「これはまた、ずいぶん高級な時計やな。これを、子供の頃から?」
「そうなんですか? 父親から譲り受けたものなんだけど」

 榊原はじっと俺の顔を見つめる。

「由緒正しい家の御曹司……には、どう逆立ちしても見えんなぁ」

 悪かったな。

「何か特別な記念日やったとか?」
「え? いや、全然。うちは一般家庭だし。貰ったのは十歳の時です。特に記念日ってわけでもなかったし」

 それを聞いた榊原は、神妙な顔つきで話し出す。

「志波、お前アブラアム=ルイ・ブレゲって知っとるか?」

 俺は首を横に振る。

「時計進歩の歴史を二〇〇年早めたとも言われる、天才時計技師や。
特に彼の発明したトゥールビヨン、ミニッツリピーター、パーペチュアルカレンダーは世界複雑三大機構と呼ばれて、現代の時計にも携わる根幹の機構なんや」

「へぇ……」

 榊原は何かを見ているわけでもないのに、滔々(とうとう)と話を続ける。博識な様子を少しかっこいいと思ってしまう。

「例えばトゥールビヨンやけど、簡単に言うと、重力分散装置なんや」
「じゅ、重力分散?」

 何だか難しそうな話になってきた。

「今でこそ時計と言えば、大抵の人間は腕時計を持ち運んどるけど、トゥールビヨンが開発された一八〇〇年代は、懐中時計が主流やった」

 榊原は俺の懐中時計を持ち上げる。

「この時計もそうやけど、懐中時計っていうんは、チェーンに吊して使用するスタイルが基本やろ?」
「そうですね」
「懐中時計はヒゲゼンマイで動いとるんやけど、このゼンマイを縦にすると、重力の影響を受けて、精度が乱れるんや」

「えっと……下方向につり下げると、時間がおかしくなるってことですか?」
「そうや。そこでこのヒゲゼンマイをゲージにいれて、つねにゼンマイの姿勢が変わるよう、一分間に一回転させ、重力を分散させる発明がトゥールビヨンなんや」
「へぇー」

 分かったような、分からないような。とにかく複雑な仕組みをしているんだな、と思った。

「そもそもブレゲがこの機構を作ったいきさつやけど、ある日ブレゲの元に、マリー・アントワネットから『時間とお金には糸目をつけないから、最高の時計を作ってほしい』という依頼が舞い込んでな」

「マリー・アントワネットって、あの、『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』って言った、マリー・アントワネット?」

「そうや。まぁその言葉は、彼女本人の言葉ではないという説もあるけどな。とにかく依頼を受けたブレゲは、持ちうる技術のすべてを組み込んだ懐中時計を完成させた。
時計の完成までに四十四年かかって、皮肉なことにマリー・アントワネットはその時計の完成を見届けることのないまま処刑されてもうたけどな」

 話に感心した俺は、懐中時計を指差した。

「もしかしてこの時計、その世界三大機構を使ってるんですか?」