「じゃあさ……あのタンクで意識を分離できるとして……」
「できるんじゃ!」
「はいはい。……で、その分離した意識を、どうやってミラージュワールドに放り込むわけ?」
花音の質問に再び、ふふんと得意げに鼻を鳴らす佐枝子さん。
続いて手元の操作盤のスイッチを一つ押すと、ブォンという起動音と共に、目の前のガラスに文字や図形が浮かび上がる。
なにこれ?
「このガラス、文字なんて映せたんですか!?」
「ん? 咲々芽は初めてだったかの? 透明有機EL内臓の特殊強化ガラスじゃ。ちょっと前に導入したのじゃ」
「へー……なんのためにです? まさか、レクチャーのためでもあるまいし」
「いや、レクチャーのためじゃよ。三月ごろにタンク増設の指示があったじゃろ? あのときに、新人でも入れるのかと思って一緒にな」
どうじゃ、カッコイイじゃろ! と、嬉々として私たち三人をぐるりと一瞥する佐枝子さん。交換費用は八百万円ほどだったらしい。
とんだ無駄遣いだ。
「……よく、申請通りましたね」
「ん? うん、まあ……申請には、あることないこといろいろ書くからの……」
「ないこと書いちゃだめでしょ!」
さらに佐枝子さんが、白衣の両袖をたくし上げながら操作盤のキーボードを叩き始めると、ウィンドディスプレイに赤や青の矢印が次々と表示されてゆく。
「佐枝子ちゃん……その白衣、サイズが合ってないんじゃない?」
上げては落ち、上げては落ちする白衣の両袖を眺めながら、花音が呟く。
「誰が〝ちゃん〟じゃ! 佐枝子さんと呼べ!」
「小学生相手に敬称はちょっと……」
「二十八じゃ!」
一向に話が先に進まない。
「子供用の白衣もあるんデスけどね。佐枝子さん、頑なに着ないんデスよ」
「な! なにが子供用じゃ! そんなものを着て仕事に集中できるか! まずは何ごとも形からじゃ!」
ぼやくビリーにキッと鋭い視線を向けながら、佐枝子さんが私たちの方へ体を向けなおす。
「さて……面倒だから簡単に説明するが――」
結局、佐枝子さんも簡単に説明するんじゃん。
ただ単に、ウインドディスプレイを使いたかっただけなのね……。
「先ほど人の意識を分離する、とは言ったが、物質から精神を分離するというのはどういうことか分かるかの?」
「わかりませ~ん!」
「即答じゃの……。ちょっとは考えたらどうじゃ?」
呆れたように花音を流し見ながら、「質問を変えよう」と、佐枝子さんが再び説明を続ける。
「人の脳の大半はタンパク質と血液と水じゃ。でも、不思議だとは思わんか? なぜ、タンパク質と血液と水が物を考える? なぜ人の脳だけが言葉や言語を理解し、抽象概念を作り出すことができる?」
「佐枝子先生! 抽象概念ってなに?」
「そこからか!」
さらに呆れた表情で、花音を見下すように見上げる佐枝子さん。
ほんと、一向に話が先に進まない。
「まあいい。結果から言おう。人の脳の進化……物質と精神の理論跳躍を説明するのが、お前たちも聞いたであろう?〝霊子〟じゃ」
言いながら、佐枝子さんがウインドディスプレイを指差す。
その先に表示されているのは〝Vanessa〟と表記された四角いマーク。人の意識とリンクできるスーパーコンピューターだ。
「しかし、粒であり同時に波である素粒子は、時間空間的把握が不可能……簡単に言えば、位置と運動量を同時に測ることができないのじゃ。もちろん、霊子も――」
「佐枝子先生! 全然簡単に言えてないと思うんですけどぉ!」
再び手を挙げて佐枝子さんの説明を遮る花音。
まったくこのバカ娘は……と、佐枝子さんが眉根を寄せた直後、「ハイゼンベルクの不確定性原理……」と呟いたのは――、
手嶋さんだ。
「そうじゃ! これだけ二人の知識に差があると説明も難しいのぉ……。馬鹿にも分かるように言うなら、霊子はどこにあるのか分からない、ということじゃ」
「初めからそう言えばいいんだよ、佐枝子先生」
「言ってるんじゃよ、さっきから!」
佐枝子さんが、ハア……と大きく溜息をつく。
「少し話は変わるが〝ラプラスの魔〟という言葉を知っておるかの?」
「確か……十八世紀の物理学者、シモン・ラプラスが唱えた架空の存在ですよね。全物質の位置と運動量を知ることができるような知性という……」
「うむ」
手嶋さんの答えに、佐枝子さんが満足そうに深く首肯する。
「彼の論じた因果的決定論は、量子物理学が台頭した今日では古い概念となってしまったが、しかし、彼が唱えた架空の超越的な存在が現代日本に現われ――」
「あ~、はいはい、それが環さん?」
チィッ、と、佐枝子さんの大きな舌打ちが響く。
「花音はまた、人の決め台詞をよくもぬけぬけと……」
「だって……そこに書いてあるもん」
花音が指差したウインドディスプレイには確かに、Vanessaと書かれた図形と線で結ばれて〝Tamaki Asukai〟と表示されている。
「し、しまったのじゃ! 説明のあとに表示させるはずだったのに、打ち間違えたのじゃ!」
振り返った佐枝子さんが、慌てて操作盤のキーボードを打ち始める。
……が、たくし上げていた白衣の袖がずり落ちて手元が狂ったのか、さらに様々な文字や記号が画面に表示される。
「し、しまったのじゃ! また間違えたのじゃ! ……え――い、この白衣、邪魔じゃっ!!」
あ~あ、言っちゃった。
「できるんじゃ!」
「はいはい。……で、その分離した意識を、どうやってミラージュワールドに放り込むわけ?」
花音の質問に再び、ふふんと得意げに鼻を鳴らす佐枝子さん。
続いて手元の操作盤のスイッチを一つ押すと、ブォンという起動音と共に、目の前のガラスに文字や図形が浮かび上がる。
なにこれ?
「このガラス、文字なんて映せたんですか!?」
「ん? 咲々芽は初めてだったかの? 透明有機EL内臓の特殊強化ガラスじゃ。ちょっと前に導入したのじゃ」
「へー……なんのためにです? まさか、レクチャーのためでもあるまいし」
「いや、レクチャーのためじゃよ。三月ごろにタンク増設の指示があったじゃろ? あのときに、新人でも入れるのかと思って一緒にな」
どうじゃ、カッコイイじゃろ! と、嬉々として私たち三人をぐるりと一瞥する佐枝子さん。交換費用は八百万円ほどだったらしい。
とんだ無駄遣いだ。
「……よく、申請通りましたね」
「ん? うん、まあ……申請には、あることないこといろいろ書くからの……」
「ないこと書いちゃだめでしょ!」
さらに佐枝子さんが、白衣の両袖をたくし上げながら操作盤のキーボードを叩き始めると、ウィンドディスプレイに赤や青の矢印が次々と表示されてゆく。
「佐枝子ちゃん……その白衣、サイズが合ってないんじゃない?」
上げては落ち、上げては落ちする白衣の両袖を眺めながら、花音が呟く。
「誰が〝ちゃん〟じゃ! 佐枝子さんと呼べ!」
「小学生相手に敬称はちょっと……」
「二十八じゃ!」
一向に話が先に進まない。
「子供用の白衣もあるんデスけどね。佐枝子さん、頑なに着ないんデスよ」
「な! なにが子供用じゃ! そんなものを着て仕事に集中できるか! まずは何ごとも形からじゃ!」
ぼやくビリーにキッと鋭い視線を向けながら、佐枝子さんが私たちの方へ体を向けなおす。
「さて……面倒だから簡単に説明するが――」
結局、佐枝子さんも簡単に説明するんじゃん。
ただ単に、ウインドディスプレイを使いたかっただけなのね……。
「先ほど人の意識を分離する、とは言ったが、物質から精神を分離するというのはどういうことか分かるかの?」
「わかりませ~ん!」
「即答じゃの……。ちょっとは考えたらどうじゃ?」
呆れたように花音を流し見ながら、「質問を変えよう」と、佐枝子さんが再び説明を続ける。
「人の脳の大半はタンパク質と血液と水じゃ。でも、不思議だとは思わんか? なぜ、タンパク質と血液と水が物を考える? なぜ人の脳だけが言葉や言語を理解し、抽象概念を作り出すことができる?」
「佐枝子先生! 抽象概念ってなに?」
「そこからか!」
さらに呆れた表情で、花音を見下すように見上げる佐枝子さん。
ほんと、一向に話が先に進まない。
「まあいい。結果から言おう。人の脳の進化……物質と精神の理論跳躍を説明するのが、お前たちも聞いたであろう?〝霊子〟じゃ」
言いながら、佐枝子さんがウインドディスプレイを指差す。
その先に表示されているのは〝Vanessa〟と表記された四角いマーク。人の意識とリンクできるスーパーコンピューターだ。
「しかし、粒であり同時に波である素粒子は、時間空間的把握が不可能……簡単に言えば、位置と運動量を同時に測ることができないのじゃ。もちろん、霊子も――」
「佐枝子先生! 全然簡単に言えてないと思うんですけどぉ!」
再び手を挙げて佐枝子さんの説明を遮る花音。
まったくこのバカ娘は……と、佐枝子さんが眉根を寄せた直後、「ハイゼンベルクの不確定性原理……」と呟いたのは――、
手嶋さんだ。
「そうじゃ! これだけ二人の知識に差があると説明も難しいのぉ……。馬鹿にも分かるように言うなら、霊子はどこにあるのか分からない、ということじゃ」
「初めからそう言えばいいんだよ、佐枝子先生」
「言ってるんじゃよ、さっきから!」
佐枝子さんが、ハア……と大きく溜息をつく。
「少し話は変わるが〝ラプラスの魔〟という言葉を知っておるかの?」
「確か……十八世紀の物理学者、シモン・ラプラスが唱えた架空の存在ですよね。全物質の位置と運動量を知ることができるような知性という……」
「うむ」
手嶋さんの答えに、佐枝子さんが満足そうに深く首肯する。
「彼の論じた因果的決定論は、量子物理学が台頭した今日では古い概念となってしまったが、しかし、彼が唱えた架空の超越的な存在が現代日本に現われ――」
「あ~、はいはい、それが環さん?」
チィッ、と、佐枝子さんの大きな舌打ちが響く。
「花音はまた、人の決め台詞をよくもぬけぬけと……」
「だって……そこに書いてあるもん」
花音が指差したウインドディスプレイには確かに、Vanessaと書かれた図形と線で結ばれて〝Tamaki Asukai〟と表示されている。
「し、しまったのじゃ! 説明のあとに表示させるはずだったのに、打ち間違えたのじゃ!」
振り返った佐枝子さんが、慌てて操作盤のキーボードを打ち始める。
……が、たくし上げていた白衣の袖がずり落ちて手元が狂ったのか、さらに様々な文字や記号が画面に表示される。
「し、しまったのじゃ! また間違えたのじゃ! ……え――い、この白衣、邪魔じゃっ!!」
あ~あ、言っちゃった。