環さんの食事が終わると、目に付いた物だけを適当に片付け、一通り事務所の掃除を終わらせる。
無理に今日掃除する必要もなかったんだけど、放っておくと指数関数的にちらかっていくので、結局、後日苦労するのは私だ。
時間を確認すると、午後七時まであと十分少々――。
だいぶ遅くなっちゃったな。
家には遅くなると連絡は入れておいたけど、花音たちの話で時間を取られた分、予定よりもだいぶ押してしまった。
「すっかり暗くなっちゃったね」
ブラインドのスラットを、スラリとした長い指で押し広げながら環さんが呟く。
この時期の日没時間は六時二十分頃だ。
日が落ちてから三十分……窓の外はすっかり宵闇に包まれている。
「マンションも遠くないですし、大丈夫ですよ」
「いやいや、ダメダメ」
そういいながら、環さんが周くんの方を振り返る。
「あまねくん、適当なところで切り上げて、咲々芽さんと一緒に出られる?」
「ん? ああ……いつでもいいよ」
回転椅子を回して、ノートパソコンのモニターから私の方へ視線を移す周くん。
いくら背が高いとはいっても、中身は年下の中学三年生。いつも、弟と話すような感覚で気軽に接してはいるんだけど……。
あの切れ長のツリ目で見つめられると、年上男性から値踏みされているような気がして、やはり少しだけ緊張してしまう。
「だ、大丈夫ですよ。バイト帰りはこれくらいの時間になることも多いですし。あまねくんだって、明日の調整とか、いろいろあるんじゃないですか?」
「俺は、大丈夫だよ。PCさえあればどこでだって作業できるし」
それを聞いて環さんもにっこりと微笑む。
「だそうだよ? 大丈夫! あまねくんは僕と違って仕事はきちんとしてるから」
「いや、環さんもきちんとしてくださいよ……」
そんな私たちのやりとりをよそに、いつの間にか周くんがパソコンの電源を落としてリュックにしまい始めている。
私服だし、荷物も他には見当たらない。
ここへは一旦自宅に帰ってから来たのだろう。
さっさと帰り支度を整えると、「じゃ、行こっか」と、椅子から立ち上がる。
「う、うん……いいの?」
「ああ。いい加減俺も腹減ったし」
「あれ? そういえばあまねくん、自分の夕食は?」
周くんの代わりに、環さんがニコニコしながら、
「もしかしたら咲々芽さんも食べるかも、ってあまねくん、自分は食べなかったんだよ」
「そ、そうだったんだ……ごめん」
「べ、別にそんなんじゃねーよ! 俺は、作りながらちょくちょくつまんでたし……。咲々芽が食べなくても、明日の朝、環が食べればいいかなって……」
早口で言い訳する周くん。
――あれ? 照れてる?
頬が少し赤らんでいるように見えたので、よく見ようと下から覗き込むと、咳払いをしながら顔を背けられた。
――あらら? なんか、可愛いぞ!?
……と思わされたのも束の間、
「ほら! いくぞ!」
つっけんどんに言い捨てると、さっさとパーテーションの向こう側へ姿を消えてしまった。間を置かず、ドアベルがチリチリン、と鳴って外へ出ていく足音。
「ちょ、ちょっと待ってよ、あまねくん! 私、まだ用意してな……」
声をかけながら、慌てて私も荷物を取りまとめる。
「ごめんなさい環さん。まだ、流しに洗い物が……」
「ああ、いいよいいよ。そんなの僕がやっておくから」
……と言ってはいるけれど、やってくれた試しがないのよね。
「じゃあ、環さん、また明日!」
「うん、気をつけてね!」
ニコニコと手を振る環さんへの挨拶もそこそこに、急いで廊下に出る。
一瞬、階段の方へ向かいかけて、人の気配に振り返ると――。
階段とは反対側――入り口脇の壁に寄りかかりながら私を待っていた周くんの姿。
スマートフォンをポケットにしまいながら「おせぇよ」と、ディムグレイの瞳で私を見下ろしてくる。
「あまねくんがさっさと行っちゃうから!」
「待ってたじゃん」
「待つなら中でいいじゃん! せっかく見た目はいいんだし、あとは、もっとエスコートが上手くなれば女子にもモテると思うよ~」
……といっても中身は中三だしね。
今から女性の扱いなんかに長けてたら、それはそれで嫌味だけど。
「いいよ、女子なんて、めんどくせぇ」
「うわ……なに? 硬派厨? そんなのがモテるの、ラノベの中だけだよ?」
「なんだよそれ? ……なぁんか、苦手なんだよ。女となんて、これまであんまり接点なかったし、何を話していいか分かんないっつぅか……」
「環さんや、私だっていたじゃない」
「環は女じゃないだろ! 咲々芽だって……なんていうか……純粋に女、って感じじゃないし……」
「純粋な女でしょっ!」
ビルから通りへ出ると、二人で駅とは反対方向に向かう。
自宅のマンションは、電車なら一駅区間なのだが、駅から二十分ほど歩くため、直接徒歩で帰っても、帰宅時間はほとんど変わらない。
普通のペースで歩を進める周くんだけど、なにせ百八十センチ級の長身男子だ。百五十三センチ程度の私は、たまに小走りにならないとおいていかれそうになる。
そこまで気の回る人じゃなくたって、歩幅を合わせるくらいのことはすると思うんだけど……こういうところなんだよね、周くんに足りないのは。
「そういえばあまねくんとこは、中高一貫なんだよね」
「学校? うん、まあ……。でも、たぶん、高校は外部を受験すると思う」
「あ、そうなんだ。頭良いみたいだもんねぇ……高校は、レベル上げるの?」
「いや……う――んと……」
少し言い淀んで……。
「たぶん、咲々芽と同じとこ」
「は――あ!?」
「たぶん、咲々芽と同じとこ」
「は――あ!?」
思わず立ち止まった私を、周くんが足を止めて振り返る。
「な……なんだよ?」
「なんで、あんなバカ高校に!?」
「ば、バカってほど低くないだろう、偏差値は……」
「いやいや、あまねくんのレベルからしたら、バカよ! ゴミクズだよ!」
「自分の通ってる学校、そこまで卑下しなくても」
「だって……あまねくん、勉強できるんでしょ? もっといいとこ、いくらでも選べるじゃない!」
「興味ねぇよ……」
「叔父さんはなんていってるの!?」
「親父? 最初は怒ってたけど……卒業したら家を継ぐって約束したら、それなら、好きにしろ、って。これまで、なんだかんだ明言は避けてたから、俺」
確かに、本家を継ぐなら学歴は関係ないだろうけど……。
でも、周くん、学年でもトップを争うような成績だったはずだよね!?
いくらなんでもうちの高校じゃ……
「もったいな過ぎる! なんでわざわざ?」
「今の学校、ちょっと遠くて不便だし、それに、今後も環んとこでいろいろ手伝ったりするならさ……一緒の学校の方が何かと便利だろ」
「私と? そりゃそうかも知れないけど……そんなことで進路を決めてもいいの? 人生を左右するんだよ!」
「右も左も……実家を継ぐってのは、周りからみたらとっくに既定路線だし、今さらどこの学校に行こうが関係ねぇよ」
再び前を向いて歩き始めた周くんを、慌てて小走りで追いかける。
「でも、先のことはどうなるか分からないし、もし跡継ぎの話がなくなったら……」
「そんときゃそんときで考える」
「あんな高校出たって先が知れてるよ!? 三流企業に就職して、せいぜい年収四百万がいいとこだよ!」
「四百万なら、さっきトレードで稼いだけど」
――確かに。
「い、いや、もしかしたら三百かも!? ……じゃなくて、トレーダーなんて、いい時もあれば悪い時だって……」
「ああ~、分かった分かった、うるさいなぁ! まだ時間はあるし、もうちょっと考えてみるから」
とうとう、周くんが面倒臭そうに手を振って話を打ち切る。
私も、ちょっと熱くなりすぎたかもしれないけれど……。
でも、学力が足りなくて進路を限定された人間からしてみたら、周くんの選択はもったいなく思えて仕方がない。
「咲々芽はさ……」
前を向いたまま、周くんが私の名を口にする。
「うん?」
「俺と一緒の高校とか、迷惑?」
「な、なんで!? そんなわけないじゃん! 迷惑どころか、むしろちょっと嬉しいくらいだけど……」
花音なら狂喜乱舞だろうな。
「ただ、私の気持ちとか関係なく、純粋にもったいないな、って……」
「ああ、いや、もういい。迷惑じゃないならいいんだ、それで」
――あまねくん、私が迷惑に感じて反対してるとでも思ったのかな?
ホッ、と一つ息を吐く周くん。
なんとなく、安堵の気持ちが込められていた気もするけど、後ろからはその表情を窺い知ることができない。
「この時間じゃ、帰って飯作るのも面倒だな……」
話題を変えるように、周くんがボソッと呟く。
本家のある地域ではまともな学校がない、という理由で、中学生ながら一人暮らしをしている周くん。
私ん家が傍にあるのも許可が下りた要因の一つだろう。
もっとも周くんにとっては、学校のことはただの言い訳で、たとえ期限付きでも息苦しい本家から離れたかった、というのが本当の理由だったみたいだけど。
「なら、うち寄ってく? お母さんも、いつでも連れてこいって言ってるし」
「いや、いい。明日の準備もあるし、ちょっとそこのコンビニ寄ってくわ」
「そっか。じゃあ……」
私も、と言いかけて口を噤む。
「いや……やっぱり私、外で待ってる」
団地やマンションが立ち並び、その合間合間に、芝生広場や公園などの緑地が整備された小奇麗な住宅街。
駅からは少し離れているので、今、周くんが入っていったコンビニ以外に商業施設もない。疎らに外灯はあるものの、言ってみれば、ちょっと薄暗い通りだ。
そんな、それほど広くもない車道の反対側を――中学生くらいかな?
後ろ髪を二束に纏めた制服姿の女の子が歩道を歩いている。
さらにその後ろ、五~六メートルほど離れて、髪の薄い、頬がこけた中年男性が付いて行くのが見える。決して早いとはいえない女の子の歩調とほぼ一緒の速度。
しかし、それよりも「アレ?」と思わされたのは、男が着ているコートだ。
スプリングコート……と呼ぶには少々厚手の、グリーンのミリタリーコート。
四月下旬だしそこまで不自然な装いではないかもしれないけれど、それでも、今日の陽気を考えるとあんなコートが必要な日だったとは思えない。
しかも、荷物は持たず、左手はポケットに、右手は胸元からコートの懐に突っ込んだ状態の歩き姿。
――少なくとも、帰宅途中のサラリーマン……ではないよね。
コンビニに入ろうとして思いとどまったのは、視界の端に入ってきたその男が気になったからだ。
それにしても、見れば見るほど……
――怪し過ぎる!!
女の子はスマートフォンの画面に気を取られていて、後ろの男には気付いていないようだ。
私も、もう歩きスマホはしないように気をつけよう。
と、その時、一瞬スマホの画面から目を離して前を確認した女の子が、不意に向きを変えてすぐ横の公園へと入っていく。
おそらく、あそこを横切るルートが自宅への近道なのだろう。
直後、それを見た男の歩幅も広がり、女の子との距離がぐんぐん詰まっていく。
同時に、コートから右手を引き抜く。
その先に握られていたものは……
――牛乳パック!?
スーパーなどでもっともスタンダードな、千ミリサイズの紙パックだ。
コンビニの方を振り返ると、ちょうど周くんが、レジの上に買い物カゴを乗せたところだった。
――ダメだ、出てくるまで待ってられない!
帰り際、花音が話していた言葉を思い出す。
『春の変質者キャンペーン中だから、あまり遅くならないようにね』
――花音のやつ、あんな所でとんちきなフラグを立てるから、まんまと回収する羽目になったじゃない!
女の子を追うように、足早に公園の中へ入っていく男。
それを追って私も、急いで道路を横断すると公園の中へ駆け込む。
再び男の後ろ姿を見つけた時にはもう、男と女の子の距離は二~三メートルほどまで縮んでいた。
「ちょっとあんた? そこで何してるの?」
すばやく息を整えて男に声をかけると、それに気付いて男と、そして女の子も同時に振り返る。
私と男の姿を見て、驚いたように二、三歩後退さる女の子。
と、次の瞬間、くるりと振り返ると反対側の出口を目指して走り去り、逃げるように公園から出ていった。
――うん、それでいい!
しかし、外灯に照らされた男の顔は、振り返った直後の驚愕の表情から一転、すぐに薄ら笑いを浮かべたような下卑た表情に変わる。
踵を返して私の方へ近づきながら、右手の牛乳パックを振り翳した。
遠目ではよく見えなかったが、パックの注ぎ口は左右完全に開かれていて、大きく口を開けた状態になっていた。
こう見えても私だって、中学のころは裏バンと呼ばれた女! だがしかし!
……自慢じゃないけど戦闘力はゼロだ。
男が、何が入っているのかも分からない牛乳パックを目の前で振るうのを見て、私も「きゃあっ!」と悲鳴を上げて両腕で顔を隠す。
ビシャン! と、耳朶を打つ粘ついた水音。
直後、頭の上から、何か冷たい液体がドロリと滴り落ちてきた。
頭の上から、何か冷たい液体がドロリと滴り落ちてきた。
ねっとりと、貼りつくように、頬や指の間を伝って流れ落ちる不気味な感触。
――な……なに、これ? なにをかけられたの!? 気色わるっ!
混乱しているところへ、今度はパシャッ、というカメラのシャッター音と、目の前を照らすフラッシュの閃光。
顔面を覆った指の隙間から覗いてみると、私の方へスマートフォンのカメラを向けて立っている男の姿が目に留まる。
パシャッ、パシャッ、パシャッ! と、なおも連続して鳴り響くシャッター音。
――なに!? 写真を撮られてる!? なんなの一体!!
「いやぁぁぁ――――っ!!」
軽いパニックに陥り、思わずその場にしゃがみこんだ。
ししっ、と、歯間から息を漏らしたような短い笑い声が聞こえ、続けて、公園の入り口へ向かって走り去る男の足音。
直後。
「咲々芽ぇ――っ!!」
背後で、私の名を呼ぶ聞き慣れた声がした。
反射的に振り向いた視線の先には、公園の入り口付近で仁王立ちになっている周くんの姿が。
「あまね……ぐん……」
緊張の糸が途切れ、両目にじわりと熱いものがこみ上げてくる。
コート男が、目の前に立つ周くんの横をすり抜けて逃げようとしたその刹那――。
左手で素早く男の襟首を、右手で男の左袖を掴むやいなや、周くんが左足で男の下半身を跳ね上げた。
柔道初段、周くんの流れるような大外刈り!
一瞬で半回転したコートの男が真っ逆さまに地面へ落下っ!
……と思ったんだけど、地面に落ちる瞬間、周くんが男の襟首をクイッ、と持ち上げる。
変質者とはいえ、相手は恐らく素人だし、受け身など取れないだろう。
あのまま落とせば後頭部を強打して重症を負わせかねない……と判断した周くんの咄嗟のフォローに違いない。
結果、腰から落ちたコート男が「うぐやぁっ」と、聞いたことのないような呻き声を上げて、地面の上で身をよじる。
「大丈夫か! 咲々芽――っ!」
うつ伏せになったコート男の腕を締め上げながら、私の方へ視線を戻す周くん。
かけられた液体がなんなのかはまだよく分からないけれど、冷静になってみれば紙パックの中に入れて持ち歩けるような代物だ。
とくに痛みもないし、健康被害を受けるようなものではなさそうだ。
大丈夫……と答えようとしたけれど、舌が震えて上手く声が出ない。
必死に頷く私を横目に見ながら、周くんがポケットから取り出したスマートフォンの画面をタップして、
「……ああ、はい。高浜四丁目のセブンマート前の公園で……はい、そうです。……変質者を暴行の現行犯で取り押さえたので……はい。怪我は多分、大丈夫です……」
警察に状況を報告する。
そんな周くんの周りに、通行人が物珍しそうに集まり始める様子を、私は少しの間ぼんやりと眺めていた。
◇
「液体は……いわゆる、ローションでしたねぇ……」
あのあと、駆けつけた刑事や警察官と共に簡単に現場検証を終えてから、周くんと二人、警察署の相談室という部屋に通された。
警察署といえば、スチール製の机にパイプ椅子、机上には電気スタンドみたいなイメージがあったんだけど、通された部屋にあったのは立派な応接セット。
高級家具……というほどではないだろうけど、飛鳥井事務所のものより数段上等なのは間違いない。
借りたタオルで髪の毛や制服を拭きながら十分ほど経ったあと、部屋に入ってきた年配の刑事から告げられた液体の正体が、それだった。
――ローションか、やっぱり。
現場検証の時点ですでに、ペシャンコになった私の髪を拭いてくれた女性警官も同じことを呟いていたので予想はできていた。
「ローション? というと……ベビーローション、みたいな?」周くんが聞き返す。
「まあ、分析してみないと種類までは分かりませんが……おそらく、ラブローションみたいなやつでしょうな」
「ラブローション……」
周くんの大人びた風体のせいで、刑事も彼が未成年だということを失念していたのかも知れない。
確か、公園で見せてもらった警察手帳には槇田って書いてあったかな?
不思議そうに首を傾げる周くんを見て、槇田刑事が慌てて言葉を繋ぐ。
「ああ、まあ、ローションはローションですからね。似たようなもんですわ。どっちにしろ身体に害のあるようなものではないですから、その点は安心して下さい」
ラブローションといえば、いわゆる、男女がホテルなんかでイチャコラする際に使うサポートグッズだ。
今時は、有名なものなら普通の薬局でも取り扱っている……らしい。
私も知識として知っているだけで実際に使ったことはないけれど(そもそも恋人ができたこともない)、周くんにはまったくピンときていないようだ。
中三くらいなら知っていてもおかしくはないとは思うけど……。
あまねくんも見た目と違って、中身はかなりウブだからなぁ。
「なんであの犯人は、咲々芽にそんなものを?」
「やつのスマホの画像を調べてみたら、同じような画像……つまり、制服姿の女生徒にローションをかけた写真ですな。そんなのがいっぱい保存されてまして……」
「はあ……。だから、なんで、そんなことを?」
「なんでといわれても……そういう性癖だとしか……」
槇田刑事が口ごもる。未成年相手に言葉を選んでいるのだろう。
私も聞いたことはある。いわゆる〝濡れフェチ〟ってやつだ。
そんなものを見て何が楽しいのかは分からないけど、女性の濡れた髪や衣服を見て興奮する男性というのが世の中には存在するらしい。
鞄からスマートフォンを取り出して〝濡れフェチ〟と検索してみると、何枚も表示されるそれらしき画像。
さらに槇田刑事に食い下がろうとしている周くんの横腹を指でつついて、「ほら、こういうやつ」と、出てきた画像を見せる。
スマホの画面を覗きこむと同時に、周くんの切れ長の目がわずかに大きくなり、少しだけ頬が赤らんだ。
――ほんとこういうの、耐性がないんだなぁ。
画面を覗きこむ周くん。
切れ長の目がわずかに大きくなり、少しだけ頬が赤らむのが分かった。
ほんとこういうの、耐性がないんだなぁ。
「いわゆる〝濡れフェチ〟なんていわれる性癖の連中ですな。……とりあえず、未成年が刑事の前で、そういう画像を回し見るのは控えてもらえませんかね」
と、槇田刑事が、向かいのソファーで苦笑いを浮かべる。
おい槇田! 笑い事じゃないっつーの!
そもそも、濡らすだけなら水でいいよね!? なんでローションなのよ?
怪訝そうに眉を顰めた私の顔を見て、何を勘ぐったのか槇田刑事が的外れなフォローを始める。
「ああ……まあ、詳しいことはまた取り調べのあとになりますが、ローション以外に変なものを混ぜていたということはなさそうですから、その点は安心していいかと」
そんなこと考えてもいなかったのに、余計不安になったよ!
周くんが、刑事の語尾にかぶせるように「変なもの?」と質問を重ねる。
「ああ、いや、こういう犯行ですと、液体の中に……例えば唾液だとか尿だとか、まあ、あれやこれや余計なものをまぜる輩もいるんですよ」
槇田刑事の説明によれば最近、管轄は別だけど、他の地区でも同様の事件が何件か発生していて、警察でも警戒を強めていたらしい。
犯人のスマートフォンにあった画像を見る限り、恐らく同一犯であろうということ。
そして、これまでの被害者にかけられていた液体の分析結果からも、ローション以外の成分は検出できていない、というような説明を聞かされた。
そういうことなら確かに、今回もローションだけである可能性が高いわよね。
唾液? 尿?……どころか、他にもあれやこれや余計なものが混ぜられていたなんて、想像しただけでも気持ち悪すぎて吐き気がする。
ほんと、ローションだけでよかったよ。
……いやいや、よくはないけどねっ!!
「で、これからのことなんですが……被害届けは、どうします?」
槇田刑事から、届けを出せば、明日改めて供述調書を作成する必要があるとの説明を受けて、私と周くんが顔を見合わせる。
少なくとも明日は無理だし、仮に日にちをずらしたところで、面倒臭いことに変わりはない。
ローションを掛けられた以外に怪我もないし、他の被害者から届けは出ているので、あの男がこのまますぐに釈放、ということはないらしい。
そもそも暴行罪は親告罪ではないから、現行犯逮捕であれば当然だ。
ムカつく気持ちがないといえば嘘にはなるが……数万円の示談金のためにこちらだけが個人情報を与え、あんな男の関係者とこれ以上関わるのも気が滅入る。
一応、親とも相談をしてから、ということで今日の提出は見送ったけど……。
「届け……どうしよう……」
「被害にあったのは咲々芽なんだから、咲々芽が決めればいい」
警察車両――黒いミニバンの後部座席に座りながら呟いた私の独り言に、質問をされたと思ったのか、すぐあとから乗り込んできた周くんが答えた。
今夜はこのあと、この車で自宅まで送ってくれるらしい。
「そうは言ってもさ、捕まえたのはあまねくんだし、届けを出せばあまねくんだっていろいろと面倒なことになるよ? 実況見分とかそういうの、あるんじゃない?」
「現行犯逮捕したのは俺だし、どっちにしろいろいろ聞かれるんじゃないかな。いずれにせよ、このことで俺のことなんて気にすんな」
走り出した車の中で、前を向いたまま答える周くんの横顔をそっと覗き見る。
ずっと、一つ年下の弟のように思ってたけど……いつの間にか頼もしくなったなぁ……。
私の視線に気付いたのか、周くんも、フッとこちらへ視線を向ける。
「なんだ?」
「あ、ううん……そういえばまだ、お礼言ってなかったよね。公園のこと……」
「助けたって言ったって、逃げた犯人を捕まえただけで、結局被害には遭ってるし」
「それでも全然違うよ! もし逃げられてたら、あんなわけの分からない写真、どんな使われ方してるのか気持ち悪くて仕方ないじゃん」
「そっか……」
「うんうん。だから、ありがと」
「いや、別にそんな大したことじゃ……」
周くんが指で鼻の頭をかきながら、窓の方へ顔を向ける。
あれ? 照れてる?
「ってか咲々芽も、弱いくせに危ねえことにホイホイ首突っ込むんじゃねえよ」
「い、いや、強くないだけで、そこまで弱いってわけじゃ……」
「同じだっつ―の。なんのために俺が一緒に帰ってんだよ」
「ご、ごめん……一応確認はしたんだけど、店の中……」
「いや、その前からおかしかったでしょ」
「え?」
「店に入る前から、様子おかしかったじゃん。もしかしてあの変質者のこと、最初から知ってたんじゃないの?」
気付いてたんだ……。
「う、うん……。でも、あのときはまだ、そこまではっきり怪しいってわけでもなかったから」
「それでもいいから、一声かけろって」
「うん……そうだね……」
これまで弟のように思ってたから、私の方でもついついお姉さんになったような気分で接していた。
傍にいてくれるのはもちろん心強いけど、かといって助けを求めるとか、そういう対象ではなかったんだよなぁ……今までは……。
これまで弟のように思ってたから、私の方でもついついお姉さんになったような気分で接していた。
傍にいてくれるのはもちろん心強いけど、かといって助けを求めるとか、そういう対象ではなかったんだよなぁ……今までは。
でも、一緒の学校に行くことになったら、事務所に行かない日でも今日みたいに送ってもらったりすることが増えるのかも?
いや……いくら従姉弟同士とは言え、周くんみたいな男子と一緒に帰ったりしたら、ぜったいに周りからあれこれ言われるよなぁ。
というかまず、花音が黙っちゃいないな!
下手したら、毎日事務所や自宅まで付いてきかねないぞ、あいつ。
「どうしたんだ? ニヤけたり、しかめ面になったり……」
「え? な、なに? 見てたの!?」
「ああ……なんか、いろいろ表情が変わってオモシれぇな―と……」
「趣味わるっ!」
さっきまで窓の外を眺めてたと思ったのに、いつの間に!
「そういえば、まだ通ってるの? 道場」
「柔道? うん、まあ……週に二日だし、ちょうどいい運動だよ」
ちょくちょく環さんに呼び出されるので、学校の部活動は入っていないらしい。
ただ、小学校の頃までは本家の叔父さん――つまり、周くんのお父さんにみっちり鍛えられていたおかげで、かなりの実力であることは確かだ。
なんの才能もない私と違って周くんなら、柔道部でもきっと全国クラスの活躍ができるだろうと思うと、少しもったいない気もする。
もっとも、中学生ながら百八十センチ前後という超長身に、運動神経だって人並み以上だ。なにをやったってかなりの成績を収められるだろう。
いったい、何を食べたらこんなに大きく……と、そこまで考えて、リュック以外には手ぶらの周くんに気がつく。
「あれ? お弁当は? 買ってなかったっけ?」
「ああ、なんか、公園のゴタゴタのせいで、気付いたらどっかいっちゃってたな……。カップ麺もあるし、今日はそれでいいよ」
「そ、そっか……なんか、ごめん……」
シートの合間からカーナビを確認すると、既に時間は午後九時を回っている。
「遅くなったし……やっぱり今日、寄っていったら? お父さん出張で留守だし、お母さんだけだから気を使わなくていいよ」
「叔母さんだけなら、さらに行けないって」
「なんでよ?」
「柊さんの留守中に他所の男が訪問するって、拙いだろ、世間的に」
「はあ? 男って……甥っ子じゃん!」
ラブローションは知らないくせに、変なところには気が回るのね。
「どっちにしろ、明日、どうなるか分からないからもう少しプログラムの調整しておきたいし……。前回、跳躍中に一度フリーズしちゃったから」
「そっか……じゃあ、何か持っていこっか? 夕飯」
「それこそ拙いだろ! 深夜に、男子の部屋に女子が訪問とか……」
「深夜って、まだ九時過ぎじゃん! それに、女子っていったって……私は純粋な女子じゃないんでしょ、あまねくん的には」
少し膨れた私を見て、周くんがフッと息を漏らす。
「なに? 怒ってんの?」
「べつに~。そんなんじゃないけどさ」
「帰ってシャワー浴びてなんだかんだやってたら、いい時間になっちゃうじゃん。いいよ今夜は……危険だし……」
「危険……って、私んちからあまねくんの部屋まで、何が起こるっていうのよ? 同じ階じゃん」
◇
「ただいまぁ……」
「お姉ちゃん、おかえり――!」
自宅マンションの玄関ドアを開けると、すかさず奥から駆け出してきたのは弟の湊斗だ。
七歳、小学二年生。くりっとした二重に利発そうな鼻筋、母親譲りの白い肌に小さな花が咲いたような薄い唇。
姉の私が言うのもなんだが……正直、めちゃくちゃ可愛い。
私と性別が逆になればよかったのに……とは、親戚中から言われすぎて耳タコだけど、私ですらそう思ってるから文句は言えない。
「湊斗~! まだ起きてたんだ!?」
「うん! お姉ちゃん、もうすぐ帰ってきそうだってお母さんが言ってたから、待ってたの」
「そっかそっかぁ……って、今はダメ! お姉ちゃん、汚れちゃったから!」
聞きようによっては危ないセリフを吐きながら、抱きついてきそうになった湊斗を慌てて制止する。
かけられたのは頭からとはいえ、ローションは全身に飛び散っている。
すでにだいぶ乾いて、事件直後のようにベタベタしている……ということはないが、あちこちカピカピと照かっている制服に湊斗を抱きつかせるのは忍びない。
「あらあら……大変だったみたいね~」
エプロンで手を拭きながら奥から歩いてきたのが、母の柊萌葱。
飛鳥井本家の徹叔父さんの、一回り年下の妹に当たる。
二十歳で結婚し、二十一歳で私を生んだので今は三十六歳だが、ややふっくらとした皺の少ない童顔のせいで、未だに二十代後半に見える。
客観的に見ても、女性としては十分に可愛らしい容姿に分類されるだろう。
メッセンジャーでちょくちょく状況も連絡していたので、思っていたよりも心配はしていないようだ。
「お父さん出張中だったから……迎えにいけなくてごめんね?」
「ううん、大丈夫。あまねくんも一緒だったし」
「二人とも夕飯、まだなんでしょ? 一緒に連れてくればよかったのに」
「ああ―……、一応誘ったんだけどね。明日、環さんところの手伝いにいくし、お父さんが出張中だって話したら、気を使って……」
「あらなんで? お父さんいないんだから、逆に気を使わずに済むのに……」
確かにうちのお母さん、歳の割には若いし、逆に周くんはとても中三には見えないけどさ……それにしたって、さすがに不倫疑惑はありえないでしょ!?
お母さん一人ならともかく、私や湊斗だっているんだし。
「じゃあ、夕飯のビーフシチュー、持って行ってあげましょうか?」
言いながら、エプロンを外しはじめる母。
あまねお兄ちゃんのところに行くの―!? 僕もいく―! と、湊斗も母のスカートの裾をつかみながら、一緒に台所へ戻っていく。
周くんに懐いている……というのもあるけど、こんな時間に外に出ることなどまずないので、それだけで湊斗にとっては深夜のお散歩気分でわくわくするようだ。
……といっても周くんの部屋、同じ七階の、たった四軒先なんだけどね。
中学生ながら一人暮らしを許可してもらえたのは、柊家と同じマンションに住む、ということにしたからだ。
ただし、ここは賃貸じゃなく分譲マンション。
子供の一人暮らしのために、マンション一部屋をポンッと購入してしまう事実から、飛鳥井本家の財力の大きさが垣間見える。
「ついでだから、私が持っていこうか~?」と、玄関から声をかけると、
「咲々芽は、早くお風呂入っちゃいなさい!」
台所の奥から、母の声が聞こえてきた。
確かに、こんな姿でシチューなんて持っていったら、また周くんに怒られそうだな。
午前十時――。
遅めの朝食……いや、もう早めの昼食といった方がいいかな。
そんなことを考えながら、ダイニングでフレンチトーストを口に運んでいると、不意に室内に響くインターホンの呼び鈴。
環さんが来るにはまだ早いし、何かのセールス?
特に気に留めることもなくテレビのリモコンを探していると、インターホンのモニターに向かって「あら、こんにちは」と話しかける母の声。
誰だろう? 直後――
「花音ちゃんが来てるけど……約束してるの?」と、私の方を振り向いた母に訊ねられた。
はあ? 花音が?
フレンチトーストを頬張りながら慌てて立ち上がり、受話器を受け取る。
「花音!? なにしに来たの!?」
『なにしにって……今日、ユッキーんちに行くんでしょ?』
「そうだけど、事務所の仕事で行くんだし、花音には関係ないじゃない」
『昨日、ちゃんとユッキーの家は教えてもらったから! あたしが案内するよ!』
「こっちだって教えてもらったわよ。大丈夫だから、帰れ」
『まったまたー、ツンデレめぇ! いいから早く開けてよ』
ハア……と、心の中でため息を吐きながら振り向くと、母が、「とりあえず入ってもらったら?」と小首を傾げる。
ここで、帰れといって帰るようなやつなら苦労はしないよね……。
仕方なくエントランスドアのロックを解除して、残りのフレンチトーストを口の中に放りこんだ。
ほぼ同時に、メッセンジャーで環さんにメッセージを送る。
……が、いつも通り、すぐに既読にはならない。
さてと……困ったことになったな。
◇
「こんにちわ~!」
私が玄関のドアレバーをそっと回すやいなや、外側からグイッと引っ張られ、大きく開いた隙間から花音が顔を覗かせる。
「あんたね……ドアを開けたのが私じゃなかったらどうするつもりだったのよ」
「咲々芽以外の人に開けてもらった記憶ないもん」
花音が、さっさと焦げ茶色のローファーを脱いで框のスリッパに履き替える。
まあ、花音が来るときは必ず私もいるんだから、そりゃそうだけどね。
「湊斗なら、サッカークラブの練習に行ってるわよ」
キョロキョロしながら廊下を進む花音の後ろから声をかける。
「なぁ~んだぁ……。久しぶりに頬ずりしたかったのにぃ」
「やめてよ。もう湊斗だって小二なんだから、いい加減ウザがられるよ」
「え―……。頬ずりがダメとなると、あとはハグくらいしかないじゃん!」
何もしない、って選択肢はないのか。
「それより、花音……なんで今日、制服なの?」
「あー……、私服はまだ早いかな、って」
「なにが??」
花音が呆れたように私を振り返る。
「制服姿しか見せたことのない女子が私服になるって、男子に自分を印象付ける最重要ギャップ萌えイベントだよ! なんて言うんだっけ……ボディビルバスタイム?みたいな……」
「ポジティブサプライズね」
「それそれ! そのポジなんとかを演出するためにも、もう少し制服姿を印象づけておかないと、効果が薄いでしょ?」
誰に対して?……というのはもう愚問だろう。
ここまで打算的だと、逆に純粋に見えてくるから不思議だ。
「ところで咲々芽……なんであんた、まだパジャマなのよ?」
「昨夜、ちょっといろいろあって遅かったのよ……」
帰宅したのは夜の九時過ぎだったが、そのあと入浴や食事を済ませ、母に事件の事を報告しているうちに、気がつけば夜中の十二時近くに。
環さんの手伝いで土日が潰れるかも知れないので、そのあと、宿題などを済ませていたら、結局寝るのは一時を過ぎてしまった。
「はあ? あんたまさか、あのあと……イケメン従兄弟たちとラブラブイベントでも起こしたんじゃないでしょうね!?」
「まあ……ラブと言えばラブかも……」
「なにぃ――っ!?」
ラブはラブでも、ラブローションだけどね。
「あらあら、花音ちゃん、いらっしゃい」
開いたリビングのドアから、顔を出した母がにこやかに微笑む。
「叔母さんこんにちは! ご無沙汰してます~」と、花音の受け答えも如才ない。
「中学校の卒業式の日以来かしら? なんだか、大人っぽくなったわねぇ」
「そりゃあ、もう女子高生ですから!」
「うちの咲々芽だってジェーケーのはずなんだけど……」
「毎日見てるから気付かないんですよ。咲々芽だってだいぶ大人っぽくなりましたし……あともうちょっとで、ちゃんとしたジェーケーになりますよ」
逆に、なにがちょっと足りないのよ!
……と、問い質そうと思ったけど、私の胸に向けられた花音の視線に気づいて言葉を飲み込む。
ああそうですか。そこですか。
「そんなことより咲々芽! なんなのよ、昨日のラブラブイベントって!?」
「花音が想像してるようなことじゃないよ。とりあえず、中に入って座ったら?」
二人でリビングのソファに腰を下ろすと、昨夜の出来事を話して聞かせる。
当然、周くんのことにも触れざるを得ない。
「そんなことがあったんだ……」
とんちきなフラグを立てた張本人も、さすがに驚いた様子だ。
「じゃあ、あのローション魔も、やっと捕まったってことか……」
「あの?」
「咲々芽、知らなかった? I市の方だけど、ちょっと前から何人か被害に遭ってて話題になってたじゃん」
「そう? そんなニュース、見た記憶ないけど」
「全国ニュースでは流れてないかも。あたしも、ケーブルテレビとかで見たのかな? 確か、同じ学校の女子中学生ばっかり被害に遭ってたとか」
「中学生? 私、高校生なんですけど」
「高校生でも、スポーツブラは中学生扱いでしょ――」
パ――ンッ! と乾いた音を立てて花音の髪の毛が乱れる。
気がつけば、脊髄反射でテーブルの上に身を乗り出した私の右手が、花音の頭頂部を引っぱたいていた。
「いった~い!」と、両手で頭を押さえる花音。
「普通のブラよ! っていうか、中学生だってスポーツブラなんて着けないわよ!」
「中一の時はスポーツブラだったじゃない、咲々芽」
「やかましい!」
今朝も、みんなびっくりしてたわよ……と言いながら、クッキーと三人分の紅茶をトレイに載せて、母がリビングに入ってきた。
「今朝? みんな?」
今朝も、みんなびっくりしてたわよ……と言いながら、クッキーと三人分の紅茶をトレイに載せて、母がリビングに入ってきた。
「今朝? みんな?」
「咲々芽の制服、そこのクリーニング屋さんに出してきたときにね……」
私も何度か訪れたことはある。
あそこの奥さん、話好きだもんなぁ。
「話したの? 昨日のこと」
「だって、あの汚れだし、訊かれちゃうでしょう」
「まあ、それはそうだろうけど……」
「『男に、頭からラブローションかけられて帰ってきた』って言ったら、クリーニング屋の奥さん、かなりびっくりしてたわよ」
「そりゃねっ!! っていうかそれ、変な方向でびっくりされてない? 大丈夫!?」
みんなって、もしかして、他のお客さんまで?
「ラブローションじゃなくて、普通のローションでいいよね」と、花音も真剣な顔で頷く。
問題はそこじゃないが、確かに、ラブローションはさすがにマズい気もする。
飛鳥井の家に生まれながら異能の力が発現しなかった母は、早くから本家の生業とは切り離され、のんびりと育てられたらしい。
ただでさえ安穏とした田舎で、幼少期と思春期の多くを祖母――私から見れば曾祖母と一緒に、スローライフを満喫していたという母。
まあ、普通の人とリズムが違うというか、不具合が多いというか……。
天然っぽくなるのは無理もない。
ちなみに、異能の力が発現する原因は遺伝だけではなく、飛鳥井家のある土地の地主神〝龍神〟と、飛鳥井家の屋敷神が関係していると伝えられている。
なので、飛鳥井家から出た者――例えば私の母のように、他所へ嫁いだ者の子に異能の力が発現することは通常あり得ない。
私に妙な異能が発現したのは、出産時期にちょうど父の単身赴任が決まったため、里帰り出産をしたせいらしい。
だとしても、かなりレアなケースではあるようだけど。
「とりあえず、準備してきたら? 環さん、何時にくるの?」
クッキーを口に運びながら、花音が壁時計を確認する。
「十二時に迎えにくる約束だから、まだ余裕はあるけど……」
再び、スマートフォンでメッセンジャーを開いてみる。
先ほど送ったメッセージは……まだ既読になっていない。
もっとも、環さんは電話にすらすぐにでないことが多く、SNSのメッセージにいたっては二十四時間以内に既読になることの方が稀だ。
以前、夕飯の買い物の前に、何か食べたいものがあるかメッセンジャーで問い合わせたときも返信がなかったことを、ふと思い出す。
結局、献立は適当に考えて、そのことは私もすっかり忘れてしまっていたんだけど……。
それから三日くらい経ってようやく届いた返信が、一言『エビ』。
なんのことか分からず、一日考えた挙句『エビ?』って聞き返したけど……それ以来、急ぎの用件で環さんとメッセンジャーは使っていない。
これはやっぱり、今日も未読のまま来ちゃうパターンだろうなあ……。
「そういえば花音ちゃん、環くんのこと知ってるの?」と、母が訊ねる。
「はい! 昨日、紹介してもらって」
ニコニコ笑顔で答える花音。
途端に、環さんと周くんの、日本人離れしたルックスについて会話に花が咲き始める。
こうなると、可愛い湊斗のことも話題に上り、最後に『なんで咲々芽だけそんなのっぺり顔なんだろ』という話になるのがパターンだ。
ヤレヤレだよ。
のっぺり顔のお父さんを見れば、だいたい理由はわかるでしょ……。
「準備してくるよ」と二人に言い残して、そそくさと席を立った。
自分の部屋に戻ると、パジャマ代わりのスウェットから黒いショートパンツに履き替え、Tシャツの上から灰色のパーカーをダボッと重ねる。
大きめのパーカーが流行っているから……というわけではなく、周くんのお下がりをもらったらこのサイズだった、というだけだ。
彼が小学生の頃に着ていたものらしいが、それでも袖はかなり余っている。
セミショートのボブヘアを前髪ごとハーフアップにして、軽くヘアピンで止める。
化粧もしないし、準備といってもこれで終わりだ。
最後に、替えの下着をウエストポーチに入れてリビングへ。
そのままソファーに腰を下ろして、クッキーをつまみ始めた私を、目を丸くして眺める花音。
「うそ……だよね?」
「何が?」
「咲々芽、その格好でいくつもり!?」
「う、うん……。おかしい?」
「おかしいでしょ! 早朝のゴミ出しじゃあるまいし、休日の女子高生がお出かけするスタイルかそれ!?」
「花音だって、制服じゃん」
「女子高生にとって制服は、ある意味、私服以上の戦闘服でしょ!」
叔母さん、これどう思います? と、私を指差しながら母に訊ねる花音。
「環さんの手伝いをする時は、だいたいいつもこんな感じよ、佐々芽は」
「そうなんですか!? ちょっと咲々芽! いくら男性陣が従兄弟だからって……さすがにそれはポンコツ過ぎよ!」
「男性陣って……合コンじゃないんだから……」
「とにかく諦めるのは早いって! 雪実だって言ってたじゃん。四頭身なら結婚できるって……」
「いくら咲々芽でも、五頭身はあると思うわよ?」と、心配そうに私を見る母。
私はどこぞのゆるキャラか!
普通に七頭身はあるわよ!
「四親等ね……。っていうか、そんな理由じゃないから」
おめかししたところで、手嶋さんの家でなにかが見つかれば、おそらくその足であそこに行くことになる。
あそこに入るなら、オシャレなんてしてもどうせ無駄骨になるんだよね……。
不意に、インターホンの呼び鈴が室内に響く。
エントランスからではなく、直接玄関脇のボタンを押された音だ。
午前十一時。
環さんなら暗証番号は知っているけど、まだ時間が早いし、そもそも、迎えに来たって普段はエントランスまで。
誰だろう?と思っていると、モニターに向かって「そんなの、いつでも良かったのに」と話す母の声が聞こえてきた。
すぐにこちらを振り向いて――、
「あまねくんが小鍋を返しにきたわよ? あがってもらう?」
直後、ブフッ! と音がしたかと思うと、花音の口から飛び散ったクッキーの粉が私の全身に降りかかった。
直後、ブフッ! と音がしたかと思うと、花音の口から飛び散ったクッキーの粉が私の全身に降りかかった。
「汚っ! ちょっと花音、なにやってんのよ!」
「まあいいじゃん……ついでに、もっとお洒落服に着替えなよ」
「〝ついで〟の元を作ったの、あんたじゃん……」
「そんなことより、咲々芽!」
口の周りに付いた粉を手で拭いながら目を見開く花音。
「なんであまねくんがここに来るの? 家、近いの!?」
「ま、まあ、そんなに遠くはないかな……」
むしろめちゃくちゃ近い。
「なんで教えてくれなかったのよ!」
「なんで教えなきゃなんないのよ」
「あたし、ターゲットはあまねくんにしよっかな、って、昨日言ったよね? 咲々芽も聞いてたでしょ!?」
「まあ、聞いてたといえば聞いてたけど……」
「じゃあ教えてよ」
「〝じゃあ〟の意味が分からない」
あれ? 来客ですか? と、玄関から周くんの声が聞こえてきた。
花音の靴に気づいたのだろう。
「ええ、咲々芽のお友だち。あまねくんのことも知ってたわよ。今日、環くんたちと一緒に出掛けるんでしょう?」
「はい。でも、彼女が迎えにくるなんて聞いてなかったけど……」
そう言いながら、ドア枠を避けるように、少しだけ首を傾げてリビングへと入ってくる周くん。直後、花音と目が合い――、
「こっちかよ!」と、あからさまに眉間に皺をよせる。
「こっち、ってどっちよ!?」と、軽く頬を膨らませながらも、嬉しそうな花音。
踵を返した周くんにぶつかりそうになって「ひゃう!」と、母が悲鳴を漏らす。
「ど、どうしたの!?」
「い、いや、来てるのがこっちだとは思わなくて……」
どうやら、靴の持ち主が手嶋さんの方だと思っていたらしい。
「とにかく、座りなさいよ、あまねくん♡」
二人掛け用ソファーの中央に座っていた花音が、奥へずれて隣の座面をポンポンと叩く。
それを見て「ハァ……」と短くため息を吐いたあと、こちらへ向き直ると私の隣の一人掛けソファーに腰を下ろす周くん。
花音の顔を見ながら――、
「どういうことだ咲々芽? なんで、矢野森さん……だっけ? ここにいるの?」
私だって分からないわよ……。
「なんか他人行儀だなぁ。昨日みたいに花音って呼んでいいよ!」
「呼んでねぇ―よ、一度も!」
部活かなにか? と、周くんが、今度は私の方へ顔を向けて訊ねる。
花音の制服姿から、学校の用事だと想像したのだろう。
「いや、そういうわけじゃないけど……制服が戦闘服らしいよ、花音の」
「戦闘服?」
改めて周くんに見つめられて、花音が、少しだけ恥ずかしそうに身をよじる。
男の子の……しかも、年下男子の前で花音がこんなふうにはにかんだりするのは異常事態といっていい。
まさか、周くんのこと、すでに本気モード……!?
「やだなぁ、あまねくん、そんなマジマジとぉ……。ほら、制服ってさ、身が引き締まるっていうか……」
「なんか、引き締める必要あんのか?」
「そういうわけじゃないけどぉ……。それにほら、あたしって、見た目ちょっと大人びてるじゃん? 制服を着ると、ちゃんと制服通りの人間になれるから」
周くんが、驚いたように少しだけ目を大きくする。
「へえ……それ、ナポレオンの言葉だろ? よく知ってるな」
「ナポレオン?……って、ワインだっけ? 制服となにか関係があるの?」
花音が小首を傾げる。どうやらナポレオン・ボナパルトをご存じないらしい。
まあ、コロンブスも知らないくらいだし、不思議でもないけどね……。
ちなみに、お酒の方のナポレオンだって、ワインじゃなくてブランデーの等級だし、なんだかいろいろと間違えてる。
周くんが、横目で一瞬私を見たあと、再び花音に向き直って小さく息を吐く。
「まさかとは思うけど……今日、一緒に行くつもりじゃないよな?」
「ええ!? まさか、あたしを仲間外れにしようとしてたの、みんな?」
「仲間外れもなにも……もともと仲間じゃねぇし」
「うわ! ひっど!! 雪実と咲々芽なんて知り合ったばっかりだし、二人だけじゃ彼女も緊張するでしょ!」
「花音だって昨日初めて話しただけじゃん」
私の言葉に、一瞬、イラッとしたように眉を寄せる花音。
「とにかくぅ、あたしがいたほうが逆に助かるって!」
「逆になってないけどね、全然」
周くんの分の紅茶を持って、母がリビングに入ってくる。
「まあまあ、いいじゃない、花音ちゃんも一緒に行けば。大勢の方が楽しいわよ」
「ほらほら! お母様だってそうおっしゃってますし!」
さっきまで叔母さんだったのが、いつの間にかお母様になってる。
「あのね……今日は遊びじゃないんだからね? 一応仕事なんだし、楽しい必要はないんだよ」
「もう、うるさいな~、咲々芽は仕事仕事って……。せっかくみんな集まるんだし、今日はもう、仕事の話はしなくていいでしょ?」
「その話をするために集まるんだよ!!」
そもそも、手嶋さんの話を持ち込んだのは花音でしょ!
三十分後、再びインターホンの音が室内に響く。
十一時五十分……今度こそ環さんだろう。
「環くんも寄っていく?」と、インターホンに向かって訊ねる母に、「時間もないしすぐ出るよ」と声をかけて玄関へ向かう。
周くんと花音も、私に続いてリビングをあとにする。
やれやれ……という周くんの溜息と、小躍りするような花音の対照的な空気が背中越しに伝わってくる。
仕方がない……とりあえず、手嶋さんの家だけは一緒に連れて行くか。
「今度は、環くんも一緒に、ゆっくり遊びにきてね」
少し残念そうな表情で見送る母の言葉に、はい、と軽く会釈をする周くん。
「いってきまぁ~す」
ドアを閉めるとすぐ、周くんが先に立って歩き始める。
「パソコン取ってくるわ……。すぐ戻る」
「うん。じゃあ、エレベーター呼んでおくね」
私の言葉に軽く手を振り、小走りで四軒先のドアの中へ消えた周くんを、ポカンとした顔で見送る花音。
「ねえ、咲々芽……あまねくんがあんなところへ……」
「ああ、うん……。あまねくんち、あそこだから……」
まあ、こうなったら、どうせあとから家の場所も訊かれただろうし、遅かれ早かれバレるよね……。
「ええええ――――――――っ!!」と絶叫する花音。土曜のマンションのフロア中に響くような大声だ。
「う、うっさいバカ!」
「こんなの、ほとんど同棲じゃんっ!!」
三~四軒、キッチン窓が開き、隙間から住人が様子を伺うように顔を覘かせる。
「人聞き悪いこと言うな!!」
ご近所さんに軽く頭を下げながら、慌てて花音をエレベーター前まで引き摺っていった。
「しかし、ほんとびっくりしたなぁ、もう……」
「花音それ、何回言うのよ」
「だって! あまねくんち、近所だとは聞いたけど……まさか同じフロアの隣りだなんて!」
「隣りじゃない。四軒隣り」
「同じだよ! 一戸建てなら隣りの距離だよ!」
環さんが乗ってきた古いミニバンの二列目――私の斜め後ろで、さっきから同じことを繰り返している花音。
「それにしてもほんと……びっくりしたなぁもう」
「もういいっつ―の!」
「それにしてもさ……」
花音が、助手席と運転席の間から身を乗り出すように顔を覘かせる。
「中学の頃からあたし、なんどか咲々芽んちに行ったこともあるのに、あそこにあまねくんが住んでるなんて、全然教えてくれなかったよね!?」
「あー……訊かれなかったしね」
「訊けるか! 存在も知らないのに」
「あまねくんのお父さんに頼まれてたのよ。ビッチは近づけるな、って」
「誰がビッチよ!!」
……っていうか、なにそれ? 真っ赤っか! と、私が膝の上で操作していたポータブルナビの画面を覗きこんで、花音が眉をひそめる。
「下道、渋滞してますね。予定到着時刻、十三時五十分ですよ?」
「そうかぁ。土曜だから空いてるかと思ったんだけど……高速乗ろうか?」
私の言葉に、運転席の環さんもナビの画面を覗き込んでプクッと片頬を膨らませる。
女子かっ!
今日の装いはグレージュのチュニックワンピースに黒のストッキング。可能な限りボディラインを目立たせないのは、女装子ファッションの基本らしい。
もっとも、昨日のようなスマートな服装でもまったく違和感なく着こなしてしまうのが環さんのすごいところだけど……。
「だからもうちょっと早めに待ち合わせを、って言ったのに……。高速なんて、経費大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。昨日、あまねくんがいっぱい稼いでくれたから」
直後、チッと、小さな舌打ちが真後ろから聞こえる。周くんだ。
花音の隣りの席でノートパソコンを広げなら、まだいろいろと調整中らしい。
「高速使うなら……あと二キロで入り口ですよ」
有料道路優先でルート検索をして、ダッシュボードのスタンドにナビを戻す。
すぐに、ナビからも高速道路に関する音声案内が流れる。
「そういえば咲々芽さん、さっき、メッセンジャーで何か送ってきた?」
「気付いてたんですか? なら、すぐに読んでくださいよ」
「う~ん、あれって、開くとそれが送り主にも分かっちゃうんでしょ?」
「〝既読通知〟ってやつですね。分かりますよ」
「それが伝わっちゃうと、すぐに返信しなきゃならない気がして、焦らない?」
「いつも読まないの、そんな理由だったんですか? 別に、雑談するために環さんにメッセージなんて送りませんから、読むだけ読んでくださいよ!」
環さん、意外と気遣い屋さん!?
「で、用件はなんだったの?」
「いいですよ……もう……」
ほんとは、花音にいろいろ気付かれる前に待ち合わせ場所を外に変えたかったんだけど……。周くんがうちに来ちゃった時点で手遅れだ。
「ああ! あたし、既読にならないようにするアプリ、知ってますよ!」
花音が、座席の間から授業中の小学生のようにまっすぐ挙手をする。
「ほんと? それ、私のにも入れられる?」
「大丈夫だと思いますよー。スマホ貸して下さい」
環さんからスマートフォンを受け取ると、自分のスマホも取り出してなにやら操作を始める花音。
あれ? アプリのインストールで、自分のスマホは必要なくない?
と思った矢先、ピロリン、と聞いたことのある効果音が流れる。
「花音……今の音、赤外線通信の音じゃない!?」
「うんうん。ロックかかってなかったから、ついでに番号の交換をね~」
「ついでに、って……勝手にそんなことする人、初めて見たよ!」
「そうかなぁ? えへへへ~」
「褒めてない!」
「ウフッ。これこそ、フレンドリーに友人の輪を広げていくフレンドプロジェクト、名付けて親友ダボハゼ作戦なのだよ、咲々芽くん」
「やけに、友が多いわね……」
っていうか、ダボハゼ言われてますよ環さん。いいんですか?
チラリと運転席に目をやるが、とくに気にしてはいないようだ。
はい、できましたよー、と、花音が環さんにスマホを渡したところで、車も高速入口の側道へ逸れていく。
「ありがとう、矢野森さん」
笑顔でスマホを受け取ったあと、高速に乗るからシートベルトしておいて、という環さんの指示に、花音も「は~い」と元気に答える。
「ほんとは一般道だって、後部座席もベルトしなきゃないんだよ、花音」
「胸が締め付けられて苦しいんだよねー。スポーツブラの咲々芽と違って……」
スポーツブラ? と、環さんが助手席の私を流し見る。
「ちっ……ちがいますよ! 普通のブラですよ! スポーツじゃない、普通の!!」
振り返ってキッと花音を睨みつけると、すでにそ知らぬ顔でベルトを締め終わった彼女がニコッと微笑みかけてきた。
くっそ……、覚えてろよ、花音のやつ……。
◇
高速から降りてさらに走ること十五分。ようやく『目的地周辺です』というナビの音声案内が車中に響く。
近くのコインパーキングに車を停め、四人で車外へ。
午後一時十五分。約束の時間より少し遅れたが、先ほど手嶋さんへは連絡を入れておいたので大丈夫だろう。
チュニックワンピースのスーパーモデルに、百八十センチ級のイケメン男子と制服姿の女子高生。
そして……花音曰く、早朝のゴミ出しファッションの私。
傍から見たら奇妙な取り合わせなのか、道行く子連れの主婦が二、三度私たちの方を振り返りながら通り過ぎていく。
「それにしても雪実、なんでN市なんかからうちの学校通ってるんだろ。別に、わざわざ通うほどの学校でもなくない?」
確かに――。
電車なら三十分、徒歩や待ち時間も合わせれば、通学時間は有に一時間を超えるだろう。
偏差値、五十そこそこの公立高校。全県一学区制導入前の、昔ながらの校区の生徒しか通わないような、言ってみればどこにでもある地元校だ。
こんな、見るからに高級住宅街に住む女子高生が、一時間以上かけて通う学校としてはあまりにもありふれすぎている。
聞いていた住所を頼りに五十メートルほど歩くと〝手嶋〟と表札の掲げられた、周囲の家よりもさらに一際……どころか、二際も三際も立派な豪邸の前に辿り着く。
ローマ字で書かれている家族四人の名前の中には〝YUKIMI〟の文字も。間違いない、ここが手嶋さんの家だ。
環さんが、アルミ製の門扉に付いているブザーを押すと、程なくして『はい』という女性の声がスピーカーから流れてきた。
――手嶋雪実さんの声。
「飛鳥井環です。すいません、少し遅くなってしまって」
『いえ、大丈夫です。どうぞ、お入り下さい』