堤医師は、血液検査が書かれた縦長の用紙を見ると、
「ううん」
と咳払いするように唸った。
ここは町はずれにあるこの町唯一の総合病院。
昔から町のシンボルで、八階建ての外観は遠くからでも見えるほど。
引っ越しをしてきてすぐに体調を崩して以来、たまにここに通っている。できれば、近所にある内科医がよかったけれど、母親は頑なに譲らなかった。
循環器科の堤医師が担当医だ。
「あまりよくない結果が出てるの。炎症反応の数値が先月より悪くなっている」
血液検査の用紙を渡されるが、項目はすべてアルファベットで書かれていてどこを見ればよいのかわからない。
「学校が大変なら少しお休みしてもいいくらいのレベルよ」
堤医師の進言に、僕が答えるよりも早くうしろに座っていた母親が身を乗り出すのがわかった。
「私もそう言っているんだけど、この子ったら全然聞いてくれないのよ。部活も毎日のように参加しているみたいだし。姉さんからも言ってちょうだいよ」
不満を訴える母親と、目の前に座っている堤医師は姉妹の関係。
つまり僕にとって堤先生は伯母さんに当たる人だ。だから、わざわざ総合病院に通う羽目になったわけで……。
「あらあら。どうりで体中真っ黒だと思ったわ」
五十代半ばの堤医師。すっぴんに近いメイクに黒縁メガネ、白髪交じりの髪をうしろでひとつに縛っている。
ちなみに独身で、母親が言うには『姉さんは自分自身と結婚している』のだそうだ。
「たしかに部活も大変だと思うけど、今は炎症反応を抑えるほうが先よ。食欲もないみたいだし、微熱だってあるのでしょう?」
小さいころからの関係だからか、堤医師は子どもに言い聞かせるようにやさしく諭してくる。
「はあ……」
「それに、抗生物質って飲みすぎはよくないの。悪い菌だけじゃなくて、いい菌まで殺しちゃうから」
「そこまでストレスとかないと思うんだけどなぁ」
そう、ストレスなんてどこか遠くへ飛んで行ったはず。実際に今の僕は過去最強クラスのリア充なのだから。
考えるとにやけてしまいそうで、わざと咳払いをすると、
「もう」
と、うしろの母親が声をあげた。
「ストレスって知らないうちに溜まっちゃうのよ。だいたい、最近食事もろくにとらないじゃない。どんどん痩せていくし心配なの。夏休みなんだから少し安静にしてよね」
「わかってるって」
ひとりでここまで来たはずが、予約の情報が回っていたのか待合室に平然とした顔で母親は待っていた。
ほんと、いつまでたっても子ども扱いなのだから。
「血液の検査範囲をもう少し広げたいから、このあともう少し血をちょうだいね」
まるでプレゼントでもねだるような口調の堤医師に顔をしかめてみせる。が、うしろの母親が「そうね」と聞いてもいないのに同意する。
「いくらでも取ってちょうだい」
「本当なら精密検査をしたほうがいいと思うの。ストレスにしては長引きすぎているし、ほかの病気が原因の可能性もあるのよ」
堤医師は僕ではなく母親に目線を送っている。『お前が説得しろ』と言いたげに目を細めあごをクイッと動かすと、母親は大きくため息をついた。
「私もそう言うんだけどねぇ、この子、言うこと聞いてくれないのよ。反抗期かしら?」
「子どものいない私に聞かないでよ。言うことを聞かせるのも母親の務めでしょう」
ズバリと言ってのけた堤医師に母親はなにやらブツブツ言っている。ようやく僕に視線を合わせた堤医師が、「あのね」と続けた。
「CTスキャンと胃カメラだけでも今日やっていかない? 時間はそんなにかからないし、胃カメラは麻酔を使ってもいいし」
「結構です」
「少しは考えてから答えてよ。お盆に入ってから具合が悪くなったら困っちゃうでしょう?」
「えっと……」
宙を見て数秒考えてから、
「結構です」
そう答えた。
クスクスと笑いながら堤医師がカルテをパタンと閉じて看護師に渡した。
「とにかく、今週は強い抗生物質出しておくから、そのあいだに数値を安定させましょう。お盆が終わったらまた来てちょうだい。これで数値が悪かったら、最悪入院してもらいます」
「ええっ、入院!?」
そこまで悪いと思っていなかったので思わず大きな声を出してしまった。そんな僕に、堤医師はメガネを人差し指で直しながら鼻でため息をつく。
「それくらい数値が悪いの。自分の体にもっとやさしくしてあげなさい。以上、わかった?」
彼女の中では、まだ僕は子どものまんまなのだろう。
渋々うなずく僕に、堤医師は満足そうに微笑んだ。
◆◆◆
駅の改札口に着くと、朝だというのに汗ばんでいた。
空を見ればどんよりとした重い雲が流れている。
……傘を持ってくるべきだったかも。
そんなことを考えながらスマホをチェックする。
朝、風花から来たメッセージには、
【おはよう。楽しみすぎて寝不足。十時に駅でね♪】
と書かれてあった。
暗記するほど何度も読み返してしまう僕こそ、今日のデートが楽しみでたまらない。
まだ九時過ぎだというのに到着してしまった。
二ヶ月前に風花に告白をし、先月その答えをもらえた。
自分に恋人ができるなんていまだ信じられないし、実感もないままだ。そんな僕たちの関係は、夏休みに入ると同時に急に近くなった。
本来は水やり当番も交代でするはずだったが、約束したわけでもないのに毎日のように僕たちは夕方、部室で会うようになった。
いつしか、待ち合わせ時間は早くなっていき、『こんな昼間に水やりするな』と下瓦さんに怒られてしまうほどに。
そんなときは、図書館で涼を取ったり、ショッピングセンターのフードコートで夏休みの課題をしたりした。
一秒一分一時間、そして一日が愛おしかったし、同時に具合の悪い日は神様を恨んだりもした。
風花はやっぱり夜は家にいたくないようで、夏休みになってからは昼間も外にいることが多いようだ。
風花の姉は二歳年上の高校三年生らしい。
『もうすぐ音大の推薦入試があるんだって。今度の日曜日は一日ずっと練習するみたい』
ちょっと悲しげに言った風花を今日のデートに誘ったのは自然な流れだったと思う。
けれど、よいことばかりは続かない。
「天気がなあ……」
今にも雨が降りそうな空模様。
これから四つ先の駅近くにある植物園へ行くことになっている。デートに植物園に行くなんて、部活の延長みたいにも思えるけれど共通の趣味だからこその選択だ。
風花はほかにどんな趣味があるのだろう。
彼女のことを、これから僕はどんどん知っていく。そのたびに、ふたりの距離は距離は近くなるんだ。
考えるだけで胸がまた鼓動を速めるようだ。
ポケットの中のスマホが震えているのに気づいたのはそのとき。風花からだと、慌てて取り出すが画面には【犬神】と表示されている。
『スズッキイ、暇してる?』
開口一番訊ねてくる犬神に、
「おはよう」
と、わざとらしく朝の挨拶をしてやった。
『おはよう、ってもう九時だぜ。暇だからこれからどっか遊びにいかね?』
「……えっとさ」
返事に詰まる僕に気づくことなく、犬神は『ボウリングとかは?』と話を進めるので困ってしまう。
風花とつき合っていることはまだ誰にも話をしていなかった。言えない理由なんてない。むしろ大声でクラス中に宣伝したいくらいだ。
それでも言えずにいるのは、風花が恋人だという実感がないままだから。いや、自信がない、というほうが近い感覚かもしれない。
「今日はちょっと出かける用事があってさ」
『珍しい。どこ行くわけ?』
「べつにたいしたところじゃないよ。そっちこそ部活はいいの?」
『大丈夫。それより体調が悪いのに出かけていいのかよ』
「ボウリングに誘っておいてよく言うよ。ほっとけよな」
焦って乱暴な口調になる僕に、なぜか犬神はため息をついた。
『あーあ。おれの友だちはなんにも話をしてくれないから悲しい』
「……なんだよそれ。そんなこと、ないって」
『あるある。初デートってこと、おれには内緒なんだな。くやしー』
「へ?」
周りを見まわすが、まばらな駅前に犬神の姿はない。
まさか、とうしろを振り向くと、バスロータリー近くの歩道に、ジャージ姿の犬神が立っていた。
「げ、いたのか……」
『これから他校で練習試合ってわけ。バスに乗ろうとしたら、おめかしをした親友がいたからさ。どう見てもデートだろ?』
「…………」
スマホを耳からはがせずに黙る僕に、犬神は『ふ』と笑った。
『デートの相手は風花ちゃん。友梨はとっくに風花ちゃんから聞いて知ってたみたいだぞ。おれにも正直に話をしてほしかったなぁ』
なんと答えていいのかわからないでいると、
『もしもーし?』
数十メートル先で友は片手をぶんぶんと振った。
「言おうと思ったんだけどさ……」
『照れんなよ。すげえうれしいニュースなんだからさ、堂々と宣言すりゃあいいじゃん。おれなら真っ先にお前に言うけどな』
昔から自分のことを周りに言って回るタイプじゃなかった。それでも、犬神の言うことはもっともだと思うし、逆の立場ならさびしくもなるだろう。
「ごめん。風花とつき合ってる」
素直に伝えると、向こうで犬神はピースサインを作った。
『おめでとう。幸せになれよ。んで、おれにも誰か紹介してくれよな。あっ――』
短く声を出した犬神が急に背中を向けた。
『じゃあおれ行くわ。風花ちゃんがそっちに歩いていく』
「えっ!?」
左に視線をやると、青色のワンピース姿の風花がこっちに向かっていた。彼女が僕を見つけてうれしそうに目を細める。
『なんかまるでスクープ映像みたいだな。動画でも撮ってやろうか?」
「……いいよ」
答えながらも風花から視線が外せない。
曇り空なのも忘れ、まるで眩い光の中にいるように見える。
いつの間にか通話は切られたらしい。
スマホをするんとジャージのポケットに滑らせると、犬神は軽く片手をあげて行ってしまった。
追いかければ間に合う距離なのに、もう視界も、頭の中も風花で満たされている。
「おはよう」
夏色のきみが僕だけを見てそう言う。胸がなんだかパンパンに膨らんだみたいで、
「あ……おはよう」
うまく声が出せない。
「じゃあ、行こうか」
そう言うと僕はもう歩き出していた。横に並ぶ風花の横顔を見られずに、駅へと進む。
まるで、片想いみたいだな。
そんなことを考える頭上で、雷がひとつ鳴った。
園内に入ったとたん降り出した雨は、目の前に広がる庭園の緑色をくすませた。
最初のうちは傘をさして雨に打たれる花を見ていたけれど、激しさを増す雨と雷にやむなく屋内に避難することに。
そばにある温室でサボテンやバラを見ているあいだにも、屋根を叩く音はどんどん大きくなり、僕たちはたまに顔を見合わせて笑った。
結局、温室を出たころには雨は本降りになり、屋内のカフェテラスで慣れないコーヒーなんかを飲んでいる。
事前にネットで調べた『夏の花コーナー』や『噴水広場』には行けずじまい。
もともと雨にはよいイメージがなかったけれど、最初のデートがこれではますますきらいになりそうだ。
「でね、アネモネは冬の寒さを実感させないと花が咲かないんだって。なんだかかわいそうだけど、十月になったらすぐに球根を土に戻そうね」
そう言うと風花は、この植物園特製のハーブティーに口をつけた。
「そうだね」
「液肥は月に一回程度だって。あげすぎると腐っちゃうからわたしがやるね。あ、下瓦さんにも言わないと。……って、なんで笑っているの?」
アネモネの話をするときの風花は本当に楽しそうだ。
もちろん、ほかの植物の手入れを怠っているわけじゃないけれど、贔屓しているのがバレバレで笑ってしまう。
「笑ってないよ」
「ウソ、笑ってるよ」
同じように微笑んでから、風花は窓の外の雨に目をやった。
今日の風花はいつにも増してかわいらしい。それは気のせいなんかじゃない。部活のためのパンツスタイルもかわいいけれど、青色のワンピース姿の風花を何度も見てしまう。
そのたびに緊張してしまう僕だ。
「これ、大事にするね」
風花の小さな手にのっているのは、さっきおそろいで買ったサボテンのキーホルダー。緑色のサボテンに丸い目が描かれている。
「花のやつにするかと思った」
まさかのサボテンに、さっきはずいぶん笑ったっけ。
「だってアネモネのキーホルダーがなかったから」
苦いコーヒーを飲んでからふと気づく。
「風花はどうしてそんなにアネモネが好きなの?」
ただ好き、というのとは違う気がする。
枯れたそばから来年の開花を楽しみにしているのが伝わるほど、風花はあの花に惚れこんでいるのはたしかだ。
「えっとね」と言ってから風花は少し目線を上げて考える仕草をした。
「はじめて会った日もね、家に帰りたくなかったんだ。それで学校の中を探検してたの」
あの日のことはずっと覚えている。アネモネに囲まれるように風花がそこにいた。
「はじめは『かわいい花だな』って思って見ていたの。でも気づいたらしゃがみこんでじーっと眺めてた。不思議なの、白いアネモネに吸いこまれるような感覚だった」
「あ、うん」
「そんな私に、花言葉を教えてくれたよね。アネモネが好きなのは、きっとわたしたちの出会いの花だから」
「あ、うん」
まさかそんな理由だとは思わなかった。
同じ言葉で返す僕に、風花は恥ずかしそうに視線を伏せた。長いまつ毛が瞬きのたびに揺れている。
「僕もアネモネが好きだよ」
照れくさいセリフも平気だ。本当に思っていることなら、するりと言葉にできる。
さっきの雨が、風花のワンピースの肩辺りを濃い色に変えている。
「お姉ちゃん、今ごろピアノがんばってるかなあ」
少しの悲しみ、少しのあきらめが一瞬浮かんだように見えたけれど、瞬きと同時に消えた。
つき合い出してから、風花はたまに姉のことを話してくれるようになった。
相変わらず気の利いた助言はできないままだったけれど、風花は気にした様子もなくぽつぽつと話を続けることが多かった。
「最近は、どんな自分を演じているの?」
「うーん。『お姉ちゃんを応援している自分』かな。でも、少しずつピアノの音を耳にしても大丈夫になっている気がする。前に話を聞いてもらってから、受け止められるようになったんだと思う。本当にありがとう」
「僕はなんにもしてないよ」
「そんなことない」
そう言ってから、風花はなぜかぷうと頬を膨らませた。
「そんなことないもん」
「急にどうしたんだよ」
なにかまずいことを言ったのかと心配になる僕に、風花は「だって」と上目づかいに僕を見た。
「自分のすごさをわかってなさすぎ。わたし、すっごく助けられているんだからね」
「え?」
「まずアネモネの花言葉を教えてくれたでしょう」
左手を上げ、美しい指を一本立てる風花に変えている気圧されるようにうなずくと、今度は中指を上げ指を二本にした。
「次にアネモネの育て方を教えてくれた」
「アネモネばっかじゃん」
苦笑する僕に、自分でも気づいたのかモゴモゴと口ごもってから、風花は「それに」と言葉を続けた。
「お姉ちゃんとの話を聞いてくれた」
「聞くだけだけどね」
「それってすごいことだよ。わたし、友梨にしか相談できなかったし、もちろん親にも言えなかった。こんなに安心して話せるなんて、なんでだろう?」
そんなこと訊ねられても困るけれど、悪い気はしない。
「花が好きな人に悪い人はいないから、とか?」
なんて誤魔化す僕に風花は感心したようにうなずく。
「たしかにそうだね。花が好きな人ってみんなやさしいよね。下瓦さんも最近いろいろ教えてくれるんだよ」
「そうかな。あの人、最近やたら命令してくるけど」
鉢の移動や雑草取りなどだけでなく、夏休みになってからは樹木の世話も任されるようになった。
体力仕事ばかりで、毎日ヘトヘトだ。
ふと、ポケットに入っている薬の存在を思い出した。抗生物質は結局一回飲んだだけでやめてしまった。
飲めば気持ち悪さは軽減できるものの、逆に胃痛が酷くなったから。
それに、今日の約束をしてからは頭の中がそのことでいっぱいになっていて、不調を感じている暇もなかった。
やっぱり恋をするってすごいことだ。
こんな魔法にかかったように夢中になれることはこれまでなかった。
でも僕らは恋だけをして生きているわけじゃない。僕は体調のことが心配だし、風花は姉のことで今も悩んでいる。苦しさを紛らわすために好きになったんじゃない。
それは風花も同じだろうか?
そっと風花の左手を握ると、風花は少し驚いたように目を丸くした。
「魔法」
単語を口にすれば、
「魔法だね」
風花は柔らかく微笑んでくれた。
トレイを持った店員が横を通りすぎたので、慌てて手を離した。
そうしてから僕たちはぎこちなく天気の話なんかをする。
告白した日からもっと風花を好きになっている。
このまま気持ちが止まらなかったら、自分はどうなってしまうのだろう。
そう思えるほど夢中になっている。
片想いなんかじゃない。風花が僕の彼女だという実感は、心地よい不安とともに存在している。
こんな話ができるなら、雨の日も好きになりそうだ。
◆◆◆
火曜日、久しぶりに不機嫌な朝。
理由はふたつある。
ひとつは、今日からお盆入りのため風花に会えないということ。
親戚の住む岐阜県に家族で行くらしく、平気なフリで昨夜も【行ってらっしゃい】とメールをしたけれど、全然平気じゃない。
もうひとつの原因は、母親がさっきから鬼のような形相で台所のテーブルの向こうに座っていること。
普段は怒ることは少ない分、たまにこうなるとかなり怖い。
怒鳴ったり大声をあげるならまだマシ。うちの母親が本気で怒ると、なぜか無言になるのだ。長い時間、仏像のように動かない母親に、重々しい空気がしかかってくる。
今も、微動だにせず見つめてくる母親に、僕は修行のようにじっとうつむくことしかできない。
「で、なんで?」
数分前と同じ言葉で訊ねる母親の手元には、隠しておいた抗生物質がある。ブルーの錠剤はひとつ空になっているだけ。
見つからないようにつねにズボンのポケットに入れていたのが逆効果だった。
うっかり洗濯物に出してしまったのだ。
「なんでちゃんと飲まないの!」
疑問形で訊ねないのが、母親が本気で怒っていることを示しているよう。
普段ならすぐに謝るところだけど、今日はこれ以上言われたくない気持ちのほうが強い。
風花に会えないことのほうが、今はよっぽど重要な問題だ。
「べつに理由はないよ」
椅子から立ちあがる。
食べかけのヨーグルトもそのままに出て行こうとする僕に、
「待ちなさい!」
焦った声を聞こえないフリでそのままリビングのドアを閉めた。
部屋にスマホと財布を取りに行きたかったが、きっと母親に捕まるだろう。
そのまま鍵だけを持って外に出た。
「うわ……」
朝から鋭く目に飛びこんでくる日差しに目を細め、そのまま自転車に飛びのった。
こうなったら部活に逃げるしかない。
ペダルを漕ぐと生ぬるい風が体にぶつかってくる。
足に力を入れてペダルを回すほどにスピードは上がっていくけれど、罪悪感がすぐうしろをついてくる気分。
風花も家にいたくないときはこんな気持ちだったのだろうな。
会えないと思うほどに会いたくなる。
こんな気持ち、今まで知らなかった。
校門をくぐり抜け駐輪場へ向かう。スマホがないからわからないけれど、まだ八時を過ぎたくらいだろう。
駐輪場の入り口が見えてきたとき、そこに風花がいた。思わず急ブレーキをかけるとすごい音が校舎に反響した。
え、なんで風花がここに……。
「おはよう」
ほっとした顔で駆けてくるのは、やっぱり風花だ。
白いスカートがひらひらと踊っている。僕も自転車のスタンドを立てて近づく。
「どうしたの? もう出かけたと思ってた」
「これから行くところ。でも、ひょっとしたら少しでも会えるかな、って思って来てみたの」
驚く僕に風花は胸に手を当てて息を吐いた。
「夕方にしか来ないってわかってたのになんでだろう? でも、会えた。うれしい」
白い歯を見せて笑う風花。
僕を待っていてくれたんだ……。
「僕もうれしいよ」
擽ったい幸せをくれる風花に、今朝のいらいらはどこかに飛んで行ったみたい。
駐輪場に自転車を置くと、荷台に風花はふわりと腰をおろした。
「体調はどう?」
風花の問いに、一瞬今朝のことを知っているのかとドキッとする。
けれど、風花は「ほら」と言葉を続けた。
「このあいだ、体調を崩してるって言ってたから」
「ああ」
納得すると同時に、心配をかけちゃいけないと思った。それは、決意に似ている。
「大丈夫。ストレスは風花がどこかへ打ち飛ばしてくれたから」
「ふふ。ホームランみたい」
「そ、ホームランだね」
クスクスと笑い合う。
「夏休みはどうしてるの?」
「とくに予定はないよ。犬神とたまに会うかも、ってとこ。戻ってきたらまたどっかに行こう」
「うん」
「映画もいいし、駅前にできた本屋さんも行ってみたい。結構広いみたいだし、カフェもついてるんだってさ」
行きたいところはたくさん。でも、それよりもそばにいたいと思っている。
口にすれば、これから旅立つ風花に心配させてしまうだろう。
「とにかく楽しみに待ってるよ」
ニッと笑う。
恋は、片想いじゃなくてもどこかせつないものなんだな。
こんなもどかしい気持ち、はじめて知ったよ。
ちょっとした沈黙に、誰にも聞かれていないのに僕たちは小さな声で笑った。
「あ、もうそろそろ行かなくちゃ」
「うん。気をつけて」
本当に気の利いた言葉が浮かんでこない。
風花は「うん」とうなずくと、
「いないあいだ、お花のことよろしくね」
と、頭を下げてから歩き出す。
わざわざ来てくれたうれしさと、これから数日会えないさびしさが同じ量で胸にこみあげてくる。
この瞬間から前よりももっと、きみのことばかり思うんだ。
鼻のあたりがツンと痛いし、お腹のなかは沸騰したように熱くなっている。
たとえ言葉にできなくても、今感じた気持ちを伝えたい!
「待って」
無意識に呼びかけると、僕は風花に向かって走っていた。笑顔のまま振り向く彼女をギュッと抱きしめる。
心がそうしたいと願っているように、あとから思考が追いつく感じだった。
驚いただろう、風花も僕の背中にゆっくり手を回した。
本当の気持ちなら、言葉なんていらないんだと思った。
すぐ近くで鳴き出すセミの声にようやく僕は体を離した。
目の前には真っ赤な顔の風花がいる。
「気をつけて行くんだよ。走ったりしないで」
「うん」
そっと体を離せば、彼女のぬくもりがまだ残っている。なんだか幸せなのに泣きたい気分だった。
「じゃあ、またメールして」
精一杯の強がりに、風花は僅かにうなずいた。
「……うん。行ってきます」
見えなくなるまで風花の背中を見送ると、何度も振り向いて手を振ってくれた。
会えない期間、何度もこのことを思い出すんだろうな。
自分のとった行動が恥ずかしくもあり、誇らしくもある不思議な気分だった。
鼻歌交じりに自転車を置く。
まずは気温が上がる前に水やりでもするか。
自転車の鍵をポケットに入れ歩き出したときだった。
思わず足が止まるほどの吐き気がこみあがってきた。今にも嘔吐しそうになり口を押さえて息を止める。
久しぶりに食べた朝食のせい?
いや、ほんの数口ヨーグルトを食べただけだ。
そのあとすぐに自転車に飛びのったことも影響しているのかもしれない。
「ああ……」
薬は台所に置いてきてしまった。
しょうがない。母親とのけんかがあったからこそ、風花に会えたのだから。
何度か深呼吸をしているうちに、徐々に吐き気は消えた。慎重に足を動かしても、もう大丈夫なよう。
そしてまた、きみの笑顔が頭に浮かぶ。
今までそこにいたのに、もう風花に会いたくてたまらない。吐き気も忘れて、僕は大切な人のことを考える。
セミはさっきよりもボリュームをあげて、騒がしく夏に鳴いている。
◆◆◆
風花に会えなくなって三日目の夕方、晴れ。
駐輪場に自転車を置くと、そのまま部室へ向かう。いつもの手順で作業着に着替えエプロンをつける。ホースを準備し水やりをしていく。
毎日のように風花とはメールや電話をしている。風花は親戚の人がいかにお酒を飲むかとか、従妹の子供が大きくなっていた話などをしてくれた。
学校と家の往復だけの僕の日々は平凡だったけれど、ちょっとした花壇の変化などを話すと彼女はそれをうなずきながら聞いてくれた。
だから、毎日の水やりも風花に話をするために、よりしっかりとするようになっていた。
「あと三日か……」
つぶやく声がかすれている。ここのところ体調が悪い。
抗生物質は母親により管理され、強制的に飲まされている。
飲んだあとの胃痛は相変わらずだったけれど、それでも日に日に吐き気は強くなっているようだ。
微熱があるのか今日は一日だるいままだった。それでも、水やりはしなくてはならない。
「おう」
声のするほうを見ると下瓦さんが近寄ってきた。
「お疲れ様です」
「ああ」
下瓦さんに夏休みはないらしく、お盆真っ只中の今日もいつもの作業着姿。両手にはなにに使うのかバケツを三つ持っていた。
「液肥はもうやらんでいい」
「あ、はい」
「裏門の木にハチがいたから、近くに巣があるかもしれん」
「はい」
「球根は乾燥したら小屋に入れておけ」
いつものように矢継ぎ早で出される指示を、必死で頭に入れる。
熱のせいかうまく処理ができないまま、一礼して部室へ歩き出す。
「なあ」
下瓦さんの声に振り向くと、彼は眉間にしわを寄せていた。
「明日からはしばらく休め」
言われた意味がわからず固まる僕に、下瓦さんは目を細めた。
「夏休みの宿題も多いんだろ。しばらくはそっちに集中しろ」
「え、でも……」
「水やりくらい俺ひとりで平気だ。実際、桜なんて今年の春休みは、一度も顔を見せなかったぞ」
顔をゆがめる下瓦さん。これが彼の笑みだということもすっかり理解している。
思い返せば最初はただおっかない人としか思っていなかった。
誰よりも植物を大切にしている下瓦さんのことを、見た目や態度だけで判断していたっけ……。
「下瓦さん」
「ん?」
「いつもありがとうございます」
「なんだそれ」
ケッと吐き捨てるように言う姿に、思わず笑みがこぼれてしまう。
彼は不器用だけどいい人だ。
「いつか下瓦さんのようになりたいって思っています」
「熱でもあるのか?」
怪訝な顔もそのはず。自分でも素直に出た言葉に驚いている。
ああ、そっか。
こういうのも風花が僕に教えてくれたんだ。
早く風花に会いたい。その日まではがんばらないと……。
「宿題は大丈夫です。もう終わらせましたから」
もう少しで風花も帰ってくる。
そうすればまたふたりでここで会えるのだから。風花がいないあいだ、花たちを守ることが使命のような気さえしている。
「いいから休め。これは業務命令だ。九月になったら忙しくなるからな」
言うだけ言って下瓦さんはさっさと行ってしまう。
困ったな……。
追いかけて『やらせてください』と言おうか、と思ったが、よく考えたら、逆に風花とほかの思い出を作れるチャンスだと気づく。
植物園のリベンジもしたいし、それならそれで……。
そこまで考えたときだった。
ぐにゃりと視界がゆがんだ。
気づけば僕は、地面にお尻をつけて座りこんでしまっていた。
これまでにないほどの強烈な吐き気がこみあげてくる。
「ぐ……」
自分の声とは思えないほどの低い音が口から漏れた。
「鈴木?」
声に顔をあげると、ゆがんだ世界の向こうで下瓦さんの声だけが聞こえる。
「どうした? おい」
返事をしようとすればさらに気持ち悪さが襲ってきて、口からなにかを吐き出していた。
喉がひりひりとして、さっき飲んだオレンジジュースが土に吸いこまれていく。
「鈴木、おい、鈴木!」
背中をさすられる感覚がするが、それよりも寒くてたまらない。
やがて鬼瓦さんの声も遠くなり、僕の世界は真っ黒に塗り替えられた。
◆◆◆
八月三十一日、夜九時。
しんとした部屋でクーラーの音だけが耳に届いている。
さっきまで我が家の食卓はにぎやかだった。
学校をサボりがちの弟とも最近はよく顔を合わせるようになったし、母親は仕事であった出来事を面白おかしく話していた。
食欲もずいぶんと戻ってきている。
あの日倒れた原因は『脱水症状』が原因と堤医師からは説明されている。実際、点滴や薬ですぐに回復したため、数日の検査入院で済んだ。
これまで拒んでいた検査もずいぶんさせられた。
下瓦さんに甘えて水やりに行くのはやめることにした。
風花とは何度か会うことができた。
それはファーストフード店だったり駅ビルだったり、たまには学校の花壇を見にいったりもした。
僕はうまく笑えていただろうか。
彼女に教えてもらった〝違う自分〟を演じられたのだろうか。
こうしてひとりベッドにもぐれば、否応なしに見たくない真実と向き合うことになる。
知りたくない秘密ほど、人は知ってしまうものなのかもしれない。
自分の体に起きていた異変は、今になって大きなモンスターのように僕に襲いかかっている。
もちろん、検査結果や病名を知らされたわけじゃない。
自分なりにネットで調べたり、母親や堤医師の反応を見て確信したことがひとつある。
どうやら、僕はもうすぐ死ぬらしい。
「ううん」
と咳払いするように唸った。
ここは町はずれにあるこの町唯一の総合病院。
昔から町のシンボルで、八階建ての外観は遠くからでも見えるほど。
引っ越しをしてきてすぐに体調を崩して以来、たまにここに通っている。できれば、近所にある内科医がよかったけれど、母親は頑なに譲らなかった。
循環器科の堤医師が担当医だ。
「あまりよくない結果が出てるの。炎症反応の数値が先月より悪くなっている」
血液検査の用紙を渡されるが、項目はすべてアルファベットで書かれていてどこを見ればよいのかわからない。
「学校が大変なら少しお休みしてもいいくらいのレベルよ」
堤医師の進言に、僕が答えるよりも早くうしろに座っていた母親が身を乗り出すのがわかった。
「私もそう言っているんだけど、この子ったら全然聞いてくれないのよ。部活も毎日のように参加しているみたいだし。姉さんからも言ってちょうだいよ」
不満を訴える母親と、目の前に座っている堤医師は姉妹の関係。
つまり僕にとって堤先生は伯母さんに当たる人だ。だから、わざわざ総合病院に通う羽目になったわけで……。
「あらあら。どうりで体中真っ黒だと思ったわ」
五十代半ばの堤医師。すっぴんに近いメイクに黒縁メガネ、白髪交じりの髪をうしろでひとつに縛っている。
ちなみに独身で、母親が言うには『姉さんは自分自身と結婚している』のだそうだ。
「たしかに部活も大変だと思うけど、今は炎症反応を抑えるほうが先よ。食欲もないみたいだし、微熱だってあるのでしょう?」
小さいころからの関係だからか、堤医師は子どもに言い聞かせるようにやさしく諭してくる。
「はあ……」
「それに、抗生物質って飲みすぎはよくないの。悪い菌だけじゃなくて、いい菌まで殺しちゃうから」
「そこまでストレスとかないと思うんだけどなぁ」
そう、ストレスなんてどこか遠くへ飛んで行ったはず。実際に今の僕は過去最強クラスのリア充なのだから。
考えるとにやけてしまいそうで、わざと咳払いをすると、
「もう」
と、うしろの母親が声をあげた。
「ストレスって知らないうちに溜まっちゃうのよ。だいたい、最近食事もろくにとらないじゃない。どんどん痩せていくし心配なの。夏休みなんだから少し安静にしてよね」
「わかってるって」
ひとりでここまで来たはずが、予約の情報が回っていたのか待合室に平然とした顔で母親は待っていた。
ほんと、いつまでたっても子ども扱いなのだから。
「血液の検査範囲をもう少し広げたいから、このあともう少し血をちょうだいね」
まるでプレゼントでもねだるような口調の堤医師に顔をしかめてみせる。が、うしろの母親が「そうね」と聞いてもいないのに同意する。
「いくらでも取ってちょうだい」
「本当なら精密検査をしたほうがいいと思うの。ストレスにしては長引きすぎているし、ほかの病気が原因の可能性もあるのよ」
堤医師は僕ではなく母親に目線を送っている。『お前が説得しろ』と言いたげに目を細めあごをクイッと動かすと、母親は大きくため息をついた。
「私もそう言うんだけどねぇ、この子、言うこと聞いてくれないのよ。反抗期かしら?」
「子どものいない私に聞かないでよ。言うことを聞かせるのも母親の務めでしょう」
ズバリと言ってのけた堤医師に母親はなにやらブツブツ言っている。ようやく僕に視線を合わせた堤医師が、「あのね」と続けた。
「CTスキャンと胃カメラだけでも今日やっていかない? 時間はそんなにかからないし、胃カメラは麻酔を使ってもいいし」
「結構です」
「少しは考えてから答えてよ。お盆に入ってから具合が悪くなったら困っちゃうでしょう?」
「えっと……」
宙を見て数秒考えてから、
「結構です」
そう答えた。
クスクスと笑いながら堤医師がカルテをパタンと閉じて看護師に渡した。
「とにかく、今週は強い抗生物質出しておくから、そのあいだに数値を安定させましょう。お盆が終わったらまた来てちょうだい。これで数値が悪かったら、最悪入院してもらいます」
「ええっ、入院!?」
そこまで悪いと思っていなかったので思わず大きな声を出してしまった。そんな僕に、堤医師はメガネを人差し指で直しながら鼻でため息をつく。
「それくらい数値が悪いの。自分の体にもっとやさしくしてあげなさい。以上、わかった?」
彼女の中では、まだ僕は子どものまんまなのだろう。
渋々うなずく僕に、堤医師は満足そうに微笑んだ。
◆◆◆
駅の改札口に着くと、朝だというのに汗ばんでいた。
空を見ればどんよりとした重い雲が流れている。
……傘を持ってくるべきだったかも。
そんなことを考えながらスマホをチェックする。
朝、風花から来たメッセージには、
【おはよう。楽しみすぎて寝不足。十時に駅でね♪】
と書かれてあった。
暗記するほど何度も読み返してしまう僕こそ、今日のデートが楽しみでたまらない。
まだ九時過ぎだというのに到着してしまった。
二ヶ月前に風花に告白をし、先月その答えをもらえた。
自分に恋人ができるなんていまだ信じられないし、実感もないままだ。そんな僕たちの関係は、夏休みに入ると同時に急に近くなった。
本来は水やり当番も交代でするはずだったが、約束したわけでもないのに毎日のように僕たちは夕方、部室で会うようになった。
いつしか、待ち合わせ時間は早くなっていき、『こんな昼間に水やりするな』と下瓦さんに怒られてしまうほどに。
そんなときは、図書館で涼を取ったり、ショッピングセンターのフードコートで夏休みの課題をしたりした。
一秒一分一時間、そして一日が愛おしかったし、同時に具合の悪い日は神様を恨んだりもした。
風花はやっぱり夜は家にいたくないようで、夏休みになってからは昼間も外にいることが多いようだ。
風花の姉は二歳年上の高校三年生らしい。
『もうすぐ音大の推薦入試があるんだって。今度の日曜日は一日ずっと練習するみたい』
ちょっと悲しげに言った風花を今日のデートに誘ったのは自然な流れだったと思う。
けれど、よいことばかりは続かない。
「天気がなあ……」
今にも雨が降りそうな空模様。
これから四つ先の駅近くにある植物園へ行くことになっている。デートに植物園に行くなんて、部活の延長みたいにも思えるけれど共通の趣味だからこその選択だ。
風花はほかにどんな趣味があるのだろう。
彼女のことを、これから僕はどんどん知っていく。そのたびに、ふたりの距離は距離は近くなるんだ。
考えるだけで胸がまた鼓動を速めるようだ。
ポケットの中のスマホが震えているのに気づいたのはそのとき。風花からだと、慌てて取り出すが画面には【犬神】と表示されている。
『スズッキイ、暇してる?』
開口一番訊ねてくる犬神に、
「おはよう」
と、わざとらしく朝の挨拶をしてやった。
『おはよう、ってもう九時だぜ。暇だからこれからどっか遊びにいかね?』
「……えっとさ」
返事に詰まる僕に気づくことなく、犬神は『ボウリングとかは?』と話を進めるので困ってしまう。
風花とつき合っていることはまだ誰にも話をしていなかった。言えない理由なんてない。むしろ大声でクラス中に宣伝したいくらいだ。
それでも言えずにいるのは、風花が恋人だという実感がないままだから。いや、自信がない、というほうが近い感覚かもしれない。
「今日はちょっと出かける用事があってさ」
『珍しい。どこ行くわけ?』
「べつにたいしたところじゃないよ。そっちこそ部活はいいの?」
『大丈夫。それより体調が悪いのに出かけていいのかよ』
「ボウリングに誘っておいてよく言うよ。ほっとけよな」
焦って乱暴な口調になる僕に、なぜか犬神はため息をついた。
『あーあ。おれの友だちはなんにも話をしてくれないから悲しい』
「……なんだよそれ。そんなこと、ないって」
『あるある。初デートってこと、おれには内緒なんだな。くやしー』
「へ?」
周りを見まわすが、まばらな駅前に犬神の姿はない。
まさか、とうしろを振り向くと、バスロータリー近くの歩道に、ジャージ姿の犬神が立っていた。
「げ、いたのか……」
『これから他校で練習試合ってわけ。バスに乗ろうとしたら、おめかしをした親友がいたからさ。どう見てもデートだろ?』
「…………」
スマホを耳からはがせずに黙る僕に、犬神は『ふ』と笑った。
『デートの相手は風花ちゃん。友梨はとっくに風花ちゃんから聞いて知ってたみたいだぞ。おれにも正直に話をしてほしかったなぁ』
なんと答えていいのかわからないでいると、
『もしもーし?』
数十メートル先で友は片手をぶんぶんと振った。
「言おうと思ったんだけどさ……」
『照れんなよ。すげえうれしいニュースなんだからさ、堂々と宣言すりゃあいいじゃん。おれなら真っ先にお前に言うけどな』
昔から自分のことを周りに言って回るタイプじゃなかった。それでも、犬神の言うことはもっともだと思うし、逆の立場ならさびしくもなるだろう。
「ごめん。風花とつき合ってる」
素直に伝えると、向こうで犬神はピースサインを作った。
『おめでとう。幸せになれよ。んで、おれにも誰か紹介してくれよな。あっ――』
短く声を出した犬神が急に背中を向けた。
『じゃあおれ行くわ。風花ちゃんがそっちに歩いていく』
「えっ!?」
左に視線をやると、青色のワンピース姿の風花がこっちに向かっていた。彼女が僕を見つけてうれしそうに目を細める。
『なんかまるでスクープ映像みたいだな。動画でも撮ってやろうか?」
「……いいよ」
答えながらも風花から視線が外せない。
曇り空なのも忘れ、まるで眩い光の中にいるように見える。
いつの間にか通話は切られたらしい。
スマホをするんとジャージのポケットに滑らせると、犬神は軽く片手をあげて行ってしまった。
追いかければ間に合う距離なのに、もう視界も、頭の中も風花で満たされている。
「おはよう」
夏色のきみが僕だけを見てそう言う。胸がなんだかパンパンに膨らんだみたいで、
「あ……おはよう」
うまく声が出せない。
「じゃあ、行こうか」
そう言うと僕はもう歩き出していた。横に並ぶ風花の横顔を見られずに、駅へと進む。
まるで、片想いみたいだな。
そんなことを考える頭上で、雷がひとつ鳴った。
園内に入ったとたん降り出した雨は、目の前に広がる庭園の緑色をくすませた。
最初のうちは傘をさして雨に打たれる花を見ていたけれど、激しさを増す雨と雷にやむなく屋内に避難することに。
そばにある温室でサボテンやバラを見ているあいだにも、屋根を叩く音はどんどん大きくなり、僕たちはたまに顔を見合わせて笑った。
結局、温室を出たころには雨は本降りになり、屋内のカフェテラスで慣れないコーヒーなんかを飲んでいる。
事前にネットで調べた『夏の花コーナー』や『噴水広場』には行けずじまい。
もともと雨にはよいイメージがなかったけれど、最初のデートがこれではますますきらいになりそうだ。
「でね、アネモネは冬の寒さを実感させないと花が咲かないんだって。なんだかかわいそうだけど、十月になったらすぐに球根を土に戻そうね」
そう言うと風花は、この植物園特製のハーブティーに口をつけた。
「そうだね」
「液肥は月に一回程度だって。あげすぎると腐っちゃうからわたしがやるね。あ、下瓦さんにも言わないと。……って、なんで笑っているの?」
アネモネの話をするときの風花は本当に楽しそうだ。
もちろん、ほかの植物の手入れを怠っているわけじゃないけれど、贔屓しているのがバレバレで笑ってしまう。
「笑ってないよ」
「ウソ、笑ってるよ」
同じように微笑んでから、風花は窓の外の雨に目をやった。
今日の風花はいつにも増してかわいらしい。それは気のせいなんかじゃない。部活のためのパンツスタイルもかわいいけれど、青色のワンピース姿の風花を何度も見てしまう。
そのたびに緊張してしまう僕だ。
「これ、大事にするね」
風花の小さな手にのっているのは、さっきおそろいで買ったサボテンのキーホルダー。緑色のサボテンに丸い目が描かれている。
「花のやつにするかと思った」
まさかのサボテンに、さっきはずいぶん笑ったっけ。
「だってアネモネのキーホルダーがなかったから」
苦いコーヒーを飲んでからふと気づく。
「風花はどうしてそんなにアネモネが好きなの?」
ただ好き、というのとは違う気がする。
枯れたそばから来年の開花を楽しみにしているのが伝わるほど、風花はあの花に惚れこんでいるのはたしかだ。
「えっとね」と言ってから風花は少し目線を上げて考える仕草をした。
「はじめて会った日もね、家に帰りたくなかったんだ。それで学校の中を探検してたの」
あの日のことはずっと覚えている。アネモネに囲まれるように風花がそこにいた。
「はじめは『かわいい花だな』って思って見ていたの。でも気づいたらしゃがみこんでじーっと眺めてた。不思議なの、白いアネモネに吸いこまれるような感覚だった」
「あ、うん」
「そんな私に、花言葉を教えてくれたよね。アネモネが好きなのは、きっとわたしたちの出会いの花だから」
「あ、うん」
まさかそんな理由だとは思わなかった。
同じ言葉で返す僕に、風花は恥ずかしそうに視線を伏せた。長いまつ毛が瞬きのたびに揺れている。
「僕もアネモネが好きだよ」
照れくさいセリフも平気だ。本当に思っていることなら、するりと言葉にできる。
さっきの雨が、風花のワンピースの肩辺りを濃い色に変えている。
「お姉ちゃん、今ごろピアノがんばってるかなあ」
少しの悲しみ、少しのあきらめが一瞬浮かんだように見えたけれど、瞬きと同時に消えた。
つき合い出してから、風花はたまに姉のことを話してくれるようになった。
相変わらず気の利いた助言はできないままだったけれど、風花は気にした様子もなくぽつぽつと話を続けることが多かった。
「最近は、どんな自分を演じているの?」
「うーん。『お姉ちゃんを応援している自分』かな。でも、少しずつピアノの音を耳にしても大丈夫になっている気がする。前に話を聞いてもらってから、受け止められるようになったんだと思う。本当にありがとう」
「僕はなんにもしてないよ」
「そんなことない」
そう言ってから、風花はなぜかぷうと頬を膨らませた。
「そんなことないもん」
「急にどうしたんだよ」
なにかまずいことを言ったのかと心配になる僕に、風花は「だって」と上目づかいに僕を見た。
「自分のすごさをわかってなさすぎ。わたし、すっごく助けられているんだからね」
「え?」
「まずアネモネの花言葉を教えてくれたでしょう」
左手を上げ、美しい指を一本立てる風花に変えている気圧されるようにうなずくと、今度は中指を上げ指を二本にした。
「次にアネモネの育て方を教えてくれた」
「アネモネばっかじゃん」
苦笑する僕に、自分でも気づいたのかモゴモゴと口ごもってから、風花は「それに」と言葉を続けた。
「お姉ちゃんとの話を聞いてくれた」
「聞くだけだけどね」
「それってすごいことだよ。わたし、友梨にしか相談できなかったし、もちろん親にも言えなかった。こんなに安心して話せるなんて、なんでだろう?」
そんなこと訊ねられても困るけれど、悪い気はしない。
「花が好きな人に悪い人はいないから、とか?」
なんて誤魔化す僕に風花は感心したようにうなずく。
「たしかにそうだね。花が好きな人ってみんなやさしいよね。下瓦さんも最近いろいろ教えてくれるんだよ」
「そうかな。あの人、最近やたら命令してくるけど」
鉢の移動や雑草取りなどだけでなく、夏休みになってからは樹木の世話も任されるようになった。
体力仕事ばかりで、毎日ヘトヘトだ。
ふと、ポケットに入っている薬の存在を思い出した。抗生物質は結局一回飲んだだけでやめてしまった。
飲めば気持ち悪さは軽減できるものの、逆に胃痛が酷くなったから。
それに、今日の約束をしてからは頭の中がそのことでいっぱいになっていて、不調を感じている暇もなかった。
やっぱり恋をするってすごいことだ。
こんな魔法にかかったように夢中になれることはこれまでなかった。
でも僕らは恋だけをして生きているわけじゃない。僕は体調のことが心配だし、風花は姉のことで今も悩んでいる。苦しさを紛らわすために好きになったんじゃない。
それは風花も同じだろうか?
そっと風花の左手を握ると、風花は少し驚いたように目を丸くした。
「魔法」
単語を口にすれば、
「魔法だね」
風花は柔らかく微笑んでくれた。
トレイを持った店員が横を通りすぎたので、慌てて手を離した。
そうしてから僕たちはぎこちなく天気の話なんかをする。
告白した日からもっと風花を好きになっている。
このまま気持ちが止まらなかったら、自分はどうなってしまうのだろう。
そう思えるほど夢中になっている。
片想いなんかじゃない。風花が僕の彼女だという実感は、心地よい不安とともに存在している。
こんな話ができるなら、雨の日も好きになりそうだ。
◆◆◆
火曜日、久しぶりに不機嫌な朝。
理由はふたつある。
ひとつは、今日からお盆入りのため風花に会えないということ。
親戚の住む岐阜県に家族で行くらしく、平気なフリで昨夜も【行ってらっしゃい】とメールをしたけれど、全然平気じゃない。
もうひとつの原因は、母親がさっきから鬼のような形相で台所のテーブルの向こうに座っていること。
普段は怒ることは少ない分、たまにこうなるとかなり怖い。
怒鳴ったり大声をあげるならまだマシ。うちの母親が本気で怒ると、なぜか無言になるのだ。長い時間、仏像のように動かない母親に、重々しい空気がしかかってくる。
今も、微動だにせず見つめてくる母親に、僕は修行のようにじっとうつむくことしかできない。
「で、なんで?」
数分前と同じ言葉で訊ねる母親の手元には、隠しておいた抗生物質がある。ブルーの錠剤はひとつ空になっているだけ。
見つからないようにつねにズボンのポケットに入れていたのが逆効果だった。
うっかり洗濯物に出してしまったのだ。
「なんでちゃんと飲まないの!」
疑問形で訊ねないのが、母親が本気で怒っていることを示しているよう。
普段ならすぐに謝るところだけど、今日はこれ以上言われたくない気持ちのほうが強い。
風花に会えないことのほうが、今はよっぽど重要な問題だ。
「べつに理由はないよ」
椅子から立ちあがる。
食べかけのヨーグルトもそのままに出て行こうとする僕に、
「待ちなさい!」
焦った声を聞こえないフリでそのままリビングのドアを閉めた。
部屋にスマホと財布を取りに行きたかったが、きっと母親に捕まるだろう。
そのまま鍵だけを持って外に出た。
「うわ……」
朝から鋭く目に飛びこんでくる日差しに目を細め、そのまま自転車に飛びのった。
こうなったら部活に逃げるしかない。
ペダルを漕ぐと生ぬるい風が体にぶつかってくる。
足に力を入れてペダルを回すほどにスピードは上がっていくけれど、罪悪感がすぐうしろをついてくる気分。
風花も家にいたくないときはこんな気持ちだったのだろうな。
会えないと思うほどに会いたくなる。
こんな気持ち、今まで知らなかった。
校門をくぐり抜け駐輪場へ向かう。スマホがないからわからないけれど、まだ八時を過ぎたくらいだろう。
駐輪場の入り口が見えてきたとき、そこに風花がいた。思わず急ブレーキをかけるとすごい音が校舎に反響した。
え、なんで風花がここに……。
「おはよう」
ほっとした顔で駆けてくるのは、やっぱり風花だ。
白いスカートがひらひらと踊っている。僕も自転車のスタンドを立てて近づく。
「どうしたの? もう出かけたと思ってた」
「これから行くところ。でも、ひょっとしたら少しでも会えるかな、って思って来てみたの」
驚く僕に風花は胸に手を当てて息を吐いた。
「夕方にしか来ないってわかってたのになんでだろう? でも、会えた。うれしい」
白い歯を見せて笑う風花。
僕を待っていてくれたんだ……。
「僕もうれしいよ」
擽ったい幸せをくれる風花に、今朝のいらいらはどこかに飛んで行ったみたい。
駐輪場に自転車を置くと、荷台に風花はふわりと腰をおろした。
「体調はどう?」
風花の問いに、一瞬今朝のことを知っているのかとドキッとする。
けれど、風花は「ほら」と言葉を続けた。
「このあいだ、体調を崩してるって言ってたから」
「ああ」
納得すると同時に、心配をかけちゃいけないと思った。それは、決意に似ている。
「大丈夫。ストレスは風花がどこかへ打ち飛ばしてくれたから」
「ふふ。ホームランみたい」
「そ、ホームランだね」
クスクスと笑い合う。
「夏休みはどうしてるの?」
「とくに予定はないよ。犬神とたまに会うかも、ってとこ。戻ってきたらまたどっかに行こう」
「うん」
「映画もいいし、駅前にできた本屋さんも行ってみたい。結構広いみたいだし、カフェもついてるんだってさ」
行きたいところはたくさん。でも、それよりもそばにいたいと思っている。
口にすれば、これから旅立つ風花に心配させてしまうだろう。
「とにかく楽しみに待ってるよ」
ニッと笑う。
恋は、片想いじゃなくてもどこかせつないものなんだな。
こんなもどかしい気持ち、はじめて知ったよ。
ちょっとした沈黙に、誰にも聞かれていないのに僕たちは小さな声で笑った。
「あ、もうそろそろ行かなくちゃ」
「うん。気をつけて」
本当に気の利いた言葉が浮かんでこない。
風花は「うん」とうなずくと、
「いないあいだ、お花のことよろしくね」
と、頭を下げてから歩き出す。
わざわざ来てくれたうれしさと、これから数日会えないさびしさが同じ量で胸にこみあげてくる。
この瞬間から前よりももっと、きみのことばかり思うんだ。
鼻のあたりがツンと痛いし、お腹のなかは沸騰したように熱くなっている。
たとえ言葉にできなくても、今感じた気持ちを伝えたい!
「待って」
無意識に呼びかけると、僕は風花に向かって走っていた。笑顔のまま振り向く彼女をギュッと抱きしめる。
心がそうしたいと願っているように、あとから思考が追いつく感じだった。
驚いただろう、風花も僕の背中にゆっくり手を回した。
本当の気持ちなら、言葉なんていらないんだと思った。
すぐ近くで鳴き出すセミの声にようやく僕は体を離した。
目の前には真っ赤な顔の風花がいる。
「気をつけて行くんだよ。走ったりしないで」
「うん」
そっと体を離せば、彼女のぬくもりがまだ残っている。なんだか幸せなのに泣きたい気分だった。
「じゃあ、またメールして」
精一杯の強がりに、風花は僅かにうなずいた。
「……うん。行ってきます」
見えなくなるまで風花の背中を見送ると、何度も振り向いて手を振ってくれた。
会えない期間、何度もこのことを思い出すんだろうな。
自分のとった行動が恥ずかしくもあり、誇らしくもある不思議な気分だった。
鼻歌交じりに自転車を置く。
まずは気温が上がる前に水やりでもするか。
自転車の鍵をポケットに入れ歩き出したときだった。
思わず足が止まるほどの吐き気がこみあがってきた。今にも嘔吐しそうになり口を押さえて息を止める。
久しぶりに食べた朝食のせい?
いや、ほんの数口ヨーグルトを食べただけだ。
そのあとすぐに自転車に飛びのったことも影響しているのかもしれない。
「ああ……」
薬は台所に置いてきてしまった。
しょうがない。母親とのけんかがあったからこそ、風花に会えたのだから。
何度か深呼吸をしているうちに、徐々に吐き気は消えた。慎重に足を動かしても、もう大丈夫なよう。
そしてまた、きみの笑顔が頭に浮かぶ。
今までそこにいたのに、もう風花に会いたくてたまらない。吐き気も忘れて、僕は大切な人のことを考える。
セミはさっきよりもボリュームをあげて、騒がしく夏に鳴いている。
◆◆◆
風花に会えなくなって三日目の夕方、晴れ。
駐輪場に自転車を置くと、そのまま部室へ向かう。いつもの手順で作業着に着替えエプロンをつける。ホースを準備し水やりをしていく。
毎日のように風花とはメールや電話をしている。風花は親戚の人がいかにお酒を飲むかとか、従妹の子供が大きくなっていた話などをしてくれた。
学校と家の往復だけの僕の日々は平凡だったけれど、ちょっとした花壇の変化などを話すと彼女はそれをうなずきながら聞いてくれた。
だから、毎日の水やりも風花に話をするために、よりしっかりとするようになっていた。
「あと三日か……」
つぶやく声がかすれている。ここのところ体調が悪い。
抗生物質は母親により管理され、強制的に飲まされている。
飲んだあとの胃痛は相変わらずだったけれど、それでも日に日に吐き気は強くなっているようだ。
微熱があるのか今日は一日だるいままだった。それでも、水やりはしなくてはならない。
「おう」
声のするほうを見ると下瓦さんが近寄ってきた。
「お疲れ様です」
「ああ」
下瓦さんに夏休みはないらしく、お盆真っ只中の今日もいつもの作業着姿。両手にはなにに使うのかバケツを三つ持っていた。
「液肥はもうやらんでいい」
「あ、はい」
「裏門の木にハチがいたから、近くに巣があるかもしれん」
「はい」
「球根は乾燥したら小屋に入れておけ」
いつものように矢継ぎ早で出される指示を、必死で頭に入れる。
熱のせいかうまく処理ができないまま、一礼して部室へ歩き出す。
「なあ」
下瓦さんの声に振り向くと、彼は眉間にしわを寄せていた。
「明日からはしばらく休め」
言われた意味がわからず固まる僕に、下瓦さんは目を細めた。
「夏休みの宿題も多いんだろ。しばらくはそっちに集中しろ」
「え、でも……」
「水やりくらい俺ひとりで平気だ。実際、桜なんて今年の春休みは、一度も顔を見せなかったぞ」
顔をゆがめる下瓦さん。これが彼の笑みだということもすっかり理解している。
思い返せば最初はただおっかない人としか思っていなかった。
誰よりも植物を大切にしている下瓦さんのことを、見た目や態度だけで判断していたっけ……。
「下瓦さん」
「ん?」
「いつもありがとうございます」
「なんだそれ」
ケッと吐き捨てるように言う姿に、思わず笑みがこぼれてしまう。
彼は不器用だけどいい人だ。
「いつか下瓦さんのようになりたいって思っています」
「熱でもあるのか?」
怪訝な顔もそのはず。自分でも素直に出た言葉に驚いている。
ああ、そっか。
こういうのも風花が僕に教えてくれたんだ。
早く風花に会いたい。その日まではがんばらないと……。
「宿題は大丈夫です。もう終わらせましたから」
もう少しで風花も帰ってくる。
そうすればまたふたりでここで会えるのだから。風花がいないあいだ、花たちを守ることが使命のような気さえしている。
「いいから休め。これは業務命令だ。九月になったら忙しくなるからな」
言うだけ言って下瓦さんはさっさと行ってしまう。
困ったな……。
追いかけて『やらせてください』と言おうか、と思ったが、よく考えたら、逆に風花とほかの思い出を作れるチャンスだと気づく。
植物園のリベンジもしたいし、それならそれで……。
そこまで考えたときだった。
ぐにゃりと視界がゆがんだ。
気づけば僕は、地面にお尻をつけて座りこんでしまっていた。
これまでにないほどの強烈な吐き気がこみあげてくる。
「ぐ……」
自分の声とは思えないほどの低い音が口から漏れた。
「鈴木?」
声に顔をあげると、ゆがんだ世界の向こうで下瓦さんの声だけが聞こえる。
「どうした? おい」
返事をしようとすればさらに気持ち悪さが襲ってきて、口からなにかを吐き出していた。
喉がひりひりとして、さっき飲んだオレンジジュースが土に吸いこまれていく。
「鈴木、おい、鈴木!」
背中をさすられる感覚がするが、それよりも寒くてたまらない。
やがて鬼瓦さんの声も遠くなり、僕の世界は真っ黒に塗り替えられた。
◆◆◆
八月三十一日、夜九時。
しんとした部屋でクーラーの音だけが耳に届いている。
さっきまで我が家の食卓はにぎやかだった。
学校をサボりがちの弟とも最近はよく顔を合わせるようになったし、母親は仕事であった出来事を面白おかしく話していた。
食欲もずいぶんと戻ってきている。
あの日倒れた原因は『脱水症状』が原因と堤医師からは説明されている。実際、点滴や薬ですぐに回復したため、数日の検査入院で済んだ。
これまで拒んでいた検査もずいぶんさせられた。
下瓦さんに甘えて水やりに行くのはやめることにした。
風花とは何度か会うことができた。
それはファーストフード店だったり駅ビルだったり、たまには学校の花壇を見にいったりもした。
僕はうまく笑えていただろうか。
彼女に教えてもらった〝違う自分〟を演じられたのだろうか。
こうしてひとりベッドにもぐれば、否応なしに見たくない真実と向き合うことになる。
知りたくない秘密ほど、人は知ってしまうものなのかもしれない。
自分の体に起きていた異変は、今になって大きなモンスターのように僕に襲いかかっている。
もちろん、検査結果や病名を知らされたわけじゃない。
自分なりにネットで調べたり、母親や堤医師の反応を見て確信したことがひとつある。
どうやら、僕はもうすぐ死ぬらしい。