「替えの下着って……うちのユッキーに何をさせる気!?」
手嶋さんの部屋――書棚からベッドを挟んで反対側にあるウォークインクローゼットの中。
箪笥の引き出しを開けて準備を進める手嶋さんの横で、唇を尖らせながら花音が私を睨む。
「うちのユッキーって……花音は手嶋さんのマネージャーかなんかか」
「うちのユッキーは引っ込み思案で断れない性格なんだから……仕事を依頼する時はあたしを通してちょうだい!」
ま、この馬鹿マネージャーのことはさておき、下着の替えを持って付いてこい……なんて言われればそりゃあ、誰だって不安になるわよね。
「私は……大丈夫です。何か手伝えることがあるなら、できる限りのことはしたいと思っていたので……」
そう言って今度は、少しラフな格好へと着替えを始める手嶋さん。何か質問があればすぐに訊ねられるようにと私も付き添ってきたけど、必要なさそうね。
いや、質問がない……というよりも多分、分からないことだらけで何を訊けばいいのかも分からないような状態だと思うけど。
まさか、手嶋さんをミラージュワールドへ!?
応接室を出たあとそっと訊ねた私へ、環さんは『まだ分からない。もう少し話を聞いてみてからだけど、一応準備はしてもらおうと思って……』と言っていた。
今日、商談に私を同席させたのは、同級生の同行を意識させて、洵子さんの安心感を引き出すことが目的だったんだろう。
私たち異能者か、或いはそれなりに訓練を積んだ者でなければ、霊粒子と精神の同期率を高めることは至難の技だ。
つまり、誰も彼もが簡単に潜入できる……というわけじゃない。
「大丈夫。まだなにかすると決まったわけではないし、するとしても、私と同じことをするだけだから」
と、手嶋さんには説明するものの……そう簡単にはシンクロできないよね、きっと。
環さん、一体何を考えてるんだろ。
弟が形成したワールドだから、姉の手嶋さんであれば少しはマシ?なんて考えでもないよね。そもそも、手嶋姉弟は血も繋がっていないんだし。
「っていうかぁ、その、咲々芽がやることってなんなのよ?」
「それより、なんで花音までここにいるのよ」
「なんでって……友達じゃん」
「そうだっけ?」
「うっわ~! 友人に不信をいだくことは、 友人にあざむかれるよりもっと恥ずべきことなんだよ! いつも言ってるじゃん!」
言われたこともないし、意味も分からない。
「その前に友人かどうか、って点を疑ってるんだけど――」
「とにかくあたしは今、思ったようにあまねくんと話せなかったから、いろいろ溜まってんのよ!」
「知らないわよそんなの」
「だから、いろいろ関連情報がほしいの! ……っていうか、あまねくんに入れ知恵してあたしと引き離したの、咲々芽じゃないでしょうね!?」
「花音今、友人への不信は恥ずべきことだって言ってなかった!?」
「でも、矢野森さん、すごいよね」と、手嶋さんが着替えながらポツリと呟く。
「ん? あたし? なにが?」
「ん―……、なんていうか、恋に一直線?みたいな……そのバイタリティが」
手嶋さんも、あんなメモ帳を付けてたわりに、人間観察力ないなぁ。
「恋とかバイタリティとか、そんなカッコイイもんじゃないよ? 花音なんて、馬鹿で男好きなだけだから」
「い……言い返せないけど、ひどい!」
花音が私の背中をパシンと叩く。
「いったいなぁ~! ……ああ、そういえば、手嶋さん?」
「はい?」
さっきから少し気になっていたことを訊いてみる。
「あの応接室の絵のことなんだけど……継母さんって、よくネットオークションなんかで絵を落札したりするの?」
「あぁ……いえ、よくは知りませんけど……多分それはないと思います」
「そうなの?」
「もともとアナログな人で、パソコンも去年初めて買ったくらいで……。悦子さんに手伝ってもらいながらなんとかネットに繋いでたみたいですから」
ふぅん……。
環さんが何か引っかかってるみたいだったから一応訊いてみたんだけど……絵画の話はやっぱり、ただの雑談だったのかな?
「だから私も、オークションで絵画を落札したなんて話を聞いてかなり意外でした」
「スマホで、ってことはないかな?」
「どうでしょう? スマホも、通話以外で使ってるところは、ほとんど見たことないですけど……」
「なになになに!? なんの話?」
うずうずしながら私たちの会話を聞いていた花音が、ついに我慢できずに、といった様子で割り込んでくる。
「なんでもないよ。花音には関係のない話」
「関係なくないよ! ユッキーと話すときはあたしを通して、って言ったじゃん!」
「まだそのネタ続いてんの? だって、KYOWAオークション、だっけ? そんな名前聞いたって、花音もしらないでしょ」
「ああ、それなら……」と、花音がブレザーのポケットからスマートフォンを取り出してなにやら操作を始める。
え? 知ってるの?
今、慌てて検索して話を合わせようとしてる?
……なんて疑って見ていたんだけど、履歴を表示させる程度の操作で、すぐにスマートフォンをこちらへ差し出してきた。
「ここに出てくるやつでしょ?」
受け取って画面を覗き込む。このサイトって――ユビキタス!?
手嶋さんがコンテストで受賞した小説投稿サイトだ。
画面に表示されているのは小説の閲覧ページらしく、画面左上には作品タイトルらしき文字が見える。
「タナトフォビア……。これって、手嶋さんの書いた小説じゃない?」
「そうそう。さっき待ってる間、あまねくんは照れていなくなっちゃうし、暇だからユッキーの小説でも読んでみよっかな、って見てたのよ」
「あまねくん、心の底から嫌がってるように見えたけど……っていうか、この小説がどうしたのよ?」
「本文じゃないよ。バナー広告見ながら、何回かリロードしてみて」
言われた通り、リロードアイコンを数回タップすると……。
「あ!」
「出た?」
「KYOWA……オークション……」
「そう言えば!」と、今度は手嶋さんが声を上げる。
「ユビキタスを運営している会社も確か、KYOWAホールディングスって……」
ええ!?
今度は私のスマートフォンで企業名をワード検索してみる。
KYOWAホールディングス……事業紹介……小説投稿サイト『ユビキタス』、及び、『KYOWAオークション』の企画・開発・管理運営。
「ユビキタスとKYOWAオークション……運営会社は一緒だ……。手嶋さん、普段からユビキタスを利用してて気付かなかったの?」
「普段はパソコンを使ってますし、広告ブロックのアプリを起動させてるので……」
なるほど。
……いや、たとえ広告ブロッカーがなくたって興味のない広告バナーを注視する人も珍しいだろう。花音がちょっとおかしいんだ。
それにしても、これって単なる偶然なのかな?
「うん、知ってたよ」
帰りの高速道路、両手でハンドルの握りながら環さんがチラリと助手席の私を流し見る。
どうやら、ユビキタスとKYOWAオークションの運営会社が同じということは知っていたらしい。
「何か、今回の件と関係あるんですか? KYOWAホールディングスのこと」
「う~ん、分からないけど、多分、直接は関係はないだろうね」
直接は? ……言い方を変えれば、間接的には関係あるということ?
「そんなことよりさ……」と、二列目シートに座っていた花音が、前を覗き込むように首を伸ばす。
「次はどこ行くの?」
「花音んち」
「ええ――っ!? ……なんで?」
「あんたを送っていくからに決まってるでしょ。必要なければ駅で降ろすけど」
「そうじゃなくてっ! なんであたしだけ仲間外れにするのよ!」
「そういうわけじゃないけど……次の目的地は誰でも彼でも気軽に案内できるような場所じゃないのよ」
「マネージャーのあたしがいなかったら、ユッキーと話せないよ?」
あのネタは、この予防線だったのか。
「それに、時間だってもう二時半だし……あたしんちなんて寄らずに、急いだほうがいいと思うけどなあ」
「大丈夫。同じC市内だし、通り道だから」
「そんなはずない!」
どんな否定よ……?
「……とりあえず、花音んちの住所教えてよ」
「そんなの咲々芽も知ってるでしょ」
「環さんは初めてだから、念のためナビにも登録しておくのよ。私だって地番までは知らないから」
「そこまで踏み込んでくるのか……」
「必要でしょう! ナビに登録するのに!」
もう花音の相手も面倒だし、地図から直接探そうか?
前を向き、膝上に置いたポータブルナビの画面に視線を落としたところで、再び隣から環さんの声。
「まあ、いいんじゃないかな、矢野森さんも一緒で」
「……はあ?」
手元から運転席へ、ゆっくり視線を持ち上げる。
どこか楽しげな環さんの横顔。
「一緒って……ラボにですか?」
「うん」
「手嶋さんの家でもそんなこと言ってましたけど、冗談なら冗談って早めに言っておかないと、花音のバカ、すぐに本気にしますよ」
「冗談で言ってるわけじゃないよ。矢野森さん、こう見えてなかなかの切れ者だと思うし……」
きれもの?と、環さんの言葉に首を捻る花音。
「あたし、滅多なことじゃキレないですよぉ? あたしをキレさせたら大したもんですよ!」
…………。
「花音で?ですか?」
片目を眇めて後部座席を指差す私をちらりと見やり、苦笑いを浮かべる環さん。
……が、すぐに、閑話休題といった様子で、
「そうそう、ところで……」
バックミラーを覗きこむように声をかける。
その視線の先――環さんと目が合ってピクンと肩を跳ね上げたのは手嶋さんだ。
紺のTシャツに、黒のウィメンズショーツ、さらにそこから伸びているのは黒いレギンスとスニーカーを身につけた細脚。
極めつけは、防水透湿性素材をライナーに使った晴雨兼用キャップ。外出時は鍔付きの帽子がないと落ち着かないらしい。
あとで着替えるかも知れないからラフな格好で、とは言ったけど……。
ラフと言うよりは、山ガール!?
ますますわけの分からない集団になってきたな、私たち。
「ところで、手嶋さんの小説……タナトフォビアって、どんな内容なんです?」
「え? ああ、えっと……」
手嶋さんが、少し考えるように視線を彷徨わせたあと、再びバックミラー越しに環さんの顔を窺う。
……が、その時にはもう、環さんの視線は前方を走る車に向けられていた。
「簡単に言うと、ディストピア系のお話ですね」
「暗黒郷、ですか」
「時代は近未来、舞台はパラレルワールドの閉鎖世界のような場所で、人の寿命は四十九歳まで、と政府に管理されてる設定です」
「え―、怖っ! ディストピア人は、四十九歳になったら自然に死ぬの?」
手嶋さんの隣りの席から、花音が口を挟む。
……ディストピア人?
「ディストピアは、理想郷の対義語のような意味ですね。その世界では、四十九歳まで生きていた者はみな、昇華院という施設で薬殺されるんです」
「ひぃ……。みんなそれで、文句は言わないの?」
「その世界では、死によって肉体は四次元へ、魂はさらに高い五次元へ……という教育を受けているんです。簡単に言うと、天国へいける、ということですね」
「なるほど……それじゃあむしろ、死は喜ぶべき通過点? みたいな?」
「はい。ただ、主人公である十三歳の少年は、政府からの適合者通知によって一週間後に昇華院での処分が決まっているんです」
「寿命よりだいぶ早いのね……。そういうケースもあるんだ?」
「はい。魂の充分な高尚化が確認されて、これ以上現界で苦労をする必要がないと判断された者は、寿命を待たずに処理を受けられるんです」
「それは……喜ばしいことなの?」
「はい、その世界的には……。ただ、同級生の少女に恋心を抱いていた少年は、生への執着心を持つようになり、やがて異常に死を恐れるようになるんです」
「それが……タイトルにもなってるんですね。〝死恐怖症〟の」
再び、運転席から環さんの声。
「はい……。それで、その世界の、寿命を管理するというシステムそのものに疑問を抱くようになった少年は、仲間と共にその秘密を探ることにするんです」
「ふぁ――……、それでそれで?」
再び、花音が身を乗り出す。
「それで……って、えっと……やがて、恐るべき秘密を探り当てて、って感じで」
「だからぁ、その秘密ってなんなのよ?」
「そ、それを言ったらもう、完全にネタバレになっちゃうじゃないですか」
「いいじゃない! ネタなんてバラすためにあるんだよ!」
それもどうかと思うけど、確かに、気になる……。
「ここであっさり説明しちゃうのも、物書きとして、なんとなく抵抗があると言うか……」
「なんだよユッキー……、この、小説家人間め!」
小説家は、だいたい人間だけどね。
「さっきの説明の中にも少し、ヒントとなる単語がありましたよ」
「そ……そうなの?」
う~ん……と、何かを考えているような花音の唸り声が背中越しに聞こえてくる。
と、次の瞬間――、
「わかった! 政府の人たちって、実は土星人なんでしょ!?」
どっから出てきた土星人!?
A川インターチェンジで高速を降り、さらに一般道を、南へ向かって三十分。
風景は徐々に住宅街から工場地域へと変容し、最終的には東京湾を臨む湾岸地帯へと様変わりする。
さらに海沿いを十分ほど走ったあと、私たちを乗せた黒いミニバンは広い湾岸道路を外れ、広大な海浜公園の中の一角で停止した。
かなり幅のある鉄製のスライディングゲート前――門柱に掲げられた黒御影石のプレートを、車内から花音がゆっくりと読み上げる。
「特殊研究開発法人、あ、す、か、い、研究所……あ、飛鳥井!?」
シートベルトを外しながら素っ頓狂な声を上げ、私の肩を叩いてくる。
「ちょっと咲々芽! 環さんたちと同じ苗字だよ!」
「うん。わかったから、ちょっと静かにしてて」
入口と出口、それぞれのゲートを隔てるように建てられた詰め所から、警備員の格好をした年配の男性が出てきて、一人こちらへ向かって歩いてくるのが見える。
表情は、穏やかだ。
男性が軽く右手を上げて挨拶したのを見て、運転席の環さんもドアガラスを下げる。このゲートではよく見る男性だ。名前はたしか――
「高原さん、こんにちは」と、先に声をかけたのは環さん。
「やあ、こんにちは、環さん。またR棟かい?」
そう言って車内を覗き込みながら「こんにちは、柊さん」と、助手席の私にも声をかけてくる。
さらに後部座席にも視線を走らせ……しかし今度は、少し驚いたように二、三度、目を瞬かせた。
「環さん……この子たちは?」
もちろん、花音と手嶋さんのことを尋ねているのだろう。相変わらず柔和な表情に見えるが、高原さんの纏う空気にわずかに緊張感が加わったのはすぐに分かった。さっきまでとは違い、目が笑っていない。
「この二人には、今日のオペレーションで少し手伝いをしてもらう予定なんです」
「まあ、R棟関連の人選については一任するように聞いてはいますが……あまねさんもいらっしゃるんですよね?」
見知った三人だけならともかく、新顔がいるなら飛鳥井家の正当な後継者の承認が必要、ということだろう。
最後尾――三列目のシートで一人、足を伸ばして横向きに座っていた周くんが、ヒョイっと顔を覗かせて高原さんへ声をかける。
「こんにちは高原さん。二人のことは僕も承知してますんで……大丈夫ですよ」
「そうですか。あまねさんがそうおっしゃるなら問題はありませんが……R棟へは?」と、高原さんが再び環さんへ視線を戻す。
「はい、すでに連絡はいれてますが、ゲート通過の報告はここからも入れておいてもらえると助かります」
「そうですか」
と、ようやく安心したように、高原さんが再び相好を崩す。
環さんたちの受け答えから、不審な点はないと判断できたのだろう。
「じゃあ、ゲスト用のIDカード、二枚もってきますんで、お二人のお名前をお聞きしてよろしですか?」
車を離れ、ゲートの詰め所へ戻っていく高原さんの後ろ姿を見ながら、後部座席から花音が声をかけてくる。
「咲々芽ってば! なんでこの施設、環さんたちの苗字と同じ名前なのよ?」
「そりゃ、そういうことだからよ」
「そういう、こと?」
「環さん……というか、あまねくんの実家が出資して始めた研究施設だから」
「ひえぇ――……。施設って、それ全部、ってことよね?」
花音が、ナビの画面に表示されたマップを指差す。
海岸線にそって横たわる広大な臨海公園の中にぽっかりと空いた、ほぼ正方形の形をした空白地。
まだまだ海までの距離を感じさせる、目の前の広大な防風林と見比べれば、マップに示された空白地の規模も相当な広さであることが分かる。
「昨日から本家だの跡継ぎだのなんて話をしてたから、もしやと思ってはいたけど……あまねくんの実家って、実はお金持ち?」
「まあ……そうね」
実際は〝お金持ち〟なんていう俗な単語で言い表せるレベルではないんだろうけど……飛鳥井家がどれほどの財力を持ち合わせているのか、実のところ私にも見当がつかない。
「ほんと、なんでそういうこと、いろいろ内緒にするかなぁ」
「べつに内緒にしてたわけじゃないけど……花音のことだからもう、それくらいなんとなく感づいてるかと思ったわよ」
「なんとなく、ってのもなくはなかったけど……でも、ってことは、咲々芽だってその血縁の一人ってことになるんでしょ?」
「まあ、そうね。とはいっても分家だし母方だし、経済的な恩恵なんてまったくないと思うわよ」
「いや、お金のことっていうよりさ、そんな高貴な血族に咲々芽みたいな顔が生まれるとは思わないじゃん」
「じゃん、って……。私みたいな顔ってどんな顔よ?」
「どんな、って言われても難しいけど……なんだろ? 洗濯物、みたいな?」
「悪かったわね! 洗濯物で!」
戻ってきた高原さんが、花音と手嶋さんの名前を登録したIDカードを二人に手渡す。同時に、ギギンギギンと音をたてながら、入口ゲートのフェンスがスライドし始めた。
再び、ゆっくりと動き出す車。
針葉樹林に囲われた常緑の視界が開け、平屋造りの研究棟が立ち並ぶ白一色の無機質な空間が一気に展開する。
「うわぁ……」
窓の外を眺めながら、思わず……といった様子で感嘆の吐息を漏らす花音。
「うちの近所に、こんな場所があったんだねぇ」
「春休みに行った、エーゲ海の景色を思い出します……」
花音に続いて、さりげなく上流階級アピールをする手嶋さん。
「A棟、B棟、C棟――」
パビリオンに掲げられた大きな青い文字を、花音が順に読み上げる。
「D棟……で最後が……あれ? なんで最後だけ〝R棟〟なの?」
「あれは〝restricted(制限された)〟のR。研究所内でも特別な権限を持った人しか入ることができないのよ」
そんな私の説明に続けて、正面のR棟を眺めながら、今度は環さんが言葉を継ぐ。
「……もっとも、私たちは別の意味で使ってるけどね」
「別の意味、ですか?」
「あのRは〝REISHI〟のR。あそこがこれから行く、別名〝霊子棟〟だよ」
R棟の正面脇に設置された駐車スペースへ車を停め、全員で外へ出る。
長身女装子の環さん。
イケメン男子、周くん。
JK制服の花音。
山ガールの手嶋さん。
そして、早朝ゴミ出しルックの私……。
相変わらず統一感のない五人だけど、ここなら外界のように一般人の目もないし、気にしないことにしよう。
二十台分ほどの駐車スペースのうち、車両が停められているのは環さんのミニバンを含めても五、六台分。
他の研究棟の様子と比べるとだいぶスカスカだ。
花音が、R棟を覆い隠すように広がる、屋上の建造物を見上げて口を開く。
「このバラバラアンテナ、見たことある、あたし!」
「パラボラアンテナね」
「プールの滑り台から見るたびにさ、なんだろうなぁ、って思ってたんだよね」
この研究施設があるのは海浜公園でも比較的北西寄りだ。
海浜公園内には、他にもキャンプ場や博物館、アスレッチクなどさまざまな施設があり、市民の憩いの場となっている。
花音が言っているのは、ここからは数キロ離れているが、公園の南東端にある〝海浜プール〟と呼ばれる遊泳施設のことだろう。
流れるプールや巨大なスライダーなど多くの遊泳アトラクションがある大型施設で、夏場は市民を中心に多くの人で賑わう人気レジャースポットだ。
研究棟はどれも平屋造りのため、少し離れれば防風林の中にすっぽりと隠れてしまうが、R棟の巨大なパラボラアンテナだけは隠しようがない。
「ほら、中学の時に見学にいった……なんだっけ? 宇宙のあれ……ジャックス?」
「ああ、JAXAの宇宙通信所のこと?」
「そうそう! あそこのアンテナ思い出すよ。勝浦市だったっけ?」
感心しながらR棟を仰ぎ見る花音のポニーテールが、やや強い海風にフワフワと弄ばれる。
その隣りで手嶋さんも、飛ばされないようにキャップを押さえながら巨大なアンテナの傘に目を細め――
「私も、冬休みのオーストラリア旅行で見たパークス天文台を思いだしました」
「へぇー……」
手嶋さんの横顔を流し見る花音。
「ユッキーのさ、そのちょいちょい出てくる海外ネタって、自慢?」
「え? なんで海外が自慢になるんですか?」
「いや、べつに……違うならいいんだけど……」
花音が私に近づいて、そっと耳打ちをしてくる。
「なんかさ、ユッキーが中学時代にクラスメイトと上手くいかなかったのって、他にも原因があるような気がしてきた……」
「他?」
「ん~、なんていうかこう……庶民の気持ちが分かってない、っていうか……」
「庶民って……。いいじゃない、海外の話くらい。一般家庭だって行くでしょ」
「いや、いいんだよそれは……それはいいんだけど、わざわざ勝浦のあとに、オーストラリアを被せてくるかな?」
ちっさ! 器、ちっさ!
「ただの会話のキャッチボールでしょ!」
「ドッヂボールだよ! あれじゃ、せかっくのあたしの博識トークが全部オーストラリアに持ってかれるじゃん」
「博識って……ジャックスがよく言うよ……」
そのままみんなでR棟の正面玄関前まで移動。そこからは周くんが先頭に立ち、入口の回転ドアを回す。
R棟に出入りするほぼ全ての職員が、環さんや周くんはもちろん、私の容姿・素性まで把握している。
ただ、基地内でフリーダムな状態が保障されているのはあくまでも、飛鳥井家の正当な後継者である周くんと共に行動していてこそ、だ。
施設に出入りしたり責任者や職員と面会したり、といった際には、周くんを前面に立てている方がお互いのためにもなる。
「環さんってさ、実家を勘当されてるんだよね? それって、縁を切るとか、そういった意味よね?」
R棟内に入ってすぐ、花音が小声で訊ねてきた。
「そうね」
「それなのに、本家の息のかかったこういう施設に、堂々と出入りしちゃったりしていいわけ?」
「まあ、あまねくんの〝誰の入所を許可するか〟って権限は完全に保証されてるからね。あまねくんの人選についてあれこれ言う人は、ここにはいないよ」
「ふ~ん……でもさ、誰か告げ口したりとか、そういう人もいないのかな?」
「ん―……、いないと思うわよ、多分」
正確に言えば、いてもいなくてもそれはあまり関係がない。
密告者の有無に関わらず、研究所の人の出入りを把握するぐらい、飛鳥井本家にとっては造作もないことだろう。
しかし、R棟で行われているオペレーションの実験データを得るためには環さんの能力が必要不可欠……それは本家も承知している。
環さんがここに出入りしていることは本家も黙認しているとみて間違いない。
勘当した相手に、大っぴらに実験への協力依頼を求めるわけにはいかないが、代わりに周くんに人選を一任しているというのは……つまり、そういうことだ。
「おお! 今日はなにやら賑やかデスねぇ!」
玄関ホールの奥に設けられたフェンスの向こう側から、男性の声が響く。
ビリー・漣・ベレンソン。飛び級でスタンフォード大学工学部を卒業した天才にして、現在はR棟特殊研究室の副主任。
日本人の母とアメリカ人の父を持つハーフで、栗色のくせっ毛と白い歯が素敵な、若干二十五歳の超イケメン眼鏡男子。
そして……私が今、もっとも苦手とする男性だ。
気がつけば、今まで隣にいたはずの花音が、フラフラとビリーの方へ歩み寄っていくのが見える。
さっそく、花音センサー発動かよ!
コラコラ!と、後ろから慌てて花音のゆるふわポニーテールを引っ掴む。
「イタタタタ! な、なにすんのよ咲々芽!」
「花音こそ、なにフラフラしてんのよ!? まだ勝手に離れないで」
「なに言ってんのよ! ずっと隣にいたじゃん!」
こ……花音、今の動き、無意識なの……?
「と、とにかく、花音と手嶋さんはまだそっち行けないから。先にあそこのカウンターでIDカードの制限を解除するよ」
ゲストIDで入れるのは各研究棟のエントランスまで。建物内の入場ゲートを通るには、各棟で入場制限を解除してもらう必要がある。
花音と手嶋さんに付き添う形で、私もカウンターへ。
実は私もゲストIDの制限解除をお願いするのなんて初めてだったけど、カウンターに提示したら係員はあっさり解除機に通してくれた。
なんかガバガバだけど、大丈夫なのかな、セキュリティー。
それとも、思っていた以上に私の顔パス効果が上がってるとか?
「高原さんから、すでに連絡は受けてましたので」
そう言いながら、ニコっと笑ってカードを返してくれる係員のお姉さん。
そっか、そういうことか。
高原さん、ただの門番のおじさんかと思ってたけど、伊達に年を食ってるわけじゃなかったのね。
IDカードを受け取ると、すぐ傍の入場ゲートから中へ。
空港の金属探知機のような、奥行きのある大仰なフレームの奥に自動開閉扉が付いている、大型のフラッパー式のようなゲートだ。
扉は、IDカードに内蔵されたICチップの情報を読み取って自動的に開閉する。
もし、偽造カードなどによる不正がみつかれば、即座にフェンスが下りてゲートの中に捕縛される仕組みらしい。
それを聞いてからは、毎回、通過する度に脈拍が上がるようになってしまった。
「オー! 咲々芽、ひさしぶりデスねぇ~!」
ゲートを通過した直後、若干英語訛りが残っているとはいえ、かなり流暢な日本語を発しながら近づいてきたのは、ビリーだ。
両手を広げながら、足早に……というよりも、小走りに近い速度。
また、抱きつかれる!?
と思って身を固くした直後、私とビリーの間に割って入った黒い人影――。
周……くん?
「もういい加減、そういうHUG、改めてくれないかな、ビリー」
先にゲートを通って中へ入っていた周くんが、いち早くビリーの動きを察知して私をガードしてくれた。
……というよりも、もともとビリーの動きを予想して待機していてくれてたとか!?
「おおっ……。今日はいつになく怖いデスね、御曹司」
「日本でそれ続けてたら、いい加減セクハラで訴えられるぞ」
「ラボメンからは、とくになにも言われていないデスけどねぇ?」
「相手が受け入れてるかどうか空気を読め、って言ってるんだよ! 咲々芽だってもうハイスクールなんだから……」
「おお―っ! ということはもう、結婚もできるんデスね!?」
「できん! 咲々芽の誕生日は一月二十日だからまだまだ先! ……というか、日本ももう、結婚可能年齢は十八歳に引き上げられてるし!※」
(※:民法七百三十一条【婚姻適齢】改正後の設定としております)
周くん、私の誕生日なんて知ってたんだ!?
ハハァ――ン……とニヤニヤしながら、なにやら意味ありげに周くんを見つめ返すビリー。
わずかに周くんよりは低いものの、ビリーも百八十センチ近くの高身長だ。
「さては御曹司、佐々芽のことが好きなんデスね?」
「は……はあぁ!? だ、誰がこんな、色気マイナスのがさつ女を!」
ま、マイナスですか……。
「でもザンネン! いくら好きでもいとこ同士での結婚は無理デスもんねぇ」
「べ、別に残念でもなんでもねぇよ! それに、日本じゃいとこ婚も認められてるんだよ、アメリカと違って」
周くん、それ、知ってたんだ!
「フフフ……知ってましたか。でも、アメリカだっていとこ婚が禁止されてるのは二十五の州だけなんデスけどね」
「っていうかそんな豆知識どうでもいいから。俺はビリーのために言ってるんだよ」
「そうデスか。でも心配御無用。ここへは、私の論文を読んだ飛鳥井家頭首直々に、三顧の礼を以って迎えられてるんですよ。私を手放すことはあり得ません」
すごい自信だな。
日本人ならああいうことは、たとえ思っても言わないだろうな。
「ちょっとぉ、佐々芽、佐々芽!」
後ろから私の背中を突いてきたのは、花音だ。
「なによ?」
「早く紹介してよ! あたしたちのこと!」
「分かってるわよ! ……え――っと、ビリー?」
立ち塞がる周くんの横から覗き込むようにビリーを見上げると、彼も私に気付いて満面の笑みをを浮かべる。
最初はこの人懐っこい笑顔に、コロッと騙されちゃったよなぁ……。
「オオッ! どうしました、咲々芽?」
「え―っと……一応紹介しておくわ。この二人は私のクラスメイトの、矢野森花音と、手嶋雪実さん。今日のオペを手伝ってもらう予定」
「ほうほう! これはまた、咲々芽に負けず劣らずチャーミングガールデスね!」
「で、彼が、これから行く研究室の副主任、ビリー・漣・ベレンソン……」
と、紹介もまだ終わらぬうちから、周くんを押し退けるようにして二人に近づくと、花音、手嶋さんの順にハグをしていくビリー。
嬉しそうな花音はともかく、手嶋さんは明らかに緊張して身を固くしている。
周くん! 出番ですよ!
……って、アレ?
ビリーが二人にハグをする様子を黙って見つめる周くん。
おいおい! セクハラ防止はどうした?
まさか、ほんとに――
「ほんとに、あまねくんって……」
「……ん?」
「私のこと好きなの?」
パ――ンッ! と、頭を叩いたような乾いた音がフロアに響く。
……い、いや、叩かれたんだ、頭を!
「いったぁ~い……何すんのよあまねくん!」
私、一応年上なんですけど!?
セクハラよりも大問題だよ、これ!
「ご、ゴメン……っていうか、咲々芽が色ボケてんのが悪いんだろ!」
「だ、だって……なんであの二人へのハグは注意しないのよ!?」
「あれは……なんていうか、あれだ……」
再び、二人へのハグを繰り返すビリーに視線を向ける周くん。
「花音の目がビリーに向いてくれれば、ちょっとは平和になるかな、って……」
「ビリーは、あの花音の当て馬!?」
「佐枝子さんは? 研究室ですか?」
「ああ、はいはい」
一通り出迎えの儀式が終わったのを見計らって環さんが尋ねると、ビリーも本来の目的を思い出したように振り返る。
「今日になって急にタンク三台使うかもしれないなんて連絡してくるから、急ピッチでもう一台の準備を進めていたんデスよ」
「無理を言ってすみませんでした」
爽やかに微笑む環さん。
口ではああ言ってるけど、あの眩しい笑顔……絶対に恐縮なんてしていないんだろうなあ。
「環くんの〝無理〟には慣れてますから」と、ビリーもニヤリ。
「人聞き悪いなあ」
「いえいえ、歓迎してるんデスよ。飛鳥井家からの依頼とあれば、大手を振ってタンクを弄れますからね。佐枝子さんも、ぼやきつつ嬉しそうでしたよ」
「私はもう、飛鳥井家の人間ではないですけどね」
「そう思ってる人は、ここには一人もいないでしょうねぇ。……とりあえず、行きましょうか」
そう言って環さんと並び、二人が先頭に立って歩き始める。
そのすぐ後ろに周くん、少し離れて花音と私が続き、最後に手嶋さんが付いてくる。
まだそわそわと落ち着かない様子の手嶋さんに比べ、すっかりリラックスムードの花音。
そろそろ鼻歌でも歌いだしそうだなぁ、花音。
「それにしても、人の気配がしないところね」
キョロキョロと周囲を見回しながら、花音が呟く。
床も壁も天井も、真っ白に統一された幅二メートルほどの無機質な通路からは、それだけでも閑寂な心象を与えられる。
ただ、人気がないと花音が呟いたのは白亜の回廊から受ける印象のせいだけじゃない。実際、私たちの歩く足音以外には物音も話し声も聞こえてこない。
各研究室も照明の消えている部屋が多く、ハーフミラー状態のドアガラスが通路の左右に並ぶ。たまに明かりが見えても、薄暗い常灯のみで人影は見られない。
「そもそも、施設規模は他の研究棟以上なのに、入所権限のある職員の人数は五分の一にも満たないデスからねぇ」
横顔を見せるように半分だけ振り向いたビリーが、花音を流し見る。
「特に今はゴールデンウィーク前で、前半の休暇グループが休んでいるのでなおさらデスよ」
「なるほど~。ビリーはいつ休みなの?」
さすが花音、さっそく呼び捨てか。
「ボクも前半組だったので今日から休みの予定だったんデスけどね。環くんたちのオペレーションが入るかも知れないと聞いて残っていたんデス」
「へ―……、研究者も大変なんだぁ」
「いえいえ、休むことだってできたんデスけどね。とくに予定もありませんし、オペレーションに参加する方が数倍楽しいデスから」
そう言ってニッコリと微笑むビリー。
まあ、それは本心でしょうね。
以前も、ビリーが休暇の日に急なオペレーションが入った時、ちょっとした確認事項で電話をしただけなのに、ここまで飛んで来たからなぁ。
「ん―、ビリーも、有りっちゃ有りだなぁ……」と、花音が難しい顔で呟く。
「なにがよ?」
「なにが、って……あたしとのカップリング候補に決まってるじゃない。意外と息が合ってる気がするし、少なくともキープはしておいていいかな、って」
すっごい上から目線ね……。
うっかり鼻水が出そうになったわ。
「あのさ花音、飛鳥井家はもちろんだけど、ビリーの家だって、私たち庶民が簡単に釣り合うような家柄じゃないからね?」
「うわぁ……、咲々芽、そんなつまんないこと気にしてるから、いつまで経ってもみんなに洗濯物なんて言われんのよ」
「言われたことなわよ! 花音以外に!」
「って言うかさぁ……意外とああいう人たちだって、特別な目で見られたくないと思ってるんじゃない? どう思う、セレブユッキーは?」
花音が、最後尾から付いてきていた手嶋さんを顧みる。
花音も、呼び方っ!
「そ、そうですね……氏より育ち、って言いますしね」
「う……蛆……?」
「生まれた家柄より、躾や教育の方が人間形成には重要ってことです」
「そ、そうそう、それよ! あたしもそれが言いたかったの! さすが小説家!」
躾も教育も、家柄以上に怪しいじゃない、花音……。
「とにかくさ、クラスの男子とか、そういうほうがいろいろ確率高いんじゃない? 高望みばっかりしてないで……」
「高望みなんて……咲々芽は自ら壁が高いと思い込んでるだけよ。ちょっと無理めの相手だって、あたしなんてもう十回以上ゲットしてるし!」
「……ゲットできてなくて草」
後ろから、プッと吹き出すような声。
私と花音が振り返ると、口に手を当てた手嶋さんが、眼鏡の奥で慌てたように目を丸くする。
「ご、ごめんなさい、つい、可笑しくて……」
「ああ、ううん、別にいいんだけど……」
手嶋さんもそんな風に笑うことがあるんだ、と、少し驚いただけ。
「でも私、新しい小説のネタ、思い浮かんだかもしれません」
「へぇ~、今の話で? どんな?」
「えっと、女子高生二人が、おバカなガールズトークをしながら身の周りの謎を解いていく日常系ミステリーで……」
やっぱり手嶋さん、意外と失礼な人かもしれない。
通路の奥に突如広がるエレベーターホール。
……というほど広くもないのだけど、廊下の閉塞感から開放された直後なのと、エレベーターの入り口が一機分しかないことが、実際以上に広く感じさせる。
「エレベーターって普通、もう少し玄関の近くにない?」
花音が、相変わらず白々とした空間を見回しながら尋ねる。
「そもそも研究棟は平屋造りだからね。エレベーターは後付けらしいよ」
「ふ~ん……って、駐車場にいくの!?」
「駐車場?」
花音の視線の先をたどると、エレベータードアの上に並んでいる〝1F〟と〝P〟の文字パネル。
「その〝P〟はparkingじゃなくてParabolaの〝P〟デスね」
エレベーターのボタンを押しながらビリーが答える。
「ああ、なるほど。屋上の、アンテナのことね」
「この研究所が開設されたのは2000年代に入ってすぐデスが、上のパラボラは2010年の秋に運用開始デスからね。エレベーターもその頃に架設されたのでしょう」
ビリーもここにきてまだ二、三年のはずなのに、すらすら年代まで諳んじられるなんて――
「やけに詳しいんだねぇ、ビリー」
私と同じ感想を持ったのか、矯めつ眇めつ周囲へ飛ばしていた視線を、再びビリーへ戻す花音。
いや……、花音はビリーの就任時期なんて知らないし、ただたんになんとなく質問しただけかな?
「ん~、詳しいというほどじゃないデスが、2010年はこの研究所にとっても大きなプロジェクトのあった年デスからね」
「大きな、プロジェクト?」
「はい。アメリカ同時多発テロ事件からピッタリ九年後の、2010年九月十一日……と言えば、お分かりデスか?」
ビリーの口角がキュッと上がる。何かを試すような笑顔。
少しのヒントで相手の知識を試したがるのは、頭の良い人の特性?
その時、ああ!と、何かに思い当たったように吃驚したのは手嶋さんだ。
「もしかして……種子島の?」
「おお! 日付だけでそれを言い当てるとは、素晴らしいデスね、雪実!」
驚いたように、しかし嬉しそうに胸の前で両手を合わせるビリー。
そんな彼の様子を見て、すかさず花音も相槌を打つ。
「あ、ああ! なるほどなるほどぉ……あれのことか! 鬼ヶ島の!」
「桃太郎か! ……種子島だよ、た・ね・が・し・ま」
「じょ、冗談よ! し、知ってるし、種子島くらい! あ……あれでしょ? あれが伝わってきたんだよね……」
「あれ?」
「あれよ、あれ……キリスト教的な……」
「的、ってなによ……。っていうか、2010年じゃ遅すぎるでしょ、キリスト教!」
いや、まてまて。そもそも種子島って言えばキリスト教じゃなくて鉄砲伝来だし!
後ろで、プッと手嶋さんが吹き出す。
花音のせいで、またおバカなトークを披露してしまったじゃん……。
「じゃ、じゃあ、咲々芽は、何があったか知ってるの? 種子島!」
実は私も、ビリーから日付を聞いた段階ではまだピンときてなかったのよね。
手嶋さんが〝種子島〟を出してくれたおかげで気づけたんだけど――
「と、当然、知ってるわよ。種子島って言えば、誰でも知ってるような大きな施設があるでしょう。超有名なやつ」
「知らないよ。そんな島に、何があるのかなんて……」
「ほら、最近もニュースでやってたじゃない。探査機の衝突装置で、小惑星にクレーターを作ったとかなんとか……」
「ああ――っ! もしかして、あれ? ロケット打ち上げの! ……ジャックス!!」
「JAXAだっつ~の……」
そう、誰もが知ってる大きな施設――JAXAの種子島宇宙センターだ。
毎年数回のロケット打ち上げが行われ、その成功率はH2Aロケットで九十七%以上、H2Bでは百%(※)と、日本の高い技術力を遺憾なくアピールしている。
(※本作執筆時の令和元年五月のデータを基にしています)
そして、2010年九月十一日に打ち上げられた、この研究施設にも関わりの深い衛星と言えば……そう、あれに違いない。
それにしても手嶋さん、日付を聞いただけで種子島を思いつくってことは、当然、その日に何が打ち上げられたのかも知ってるってことよね。
屋上のパラボラと関連付けて思い当たったんだとしても、予想以上に博識だわ。
「それではみなさん、乗って下さい」
先にカゴ室に入ったビリーの指示を受けて、ホールに残っていた私たちもエレベーターに乗り込む。扉が閉まると同時に、表示灯に上向きの矢印が点灯した。
私たち六人を乗せて、カゴ床がゆっくりと浮き上がる。
通常の建物であれば、たっぷり三~四階は上昇するくらいの時間をかけて、表示灯のランプが〝1F〟から〝P〟へ。
比較的低速なエレベーターというのもあるが、研究棟自体も、平屋にしてはかなり天井の高い造りなのだ。
再びエレベーターの扉が開く。
外は、一階同様、白を基調としたエレベーターホール。
ただし、広さは四畳半程度。狭い。
正面に、飾り気の無い片開きのドアが二つ。
一方にはexitus(出口)、もう一方にはentrance(入口)、さらにその下には括弧書きでcrean roomと記されている。
「行きましょう」
ビリーが入り口のドアを開けた直後、暗かったドアの向こう側で、オレンジ色のマーカーランプが一斉に点灯した。
「なになに?」
ドアを押さえるビリーの横をすり抜けながら、物珍しそうにきょろきょろと視線を振る花音。
全員が入り終わったところでビリーがドアを閉める……と同時に、天井から勢いよく大量の空気が吹き込んできた。
超高性能エアフィルタを通して送られてきた外気が、気流のシャワーとなって室内の塵埃を除去していく。
うひゃ――っ!と、花音がはためく制服のスカートを両手で抑えるが、一方向流式のクリーンルームなのでスカートが捲れることはない。
「!!」
その隣で、手嶋さんも慌てて帽子を押さえる。
二十秒ほどのエアシャワーののち――
「おっけーデ~ス!」と言いながら、いつの間に移動したのか、クリーンルームの出口を開けて外へ出るビリー。続いて、環さんと周くんも外へ。
「もぉ~! ひとこと言ってよビリィ~」と、頬を膨らませながら、花音も続く。
「sorry、sorry」
「あ~、なんで半笑い? もしかして確信犯だなぁ~、ビリー!」
半分じゃれるように文句を言う花音の後ろから、「それ、誤用ですよ」と指摘しながら続く手嶋さん。最後に、私も外へ。
というよりも――
ここが、目的地の研究室だ。
ここが、目的地の研究室だ。
これまでの白亜の色彩からはうって変わって、藍色を基調とした、やや薄暗く感じられる室内。
約二十メートル四方のラボラトリーの中心には、五メートルほどの高さの天井まで届く炉型の機械が設置されている。
〝霊子同調炉〟だ。
天井にはLEDの室内照明もあるが、ほとんどいつも使われていない。
代わりにぼんやりと研究室内を照らしているのは、霊子同調炉や壁際の操作盤上に並ぶ、計器やパネルの電光表示が放つ淡い光。
さながら、SFアニメなどでよく見られる宇宙戦艦の操縦席のような、近未来感の溢れる佇まい。
奥の壁にはモニタリング用の大きなガラスがはめ込まれていて、そこから漏れてくる隣室の明かりも、こちらの室内の照度を高めている。
そしてもう一つ、室内照明の役割を果たしているのが、左の壁際に天井から吊り下げられて設置されたオブジェ――
「でっかぁ――い! なにこれ!?」
人工衛星の模型だ。
花音が、クリーンルームを出るとすぐに、間接照明の中に浮かび上がったそのオブジェに向かってパタパタと駆け寄る。
二分の一スケールだけど、それでも太陽光パドルの両翼端間は十メートル超。
本体部分は高さ約三メートル、幅約一.五メートルの直方体。もちろん、実物はその倍だ。
下部には、各種アンテナやレーザーリフレクタなどが見て取れる。
「それがさっき、2010年に打ち上げられたって話してた――」
「あ~~、言わないで! あたし、知ってる! あれでしょ? えっと、スズメだったか、カラスだったか……」
やけに庶民的な鳥になったわね。
「ハヤブサ、って言いたいの?」
「そうそう、それ! ……って、言わないで、って言ったじゃん! もうちょっとで思い出せそうだったのに!」
「スズメやカラスから? そもそもこれ、ハヤブサでもないけどね?」
「え? そうなの? だってさっき、クレーターを作ったとかなんとか……」
ああ、なるほど。さっき私が話した小惑星探査機の話から繋がってるのか。
それが鳥の名前だと知っていたのは、花音にしては上出来だったけど。
「さっきのは単に、たまたまテレビで見たJAXA関連のニュースの話をしただけ。この衛星の名前は、え~っと――」
「準天頂衛星初号機〝みちびき〟」
私の後ろでそう呟いた声の主は……手嶋さん!?
振り向くと、人工衛星のオブジェを見上げながら、眼鏡の奥でこれまでにないほど瞳をキラキラと輝かせた彼女の姿が目に留まる。
「そ、そう、それ……。よく知ってるね、手嶋さん」
まあ、2010年九月十一日という日付からロケット打ち上げを言い当てたくらいだし、何が打ち上げられたのかだって当然知ってるよね。
「日本独自の衛星測位システムを担う準天頂衛星みちびき。開発費四百億を投じた初号機がH2A十八号機で打ち上げられたのが、2010年九月十一日……」
ほんと、よく知ってるなぁ、手嶋さん……。
「当初は2009年度中に打ち上げ予定だったのが、原子時計の調達や姿勢制御装置の不具合によって2010年に延期、2017年にJAXAから内閣府に運用を移管され……」
「ご、ごめん……人工衛星オタク!?」
「ああ、えっと、昔から宇宙とか海底とか遺跡とか、そういうの大好きで……」
宇宙と海底と遺跡……。関連が、あるような、ないような……。
「ああ――……、そっかそっか、それがあったかぁ! みちびきね、みちびき。なにかこう、あれよね、いろいろ、導くやつ……」
花音がまた、やけにふんわりとした……というよりも、ないに等しい知識レベルで相槌を打つ。
これまでの会話から、この方面で手嶋さんと張り合っても無駄だってことが分からないところが、花音の花音たる所以なんだろうな。
「でも、QZS(準天頂衛星)はGPS(米衛星測位システム)の信号と組み合わせることで国内での測位精度を上げる……いわゆる国家プロジェクトですよね?」
手嶋さんの淀みない質問。
人工衛星のことになると、こんなにも饒舌になるのか。
「う、うん……まあ、そう、かな?」
「それがなぜ、飛鳥井研究所にかかわりのあるプロジェクトなんですか? なにか、技術供与でもしたんでしょうか?」
「わ、私もそこまでは詳しく知らないけど……何か、あったみたいよ、いろいろと」
「あやふやだなぁ、咲々芽は」
花音が小バカにしたように鼻を鳴らす。
「花音が言うな! 確か、何かを用意したとかなんとか……」
「何かって、何です?」
手嶋さん、すごい食いつき方ね!
もう、琢磨くんの件、すっかり忘れちゃってない!?
私が困ったように首を回すと、拳で口を押さえてニヤニヤ笑っているビリーと目が合う。
さてはビリーめ、私を試して楽しんでるな? 性格悪っ!
環さんと周くんも、霊子同調炉の前でノートパソコンを広げながらなにやら話しこんでいて、こちらには気づいていない。
「なんだったかなぁ……なにか大事な部品を用意したとかなんとか……」
「部品や技術が提供された国や民間団体のリストは一通り目を通したことはありますけど、飛鳥井研究所という名前に記憶はないんですが……」
これだからオタクってやつは!
「原子時計じゃ」
不意に、室内に響く女性の声。
この声は――!?
顔を向けると、隣室の入り口からこちらへ向かって歩いてくる白衣を着た女性の姿。
……とはいえ、百五十センチにも満たない背丈は、その出で立ちとはあまりにもアンバランスに映る。
いや、ソールが十センチはありそうな厚底パンプスを見る限り、実際の身長は百四十センチ未満だろう。十歳くらいの女の子の平均身長がだいたいそれくらいだ。
梳された様子もない、鳥の巣のように縺れあった柿色のセミショートは、女児……というよりもむしろ、粗雑な中年女性を思わせる。
唯一、研究所員であることを証明している白衣の裾は、まるで緞帳のように、床に引き摺らんばかりの位置にまで垂れ下がっていた。
近づくにつれはっきりと見えてきた彼女の表情も、体つきと同じく幼く見える。
声質も若い女性のそれだ。……が、しかし――
「本来は2009年に前倒しで調達できるはずじゃった原子時計が、計画が狂って四年ほど遅れることになったのじゃ。それを一年に短縮できたのが――」
その口調と淀みのない説明は、大人の女性研究者を彷彿とさせるには十分なものだった。いや、むしろ、ババくさいとも言える。
物珍しい生き物でも見るかのように、ポカンと口を空けている手嶋さんと花音に向かって、さらに白衣の女性が言葉を繋ぐ。
「……一年に短縮できたのが、飛鳥井家の口利きだったというわけじゃ。その見返りとして当研究所は〝みちびき〟に、とある物を搭載する許可を得たのじゃよ」
「…………」「…………」
「もっとも、前倒し調達を裏で頓挫させたのも実は飛鳥井家の仕業という噂も――」と続けられる説明の途中で、手嶋さんと花音がほぼ同時に呟く。
「のじゃロリ……」「ロリババア……」
「誰がロリババアじゃ!」
両手を振り回してプンスカと怒りだしたのは、もちろん、白衣の女性――
佐枝子さんだ。
「誰がロリババアじゃ!」
両手を振り回してプンスカと怒りだしたのは、もちろん、白衣の女性――
佐枝子さんだ。
「おまえか!」と、手嶋さんを指差す佐枝子さん。
「い、いえ、違います、私はえっと……のじゃロリの方……」
「じゃあ、そっちっか!」
「う、ううん。あたしも、のじゃロリって……」
花音も慌てて誤魔化す。
まあ、ああ見えて佐枝子さんも、言うとほど怒ってないんだけどね。
あの見た目だし、基本的にこの手の感想には慣れているらしい。
ふんっ、と大きく鼻を鳴らして二人を一瞥してから、再び佐枝子さんが口を開く。
「言っておくがおまえら……のじゃロリだったらセーフみたいな空気を出しておるが、それだって十分失礼じゃからな!? 勘違いしてもらっては困るぞ!?」
「す、すいません……」
「ごめんなさ~い」
深々と頭を下げる手嶋さんの隣で、花音も軽く会釈をする。
ったく誰がのじゃロリじゃ……とブツブツ言いながらも、それ以上説教を続けることもなく人工衛星の方へ向き直ると――、
「当時は日本も政権交代直後でな。事業仕分けなんてやっとる一方で、それなりの人気取りイベントも欲しいという与党の思惑もあり、こちらの要求もすんなり――」
説明を続ける佐枝子さん。
そういえば佐枝子さんもオタク気質なんだよなぁ。
とにかく、好きなことについて語る時間は何よりも優先する、というのがオタク道なのかもしれない。
「とりあえず佐枝子さん、先にお互いの紹介を済ませませんカ? 一応、今日のオペレーションに関わる子たちかもしれないデスし……」
「ん? どうしたビリー? ちゃんと仕事なんかしおって」
「ちゃんと仕事して下さいよ」
佐枝子さんの前だと、さすがのビリーも常識人に見える。
「ったく、仕方がないのう。じゃあビリー、さっさと済ませてくれ」
佐枝子さんが、名残惜しそうに人工衛星を見やりながら、体だけを私たちの方へ向ける。……子供か!
「ハイハイ。え~っと、こちらの二人は先々芽さんの同級生で、手嶋雪実さんと矢野森花音さんデス」
フルネームは最初のエントランスでサラッと聞いただけのはずなのに、淀みなく二人を紹介する。さすがはオックスフォード!
「で、こちらがこの研究室の主任、亮部佐枝子さんデウガァッ!!」
紹介の途中で突然、悲鳴をあげるビリー。
気が付けば佐枝子さんの、電光石火の回し蹴りが彼の太ももを蹴り上げていた。
「名字は言わんでもいいと、いつも言ってるじゃろうがっ!」
「イタタタ……。そうはいっても、初対面なのにファーストネームだけ、ってわけにもいかないでしょう?」
「いくじゃろ! 本当の紹介ってわけでもあるまいし」
「いや、本当の紹介デスけど……」
「そもそもじゃ。自己紹介形式にすればよかったんじゃ!」
「そうは思いましたけど……ボクにやれって言ったの、佐枝子さんデスよね」
ちょっといい? と、ずっとウズウズしていた花音がついに会話に割って入る。
「漫談中、ごめんなさいね」
「どこが漫談じゃ!」
「え―っと、佐枝子ちゃんって、何年生なの?」
「さ、佐枝子ちゃ……、何年って……」
佐枝子さんの唇がわなわな震えだしたかと思った次の瞬間、「ア―ウチッ!」と、再びビリーの叫び声が室内に響いた。
電光石火の小枝子キック。
「に、二十八じゃ二十八! 前もって言っておかなかったのか、ビリー!?」
「イタタタタ……すいません、ボクもてっきり、咲々芽が教えてるものかと……」
そういえばすっかり忘れてた。
佐枝子さん、見た目はせいぜい十歳ちょいくらいだからなぁ。それが二十八歳って、もしかすると環さんが男だっていうより衝撃が大きいかも。
隣を見ると、案の定、ポカンと口を空けて佐枝子さんを見つめる花音と、その隣には……あ、あれ? やけに目をきらきらと輝かせている手嶋さん。
人工衛星のときと同じように、かなりときめいているように見えるけど……。
「だ、だって……見た目はどう見ても、小学生……」
まだ、驚きも冷めやらぬ……といった様子で、口が半開きのままの花音。
そんな彼女を見上げながら、佐枝子さんが大きく溜息を吐いて舌打ちする。
「まったく、仕方がないのう。……思春期早発症という病は知っておるか?」
「ししゅんきそうはつしょう?」
「そうじゃ。普通の子供よりも数年早く思春期を迎えてしまう病じゃが、子供のころ、わしもそれを発症したのじゃ」
「えっと……ってことは、普通より早く性徴が見られるんだし、他の人より体も大きくなりそうじゃない?」
「逆じゃ」
私も以前、佐枝子さんから聞いたことがある。
思春期早発症を発症すると、早期に体が完成してしまうため、一時的に身長が伸びたあと小柄のままで身長が止まってしまうらしい。
佐枝子さんのように身長だけでなく、肌や顔つきなどあらゆる見た目が児童のまま止まってしまうというのは、非常に珍しいらしいということだったけど。
「なるほどねぇ~」
佐枝子さんの話に納得したように、コクコクと何度も頷く花音。
「ってことは、不老不死?」
「……花音は、バカか?」
佐枝子さんが花音を指差しながら、両目を眇めて私の方を見る。
初対面の相手に相当不躾な態度だけど、よくよく考えればそれをさせる花音の態度も大概よね。
「佐枝子さん、それはさすがに……」失礼では?と嗜めるビリーに目を向けることもなく、「作用反作用の法則じゃ」と呟いて人工衛星に向き直る佐枝子さん。
その様子を見ながら、
「初めて見ました……リアルロリババア……」
相変わらず昭和の少女マンガのような瞳で、手嶋さんが囁く。
え? もしかして〝ロリババア〟って言ったの、手嶋さんの方!?
宇宙、海底、遺跡……に並んで、ロリババアも新たに追加。
さすが小説執筆が趣味ってだけあって、マニアックな方面にも造詣が深そうね。
いわゆる、サブカル女子ってやつ?
「話がそれたが……まあ、そういうわけで、この研究所が〝みちびき〟に搭載するよう求めた装置が――」
「ああ、佐枝子さん。もう、準備は終わったんですか?」
再び、誰かが彼女のサテライト講義を遮る。声の方を見やると――
艶やかな、微笑みらしきものを浮かべた環さんが歩いてくるのが見えた。