物をしているように見える。
「え!? あれって、あずき洗いですか?」
「そうらしいな。まあ、洗い物なら安全だ。なごりも直に収まるだろうしな」
「高見沢先生は?」
弓長をとめようとして屋上にいた高見沢の姿がどこにもなかった。
弓長もいない。
「間一髪だったが2人とも無事だ」
「どこにいったんですか?」
「帰らせた。まだ記憶の残る生徒に絡まれたらやっかいだからな。みんな明日になれば、忘れるだろう」
「あやかしのなごりなんて誰も信じないですしね」
「そういうことだ」
すべて、無事解決した。
が、そうホッとした瞬間、来夢はとあることを思いだしていた。
意識を手放す瞬間、司に口走った一言を……。
「司さん……」
「どうした」
「あたし、えっと、忘れていたらいいんですけど……その、気絶する前になにか言ってませんでしたか?」
「俺を好きってことか?」
「あうっ!?」
そう、あの時、ぬいぐるみに祈る直前、多少朦朧とはしていたが、来夢は確かに、
『──これは、この気持ちはとっても素敵なものです! いまならあたしにもわかります! だって……だって、あたしは司さんが、す──好きだから!」
そう告白していた……。
あれが、清姫の意識ではないことは司なら見抜いているだろう。
いま思えば、どうしてあんなことを口走ったのかは、わからない。
おそらくは清姫のなごりに、心に触れたのが原因だろうと来夢には思う他なかった。
だが、ふと気づけば、司に対してこれまでにはなかった、ある感情が芽生えたのも事実だった。
それはまだ不安定でか細くはあるが、暖かくて胸の高鳴る、いまのように彼に寄りかかっていたい。そう思える感情だった。
だから、
「好き……だと思います。まだよく分からないんですけど」
そう素直に口にしていた。
それに対して司は、
「そうか」
そう言って、珍しく優しく来夢の頭を撫でるのだった。
来夢はその心地よさに目を閉じると、司へゆっくりとその身を預けた。