MIRAGE WØRLD ~不可侵域のラプラス~

 通路の奥に突如広がるエレベーターホール。
 ……というほど広くもないのだけど、廊下の閉塞感から開放された直後なのと、エレベーターの入り口が一機分しかないことが、実際以上に広く感じさせる。

「エレベーターって普通、もう少し玄関の近くにない?」

 花音(かのん)が、相変わらず白々とした空間を見回しながら尋ねる。

「そもそも研究棟は平屋造りだからね。エレベーターは後付けらしいよ」
「ふ~ん……って、駐車場にいくの!?」
「駐車場?」

 花音の視線の先をたどると、エレベータードアの上に並んでいる〝1F〟と〝P〟の文字パネル。

「その〝P〟はparking(パーキング)じゃなくてParabola(パラボラ)の〝P〟デスね」

 エレベーターのボタンを押しながらビリーが答える。

「ああ、なるほど。屋上の、アンテナのことね」
「この研究所が開設されたのは2000年代に入ってすぐデスが、上のパラボラは2010年の秋に運用開始デスからね。エレベーターもその頃に架設されたのでしょう」

 ビリーもここにきてまだ二、三年のはずなのに、すらすら年代まで(そら)んじられるなんて――

「やけに詳しいんだねぇ、ビリー」

 私と同じ感想を持ったのか、()めつ(すが)めつ周囲へ飛ばしていた視線を、再びビリーへ戻す花音。
 いや……、花音はビリーの就任時期なんて知らないし、ただたんになんとなく質問しただけかな?

「ん~、詳しいというほどじゃないデスが、2010年はこの研究所にとっても大きなプロジェクトのあった年デスからね」
「大きな、プロジェクト?」
「はい。アメリカ同時多発テロ事件からピッタリ九年後の、2010年九月十一日……と言えば、お分かりデスか?」

 ビリーの口角(こうかく)がキュッと上がる。何かを試すような笑顔。
 少しのヒントで相手の知識を試したがるのは、頭の良い人の特性?
 その時、ああ!と、何かに思い当たったように吃驚(きっきょう)したのは手嶋さんだ。

「もしかして……種子島の?」
「おお! 日付だけでそれを言い当てるとは、素晴らしいデスね、雪実!」

 驚いたように、しかし嬉しそうに胸の前で両手を合わせるビリー。
 そんな彼の様子を見て、すかさず花音も相槌を打つ。

「あ、ああ! なるほどなるほどぉ……あれのことか! 鬼ヶ島(・・・)の!」
「桃太郎か! ……種子島だよ、た・ね・が・し・ま」
「じょ、冗談よ! し、知ってるし、種子島くらい! あ……あれでしょ? あれが伝わってきたんだよね……」
「あれ?」
「あれよ、あれ……キリスト教的な……」
「的、ってなによ……。っていうか、2010年じゃ遅すぎるでしょ、キリスト教!」

 いや、まてまて。そもそも種子島って言えばキリスト教じゃなくて鉄砲伝来だし!
 後ろで、プッと手嶋さんが吹き出す。
 花音のせいで、またおバカなトークを披露してしまったじゃん……。

「じゃ、じゃあ、咲々芽(ささめ)は、何があったか知ってるの? 種子島!」

 実は私も、ビリーから日付を聞いた段階ではまだピンときてなかったのよね。
 手嶋さんが〝種子島〟を出してくれたおかげで気づけたんだけど――

「と、当然、知ってるわよ。種子島って言えば、誰でも知ってるような大きな施設があるでしょう。超有名なやつ」
「知らないよ。そんな島に、何があるのかなんて……」
「ほら、最近もニュースでやってたじゃない。探査機の衝突装置で、小惑星にクレーターを作ったとかなんとか……」
「ああ――っ! もしかして、あれ? ロケット打ち上げの! ……ジャックス!!」
JAXA(ジャクサ)だっつ~の……」

 そう、誰もが知ってる大きな施設――JAXAの種子島宇宙センターだ。
 毎年数回のロケット打ち上げが行われ、その成功率はH2Aロケットで九十七%以上、H2Bでは百%(※)と、日本の高い技術力を遺憾なくアピールしている。
(※本作執筆時の令和元年五月のデータを基にしています)

 そして、2010年九月十一日に打ち上げられた、この研究施設にも関わりの深い衛星と言えば……そう、あれ(・・)に違いない。

 それにしても手嶋さん、日付を聞いただけで種子島を思いつくってことは、当然、その日に何が打ち上げられたのかも知ってるってことよね。
 屋上のパラボラと関連付けて思い当たったんだとしても、予想以上に博識だわ。

「それではみなさん、乗って下さい」

 先にカゴ室に入ったビリーの指示を受けて、ホールに残っていた私たちもエレベーターに乗り込む。扉が閉まると同時に、表示灯に上向きの矢印が点灯した。
 私たち六人を乗せて、カゴ床がゆっくりと浮き上がる。

 通常の建物であれば、たっぷり三~四階は上昇するくらいの時間をかけて、表示灯のランプが〝1F〟から〝P〟へ。
 比較的低速なエレベーターというのもあるが、研究棟(パビリオン)自体も、平屋にしてはかなり天井の高い造りなのだ。
 再びエレベーターの扉が開く。

 外は、一階同様、白を基調としたエレベーターホール。
 ただし、広さは四畳半程度。狭い。

 正面に、飾り気の無い片開きのドアが二つ。
 一方にはexitus(出口)、もう一方にはentrance(入口)、さらにその下には括弧書きでcrean room(クリーンルーム)と記されている。

「行きましょう」

 ビリーが入り口のドアを開けた直後、暗かったドアの向こう側で、オレンジ色のマーカーランプが一斉に点灯した。

「なになに?」

 ドアを押さえるビリーの横をすり抜けながら、物珍しそうにきょろきょろと視線を振る花音。
 全員が入り終わったところでビリーがドアを閉める……と同時に、天井から勢いよく大量の空気が吹き込んできた。
 超高性能エアフィルタを通して送られてきた外気が、気流のシャワーとなって室内の塵埃を除去していく。

 うひゃ――っ!と、花音がはためく制服のスカートを両手で抑えるが、一方向流式のクリーンルームなのでスカートが捲れることはない。

「!!」

 その隣で、手嶋さんも慌てて帽子(キャップ)を押さえる。
 二十秒ほどのエアシャワーののち――

「おっけーデ~ス!」と言いながら、いつの間に移動したのか、クリーンルームの出口を開けて外へ出るビリー。続いて、環さんと周くんも外へ。
「もぉ~! ひとこと言ってよビリィ~」と、頬を膨らませながら、花音も続く。
sorry、sorry(ソーリーソーリー)
「あ~、なんで半笑い? もしかして確信犯(・・・)だなぁ~、ビリー!」

 半分じゃれるように文句を言う花音の後ろから、「それ、誤用ですよ」と指摘しながら続く手嶋さん。最後に、私も外へ。

 というよりも――
 ここが、目的地の研究室(ラボラトリー)だ。
 ここが、目的地の研究室(ラボラトリー)だ。
 これまでの白亜の色彩からはうって変わって、藍色を基調とした、やや薄暗く感じられる室内。
 約二十メートル四方のラボラトリーの中心には、五メートルほどの高さの天井まで届く炉型の機械が設置されている。

霊子同調炉(SSR)〟だ。

 天井にはLEDの室内照明もあるが、ほとんどいつも使われていない。
 代わりにぼんやりと研究室内を照らしているのは、霊子同調炉(SSR)や壁際の操作盤上に並ぶ、計器やパネルの電光表示が放つ淡い光。
 さながら、SFアニメなどでよく見られる宇宙戦艦の操縦席のような、近未来感の溢れる佇まい。

 奥の壁にはモニタリング用の大きなガラスがはめ込まれていて、そこから漏れてくる隣室の明かりも、こちらの室内の照度を高めている。

 そしてもう一つ、室内照明の役割を果たしているのが、左の壁際に天井から吊り下げられて設置されたオブジェ――

「でっかぁ――い! なにこれ!?」

 人工衛星の模型(レプリカ)だ。
 花音(かのん)が、クリーンルームを出るとすぐに、間接照明の中に浮かび上がったそのオブジェに向かってパタパタと駆け寄る。

 二分の一スケールだけど、それでも太陽光パドルの両翼端間は十メートル超。
 本体部分は高さ約三メートル、幅約一.五メートルの直方体。もちろん、実物はその倍だ。
 下部には、各種アンテナやレーザーリフレクタなどが見て取れる。

「それがさっき、2010年に打ち上げられたって話してた――」
「あ~~、言わないで! あたし、知ってる! あれでしょ? えっと、スズメだったか、カラスだったか……」

 やけに庶民的な鳥になったわね。

「ハヤブサ、って言いたいの?」
「そうそう、それ! ……って、言わないで、って言ったじゃん! もうちょっとで思い出せそうだったのに!」
「スズメやカラスから? そもそもこれ、ハヤブサでもないけどね?」
「え? そうなの? だってさっき、クレーターを作ったとかなんとか……」

 ああ、なるほど。さっき私が話した小惑星探査機の話から繋がってるのか。
 それが鳥の名前だと知っていたのは、花音にしては上出来だったけど。

「さっきのは単に、たまたまテレビで見たJAXA関連のニュースの話をしただけ。この衛星の名前は、え~っと――」
「準天頂衛星初号機〝みちびき〟」

 私の後ろでそう呟いた声の主は……手嶋さん!?
 振り向くと、人工衛星のオブジェを見上げながら、眼鏡の奥でこれまでにないほど瞳をキラキラと輝かせた彼女の姿が目に留まる。

「そ、そう、それ……。よく知ってるね、手嶋さん」

 まあ、2010年九月十一日という日付からロケット打ち上げを言い当てたくらいだし、何が打ち上げられたのかだって当然知ってるよね。

「日本独自の衛星測位システムを担う準天頂衛星みちびき。開発費四百億を投じた初号機がH2A十八号機で打ち上げられたのが、2010年九月十一日……」

 ほんと、よく知ってるなぁ、手嶋さん……。

「当初は2009年度中に打ち上げ予定だったのが、原子時計の調達や姿勢制御装置の不具合によって2010年に延期、2017年にJAXAから内閣府に運用を移管され……」
「ご、ごめん……人工衛星オタク!?」
「ああ、えっと、昔から宇宙とか海底とか遺跡とか、そういうの大好きで……」

 宇宙と海底と遺跡……。関連が、あるような、ないような……。

「ああ――……、そっかそっか、それがあったかぁ! みちびきね、みちびき。なにかこう、あれよね、いろいろ、導くやつ……」

 花音がまた、やけにふんわりとした……というよりも、ないに等しい知識レベルで相槌を打つ。
 これまでの会話から、この方面で手嶋さんと張り合っても無駄だってことが分からないところが、花音の花音たる所以なんだろうな。

「でも、QZS(準天頂衛星)はGPS(米衛星測位システム)の信号と組み合わせることで国内での測位精度を上げる……いわゆる国家プロジェクトですよね?」

 手嶋さんの淀みない質問。
 人工衛星のことになると、こんなにも饒舌(じょうぜつ)になるのか。

「う、うん……まあ、そう、かな?」
「それがなぜ、飛鳥井(この)研究所にかかわりのあるプロジェクトなんですか? なにか、技術供与でもしたんでしょうか?」
「わ、私もそこまでは詳しく知らないけど……何か、あったみたいよ、いろいろと」
「あやふやだなぁ、咲々芽(ささめ)は」

 花音が小バカにしたように鼻を鳴らす。

花音(あんた)が言うな! 確か、何かを用意したとかなんとか……」
「何かって、何です?」

 手嶋さん、すごい食いつき方ね!
 もう、琢磨(おとうと)くんの件、すっかり忘れちゃってない!?

 私が困ったように首を回すと、拳で口を押さえてニヤニヤ笑っているビリーと目が合う。
 さてはビリーめ、私を試して楽しんでるな? 性格悪っ!
 (たまき)さんと(あまね)くんも、霊子同調炉(SSR)の前でノートパソコンを広げながらなにやら話しこんでいて、こちらには気づいていない。

「なんだったかなぁ……なにか大事な部品を用意したとかなんとか……」
「部品や技術が提供された国や民間団体のリストは一通り目を通したことはありますけど、飛鳥井研究所という名前に記憶はないんですが……」

 これだからオタクってやつは!

「原子時計じゃ」

 不意に、室内に響く女性の声。
 この声は――!?

 顔を向けると、隣室の入り口からこちらへ向かって歩いてくる白衣を着た女性の姿。
 ……とはいえ、百五十センチにも満たない背丈は、その出で立ちとはあまりにもアンバランスに映る。
 いや、ソールが十センチはありそうな厚底パンプスを見る限り、実際の身長は百四十センチ未満だろう。十歳くらいの女の子の平均身長がだいたいそれくらいだ。

 (とか)された様子もない、鳥の巣のように(もつ)れあった柿色のセミショートは、女児……というよりもむしろ、粗雑(がさつ)な中年女性を思わせる。
 唯一、研究所員であることを証明している白衣の裾は、まるで緞帳(どんちょう)のように、床に引き摺らんばかりの位置にまで垂れ下がっていた。

 近づくにつれはっきりと見えてきた彼女の表情も、体つきと同じく幼く見える。
 声質も若い女性のそれだ。……が、しかし――

「本来は2009年に前倒しで調達できるはずじゃった原子時計が、計画が狂って四年ほど遅れることになったのじゃ。それを一年に短縮できたのが――」

 その口調と淀みのない説明は、大人の女性研究者を彷彿とさせるには十分なものだった。いや、むしろ、ババくさいとも言える。
 物珍しい生き物でも見るかのように、ポカンと口を空けている手嶋さんと花音に向かって、さらに白衣の女性が言葉を繋ぐ。

「……一年に短縮できたのが、飛鳥井家の口利きだったというわけじゃ。その見返りとして当研究所は〝みちびき〟に、とある物を搭載する許可を得たのじゃよ」
「…………」「…………」
「もっとも、前倒し調達を裏で頓挫させたのも実は飛鳥井家の仕業という噂も――」と続けられる説明の途中で、手嶋さんと花音がほぼ同時に呟く。

「のじゃロリ……」「ロリババア……」
「誰がロリババアじゃ!」

 両手を振り回してプンスカと怒りだしたのは、もちろん、白衣の女性――
 佐枝子(さえこ)さんだ。
「誰がロリババアじゃ!」

 両手を振り回してプンスカと怒りだしたのは、もちろん、白衣の女性――
 佐枝子(さえこ)さんだ。

「おまえか!」と、手嶋さんを指差す佐枝子(さえこ)さん。
「い、いえ、違います、私はえっと……のじゃロリの方……」
「じゃあ、そっちっか!」
「う、ううん。あたしも、のじゃロリって……」

 花音(かのん)も慌てて誤魔化す。
 まあ、ああ見えて佐枝子さんも、言うとほど怒ってないんだけどね。
 あの見た目だし、基本的にこの手の感想には慣れているらしい。
 ふんっ、と大きく鼻を鳴らして二人を一瞥してから、再び佐枝子さんが口を開く。

「言っておくがおまえら……のじゃロリだったらセーフみたいな空気を出しておるが、それだって十分失礼じゃからな!? 勘違いしてもらっては困るぞ!?」
「す、すいません……」
「ごめんなさ~い」

 深々と頭を下げる手嶋さんの隣で、花音も軽く会釈をする。
 ったく誰がのじゃロリじゃ……とブツブツ言いながらも、それ以上説教を続けることもなく人工衛星(レプリカ)の方へ向き直ると――、

「当時は日本も政権交代直後でな。事業仕分けなんてやっとる一方で、それなりの人気取りイベントも欲しいという与党の思惑もあり、こちらの要求もすんなり――」

 説明を続ける佐枝子さん。
 そういえば佐枝子さんもオタク気質なんだよなぁ。
 とにかく、好きなことについて語る時間は何よりも優先する、というのがオタク道なのかもしれない。

「とりあえず佐枝子さん、先にお互いの紹介を済ませませんカ? 一応、今日のオペレーションに関わる子たちかもしれないデスし……」
「ん? どうしたビリー? ちゃんと仕事なんかしおって」
「ちゃんと仕事して下さいよ」

 佐枝子さんの前だと、さすがのビリーも常識人に見える。

「ったく、仕方がないのう。じゃあビリー、さっさと済ませてくれ」

 佐枝子さんが、名残惜しそうに人工衛星(レプリカ)を見やりながら、体だけを私たちの方へ向ける。……子供か!

「ハイハイ。え~っと、こちらの二人は先々芽(ささめ)さんの同級生で、手嶋雪実(ゆきみ)さんと矢野森花音さんデス」

 フルネームは最初のエントランスでサラッと聞いただけのはずなのに、淀みなく二人を紹介する。さすがはオックスフォード!

「で、こちらがこの研究室(ラボ)の主任、亮部(すけべ)佐枝子さんデウガァッ!!」

 紹介の途中で突然、悲鳴をあげるビリー。
 気が付けば佐枝子さんの、電光石火の回し蹴りが彼の太ももを蹴り上げていた。

「名字は言わんでもいいと、いつも言ってるじゃろうがっ!」
「イタタタ……。そうはいっても、初対面なのにファーストネームだけ、ってわけにもいかないでしょう?」
「いくじゃろ! 本当の紹介ってわけでもあるまいし」
「いや、本当の紹介デスけど……」
「そもそもじゃ。自己紹介形式にすればよかったんじゃ!」
「そうは思いましたけど……ボクにやれって言ったの、佐枝子さんデスよね」

 ちょっといい? と、ずっとウズウズしていた花音がついに会話に割って入る。

「漫談中、ごめんなさいね」
「どこが漫談じゃ!」
「え―っと、佐枝子ちゃんって、何年生なの?」
「さ、佐枝子ちゃ……、何年って……」

 佐枝子さんの唇がわなわな震えだしたかと思った次の瞬間、「ア―ウチッ!」と、再びビリーの叫び声が室内に響いた。
 電光石火の小枝子キック。

「に、二十八じゃ二十八! 前もって言っておかなかったのか、ビリー!?」
「イタタタタ……すいません、ボクもてっきり、咲々芽が教えてるものかと……」

 そういえばすっかり忘れてた。
 佐枝子さん、見た目はせいぜい十歳ちょいくらいだからなぁ。それが二十八歳って、もしかすると環さんが男だっていうより衝撃が大きいかも。

 隣を見ると、案の定、ポカンと口を空けて佐枝子さんを見つめる花音と、その隣には……あ、あれ? やけに目をきらきらと輝かせている手嶋さん。
 人工衛星のときと同じように、かなりときめいているように見えるけど……。

「だ、だって……見た目はどう見ても、小学生……」

 まだ、驚きも冷めやらぬ……といった様子で、口が半開きのままの花音。
 そんな彼女を見上げながら、佐枝子さんが大きく溜息を()いて舌打ちする。

「まったく、仕方がないのう。……思春期早発症という病は知っておるか?」
「ししゅんきそうはつしょう?」
「そうじゃ。普通の子供よりも数年早く思春期を迎えてしまう病じゃが、子供のころ、わしもそれを発症したのじゃ」
「えっと……ってことは、普通より早く性徴が見られるんだし、他の人より体も大きくなりそうじゃない?」
「逆じゃ」

 私も以前、佐枝子さんから聞いたことがある。
 思春期早発症を発症すると、早期に体が完成してしまうため、一時的に身長が伸びたあと小柄のままで身長が止まってしまうらしい。
 佐枝子さんのように身長だけでなく、肌や顔つきなどあらゆる見た目が児童のまま止まってしまうというのは、非常に珍しいらしいということだったけど。

「なるほどねぇ~」

 佐枝子さんの話に納得したように、コクコクと何度も頷く花音。

「ってことは、不老不死?」
「……花音(こやつ)は、バカか?」

 佐枝子さんが花音を指差しながら、両目を(すが)めて私の方を見る。
 初対面の相手に相当不躾(ぶしつけ)な態度だけど、よくよく考えればそれをさせる花音の態度も大概よね。

「佐枝子さん、それはさすがに……」失礼では?と(たしな)めるビリーに目を向けることもなく、「作用反作用の法則じゃ」と呟いて人工衛星(レプリカ)に向き直る佐枝子さん。

 その様子を見ながら、

「初めて見ました……リアルロリババア……」

 相変わらず昭和の少女マンガのような瞳で、手嶋さんが(ささや)く。
 え? もしかして〝ロリババア〟って言ったの、手嶋さんの方!?
 宇宙、海底、遺跡……に並んで、ロリババアも新たに追加。
 さすが小説執筆が趣味ってだけあって、マニアックな方面にも造詣が深そうね。
 いわゆる、サブカル女子ってやつ?

「話がそれたが……まあ、そういうわけで、この研究所が〝みちびき〟に搭載するよう求めた装置が――」
「ああ、佐枝子さん。もう、準備は終わったんですか?」

 再び、誰かが彼女のサテライト講義を遮る。声の方を見やると――
 艶やかな、微笑みらしきものを浮かべた環さんが歩いてくるのが見えた。
「ああ、佐枝子(さえこ)さん。もう、準備は終わったんですか?」

 再び、誰かが彼女のサテライト講義を遮る。声の方を見やると――
 艶やかな、微笑みらしきものを浮かべた(たまき)さんが歩いてくるのが見えた。
 一方、振り向いた佐枝子さんのプクッと膨らんだ両頬からは、明らかに不満の感情が見てとれる。

「終わってなどおらんぞ。まだ〝みちびき〟の説明をじゃな……」
「それは長くなるのでまた今度にしてください」
「はあ? もしかしたら小娘二人(・・・・)のうちどちらかが跳躍(リープ)に参加するのじゃろ? 自分の命を預けるものの説明くらい……」
「大丈夫です。それは私のほうからまた、軽く説明しておきますので」
「か、軽くって……そんなんで済むのなら、私がレクチャー用にこの人工衛星(レプリカ)を作らせた意味がないのじゃ!」

 いや、それは確か、佐枝子さんの趣味で作らせていたはず……。

「命を……預ける?」不安そうに呟く手嶋さんに、
「そりゃ、恐竜がわんさかいるんだから、ユッキーなんて行ったらあっというまに食べられちゃうよ。あたしみたいに運動神経も良くないと!」と、花音。

 運動神経だけ(・・)でしょ。
 花音の中では未だに〝ミラージュワールド=プラ〇ミーバル〟のイメージらしい。

「運動……神経……」
「うんうん。まあでも、さすがのあたしもいきなり戦闘は無理だろうし、そうだなぁ……こう見えて料理は得意だから、とりあえず最初は調理係ってとこかなぁ」
「いいですね。私は料理も全然ダメですし……」
「ああ、それか、あれもいいな! モンスターを倒したあとにアイテムとかとかコインとか出てくるじゃん? あれを集める係!」

 RPG(ゲーム)の話!? 恐竜どこいった?

「コイン集めは五百円玉貯金の実績だってあるしぃ――」と続く、花音のプロフィール自慢を佐枝子さんがぶった切る。

「そういう意味での危険度は、さほど脅威ではない」
「そういう? 意味?」
「そもそも、肉体ごと直接ミラージュワールドに送るわけではないしな」
「…………?」
「なんじゃ、そんなことも聞いておらんのか?」

 小首を傾げる花音を見て、佐枝子さんがまたもや呆れたように溜息を()く。

「おぬしら、一体どこまで聞いておるんじゃ?」
「……というか、全然? ミラージュワールドと霊子の説明くらいしか……」

 花音の言葉に、その隣で手嶋さんも相槌を打つ。
 そんな二人に視線を止めながら、「おい、(たまき)!」と声をかける佐枝子さん。

「〝みちびき〟のことはともかくじゃ。タンクの事を説明しないであそこに放り込むわけにはいかんぞ? 同調(シンクロ)が上手くいくとは思わんが、万が一ということもある」
「私は、同調不可の方が万が一(・・・)だと思ってますけどね」

 そう言って微笑む環さんを、佐枝子さんは両目を(いぶか)しそうに細めて……しかし、何も言わずに束の間、流し見る。

「ふん……。まあ、環がそう言うなら何かしらの根拠はあるんじゃろ。じゃが、それならばなおさらじゃ! 説明もなしに同調などあり得んからな!」
「ええ、それはもともとお願いするつもりで来ましたから」
「ったく、迷惑な話じゃ」
「こう言ってはなんですが、一般の方にはかなり荒唐無稽な話ですしね。この場所を見てもらいながら説明を受けた方がいいかと」
「ならお前がやればいいじゃろ」
「そういうのはほら、佐枝子さんが一番得意じゃないですか」
「ま……まあ、そうかもしれんが……ったく、仕方がないのう」

 と言いつつ、佐枝子さんも満更でもない様子。
 そもそもがこの見た目だ。ナチュラルに目下(めした)に見られることが多いせいか、誰かに説明をしたり知識を披露したりということは、基本、好きなのだ。

「因みに……今日、初跳躍(リープ)を試みるのは、どっちじゃ?」

 もちろん、花音か手嶋さんのどちらが、という問いだ。
 はいはぁ――い!と、花音がすかさず真上に腕を伸ばす。

「もちろん、あた……」
「手嶋さんです」

 花音にみなまで言わせず、すぐに私が答える。
 花音は勝手に付いてきただけだけど、手嶋さんは環さんのご指名で、しかも着替えまで用意させられてるからね。環さんじゃなくてもそれくらいは分かるわ。
 もっとも、まだ手嶋さんに最終的な意思確認をしたわけではないけど……。

「はあ? なに勝手なこと言ってるのよ咲々芽(ささめ)。今日の流れからすれば、どう見たってあたしでしょ」
「どう見たらそうなるのよ。危うく花音(あんた)、高速降りたところでお別れするところだったじゃない」
「それは咲々芽が勝手にそう思ってただけじゃん! 私には調理係があるんだよ!」
「ただの思いつきじゃん、あんたの!」

 チッ、と佐枝子さんの舌打ちが聞こえ、慌てて口を閉じる私と花音。
 のじゃロリとはいえ、中身は秘密研究室の主任を任される程の天才科学者だ。舌打ち一つにもそれなりの迫力はある。

「ったくお前らは、ピーチクパーチクいちいち(かしま)しいのう」
「あのぉ……先ほどからリープ、リープって単語がよく出てくるんですけど……それがミラージュワールドに潜入するという意味なんですか?」

 手嶋さんが問いかける。
 もしかすると、手嶋さんには薄っすら想像がついているのかもしれない。
 うむ……と頷いて佐枝子さんが説明を続ける。

「一言で言えば、ミラージュワールドに潜入する方法はずばり、精神跳躍(マインドリープ)じゃ」
「まいんどりーぷ……」
「日本語で言えば〝精神跳躍〟じゃな。意識だけを切り離してミラージュワールドに放り込むのじゃ」
「そんなことが……現実に!?」

 マインドリープ……その言葉自体はフィクションの世界ならとくに目新しくはないし、サブカル女子の手嶋さんならイメージくらいは湧くのだろう。

「R棟を中心としたこの研究施設自体が、それを実現するための研究を行っているといっても過言ではないのじゃ」
「そんな、SFの世界のような話が現実に……」
「もちろん、まだまだ科学の力だけでは無理じゃながな。それを、この飛鳥井の者たちの異能の力を借りながら、実用化に向けて研究を続けているというわけじゃ」

 佐枝子さんが、すぐ傍の私と環さん、そして少し離れて立っていた(あまね)くんを順に見やる。続けて――、

「ついてこい」

 そう言って踵を返すと、小さな肩を大きく左右に振りながら、奥の壁へ向かってヒョコヒョコと歩いてゆく。厚底パンプスのソールが高すぎて歩きづらそうだ。

「あれじゃ」

 壁際までたどり着くと、はめ込まれたモニタリング用のガラスから隣室を眺めながら、私たちにも見るよう(あご)で促す。
 もちろん、私は何度も見ているけど――、

「あ……あれは……!?」

 初めて目にする花音と手嶋さんが、異口同音に呟いた。
 ガラスの向こう側は、壁、床、天井、一面真っ白な実験室。
 二十畳ほどの室内の中央には、病院の大部屋のように、四つの間仕切りカーテンが天井に備え付けられたカーテンレールから垂れ下がっている。

 ただし、それぞれのカーテンで仕切られているのはベッドじゃない。
 高さ約百センチ、幅約百五十センチ、長さは二百五十センチほどあろうか。シングルベッドより一回り大きな、白い直方体。――それが四台。

 天板にはさらに、人一人が出入りできるほどのドア状の潜入口が付いていて、今は四台のうち三台のドアが上に開け放たれている。
 ドアには四角い覗き窓が付いていて、閉じられている左端の一台を見ると、さながら巨大な棺桶のよう。

 最終チェックでもしているのか、白衣を着た二人の男性職員が、周りでてきぱきと確認作業をこなしている。
 普段私たちは、簡単にタンク、タンクと呼んでいるが、正式名称は――

「デタッチング・タンクじゃ」

 佐枝子(さえこ)さんの説明に手嶋さんも、detaching(デタッチング)……とオウム返しで呟いたあと、「分離、ですか?」と問い返す。

「分離、ってもしかして……あそこで幽体離脱でもするの!?」

 ガラスに顔を近づけながら、花音も隣室に目を凝らす。
 オカルト趣味なだけあって、花音も〝マインドリープ〟という単語からある程度のイメージは湧いているみたいね。

「当たらずといえど、遠からず、じゃな」

 幽体離脱という言葉に、佐枝子さんもわずかに笑みをこぼす。

「あれの発想の元になっておるのはフローティング・タンクという感覚遮断装置なんじゃが、中身はエプソムソルト塩水ではなく、AAAfluidで――」
「とりぷるえー……古井戸?」
「asukai artificial amniotic fluid――簡単に言えば、この研究所で独自開発された人工羊水のことじゃよ。被験者にはあの中で、まずは液体呼吸状態になってもらう」

 いわゆる、胎児と同じような状態になるわけだけど……肺に人工羊水(AAAF)が満ちていく感覚を思い出して思わず眉間に皺が寄る。
 あれ、何回やっても慣れないんだよなぁ。
 もっとも、肺に満たす時より排出する時の方がさらに苦しいんだけど。

「おしっことかはどうするの?」
「ほう、いい質問じゃ」

 花音の言葉に、またしても口元を緩める佐枝子さん。
 それって、いい質問なんだ!?

「人工羊水の中にはバンプレシン――いわゆる抗利尿ホルモンじゃな。その分泌を促す成分も含まれているので、入る前に用を足しておけば二十四時間は大丈夫じゃ」

 もっとも、万が一尿を漏らしたとしても、尿の成分の大部分はただの塩水。少量のクレアチンと尿素は含まれるが、一回の排尿で人体に影響を与えるほどのことはないらしい。

「じゃあ、大きい方(・・・・)は?」
「基本的に、意識を切り離された肉体は生体活動を著しく低下させるからの。排便活動もそれに準じるわけじゃが……緊急時は対応マニュアルがあるから大丈夫じゃ」

 そう、対応マニュアル。これが曲者だ。

「対応まにゅある……って、ちなみにどんなことするの?」
「というかお主、敬語は使えんのか!? ……まあ、そんな大変な話じゃない。要は、タンクから肉体を引っ張り出して、強制的に排便させるだけじゃ」
「は、はああ!? すんごい大変じゃん! 大事(おおごと)だよそれ!」

 さすがの花音も、そして、隣で話を聞いていた手嶋さんまで、目を見開いて佐枝子さんへ視線を向ける。

「たしかに、処理に時間が掛かると肺の人口羊水(AAAF)が漏れ出てしまうからの。意識が戻ったときに、一時的に呼吸困難に陥るのじゃが……」
「そこじゃなくて! 他人に強制的に排泄させられる、ってことよね!?」
「そうじゃ。でも、あそこにいるスタッフも含めて全員訓練は積んでおるからの。排泄の信号を受けてから処理が完了するまで、五分もかからんから大丈夫じゃ」
「大丈夫じゃないよ! 何人もの男の人に、無意識のうちにウ、ウ、ウ……ウンチを出されるとか! どんな変態集団よ!?」

 うん。この点に関しては花音に同意。
 だから私も、お腹の調子が悪いときには絶対にやらない、って誓ってる!

「なんじゃ、もしかして恥ずかしいのか? 誰でも、若い頃は経験あるじゃろ」
「赤ちゃんね? 赤ちゃんのときだよねそれ!?」
「そ、それで、その……」

 気を取り直すように眼鏡の位置を直しながら、手嶋さんが口を開く。

「意識の分離なんて……本当にそんなことができるんでしょうか?」
「それは問題ない」

 佐枝子さんの即答。

「瞑想状態の肉体の意識を電気信号に変え、このラボで独自開発したスーパーコンピューター〝Vanessa(ヴァネッサ)〟とリンクさせることには、数年前から成功しておる」
「そんなことが……もう、現実に……」
「もちろん、世間には公表しとらんがな。このことを知っておるのはこの研究所内でもR棟に出入りできる人間と、JAXAや政府高官の一部くらいじゃろ」
「そんなことを私たちに話しちゃっていいの?」

 再び、花音が口を挟む。
 とにかく、数分と黙っていられないのが、花音だ。
 こんな落ち着きのないやつをオペレーションに参加させて、本当に大丈夫なの?

 ふと、すぐ後ろで話を聞いていた環さんの方を振り向くと、静かに微笑みながら花音たちの様子を眺めている。
 環さんには、私には見えていない何かが見えているんだろうけど……それにしても、こと花音に関しては不安しかない。

「大丈夫じゃろ」と、花音の質問にも、事も無げに答える佐枝子さん。
「もちろん口外を推奨はせんし、他言無用とは伝えておくが……」
「いや、言わないけどね? ゴ〇ゴに狙われても困るし」

 ゴ〇ゴ限定ですか。
 女子高生一人にゴ〇ゴが出てくるとも思えないけど……。

「まあ、あれじゃ。仮に宇宙人が現れたとして、報道したのが朝売新聞なら耳も傾けるが、西京スポーツなら誰も本気にせんじゃろ。それと同じじゃ」
「いやいや、こう見えてあたし、情報通で通ってるからね? 担任のゆいぴょんが歳を二つ誤魔化してたこと暴いたのも、あたしだし!」

 あんたは西スポだよ。間違いなく。
「じゃあさ……あのタンクで意識を分離できるとして……」
「できるんじゃ!」
「はいはい。……で、その分離した意識を、どうやってミラージュワールドに放り込むわけ?」

 花音(かのん)の質問に再び、ふふんと得意げに鼻を鳴らす佐枝子(さえこ)さん。
 続いて手元の操作盤のスイッチを一つ押すと、ブォンという起動音と共に、目の前のガラスに文字や図形が浮かび上がる。
 なにこれ?

「このガラス、文字なんて映せたんですか!?」
「ん? 咲々芽(ささめ)は初めてだったかの? 透明有機EL内臓の特殊強化ガラスじゃ。ちょっと前に導入したのじゃ」
「へー……なんのためにです? まさか、レクチャーのためでもあるまいし」
「いや、レクチャーのためじゃよ。三月ごろにタンク増設の指示があったじゃろ? あのときに、新人でも入れるのかと思って一緒にな」

 どうじゃ、カッコイイじゃろ! と、嬉々として私たち三人をぐるりと一瞥する佐枝子さん。交換費用は八百万円ほどだったらしい。
 とんだ無駄遣いだ。

「……よく、申請通りましたね」
「ん? うん、まあ……申請には、あることないこといろいろ書くからの……」
「ないこと書いちゃだめでしょ!」

 さらに佐枝子さんが、白衣の両袖をたくし上げながら操作盤のキーボードを叩き始めると、ウィンドディスプレイに赤や青の矢印が次々と表示されてゆく。

「佐枝子ちゃん……その白衣、サイズが合ってないんじゃない?」

 上げては落ち、上げては落ちする白衣の両袖を眺めながら、花音が呟く。

「誰が〝ちゃん〟じゃ! 佐枝子さん(・・)と呼べ!」
「小学生相手に敬称はちょっと……」
「二十八じゃ!」

 一向に話が先に進まない。

「子供用の白衣もあるんデスけどね。佐枝子さん、(かたく)なに着ないんデスよ」
「な! なにが子供用じゃ! そんなものを着て仕事に集中できるか! まずは何ごとも形からじゃ!」

 ぼやくビリーにキッと鋭い視線を向けながら、佐枝子さんが私たちの方へ体を向けなおす。

「さて……面倒だから簡単に説明するが――」

 結局、佐枝子さんも簡単に説明するんじゃん。
 ただ単に、ウインドディスプレイを使いたかっただけなのね……。

「先ほど人の意識を分離する、とは言ったが、物質から精神を分離するというのはどういうことか分かるかの?」
「わかりませ~ん!」
「即答じゃの……。ちょっとは考えたらどうじゃ?」

 呆れたように花音を流し見ながら、「質問を変えよう」と、佐枝子さんが再び説明を続ける。

「人の脳の大半はタンパク質と血液と水じゃ。でも、不思議だとは思わんか? なぜ、タンパク質と血液と水が物を考える? なぜ人の脳だけが言葉や言語を理解し、抽象概念を作り出すことができる?」
「佐枝子先生! 抽象概念ってなに?」
「そこからか!」

 さらに呆れた表情で、花音を見下すように見上げる佐枝子さん。
 ほんと、一向に話が先に進まない。

「まあいい。結果から言おう。人の脳の進化……物質と精神の理論跳躍(クォンタムリープ)を説明するのが、お前たちも聞いたであろう?〝霊子〟じゃ」

 言いながら、佐枝子さんがウインドディスプレイを指差す。
 その先に表示されているのは〝Vanessa(ヴァネッサ)〟と表記された四角いマーク。人の意識とリンクできるスーパーコンピューターだ。

「しかし、粒であり同時に波である素粒子は、時間空間的把握が不可能……簡単に言えば、位置と運動量を同時に測ることができないのじゃ。もちろん、霊子も――」
「佐枝子先生! 全然簡単に言えてないと思うんですけどぉ!」

 再び手を挙げて佐枝子さんの説明を(さえぎ)る花音。
 まったくこのバカ娘は……と、佐枝子さんが眉根を寄せた直後、「ハイゼンベルクの不確定性原理……」と呟いたのは――、
 手嶋さんだ。

「そうじゃ! これだけ二人の知識に差があると説明も難しいのぉ……。馬鹿にも分かるように言うなら、霊子はどこにあるのか分からない、ということじゃ」
「初めからそう言えばいいんだよ、佐枝子先生」
「言ってるんじゃよ、さっきから!」

 佐枝子さんが、ハア……と大きく溜息をつく。

「少し話は変わるが〝ラプラスの魔〟という言葉を知っておるかの?」
「確か……十八世紀の物理学者、シモン・ラプラスが唱えた架空の存在ですよね。全物質の位置と運動量を知ることができるような知性という……」
「うむ」

 手嶋さんの答えに、佐枝子さんが満足そうに深く首肯する。

「彼の論じた因果的決定論は、量子物理学が台頭した今日では古い概念となってしまったが、しかし、彼が唱えた架空の超越的な存在が現代日本に現われ――」
「あ~、はいはい、それが(たまき)さん?」

 チィッ、と、佐枝子さんの大きな舌打ちが響く。

花音(おぬし)はまた、人の決め台詞をよくもぬけぬけと……」
「だって……そこに書いてあるもん」

 花音が指差したウインドディスプレイには確かに、Vanessa(ヴァネッサ)と書かれた図形と線で結ばれて〝Tamaki Asukai〟と表示されている。

「し、しまったのじゃ! 説明のあとに表示させるはずだったのに、打ち間違えたのじゃ!」

 振り返った佐枝子さんが、慌てて操作盤のキーボードを打ち始める。
 ……が、たくし上げていた白衣の袖がずり落ちて手元が狂ったのか、さらに様々な文字や記号が画面に表示される。

「し、しまったのじゃ! また間違えたのじゃ! ……え――い、この白衣、邪魔じゃっ!!」

 あ~あ、言っちゃった。

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