ふわぁっと、あかねの口から大きなあくびがひとつ出た。明日は祭りで、忙しいのに……。

「そんなこともあったかのぅ」

 眠そうな目をこするその見た目通りの童女のような仕草に、幾人もの孫や曽孫、玄孫までいる左之助の顔は、爺やのそれになった。

「儂は、あのときあかね様に触れなかったのが、今でも悔やまれるんだがなぁ」 

 隙あらば撫でようとする気配を感じ、あかねは左之助の前ではもう、狐の姿に戻るのを止めようと心に誓う。

「あかね様はご存じねえかもしれねえが、あのあとも大変だったんでさぁ」
「ほう」

 社の外で起きることまであかねが知る術はないので、町のようすはもっぱら、参拝客から聞く情報に頼るしかない。

「稲荷での一件を親父に知られちまいまして、そりゃあこっぴどく説教されたんですわ」

 左之助の父は秘蔵の酒を何本も携えて、枡嵜屋へ謝りに行ったという。

「おまけに祭りが終わるまで店の手伝いにこき使われて神輿は担げず、風邪をこじらせ寝ついちまった喜一の見舞いにも行かずじまい」
「それは、自業自得というものじゃ」
「あいかわらず、あかね様は厳しいな」

 取り付く島もないあかねの言い様に、左之助はポリポリと禿頭を掻いて苦笑いする。

「そんなだから、忙しさにかまけてすっかり忘れていて」
「なにを?」
「喜一の根付けでさあ。あのとき袂に入れたまでは覚えてたんだけども、それがどっかへいっちまってて」

 左之助が染みだらけの手で頬づえをついて、はぁと長い溜め息を吐いた。

「思い出してからすぐに、家中はもちろん、この社の境内も通った道もぜんぶ目を皿にして探したんだけんども、まったく見つからんで」

 たいした品だったから、もうだれかが拾ってしまったのかもしれない。左之助はとうとう諦めて、正直に枡嵜屋の旦那の所へ謝罪にむかった。
 当然酷く怒られて弁償問題になるだろうと覚悟の上だったのだが、喜一の父は懐の大きな男だった。

「やっぱり、あとあとお江戸のど真ん中、ああ今は東京っていったか? に、大店をもっただけあって、気っ風が良い旦那だったなあ」

 彼は、子どもに持たせた時点でなくすことも視野に入れていたといい、左之助の親にも言わずにいてくれたのだ。
 まあけっきょく、良心の呵責に耐えきれずに、左之助自身でバラしていまい、でっかい雷を落とされたのだけれども。
 八十年以上経った今でもそのときの両親の鬼の形相が忘れられないと、九十を越えた老爺が情けない顔になった。

「で、その根付けを見つけたいと申すのじゃな?」
「ご明察」

 左之助はニヤリと笑うが、あかねは腑に落ちない。

「なぜいまさらなのじゃ? もっと早う参ればよかったに」

 あかねのもっともな指摘に、左之助は月明かりに浮かんだ境内を、遠い目で眺めやった。

「お恥ずかしい話、なくしたことさえ忘れておりましてな。人間、長く生きすぎると忘れっぽくなっていけねえや」
「たかだか、百年にも満たぬではないか」

 齢四百を越えたあかねには、人の一生はあまりにも短い。
 その言葉に、左之助は微苦笑を浮かべている。

「まあ、儂は幸せにも玄孫までみれたし、親兄弟はもちろん、女房、子どもに孫、悪友どもも大勢待っているだろうから、いつあっちへ逝っても良いかと思っていたんだが」

 ふうと息を吐いて視線を落とした。

「だがいよいよになると、根付けのことが気になってなあ。あれを見つけて、喜一に返さないことには、向こうへ逝ってもあいつに合わせる顔がねえってさ。なに、男のけじめってやつかねえ」

 独り言のように語り薄く微笑む左之助に、あかねは眉を寄せて首を傾げる。

「ふうむ。じゃが、思いつくところは、当時もくまなく探したのであろう?」

 あかねがその気になってくれたことに、左之助が胸を撫でて安堵する。

「行けるところは全部。けども、一カ所だけ手つかずの場所が」

 左之助はそう言うと、拝殿脇の一本杉に目をやった。

「あの木には、あれ以来登ってねぇんですよ。だからあかね様のお許しをいただこうと、こうして参った次第でして」
「妾の許しというより、木霊に聞いてみぬことにはのう」

 ふたりはご神木の根元に立ち、てっぺんを見上げる。
 あれからさらに幹は太くなり高さも伸びた杉は静かにそびえ、その頂点は夜空に溶け込むように見えなかった。

「木霊よ、話は聞いておったであろう。良いか?」

 あかねがしめ縄付近のざらざらした樹皮に、小さな手を添え尋ねた。
 すると、風もないのに葉がざわざわと音を立てる。

「……そうか。すまぬな」

 あかねが大木を見上げて礼を言う。

「木霊が構わぬと申しておる。じゃが、傷など付けずに登らぬといかんぞ」

 ご神木の許可を得て、左之助の顔に喜色が浮かんだ。

「かたじけない。もちろんですわ」

 杉に向って深々と頭を下げた左之助に、あかねが不安そうに言った。

「じゃが、ちいと暗いのう」

 いくら月明かりがあっても、木登りして探し物ができるほどではない。それに繁る葉の中に入ってしまえば、そのわずかな光さえも届かないだろう。
 再びふたりで杉を見上げ思案に暮れる。
 仕方なしにあかねが狐火を呼ぼうすると、どこからともなく小さな光が集まりはじめた。

「……蛍」

 左之助の呟きに応えるように、それらが点滅を繰り返す。
 たくさんの蛍たちはご神木に成るように留って、灯りを点した。
 ちかちかと瞬く様は、さながら天の星が降ってきたよう。

「いい冥土の土産話ができたなあ」

 その幻想的な光景に、左之助はしばし目を細めていた。

「――左之助や」

 静寂をそっと解いたあかねの呼びかけに、左之助は我に返る。
 あかねが力強くひとつうなづくと、左之助は下駄を脱ぎ、杉に枯れ枝のような手を当てた。

「ご神木様、すみません。ちっとの間だけ汚え足をかけるのをお許しくだせい」

 断りを入れてから手足を一本杉に絡ませ、上を目指し登りはじめる。
 蛍たちは、左之助を導くように光の道を作り、それに従って手足を動かしていくと、子どものころのようにするすると身体が動いた。
 それもそのはず。ひとつ手を動かすたびに痩せこけていた腕に肉が戻り、ひとつ足を動かせば、棒のようなふくらはぎに張りが出る。
 さらには、杉の中ほどに辿り着くと、左之助は竹トンボを飛ばしていたあのころの子どもの姿になっていた。
 
「左之助ちゃん、がんばれ!」

 根元で待つあかねの横から、上に向って叫ぶ声がした。

「おぬしも来ておったのか」

 喜一はニコリと笑い、竹トンボを持っている方とは反対の側の手を左之助に向って振る。
 進みを止めていったん下を向いた左之助が、片手を離してそれに応えた。

「おうっ。待ってろよ!」

 徐々に細くなる幹を危なげなく順調に登り進めていくと、ふいに蛍の道が途切れる。
 その先を見ると、ぽっかりと空いた暗がりの中に、蛍の光とは違うきらりとした冷たい光をみつけた。
 樹洞らしい穴に手を入れその光を掴むと、懐かしいつるりと冷たい感触がする。

「あった!!」

 喜一たちに向って、左之助は琥珀ごと手を振って教えた。
 手のひらにのる根付けのひもは、長い年月によってさすがに朽ち果てていたが、べっこう飴色の琥珀は当時のままの輝きを宿していた。

「長いこと借りたままで、悪かったな」

 するすると地面に降りた左之助は、ぶっきらぼうに琥珀を差しだした。

「ううん。ありがとう」

 喜一は竹トンボを帯に挟み、両手で大事そうに琥珀を受け取る。
 その様子を見届けると、蛍たちはいっせいに一本杉から離れ、ふたりを囲んで飛び回りはじめた。

「――逝くのか?」

 あかねの問いに、左之助はゆっくりと首を縦に動かす。

「あかね様、ご神木様。本当にありがとうございました」

 満足そうな顔をして坊主頭を深く下げた。その横で、喜一もぺこりとお辞儀をする。
 いつかのように喜一が左之助の手を握り、にっこりと顔を見合わせて同時にこくんとうなづいた。
 ふたりの姿が小さな光に変わり、蛍の群れに混じる。
 それを待っていたかのように、蛍たちは光の川になって天に昇っていった。

 東の空が白みはじめ、気の早い鶏の声が微かに聞える。
 あかねは、両腕を天に突き上げ大きな伸びをした。

「最期まで、狐騒がせな奴よのう」

 蛍の消えた空を見上げ、独りごちて溜め息、ひとつ。
 
 
 さあ、賑やかな夏祭りの朝がくる。
 今日も暑くなりそうだ。


【 祭り前夜のさがしもの  完 】