わたしにとって春は一年で一番好きな季節だ。なのに、春が一番短い気がする。

 汗ばむ陽気に服装を間違えたな、と思いながら上着を脱いで半袖になる。まだ五月になったばかりなのに、太陽が真夏のように燦々(さんさん)と照り輝いていた。

「おっはよー、風花」

 校舎を目指して歩いていると、背後から大きな声で名前を呼ばれて振り返る。と、倫子(りんこ)がぶんぶんと大きく手を振ってわたしに駆け寄ってきていた。胸元まである髪の毛の巻きが今日は少しゆるいなと思いながら立ち止まって彼女を待つ。

「おはよー。どうしたの機嫌いいじゃん」
「昨日の合コン最高でさー! 風花も来ればよかったのにー」
「わたしはそういうの苦手だからなあ。最高だったってことはいい感じの男の子がいたの?」

 わたしの質問に、倫子は「まあね」と言ってにやりと笑った。

 倫子とはこの学校に入学してから出会った。初対面から、まるで幼いときから一緒に育った幼馴染のような雰囲気で話しかけてきてくれたことで、あっという間に仲良くなった。
 その持ち前の社交性で、倫子には友だちが多く、その伝手(つて)を活用してしょっちゅう合コンに参加している。どうやら学生のあいだに絶対彼氏を作りたいらしい。

「今度こそ彼氏ができるに違いない。絶対彼も私に気があるはず。話の盛り上がりが半端なかったもの」
「ふふ、前も同じこと言ってたけどー?」
「前は勘違いだったの。今回はマジだから!」

 うまくいくといいねえ、と答えると、「心がこもってないし!」と倫子に怒られてしまった。そんなつもりはなかったのだけれど、頬を膨らます倫子を見て思わず噴きだしてしまう。

 彼氏、か。

 心の中でつぶやいて、そばにある花壇に視線を向ける。

 花壇にはまだアネモネが咲いている。先月末くらいには、色とりどりのアネモネが花壇を埋め尽くしていてとてもきれいだった。今は半分ほどになってしまったけれど、きれいなのは変わらない。
 白が一番好きだけれど、赤やピンク、紫なんかも映える。

 こんなに鮮やかな、明るい色をしているのに、花言葉は『はかない恋』だなんて。『あなたを愛する』という意味もあるらしいけれど、どちらかというと悲しい意味のもののほうが多い。そのせいで〝愛する〟という意味も物悲しい意味に感じてしまう。

「あれ? 風花?」

 ぼんやりとピンクのアネモネを眺めていると、隣に誰かが並んでわたしの名前を呼んだ。優しい声色で誰だかすぐにわかる。顔を上げると同時に「文哉(ふみや)くん」と呼びかけた。

「またアネモネ見てるの?」

 彼は目を細くして、本当にその花好きだなあ、とつぶやきながら近づいてくる。
 はっとして隣を見ると、倫子が驚いた顔をしていた。目が合うと、にやりと不敵な笑みを見せる。

「じゃあ、私先に行くわ」
「え? あ、うん」

 ぽんぽんっと肩を叩かれ、ついでに「先月話しかけられたとか言ってた男の子だよね? 名前で呼び合っていい感じじゃん、がんばれ」と長い耳打ちをされた。

「ち、違うよ、そんなんじゃ」
「いーからいーから、じゃあね!」

 わたしの否定を聞くことなく、倫子はまるで自分のことのように嬉しそうに軽い足取りで去っていった。

 あんなふうに喜んでくれるのはうれしいけれど……あとで誤解をとかなくちゃ……。

「いいの?」

 文哉くんは小首をかしげてわたしの隣に並び、倫子の背中を見送る。

「あ、うん。大丈夫。あの、なんかごめんね、文哉くん」
「え? なにが?」

 倫子の雰囲気から、わたしがなにに対して謝っているのかわかっているはずなのに、微笑むだけで知らないふりをしてくれた。

 彼は大人っぽさと子どもっぽさの両方が混じり合ったような不思議な雰囲気を(まと)っている。常に余裕を感じる。
 わたしのことも、彼は自然に「風花」と呼ぶようになった。そして、わたしが彼を鈴木くん、と呼ぶと、「下の名前で呼んでよ」と言った。その流れが自然で、そのとき、この人は女の子にもてるだろうなと思った。

 なにより、彼は優しい。
 初めて出会ったときから。

「なに? じっと見て。顔になにかついてる?」
「あ、いや、初めて話したときもアネモネの花壇の前だったなって」

 つい、わたしよりも頭ひとつ分ほど身長の高い文哉くんの顔を凝視してしまった。はっとして目をそらし、視線を花壇に向ける。

 ――『アネモネの花言葉を知ってる?』

 蘇る、あの日。

 アネモネのかわいさに惹かれてじっと見つめているときに、彼は話しかけてきた。あまりの驚きに、一瞬息が止まった気がした。

 正直言うと、彼は怪しさ満点だった。花を見つめているだけのわたしに校内であっても突然声をかけてくるなんてナンパみたいだ。おまけに、自分が女の子の視線を集める容姿であることを自覚していそうな男の子だったから。からかわれているのかもしれないと警戒心丸出しで彼に向き合った。

 けれど、その印象は、数分ですぐにひっくり返った。

 失礼なことを考えてごめんなさい、と謝りたくなったくらい、彼はとても自然体で、温かな口調で、頬を緩めるように笑って、わたしにいろんなことを教えてくれた。花言葉や、花の特徴。そして育て方なんかも。

 それ以来、こうして話をするようになった。校内で出会ったらお互いに挨拶をして、しばらく他愛ないことを喋る。授業が終わったあとはほぼ毎日のように顔を合わせている。

 校内の、どこかの花の前で。

 文哉くんは、花の知識が豊富だった。話をするたびに感心するほどだ。花言葉にはとくに詳しく、聞けばだいたいのものは答えてくれる。

 彼が花に詳しくなければ、こんなに親しくはならなかっただろう。

 でも、それだけの関係だ。
 彼の名前以外で知っていることは少ない。住んでいる家がどこなのかも、花以外の趣味も、普段はどんな生活を過ごしているのかも、聞いたことがないしわたしも聞かれたことはない。

 なんでわたしなんかを気にかけて、こうして親しく話しかけてくるんだろう。なにか目的があるのではないかと思うほど優しい。けれど、彼からは一切(よこしま)なものは感じられなかった。

 まるで、わたしを見守っているかのように思うときがある。

 ただ、今見ている彼が彼のすべてだと思えない。
 つまり……不思議な男の子。

「鉢植えはもう違う花にかわったね。風花、残念なんじゃない?」
「そうなんだよね。アネモネ、きれいだったんだけどなあ……」

 先月には、校舎のそばにアネモネが植えられていた鉢が並んでいた。花壇にたくさん咲き並んでいるのも好きだけれど、鉢植えの中でぽっと光を灯すように花が開いている姿もかわいらしかったのに。

 ゆっくりと花壇から鉢植えの前に移動して、花を覗き込んだ。

「でも、これもこれでかわいいよね」
「風花は花を見るのが好きだなあ」
「見るしか出来ないからね。育てるのも好きだけどあんまり向いてないみたい」

 言われたことだけをするしかできないので、あれもこれも手入れができる人は本当に尊敬する。

 でも、中学まではここまで花に興味があったわけじゃない。学校の花壇なんてろくに見ていなかったので、どんな花が咲いていたのかも記憶にない。なにもなかった、なんてことはないはずなのに。わたしの知らないところで誰かが手入れをしていたのだろう。毎日、丁寧に。

 そんなこと、高校に入ってアネモネに一目惚れをするまで、考えたこともなかった。

 今は花の美しさを保つために、どれほどの愛情を注いでいるのかをわたしは知っている。だからこそ、見るのが好きになった。

「かわりのこの花ってパンジーだよね?」

 紫の花びらとそれよりも少し小さな白色の花びらは、まるでふたつの花が重なってひとつになっているみたいだ。そして、中央の黄色い部分は鮮やかに色づいていた。きれいな配色の花が、敷き詰められたような葉のなかにぽつぽつと浮かんでいる

「あれはビオラだと思うよ」
「え? そうなの? パンジーじゃないの?」

 ビオラの名前は聞いたことがあるし、多分、写真を見たこともある。そのとき、パンジーに似てるんだなあと思ったけれど、鉢植えのあの花は絶対パンジーだと思った。一体なにが違うんだろう。

 驚くわたしに、文哉くんは「小さいからね」と言った。

「パンジーよりもビオラのほうがこぶりなんだよ。と言っても今は大きなビオラもあるんだけど……まあ、鉢植えの花はかなり小さいからビオラかなって」
「大きさだけなの?」

 魚のブリみたいなものなのだろうか。小さかったらハマチ、みたいな。多分違う。

「そんな感じ」

 本当に詳しいなあ。
 感心して「へえ」と声を漏らしながらまじまじとビオラを見つめる。

「そろそろ授業じゃない?」
「え? あ、そっか」

 文哉くんに言われてはっと顔を上げた。そして自然と並んで校舎に向かう。授業が始まるまでは、まだ少し余裕があるので、ゆっくりと。彼もわたしの歩幅とスピードに合わせて歩いてくれているのがわかる。

「さっきのビオラの花言葉も、わかる?」
「いろいろあるけど、『信頼』とか『小さな幸せ』とか」

 同じ春の花なのにアネモネとは大違いだ。

「文哉くんは、花に詳しいよね、ほんと」
「いろいろ教えてもらったからね」

 そっか、と答えるとふたりのあいだに会話がなくなった。でも、春から夏に変わる直前のあたたかな風が、気まずさを感じさせなかった。

 彼との時間は、なんだか懐かしさと心地よさをわたしに与えてくれる。目が合うと「なに」と目を細めて口の端を持ちあげる彼からは、まるでわたしのことを何年も前から知っているかのようなあたたかい空気を感じる。

 そして、わたしも。
 彼のことをずっと前から知っていたような、そんな気持ちを抱く。

「背が高いなって思っただけ」

 やっぱり、不思議な男の子だな、と心の中でつぶやいた。



 日が沈んだころに家に帰宅すると、ドアを開けた瞬間、わたしを出迎えるように心地よい音楽がかすかに聴こえてきた。

「ただいま、今日はベートーヴェンだね」
「おかえり。課題曲なんですって」

 リビングに入りお母さんに話しかけると、お母さんがキッチンから顔を出して答える。晩ご飯がなんなのか、を訊く前に音楽の話をするのはいつものことだ。

 二歳年上のお姉ちゃんは、幼いときからずっとピアノを続けている。趣味や習い事の範疇(はんちゅう)を飛び越え、プロとしてやっていきたらしい。

 それはきっと可能だろう。贔屓目(ひいきめ)なしに、そう思う。昔、発表会で会場の喝采(かっさい)を浴び、先生にも「才能がある」と太鼓判(たいこばん)をもらったくらいだ。

「ほんと、お姉ちゃんはえらいよね」

 リビングの隣にある、簡易な防音室から漏れてくる音楽に耳を澄ませながらつぶやいた。

 ベートーヴェンの有名な、ソナタ 第21番「ワルトシュタイン」ハ長調。細かな指使いで奏でられるそれが、わたしは好きだ。漏れてくる音だけでは小さすぎて、お姉ちゃんの表現まで感じることはできない。けれど、お姉ちゃんの調子はわかる。今日はかなりいい感じだ。音がなめらかだ。

「さすがに、もうそろそろグランドピアノ買わないとねえ……」

 お母さんが頰に手を当てて、ふうっとため息をついて言った。

 もうかれこれ五年くらい前から聞かされている悩みだ。お姉ちゃんのことを考えれば、グランドピアノを買うべきだとわたしも思う。いまだにアップライトピアノだなんて、お姉ちゃんくらいだろう。きっと同級生はみんな立派なグランドピアノと完璧な防音室で練習に励んでいるに違いない。

 とはいえ、グランドピアノは高い。両親がカタログを手に頭を抱えていたときに聞いた話では数百万もするらしい。それをポンと購入できるほど我が家は裕福ではない。

 ――『弘法(こうぼう)筆を選ばず、だよ。べつにいいってそんなの』
 ――『あのピアノに思い入れがあるんだからあれがいいの』

 お姉ちゃんは悩む両親にあっけらかんとそう言った。その言葉にウソはなく、お姉ちゃんはアップライトピアノしかなくても数々のコンクールで入賞している。だからこそ、買うべきなのではないかとお母さんは悩んでいる。そして、問題がピアノだけではないからこそ。いや、本当の悩みはピアノではなく、それに付随する、もうひとつのほうなのだろう。

 防音、だ。

 今は完全防音室ではない。それゆえに、お姉ちゃんは七時から八時のあいだまでしか練習をしない。コンクール前などは、ピアノの先生の家に泊まり込むという手段を取っている。

 ……音楽をするのにこんなにお金がかかるなんて、昔は知らなかった。

 うーんとずっと悩んでいるお母さんのそばで、冷蔵庫から取り出した紅茶を飲みながら聴こえてくるメロディに耳を澄ます。そして、曲が終わりしばらくすると「あ、風花おかえり」とお姉ちゃんがリビングに顔を出した。

 長い髪の毛がさらりと揺らし、お姉ちゃんはダイニングテーブルに着いた。ふうっと一息ついて「疲れたあ」と背伸びをし軽く手のマッサージを始める。

「頑張ってるね、相変わらず」
「まあね。練習はうんざりだけど」

 お姉ちゃんは辟易(へきえき)している、と顔に書いたような表情をしてからいたずらっぽく笑った。そんなこと言って、ピアノが好きで好きでたまらないくせに。

 夢に向かって突き進むのは、簡単なことじゃない。毎日毎日ピアノを何時間も弾くなんて、好きでなければ続けられないことだ。

 お姉ちゃんの練習が終わるタイミングに合わせて準備されていた晩ご飯がダイニングテーブルに並べられる。今日のメニューはスペアリブとズッキーニ、サラダと味噌汁。昨日わたしがお母さんにリクエストしたもので、それを見たお姉ちゃんは「うわ、がっつり!」と顔をしかめた。そういえば最近ダイエットをしているって言っていたのを思いだす。

「ピアノ弾くも体力使うんだから、エネルギー補給しないと」
「だったら風花はそんなに食べる必要ないんじゃない?」
「わたしはピアノのかわりに毎日運動してるからいいんですー」

 ふふん、と誇らしげに笑うと「いつ運動してんのよ」とお姉ちゃんが笑った。わたしたちのやりとりに、お母さんが「いつまでも子どもみたいな言い合いしないの」と呆れて言う。

「けんかするほど仲がいいって言うじゃない」

 お姉ちゃんは「ね?」とわたしを見て白い歯を見せた。

 たしかに、わたしたちは仲がいい姉妹だと思う。わたしが中学生になるまではよく口げんかをしていたけれど、さすがに今はもうない。こうして軽口を叩きあうだけだ。

 お母さんの得意料理でわたしの大好物のスベアリブは、じっくり煮込まれていてお肉が柔らかい。頬張るとタレと絡み合って満足感に満たされる。お姉ちゃんはお肉の気分ではないのか、わたしよりも箸の進みが遅い。文句を言いつつも、わたしと同じでお肉が好きだからぺろりと食べつくすのに。

「体調悪いの?」と訊くとお姉ちゃんは「ねえ」とズッキーニをひとくち食べてから意を決したような表情をわたしに向けた。

「風花、今度ピアノ弾かない?」

 お肉がポロンとお皿に落ちる。

「――なに、急に。やだよお、弾かないよ。っていうか弾けないよ」
「えー」

 えー、と言われてもわたしも困る。

 わたしがお姉ちゃんと同じようにピアノを習っていたのは中学までのことだ。あっさりと、わたしはピアノを手放した。それからほとんど鍵盤(けんばん)に触れていない。指の関節はかなり固くなってしまった。

「風花もお世話になったピアノの山脇(やまわき)先生。今度五十歳になるんだよね。お祝いに風花とアンサンブルやりたいなあって。先生も風花が弾いたら喜ぶと思う」
「無理だよ、絶対手、動かないもん。しかもお姉ちゃんとだなんてバランス悪すぎるって。プロと初心者みたいなもんじゃん。やーだあ」

 遊びならまだしも、そんなお祝いの席で弾くなんて絶対無理。

 ぶんぶんと首を左右に振り、おまけに舌も出してみせる。お姉ちゃんは「えー」「なんでよ」「そんなことないって」「先生すごくうれしいと思うのに」となかなか諦めてくれない。しかもそれを聞いていたお母さんまで「いいじゃない」とお姉ちゃんの援護射撃をしてくる。

 二対一は分が悪い。

「曲もできるだけ簡単なのにするからさ。ほら、『スペイン』のタンゴとかどう? 風花、あの曲昔好きだったよね」
「好きだったけど……わたしもう教室辞めてずいぶん経つし」

 髪の毛をいじりながらどう断ろうかと考える。

 先生にはかなりお世話になったし、お姉ちゃんがいるので今もまったく交流がないわけではない。よく練習をサボることで何度か怒られたことはあるけれど、優しくて、わたしは大好きだった。
 きっと、お姉ちゃんの言うように、わたしがピアノを弾けば喜んでくれるだろう。

 でも。

 お姉ちゃんは知らないから。お姉ちゃんには知られたくないから。

「彼氏とやりなよ。先生がキューピットなんだしさ」

 お姉ちゃんと今つき合っている彼氏の斎藤さんも、同じ山脇先生のピアノ教室に通っていた。中学生のときに先生が生徒を集めて開催したクリスマスパーティで出会い、ふたりは同い年ということで親しくなりつき合った。

 ふたりとも今もピアノを続けているので、わたしとするよりも遥かにきれいな音色で、完成度が高くなるはずだ。曲もわたしに合わせる必要がないので、もう少し派手で、お祝いに似合うものを演奏することができる。

 なにより、自分がきっかけで結ばれたふたりの(きずな)を見せつけるようなアンサンブルは、きっと先生も喜ぶだろう。

「盛り上がるでしょ、そっちのほうが。お似合いだしさ」

 そう言葉をつけ足すと、お姉ちゃんは悲しそうに眉を下げてしまった。
 そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。

「そう、かもしれないけど、でも……」
「あ、でもちゃんとパーティには呼んでよね!」

 リビングの空気が湿っぽくなるのを察して、お姉ちゃんのセリフを遮り満面の笑みを顔に貼りつける。

「かわりにちゃんとプレゼントも用意しとくからさ。そこは安心して」

 他にもなにかサプライズするの?
 誰が来るの?
 どこでするの?

 お姉ちゃんがこれ以上わたしを誘わないように、困った顔をしないように、ペラペラと喋りつづけた。

 へらへらと笑いつづけていると、まるでそういう仮面を被っているみたいに思えてくる。お姉ちゃんとお母さんに、今のわたしはちゃんとわたしに見えているだろうか。

 無駄に明るくしていると、お姉ちゃんは根負けとでも言いたげに肩をすくめてから「わかった」と言ってくれた。

 ほっとすると、無意識に、左手の中指を撫でるように、隠すように手を絡めている自分に気がついた。それをお姉ちゃんに悟られないように自然にほどき、食事に集中する。

 こんな話になるのなら、今日は大好きなスペアリブなんか希望するんじゃなかった。味がまったくわからない。もったいない。



◇◇◇



 授業が終わった放課後、鉢植えの前にしゃがみこみ、ポケットに入れていた折りたたみの定規を取り出して花に当てた。

「……なるほど、三センチ」

 目測(もくそく)で大きさを判断するなんて、やっぱりすごい、と改めて思っていると、背後から「ぶはは!」と噴きだす声が聞こえた。

「なにしてんの、風花」

 振り返ると、口元に手の甲を当てて笑う文哉くんがいた。

「あ、いや、その」

 恥ずかしいところを見られてしまい、頬が紅潮(こうちょう)してしまう。

 なんでこんなところを見られてしまうのか……! もう、タイミングが悪い!
 餌を求める金魚のように口をパクパクさせていると、文哉くんはくすくすと笑いながら近づき隣に来てわたしと同じようにしゃがんだ。そして、わたしの顔を覗き込む。真っ赤になっている顔を見られたくなくてうつむいてしまう。

「大きさ調べてたの?」
「そう、です。あ、べつに文哉くんの説明を疑ってたわけじゃないんだよ! ただ、なんとなく、測ってみようかなあって」

 あははは、と羞恥(しゅうち)を隠すように笑いながら顔を上げると、文哉くんと視線がぶつかった。その瞬間、心臓がぎゅっと握られたみたいな衝撃を受ける。

 ――なんで……そんな優しい笑みを浮かべているの。

 思わず口にしてしまいそうになった心の声を呑み込み、再び鉢に視線を戻す。さっきと違った意味でわたしの顔は赤く染まっている。

 そんなふうに、わたしを見ないでほしい。
 どうしていいか、わからなくなる。

「ビオラ、だった」
「うん」
「あ、その、すごいね……」

 なにを話せばいいのかわからなくなって、無言になる。文哉くんもそれ以上話を続けることがなく、しばらくのあいだ静寂(せいじゃく)に包まれた。遠くで、運動をしている誰かの掛け声が聞こえてくる。

 いつもなら、文哉くんと一緒にいて会話がないことに居心地の悪さを感じたことはない。だけど、今はずっと彼がわたしを見ているような気がして、落ち着かない。

 なにか話してほしい。
 そうしたら、この変な鼓動も収まるはず。

 そんな祈りが通じたのか、文哉くんは「ネットで調べたの?」と訊いてきた。

「あ、うん。五センチ以下か以上か、以外の違いはやっぱりないんだね」
「最近はそのあいだにパノラっていう品種もあるんだってさ。ややこしいよなあ」

 それはややこしい。
 まだまだ花については知識がないわたしには、さっぱりわからない。なんで同じ花を大きさだけで区別するのか意味がわからない。

「花言葉は違うんだよね?」
「パンジーはたしか『わたしを想って』とかだったんじゃないかな。色によっても違うけど、それは忘れたなあ。ちなみにパノラは、わかんねえや」

 あ、ちょっと口調が砕けた。
 それを嬉しく思うなんて、変だ。

「文哉くんでも知らないことあるんだね」
「植物博士だと思ってた? 残念ながらそこまでの知識はないよ。趣味に毛が生えた程度。しかも人から聞いただけだし」
「あはは。でも十分すごいよ」

 偉そうでありながら冗談っぽく話す文哉くんに、さっきまでの変な空気が洗い流されて自然に笑うことができた。文哉くんはそれをわかっていたのだろう。

 文哉くんはいつも相手の気持ちに寄り添って言葉を選んでいる。空気を読むのがうまいのかもしれない。

 ……わたしにも、彼のような優しさがあれば、昨日のアンサンブルの誘いももっとうまく断れただろう。お姉ちゃんにあんな顔をさせることはなかったはずだ。

「ビオラの次は、なんの花になるんだろうね」
「六月だから、多分アリウムとかじゃないかな」

 アリウムは、一度、耳にしたことがあるような気がした。けれど、どんな花なのかさっぱりわからない。どんな花なのかを訊くと、文哉くんは丁寧に教えてくれた。

 普段は落ち着いた雰囲気の文哉くんは、花のことになると一気に饒舌(じょうぜつ)になる。目を輝かせ、ときに懐かしむように遠くを見つめる。

 花が好きな、男の子。
 それは、それだけでわたしを少し幸せに、そして少しさびしくさせる。

 黙って訊いていたけれど、文哉くんははっとした顔をして口を(つぐ)んだ。慌てて喋るのをやめたように見えて「どうしたの?」と首をかしげる。

「いや……ちょっと、昔を思いだしただけ」

 彼が、はは、と力なく笑うと、わたしたちの背後から生ぬるい風が通りすぎていった。髪の毛がふわりと揺れる。その中にどこかから飛んできたのか、白い花びらが雪のように風に乗ってやってきた。

「わ、なにこれ」

 髪の毛にも絡まってしまった気がして頭を払う。

「ウツギ、かな」
「ウツギ?」

 何語なのかもわからずきょとんとすると、文哉くんは辺りを見まわしてから「あそこ」と指をさした。その方向に視線を向けると、少し離れた場所に、人の身長くらいの植木が見える。

 どうやらあれがウツギ、という名前のものらしい。たしかに白い花がついている。ただ、旬は過ぎたのかまばらだけれど。その花びらが風でわたしたちのところまで飛んできたようだ。

「あんなのあったんだ、気づかなかった」
「風花はアネモネしか見てないからなあ」

 そんなことないよ、と言いたいけれど、その通りだ。

 これからはもう少し周りの草木にも注目してみよう。知らない花がたくさんあるに違いない。高校に入ってからは多少知識を身につけたつもりだったけれど、文哉くんと話すたびに、知識の「ち」の文字にすら届いていないのだと感じる。

「あれにも花言葉ってあるの?」
「風花、花言葉好きだよね」
「だって、面白いじゃない。それに……最初に知った花言葉がなんだか、すごく悲しい感じだったから、さ。幸せな花言葉、いろいろ知りたいなって」

 初めて花に一目惚れしたというのに、『はかない恋』という花言葉だったと知ったときはなんだか切なくなった。もっと前向きになるものがよかった。

 でも、アネモネの花言葉が、例えば『ありのままでいい』とか『素敵な日々』とかだったらこれほど他の花言葉に興味をもたかなかっただろう。……そんな都合のいい花言葉があるのかは知らないけれど。

「ウツギは、たしか……『秘密』じゃなかったかな?」
「へえー。なんか意味深でおしゃれ」

 本当にそう思ったのに、文哉くんは「適当だなあ」と苦笑した。

 また、わたしたちのあいだを風が吹き抜ける。さっきよりも勢いのあるそれに、髪の毛が乱れる。五月だというのに今日は少し肌寒く小さく震えた。

「ねえ、そろそろ帰らない?」

 文哉くんは時間を確認すると、すっくと立ち上がった。
 いつの間にか、地面にくっきりと描かれていた影がぼんやりと(にじ)んでいるのに気がついた。そろそろ太陽が沈んでしまうのだろう。でも、もう少し花を見つめていたい。それに、帰るにはまだ、少し早い。

「風花?」
「そういえばさっきの、思いだした昔ってどんなこと?」

 彼の声が聞こえなかったかのように明るい口調で話を変えた。「気になるから教えてよ」「話途中だったよね」「なにかあったの?」と文哉くんに訊いているくせに話す隙を与えないくらいに口を動かす。

 と、彼の手が、わたしに伸びてきた。

 笑顔を貼り付けたまま、体がかちん、と固まってしまう。避けようという考えすらも過ぎらなかった。

 わたしの髪の毛に、彼の手がかすかに触れる。

 たったそれだけのことなのに、体がびりりと震える。ぎゅっと肩に力が入り目をつむってしまった。

「花びら」
「へ?」

 ゆっくりと(まぶた)を持ち上げると、立っていたはずの文哉くんは再び屈んでいて、わたしと目線を合わせていた。彼の顔の前には、摘まれた白い花びら。

「髪の毛についてた」
「あ、あり、がとう」

 そういう、ことか。
 そりゃそうだ。彼がわたしに触れる理由なんて、そのくらいしかない。なのに、やたらと意識してしまった自分が恥ずかしい。自意識過剰だ。

「まだついてる」

 さっきのような触れるか触れないかのような繊細な手つきではなく、今度はぱんぱん、と払うように頭を撫でられた。そのたびにひらひらと頭上から白い花弁が落ちてくる。

 本当に雪みたい。

 彼の大きな手のひらから、ひらひらと舞い散る、粉雪。もしくは、わたしのなかのなにかが落ちているのか。

「ねえ」

 どれだけついているのか、とぶるぶる頭を振ると、花びらのように文哉くんの声が落ちてくる。「なに?」と視線を持ち上げる。

 文哉くんは、眉根を寄せて、けれど口の端をかすかに持ち上げている。それが、今にも泣き出してしまうんじゃないかと思うほど、苦痛に満ちた表情に見えた。ひどく優しくて、とてもさびしげな、笑み。

 なんで、そんな顔をしているのだろう。

「無理して笑わなくていいんじゃない?」

 文哉くんの言葉に、え、と声にならない声を発してしまう。

「いや、なんでもない。変なこと言ってごめん」

 文哉くんは目をそらしながらそう言って立ち上がりわたしに背を向ける。そして「あ」と言って足を止めた。

「さっきの話。昔のことを思いだしたってやつ」

 振り返った彼は、さっき一瞬見せたあの顔は見間違いだったのだろうかと思うほど、いつもの、けれどほんのわずか、子どもっぽさを(はら)んだ顔をわたしに向ける。

 彼は、手にしていた白いウツギの花びらを口元に添えた。


「――秘密」


 心臓が、大きく飛び跳ねた。

 じゃあ、お先に、と言って歩いていく文哉くんの背中を見つめながら、体内で爆音を鳴らす心臓の音を聞いていた。

 なんで自分がこんな気持ちになっているのか、わからない。
 一体なにに対して、わたしはこんなに動揺しているのだろう。

 両手で顔を覆いながら細く長く息を吐きだす。
 落ち着け、落ち着けわたし。こんなのはまるで、まるで。でも、そんなはずはない。彼がちょっと、予想外のことを言ったから、仕草をしたから、それだけのこと――。

「ふーうか」
「うわあっ!」

 ぽんっと肩を叩かれて、飛び跳ねる。実際わたしの体は浮いたと思う。絶対。
 目を見開いて振り返ると、わたしと同じように目を丸くしている友梨がいた。

「ちょっと、風花驚かさないでよ。心臓飛び出るかと思った」
「……わたしは多分寿命が縮まったと思う」
「縁起でもないこと言わないの」

 はあーっと深呼吸を繰り返し、呼吸と心臓を整える。

 小学校からの友人である友梨は「あーもう、びっくりした」と言いながら、さっきまで文哉くんがいた場所に、楽器――高校から始めたサックス――の入ったケースを抱きかかえながら膝を折る。

 吹奏楽はかなり厳しいので、すぐに辞めてしまうかも、と内心心配だったという友梨は、結果として今も続けているし楽しそうだ。

「さっき、誰かと話してたよね。遠くてよく見えなかったけど」
「ああ、この前倫子と一緒に遊んだときに話した、花言葉を教えてくれた男の子」

 友梨と倫子は、わたしをきっかけに親しくなりたまに三人で過ごすこともある。

「すっかり仲良くなってんだー! いいじゃんいいじゃん」

 友梨はにやにやとしながらわたしの肩に自分の体を軽くぶつけてくる。そのたびにわたしの体がゆらゆらと揺れる。

「いい感じ? 恋が始まっちゃう感じ?」

 どうなの? どうなの? と友梨はうれしそうにする。でも。

「……残念ながら、友梨が想像するようなことは、ないよ」
「言い切れないでしょ、そんなの」

 友梨は、苦笑を漏らしながら言った。それに対してわたしは失笑して「ないよ」ともう一度同じ言葉を繰り返す。

 友梨は、わたしのすべてを知る唯一の友人だ。
 だから、友梨が心配してくれているのはわかっている。友梨は、わたしがいまだに抱えているものが軽くなることを望んでいる。

 その気持ちはうれしいし、友梨のためにわたしは少しでも変わっていかなくちゃいけないとも思う。

 でも、そんなのできない。今はまだ、したいとも思えない。重い雰囲気にならないように「だってないんだもん」と軽い口調で言い立ち上がる。友梨も同じように体を起こしてわたしの隣に並んだ。

「そもそも、よく知らない人だし、彼だってそんな感じじゃないし」
「でも、誰だってはじめは知らない人じゃない。そのうち芽生えるかもよ?」

 たしかにそのとおりだ。

 でも、やっぱり無理だ。まだ出会ってから二ヶ月弱で、そんな気持ちにはなれない。相手だってわたしのことはなにも知らないのだ。

 訊いて教えてくれるかどうかも、わからない。
 逆に、わたしが訊かれたとして、教えるのかも。

「ねえ、風花。楽しいよ、誰かを好きになったり、誰かと遊んだりするのは、さ」
「うん。友梨と一緒にいるの、楽しいよわたし」
「もうー!」

 ふふっと笑いかけると、友梨は困った奴だなあと言いながらわたしを抱きしめてくれた。

 その優しさに、もうしばらく甘えさせてほしい。
 でも、それはきっと友梨を苦しめてしまうんだろう。

 今の自分は、家族に見せる仮面とまた別のものを被っているのかもしれないな、なんて思った。そんなはず、あるわけないのに。

 視線の先に、さっき教えてもらったばかりのウツギと、わたしの大好きなアネモネの花壇があった。白色が、眩しい。

 自分の左手を、自分の右手で包み込む。


 ――『アネモネの花言葉を知ってる?』


 風の中から、彼の声が、聞こえた気がした。
 目をつむると、彼の笑顔が脳裏に蘇る。