陰陽師・榊原朧のあやかし奇譚


 榊原と出会った、数日後。

「――もうおしまいだぁ!」

 俺は部屋の布団の中で、丸まって叫んでいた。

 あの男に会ってから、なぜか複数の幽霊にまとわりつかれるようになった。
 幽霊たちは、どうやら俺のことを捕まえたいみたいだ。
 下手をすると一歩外へ出たとたんに、幽霊に追いかけられる。職探しどころではなく、もはやおちおち買い物にも行けない。ただ不思議なことに、どうやら幽霊たちは家の中までは入ってこられないらしい。逃げ帰ってくれば何とか助かった。

 幽霊に遭遇するたび、俺は家の中で膝を抱え、あれは一体何なのだろうと考える。
 俺の様子がおかしいからか、鈴芽にまで心配される始末だった。

「何、お兄ちゃん、まだ幽霊が見えるとか言ってんの?」

「そうなんだよ。俺がおかしいのか、それとも世の中がおかしいのか、どっちだと思う?」

「お兄ちゃん……病院行ったら?」

 鈴芽は呆れ半分、心配半分といった表情だ。
 おかしいのは俺の頭なのだろうか。けれど幻覚にしては、やけにリアルだ。こんなんじゃ、まともに生活できない。

 それに一番気になるのは、祖父のことだった。
 祖父の霊を見たのは榊原に助けられた時の一回だけだが、何か伝えたいことでもあるのだろうか。それとも、やはり他の霊のように、俺を呪い殺そうとしているのだろうか。考えれば考えるほど憂鬱になる。

「ううう、どうしよう……」

 自分で解決できればいいのだが、そんなことができるならとっくにやっている。

 悩み抜いた末、結局俺は榊原からもらった名刺の電話番号に連絡してみることにした。
 他に解決方法が思いつかないので、仕方ない。とはいえ、また嫌味を言われたらと思うと、気が重かった。俺は憂鬱な気持ちで、名刺を睨みつける。

「……とりあえず、かけてみるか」

 俺は緊張しながらスマホの画面をタップした。数回呼び出し音が鳴った後、応答がある。

「はい、榊原陰陽師事務所です」

 てっきり本人が対応するのかと思ったが、電話口の人はおそらく女性だろう。けれど子供のような、老人のような、少し不思議な声だった。

「あの、榊原さんに名刺を頂いて電話しました。えっと、俺、幽霊が見えるんですけど……この事務所って、そういう相談を受け付けていますか?」

「承知しました。それでは、ご予約のお日にちはいかがいたしましょう? お急ぎで? それでしたら今日ご案内できますが……」

 相手の女性は特に不審がることもなく取り次いでくれた。名前と連絡先を聞かれ、事務所の場所について簡単な説明を受けて、電話を切る。

 俺はスマホをしげしげと眺めた。呆気ないほど簡単に予約が取れてしまった。陰陽師ってこういうものなんだろうか? まだ信じられない気持ちで、とにかく事務所へと向かう。

 外に出るとまた幽霊に遭遇しそうなので、こっそり周囲の様子をうかがう。
 幸い、今は大丈夫みたいだ。お守りがわりに懐中時計を握り締め、また幽霊に追いかけられないように、全速力で駅に向かった。

 何とか無事に、最寄り駅から事務所のある新宿駅まで乗り継ぐことができた。高層ビルが建ち並ぶオフィス街を、スマホを片手に進んでいく。
 するとホテルや銀行がある並びに、場違いに立派な和風の屋敷が立っていた。

「……どう見てもここだよな」

 地図アプリも、ここが目的地だと示している。
 屋敷をぐるりと囲む石塀を目で追ったが、どこまで続いているのか分からないくらいに広大だった。

 俺は門扉に掲げられた高級感のある木製の表札をじっと眺めた。

『榊原(さかきばら)陰陽師事務所』

 やっぱりここだ。
 緊張しながらインターホンを鳴らすと、中に入るようにすすめられる。
 門をくぐり、石畳の道を進むと新緑の眩い日本庭園が広がっていた。庭園には小さな池まであり、鮮やかな体色の鯉が悠々と泳いでいる。

 陰陽師ってそんなに儲かるのか? どんな悪いことをしたら、都心の一等地にこんなに立派な家屋を構えられるのだろう……。通された応接室には掛け軸があり、その前にはシノワズリの大きな飾り壺があった。

 異様にもふもふした高座椅子に腰かけて落ち着かない気持ちでいると、奥の部屋からすらりとした長身の人物が現れた。

 この間出会った男性――榊原朧だ。

 榊原は見るからに仕立てのよさそうなスーツを着ていた。そもそも陰陽師というのは、スーツ姿で働くんだろうか。
 最初榊原はよそいきの笑顔を作っていたけれど、俺を見た瞬間、それをあっさり解除した。

「なんや、この前のうるさい男か」
「うるさいって……」

 やっぱりここに来たのは間違いだったかもしれない。早速後悔しそうになる。

「ま、ええわ。あの状況やと、近々来ると思ってたしな」

 そう言ってから、榊原は向かいの席に座り、真剣な表情になる。あきらかに彼の雰囲気が変わったのに気づき、ハッとした。

「どんな相手やろうと、料金さえ払ってくれれば仕事の依頼はちゃんと受けるで。俺は代表の、榊原朧や」

 真っ白な肌。聡明な紫色の瞳。すっと通った鼻筋。薄い唇から聞こえる、穏やかな声。悔しいけれど、こうして改めて見ても、榊原は信じられないくらいに美しい。

「えっと……俺は志波明良、です。あなたは陰陽師なんですよね?」

「そうや。陰陽師って、何をするのか知っとるか?」

「えぇと……何だろ……悪霊退散、みたいなやつですか?」

 言ってから、我ながらアホっぽい回答だったなと思った。榊原は手慣れた様子で説明を始めた。

「そもそも日本には昔、『陰陽寮(おんみょうりょう)』っていう国家機関があったんや。暦や天体や占いの研究をしとったんやけど、そこで教えられとったんが陰陽道(おんみょうどう)っていう考え方や」

「陰陽道……」

「その陰陽道っていうんは、古代中国の自然哲学思想や陰陽五行(いんようごぎょう)思想、仏教なんかを取り入れて、日本独自の発展を遂げた学問や技術体系の一つや」

「ちょっと待って……こ、古代中国? 陰陽五行思想?」

 聞き慣れない単語がたくさん出てきたので、混乱してしまう。

「まぁ一言で説明するんも難しいんやけど、簡単に言うと、陰陽道は主に陰陽説と五行説っていう二つの思想が元になっとる。陰陽説は森羅万象(しんらばんしょう)、宇宙のすべてのものは陰と陽の対立する二つの気であり、すべての事象はこの気が作用することによって起こるって思想や。分かりやすいもんやと、夏と冬、男と女、火と水とかな」

「あぁ、陰(いん)と陽(よう)って、明るいものと暗いものですか」

「そうや。この二つは必ず対になって存在し、どちらか片方がなくなると成り立たへん。これが陰陽説や」

「うん……、それは何となく分かった、かな」

「で、五行説は気を〝木・火・土・金・水〟の五つの元素に分類し、その働きによって万物が生じるって説やな。
例えば身体やったら、眼・舌・口・鼻・耳の五つ。感情やったら怒・喜・思・悲・恐。色やったら、青・赤・黄・白・黒や。
難しく考えんでも、青やったら落ち着くとか、赤やったらやる気が出るとか、そういう漠然としたイメージはあるやろ?」

「はい、黄色だったら明るいとか?」

「あぁ、基本はそんな感じや。その陰陽五行説の考えに基づいて、陰陽師は遥か昔から、さまざまなことをしてきた。
例えば先読みの術を用いて将来を鑑定したり、吉日や吉方(えほう)、家相(かそう)を読んだりな」

「吉日……。今も、入籍するには大安とか、そういうのありますよね。何か、占い師みたいだ」

 榊原は静かに頷いた。

「そうや、占術も陰陽師の仕事の一つや。昔は天文学の研究をして、暦を作成したりもした」
「へぇ……」

「そしてもう一つの役割は、結界や式神を用いて、人々に災いをもたらすもの――つまり、鬼を退治することや」

 鬼という言葉に、いつも見る幽霊を思い出して、少し背筋が伸びる。

「難しかったか?」
「難しいけど、ほんの少しだけ、分かった気がします」

 榊原は真剣な顔つきで問いかけた。

「まぁ、御託(ごたく)はええわ。本題に入るか。どんなことで困っとるんや? と言っても、大体見当はついとるけど」

「あの日以来、しょっちゅうへんなのに追いかけられるんです」
「この間の、女みたいなやつやな?」
「そうです。あれって、一体何なんですか?」

 榊原は眉を寄せ、考えるような表情になる。真面目な顔も美形だ。

「一般的には、幽霊、悪霊。そう呼ばれているもんやな。
負の感情を抱いて死んだ人間は、やがて悪霊になる。この世への未練、嫉(そね)みや恨み。
悪霊の強い思いは、周囲を巻き込み、生きている人間にも災厄(さいやく)をもたらす。幽霊が見えるんは、昔からやないんか?」

「ああいうのを見たのは、あの日が初めてで」

「なるほど。じゃあ最近、年代物を貰ったり、購入したりせんかったか? 古いもの、大切にされているものには、特に人の情念が残りやすい」

 思考を巡らせたが、それらしいものは思い浮かばなかった。

「いや、特に思い当たるようなことは……」

 そう言ってから、もしかしてと思い、俺はずっと身につけている父の懐中時計を差し出した。

「これ、子供の頃から持っているものだから、違うかもしれないけど……。もし物が原因だとしたら、思い当たるのはこれかなって」
「ちょっと見せてもらうで」

 俺は素直に父の懐中時計を榊原に手渡した。
 榊原は目を細め、感心したように溜め息を漏らす。

「これはまた、ずいぶん高級な時計やな。これを、子供の頃から?」
「そうなんですか? 父親から譲り受けたものなんだけど」

 榊原はじっと俺の顔を見つめる。

「由緒正しい家の御曹司……には、どう逆立ちしても見えんなぁ」

 悪かったな。

「何か特別な記念日やったとか?」
「え? いや、全然。うちは一般家庭だし。貰ったのは十歳の時です。特に記念日ってわけでもなかったし」

 それを聞いた榊原は、神妙な顔つきで話し出す。

「志波、お前アブラアム=ルイ・ブレゲって知っとるか?」

 俺は首を横に振る。

「時計進歩の歴史を二〇〇年早めたとも言われる、天才時計技師や。
特に彼の発明したトゥールビヨン、ミニッツリピーター、パーペチュアルカレンダーは世界複雑三大機構と呼ばれて、現代の時計にも携わる根幹の機構なんや」

「へぇ……」

 榊原は何かを見ているわけでもないのに、滔々(とうとう)と話を続ける。博識な様子を少しかっこいいと思ってしまう。

「例えばトゥールビヨンやけど、簡単に言うと、重力分散装置なんや」
「じゅ、重力分散?」

 何だか難しそうな話になってきた。

「今でこそ時計と言えば、大抵の人間は腕時計を持ち運んどるけど、トゥールビヨンが開発された一八〇〇年代は、懐中時計が主流やった」

 榊原は俺の懐中時計を持ち上げる。

「この時計もそうやけど、懐中時計っていうんは、チェーンに吊して使用するスタイルが基本やろ?」
「そうですね」
「懐中時計はヒゲゼンマイで動いとるんやけど、このゼンマイを縦にすると、重力の影響を受けて、精度が乱れるんや」

「えっと……下方向につり下げると、時間がおかしくなるってことですか?」
「そうや。そこでこのヒゲゼンマイをゲージにいれて、つねにゼンマイの姿勢が変わるよう、一分間に一回転させ、重力を分散させる発明がトゥールビヨンなんや」
「へぇー」

 分かったような、分からないような。とにかく複雑な仕組みをしているんだな、と思った。

「そもそもブレゲがこの機構を作ったいきさつやけど、ある日ブレゲの元に、マリー・アントワネットから『時間とお金には糸目をつけないから、最高の時計を作ってほしい』という依頼が舞い込んでな」

「マリー・アントワネットって、あの、『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』って言った、マリー・アントワネット?」

「そうや。まぁその言葉は、彼女本人の言葉ではないという説もあるけどな。とにかく依頼を受けたブレゲは、持ちうる技術のすべてを組み込んだ懐中時計を完成させた。
時計の完成までに四十四年かかって、皮肉なことにマリー・アントワネットはその時計の完成を見届けることのないまま処刑されてもうたけどな」

 話に感心した俺は、懐中時計を指差した。

「もしかしてこの時計、その世界三大機構を使ってるんですか?」

「いや、マリー・アントワネットの時計、通称ナンバー一六〇と呼ばれてるけど、完全なレプリカを作ろうとすると、現代の技術でも三年は要するらしいで」
「三年……それくらい複雑で、難しい技術なんだ」

「そうやな。志波が持ってるこの懐中時計は、日本の時計会社が独自に開発した、ブレゲとはまったく関係のない代物や」

 何だ、関係ないんだ。俺は少しがっかりした。

「ただその時計は、マリー・アントワネットの時計への尊敬を込め、彼女をイメージしたデザインで、完成度の高さとデザインの美しさ、そして限定生産でもう二度と手に入らないということで、コレクターの間では大変な評判なんや」

 彼の博学に、俺は思わず唸ってしまう。

「よくそんなことを知ってますね。時計を専門に扱ってるわけじゃないんでしょう?」

「仕事柄、アンティークと呼ばれるものに関わる機会は多いからな。勉強しておいた方が、何かと便利なんや」

 そう言って、榊原は俺に懐中時計を返した。

「じゃあこの時計にも、それなりの価値があるってことですか? 父さんの時計だという認識しかなかったから、あまり考えたことがなかったな」

 榊原は顔を傾け、小さく頷いた。

「そうやな。市場価格だと、確か現在でも五〇〇万円前後で取引されとるんちゃうかな」
「ごひゃくっ……!?」

 俺は持っていた時計を落としそうになり、しっかりとチェーンを握りしめる。
 ずっと何気なく持ち歩いていたけれど、そんなに高級品だったのか!
 まったく知らなくて、思いっきり地面に落としたりしてた! というか父さん、そんな大変なものを、どうして子供の頃の俺にくれたんだろう。

「話が少しそれたな。鑑定に戻るけど、この時計のように、美しいもの、価値のあるもの、古いものには、さまざまな思いが宿りやすい」
「……思い?」

「あぁ。もちろん悪い感情ばかりやないけどな。好意もいきすぎると、悪影響を及ぼす。深い憎悪や欲望。強すぎる思いは、やがて悪霊や鬼に変わる」
「鬼……」

 俺を見ていた祖父の表情を思い出し、苦虫をかみつぶしたような気分になる。鬼のような顔、とも言えなくはない。

「この時計からは、なんや強い思念を感じるわ。今は時計を離れとるみたいで、時計を見ただけではどういう感情かまでかは分からんけど」

 強い思念。
 やはり、祖父は俺を憎んでいたのだろうか。だから自分が死んでなお、こうして俺の前に現れ、危害を加えようとしているのだろうか。

 正直、ショックだった。祖父との関係は、良好とは言い難かった。大声でケンカをしたこともある。祖父から好かれていないのは分かっていたが、まさか祟(たた)られるまで憎まれていたとは。

「それに、お前からも――」
「俺からも?」

 突然彼のひやりと冷たい手が、俺の頬にふわりと触れた。
 榊原がぐいっと顔を寄せて、俺の瞳を覗き込む。

 前から思ってたけど、この人たまに距離感がおかしくないか? それが不愉快じゃないのが、また複雑だった。

 澄みきった紫色の瞳に見つめられると、心臓をぎゅっとつかまれたような気持ちになる。

「お前から、やつらを引き寄せる力を感じる」

 彼の手が俺の肌に触れるたび、胸がバクバクと鼓動する。

「え、俺が……? まさか」
「気づいてなかったんか? もともと、潜在的な波長はお前の中に眠ってたんかもしれへん。その時計は、きっかけの一つにすぎん」

 榊原は俺から手を離し、再び時計を眺める。

「とにかく、時計についた霊が相当強い思いを持って、影響を及ぼしとるんは間違いないわ。このまま放置すると……、アカンことになるで」

「ほっておいたら、どうなるんですか?」

 榊原はきっぱりと言い切った。

「最悪、死ぬ」
「死ぬ!? あ、あれ、冗談じゃなかったんだ!」

 俺は榊原に助けてもらった時、もっとひどいことになると言われたことを思い出した。

「あぁ。おそらくこの時計が呼び水となって、次から次へと周囲の悪霊を引き寄せとるみたいやからな。放置すればおそらく数日で、志波の魂は悪しきものに囚われるやろ。ご愁傷さまやな」
「嫌だっ!」

 俺は思わずその場に立ち上がって叫ぶ。
 まさかそこまで重症だとは思っていなかった。死ぬと言う言葉を聞いて、一気に危機感が増す。

 死にたくない! まだ二十代なのに! 鈴芽だっているのに、今死ぬわけにはいかない!
 動揺のあまり、よろよろと後ずさりした、瞬間。

 足元にあった大きな何かを、ゴロンと思いきり蹴っ飛ばした。

「あ」

 丸くて大きな何か。それは、立派な飾り壺だった。
 壺は漫画のようにコロコロと畳の上を転がっていって、縁側から踏み石に向かって落ち、ガシャンと音を立てて、真ん中から綺麗に真っ二つに割れた。

「どうしてこんな割れやすい場所に壺が……」

 目が点になった。
 あの壺、最初からこんなに俺の近くにあったか?
 そもそも立ち上がったらすぐに割れる位置にあるなんて、何か作為的なものを感じる。

 とはいえ高そうな壺を割ってしまったことは、紛れもない事実だ。榊原に謝罪しなければいけない。
 きっとめちゃくちゃ怒られるんだろうな。
 そう考えて、彼の方に振り返り。

 想像以上に大変なことをしてしまったんだと気づく。
 ――榊原は、薄く微笑んでいた。

 やばい、どう見ても怒ってる。これ、多分本気で怒ってる顔だ。
 おそらく榊原は、本当に怒っている時は逆に表情を隠すために笑う性質なのだろう。

「うわー、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 頼むから笑わないで! その顔めっちゃ怖いから!」

 榊原はその壺に歩み寄り、大きな溜め息を吐く。

「アカン、完全に割れてもうてるわ。シバコロ、どう責任とんねん」
「シバコロって……え、もしかして、俺のこと?」
「当たり前やろ。お前以外にここに誰がおるっちゅうねん!」

 俺はおずおずと問いかけた。


「その、壺を割ったことについては申し訳ないと思ってます。……もしかしてその壺、高価なものなんですか?」

 榊原は壁にダンッと手を突いて、俺の逃げ場をなくし、あくまで静かに責める。人生初の壁ドンがこんなのなんて、嫌だなぁ。

「この壺はな、美術館にあってもおかしくない代物や。高価どころの騒ぎちゃうんやわ。さて、どう落とし前つけてもらおうかなぁ」

 固まっていると、部屋の向こうから誰かがケラケラと笑いながら近づいてきた。
 しかしえらく小さな人だ。俺たちの膝くらいの背丈しかない。子供にしたって、いくらなんでも小さい。

「ありゃりゃ、先生、もしかして本性出してしまったんですかー? 珍しいですなー。いつもお客さんの前では丁寧なのに」

 楽しげな声でそう喋ったのは、なんとキツネだった。
 しかも二足歩行で、服まで着ている。藍色の着物姿だ。
 キツネは、とてもかわいらしかった。もふもふの尻尾を携え、ちょこちょことこちらに歩み寄ってきた。

「キキキ、キツネが喋ってる!」

 俺が驚愕しながらそう言うと、榊原はくだらないというように吐き捨てる。

「そいつは俺の式神や。式神っていうんは、陰陽師が使役(しえき)する鬼神や」
「えっ、鬼? 神? キツネじゃなくて?」
「そこら辺説明すると長くなるから、とりあえずお手伝いさんやと思っとけばええわ。せやから喋るくらいする」

 飼い主(?)と違い、キツネはとても礼儀正しくお辞儀をする。

「初めまして、榊原先生の式神のもなかですー。よろしく頼んます」
「あっ、電話の人」

 もなかの独特の声を聞き、ここに電話した時のことを思い出す。

「あっ、そうどすそうどす。うちが電話番なんよ、分かってくれて嬉しいわー」

 もなかは俺に向かってそっと手を差し出した。握手、かな。
 俺はドキドキしながら、もなかの手をそっと握り返す。黄金色の毛は、ふわふわしていてやわらかい。それに肉球がぷにぷにだ。本当にキツネなんだ。
 俺がもなかとの握手を楽しんでいると、後ろから怖い人が顔を覗き込んでくる。

「そんなにキツネが好きなら、動物園で暮らしたらどうや? シバコロ、とにかく壺をどうすんや? この壺なぁ、年代物やから五〇〇〇万円くらいすんねん」

 五〇〇〇万円という金額に、頭が真っ白になる。

「うっ嘘だ、そうやって俺を騙そうとしてるんだ! 大体そんな大切な壺なら、裸のまま置いておかないでケースに入れるとかしまっとけばいいのに!」

「お前なんか騙してどうすんねん。あと責任転嫁すんなや。耳揃えてちゃんと返せや」

「いや、もちろん返すつもりだけど……五〇〇〇万円って、本当に? 少し負けてもらえたりしない?」

 金額が大きすぎて、現実感がちっとも湧かない。
 榊原は紫色の瞳をキラキラ輝かせ、にこやかに微笑む。
 やっぱり笑うと榊原はとびきり綺麗で、ぐっと言葉に詰まった。しかし今の榊原の背後には、性悪オーラが漂っていた。

「お前、俺の大切な壺割ったよなぁ?」
「それは、」
「割ったよな?」
「割りました」

 有無を言わせぬ口調だ。

「割ったけど、待ってください、無理です! もちろん、踏み倒すつもりはないです。けど、さすがにすぐには払えない。
そうでなくても、会社をクビになったばかりなんだ!」

 てっきり怒るかと思ったが、それを聞くと、榊原は嬉しそうに俺の肩を叩く。

「なんや、シバコロ君そんな大変なことになってたんか。ほんだら早よ言うてくれたらええのに、水くさいなぁ、俺とシバコロ君の仲やないか」

 仲って、この前会ったばっかりじゃん……。

「お前にええ仕事、紹介したろか?」
「本当!?」
「ほんまほんま。金返すあてがないと大変やろ?」
「それはそのとおりなんだけど……」
「俺のところで働いたらええやん」

 脳が思考する前に、即答していた。

「断る」

 賢明な判断だと思う。自分で自分を褒めてあげたい。
 その言葉を聞いた榊原から、笑みが消える。

「何でやねん。お前わりと霊感鋭いみたいやし、まぁ取り憑(つ)かれるだけで除霊とかはできんみたいやけど、ええやん。
打たれ強そうやし。俺のところで働けるなんて、光栄やろ」

「嫌だ、そんな適当な理由で雇われるのは嫌だ!」
「へぇ。ならいい不動産屋紹介したろか?」
「いや、家は売らないけど!? そもそもあそこを売ってしまうと住む場所がなくなるっ!」
「ダンボールって、重ねたら意外と丈夫やで?」

「人間としての尊厳をくれっ! 妹もいるんだ!」
「なら、腎臓って二つあるって知っとるか? 人体って、一個で十分やけど念のために二個ある器官がいっぱいあるんやで」

「腎臓も売らないっ! どの内臓も全部俺のものだ!」

 そう叫ぶと、榊原は面倒くさそうに溜め息を吐いた。

「分かった、しゃーないなぁ。じゃあとりあえず、その時計から売ろか」

 一瞬何を言っているのか理解できなかったが、父の懐中時計のことだと分かり、ぶんぶんと頭を振って断る。

「あんたには人間の血が流れてないのか!? これは俺の父が、俺のために遺してくれた、思い出の時計なんだ!」

「言うても、ただの時計やん。思い出はシバコロ君の胸の中にぎょうさん詰まってるやろ。さ、換金しよか」
「鬼! 悪魔! 人でなし!」

「じゃあ、どうするんや?」


 榊原の眉間に皺(しわ)が寄る。美男が怒ると、それだけで迫力がある。

「時計売らへんのやったら代わりに家売るか、内臓売るか、俺の下僕になるか、三択しかないわなぁ」

 そんな最低な三択、聞いたことがない。一生聞かないまま人生を終えたかった。
「それか、妹がおるんやったら、妹ちゃんに五〇〇〇万円、出してもらおうかな?」

 妹という単語を聞いた瞬間、血の気が引く。
「妹にまで集る気なのか!?」
「当たり前やん、家族は連帯責任負うもんやろ。大きな買い物する時って、連帯保証人になるやん。
俺は仕事した分の料金と落とし前だけは、どんな手使ってでも、絶対に回収するから、覚えときや」

 榊原の目は、本気だった。
 どう考えても、まっとうな人間の言いぐさではない。

「待っ、待ってくれ!」

 俺は榊原の腕をぐっとつかむ。
 榊原は宝石のような瞳で、じいっと俺を見た。

 それだけで、もうどんな抵抗をしてもこの男には一生勝てない気がする。
 俺は歯を食いしばり、観念して絞り出すように言った。

「……分かった、ここで……働く」

 榊原は勝ち誇ったように目を細める。

「偉そうやなぁ?」

「働きたい。働かせてください、榊原……さん、あなたのところで」

 その言葉を聞いた榊原は、天使のように微笑んだ。

「男に二言はないわな? せいぜい俺のために、一生懸命働いてもらうで」

 そう楽しげに笑う榊原を見て、頭がクラクラした。
 榊原は俺の肩をポンポンと叩く。

「大丈夫や、大船に乗ったつもりで任しとき。きちんと給料は払うから。
まぁそれと同じスピードで利息がついて、借金が増えていくんやけどな」

 さらっとやばい台詞(せりふ)を付け加える。これ、もしかして一生解放されないやつでは?

 どんな鬼よりも、悪魔よりも、借金取りよりもこの陰陽師の方がよっぽど性悪なんじゃないか。
 どうやら、大変な男に捕まってしまったようだ。