(こう)が依頼を受けてその町に着いたのは、ちょうど日が暮れようとしている頃だった。長屋の屋根は西から差す赤い光で染まっていた。しゃりしゃりと土をわらじで蹴って歩く音が行き交う。十に満たない子供が走っている。姉妹だろうか、二人の少女が持っている風車がからから回って通り過ぎていく。
 話し声や笑い声や買い物や夕飯の支度や家に帰る人、賑やかな中を広はぶつからずにするすると歩いていた。笠をくいと持ち上げて、辺りを見まわす。
(さて、こっちで合っているのだろうか)
 通りに沿って歩いていた彼は、目の前に川が現れてほっと溜息をついた。良かった、これで目処が立つ。橋の中央まで行くと柵を背にして立ち止まる。懐から一通の手紙を取り出すと、添えてあった手書きの地図をじっと見つめた。
(今ここにいるから、と)
 二度三度ひとりで頷いてから、手紙を畳んでしまう。それからまたよれよれとした紺色の羽織をなびかせながら歩き出した。小袖に股引、脚絆と、身に着けているものはどれもところどころほつれ、古びていた。もちろん羽織も然りだ。それは活気ある町にはやや浮いた存在になっていた。しかしそのみすぼらしい格好も、旅の者ならばと、なんら目を留める人もいない。
 暮れ時に流れる水面は、夕日を反射してきらきらと橙色に揺らめいていた。その川に沿って彼は進む。荷を積んだ船が一艘、広とは反対へ滑らかに去っていった。
 日が沈みきる前に、広はある大きな呉服屋に行き着いた。店先で通りを掃いていた小僧に声を掛ける。
「ご主人にお目通り願えますか」
 急にそう言われて、表を掃いていた小僧は驚き怪しみ広を眺めた。なんだこの薄汚れた男は。一体こいつはうちに何の用だろう。その視線に慣れていた広はにこりと柔和な笑みを浮かべて「これを」と懐の手紙を差し出した。
「これを受け取ったものが来た、と、伝えてください」
「はぁ」
 疑いを引きずったまま、小僧は一旦奥へ引っ込んだ。待つ間、腕を組んで小さな声で鼻唄を歌う。足元の土を蹴って暇を潰し、ふと思い出して笠を脱いで背に掛けた。それから夜が訪れ始めた東の空を眺め、まだ頑なに闇を拒む西の空に向き直る。一羽の烏が彼の視界を横切った。
 そこにちょうど小僧が戻っていた。「どうぞこちらへ」と、店先の暖簾を持ち上げる。
 軽く会釈をして店の中に入る。後から入って来た小僧が先に立って、奥の部屋へと広を案内した。
 おそらく何の用で彼がここに来たのか、主人からは告げられなかったのだろう。小僧からの背中には相変わらず広への訝しさがあった。けれど広はそれを気に留める様子もなく、廊下を眺めながら悠々と歩く。
 ある部屋の前で小僧が立ち止まり「こちらです」と襖を開けた。部屋に入ると、たん、と襖が後ろで閉まった。次いで小僧が離れていく足音がした。
 正面には、五六十代の白髪混じり男性が一人座っていた。難しい顔をしたこの家の当主の前に、広は座し丁寧に礼をする。
「ご依頼に預かりました。退治屋、広と申します。この度は、ご子息がかような出来事に巻き込まれましたことを深くお悔み申しますとともに」
「そのような前置きは結構、早く本題に入れ」
 主人は目を瞑ったまま広の言葉を遮り、端的にそれだけを言い放った。広はすっと姿勢を正す。
「ご容態はお手紙にて把握しております。早速ですが、直接ご様子をお診せください」
 主人は頷くと立ち上がり「こちらだ」と部屋を出て、広も後に続いた。日が落ちた後の廊下は、ひやりとした空気が支配していて薄暗かった。
 少し歩いた先にある襖をすっと開いて、二人はひとつの部屋に入った。その部屋に入ったとき、広は廊下よりも寒々しい雰囲気を感じた。全てがすっかりと締め切られていて、さらに日の当たらない部屋向きだ。暗い室内で行燈の中の小さな灯が、ゆらゆらと揺れている。
 その暗澹とした空気の真ん中に、布団が一組敷いてあった。誰かが入って来た音を聞きつけて、人影はのろのろと起き上がり二人の方を向いた。
 広は彼の前まで進み出ると、腰を落として視線を合わせ「失礼いたします。退治屋の広と申します」と声を掛けた。それに対して当主の息子――年は二十代前半、広と同じくらいだろうか――は、不思議そうな顔をして、ただぼんやりと広を見る。
「音は聞こえている」
 当主が話すと青年はそちらに顔を向ける。声に反応している様子を見て、広はなるほど、と思う。
「けれど言葉が一切通じない。それがここ十日近くこの様子だ」
 広は覗き込むようにして、青年の眼を見つめた。青年は突然現れた見知らぬ男に警戒しながらも、視線を逸らさずに座っていた。
「記憶もありますか」
「記憶?」
「話せないのは、丸きり全てを忘れてしまったせいか、はたまた言葉だけを忘れてしまったせいか」
 聴きながら、恐らく後者だろうということを広は察していた。父親が連れてきたのでなければ、怪しげな男の前に、静かに座してなどいないだろう。
「使用人が山中に倒れている息子を連れ帰って来るとき、肩を貸して歩いたが、特に迷う様子もなく家のある方へ向かったそうだ。日常的な所作は問題なく行う。記憶は元の通りあるように思えるが」
「そうですか」
 話しながら、広は青年の前に人差し指を立てて、左右に振った。指を追う彼の眼を広はじっと見る。
「文字は書けますか」
 男性からの返事が滞った。どうやら試していないようだ。広は懐から紙と筆を取り出すと、部屋の端にあった墨を拝借してすらすらと文字を書いた。
「お加減はいかがですか」
 書いた文字を声に出しながら、紙を青年に見せる。彼は差し出されたそれを受けとって眺めていた。筆を渡すとそれも受け取り、紙に筆先を当てる。
(お)
 しかしそれは格好だけで終わり、青年は文字の代わりに何か分からない黒い塊を、ぐるぐると描いて終わった。
「文字も分からないようですね」
「それで退治屋、どうなんだ」
 背中からする急かすような声に、広は「ええ」と相槌を打った。
「ご推察の通り、アヤカシに悪い念を掛けられたようです。確かに言葉を奪い取られ、同時に体も弱っているようですね」
 会話を解せず、何も述べず、文字も書けず。青年の瞳の奥に見えた淀みは、まさしくアヤカシに憑かれた証しだ。
「そんなことは分かっている」
 苛立った様子で男は言った。
「これでもう退治に出られるのか」
「そうです、ね」
 広は少し考えてから男性に向き直った。
「場所を変えてお話ししましょう」