頭を抱えて過ごしているあいだにテスト期間に突入してしまった。
 けれど、わたしの頭の中はそれどころじゃない。

「あー……どうしよう」

 教室を出て廊下を歩きながらひとりごちると、隣にいた倫子に「なにが?」と訊かれた。

「えっと、今日のテストがやばいなって、思っただけ」
「そんなのいまさら気にしても仕方ないじゃん。今日が終わったんだから、また明日考えたらいいんだって!」
「明日になったらなおさら今更じゃん」

 うははは、と倫子が豪快に笑う。

 倫子は最近出会った男の子といい感じらしく機嫌がいい。もともと明るい性格だったけれど、それが三割増くらいになっている。そんな倫子がそばにいるとわたしも笑顔になれる。笑い飛ばしてくれると気が楽になる。

 倫子に、本当はテストのことで悩んでいるわけじゃないんだ、と言えば、どんな反応を返してくれるのだろうか。


 ――『好きなんだ』


 思いだすと胸の中がむずむずして、いても立ってもいられなくなってしまう。心臓がどどどど、と滝のような音を出して体中に血液を流していくのがわかる。

 あの告白から、二週間。
 まだ、返事はできないでいる。

 文哉くんがわたしを好きだなんて、思いもよらなかった。あの瞬間の彼の表情も、声色も、すべてを覚えているというのに、それでも夢だったのではないかと思ってしまう。そのくらい信じられない。

 どうしていいのか、わからない。

「ねえ……倫子は、突然、自分がそういう目で見ていなかった人から告白されたら、どうする?」

 はあーっと息を吐きだしてから、ゆっくりと問いかける。

「誰に告白されたの? あ、いつも一緒に花の世話してる男の子?」

 きょとんとした顔を見せてから、倫子はすべてを悟って口角を持ち上げる。格段驚いた様子は見せない。

 どうしてあれだけのセリフでそこまでバレてしまうのか。

「いや、その」

 迷いのない倫子の言葉に、しどろもどろになってしまう。額にじっとりと汗か浮かぶのがわかった。それは、初夏の暑さから、ではない。

「わたしのことじゃ、なくて」
「その話の流れで、風花のことじゃないわけないじゃん」

 けらけらと笑われてしまった。そして、倫子はひとしきり笑ったあとで、「つき合えば?」と言った。

「っていうかてっきりもうつき合ってると思ってたー」
「つき合ってないってずっと言ってたじゃん。え? 信じてなかったの?」
「恥ずかしいのかなって」

 だってどっからどう見ても恋人同士だったんだもーん、と倫子はわたしを肘で突く。

「っていうか、風花がなにを悩んでるのかよくわかんないんだけど」
「だって、悩むよ、そりゃ。告白されたんだもん」
「好きな人に告白されたら、悩む必要なくない?」

 好きな、人。

 倫子のセリフを反芻(はんすう)させる。知らず知らずのうちに足が止まっていたらしく、数歩前に出ていた倫子が「風花?」と言って振り返った。窓から差し込んでくる太陽の光が、わたしの視界を一瞬真っ白に染める。

 好きな、ひと。

 もう一度、脳内で繰り返す。その言葉は、数年間わたしの辞書になかったものだ。言葉が体内に溶け込んでくる。

「まさか」

 頭で考えるよりも先に、声がこぼれた。

「そういうんじゃないよ。ただ、話しやすいだけで。ただの、友だち」

 そう、それだけの関係だ。
 学校で顔を合わせ、話をする。彼は本当に花に詳しくて、訊けばすぐに名前や花言葉を教えてくれる。見たことも聞いたこともない花についても、どんな色でどんな形なのかをわかりやすく説明してくれる。育てる方がわからないときは一緒に調べたりする。

 そんな話しかしていない。わたしたちの会話のほとんどが花のことだ。

 けれど、その時間の中で、彼はわたしの行き場のない迷子になった気持ちを見つけてくれた。そして、手を差し伸べてくれた。

 それに気づかないフリをした。

 園芸について話すだけの関係でいたかった。それ以外の話の仕方が、わからなかった。だから、なんとなく、気まずくて避けたりもした。

 けれど、文哉くんはわたしに差しだした手を、決して引かなかった。それどころか、わたしの手を強引に掴み、けれど優しく包んでくれた。
 夕暮れの校舎で、彼は言ってくれた。笑みを封印(ふういん)したかのような真面目な顔で。

 ――『無理して笑っている風花を見たくない』

 夏に差しかかろうという生ぬるい空気の中で、彼の額には汗が浮かんでいた。わたしを走って探してくれたのかもしれない。

 そんな彼を見て、そのやさしい手に触れたくなって、つい、お姉ちゃんとの話をしてしまった。けれど、まさか告白されることになるだなんて。
 あの言葉を、どう受けとめたらいいのかわからない。

 ――『風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい』

 思いだすと、胸がきゅうっと痛む。
 記憶が溢れてくる。閉じ込めておきたいものが、こぼれてしまう。それをこらえるようにぎゅっと(こぶし)を作った。

 倫子は、わたしの様子になにかを感じたのか「ふうん」と言う。

「今まで聞いたことなかったけど、もしかして風花って今まで好きになった人とかつき合った人とかいないの? だからそんなにガードが固いの?」

 ガードって。
 倫子の言い方がなんとなく面白く感じて口元が緩む。

「ちなみに私は三人つき合ったけどね。初めては小学生のとき」
「え。早すぎない?」

 わたしが小学生のときは周りからそんな話を聞いたことがないし、自分でも想像したことがない。ピアノに夢中になっていたからか、誰かを好きになった記憶もないけれど。

「で、風花は?」
「……いるけど。ひとりだけ」

 答えながらはじめてのつき合いを思いだす。初々しく、真っ直ぐだった自分が蘇る。好き! という気持ちしかなかった。そのくらい、あの頃のわたしは幼かった。そんなふうに思った自分にちょっと驚く。

 でも、それらすべてをひっくるめて、やっぱりそれは幸せなのだと思う。

「今はあんまりそういうことに興味がないんだよね、わたし」
「えー、もったいない! たとえそうでもいい感じなら軽い気持ちでつき合っちゃえばいいのに」
「無理だよー! 倫子だって、そんなこと言いながら先月合コンで出会った男の子の告白断ったじゃない」
「あれはあれ、これはこれ。だって好きじゃなかったんだもの」

 そう言われたら返す言葉がない。
 軽くつき合う、なんてできるほどわたしは器用じゃない。
 なによりも。

「わたしに、自信がない」
「なんの自信?」
「文哉くん、絶対もてるじゃない。だから、今まで何人かの女の子とつき合ってるはず」

 聞いたことないけど、あんな子が今まで誰ともつき合ってないとかありえない。倫子も「まあそうだろうね」とあっさりうなずく。倫子にもそう言われたら確定じゃん。

「そう考えると、なんか、こう、ね」
「いや、意味わかんないんだけど」

 ですよね。
 わたしだってうまく説明できない。

「でもそれって、結局好きかどうか、っていう悩みじゃないんでしょ」

 倫子が「じゃあ」と言葉を発する。

「なんで、悩んでんの?」



 倫子の言うことはもっともだ。

 校舎を出て、花壇のそばのベンチに腰かけながらぼんやりと考える。しばらく図書室で勉強をしていたけれど、集中できないまま時間を潰しただけになっていた。まだ閉館には早いものの、屋内でただただ流れる時間を過ごすくらいなら、とここでこうして過ごしている。

 脳裏に彼を思い浮かべながら。

 ゆっくりとゆっくりと太陽が沈んでいくのを感じながらまだ咲き切っていないひまわりを見つめる。春に比べて、見える景色から心なし色味が減って緑が増えたような気がする。
 
 それを見ていると、月日は確実に過ぎていっているのだと実感する。わたしだけが同じ場所でずっと足踏みをしているのかもしれない。

 きっと、今の悩みを友梨に話しても同じような答えを返されるだろう。むしろ倫子よりも友梨のほうが前向きに考えるようにと説得してくるかもしれない。カバンの中に入れっぱなしにしていたスマホを取りだし、友梨とのメッセージボックスを開く。

 友梨に話してみようか。そしたらきっと――。
 きっと?

 頭に浮かんだ思いを黒く塗りつぶすように、アプリを閉じた。

「ばかみたい、わたし」

 もう、とひとりごちて顔を上げる。

 すると、少し離れた場所から歩いてくるひとりの男の子が視界に飛び込んでくる。じっと見つめていると、彼もわたしに気がついたのか軽く右手を上げてそばにやってきた。

 歩いているのは彼だけじゃなかったし、そのなかには彼によく似た背格好の人だってたくさんいる。なのに、わたしはいつも彼を、文哉くんをすぐに見つけることができる。

「また時間つぶしてたの?」
「うん。文哉くんは? こんな時間まで学校でなにしてたの」

 今はテスト期間なのでもっと早く帰れたはずなのに。さっきまでわたしのいた図書室では、彼を見かけなかった。一体どこでなにをしていたのだろう。そんなことを考えながら目の前に立つ文哉くんの足元に視線を落とすと、空色のスニーカーが泥まみれになっている。

「植木鉢の植え替え」
「え! ずるい! わたしもやりたかった!」

 思わず声をあげてしまった。わたしをのけものにしてそんな楽しいことをしていたなんて。

「誘おうかとは思ったんだけど、テスト中だから悪いかなって」
「なんでー。いいなあ。そんなの気にしないのにー」

 がっくりと項垂(うなだ)れると、ごめんごめん、と軽い口調で謝罪を口にしながら文哉くんはわたしの隣に腰をおろす。

「なに植えたの?」
「コスモス。咲くのはまだ先だけど。秋になったら目につく場所に移動させるんじゃないかな」
「楽しみだね」

 文哉くんは、わたしを見て「そうだね」と言いたげに目を細めた。
 その顔が思ったよりも近くにある気がして、慌てて目をそらす。一度意識しはじめると、いつもよりも彼との距離が近いように思えてきて、体が固まってしまう。

 でも、文哉くんはまったく気にしていない。わたしだけが、狼狽(うろた)えている。

 文哉くんは、告白してからもわたしへの態度をまったく変えなかった。見かけたら声をかけてくれるし、こうして話もしてくれる。普段通りに振る舞ってもらえたことに、はじめはほっとした。けれど、あまりに変わらないので、彼は本当にわたしのことを好きなんだろうか、と思いはじめる。

 彼の言った〝好き〟は恋愛感情としてのものではなかったのかもしれない。友情としての〝好き〟だったのかも。

 そう考えると彼の態度も納得できる。

 だからこそ、二週間もわたしは彼に返事をせずにいるどころか、あの日のことすらも話題に出さずにいるのだろう。

 でも、それも結局は言いわけで、彼がなにも言わないことに甘えて、自分が言いにくいからという理由で今まで返事を放置しただけのこと。

 いつまでも、わたしは自分勝手な甘ったれだ。
 自己嫌悪が募る。

 無言になったわたしを、文哉くんが「どうした?」と首を傾げて覗き込んでくる。間近で目が合い、大げさに体を反らして「いや、なんでもない!」と顔の前で手を振った。

「家に帰りたくないから、時間を潰す方法でも考えてる?」
「あ、うん、まあ」

 たしかにそれもあるけれど、それだけじゃないです、とは言えない。けれど、お姉ちゃんとのこと、ピアノのことを話しておいてよかった、と思った。それが原因だと思ってくれるほうが楽だ。

 あはは、と笑顔を見せると、文哉くんは返事に眉を下げた。心配そうなその表情に慌てて言葉をつけ足す。

「あ、でも、文哉くんに話したら、結構楽になったとは思うんだよ! ただ、今はなんかお姉ちゃんがアンサンブルの練習してて、その、彼氏が家に来てるっていうか。それを邪魔するのもなんだか悪いなって。練習に他人がいたら気が散るじゃない。だから、さ」

 饒舌になってしまうわたしに、文哉くんは「そうなんだ」とだけ相槌(あいづち)を打つ。

 今のわたしは、彼にはきっと『必死に大丈夫なフリをするわたし』が見えているんだろう。自覚もある。もう少し上手に演じることができるはずだったのに、文哉くんを前にすると、どうしてもうまくいかない。

 自分で気づく前に、文哉くんにも気づかれるくらいだ。わかりやすいくらい伝わってしまっているだろう。

「……実はちょっと、しんどいんだよね」

 取り繕っても仕方がないと思い、肩の力を抜いて素直な気持ちを吐露(とろ)した。

 わたしを慰めてくれるみたいに、頭上にある木々がさわさわと音を奏でる。緑が深まるその葉っぱを見上げてから、
「弱音吐いていい?」
 と、文哉くんに訊いた。彼がこくんとうなずくのを確認してゆっくりと話を続ける。


 お姉ちゃんはわたしのかわりに、彼氏の斎藤さんと一緒にアンサンブルをすることに決めた。歌劇「椿姫」の『乾杯の歌』だ。プレゼントにぴったりの選曲だ。その練習に、斎藤さんは週に一回か二回、家にやってくるようになった。本番が今月末だからという理由だけれど、ふたりの実力ならさほど練習しなくても誕生日会に弾くことくらいできるはず。にもかかわらず、だ。

 まあ、それはべつにいいんだけど。
 普段お互いに練習で忙しいからあまりデートもしていないみたいだし。

 ただ、かわりに家にピアノが流れる時間が長くなった。おまけに斎藤さんが来ている日は晩ご飯を一緒にすることも多く、そういうとき、ふたりが仲睦まじくピアノの話で盛りあがる。それを見ながら、聞きながら、わたしはご飯を食べなくちゃいけない。

 ときに『風花も昔はピアノうまかったんだよ』とか『今も続けていたらわたしよりもずっとプロに近かったと思うんだけどなあ』なんてことを言われながら。
 ときに曲の解釈を語り合うふたりに意見を求められながら。

 斎藤さんの家で練習すればいいのに。
 グランドピアノもあるならそっちのほうがいいのに。
 なにか事情があるらしいけれど、そんなのわたしには関係ないのに。

 そんな本音をご飯と一緒に呑み込んでいる。

 こんなこと、誰にも言えない。『なにも気にしていない妹』という自分でいなくちゃいけない。間違っても、その仮面の下に『(ねた)ましくて仕方がない自分』が潜んでいることは悟られてはいけない。

 そんな話を一通りすると、文哉くんは「やさしいな」と言ってくれる。

 文哉くんはいつだって、それ以上のことを言わない。わかりやすい(なぐさ)めも、根拠のない大丈夫という言葉も、そんなの気にしなくていい、といったわたしのための叱咤(しった)も。

 ただ、いつだって耳を傾けてくれるだけ。
 それが、なによりもほっとする。

 そんな彼だから、わたしは家族や友人も知らない素直な一面を見せることができるのだろう。

「兄弟に、そんな優しいことしたことないなあ」
「そうなの? 意外」

 でも男同士だったらそんなものなのかもしれない。姉妹で買い物に出かけるという話は聞くけれど、兄弟でそういうのはあまりないような気がする。女同士よりも淡白なのだろうか。

「自分と違いすぎて、なんか、やさしくできなかったな。自分には真似できない姿に、羨ましさを感じているのかも」
「文哉くんもそんなふうに思うんだ」
「そんなに聖人君子じゃないからね。自分と違うところに嫉妬もするし悔しくなるし、もどかしくもなるし、それをこじらせてつい、相手にきついことを言ったり。……昔は仲がよかったんだけど」

 文哉くんはさびしそうに少しだけ目を伏せた。

 じっと見つめるわたしの視線に気づいたのか、彼はついと視線を持ち上げて力なく笑う。わたしも、今までずっとこんなふうに無理して笑っていたのだろうか。

 ――『風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい』

 あのセリフを、今、わたしは文哉くんに言いたくなった。

 わたしよりも大きな体なのに、守ってあげたい気持ちになる。半袖から伸びる腕も、わたしよりずっとたくましいのに。

 惹きつけられるように彼の顔を見つめつづけた。目元に、薄っすらと(くま)が浮かんでいる。額に浮かぶ汗が、暑さではないように見えるのはどうしてだろう。そういえば、少し痩せたような気がしないでもない。

「風花?」

 文哉くんが戸惑いを孕んだ声でわたしの名前を呼ぶ。そのときやっと、自分の手が彼の額に伸ばされていたことに気がついた。

「っわ、あ、いや!」

 慌てて手を引き、「その、あの」とどもりながら言いわけを考える。

 一体なにをしようとしていたのか、自分でもわからない。おまけに大きな体だとか、たくましい腕だとか、どこを見ているのか。
 恥ずかしすぎて目が合わせられない。

「あー、その、さい、きん、疲れてる?」

 視線を泳がせ、最終的に自分の足先に落ち着いた。わたしのオレンジ色のローヒールパンプスが、左右に揺れている。まるで居心地が悪いみたいに。どこかに逃げだしたくてウズウズしているみたいに。

「え? なんで? どうしたの、急に」
「なんか、顔色悪くないかなって思って」
「……そうかな」

 覗き見るようにちろりと視線を向けると、文哉くんは頬に手を当てて不思議そうな顔をしている。

「でも、たしかに最近はあんまり寝てないかも。あんまり食欲もないし」
「夏バテ? 早くない?」
「テスト勉強で忙しかったから」

 わざとらしくあごを持ち上げてわたしを見おろすように話す文哉くんに、ふふ、と自然に笑ってしまった。

「でも、ちゃんと食べないと。ちゃんと、健康でいないとだめだよ」
「母さんみたいなこと言う」
「だって」

 頬を膨らせると、「大丈夫大丈夫」と言って立ち上がった。

「風花、まだここにいるの? もうすぐ六時過ぎるけど」
「え、あ、うん。そうだね、もう少し……」

 今から帰ればちょうどいい時間に家に着くだろうけれど、今日も斎藤さんが来ているかもしれないし、六時半ごろにここを出ればいいだろう。ただ、晩ご飯は一緒に食べることにはなるけれど、連日遅く帰るわけにもいかない。

「でも、よかった」

 なにが? と言いたげに彼を仰ぐ。

「この前のことで、無理して笑ってるわけじゃなかったみたいだから」

 多分だけど、と言葉をつけ足して、彼がはにかんだ。
 文哉くんの言う〝この前のこと〟がなにを指しているのかすぐにわかり「違うよ!」と思わず大きな声を出して立ち上がる。立ったところでわたしと彼は数十センチの差があり、その距離が身長だけじゃないような不安を抱いた。

「うん、わかってる」

 文哉くんはそう言って頷いてくれたけれど、ほっとすることなんかできない。
 そんなふうに思わせていたなんて。

「あのとき、言ったことだけど……本当は言うつもりなかったんだ。だから、それで困らせてたら悪いなって勝手に思ってただけ」

 わたしが二週間有耶無耶(うやむや)にしていたせいで、そんなことを思わせてしまった。

 そんなこと、ないのに。
 困っていたのはたしかだけれど、でも、それは文哉くんのせいじゃない。わたしの問題だ。文哉くんはなにも悪くない。

 むしろ――彼の気持ちは、素直に嬉しかった。

 なんて返せばいいのかわからず、ただ否定を伝えようと首を振る。でも、それが余計に気を遣わせているように感じたのか、文哉くんは「ごめんね」と小さく言った。

「風花に、笑ってほしかったのに」

 その言葉が、胸に突き刺さる。
 こんなふうに思ってくれる人がいるだなんて、考えたこともなかった。何度も聞いたはずのセリフなのに、初めて聞いたみたいな衝撃に体が震える。

 でも。

「忘れていいよ。あの告白はさ、友情みたいな感じで受け取ってくれたらいい。それで十分なんだ。ややこしいこと言ってごめん」

 そんなふうに言われたら、なおさらそんなふうに思えるわけないじゃない。
 でも。

「ごめん、ね」

 自分の謝罪がなにに対してのものなのかはわからなかった。
 文哉くんに言わせたくないことを言わせてしまったことに対してなのか、わたしの気持ちを優先しようとしてくれている優しさに対してなのか。
 それとも、彼の告白の返事なのか。

 多分、すべてだ。

 わたしは、つき合えない。
 彼の気持ちに応えることができるほど強くない。そんな未来は、想像できない。

「うん」

 文哉くんは、そんなわたしの気持ちもお見通しかのようにこくりとうなずいて「いいよ」とだけ言った。あまりにあっさりとした返事に、泣きそうになる。

「じゃあ、また」

 また、という挨拶をしてくれているのに、同じ返事ができなかった。

 文哉くんはいつも通りに背中を向けて歩いていく。
 わたしの返事の意味は、きっと伝わっているだろう。いつだって、わたしが言葉にしなくても感情を読み取ってる人だ。だからこそ、落ち込む様子も、過剰な明るさも見せなかったのだと、思う。

 これまでと変わらない仕草と表情で、これからも友だちとしてそばにいてくれるだろう。

 でも、本当に?
 ――もしかすると、もう声をかけてくれないのではないか。

 考えると、突風が襲ってきたみたいに体がよろめいた。

 わたしは、これからも文哉くんと話がしたいんだ。だけど、彼がもうわたしと話すのはいやだと思うのならば、受け入れるしかない。だって、わたしが先に、彼を受け入れなかったのだから。つき合えないけど友だちでいたい、だなんてお願いは、ワガママになってしまう。

 文哉くんに、無理をさせたくない。
 彼を苦しめたくない。
 でも、それでも、――いやだ。

 自分の左手の中指にそっと右手を添える。

 大事なものをなくしてしまったわたしは、大事なものを手にするのが怖い。また、失ってしまうのがいやだ。もう二度と、あんな思いはしたくない。

 でも、今、わたしの中にあるこの感情は、悲しいとか、さびしいとか、なにかを失ったときに抱くものだ。

 この現状で、わたしはすでに大事なひとを失うってことだ。

「……もう、わたしの答えは、決まってたんだ」

 失笑がこぼれる。

 ずっと同じ場所にいたかった。なにかを失う変化を受け入れなければいけないくらいなら、なにも得ない日々でいたほうがいい。

 けれど、ずっと同じ場所にはいられないし、そんなことは不可能なんだ。

 さっきわたしは友梨にメッセージでなにを言おうとしたか。そして、なんて言ってほしかったのか。

 背中を、押してほしかった。
 彼とつき合う理由が、欲しかった。
 自分の足で踏み出す勇気がないから。
 その時点で、わたしの気持ちはすでに決まっていた。

 ――『好きな人に告白されたら、悩む必要なくない?』
 ――『でもそれって、結局好きかどうか、っていう悩みじゃないんでしょ』

 そうだね、倫子。

 カバンから再びスマホを取り出して、メッセージ画面ではなく友梨の電話番号を表示させる。そして通話ボタンをタップして耳に当てた。呼び出し音が三回、そして四回目に「はーい、どうしたー?」と友梨の明るい声が聞こえてきた。

「あのね」

 言葉に力がこもる。と同時にカバンを掴んで腰を上げる。

「友梨、わたし、好きな人ができたよ」

 はっきりと、自信を持って口にすると、それは自分の胸にすとんと落ちてくる。さっきまでもやもやしてたなにかが、まるで綿毛に変わり飛散して体内から飛び出していくみたいだ。

 体が、軽くなる。

 彼と出会ったのは今年の春。話すようになってからたった四ヶ月弱だし学校以外で連絡を取り合ったこともない。

 一緒に花を見て、花の話をした。
 並んで景色を見て回った。

 そんな中で彼はわたしを見てくれた。見つけてくれた。仮面の下の本当のわたしに、あたたかなぬくもりを与えてくれた。

 そして、わたしはそんな彼に、いつの間にか彼に惹かれていた。ちょっとした仕草に暴れる心臓が、一番正直だった。どこが、とか、なんで、とかはわからない。はっきり答えられるほど彼のことを知っているわけじゃない。

 ただ、一緒にいる時間が心地よかった。
 彼と過ごす時間は、あたたかかった。
 彼が隣にいると、自然に笑っている自分がいた。


 ――わたし、文哉くんのことが、好きなんだ。


 突然の宣言に驚いたのか、友梨からの返事は数秒なかった。けれど、ふ、と笑いを漏らしてから、
「いいじゃん」
 と声を弾ませて言ってくれた。

 通話を終えるとすぐ、地面を蹴って駆けだした。カバンを振り回し、校門を目指す。

 まだそんなに遠くには行っていないはずだ。すぐに追いつけるはず。ろくに運動をしてこなかったので、あまり持久力はないけれど、今ならどこまででも、彼の背中を見つけるまで走り続けられそうだ。
 風に乗って、いつまででも。

「文哉、くん!」

 校門手前で見つけた背中にお腹から声を出す。

「……風花?」

 呼びかけに、文哉くんだけではなく周りにいた人も振り返った。
 彼は目を丸くして立ち止まり、わたしが近づくを待ってくれる。そういえば、驚く文哉くんの顔を見るのは初めてのことだ。

 必死で足を動かし、彼との距離と縮めていく。
 それがもどかして、我慢できなくて、


「わたしも、好き、です!」


 乱れた呼吸のまま、叫んだ。

 一度足を止めると、突然ひゅうひゅうと、喉(のど)が隙間風のような音を鳴らす。
 さっきはどこまでも走れると思ったのに、結局二百メートルくらいで限界だったらしい。ふらふらと、ゆっくりと、文哉くんに近づいていく。やっと彼に追いついても、どうしても息が整わず、声を発することができなかった。かっこ悪い。

 膝に手をついて、額に浮かんだ汗を手で拭った。カバンからハンカチを取り出す余裕もない。肩を上下させながら、目をつむり必死で深呼吸をしようとする。まったくうまくできないけれど、ゆっくりと呼吸をするのが楽になってきた。

 さっきよりも深く息を吸い込み、吐きだす。

 まだ少し心臓が尋常じゃない速さで動いているけれど、「あの」と改めて顔を上げる。わたしの正面に立っていた文哉くんは「はい」と肩を震わせて背筋を伸ばした。その様子がなんだかかわいくて、頰が綻んでしまう。そして、わたしも姿勢を正して文哉くんに向かい合った。

「わたしも、好きです」

 同じセリフを、今度は落ち着いて、目を見て、口にすることができた。

 文哉くんは言葉を失ったみたいにしばらくぽかんと口を開けて、ゆっくりと頭を垂れる。頭に手を乗せて、なにかを考えているのかしばらく動かなかった。

 ……それは、どういう気持ちからの行動なのだろう。

 さっきまでこれで両想いだ、と思っていたけれど……返事をしてくれないことに不安が胸の中で渦巻く。もしかして、考えたくないけど、本当に彼の告白には恋愛感情が含まれていなかったのだろうか。

 もしくはいまさら調子のいいことを言うわたしに対して怒っているのかもしれない。
 あれから時間が経ったことで、彼の気持ちはもう変わってしまったとか。

 流れていた汗が瞬時に冷や汗に変わる。

「あ、あの、その」

 この場合、どうしたほうがいいのだろう。
 あまりに長い沈黙に耐えきれずオロオロしてしまう。と、文哉くんは「ふは」と噴き出して肩を震わせはじめた。そして、顔を上げる。隠れていた表情が顕になる。

 彼は、頬を赤くしてなんとも言えない笑みを浮かべていた。

「こんなところで大声で告白とか、びっくりした」
「え? え、あ! つい!」

 文哉くんの言葉にはっとしてあたりを見まわすと、近くにいた生徒たちの視線が集まっていることに気づく。やっと気づいたか、と言いたげに、まわりにいた人たちが「頑張れよー」「かっこいいじゃん」「返事早くしてやれよ」と口々に言い出した。

 恥ずかしすぎる! 勢いでとんでもないことをしてしまった。

「ご、ごめ、ん! 文哉くんまで注目されちゃって……!」
「いいよ、驚いただけ」

 はは、ともう一度声を出して笑った文哉くんは、耳も赤くなっていた。

「俺も好きです」

 文哉くんは、はにかみながら答えてくれた。

 彼の両手が持ち上げられてわたしに近づいてくる。ゆっくりとしたその動作は、どことなく躊躇しているように思えた。けれど、文哉くんはその手をわたしの背中に回す。引き寄せられたわたしの体は、すっぽりと彼の体に包まれた。
 喧騒(けんそう)が耳に届く。
 おめでとう、と祝福してくれる声が聞こえる。
 嬉しいはずなのに、嬉しいだけじゃない涙が浮かんでくる。
 喉が(しぼ)んでなにも言葉にできない。

「笑っていてくれるなら、なんでもするよ」

 耳元で、まるで独り言のように文哉くんが言った。その声は、かすかに震えていた、と思う。

 どんな表情で、どんな気持ちでそう言ってくれているのか、彼の胸板しか見えないわたしにはわからない。

 ただ、なんとなく、今にも壊れてしまいそうだと思った。

 抱きしめられているのはわたしなのに、彼を抱きしめたくなる。迷子になって不安で泣きそうになっている子どものように彼を包み込んで、大丈夫だと言いたくなる。

 だから、わたしも彼の背中に手を回し、服をぎゅっと握りしめた。


 文哉くんへのこの気持ちは、ウソじゃない。彼が口にしてくれた気持ちと同じように、わたしも彼を笑顔にしたいと思う。

 そうしたら、彼に出会えたことの意味が見つけられるかもしれない。
 ふわりと舞った生ぬるい風は、わたしの気持ちを少し重くさせる。


 ――運ばれてきたのは、罪悪感だ。