「あー……あっついねえ」
「暑いなあ」
授業の合間、太陽の日差しを浴びながら、いつものように花壇の前で文哉くんと並んで花を眺める。日光浴をしている草花は気持ちよさそうに見えるのに、わたしたちはぐったりだ。立っているだけで汗が浮かんで流れていく。早く秋になってほしい。
「最近体力落ちてるから学校しんどいなあ……」
はあーっと文哉くんはげんなりした顔でぼやいた。
文哉くんとつき合ってから約二ヶ月。
毎日のようにメッセージのやりとりをし、電話でも他愛ない話をし、デートも重ねた。つき合う前は学校でしか顔を合わさなかったけれど、つき合ってすぐに夏休みに突入したことで、たっぷりの時間を一緒に過ごすことができたのはすごくよかった。どこに行っても混んでたこと以外は。
最初はお互いに少し緊張していたけれど、最近は少しずつ一緒にいると自然体で過ごせるようになったと思う。普段はやさしい口調の文哉くんの語尾も、たまに砕けることがある。そんなちょっとしたことに、嬉しくなる。
最初出会ったときの文哉くんは、つねに落ち着いていて余裕がある印象だった。けれど、この二ヶ月で、実際の彼はそうじゃない面もたくさんあることを知った。からかうと拗ねるし、嬉しいときは顔をくしゃりと崩して目を細める。そして、たまにまるで過保護な父親のようにわたしを心配したりする。
いろんな文哉くんに出会い、触れた。
今年の夏は、数年ぶりに笑顔で過ごした。
「なに見てるの?」
じっと見られていたことに気づいた文哉くんは、照れているのか少し口を尖らせる。子どものような仕草がかわいくて、そういうところが好きだなあと改めて思う。
今は、あのとき勇気を出して自分の気持ちを認めることができてよかったと心から思う。あの一歩がなければ、今、隣に文哉くんはいなかった。今のわたしも、存在しなかった。
過去を振り返ることができるようになったわけじゃない。今でも思いだすと逃げだしたくなるし、自分がいやになる。
でも、なにかが変わっているのがわかる。
「文哉くんの肌が、焼けたなあって思って」
自分の腕を前に出し、文哉くんの肌と比べる。ふたりとも程よい色だ。白すぎず、黒すぎず、健康的に見える。ほぼ毎日外にいたから当然といえば当然だのだけれど。
今までのわたしは、どちらかと言えばインドアだった。
幼いときからピアノをしていたこともあるし、怪我をしてからも外で遊ぶようなことはあまりしなかった。一時期は少し外で過ごしていたこともあるけれど、ここ数年はとくに学校と家を往復するだけだった。たまに外出してもウィンドウショッピングをしたりや映画を観るだけ。
自分の腕や肌を見るたびに、活動している感じがしてほっとする。
生きている自分を実感する。
そんなふうに考えることができるようになったのは、文哉くんのおかげだ。
「……っていうか文哉くん、痩せたんじゃない?」
ふと並んだ腕を見て口にする。
前はもう少し、太かったような気がする。顔も心なしほっそりしているように見えるし、目の下に薄っすらと隈がある。肌が焼けているからか、顔色は悪くないけれど、少しやつれたような頰が、疲労を感じさせる。
「あー、夏バテじゃないかな。ちょっと体もだるいし。夏苦手なんだ」
「夏前から言ってるよね? もしかしてご飯あんまり食べてないの?」
「いや、食べてるよ、多分」
多分って。
たしかに今年の夏は猛暑だったし、今もまだまだ暑い。けれど、こんなに長いあいだ夏バテが続いているなんて、おかしい。
不安が頭をよぎって「本当に大丈夫?」と顔を覗きこむ。額に手を伸ばして肌に触れる。外風邪のような異様な熱は感じられなかった。もちろん、おかしいほど体温が低くもなさそうだ。
じいっと至近距離で文哉くんの顔を見つめる。
痩せてはいる、けれどそこまでひどくはない、ような気がする。
「本当に、ただの夏バテ?」
「大丈夫。そんなに不安そうな顔しないでよ」
はは、と笑って文哉くんはわたしの手を取り額から剥がす。恥ずかしいからそんなに見ないで、と言いながらわたしの手に自分の手を絡ませる。
「夏休み終わっちゃったなあ」
「そうだね。あっという間だったなあ」
とくにお盆を過ぎてからは、タイミングが合わず文哉くんと会う機会が減っていた。そのせいもあって、後半はまたたく間に過ぎ去ってしまった。
楽しい時間ほど時間の流れが速い。
「一日に二回映画観たの初めてだった」
「ふふ、さすがにちょっと疲れたよね。文哉くんが死んだ魚の目で恋愛映画観てたの、思いだすたびに笑っちゃう」
「あれはそうなっても仕方ない」
ポップコーンに手を伸ばしたときに見た横顔が、シルクスクリーンからの光を浴びていた。ああ、隣にこの人がいるんだな、と思ったと同時に、あまりにも無表情だったので感動的なシーンだったのに噴きだしてしまった。
「花火見に行けなかったのだけが心残りかなあ」
電車で行ける距離にある有名な花火大会を、わたしはずっと見に行きたかった。たくさんの夜店が並び、花火の打上数もかなり多いらしい。今年こそ文哉くんと行こうと思ったのに、運悪くわたしが帰省するお盆に被ってしまったのだ。去年までは八月の上旬に開催されていたというのに。
あと、最近できたブックカフェにも行きたかったんだった。
あれもこれもと、やりたかったことが浮かんでくる。悔いのないようにと、全部叶えるつもりだった。けれど、なかなかできるものではないらしい。
「来年は行けたらいいよね」
「……うん」
文哉くんの手に力が込められる。
「植物園もいいよね」
一度行ったけれど、もう一度行きたい。文哉くんは、あれこれ訊くわたしにいろんなことを教えてくれるだろう。
「そろそろ教室に行く時間だね」
腕時計を確認した文哉くんが、ほら、と言って立ち上がりわたしの手を引き上げた。大きな手のひらをみつめて「文哉くん」と呼びかけると、彼は「ん?」と口を閉じたまま返事をして口角をあげる。
その優しげな、けれどどこか悲しげな、まるで『自分じゃない誰か』を演じているような笑みに背筋が冷たくなる。以前から不調そうな文哉くんに抱いていた小さな不安の種が、殻を破って芽を出してくるのがわかる。
今日は帰りにショッピングモールにあるフラワーショップに行こう、と口にしかけた言葉を呑みこむ。
「ねえ、今日は早めに帰って」
「え? なんで? 一緒に帰るんじゃなかった?」
「夏バテ、早く治してほしいから。それに、ほら! 元気になってもらわないと一緒にいても気を遣っちゃうじゃない」
それに、久々に友梨と遊ぼうって連絡があったんだよね、と校舎に向かって歩きながらウソをついた。九月に入ってから遊べていないし、とペラペラとデタラメなことを喋る私に、文哉くんは少し怪訝な表情を作る。
「今日は休んで、ちゃんと体調戻してから思い切り遊ぼう」
それに気づかないフリをして話し続けていると、文哉くんは諦めたように息を吐きだしてから「わかった」と答えてくれた。
早く元気になってね、と今度はウソではなく本音で伝える。文哉くんはこくりとうなずいて、自分の教室に向かって歩いていく。
……ただの夏バテだ。しばらくゆっくり休めばきっとすぐに回復するだろう。
これ以上不安が大きくならないように、心の中で何度も大丈夫、と自分に言い聞かせた。
「惚気を言うためにわたしを呼び出したの?」
目の前にいる友梨が顔をしかめてストローに口をつけた。
文哉くんに友梨と遊ぶと言ったときはウソだったけれど、せっかくならばとわたしから友梨を誘ったのだ。サックスの練習があるから無理かも、と思ったものの、友梨はすぐに「行く行く!」と返事をくれた。
最近ゆっくり話しをしていなかったので、時間を気にせず長居できるファミリーレストランで顔を合わせた。店内には中途半端な時間ということもあり、席の半分ほどのお客さんしかいない。
「惚気を聞かされるなら練習に顔を出せばよかったあー」
「どこが惚気なのよー」
久々に声をかけたことで「どうしたの?」と訊かれたから、今日あったこと――主に文哉くんとの会話――を伝えただけなのに。
「うわ、自覚がないんだ。やだなあ、幸せな人はこれだからー」
友梨は芝居がかったように、大げさに肩をすくませる。「あたしも彼氏欲しいんだけどー」と唇を尖らせつつも、わたしに温かみのある笑みを浮かべた。
「だって、やっぱり心配じゃない」
「まあ、気持ちはわかるけど。ただの夏バテなんでしょ?」
「本人はそう言ってるけど、さ」
自分でもちょっと考えすぎかもしれないと思う。たしかに以前に比べたらやせたけれど不健康なほどではないし、足取りもしっかりしている。
夏休みに遊園地で一緒に走り回ったとき、かなり汗を流しヘトヘトになっていたので、夏が苦手というのも本当のことだと思う。
でも、嫌な予感を振り払うことができない。
「風花は元気になったけどねえ」
肌艶がいい気がする、と友梨が身を乗り出した。
「そう?」
「健康的な生活してるからじゃない? 前は、学校にはちゃんと来るけどあんまり遊んだりはしなかったじゃない。よかったよかった」
あたしも安心だ、と友梨はメニューを広げた。飲みものだけではお腹が空いてきたらしく、店員を呼んでデザートを注文した。せっかくなのでわたしもプリンをお願いする。
「同じ学校でつき合うって、やっぱりいいよねえ」
「そうだね。倫子の彼氏は別の学校らしくて、会えない! ってこの前さびしがってたよ」
友梨はあはは、と豪快に笑った。
たしかに、同じ学校のほうが毎日必然的に顔を合わすことになるので、わたしにとってはよかったな、と思う。じっくりと、文哉くんに向かい合うことができる。
「夏休みはたっぷり一緒に過ごせて楽しそうだったもんねえ。そのせいで私や倫子とはあんまり遊んでくれなくなっちゃって……」
「そんなことないじゃんー。結構遊んだよー」
「そうだっけー?」
からかうように言われて否定すると、ぼけたような表情をされた。
運ばれてきたデザート目の前にして、友梨に言いたかったことがあったのを思いだす。そばに置いているカバンを一瞥して「あのさ」とパフェに目を輝かせる友梨に呼びかけた。
「最近、家でもなにか育ててみようかなって思ってるんだよね」
「そっか、いいじゃん。なに育てるの?」
まだ具体的には考えていない。
そもそもわたしは初心者だ。種を植えることも、植え替えも、液肥を散布したことだってある。でも、ほとんど手伝ってもらった、というかむしろわたしが簡単なことを手伝っただけ。
カバンからぼろぼろになったマニュアルのコピーを取り出し、パラパラとめくって、「なにがいいのあるかなあ」とひとりごちた。
「風花、それ毎日持ち歩いてるの?」
「え? あ、いや、たまにだよ。毎日はさすがに。ただ、なにか育てたいなって思ったから。できればこのなかのなにかを。それを考えるために」
「……ならいいけど」
友梨は呆れたのか、ため息をついてパフェをスプーンですくった。
「アネモネにしようかなって思ったんだけど、やっぱり無理だなって思ってる。そもそもまだ季節じゃないしね」
「別のにしたほうがいいよ」
だよね、とうなずいてから、高校で何世代も受け継がれていたマニュアルのコピーを眺めた。赤いペンで書き込まれているのは、わたしの文字だ。下瓦さんに教えてもらった、いや、怒られたことを忘れないようにメモしてある。ところどころ滲んでいるのは濡れた手で何度も触れたから。彼に教えてもらった花言葉を書き足してあるページを見て、つい「ふふ」と笑みをこぼしてしまう。
ふと視線を持ちあげると、わたしをじっと見ている友梨と目があった。
「なに?」
「いや、幸せそうでよかったなって思っただけ」
友梨の眼差しはとてもあたたかい。
今まで心配や迷惑ばかりかけてしまった。そんな友梨を突き放し、八つ当たりしたことは何度もある。けれど、友梨はわたしを責めたりしなかった。弱音を吐いたわたしを、ときに叱咤し、ときに慰め、そして手を引いてくれていた。一度だって嫌な顔をすることなく、見放すこともなく、そばにいてわたしを見守っていてくれる。
友梨がいなければ、今のわたしはまだ、暗闇の中にいただろう。
「あ、ねえねえ、もうすぐハロウィンじゃない?」
「もうすぐって、まだ一ヶ月以上あるよ」
そう言ったけれど、店内はすでにハロウィンモードが漂っている。さっき注文したプリンもかぼちゃのものだ。期間限定のハロウィンデザート。それが終わればすぐにクリスマスムードが街中に溢れてくるのだろう。
イベントごとが苦手なわたしには少し居心地が悪い季節だ。とくにクリスマスなんかはあまりいい思い出がないので、これから始まる冬を思うと気が重い。
……でも、今年はもう少し楽しめるかもしれない。文哉くんがいるから、楽しく過ごさなくちゃいけない。
「犬神とこの前話してるときにパーティしよう! って盛り上がったんだよね」
「えー」
友梨はイベントが好きだ。誰かの誕生日には必ずサプライズを用意するし、去年もクリスマスに盛大なパーティを計画していた。イベントと言うより、人と一緒に楽しむ時間が大好きなのだろう。誘われたので少しだけ顔を出したけれど、どうしても長居できなかったことを思いだす。
ハロウィンパーティも友梨は毎年計画しているけれど、参加したことはない。だからこそ、ハロウィンは大丈夫かも、と思った。
「楽しそうだね」
「でしょでしょ! 仮装しようよ」
「……それは、どうかな」
友梨が仮装、と言い出したということは、本格的なものを求めているということだ。そういうのは、向いていないというか、なんというか。そもそもやったことがない。みんな、どの程度の仮装をするのだろう。想像するだけでちょっと恥ずかしい。
答えを渋るわたしに「彼氏も一緒に参加したらいいんだって」と親指を立てた。
「参加しないと思うけどなあ」
仮装をしている文哉くんはちょっと想像しにくい。でも、どんな恰好でも似合いそうだなとも思う。案外ノリノリでやったりするのかも。
……いや、でもなあ。
「まあ、一度聞いてみようかな」
「一度じゃなくて二度三度聞かなくちゃ!」
そんなことじゃ負けちゃうよ、といつの間にか勝負をするようなことを言われてしまった。このままではわたしがはっきりとした返事をするまであきらめてくれなさそうだと思い、
「犬神くんと相変わらず仲いいね」
と、話題を変える。
「えー、やめてよ。まあ仲はいいけど、あいつは友だち、悪友。それだけ。倫子もいっつも茶化してくるんだもん。やめてほしいよねえ、あたしの好みじゃないのにさあ」
それにしては仲がいいけれど、口にすると怒られそうなので黙っておいた。
友梨には男女問わず友だちが多い。けれど、恋愛の話は一度も聞いたことがない。何回か告白もされているはずなのに、友梨にその気がないのかすべて断っている。その理由を、倫子は犬神くんだと思っているらしい。わたしも、実はそう思っている。
「あたしの好みは、もっと繊細で、知的な感じの人なの」
「犬神くん、悪くないと思うんだけどなあ。」
ただ、たしかに繊細さも知的さもあんまりない人ではあるけれど。どちらかというと大雑把で豪快な人だ。デリカシーがない! と友梨によく怒られていて、そのたびに「なにが?」とキョトンとした顔をしていた。けれど、すごく友だち思いの熱い一面もある。
「いい奴なのは間違いないけど、それとこれとは別よ、別」
言い切る友梨を見て、ふたりのあいだに恋愛感情らしきものはまったくなさそうだと思った。相当気の合う男友だちなのだろう。それはそれですごく素敵な関係だ。これからもそんなふたりでいてほしい。
くすくすと笑っていると、友梨は「幸せなんだね」ともう一度言って微笑んだ。
「――うん」
躊躇なく答えることができた自分が、うれしかった。
「最近はお姉ちゃんと話しててもなにも思わなくなったしね。彼氏の話もしてるよ」
「そうなんだ。風花のお姉さんは彼氏とうまくいってんの?」
「みたい。アンサンブルで仲が深まったのかも」
友梨はドラマみたい! ピアノで愛を深め合うんだ! と目を輝かせた。
その後はくだらない話をしながらふたりで時間を潰した。
三時間以上喋っていたので喉が乾き、水をがぶがぶと飲んでしまった。そのせいでお腹がたぷたぷの状態だ。
まだまだ日が落ちるのは遅いけれど、気がつけば外は真っ暗に染まっている。時間を確認しようとスマホを取り出すと、ちょうどいいタイミングで文哉くんからメッセージが届いた。
【帰って今まで寝てた。明日は全快の予定だよ】
内容にほっとする。でも、明日会ってみないと本当かどうかはわからない。
【ちゃんとご飯を食べてね】と返信すると、すぐに【わかった】と返ってきた。
「なによもう、見せつけないでよー」
友梨が目尻を下げて顔を近づけてくる。そんなふうにからかわれるほどわたしの顔は緩んでいたのかな。羞恥で頰に手を当てる。そんなわたしを見て、友梨が口の端をあげて微笑んだ。
「いい相手でよかったよね、ほんとにさあ」
しみじみと言葉をこぼす友梨と並んで、駅を目指して歩く。外灯も多く、車もよく通るため、道は暗くなかった。昼間は汗が出てくるほど暑いけれど、日が沈むとけっこう過ごしやすい。このまま、あっという間に冬になるんだろう。
「風花のこと、全部受けとめてくれる人と出会えて、ほんとよかった」
そうだね、と相づちを返すつもりだったのに、喉がぎゅっと萎んだ。
足も、動くのをやめてしまう。
前を向いていた友梨が「風花? どうしたの」と振り返る。
ここが、暗闇だったらよかったのに。そしたら、今のわたしの顔を友梨に見られることはなかったのに。
どうにか誤魔化さないと、と思うのに、言葉が出てこない。そんなわたしを見れば、友梨にはすべてがバレてしまう。
「……風花、もしかして、伝えてないの?」
唇に歯を立てて、いまさらウソは通じないと思い、ゆっくりあごを引いた。
◇◇◇
どんよりと重たげな雲が頭上には広がっている。
太陽の光が届かないからか、窓の外にある草花も心なし元気がないように思えた。しょんぼりと項垂れているみたい。
「傘持ってる?」
目の前に座っていた文哉くんの質問に「折りたたみならあるよ」と答える。もうしばらくしたら雨が降るだろうと、今日は学食で過ごしている。雨の日はここで過ごすことが定番化している。屋内では、この場所が一番花壇をよく見ることができるから。
授業が終わった後の学食は閑散としている。
昼休みは生徒でごった返していて騒がしいけれど、この時間は静かで落ち着く場所だ。窓際の席も早いもの勝ちじゃないところもいい。
「雨降らなかったらいいんだけどなあ」
「でも、草花にとったら恵みの雨かもしれないよ」
「毎日水もらってるんだから関係ないんじゃないかな」
言われてみればそのとおりだ。むしろ水分過多で根腐れでもしてしまいそうな気がした。今までなんともないので大丈夫だろうけれど。
「でも、雨の日に静かなここから外を眺めるのも好きだよ、私」
「家の中だといいんだけど、ここにいたらいつかは外に出なきゃいけないじゃん」
ああ言えばこう言うんだから、と唇を尖がらせると、文哉くんは「だってさあ」と子どものように口を結んで頬杖をつく。
文哉くんの隈は、少しマシになった、ような気がする。
あれからできるだけ早めに別れるようにしているし、土日もどちらかは会わないようにしている。ただ、そのおかげで文哉くんが元気になったのかどうかはっきりとはわからない。たまに大きなあくびをしているので、寝不足気味は継続中なのかも。
なんともないといいな、というわたしの希望だ。
ご飯は食べているのか、眠れているのか、体はだるくないか、と訊いたら「大丈夫」と笑顔で答えてくれた。ただ、「母親みたい」と苦笑されてしまった。
「風花は心配性だよ」
「だって」
心配なんだもの。
大丈夫だって、と同じ言葉を繰り返し、文哉くんはわたしの頭に手をのせて、優しい手つきで髪の毛を撫でた。胸がきゅうっと甘く痛む。わかった、と伝えるためにこくりとうなずくと、安心してくれたのか文哉くんの手がわたしから離れる。そして、「あのさ」と、いつもと違う声色で話しかけてきた。
文哉くんは少し眉を下げて申し訳なさそうな表情をわたしに見せる。
「これから、少し会う時間減るかもしれないんだ」
「……どうしたの?」
「ちょっと、今家がバタついてて。って言っても学校には来るし、休みも今までみたいにどちらかは会えると思う。平日はなかなか時間が作れなくなるかも」
必死で手振り身振りで説明する文哉くんは、いつもと少し違っていた。
――だから、多分ウソなのだろう。直感的に思った。
目の前にわたしがいるのに、視線がぶつからない。
嘘でしょう? と口にすることができなかった。彼とわたしのあいだに、それを言っちゃいけない、壁のようなものを感じた。
「そっか」
へらっと笑って見せる。
返事にほっとしたのか、やっと文哉くんはわたしを見てくれたけれど、わたしの表情にすぐに目をそらす。わたしは、笑顔をうまく貼りつけることができていなかったのかもしれない。
文哉くんはやさしい。ときどきいじわるなことも言うけれど、よく笑ってくれるし、いつだってわたしのことを考えてくれる。彼からの愛情を感じることができるから、わたしの気持ちも同じだけ、いや、それ以上に感じてもらいたい。
だけど。
いつからだろう。
一緒にいて楽しそうにしてくれるのに、ふと、ほんの一瞬、一緒にいるのがつらそうに見えるときがある。痛みに顔をゆがませて、それを耐えているみたいに歯を食いしばっているときがある。
それは、わたしのせいなだろうか。
もちろん、どうしてなのかはわからない。
わたしのなかで今もずっと変わらず大事にしているものを、感じ取っているのかも。
「……ごめん」
文哉くんは消え入りそうな声で謝罪を口にした。
「謝らなくていいよ。さびしくないって言ったらウソになるけど、でも、仕方ないよね。気にしないで!」
しょんぼりされてしまい、明るく振る舞う。多分、今度はちゃんとできている。
「かわり、って言ったらあれだけど、今度風花の行きたがっていた花屋めぐり行かない? いくつかリストアップして、順番に回るツアーみたいなの。最近オシャレな感じの店も増えてるから、見てるだけでも楽しいと思う」
あまりに必死の様子に、さびしさや不安が薄れる。
どうして会う時間が減るのか、どうしてウソをつくのかはわからないけれど、目の前でわたしのことを考えてくれている文哉くんのことだけは、信じることができた。上手にウソをつけない人だからこそ。
「うん、行こう!」
喜ぶわたしに、あからさまに胸を撫でおろすところも素直だ。
「風花、いつなら行ける?」
ふたりしてスマホを取り出しカレンダーアプリを起動して予定を確認する。今月は残り三週間。と言ってもわたしにたいした用事はない。けれど、ずいぶん前にメモしておいた予定を見て思いだした。ピアノ教室の発表会がある。以前先生の誕生日パーティに参加したときに手伝ってと言われて引き受けたんだった。
お世話になった先生からのお願いだ。いまさら断るわけにもいかない。ということは今週の土曜日は無理で、結構な重労働になるのでできれば次の日の日曜日はゆっくり休みたい。
来週末にはお姉ちゃんの誕生日がある。せっかく花屋に行くのなら、お姉ちゃんへのプレゼントに観葉植物とかをプレゼントしてもいいかも。そろそろなにを買えばいいのかわからなくなってきていたし。そうでなくても出かけたら、なにか見つけることができるかも。
となると、お姉ちゃんの誕生日の前日がいいだろう。あまり早く渡すのもいまいちプレゼント感がないし、月末だったら誕生日が過ぎてしまっている。
となると、空いている日は一日だけだ。
日付を確認し、しばらく目を閉じて思案する。
どうしようか。
でも。
「――来週の土曜日は?」
なぜか文哉くんは動きを止めて、自分のスマホ画面を見つめたまま微動だにしなくなった。彼にも予定があるのだろうかと返事を待つ。
「ごめん、その日は、用事があるんだ」
文哉くんは画面を見つめたまま、どこか覇気のない声で言った。
どう考えても文哉くんはいつもと違っていたのに、わたしはなぜか、ハロウィンパーティーの話をまだ文哉くんにしていなかったな、とどうでもいいことを思った。
◇◇◇
結局話をした週の日曜日に出かけることになった。
いくつかの花屋をめぐり、幸福の木と呼ばれるガジュマルの小さな鉢植えを買った。白い陶器の鉢はシンプルなのに少し変わった形をしていて、育てるのも比較的楽だと言われて決めた。本当はお姉ちゃんへのプレゼントにしようと思ったけれど、渡さずに自分で育てている。ちょうどなにかを育てたいと思っていたところだったし、花をつけない観葉植物なら大丈夫だろう。
かわりに、プレゼントはオリジナル雑貨店で見つけたメガネケースといい香りのするハンドクリームにした。
誕生日には少し早かったけれど、それまで渡さなければいい。
土曜日の朝九時過ぎ。バスに乗って最寄り駅まで向かいながら、やっぱり、今日に出かけることにならなくてよかったな、と考えた。
きっと、わたしは後悔して、楽しむことができなかっただろう。
文哉くんに用事があってよかった。先週一週間も、彼と顔を合わせたのは一度だけだった。なにやら忙しいらしく、たった三十分だけ。疲れが溜まっているようにも見えたけれど、大丈夫だろうか。毎日やりとりしているメッセージや電話では、いつも通りだけれど。
停留所についてバスを降りると、一軒の花屋に向かった。
「すみません、花束をお願いします」
中に入り、店員に声を掛ける。奥から髪の毛を後ろでひとつに纏めた三十歳くらいの女の人が顔を出し「お待ちしていました」と言った。
「いつもありがとうございます」
二年ほど前から毎月花束を買っているので、すっかり顔と名前を覚えられてしまった。店員のお姉さんはなにも言わなくても旬の花を選び、ふたつのあまり大きくない、わたしが求めるサイズの花束を作ってくれる。
ネリネと言われる白い花は、光が当たると花びらがきらきらと輝いて見えた。アキイロアジサイという、シックな色味のあじさいがネリネの白さを引き立てている。花の説明とともに、店員のお姉さんは「どうですか?」と笑顔を見せた。やっぱりプロの作ったものはきれいだ。
それを抱きかかえて電車に乗り、目的地に向かう。
――『……風花、もしかして、伝えてないの?』
あのセリフを口にしたときの友梨を思いだす。
――『どうすべきなのかは、わからないけど、でも、いいの?』
友梨は戸惑い狼狽えながら言った。
――『このままなにも言わないつもり?』
――『黙っているのも、覚悟がいるよ、風花』
――『風花が、苦しくなるよ』
友梨のセリフはどれもわたしのために言ってくれていた。
文哉くんに、すべてを伝えることが正解か不正解かはわからない。それは、友梨も理解している。どちらを選んでも、最悪の結末を招く可能性はある。
友梨は、どっちにしても、覚悟がいることを言っていた。そして、それが、わたしにはないことに気づいていた。
わたしが文哉くんに伝えていない理由は、ただ、言いたくないというだけ。そこに、わたし決意も覚悟もない。
だから、ときに申し訳なくなったり苦しくなったりする自分がいる。このままでいいのかと、自分に問いかけてくる声が聞こえるときもある。
結局、わたしは、いまだどこにも歩みだしていない。
でも、それでいい。
今のままで、いい。
「……アネモネ、育てようかな」
電車の中でひとりごちた。その言葉がわたしに安心感を与えてくれる。
わたしは、そんな最低な人間なんだ。
文哉くんがわたしにウソをついたのはなにか事情があるのだろう。本当のことを言えないのは、わたしのためなのでは、と思っている。
楽観的すぎるかもしれない。
そう思いこみたいだけなのかもしれない。
そういうことにして、目をそらしていたい。
問い詰めることができないのは、わたしにも隠していることがあるからなのに。
自分にどこかやましいことがあるから、人に踏み入ることができないんだ。
文哉くんを好きだと、彼がいてくれて幸せだと間違いなく感じている。
けれど、心の最深では、文哉くんを好きなわけじゃない、と思っている自分がいる。