陰陽師・榊原朧のあやかし奇譚


 話を聞いてから、さらに一、二時間経っただろうか。さすがに眠くなってきて、俺はうとうとしてきた。
 榊原の穏やかで低い声は、耳に心地よかった。全身に伝わってくる、人肌のぬくもりも妙に落ち着く。お経みたいな呪文を聞き続けていると、もはや子守歌にしか聞こえなくなってきた。

 榊原の肩にもたれながら、俺はうつらうつらと眠りに落ちそうになった。最近、幽霊のことが気がかりで、よく眠れなかったし。
 意識を失いそうになり、榊原の肩に頭を乗っけたのと同時に。

 ふーっ、と耳に息を吹きかけられた。

「うひゃ!?」

 その行動に驚いて、一気に眠気が吹き飛んだ。俺は自分の耳を押さえて、思わず後ずさる。

「なっ、何するんだよ!」
「お前、何一人で気持ちよお寝ようとしてんねん」
「いや、だって…………寝たらダメなのか?」

 俺は少し反省した。俺が眠ってしまうことで術の妨げになるのなら、申し訳ないと思ったのだ。

「別にダメやないけど、俺がせっかく一生懸命お前のために術かけてやっとんのに、横でぐーすか寝られたら何か腹立つやん」
「そんな理由かよ……」

 本当にこの男は、見た目の美しさと裏腹に、意地が悪い。
 榊原は楽しげに微笑んだ。

「別にええけどなー、寝ても。その代わり、眠ってる間にもっとすごいことされても知らんで」
「もっとすごいことって何だよ!?」
「何期待してんねん」
「してないっ!」

 榊原が訳の分からないことを言うから、すっかり目が冴えてしまった。
 それからも何十分か呪文を続け、ずっと何かを探っていた榊原が、糸口を見つけたようにポツリと呟く。

「繋がったな」
「繋がった?」

 そう言われた瞬間、俺と榊原の身体が光に包まれ、どこかに吸い込まれるような感覚に陥る。
 ぎゅっと抱きしめられ、榊原の腕の力の強さを感じた。

 珍しく余裕のない声で、榊原が忠告する。

「志波、俺から絶対に離れんな。離れたら、元の場所に戻ることができなくなるで」
「元の場所に戻るって……」

 シールみたいに、俺の身体に描かれた文字がペリペリと剥がれて、光の中に吸い込まれていく。

「あっ、あの榊原、これ! 文字が!」
「大丈夫やから、離れんな!」

 俺は深く頷いて、彼の背中にぎゅっとしがみついた。


 ◇ ◇ ◇


「……あれ?」

 さっきまでは榊原の事務所の和室にいたはずなのに、気がつくと、俺と榊原は外に立っていた。
 しかもここは、俺の家の前にある通り道だ。

 でも、少し様子がおかしい。俺の家だけれど、俺の家じゃない、という妙な違和感がある。ハッキリ何が違うと言い切れるわけでもないが、まるで間違い探しのように、確かに違うところがあるのだ。

「あれ? 何で? どうして俺たち、家の前にいるんだ?」

 榊原は落ち着いた様子で答える。

「ここは、この時計の持ち主の記憶や。どうやら俺らに、何かを見せたいようやな」

 俺はきょとんとした。
 時計の持ち主? ということは、父の記憶だろうか。

 俺は自分の家をまじまじと眺めた。
 よく見ると、建物が今より新しく、綺麗だということに気づく。
 俺がここに来た瞬間違和感を抱いたのは、この家と町並みが過去のものだったからだろう。

 しばらく考えていると、五十代くらいの男性が家から出てきた。

「え……これって、もしかして若い頃の爺ちゃん?」

 怒ったような顔つきが、祖父によく似ていた。いや……、これは、祖父だ。
 俺にはすっかり年老いた祖父の記憶しかなかったが、若い祖父は亡くなった俺の父に瓜(うり)二つで、少しぎょっとした。

「そうやな。若い頃の志波の爺さんやろな。俺らの姿は幻のようなもんで、向こうには見えてへん」
「でも、時計の持ち主の記憶なんだよな? どうして爺ちゃんが……」

 様子を見ていると、家の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
 俺は祖父の後を追って、家の中に入った。

 若い夫婦が、生まれたての赤ん坊を抱っこしていた。
 ――父と母だ。
 ずっと前に死んだ父と母の姿を見て、胸がじわりと熱くなる。彼らは幸せそうに、泣いている赤ん坊をあやしていた。

「あの赤ちゃんは、志波やな」
「何か、昔の自分を見られるのってちょっと恥ずかしいな」

 二人の様子を見ているだけで、自分が両親にかわいがられていたことがよく分かる。

『お義父さんも、抱っこしてあげてください』

 母にそう言われ、祖父は少しぎこちない手つきで俺を抱き上げた。

『……ふむ』

 祖父はいつもの怒ったような顔つきで、赤ん坊の顔をじっと見る。やっぱり子供は嫌いなんだろうか。


 そう思ったが、祖父は一瞬だけ目を細め、驚くほど優しい表情で微笑んだ。

『明良、よく生まれてきてくれたな』

 あんなに優しく笑う祖父なんて、一度も見たことがない。
 目の前の光景が信じられなかった。

 祖父は俺のことを憎んでいるはずだ。俺だって、祖父のことなんて大嫌いだ。
 ずっとそう思っていた。けれど、本当に昔からそうだっただろうか?

 抱いている相手が変わったのに気づいたのか、赤ん坊はまた大声で泣き出した。
 祖父は慌てて俺を母の手に戻す。


 それから時間が少し飛び、周囲は夜になった。
 気がつくと、祖父と父が縁(えん)側(がわ)に並んで座っている。

『この時計を、お前にやろう』

 祖父はそう言って、懐中時計を父に渡した。今も俺が大切にしている、あの懐中時計だった。

『父さん、これは?』

 父は不思議そうに、祖父から時計を受け取る。

『明良の誕生祝いだ。この時計が、お前たち家族の時を刻む、大切なものになってほしいという願いを込めてな、骨董品店で探してきたんだ。これなら、守護の術をかける触媒(しょくばい)にちょうどいいと思ってな。明良が大きくなるまでは、お前が持っていてくれ』

 祖父は早口でまくし立てる。
 それを聞いた父は、可笑しそうに笑った。

『何だか回りくどいなぁ』
『何だと!?』
『いや、ありがとう。大切にするよ』

 父は嬉しそうにその時計を眺める。
 祖父は父に向かって、話を続けた。

『特に志波家の男は、へんなのに憑かれやすいからな。災いから身を守れるように、お前にこの時計を託す』
『あぁ、父さんは少しだけ、退魔の力があるんだよね』
『うむ、もう何百年も前のことだが、先祖が鬼を祓う仕事をしていたらしいな。そのせいか、志波の家系には時々私のように、霊感の強い人間が生まれてくる』

 父は苦笑しながら言った。

『俺は幽霊が見えるだけで、祓ったりするのはからっきしだからな。子供の頃はへんなのに追いかけられて、よく泣いていたよね。明良はそうならないといいけど』

『私が近くにいる間は、なるべく明良に害が及ばないように守る。だが、いつまでも近くにいられるわけじゃないからな』


 それを聞いた榊原が、ポツリと呟いた。

「どうやら志波が霊を引き寄せやすいのは、家系なんやな」

 俺は幸せそうな祖父と父の姿を見つめながら言った。

「……俺、全然知らなかった。この時計、ずっと父さんのものだと思っていたから。
もともと、爺ちゃんが俺の誕生祝いに買ってくれたんだな。この時計に込められた思いも、爺ちゃんの気持ちも、父さんの小さい頃のことも……、何も知らなかった」

 すると今まで怒ってばかりいた榊原は、目を細めて優しい声で言った。

「爺さんも、口下手な人やったんやろ。不器用で、自分の気持ちを言葉で伝えるのが、苦手だったのかもしれん。
でもこうやって見ていると、言葉がなくても爺さんの思いは伝わるな?」

 俺は胸がぎゅっと苦しくなるのを感じた。
 そのとおりだった。今ならどんなに怒った顔をしていても、祖父が俺のことを大切にしてくれているのが、痛いくらいに分かる。


 それからしばらくは、幸せな時間が続いた。
 五歳になった俺は、祖父の手を引いて空き地に向かって走っていく。

『爺ちゃん、早く早く! 一緒に野球しようよ、野球!』
『待て待て、爺ちゃんはそんなに速く走れん』

 あぁ、こんな時もあったのか。
 すっかり忘れていたが、小さい頃の俺は、祖父と出かけるのが大好きだった。
 祖父は相変わらず怒ったような顔をしているが、俺がどんなワガママを言っても、いつだってどこにだって付き合ってくれた。


 そして俺が十歳になり、鈴芽が生まれる。
 祖父は俺が生まれた時と同じように、鈴芽のことも目に入れても痛くないほどにかわいがった。


 場面が切り替わり、俺は父の部屋にいた。

『いいなぁ、お父さんの時計、格好いいなぁ』

 俺は昔から懐中時計が大好きで、何度も羨ましいと口にしていた。時計そのものもかっこよかったけれど、胸ポケットから時折あの時計を取り出し、時間を確認する父の姿が俺にとって憧れだったのだと、今になって気がついた。

 建築士だった父は、現場に出向くこともあったが、自宅の仕事部屋で机に向かい、ビルや住宅の設計図を描いていることも多かった。
 仕事をしていた父はふと手を止めて俺を振り返り、にやりと微笑む。

『明良、これ、欲しいか?』
『えっ、くれるの!?』

 思いがけない言葉に、子供の俺は瞳を輝かせる。

『いいぞ。じいちゃんから貰って、ずっとお父さんが持っていたけど、お兄ちゃんになった記念に明良にあげよう』
『本当!? 本当にいいの!? 嘘じゃない!?』
『あぁ。明良ももう十歳だからな。その代わり鈴芽のこと、守ってやってくれるか?』

『うん、俺、鈴芽のこと守るよ! かわいがる! いっぱい面倒見る!』

 そう答えると、父は嬉しそうに微笑んだ。

『よし、それならこの時計は今日から明良のだ。いいか、なくさないように、なるべく肌身離さず持って、大切にするんだぞ?』

 そう言った父の表情は、何かを決心したように、ひどく真剣だった。つられて小さな俺も、真面目な顔つきになる。

『分かった! 一生大切にする!』

 そして時計は、父から俺へと渡る。


 やがてまた、唐突に場面が移った。
 十歳の俺は、公園に遊びに行こうと玄関から飛び出した。

 その瞬間、家の目の前に立っていた男にぶつかった。その衝撃でポケットに入れていた懐中時計が、地面に落ちる。


 その男の顔を見た瞬間、俺はかっと頭に血が昇り、腸(はらわた)が煮えくり返りそうになった。
「こいつ……!」


 俺がぶつかったのは、背の低い老人だった。彼の目や口の周りには細かな皺(しわ)が集まり、それが無性におそろしく見えた。男は八十代くらいに見えたが、実際はそれより二十歳近く若かったはずだ。

 老人は俺を見ると、人の好さそうな顔でニコニコ笑い、俺が落とした時計を拾った。
『坊や、大丈夫かい?』

 その声音のやわらかさに、少しほっとした。だが、彼の目には隠しきれない鋭さが残っており、胸が無性にざわついた。
 俺は彼が何をしていたのか不思議に思い、訊ねる。

『お爺さん、誰? うちに何か用?』
『私はね、君のお爺ちゃんのお友達だよ』

 祖父の友人だと聞き、俺は警戒を緩める。
『そうなんだ。爺ちゃん、今は蚤(のみ)の市に行ってるけど……たまに掘り出しものがあるんだって』


 祖父はこの時、半分趣味を兼ねて骨董商のような仕事をしていた。価値のある骨董品を買い集め、必要とする人がいれば譲ったり、鑑定したりしていたようだ。

『君の家には、他にもたくさんこういうのがあるのかな?』

 子供の俺は疑うことなく返事をした。

『うん、爺ちゃん、古くて綺麗なものが好きだから。昔の王様の壺とか皿とか絵とか、いっぱい集めてる……けど……』

 男は何度も嬉しそうに頷く。

『そうか、ありがとう。私も今度、見せてもらいたいな。また来るから』
『爺ちゃん、多分もうすぐ帰ってくるよ。家の中で待つ?』
『いや、今日はいいや。それに私が来たことは内緒にしてほしいんだ。久しぶりに会うから、お爺さんをびっくりさせたいんだよ』
『分かった! じゃあ俺、誰にも言わないよ』

 俺の返事を聞くと、老人は笑顔で手を振りながら去っていく。


 俺の身体は、一瞬で負の感情でいっぱいになった。
 記憶を順番に辿るなら、当然この日が来ることも分かっていた。
 これまでの記憶は、両親と祖父、鈴芽と俺の揃った、ずっと幸せなものだった。
 でも、避けようがない。


 ――あの事件が起こる。

 俺は青ざめながら、榊原に問いかける。

「……榊原」
「何や」
「これ、もうどうすることもできないのか!? 今からこの過去を変えるようなことは、できないのか!?」

 榊原は、まっすぐに俺の目を見て言った。

「あぁ、残念ながら。俺たちは、時計の見てきた記憶を辿っているだけや。過去に介入することは、不可能や」

 俺はぎゅっと拳を握りしめる。

「ちくしょう……!」


 ――この数日後、父と母は、あの男に殺される。



 俺はそれを分かっているのに、何もできない。
 父と母が殺されたのは、俺のせいだ。この時のことを、ずっと後悔し続けていた。
 俺があの男に、祖父が骨董品を集めていることを教えてしまったから、事件が起こったのだ。
 それなのに、どうして俺は何もできないんだ!
 今、あいつは目の前にいるのに。

 怒りと恐怖でカタカタと震える手を、冷たくて細い指がそっと包んだ。
 俺はハッとして榊原の方を見る。

「見たくないものは見んでええ、自分自身を傷つけることはない」

 彼の声を聞いて、俺は目蓋を閉じた。
 けれどどんなに目を伏せても、視線をそらしても、頭の中にこびりついているあの光景を一生忘れることはできない。

 事件が起こった日、祖父は町内会の旅行に行っていた。家にいるのは両親と、俺と鈴芽の四人だった。
 その日も、いつもと同じような一日で終わるはずだった。

 夕飯を食べ、風呂に入った後寝室の布団に並んで、家族四人で眠っていた。
 深夜、最初にその異変に気づいたのは父だった。
 父は布団からむくりと身体を起こし、警戒するように耳を澄ませた。

 隣で眠っていた母は、不思議そうに父に声をかける。

『あなた、どうしたの?』

 父は険しい表情で声をひそめて呟いた。

『……いや、家のどこかで物音が聞こえたんだ』

 母は枕元の時計を確認する。

『物音? お義父さんが帰ってきたのかしら? でも、夜中の三時だし……』
『様子を見てくる。何かあったら、すぐに逃げられるようにしておいてくれ』
『でも、危ないわ。私も……』

 両親の緊迫した雰囲気に、それまで眠っていた俺も目を覚まし、母に問いかける。

『お母さんどうしたの? まだ朝じゃないよ……』
『えぇ、そうね』

 母は俺のことを抱きしめ、俺の横で眠っていた鈴芽を抱き上げる。赤ちゃんの鈴芽は、すやすやと幸せそうに眠っていた。
 やがて少し離れた部屋から、父が何かを叫ぶ声が聞こえた。

 俺たちはびくりと肩をすくませる。
 何を言っているのかは分からないが、あんなに怒った父の声を聞いたのは初めてだった。

 ガラスの食器が割れ、物が倒れるような音も聞こえる。様子がおかしい。誰かと争っているようだ。
 母は動揺し、父を助けに行こうと起き上がる。
 不安になった俺は、母の手をつかんだ。

『お母さん、どうしてお父さんあんなに怒ってるの?』

 母は一瞬迷った表情になり、それから小さな鈴芽を俺に預ける。

『明良、念のために窓から外に出て、鈴芽と一緒に物置に隠れていなさい』
『え、でも、暗いし、靴もないし……』

 母は少しぎこちない笑顔で俺の頭を撫でる。

『大丈夫よ。かくれんぼみたいなものだから。お母さんが呼ぶまで、絶対に出てこないで、二人で隠れていてほしいの。怖くないからね。分かった?』

 俺は眠っている鈴芽を抱き抱え、裸足で窓から庭に出て、言われたとおりに物置の中に隠れた。
 灯りのない物置の中は暗く、湿っぽい匂いがした。周囲には祖父の集めている骨董品が並んでいる。家で何が起こっているのか、物置の中からはまるで分からない。

 俺は不安でいっぱいになりながら、温かくてやわらかい鈴芽をぎゅっと抱きしめる。床に腰を下ろし、じっと息をひそめていた。
 どのくらいの時間が経っただろう。数分のようにも、数時間のようにも感じた。

 やがて家から母の鋭い悲鳴が聞こえ、俺はハッとして立ち上がる。
 やはり何かが起こっているのだ。俺も、父と母を助けに行かないと!
 そう思って、外に出ようとした時だった。
 物置の外で、ジャリッと砂が擦れる音がした。

 誰かがこちらに歩いてきたのだ。
 よかった、母さんだ。

 そう思って入り口を開こうとした俺は、違和感に気づく。
 ――いや、母さんや父さんなら、真っ先に俺と鈴芽の名前を呼ぶのではないか?

 どうしてこちらに近づいてくる人間は、何も言わず、まるで息をひそめるように、静かにゆっくりと歩いているのだろう。

 外にいる人間は、獣のように荒々しい息を吐いていた。まるで暴れた後のようだ。
 物置の扉の隙間から、ほんの数センチだけ外の様子が見えた。

 まだ日は昇っておらず、空は暗く、月明かりしかない。
 月に照らされたその人物が見えた瞬間、俺は呼吸が止まりそうになる。

 物置の外に立っていたのは、数日前俺に声をかけた、あの老人だった。
 しかし老人の風貌は異様だった。目は夜叉のようにギラギラと血走って、身体は返り血で、真っ赤に染まっていた。

 俺の腕は恐怖でガタガタと震える。抱きしめていた腕に力がこもったからか、腕の中にいた鈴芽がふにゃあと泣き出してしまった。

『す、鈴芽……!』

 老人はにたりと背筋が凍るような笑みを浮かべると、物置の扉に手をかけ、ゆっくりと戸を開く。

『あぁ、ここにいたのか』

 そう言った老人の手には、べったりと血のついた包丁が握られていた。
 俺は目を見開いたまま、金縛りにあったように、身動きすることができない。
 老人は、俺と鈴芽にゆっくりとにじり寄ってくる。
 そして男は俺の首をつかみ、包丁を突き刺そうと腕を振り上げた。
 俺はぎゅっと目を瞑(つむ)り、鈴芽の身体を抱きしめる。

 その時、静寂を裂くようにすぐ近くの通りから、パトカーのサイレンが響いた。
 老人はそれにハッとして、物置の側に置いていた大きな袋を持ち上げ、家から逃げ出した。

 しばらく硬直していた俺は、あの血が父と母のものだと気づき、急いで家の中に戻る。

『お父さん! お母さん!』

 二人の姿を探し、居間の扉を開け放った。
 そこには地獄が広がっていた。
 俺がいつも生活している家とは、かけ離れたまったく別の場所に見えた。

 あの男と争ったせいか部屋には物が散乱し、ガラスも割れ、真っ赤な血が床に飛び散っている。
 そして全身血まみれで、変わり果てた姿になった父と母が床に倒れていた。
 俺は声にならない叫び声を上げる。


 その直後、警官が俺と鈴芽を保護し、連絡を受けた祖父が帰宅した。
 警官から事情を聞いた祖父は、鈴芽を抱いてぼんやりと佇んでいる俺を見つけ、俺たちを抱きしめ、涙を流した。

『明良、鈴芽、すまない……! 怖かっただろう』

 俺は泣くことも忘れ、虚(うつ)ろな瞳で祖父の姿を見つめていた。
 謝り続ける祖父に何か言ってあげたかったけれど、言葉を忘れたように、一言も発することができなかった。


 その光景を見ていた俺は堪えきれず、地面にうずくまって大声で叫んだ。
 今なら。大人になった今なら、きっと父と母を助けられるのに。

 いや、もしもう一度過去に戻れるとしたら、俺自身が無事ではすまなくても、例え死んでしまったとしても、絶対に父と母を助けよう。
 何度も何度も、あの光景を夢に見て、そう誓ったのに。

 ――結局また、助けられなかった。


 それ以降しばらく、俺の家はすべての幸せがなくなってしまったみたいに、悲しい時間が続いた。
 俺は事件の日から、祖父と顔を合わせるのが怖くなった。

 犯人はすぐ逮捕されたが、警察にどこまで話したのだろう。
 あの男が家に来るきっかけを俺が作ったことを、祖父は知っているだろうか。
 面と向かって訊ねる勇気はなかったが、きっと知っているに違いないと思った。

 祖父は俺のことを、恨んでいるだろう。俺のせいで、父と母が死んだも同然だ。
 そう考え、どんどん普通の会話すらできなくなった。
 何も分からない小さな鈴芽だけは、無邪気に笑っていた。

 両親がもう二度と帰ってこないことは理解していた。ただ、父と母が戻らないのなら、せめて犯人には刑務所に入って、罪を償(つぐな)ってほしいと願った。
 しかし神様はどこまでも理不尽だった。犯人の男は、患っていた持病をこじらせ、結局裁判が終わる前に死んでしまった。
 その後の捜査で犯人の男が長年勤めていた会社を突然解雇され、生活に困窮(こんきゅう)していたこと、それを家族に話せず消費者金融から多額の借金をして追いつめられていたこと、その時偶然祖父の存在を知り、骨董品を盗めば借金を返済して楽に生活できると考えたことなどを聞いた。

 だが犯行にどんな理由があったとしても、到底納得することも許すこともできなかった。

 犯人が死んでしまい、怒りをぶつける矛先すら失った俺たち家族には、やりきれなさだけが残った。



 これはいつのことだろう。

 俺の目に入ってきたのは、仏壇に向かう祖父の後ろ姿だった。
 祖父は押し殺した声で、何度もすまない、すまないと謝っている。

 その姿に、俺は衝撃を受けた。
 もしかして祖父はこうやって毎日、父と母に謝り続けていたのだろうか?
 俺はずっと、祖父は父と母が死んでも、さほど悲しんでいないのだと思い込んでいた。

 祖父が俺と鈴芽の前で、悲しむ様子を見せた記憶がなかったからだ。
 祖父は両親の死後、人が変わったように厳しくなった。
 家事も鈴芽の面倒を見ることも、大半を俺に押しつけた。
 年月が経てば経つほど、祖父との心の距離はどんどん開いていった。

 友達と遊ぶことも制限され、門限から数分遅れると、家の中に入れてもらえず何時間も玄関の前で立たされた。かといって成績が落ちるとそれはそれで大声で怒鳴られて、祖父がいいと言うまで勉強することを強いられた。
 家事と勉強と鈴芽の面倒を見ることで、俺はへとへとに疲れ切っていた。
 そんな時祖父は何をしているかというと、部屋にこもり、押し黙っているだけだった。

 祖父の豹変ぶりが信じられなかった。
 父と母の死を悲しんでいる素振りもなかったし、裏切られたような気持ちでいっぱいになった。

 中学を卒業する頃には、俺は祖父を毛嫌いするようになっていた。
 鈴芽も可哀想だった。その頃鈴芽は五歳くらいで、まだ幼稚園に通っていた。親に甘えたい盛りだっただろうに、鈴芽が甘えられる人間は俺しかいなかった。

 他の子と同じように欲しいものをねだることも家族で遊園地に行くこともできず、小さいなりに懸命に俺の手伝いをしてくれた。
 鈴芽は自分が泣いていたら俺が心配すると思って、いつも布団に隠れてこっそり泣いていた。そんな鈴芽の姿を見ていると、祖父を許せないという気持ちばかりが強くなっていった。

 早くこんな家を出ていってやる。その決意だけが、俺を動かす原動力になった。



 その日の祖父は、一人で縁側に座って、月を眺めていた。

『あなたはもう少し、明良と鈴芽に優しくしてあげたらいいのにね』

 誰かが優しい声で、そう言った。

 いつの間にか祖父の前に、ふわふわとした蛍のような光に包まれたお婆さんが立っていた。
 この人、一体どこから現れたんだろう。そう考え、彼女の顔を見て、俺はハッとした。

「これ、婆ちゃんだ!」
「お前の婆さんか」
「そう、絶対にそう! 婆ちゃんは、俺が生まれる前に亡くなったんだ」
「なるほど。爺さんは、やっぱり生者でない人を見る力があったようやな」

 会ったことはないけれど、祖母の姿は写真で見たことがある。
 それに説明されなくても、ひと目で俺の祖母だと分かった。笑った時の目元が、父さんによく似ていたから。
 祖母に向かい、祖父は静かに呟いた。

『そう言えば、今日はお前の命日だったか』
『嫌ですよ、忘れちゃ。お久しぶりです』

 そう言って、祖母は儚げに笑った。

『私は老い先が短い。明良と鈴芽が社会人になるまで、見守れるかすら分からない。あんな目に遭った二人だけを残して死ぬのは、心配で堪らない』
 祖父は疲れたように空を見上げ、深い溜め息を吐く。

『二人が立派に生きていけるように、心を鬼にして、明良と鈴芽をしっかりと育てないと。それがせめてもの、私の罪滅ぼしだ』

 その言葉を聞いて、初めて気がついた。
 祖父が理不尽に家のことを押しつけてばかりいると思っていたが、おかげで俺は、一人で大抵のことをこなすことができている。料理も、掃除も、洗濯も。

 自分が死んだ後、残された俺と鈴芽のことを考えてのことだったのだろうか。
 学費を奨学金やバイトでまかなったことも、祖父の死後、残された俺と鈴芽に相応の財産を残すための配慮だったのかもしれない。