きみの知らない十二ヶ月目の花言葉

校舎をなぞるように設置されている花壇には、アリウムとシラーが薄紫の花を咲かせている。

 アリウムは細い(くき)の先に丸い花が、シラーは星形やベル形の小花がたくさんついていて、どちらも薄い紫色。花自体は小さくて目立たないが丈夫で育てやすいのが特徴だ。
 梅雨時期には外での作業も難しくなるため、桜先輩が去年の冬前に球根をこれでもかというほど植えたそうだ。

 夕暮れの校庭を横切れば、長い影も一緒についてくる。
 グラウンドのほうからは野球部のかけ声がこだまのように響き、空に昇っていくよう。

 毎日、部活の終わりには花壇を見まわっている。ときには右回り、ときにはジグザグにチェックをしていく。
 園芸部は花だけでなく樹木(じゅもく)も担当する決まりだが、さすがに部員ふたりでは手に負えず、下瓦さんに丸投げしている状態だ。

 入部当時は作業着に緑色のエプロン姿でウロウロすることに恥ずかしさもあったけれど、人は慣れる生き物。最近では平気になり、花壇で作業をする僕に『ごくろうさま』と先生が声をかけてくれることも多くなった。

 にしても、この高校はほかでは見ないほどに花壇が多い。
 水やりだけでも相当(そうとう)な苦労があるだろうから、下瓦さんも大変だろう。

「あ! いた!」

 向こうから風花が駆けてくる。さっき二手に分かれて見まわりを始めたところなのに。

「え、もう終わったの?」
「うん」

 はあはあ、と苦しそうに息を切らす風花。額に光る汗が、頬の辺りに伝っている。

「走らなくていいのに。って、昨日も言ったよね?」
「あ、そうだった」

 今、思い出したかの様子で風花は目を丸くしている。

「もう暗くなってきたし、走っちゃ危ないよ」
「うん。ありがとう」

 ()めているわけじゃないけれど……。
 部室に向かって歩いていると、ちょうど下瓦さんが用具入れから出てくるところだった。
 僕を認めると、あごをクイッとあげた。これは、『こっちに来い』の合図だ。

「お疲れさまです」

 ふたりして駆け足で近づくと、下瓦さんは「ん」とひと文字で答える。
 最初のうちは苦労した意思疎通(いしそつう)も最近ではコツが(つか)めてきたみたい。

「ガーベラの水やりをしたのは?」

 下瓦さんが太い人差し指を交互に動かしたので、
「僕です」
 と答えた。

「わたしです」

 風花が言う。

「いえ、僕です」
「うるさい! もうどっちでもいい」

 太い腕を組むと、下瓦さんは「腐るぞ」そう言った。
 水の量が多すぎたということだろう。

「すみませんでした。以後、気を付けます」

 きっちり謝罪する。風花が慌てて口を開いたところを、下瓦さんがごつい右手を開いて制した。

「きみは花壇へ」

 花壇の手入れをするように、という意味だと受け取る。

「はい!」

 慌てて駆け出す風花の頭は、もうアネモネで埋め尽くされているに違いない。走ったら危ないと言ったばかりなのに。
 ふたりして見送ると、下瓦さんは体を僕に向けた。

「これ、頼む」

 手渡されたのはラベルのはがされた二リットルが入る大きさのペットボトルだった。透明の液体が八割くらい入っていて、ずっしりと重い。
 取っ手のついているところを見ると、焼酎(しょうちゅう)が入っていたと思われる。

 なんだろう、これ?

 疑問が顔に出ていたのだろう、下瓦さんはわざとらしく大きなため息をついた。

液肥(えきひ)

 最低限の言葉で説明しようとするが、すぐに僕が理解していないと悟ったのか、
「スマホで調べろ」
 と、もう歩き出してしまう。

「えきひ、ですか?」

 背中に声をかけると、足を止めた下瓦さんがめんどくさそうに振り向いた。

「間違っても飲むなよ。あっという間にあっちに行くぞ」

 太い人差し指を上空に向けている。
 どうやら『死ぬ』と言いたいらしい。強面で言われると思わずゾッとしてしまう。カクカクとロボットのようにうなずくと、下瓦さんはクワッと顔をゆがめた。
 いや……どうやら笑っているらしい。

「四十倍に薄めて使え」
「わかりました」
「東校舎にホースが置かれたままだぞ」
「はい」
「倉庫に種が届いていたから持っていけ」
「はい」

 頭にメモをして僕も歩き出す。
 言われたことをこなしているとどんどん空が暗くなっている。
 下瓦さんの言う通り、明日は雨らしく上空を厚い雲が(おお)い始めている。
 日の入りは徐々に遅くなっているとはいえ、さすがに六時。
 もう帰ったほうがいいだろう。

 部室の建物が見えたと同時に、脇の花壇にしゃがみこむ風花のうしろ姿が見えた。
 自然に足が止まってしまう。

 ――痛いな。

 無意識に胸の辺りに手を当ててしまう。
 先月までは会えることが楽しみで、部活の時間が待ち遠しかった。
 入部以来、風花は毎日放課後になるとここに来たし、重労働な園芸部の活動にも文句は言わなかった。
 むしろ、土にまみれ虫に刺されても楽しんでいるように見えた。
 さっきまで一緒にいたのに、少し離れただけで会いたくなっている。

 変わったのは僕のほうだ。

 授業よりも友だちと話をするよりも、風花に会うことだけが毎日の中で重要なことになっている。
 二十四時間分の約二時間。かけがえのない時間は、終わった瞬間からもう会いたくなっている。
 同時に感じるのは孤独という名の耐えがたい感情。

 ――そんなわけがない。

 これは恋なんかじゃない。自分に言い聞かせるように、今度はしくしくと痛むお腹に手をおろす。
 ああ、こういうのもストレスになるのか。
 たまたま同じ部活に入っただけの仲。クラスも違うし、プライベートな話なんて少しもしたことがない。
 もちろんスマホの連絡先も聞けずにいる。知っているのは、家に帰る方向が違うということくらい。

 意識して大きく息を吸いこむと、
「お待たせ」
 軽い口調を心がけ、風花に近づいた。

「お疲れ様」

 スコップを手に振り向く風花。花壇には、先週までアネモネがあんなに様々な色で咲いていたのがウソみたいに半分近く散ってしまっている。

「だいぶ枯れちゃったね」

 風花が指す先、そこにはしおれかかっている白いアネモネがあった。

「もう六月だしね」
「残念だなぁ。ずっと咲いていたらいいのに」
「そうだね」

 何気なく答えても、耳が心が彼女の言葉を受けとめようと必死になっている。

「夏にもいろんな花が咲くよ」

 (なぐさ)めの言葉をかける僕に、風花は「そうだね」と言った。全然、納得していないのがたった四文字の言葉でも伝わってくる。

「なんでそんなにアネモネが好きなの?」
「見た目と違うから」
「見た目?」
「あんなにきれいなのに、花言葉がさびしいでしょう? そういうところかな」

 はかない恋、か。

 まるで僕のことを表しているみたいだ。
 必死で否定しても、コップから水が(あふ)れるように気持ちが止められない。
 風花に近づきすぎないよう距離を取りしゃがんだ。僕たちの前にある花壇では元気なく首を下に向けている。

「アネモネは球根植物なんだ」

 間を埋めるように説明をする。

「球根?」
「うん。だから、明日から土の中にある球根を取り出して保存するための作業をするよ」

 頭の上にハテナマークを浮かべる風花は、まだピンときていない様子。

「秋ごろに『分球(ぶんきゅう)』という作業をするんだ。分球によって古い球根から新しい球根に生まれ変わる。それを植えれば、来年の春にはまたきれいな花を咲かせるよ」

 ようやく理解したのか、ぱあっと顔を輝かせた風花。あまりにうれしそうに笑うから、眩しくて目をそらしてしまう。

「それって、花が生まれ変わるってこと?」

 生まれ変わるなんて大げさだと思ったけれど、喜ぶ風花をもっと見たくて、だけど見られないまま僕はひとつうなずいた。

「そう、だね。準備さえきちんとしていれば、生まれ変わるよ」
「もうお別れかと思ってたからすごくうれしい。ありがとう」
「いや、僕はべつに……」

 実際のところ、枯れゆくアネモネを悲しがる風花のために必死で調べたこと。照れを隠すように空を見ると、夜がいた。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「え、もう?」

 立ちあがった風花の柔らかい髪が風に踊っていた。
 同じように体を起こすと、僕は手にしていたペットボトルを見せた。

「下瓦さんからの指令でさ。液肥、ってのを調べなくちゃいけないから先に帰って」
「じゃあ、わたしも残る。一緒に調べたほうが早いよ」
「ひとりでいいよ。家族が心配しているといけないし」

 そう言った瞬間、にこやかだった風花の表情が(かげ)ったのを見逃さなかった。

 それは(わず)かな変化だったけれど、悲しみを含んでいると思った。
 が、すぐに風花は晴れ渡るような笑みに戻っている。

「いいから一緒にやろうよ。たったふたりの部員でしょう。部室に集合!」

 僕の手からペットボトルをさらりと取ると、もう風花は部室に向かって歩き出す。

 ……今のは、見間違い?

 ようやく足を動かし「早く早く」とせかす風花を追いかける。
 確認するように横に並ぶと、すっとそらされる瞳。

 恋はせつないな。
 相手の些細(ささい)な変化にも気づいてしまう。そうして、きっと今夜はその理由について思い悩むのだろう。

 気持ちを再確認するほどに、風花への気持ちはどんどん成長していく。
 まるでモンスターのように大きくなり、その存在を僕に知らせる。
 ここにいるよ、と悲しく叫ぶ声が、僕を動けなくする。



◆◆◆



 梅雨入りしてから雨はぴたりと止まり、この数日初夏の陽気が続いている。
 昼休みになると同時に新しい液肥を用務員室に取りに行った。どうやらまだまだ散布(さんぷ)しなくてはならないらしい。

 重いペットボトルを両手に持って歩くそばから、白いシャツの中に熱気がこもる感覚。
 なにか声が聞こえるな、と思ったら、友梨と犬神が花壇のところではしゃいでいた。

「あ、来た来た」
「遅いな。なにやってたんだよ」

 それはこっちのセリフだ。

「こんなところでなにしてるわけ?」

 いぶかしげに訊ねると、
「犬神くんがスズッキイのこと探してたから、連れてきてあげたんだよ」
 友梨が自慢げにあごをあげた。

「教室で待ってればいいのに」

 部室の鍵を開けて中に入ると、当然のようにふたりともついてきた。

「へぇ。園芸部の部室ってすげえな。秘密基地みたい」
 
 キョロキョロと見まわす犬神が、僕の定位置の椅子にドカッと座った。

「ねぇ、その手に持ってるのなに?」

 友梨の質問に「液肥」と前に下瓦さんに言われたままの言葉で答えるが、「ん?」と首をかしげている。

「液肥っていうのは、花にやる液体の肥料のこと。四十倍に薄めて、水と一緒に撒くんだよ」

 先日、風花と一緒に調べたことを説明する。ちなみに主な成分は『油かす』だそうだ。
 最近いろんな花に撒いているけれど酸っぱいにおいが苦手だ。

「そんなことまでやるんだ。園芸って意外に体を使うんだね。スズッキイも運動部の子みたいに焼けてるし」

 たしかに僕の体は腕と顔だけが真っ黒に日焼けをしている。
 土や肥料を運ぶことも多いので意図しなくとも腕や足が太くなってきた気もする。

 ……なんで風花は園芸部に入ったんだろう。

 最近はことあるごとに頭に浮かぶ風花の顔。意識して追い払うと、まだ室内を観察している犬神の前に座った。

「なんの用だったの?」

 すると、犬神が迷ったような顔をしたから驚く。
 なんでもズバズバ言う奴だと思っていたから、こういう素振りははじめて見た。

「いや、なんか余計なお世話かもだけどさ、最近疲れてるだろ?」
「僕が?」
「ほかに誰がいるんだよ。部活が忙しいのかもしれないけど、元気がないのが気になっててさ、友梨に相談したら同じ意見だったし」

 友梨も僕たちのそばに来ると大きくうなずく。

「今日だって昼ご飯食べてないでしょ。スズッキイはちょっとがんばりすぎなんだよ。部員がふたりってのは悲劇だけどさ、人間には活動限界点があるんだからね」

 たしかに最近、体調が悪いことが増えた。
 いつもかかっている医者にも薬を処方(しょほう)されるようになっていたのは事実だ。

 やはりストレスや疲れが溜まってきているらしい。
 そろそろ医者の言うようにちゃんとした検査をしなくてはならないだろう。

「疲れてないよ。それにがんばり屋なのはそっちのほうじゃん。サックスの練習大変みたいだし」

 明るい口調で言うけれど、友梨は「そんなことない」という姿勢を崩さなかった。

「とにかく聞けよ。で、友梨と決めたんだよ」

 犬神は友梨と視線を合わせる。ふたりして軽くうなずき合ってから、また口を開いた。

「おれたちも園芸部の手伝いをすることにした」
「え? なんだよそれ」
 
 冗談かと思い笑ってしまうが、ふたりは真面目な表情をしている。

「べつに入部するわけじゃないぜ。おれたちも部活があるし、毎日は無理。でも重い荷物を運ぶときとか、人手がほしいときは遠慮なく言ってくれ。友梨が運ぶから」
「なんであたしなのよ。ふたりで協力するんでしょ」
「冗談だよ、冗談。だからさ、スズッキイ――」

 犬神が体を少し前にして顔を近づけてきた。

「つらかったら頼れよ。友だちなんだからさ」
「そうそう。あたしたちにまかせなって」

 どうやら本気らしい。

「……わかった。ありがとう。遠慮なくお願いさせてもらうよ」

 そう言うと、ようやくふたりは表情を(ゆる)めた。
 まさか表情や態度に現れているとは思わなかった。

 これからは心配かけないように気をつけないと……。

 部室を出て鍵を閉めていると、「そうだ」と友梨がうしろですっとんきょうな声を出した。

「風花がね、今日は部活参加できないってさ」

 ビクッと()ねる胸を誤魔化して、友梨を振り返った。
 今、風花の名前が聞こえた気がしたけれど……。

「風花、すごく気にしてたよ。なんかの花を植え替える約束をしていたとか――」
「なんで?」
「家の用事だって。スズッキイに伝えてほしいって言われてたの忘れてた」
「そうじゃなくて――」

 動揺を悟られないよう、鍵に集中しているフリで続ける。

「なんで友梨が風花のこと知ってるの?」
「え、もう呼び捨てなんだ。やるーぅ」

 いや、それは風花から先週お願いされたことであって……。

 って、今はそれどころじゃない。

 ようやく鍵をかけ終えてから振り返ると、友梨たちは歩き出していた。うしろにつく僕に友梨は「だって」とこっちを見た。

「風花とは小学校からの仲だからね。この町は小さいから、ある程度みんな知り合いだよ」
「へぇ」

 興味のなさそうな声を意識する僕は、なんだか間抜けなピエロみたいだ。
 風花と友梨が知り合いなら、自分の気持ちは隠さないといけない。
 体調の変化に気づくくらい敏感ならなおさらだ。

 ふたりは親切で言ってくれているのに、大切な風花との時間が侵されるような気分になってしまう。自分のいやな部分を知ったみたいで気持ちが重くなる。
 そんなことを考えてしまう自分もきらい。
 これが『負のスパイラル』ってやつかも。

「ほら、さっさと行こうぜ。腹減った」

 犬神の声に「ああ」とうなずくけれど、今日は風花に会えないという事実にさっきよりも足は(なまり)みたいに重く感じる。



◆◆◆



 最後の鉢を校舎脇へ移動させ終わるころには雨は本降りになっていた。
 犬神と友梨の手伝い宣言から二日が過ぎた。ふたりは約束通り、さっきまで文句も言わず鉢を荷台に乗せて運んでくれた。

 雨に打たれているトルコギキョウはまだ満開とはいかないものの、ソフトクリームのようにねじれたつぼみは、夏いっぱいそのピンクの花を咲かせるだろう。
 本当なら脇枝をカットしたかったけれど、この雨では無理そうだ。

 レインコートのフードを深くかぶり、部室へ戻るといつものテーブルについているのは風花だけだった。

 六月も後半に入り、本格的に梅雨がこの町にも訪れている。今朝までは晴れていたのに、今はそれがウソのように大雨が降っている。

「あれ、ふたりは?」

 レインコートを脱ぎながら訊ねると、
「ふたりとも部活に行くって慌てて出て行ったよ」
 風花は読んでいたマニュアルから目を離し僕を見た。

「そっか。まあこの雨じゃ作業はできないしなあ」
「植木鉢の移動だけでも相当かかると思っていたから助かったよね」

 壁につけられたハンガーにレインコートをかけると、風花の前の席につく。
 部屋の外では、雨が土を叩く音が聞こえている。

 沈黙が怖くて僕は「ね」と声をかけた。

「珍しく早く終われたし、今日は帰ろうか?」

 この提案はこれまでに何度かした。けれどそのたびに風花は首を横に振る。今も、まだ雨に濡れた髪を耳にかけながら、風花は一瞬表情を曇らせた。

 が、次の瞬間には「そうだ」と明るい声を作った。

「トルコギキョウの花言葉ってどんなの?」
「……ああ、たしか『優美(ゆうび)』とか『思いやり』かな」
「見た目と同じできれいな花言葉だね」
「うん。それより雨も強くなってきたしさ――」
「もう少し勉強していくから先に帰ってもいいよ」

 風花はきゅっと唇をかみしめてから、すぐに笑みを浮かべた。くじけそうな心を意識して隠そうとしている。

 こんな少しの変化でもわかってしまうんだ。

「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけどさ……家でなにかあったの?」
 迷いながらも訊ねる僕に、風花はさっきと同じように口を閉じて、そして笑う。
「え? なにもないよー」

 ふにゃっとした顔で答える風花に、僕は「そう」とうなずく。小さな勇気も、結局は萎んでしまう。
 余計なことを聞いてぎこちなくなるよりも、この瞬間を楽しめばいい。

 それはわかっているのに。わかっていたのに……。

「あの、さ」

 まだ話しつづける僕に風花は「あ」と小さく口を開いた。

「液肥なんだけどね、聞いたら下瓦さんの手作りなんだって。少しでも部費を使わないように家で作ってきてくれているんだよ。やさしいよね」
「……そう」
「下瓦さんて本当に園芸が好きなんだろうね。そういうの知らなかったから、勝手に怖い人だって思いこんじゃってたから反省してるんだ」

 急に饒舌になる風花は、この話題が続くことを拒否している。誰だって悩みはあるだろうし、人に言いたくないことだってある。

 しくしくと胃が痛い。

「前にも言ったけどさ、無理して笑わなくていいんじゃない?」

 ぽろりと言葉はこぼれる。
 しまった、と口を閉じてももう遅い。
 風花は時間を止めたように固まっている。

 ――僕は。

「僕もうまく笑えないし、愛想もないって自覚している」

 ――なにを言っているんだろう?

「だけど、無理して笑っている風花を見るのは悲しい」

 自分の気持ちを押しつけているだけだ、とようやく口を閉じた。
 風花はゆるゆると視線を落としてしまった。まるであの日に枯れた白いアネモネのように力なく肩を落としている。

「違うんだ……。ただ、心配でさ」

 言いわけのように後づけする言葉に、雨が屋根を叩く音が強くなった。まるでこの世界にふたりきり取り残されたような気分になる。
 僕はただ、風花に本当の笑顔でいてほしい。
 僕の前では素直な感情を見せてほしいだけ。けれど、それこそが片想いのエゴでありおこがましいことだと感じてしまう。

 どれくらい黙りこんだのだろう。

「すごいね」

 ぽつりと風花が口にした。

 見ると、彼女の髪の先からはまだ雫がひとつテーブルに落ちるところだった。

「誰にも気づかれていない自信あったんだけどなー。花に詳しいだけじゃなくって、こういうこともわかっちゃうんだね」
「ごめん……。余計なことだよね」
「ううん」

 首を横に振れば、またいくつかの水滴がテーブルで跳ねる。

「わたし……ね、家に帰りたくないの。もうずっと前からそう思ってる。理由は言いたくない……」
「そうなんだ。ごめん」

 また謝る僕に風花は「いいの」と言った。

「気づく人もいるんだな、って、ちょっとうれしかった」

 言葉と裏腹に、風花は苦し気に目を伏せた。
 長いまつ毛が濡れているように見えるのは雨のせいなのか、それとも僕が泣かせた……?

「それじゃあアドバイス通り、今日は帰ろうかな」

 マニュアル本を棚にしまうと、風花はエプロンを外した。

「濡れちゃうから作業着のまんまで帰る。明日は晴れるといいね」

 部室のドアを開けた風花が「ばいばい」と出て行く。
 ゆっくりと閉まるドアにすぐにその姿は見えなくなる。
 まるで追い出したみたいな罪悪感にため息をこぼした。きっと、これまでならそういう感情を押し殺していた気がする。

 だけど……。

 カバンを手に取り、外に出る。
 雨は激しさを増し、少し先の景色も溶かしているみたい。傘をさせば、すごい勢いでビニールを打ちつけてくる。
 走る足元で泥が騒がしく跳ねている。

 校門の手前でようやく風花に追いついた。すぐに気づく。彼女は傘をさしていなかった。

「風花!」
「あ……。どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。傘は?」
「忘れちゃった。そっかぁ、部室のレインコートを借りればよかったんだ」

 ふにゃっと笑う風花に、めまいのようなものが襲ってくる。
 
 僕が、彼女を孤独にさせたんだ。

「ごめん。本当にごめん」
「どうして謝るの? わたしが傘を忘れちゃったからなのに」

 誰かを抱きしめたいと思ったのははじめてのことだった。
 柄を握る手に力を入れ、その気持ちを押しとどめた。

「これ、使って」
「え……でも。いいよ、どうせ濡れてるし」
「僕の家、近いから」

 余裕がないまま傘を無理やり渡すと、一気に全身がずぶ濡れだ。
 受け取った風花が困ったようにうつむいたあと、

「じゃあ……バス停まで一緒に来てくれる?」

 そう訊ねた。

「いいよ」
「バスを降りたら、すぐ目の前が家だから」
「うん」
「じゃあ……お願いします」

 どちらの声もきっと雨音に負けている。

 それから僕たちは身体を寄せ合いながらバス停を目指した。外灯(がいとう)もけむる細道を、遠くて近いバス停まで黙って歩いた。
 なにか気の利いたことを言えればいいのに、言葉は無力だと知っている僕がいた。
 雨の中、僕たちはふたりなのにひとりずつ。
 
 騒がしいのは雨の音じゃない。

 愛しい気持ちと、それを上回る罪悪感が叫んでいる。 



◆◆◆



 雨は、窓からの景色をモノトーンに見せる。

 廊下で騒いでいるほかのクラスの男子をよけながらトイレへ。
 最近は昼休みが終わる前になるといつも気持ちが悪くなってしまう。生ぬるいため息が無意識にこぼれ、机に突っ伏したくなるほどだるくなる。

 ストレスのせいで胃がおかしくなっているのだろう。

 毎回トイレの個室に籠もるけれど、吐き気はない。
 ただ便座に座って体の不調の波が収まるのを待つだけ。

 今日もようやく落ち着いたのを確認し、廊下へ出るとさっきよりも雨の音は強くなっていた。
 もうすぐチャイムが鳴る時間なのだろう。自分の教室に戻っていく生徒が扉に吸いこまれていく。

 ふと、向こうから風花が歩いてくるのが見えた。

 ドキッと足を止めてしまう自分が情けない。
 あの雨の日以降、風花は部活には来ていない。理由はいろいろ。

『用事があって』

『宿題が大変で』

『友だちと買い物に行く』

 どれも友梨伝いで僕に知らされることだった。
 彼女が僕に気づくのがわかる。

「やあ」

 なんて似合わないセリフを吐く僕に、風花は足早に駆けてくる。

「校舎の中で会うなんて新鮮だねー」

 先日の気まずい雰囲気などなかったかのように笑顔の風花。気づかれないよう安堵の息を漏らした。
 大事そうに両手に抱えているのは音楽の授業で使うテキスト。

 僕の視線に気づいたのか、
「花壇行ってたら遅くなったの」
 照れたように風花は言った。

「花壇?」
「アネモネの球根、外に干しっぱなしだったから。屋根はあるけど念のため倉庫に入れてきたの」

 風花がはおっているカーディガンの肩の辺りがたしかに濡れていた。

「あ、ごめん。そこまで気が回らなかった」
「ううん。わたしの性格って、一度気になるとだめなんだよね。自己満足だから気にしないで」

 前と変わらず明るい風花に胸を撫でおろしたのもつかの間、
「今日は部活、来られそう?」
 という僕の質問に風花の表情が一瞬曇るのを見逃さなかった。

「今日は用事ができちゃって、ごめんね」
「そうなんだ」
「チャイム鳴っちゃう。わたし、行くね」

 パタパタと駆けていくうしろ姿を見送る。

 好きな人のウソならわかってしまうのが、うれしくて悲しい。


 僕の話を聞き終えた友梨の第一声は、
「知らない」
 だった。

 あのあとも、ずっと風花のことが気になり、友梨にさりげなく訊ねることにしたのだ。

 もしも、風花があえて部活に来ないようにしているのなら、それは僕のせいだ。
 『無理して笑わなくていいんじゃない』なんて言うべきじゃなかったんだ。

 あんなこと言われたら、どんな顔や態度で接すればいいのかわからなくなってしまう。
 毎日のように猛省(もうせい)しているけれど、それ以上に風花に会いたい気持ちが募るなんて、自分勝手すぎる。

 この教室から風花のいる五組までは数十メートルの距離。休み時間や放課後、会いにいこうと思えばいつだって行けたはず。

 なにかと理由をつけて避けているのは僕も同じだ。
 単なる臆病(おくびょう)で、だけどウジウジ悩んでばかりで……。

 自分のことよりも風花が気になる。存在は日に日に大きくなり、一方でだめな自分はちっぽけに思える。

 ドラマや漫画はこんな気持ち、教えてくれなかった。

「知らないって本当に?」

 先生みたいに教壇に立ち腕を組んでいる友梨にもう一度訊ねる。
 今日の放課後、友梨に残ってもらうよう頼んでいたのだ。

「知らないしわからない、教えない」
「なんだよそれ、『教えない』ってことは知っているってことじゃん」
「うっ」

 言葉に詰まった友梨は、昔からウソをつくのが苦手だった。友だちならなにか知っていると勘をつけたのは正解だったらしい。

「もしも知っていたとして、なんで教えなくちゃいけないのよ。コジンジョーホーだよ」
「たったひとりの部員だしさ、部長として――」

 違うな、とすぐに自分でわかるほど薄っぺらなコーティングをした言いわけだ。
 言葉の途中で口を(つぐ)む僕を友梨がいぶかしげに見てくる。

 風花を好きになってから、自分を誤魔化すことが多くなった。
 それは苦しくて苦くて、ささやかな幸せも感じるという複雑な感情。

 自分でも処理できないから、こうしてウソの言いわけを繰り返している。
 相手を好きになるほどに、自分のことをきらいになるような恋。

 ――僕が、風花を傷つけたんだ。

「違う、今のは間違い。部活とは関係なくって、ただ……心配なんだ」
「うん」

 うなずく友梨の表情が少し緩んでいた。次の瞬間、僕のお腹に友梨のパンチが入った。
 身構えてなかったせいで鋭い痛みが走り、うずくまりそうになる。

「痛い、なにするんだよ!」
「それくらい我慢しなさいよ。カツを入れてやったんだから」

 両腕を腰に当てた友梨が人差し指を真っ直ぐこっちに伸ばしてきた。

「風花とスズッキイはなんか似てるよ。不器用なところもそっくり。さっさと自分で聞いてきなさい」
「でもさ、聞かれたくないこともあると思うし」
「聞いてほしいと思っているかもしれないでしょ。子どものころのスズッキイはもっと素直だったぞ」

 ふふ、と笑うと友梨はカバンを肩にかけると教室を出て行く。廊下に出た友梨が振り返った。

「あの子、部活には行ってないけどさ、夜まで家にも帰っていないんだ。だから自分の教室にいると思うよん。じゃあね」

 え、と口にする間もなく友梨の足音が遠ざかっていく。


 意を決して五組の教室に顔を出したのは十分後のこと。
 友梨の言った通り、ぽつんと真ん中の席に座っている風花。
 いつだって見つめることができるのはうしろ姿ばかり。顔を見れば、自分の感情を隠してお互いに笑っているのかもしれない。

 僕たちはやっぱり似ているのかも。いや、そう思いたいだけなのか?

 わざと足音を立てて近づくと、風花が驚いた顔で振り向いた。

「隣、いい?」

 答えを聞くよりも先に風花の隣の席に腰をおろしていた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 風花の手元には園芸部のマニュアル本があった。コピーをしたらしく真っ白い用紙に印刷されていて、赤いペンでたくさんの書きこみがあった。

 恥ずかしそうに裏返してから、風花は目を伏せた。

「部活行けてなくて、ごめん……ね」
「全然いいよ。体調、大丈夫?」
「あ、うん……」

 歯切れ悪くうなずいた風花を見て、なぜか心が落ち着くのがわかった。

「聞いてほしい話があるんだ」

 答えを待つこともせず、「あのさ」と言葉をつなげた。

「この町に来たのは親の離婚のせいなんだ」

 突然の話題に風花が「え」と声にせずに口を動かした。
 ゆっくりと顔をあげた彼女に、僕のほうが驚いている。

 なんでこんな話をしているんだろう。

「ご両親……離婚しているの?」
「母親についてこの町に来たんだ。離婚の理由はよくわからないけど、母親は納得しているのかやたら明るい。弟は中学をサボりがちだけど放置してる。仲が悪いわけじゃなくて、お互いに干渉(かんしょう)しないのは昔からだから」
「そうなんだ……」
「僕も弟みたいにストレスが表に出せればいいんだけどね。なんだか、最近体調を崩しがちなんだ。意外にダメージを受けているのかも」

 風花は戸惑いを顔に浮かべている。突然こんな話聞かされても困るだろうし、どう対応してよいのかわからない感じだった。

「『花には人を元気にさせる力がある』ってばあちゃんが昔よく言っていたんだ。実際そうだと思うし、土をいじったり草むしりしているとなんだか安心できる。だから、園芸部に入った。一種の鎮痛剤(ちんつうざい)みたいなものなのかも」
「うん……」

 小さくうなずく風花を守りたいと思った。

「こないだは、無理して笑っているなんて言ってごめん。あんなこと言うべきじゃなかった」
「ううん、全然……」
「園芸部に入ってよかったって思ったのは、風花が入部してくれたから。あのままじゃ、ひとりで全部やらなくちゃいけなかったからさ」

 風花がいてくれるから、毎日がんばれる。
 恋とか愛よりも先に、彼女のためにできることをしたいと思った。

 エゴ丸出しの気持ちなのに、そう思える自分がなぜか誇らしくもあった。

「風花を本当の笑顔にしたい。そのためには、風花の悩みも聞きたいんだ」

 瞳を少し開く風花は、すぐに長いまつ毛を伏せてしまう。

「うん……」
「すぐにじゃなくていい。言えるときまで待ってるから。それまでは僕の悩みを聞いてもらうことにしようか」
「ふふ。それって面白いね」

 作り物じゃなく、本当の笑みを浮かべてくれた気がした。

「今日じゃなくてもいいよ。少しだけ考えてみて。部室でいつでも待ってるから」

 椅子から立ちあがる僕に、風花はなぜか自分の左手の指を開いた。
 まるで『ストップ』と言われているようで、あっけなく僕は足を止めた。

「……わたしの左手、どこか変なのわかる?」

 思ってもいないような質問に、再び椅子に腰をおろした。
 じっとその細い指先の辺りを観察する。

「べつに変じゃないよ」

 そう言う僕に、風花は右手の人差し指で左手の中指の辺りを指し示した。

「ここ、少し曲がってるの」

 見ると中指がほんの少し内側に曲がっているように思えなくもない。首をひねる僕に、風花はそっと手を机に置いた。

「小さいころからずっとピアノを習ってたの」

 鍵盤を操るように風花の美しい指が机を軽やかに叩いた。仕草とは反対に、どこか重い空気が教室を浸している。

「お姉ちゃんとふたりでよくピアノを弾いてたんだ。将来は『姉妹でピアニストになろう』って約束をしていたの。近所迷惑にならないよう、毎晩七時まではふたりで練習をしてた」
「へぇ、すごいね」
「ピアノを弾く時間は楽しくて、全然いやじゃなかった。指先から音が鳴っているのが魔法みたいに思えたの」

 そこまで言ってから風花は言葉を止めた。

 ゆっくり首を振ってから大きく息を吐き出した彼女の顔に、もう笑みは浮かんでいなかった。

「でも、二年前にね……。二階の廊下のところでお姉ちゃんと言い合いになったの。今思えばた他愛もない理由だったのに、お互い興奮しちゃって、最後は掴み合いになっちゃったんだ」

 風花の唇が、再度躊躇(ちゅうちょ)したように動きを止めた。しんとした空気に自分の呼吸する音がやけに大きく聞こえている。

「わたしが……お姉ちゃんを突き放したと思う。だけど、その反動でバランスを崩したわたしのほうが階段を転げ落ちたんだ。それで、この指を骨折したの」
「風花……」
「お姉ちゃんはすごく泣いてて、何度も謝ってくれた。もちろんわたしも泣いて謝ったよ。それで終わりのはずだった。でも、骨折が治ったら……ピアノが弾けなくなっていたの」

 顔を上げた風花の瞳に涙がいっぱい溜まっていた。
 今にもこぼれそうに光っていて、だけど目をそらせない。

「指が、痛むの?」
「違う。全然痛くないよ。ピアノも普通には弾けた。でも、何度やっても左手の中指にだけ力が入らないの。バランスも取れなくなっていて、強いメロディを鳴らすことができなくなっちゃったんだ」
「そのことをお姉さんには……」

 乾いた声で訊ねる僕に、風花は「ううん」とうつむいた。

「言ってない。お姉ちゃんはきっと、わたしがピアノに飽きたと思ってる。実際わたしもそういうふうに演じている」
「そんな……それでいいの?」
「お姉ちゃんはね、その年にコンクールで二位になったんだよ。たくさんのお客さんに拍手をもらって、ライトの中で輝いてたんだ。わたし……きっと、ううん、たぶん嫉妬(しっと)しちゃったんだよね」

 さびしげな口調に胸が締めつけられる気がした。息が苦しくて何度も大きく酸素を取りこむ。
 そんな僕を気遣うように、風花は首を振った。

「ごめんね、こんな話。だけど、聞いてもらえて少しすっきりした」

 ウソだと思った。だったらこんな悲しい顔はしないはず。

「今でもお姉ちゃんは音大を目指してピアノを続けている。『あんたもやればいいのに』なんて言ってくるんだよ」

 ふう、と肩で息をついた風花が、「でも」とつぶやくように口にした。

「やっぱりピアノの音を聴くのはつらい。だから、七時までは家に帰らないことにしてる。わたしが家に帰りたくないのはそういうことなの」

 風花が僕を見て言葉を続ける。

「無理して笑うのはよくないよね。でもさ、悲しい顔もできないじゃん。だから家ではいろんなわたしを演じているの。『ピアノに飽きたわたし』『部活が忙しくて帰れないわたし』『休みの日も家にはいないわたし』……どんどんわたしじゃないわたしが増えている気がする」

 なんて自分勝手な言葉を投げてしまったのだろう。悩みに対する答えも用意していないのに話をさせるなんて最低だ、と思った。

「あ、違うよ」

 僕の考えを読むように風花が右手を横に振った。

「このあいだ言われたことも一理あると思ったの。家だけじゃなくて学校でも、無理していることは自覚していたから」
「なにも知らなくて、ごめん」
「いいっていいって。なんか、ズバリ言われちゃったから、部室に顔を出しにくくなっちゃったの。でも、今日来てくれてうれしかった。こういう話、友梨以外とはしたことがなかったから」

 (はな)をすすった風花が目尻を人差し指で拭った。
 さびしく机の上に置かれた風花の左手の中指に自分の両手をそっと重ねることに、勇気なんて一グラムもいらなかった。自分の意思とは関係なく、ただお腹の底から生まれる感情に体が動いていた。

 冷たい指先が風花の苦しい心を表しているみたいだ。少しでも和らぐようにただ願いをこめた。

「こうやって魔法をかけられたらいいのに」
「……うん」

 くぐもった声でうなずく風花。彼女の左手が僕の両手の上に置かれた。あまりにも小さい手。

「僕がそばにいるよ」

 今、大きな(うず)がお腹の中で生まれている。

 それはずっと前、そう、風花に出会った日からあったのかもしれない。
 どんどん成長していく感情が僕を幸せにし、同じくらいせつなくさせていたんだ。

「僕といるときは、いつだって本当の風花でいてほしい」
「うん。でも……できるのかな」

 不安げに瞳を揺らす風花に、僕はゆっくりと首を縦に振った。

「悲しいときは悲しい顔をすればいい。つらいとき、苦しいときもそのまま見せてほしい」

 もしも僕がきみの不安を取り除けるならば……。
「きっとね」
 風花の唇が動くのが視界の端に映っている。
「魔法はかかったと思うよ。ありがとう」
 ゆっくりとその顔を見ると、泣き笑いの表情がそこにある。

 きみの毎日を、もっと幸せな感情で埋め尽くしてあげたい。
 そのためなら僕は、命を投げ出したって惜しくない。本気でそう思った。

「風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい」

 思うそばから、気持ちが言葉になっていくようだ。止められないし、止めたくない自分がいる。

 今、僕はきみに伝える。

「きみのことが好きなんだ」
 と。







◇ 7月 ◇






 頭を抱えて過ごしているあいだにテスト期間に突入してしまった。
 けれど、わたしの頭の中はそれどころじゃない。

「あー……どうしよう」

 教室を出て廊下を歩きながらひとりごちると、隣にいた倫子に「なにが?」と訊かれた。

「えっと、今日のテストがやばいなって、思っただけ」
「そんなのいまさら気にしても仕方ないじゃん。今日が終わったんだから、また明日考えたらいいんだって!」
「明日になったらなおさら今更じゃん」

 うははは、と倫子が豪快に笑う。

 倫子は最近出会った男の子といい感じらしく機嫌がいい。もともと明るい性格だったけれど、それが三割増くらいになっている。そんな倫子がそばにいるとわたしも笑顔になれる。笑い飛ばしてくれると気が楽になる。

 倫子に、本当はテストのことで悩んでいるわけじゃないんだ、と言えば、どんな反応を返してくれるのだろうか。


 ――『好きなんだ』


 思いだすと胸の中がむずむずして、いても立ってもいられなくなってしまう。心臓がどどどど、と滝のような音を出して体中に血液を流していくのがわかる。

 あの告白から、二週間。
 まだ、返事はできないでいる。

 文哉くんがわたしを好きだなんて、思いもよらなかった。あの瞬間の彼の表情も、声色も、すべてを覚えているというのに、それでも夢だったのではないかと思ってしまう。そのくらい信じられない。

 どうしていいのか、わからない。

「ねえ……倫子は、突然、自分がそういう目で見ていなかった人から告白されたら、どうする?」

 はあーっと息を吐きだしてから、ゆっくりと問いかける。

「誰に告白されたの? あ、いつも一緒に花の世話してる男の子?」

 きょとんとした顔を見せてから、倫子はすべてを悟って口角を持ち上げる。格段驚いた様子は見せない。

 どうしてあれだけのセリフでそこまでバレてしまうのか。

「いや、その」

 迷いのない倫子の言葉に、しどろもどろになってしまう。額にじっとりと汗か浮かぶのがわかった。それは、初夏の暑さから、ではない。

「わたしのことじゃ、なくて」
「その話の流れで、風花のことじゃないわけないじゃん」

 けらけらと笑われてしまった。そして、倫子はひとしきり笑ったあとで、「つき合えば?」と言った。

「っていうかてっきりもうつき合ってると思ってたー」
「つき合ってないってずっと言ってたじゃん。え? 信じてなかったの?」
「恥ずかしいのかなって」

 だってどっからどう見ても恋人同士だったんだもーん、と倫子はわたしを肘で突く。

「っていうか、風花がなにを悩んでるのかよくわかんないんだけど」
「だって、悩むよ、そりゃ。告白されたんだもん」
「好きな人に告白されたら、悩む必要なくない?」

 好きな、人。

 倫子のセリフを反芻(はんすう)させる。知らず知らずのうちに足が止まっていたらしく、数歩前に出ていた倫子が「風花?」と言って振り返った。窓から差し込んでくる太陽の光が、わたしの視界を一瞬真っ白に染める。

 好きな、ひと。

 もう一度、脳内で繰り返す。その言葉は、数年間わたしの辞書になかったものだ。言葉が体内に溶け込んでくる。

「まさか」

 頭で考えるよりも先に、声がこぼれた。

「そういうんじゃないよ。ただ、話しやすいだけで。ただの、友だち」

 そう、それだけの関係だ。
 学校で顔を合わせ、話をする。彼は本当に花に詳しくて、訊けばすぐに名前や花言葉を教えてくれる。見たことも聞いたこともない花についても、どんな色でどんな形なのかをわかりやすく説明してくれる。育てる方がわからないときは一緒に調べたりする。

 そんな話しかしていない。わたしたちの会話のほとんどが花のことだ。

 けれど、その時間の中で、彼はわたしの行き場のない迷子になった気持ちを見つけてくれた。そして、手を差し伸べてくれた。

 それに気づかないフリをした。

 園芸について話すだけの関係でいたかった。それ以外の話の仕方が、わからなかった。だから、なんとなく、気まずくて避けたりもした。

 けれど、文哉くんはわたしに差しだした手を、決して引かなかった。それどころか、わたしの手を強引に掴み、けれど優しく包んでくれた。
 夕暮れの校舎で、彼は言ってくれた。笑みを封印(ふういん)したかのような真面目な顔で。

 ――『無理して笑っている風花を見たくない』

 夏に差しかかろうという生ぬるい空気の中で、彼の額には汗が浮かんでいた。わたしを走って探してくれたのかもしれない。

 そんな彼を見て、そのやさしい手に触れたくなって、つい、お姉ちゃんとの話をしてしまった。けれど、まさか告白されることになるだなんて。
 あの言葉を、どう受けとめたらいいのかわからない。

 ――『風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい』

 思いだすと、胸がきゅうっと痛む。
 記憶が溢れてくる。閉じ込めておきたいものが、こぼれてしまう。それをこらえるようにぎゅっと(こぶし)を作った。

 倫子は、わたしの様子になにかを感じたのか「ふうん」と言う。

「今まで聞いたことなかったけど、もしかして風花って今まで好きになった人とかつき合った人とかいないの? だからそんなにガードが固いの?」

 ガードって。
 倫子の言い方がなんとなく面白く感じて口元が緩む。

「ちなみに私は三人つき合ったけどね。初めては小学生のとき」
「え。早すぎない?」

 わたしが小学生のときは周りからそんな話を聞いたことがないし、自分でも想像したことがない。ピアノに夢中になっていたからか、誰かを好きになった記憶もないけれど。

「で、風花は?」
「……いるけど。ひとりだけ」

 答えながらはじめてのつき合いを思いだす。初々しく、真っ直ぐだった自分が蘇る。好き! という気持ちしかなかった。そのくらい、あの頃のわたしは幼かった。そんなふうに思った自分にちょっと驚く。

 でも、それらすべてをひっくるめて、やっぱりそれは幸せなのだと思う。

「今はあんまりそういうことに興味がないんだよね、わたし」
「えー、もったいない! たとえそうでもいい感じなら軽い気持ちでつき合っちゃえばいいのに」
「無理だよー! 倫子だって、そんなこと言いながら先月合コンで出会った男の子の告白断ったじゃない」
「あれはあれ、これはこれ。だって好きじゃなかったんだもの」

 そう言われたら返す言葉がない。
 軽くつき合う、なんてできるほどわたしは器用じゃない。
 なによりも。

「わたしに、自信がない」
「なんの自信?」
「文哉くん、絶対もてるじゃない。だから、今まで何人かの女の子とつき合ってるはず」

 聞いたことないけど、あんな子が今まで誰ともつき合ってないとかありえない。倫子も「まあそうだろうね」とあっさりうなずく。倫子にもそう言われたら確定じゃん。

「そう考えると、なんか、こう、ね」
「いや、意味わかんないんだけど」

 ですよね。
 わたしだってうまく説明できない。

「でもそれって、結局好きかどうか、っていう悩みじゃないんでしょ」

 倫子が「じゃあ」と言葉を発する。

「なんで、悩んでんの?」



 倫子の言うことはもっともだ。

 校舎を出て、花壇のそばのベンチに腰かけながらぼんやりと考える。しばらく図書室で勉強をしていたけれど、集中できないまま時間を潰しただけになっていた。まだ閉館には早いものの、屋内でただただ流れる時間を過ごすくらいなら、とここでこうして過ごしている。

 脳裏に彼を思い浮かべながら。

 ゆっくりとゆっくりと太陽が沈んでいくのを感じながらまだ咲き切っていないひまわりを見つめる。春に比べて、見える景色から心なし色味が減って緑が増えたような気がする。
 
 それを見ていると、月日は確実に過ぎていっているのだと実感する。わたしだけが同じ場所でずっと足踏みをしているのかもしれない。

 きっと、今の悩みを友梨に話しても同じような答えを返されるだろう。むしろ倫子よりも友梨のほうが前向きに考えるようにと説得してくるかもしれない。カバンの中に入れっぱなしにしていたスマホを取りだし、友梨とのメッセージボックスを開く。

 友梨に話してみようか。そしたらきっと――。
 きっと?

 頭に浮かんだ思いを黒く塗りつぶすように、アプリを閉じた。

「ばかみたい、わたし」

 もう、とひとりごちて顔を上げる。

 すると、少し離れた場所から歩いてくるひとりの男の子が視界に飛び込んでくる。じっと見つめていると、彼もわたしに気がついたのか軽く右手を上げてそばにやってきた。

 歩いているのは彼だけじゃなかったし、そのなかには彼によく似た背格好の人だってたくさんいる。なのに、わたしはいつも彼を、文哉くんをすぐに見つけることができる。

「また時間つぶしてたの?」
「うん。文哉くんは? こんな時間まで学校でなにしてたの」

 今はテスト期間なのでもっと早く帰れたはずなのに。さっきまでわたしのいた図書室では、彼を見かけなかった。一体どこでなにをしていたのだろう。そんなことを考えながら目の前に立つ文哉くんの足元に視線を落とすと、空色のスニーカーが泥まみれになっている。

「植木鉢の植え替え」
「え! ずるい! わたしもやりたかった!」

 思わず声をあげてしまった。わたしをのけものにしてそんな楽しいことをしていたなんて。

「誘おうかとは思ったんだけど、テスト中だから悪いかなって」
「なんでー。いいなあ。そんなの気にしないのにー」

 がっくりと項垂(うなだ)れると、ごめんごめん、と軽い口調で謝罪を口にしながら文哉くんはわたしの隣に腰をおろす。

「なに植えたの?」
「コスモス。咲くのはまだ先だけど。秋になったら目につく場所に移動させるんじゃないかな」
「楽しみだね」

 文哉くんは、わたしを見て「そうだね」と言いたげに目を細めた。
 その顔が思ったよりも近くにある気がして、慌てて目をそらす。一度意識しはじめると、いつもよりも彼との距離が近いように思えてきて、体が固まってしまう。

 でも、文哉くんはまったく気にしていない。わたしだけが、狼狽(うろた)えている。

 文哉くんは、告白してからもわたしへの態度をまったく変えなかった。見かけたら声をかけてくれるし、こうして話もしてくれる。普段通りに振る舞ってもらえたことに、はじめはほっとした。けれど、あまりに変わらないので、彼は本当にわたしのことを好きなんだろうか、と思いはじめる。

 彼の言った〝好き〟は恋愛感情としてのものではなかったのかもしれない。友情としての〝好き〟だったのかも。

 そう考えると彼の態度も納得できる。

 だからこそ、二週間もわたしは彼に返事をせずにいるどころか、あの日のことすらも話題に出さずにいるのだろう。

 でも、それも結局は言いわけで、彼がなにも言わないことに甘えて、自分が言いにくいからという理由で今まで返事を放置しただけのこと。

 いつまでも、わたしは自分勝手な甘ったれだ。
 自己嫌悪が募る。

 無言になったわたしを、文哉くんが「どうした?」と首を傾げて覗き込んでくる。間近で目が合い、大げさに体を反らして「いや、なんでもない!」と顔の前で手を振った。

「家に帰りたくないから、時間を潰す方法でも考えてる?」
「あ、うん、まあ」

 たしかにそれもあるけれど、それだけじゃないです、とは言えない。けれど、お姉ちゃんとのこと、ピアノのことを話しておいてよかった、と思った。それが原因だと思ってくれるほうが楽だ。

 あはは、と笑顔を見せると、文哉くんは返事に眉を下げた。心配そうなその表情に慌てて言葉をつけ足す。

「あ、でも、文哉くんに話したら、結構楽になったとは思うんだよ! ただ、今はなんかお姉ちゃんがアンサンブルの練習してて、その、彼氏が家に来てるっていうか。それを邪魔するのもなんだか悪いなって。練習に他人がいたら気が散るじゃない。だから、さ」

 饒舌になってしまうわたしに、文哉くんは「そうなんだ」とだけ相槌(あいづち)を打つ。

 今のわたしは、彼にはきっと『必死に大丈夫なフリをするわたし』が見えているんだろう。自覚もある。もう少し上手に演じることができるはずだったのに、文哉くんを前にすると、どうしてもうまくいかない。

 自分で気づく前に、文哉くんにも気づかれるくらいだ。わかりやすいくらい伝わってしまっているだろう。

「……実はちょっと、しんどいんだよね」

 取り繕っても仕方がないと思い、肩の力を抜いて素直な気持ちを吐露(とろ)した。

 わたしを慰めてくれるみたいに、頭上にある木々がさわさわと音を奏でる。緑が深まるその葉っぱを見上げてから、
「弱音吐いていい?」
 と、文哉くんに訊いた。彼がこくんとうなずくのを確認してゆっくりと話を続ける。


 お姉ちゃんはわたしのかわりに、彼氏の斎藤さんと一緒にアンサンブルをすることに決めた。歌劇「椿姫」の『乾杯の歌』だ。プレゼントにぴったりの選曲だ。その練習に、斎藤さんは週に一回か二回、家にやってくるようになった。本番が今月末だからという理由だけれど、ふたりの実力ならさほど練習しなくても誕生日会に弾くことくらいできるはず。にもかかわらず、だ。

 まあ、それはべつにいいんだけど。
 普段お互いに練習で忙しいからあまりデートもしていないみたいだし。

 ただ、かわりに家にピアノが流れる時間が長くなった。おまけに斎藤さんが来ている日は晩ご飯を一緒にすることも多く、そういうとき、ふたりが仲睦まじくピアノの話で盛りあがる。それを見ながら、聞きながら、わたしはご飯を食べなくちゃいけない。

 ときに『風花も昔はピアノうまかったんだよ』とか『今も続けていたらわたしよりもずっとプロに近かったと思うんだけどなあ』なんてことを言われながら。
 ときに曲の解釈を語り合うふたりに意見を求められながら。

 斎藤さんの家で練習すればいいのに。
 グランドピアノもあるならそっちのほうがいいのに。
 なにか事情があるらしいけれど、そんなのわたしには関係ないのに。

 そんな本音をご飯と一緒に呑み込んでいる。

 こんなこと、誰にも言えない。『なにも気にしていない妹』という自分でいなくちゃいけない。間違っても、その仮面の下に『(ねた)ましくて仕方がない自分』が潜んでいることは悟られてはいけない。

 そんな話を一通りすると、文哉くんは「やさしいな」と言ってくれる。

 文哉くんはいつだって、それ以上のことを言わない。わかりやすい(なぐさ)めも、根拠のない大丈夫という言葉も、そんなの気にしなくていい、といったわたしのための叱咤(しった)も。

 ただ、いつだって耳を傾けてくれるだけ。
 それが、なによりもほっとする。

 そんな彼だから、わたしは家族や友人も知らない素直な一面を見せることができるのだろう。

「兄弟に、そんな優しいことしたことないなあ」
「そうなの? 意外」

 でも男同士だったらそんなものなのかもしれない。姉妹で買い物に出かけるという話は聞くけれど、兄弟でそういうのはあまりないような気がする。女同士よりも淡白なのだろうか。

「自分と違いすぎて、なんか、やさしくできなかったな。自分には真似できない姿に、羨ましさを感じているのかも」
「文哉くんもそんなふうに思うんだ」
「そんなに聖人君子じゃないからね。自分と違うところに嫉妬もするし悔しくなるし、もどかしくもなるし、それをこじらせてつい、相手にきついことを言ったり。……昔は仲がよかったんだけど」

 文哉くんはさびしそうに少しだけ目を伏せた。

 じっと見つめるわたしの視線に気づいたのか、彼はついと視線を持ち上げて力なく笑う。わたしも、今までずっとこんなふうに無理して笑っていたのだろうか。

 ――『風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい』

 あのセリフを、今、わたしは文哉くんに言いたくなった。

 わたしよりも大きな体なのに、守ってあげたい気持ちになる。半袖から伸びる腕も、わたしよりずっとたくましいのに。

 惹きつけられるように彼の顔を見つめつづけた。目元に、薄っすらと(くま)が浮かんでいる。額に浮かぶ汗が、暑さではないように見えるのはどうしてだろう。そういえば、少し痩せたような気がしないでもない。

「風花?」

 文哉くんが戸惑いを孕んだ声でわたしの名前を呼ぶ。そのときやっと、自分の手が彼の額に伸ばされていたことに気がついた。

「っわ、あ、いや!」

 慌てて手を引き、「その、あの」とどもりながら言いわけを考える。

 一体なにをしようとしていたのか、自分でもわからない。おまけに大きな体だとか、たくましい腕だとか、どこを見ているのか。
 恥ずかしすぎて目が合わせられない。

「あー、その、さい、きん、疲れてる?」

 視線を泳がせ、最終的に自分の足先に落ち着いた。わたしのオレンジ色のローヒールパンプスが、左右に揺れている。まるで居心地が悪いみたいに。どこかに逃げだしたくてウズウズしているみたいに。

「え? なんで? どうしたの、急に」
「なんか、顔色悪くないかなって思って」
「……そうかな」

 覗き見るようにちろりと視線を向けると、文哉くんは頬に手を当てて不思議そうな顔をしている。

「でも、たしかに最近はあんまり寝てないかも。あんまり食欲もないし」
「夏バテ? 早くない?」
「テスト勉強で忙しかったから」

 わざとらしくあごを持ち上げてわたしを見おろすように話す文哉くんに、ふふ、と自然に笑ってしまった。

「でも、ちゃんと食べないと。ちゃんと、健康でいないとだめだよ」
「母さんみたいなこと言う」
「だって」

 頬を膨らせると、「大丈夫大丈夫」と言って立ち上がった。

「風花、まだここにいるの? もうすぐ六時過ぎるけど」
「え、あ、うん。そうだね、もう少し……」

 今から帰ればちょうどいい時間に家に着くだろうけれど、今日も斎藤さんが来ているかもしれないし、六時半ごろにここを出ればいいだろう。ただ、晩ご飯は一緒に食べることにはなるけれど、連日遅く帰るわけにもいかない。

「でも、よかった」

 なにが? と言いたげに彼を仰ぐ。

「この前のことで、無理して笑ってるわけじゃなかったみたいだから」

 多分だけど、と言葉をつけ足して、彼がはにかんだ。
 文哉くんの言う〝この前のこと〟がなにを指しているのかすぐにわかり「違うよ!」と思わず大きな声を出して立ち上がる。立ったところでわたしと彼は数十センチの差があり、その距離が身長だけじゃないような不安を抱いた。

「うん、わかってる」

 文哉くんはそう言って頷いてくれたけれど、ほっとすることなんかできない。
 そんなふうに思わせていたなんて。

「あのとき、言ったことだけど……本当は言うつもりなかったんだ。だから、それで困らせてたら悪いなって勝手に思ってただけ」

 わたしが二週間有耶無耶(うやむや)にしていたせいで、そんなことを思わせてしまった。

 そんなこと、ないのに。
 困っていたのはたしかだけれど、でも、それは文哉くんのせいじゃない。わたしの問題だ。文哉くんはなにも悪くない。

 むしろ――彼の気持ちは、素直に嬉しかった。

 なんて返せばいいのかわからず、ただ否定を伝えようと首を振る。でも、それが余計に気を遣わせているように感じたのか、文哉くんは「ごめんね」と小さく言った。

「風花に、笑ってほしかったのに」

 その言葉が、胸に突き刺さる。
 こんなふうに思ってくれる人がいるだなんて、考えたこともなかった。何度も聞いたはずのセリフなのに、初めて聞いたみたいな衝撃に体が震える。

 でも。

「忘れていいよ。あの告白はさ、友情みたいな感じで受け取ってくれたらいい。それで十分なんだ。ややこしいこと言ってごめん」

 そんなふうに言われたら、なおさらそんなふうに思えるわけないじゃない。
 でも。

「ごめん、ね」

 自分の謝罪がなにに対してのものなのかはわからなかった。
 文哉くんに言わせたくないことを言わせてしまったことに対してなのか、わたしの気持ちを優先しようとしてくれている優しさに対してなのか。
 それとも、彼の告白の返事なのか。

 多分、すべてだ。

 わたしは、つき合えない。
 彼の気持ちに応えることができるほど強くない。そんな未来は、想像できない。

「うん」

 文哉くんは、そんなわたしの気持ちもお見通しかのようにこくりとうなずいて「いいよ」とだけ言った。あまりにあっさりとした返事に、泣きそうになる。

「じゃあ、また」

 また、という挨拶をしてくれているのに、同じ返事ができなかった。

 文哉くんはいつも通りに背中を向けて歩いていく。
 わたしの返事の意味は、きっと伝わっているだろう。いつだって、わたしが言葉にしなくても感情を読み取ってる人だ。だからこそ、落ち込む様子も、過剰な明るさも見せなかったのだと、思う。

 これまでと変わらない仕草と表情で、これからも友だちとしてそばにいてくれるだろう。

 でも、本当に?
 ――もしかすると、もう声をかけてくれないのではないか。

 考えると、突風が襲ってきたみたいに体がよろめいた。

 わたしは、これからも文哉くんと話がしたいんだ。だけど、彼がもうわたしと話すのはいやだと思うのならば、受け入れるしかない。だって、わたしが先に、彼を受け入れなかったのだから。つき合えないけど友だちでいたい、だなんてお願いは、ワガママになってしまう。

 文哉くんに、無理をさせたくない。
 彼を苦しめたくない。
 でも、それでも、――いやだ。

 自分の左手の中指にそっと右手を添える。

 大事なものをなくしてしまったわたしは、大事なものを手にするのが怖い。また、失ってしまうのがいやだ。もう二度と、あんな思いはしたくない。

 でも、今、わたしの中にあるこの感情は、悲しいとか、さびしいとか、なにかを失ったときに抱くものだ。

 この現状で、わたしはすでに大事なひとを失うってことだ。

「……もう、わたしの答えは、決まってたんだ」

 失笑がこぼれる。

 ずっと同じ場所にいたかった。なにかを失う変化を受け入れなければいけないくらいなら、なにも得ない日々でいたほうがいい。

 けれど、ずっと同じ場所にはいられないし、そんなことは不可能なんだ。

 さっきわたしは友梨にメッセージでなにを言おうとしたか。そして、なんて言ってほしかったのか。

 背中を、押してほしかった。
 彼とつき合う理由が、欲しかった。
 自分の足で踏み出す勇気がないから。
 その時点で、わたしの気持ちはすでに決まっていた。

 ――『好きな人に告白されたら、悩む必要なくない?』
 ――『でもそれって、結局好きかどうか、っていう悩みじゃないんでしょ』

 そうだね、倫子。

 カバンから再びスマホを取り出して、メッセージ画面ではなく友梨の電話番号を表示させる。そして通話ボタンをタップして耳に当てた。呼び出し音が三回、そして四回目に「はーい、どうしたー?」と友梨の明るい声が聞こえてきた。

「あのね」

 言葉に力がこもる。と同時にカバンを掴んで腰を上げる。

「友梨、わたし、好きな人ができたよ」

 はっきりと、自信を持って口にすると、それは自分の胸にすとんと落ちてくる。さっきまでもやもやしてたなにかが、まるで綿毛に変わり飛散して体内から飛び出していくみたいだ。

 体が、軽くなる。

 彼と出会ったのは今年の春。話すようになってからたった四ヶ月弱だし学校以外で連絡を取り合ったこともない。

 一緒に花を見て、花の話をした。
 並んで景色を見て回った。

 そんな中で彼はわたしを見てくれた。見つけてくれた。仮面の下の本当のわたしに、あたたかなぬくもりを与えてくれた。

 そして、わたしはそんな彼に、いつの間にか彼に惹かれていた。ちょっとした仕草に暴れる心臓が、一番正直だった。どこが、とか、なんで、とかはわからない。はっきり答えられるほど彼のことを知っているわけじゃない。

 ただ、一緒にいる時間が心地よかった。
 彼と過ごす時間は、あたたかかった。
 彼が隣にいると、自然に笑っている自分がいた。


 ――わたし、文哉くんのことが、好きなんだ。


 突然の宣言に驚いたのか、友梨からの返事は数秒なかった。けれど、ふ、と笑いを漏らしてから、
「いいじゃん」
 と声を弾ませて言ってくれた。

 通話を終えるとすぐ、地面を蹴って駆けだした。カバンを振り回し、校門を目指す。

 まだそんなに遠くには行っていないはずだ。すぐに追いつけるはず。ろくに運動をしてこなかったので、あまり持久力はないけれど、今ならどこまででも、彼の背中を見つけるまで走り続けられそうだ。
 風に乗って、いつまででも。

「文哉、くん!」

 校門手前で見つけた背中にお腹から声を出す。

「……風花?」

 呼びかけに、文哉くんだけではなく周りにいた人も振り返った。
 彼は目を丸くして立ち止まり、わたしが近づくを待ってくれる。そういえば、驚く文哉くんの顔を見るのは初めてのことだ。

 必死で足を動かし、彼との距離と縮めていく。
 それがもどかして、我慢できなくて、


「わたしも、好き、です!」


 乱れた呼吸のまま、叫んだ。

 一度足を止めると、突然ひゅうひゅうと、喉(のど)が隙間風のような音を鳴らす。
 さっきはどこまでも走れると思ったのに、結局二百メートルくらいで限界だったらしい。ふらふらと、ゆっくりと、文哉くんに近づいていく。やっと彼に追いついても、どうしても息が整わず、声を発することができなかった。かっこ悪い。

 膝に手をついて、額に浮かんだ汗を手で拭った。カバンからハンカチを取り出す余裕もない。肩を上下させながら、目をつむり必死で深呼吸をしようとする。まったくうまくできないけれど、ゆっくりと呼吸をするのが楽になってきた。

 さっきよりも深く息を吸い込み、吐きだす。

 まだ少し心臓が尋常じゃない速さで動いているけれど、「あの」と改めて顔を上げる。わたしの正面に立っていた文哉くんは「はい」と肩を震わせて背筋を伸ばした。その様子がなんだかかわいくて、頰が綻んでしまう。そして、わたしも姿勢を正して文哉くんに向かい合った。

「わたしも、好きです」

 同じセリフを、今度は落ち着いて、目を見て、口にすることができた。

 文哉くんは言葉を失ったみたいにしばらくぽかんと口を開けて、ゆっくりと頭を垂れる。頭に手を乗せて、なにかを考えているのかしばらく動かなかった。

 ……それは、どういう気持ちからの行動なのだろう。

 さっきまでこれで両想いだ、と思っていたけれど……返事をしてくれないことに不安が胸の中で渦巻く。もしかして、考えたくないけど、本当に彼の告白には恋愛感情が含まれていなかったのだろうか。

 もしくはいまさら調子のいいことを言うわたしに対して怒っているのかもしれない。
 あれから時間が経ったことで、彼の気持ちはもう変わってしまったとか。

 流れていた汗が瞬時に冷や汗に変わる。

「あ、あの、その」

 この場合、どうしたほうがいいのだろう。
 あまりに長い沈黙に耐えきれずオロオロしてしまう。と、文哉くんは「ふは」と噴き出して肩を震わせはじめた。そして、顔を上げる。隠れていた表情が顕になる。

 彼は、頬を赤くしてなんとも言えない笑みを浮かべていた。

「こんなところで大声で告白とか、びっくりした」
「え? え、あ! つい!」

 文哉くんの言葉にはっとしてあたりを見まわすと、近くにいた生徒たちの視線が集まっていることに気づく。やっと気づいたか、と言いたげに、まわりにいた人たちが「頑張れよー」「かっこいいじゃん」「返事早くしてやれよ」と口々に言い出した。

 恥ずかしすぎる! 勢いでとんでもないことをしてしまった。

「ご、ごめ、ん! 文哉くんまで注目されちゃって……!」
「いいよ、驚いただけ」

 はは、ともう一度声を出して笑った文哉くんは、耳も赤くなっていた。

「俺も好きです」

 文哉くんは、はにかみながら答えてくれた。

 彼の両手が持ち上げられてわたしに近づいてくる。ゆっくりとしたその動作は、どことなく躊躇しているように思えた。けれど、文哉くんはその手をわたしの背中に回す。引き寄せられたわたしの体は、すっぽりと彼の体に包まれた。
 喧騒(けんそう)が耳に届く。
 おめでとう、と祝福してくれる声が聞こえる。
 嬉しいはずなのに、嬉しいだけじゃない涙が浮かんでくる。
 喉が(しぼ)んでなにも言葉にできない。

「笑っていてくれるなら、なんでもするよ」

 耳元で、まるで独り言のように文哉くんが言った。その声は、かすかに震えていた、と思う。

 どんな表情で、どんな気持ちでそう言ってくれているのか、彼の胸板しか見えないわたしにはわからない。

 ただ、なんとなく、今にも壊れてしまいそうだと思った。

 抱きしめられているのはわたしなのに、彼を抱きしめたくなる。迷子になって不安で泣きそうになっている子どものように彼を包み込んで、大丈夫だと言いたくなる。

 だから、わたしも彼の背中に手を回し、服をぎゅっと握りしめた。


 文哉くんへのこの気持ちは、ウソじゃない。彼が口にしてくれた気持ちと同じように、わたしも彼を笑顔にしたいと思う。

 そうしたら、彼に出会えたことの意味が見つけられるかもしれない。
 ふわりと舞った生ぬるい風は、わたしの気持ちを少し重くさせる。


 ――運ばれてきたのは、罪悪感だ。





◆ 8月 ◆



 (つつみ)医師は、血液検査が書かれた縦長の用紙を見ると、
「ううん」
 と(せき)払いするように(うな)った。

 ここは町はずれにあるこの町唯一の総合病院。
 昔から町のシンボルで、八階建ての外観は遠くからでも見えるほど。

 引っ越しをしてきてすぐに体調を崩して以来、たまにここに通っている。できれば、近所にある内科医がよかったけれど、母親は(かたく)なに譲らなかった。
 循環器(じゅんかんき)科の堤医師が担当医だ。

「あまりよくない結果が出てるの。炎症(えんしょう)反応の数値が先月より悪くなっている」

 血液検査の用紙を渡されるが、項目はすべてアルファベットで書かれていてどこを見ればよいのかわからない。

「学校が大変なら少しお休みしてもいいくらいのレベルよ」

 堤医師の進言に、僕が答えるよりも早くうしろに座っていた母親が身を乗り出すのがわかった。

「私もそう言っているんだけど、この子ったら全然聞いてくれないのよ。部活も毎日のように参加しているみたいだし。姉さんからも言ってちょうだいよ」

 不満を訴える母親と、目の前に座っている堤医師は姉妹の関係。
 つまり僕にとって堤先生は伯母さんに当たる人だ。だから、わざわざ総合病院に通う羽目になったわけで……。

「あらあら。どうりで体中真っ黒だと思ったわ」

 五十代半ばの堤医師。すっぴんに近いメイクに黒縁メガネ、白髪交じりの髪をうしろでひとつに縛っている。
 ちなみに独身で、母親が言うには『姉さんは自分自身と結婚している』のだそうだ。

「たしかに部活も大変だと思うけど、今は炎症反応を抑えるほうが先よ。食欲もないみたいだし、微熱だってあるのでしょう?」

 小さいころからの関係だからか、堤医師は子どもに言い聞かせるようにやさしく諭してくる。

「はあ……」
「それに、抗生(こうせい)物質って飲みすぎはよくないの。悪い菌だけじゃなくて、いい菌まで殺しちゃうから」
「そこまでストレスとかないと思うんだけどなぁ」

 そう、ストレスなんてどこか遠くへ飛んで行ったはず。実際に今の僕は過去最強クラスのリア充なのだから。

 考えるとにやけてしまいそうで、わざと咳払いをすると、
「もう」
 と、うしろの母親が声をあげた。

「ストレスって知らないうちに溜まっちゃうのよ。だいたい、最近食事もろくにとらないじゃない。どんどん痩せていくし心配なの。夏休みなんだから少し安静にしてよね」
「わかってるって」

 ひとりでここまで来たはずが、予約の情報が回っていたのか待合室に平然とした顔で母親は待っていた。
 ほんと、いつまでたっても子ども扱いなのだから。

「血液の検査範囲をもう少し広げたいから、このあともう少し血をちょうだいね」

 まるでプレゼントでもねだるような口調の堤医師に顔をしかめてみせる。が、うしろの母親が「そうね」と聞いてもいないのに同意する。

「いくらでも取ってちょうだい」
「本当なら精密検査をしたほうがいいと思うの。ストレスにしては長引きすぎているし、ほかの病気が原因の可能性もあるのよ」

 堤医師は僕ではなく母親に目線を送っている。『お前が説得しろ』と言いたげに目を細めあごをクイッと動かすと、母親は大きくため息をついた。

「私もそう言うんだけどねぇ、この子、言うこと聞いてくれないのよ。反抗期かしら?」
「子どものいない私に聞かないでよ。言うことを聞かせるのも母親の務めでしょう」

 ズバリと言ってのけた堤医師に母親はなにやらブツブツ言っている。ようやく僕に視線を合わせた堤医師が、「あのね」と続けた。

「CTスキャンと胃カメラだけでも今日やっていかない? 時間はそんなにかからないし、胃カメラは麻酔(ますい)を使ってもいいし」
「結構です」
「少しは考えてから答えてよ。お盆に入ってから具合が悪くなったら困っちゃうでしょう?」
「えっと……」

 宙を見て数秒考えてから、
「結構です」
 そう答えた。

 クスクスと笑いながら堤医師がカルテをパタンと閉じて看護師に渡した。

「とにかく、今週は強い抗生物質出しておくから、そのあいだに数値を安定させましょう。お盆が終わったらまた来てちょうだい。これで数値が悪かったら、最悪入院してもらいます」
「ええっ、入院!?」

 そこまで悪いと思っていなかったので思わず大きな声を出してしまった。そんな僕に、堤医師はメガネを人差し指で直しながら鼻でため息をつく。

「それくらい数値が悪いの。自分の体にもっとやさしくしてあげなさい。以上、わかった?」

 彼女の中では、まだ僕は子どものまんまなのだろう。

 渋々うなずく僕に、堤医師は満足そうに微笑んだ。

 

◆◆◆



 駅の改札口に着くと、朝だというのに汗ばんでいた。
 空を見ればどんよりとした重い雲が流れている。

 ……傘を持ってくるべきだったかも。

 そんなことを考えながらスマホをチェックする。
 朝、風花から来たメッセージには、
【おはよう。楽しみすぎて寝不足。十時に駅でね♪】
 と書かれてあった。

 暗記するほど何度も読み返してしまう僕こそ、今日のデートが楽しみでたまらない。
 まだ九時過ぎだというのに到着してしまった。

 二ヶ月前に風花に告白をし、先月その答えをもらえた。
 自分に恋人ができるなんていまだ信じられないし、実感もないままだ。そんな僕たちの関係は、夏休みに入ると同時に急に近くなった。

 本来は水やり当番も交代でするはずだったが、約束したわけでもないのに毎日のように僕たちは夕方、部室で会うようになった。

 いつしか、待ち合わせ時間は早くなっていき、『こんな昼間に水やりするな』と下瓦さんに怒られてしまうほどに。
 そんなときは、図書館で涼を取ったり、ショッピングセンターのフードコートで夏休みの課題をしたりした。

 一秒一分一時間、そして一日が愛おしかったし、同時に具合の悪い日は神様を恨んだりもした。
 風花はやっぱり夜は家にいたくないようで、夏休みになってからは昼間も外にいることが多いようだ。
 風花の姉は二歳年上の高校三年生らしい。

『もうすぐ音大の推薦入試があるんだって。今度の日曜日は一日ずっと練習するみたい』

 ちょっと悲しげに言った風花を今日のデートに誘ったのは自然な流れだったと思う。
 けれど、よいことばかりは続かない。

「天気がなあ……」

 今にも雨が降りそうな空模様。
 これから四つ先の駅近くにある植物園へ行くことになっている。デートに植物園に行くなんて、部活の延長みたいにも思えるけれど共通の趣味だからこその選択だ。

 風花はほかにどんな趣味があるのだろう。
 彼女のことを、これから僕はどんどん知っていく。そのたびに、ふたりの距離は距離は近くなるんだ。

 考えるだけで胸がまた鼓動を速めるようだ。

 ポケットの中のスマホが震えているのに気づいたのはそのとき。風花からだと、慌てて取り出すが画面には【犬神】と表示されている。

『スズッキイ、暇してる?』

 開口一番訊ねてくる犬神に、
「おはよう」
 と、わざとらしく朝の挨拶をしてやった。

『おはよう、ってもう九時だぜ。暇だからこれからどっか遊びにいかね?』
「……えっとさ」

 返事に詰まる僕に気づくことなく、犬神は『ボウリングとかは?』と話を進めるので困ってしまう。

 風花とつき合っていることはまだ誰にも話をしていなかった。言えない理由なんてない。むしろ大声でクラス中に宣伝したいくらいだ。
 それでも言えずにいるのは、風花が恋人だという実感がないままだから。いや、自信がない、というほうが近い感覚かもしれない。

「今日はちょっと出かける用事があってさ」
『珍しい。どこ行くわけ?』
「べつにたいしたところじゃないよ。そっちこそ部活はいいの?」
『大丈夫。それより体調が悪いのに出かけていいのかよ』
「ボウリングに誘っておいてよく言うよ。ほっとけよな」

 焦って乱暴な口調になる僕に、なぜか犬神はため息をついた。

『あーあ。おれの友だちはなんにも話をしてくれないから悲しい』
「……なんだよそれ。そんなこと、ないって」
『あるある。初デートってこと、おれには内緒なんだな。くやしー』
「へ?」

 周りを見まわすが、まばらな駅前に犬神の姿はない。

 まさか、とうしろを振り向くと、バスロータリー近くの歩道に、ジャージ姿の犬神が立っていた。

「げ、いたのか……」
『これから他校で練習試合ってわけ。バスに乗ろうとしたら、おめかしをした親友がいたからさ。どう見てもデートだろ?』
「…………」

 スマホを耳からはがせずに黙る僕に、犬神は『ふ』と笑った。

『デートの相手は風花ちゃん。友梨はとっくに風花ちゃんから聞いて知ってたみたいだぞ。おれにも正直に話をしてほしかったなぁ』

 なんと答えていいのかわからないでいると、

『もしもーし?』

 数十メートル先で友は片手をぶんぶんと振った。

「言おうと思ったんだけどさ……」
『照れんなよ。すげえうれしいニュースなんだからさ、堂々と宣言すりゃあいいじゃん。おれなら真っ先にお前に言うけどな』

 昔から自分のことを周りに言って回るタイプじゃなかった。それでも、犬神の言うことはもっともだと思うし、逆の立場ならさびしくもなるだろう。

「ごめん。風花とつき合ってる」

 素直に伝えると、向こうで犬神はピースサインを作った。

『おめでとう。幸せになれよ。んで、おれにも誰か紹介してくれよな。あっ――』

 短く声を出した犬神が急に背中を向けた。

『じゃあおれ行くわ。風花ちゃんがそっちに歩いていく』
「えっ!?」

 左に視線をやると、青色のワンピース姿の風花がこっちに向かっていた。彼女が僕を見つけてうれしそうに目を細める。

『なんかまるでスクープ映像みたいだな。動画でも撮ってやろうか?」
「……いいよ」

 答えながらも風花から視線が外せない。
 曇り空なのも忘れ、まるで眩い光の中にいるように見える。

 いつの間にか通話は切られたらしい。
 スマホをするんとジャージのポケットに(すべ)らせると、犬神は軽く片手をあげて行ってしまった。
 追いかければ間に合う距離なのに、もう視界も、頭の中も風花で満たされている。

「おはよう」

 夏色のきみが僕だけを見てそう言う。胸がなんだかパンパンに膨らんだみたいで、
「あ……おはよう」
 うまく声が出せない。

「じゃあ、行こうか」

 そう言うと僕はもう歩き出していた。横に並ぶ風花の横顔を見られずに、駅へと進む。

 まるで、片想いみたいだな。

 そんなことを考える頭上で、雷がひとつ鳴った。


 園内に入ったとたん降り出した雨は、目の前に広がる庭園の緑色をくすませた。
 最初のうちは傘をさして雨に打たれる花を見ていたけれど、激しさを増す雨と雷にやむなく屋内に避難することに。

 そばにある温室でサボテンやバラを見ているあいだにも、屋根を叩く音はどんどん大きくなり、僕たちはたまに顔を見合わせて笑った。

 結局、温室を出たころには雨は本降りになり、屋内のカフェテラスで慣れないコーヒーなんかを飲んでいる。
 事前にネットで調べた『夏の花コーナー』や『噴水広場』には行けずじまい。

 もともと雨にはよいイメージがなかったけれど、最初のデートがこれではますますきらいになりそうだ。

「でね、アネモネは冬の寒さを実感させないと花が咲かないんだって。なんだかかわいそうだけど、十月になったらすぐに球根を土に戻そうね」

 そう言うと風花は、この植物園特製のハーブティーに口をつけた。

「そうだね」
「液肥は月に一回程度だって。あげすぎると腐っちゃうからわたしがやるね。あ、下瓦さんにも言わないと。……って、なんで笑っているの?」

 アネモネの話をするときの風花は本当に楽しそうだ。
 もちろん、ほかの植物の手入れを怠っているわけじゃないけれど、贔屓(ひいき)しているのがバレバレで笑ってしまう。

「笑ってないよ」
「ウソ、笑ってるよ」

 同じように微笑んでから、風花は窓の外の雨に目をやった。
 今日の風花はいつにも増してかわいらしい。それは気のせいなんかじゃない。部活のためのパンツスタイルもかわいいけれど、青色のワンピース姿の風花を何度も見てしまう。
 そのたびに緊張してしまう僕だ。

「これ、大事にするね」

 風花の小さな手にのっているのは、さっきおそろいで買ったサボテンのキーホルダー。緑色のサボテンに丸い目が描かれている。

「花のやつにするかと思った」

 まさかのサボテンに、さっきはずいぶん笑ったっけ。

「だってアネモネのキーホルダーがなかったから」

 苦いコーヒーを飲んでからふと気づく。

「風花はどうしてそんなにアネモネが好きなの?」

 ただ好き、というのとは違う気がする。
 枯れたそばから来年の開花を楽しみにしているのが伝わるほど、風花はあの花に惚れこんでいるのはたしかだ。

「えっとね」と言ってから風花は少し目線を上げて考える仕草をした。

「はじめて会った日もね、家に帰りたくなかったんだ。それで学校の中を探検してたの」

 あの日のことはずっと覚えている。アネモネに囲まれるように風花がそこにいた。

「はじめは『かわいい花だな』って思って見ていたの。でも気づいたらしゃがみこんでじーっと眺めてた。不思議なの、白いアネモネに吸いこまれるような感覚だった」
「あ、うん」
「そんな私に、花言葉を教えてくれたよね。アネモネが好きなのは、きっとわたしたちの出会いの花だから」
「あ、うん」

 まさかそんな理由だとは思わなかった。

 同じ言葉で返す僕に、風花は恥ずかしそうに視線を伏せた。長いまつ毛が瞬きのたびに揺れている。

「僕もアネモネが好きだよ」

 照れくさいセリフも平気だ。本当に思っていることなら、するりと言葉にできる。
 さっきの雨が、風花のワンピースの肩辺りを濃い色に変えている。

「お姉ちゃん、今ごろピアノがんばってるかなあ」

 少しの悲しみ、少しのあきらめが一瞬浮かんだように見えたけれど、瞬きと同時に消えた。
 つき合い出してから、風花はたまに姉のことを話してくれるようになった。
 相変わらず気の利いた助言はできないままだったけれど、風花は気にした様子もなくぽつぽつと話を続けることが多かった。

「最近は、どんな自分を演じているの?」
「うーん。『お姉ちゃんを応援している自分』かな。でも、少しずつピアノの音を耳にしても大丈夫になっている気がする。前に話を聞いてもらってから、受け止められるようになったんだと思う。本当にありがとう」
「僕はなんにもしてないよ」
「そんなことない」

 そう言ってから、風花はなぜかぷうと頬を膨らませた。

「そんなことないもん」
「急にどうしたんだよ」

 なにかまずいことを言ったのかと心配になる僕に、風花は「だって」と上目づかいに僕を見た。

「自分のすごさをわかってなさすぎ。わたし、すっごく助けられているんだからね」
「え?」
「まずアネモネの花言葉を教えてくれたでしょう」

 左手を上げ、美しい指を一本立てる風花に変えている気圧(けお)されるようにうなずくと、今度は中指を上げ指を二本にした。

「次にアネモネの育て方を教えてくれた」
「アネモネばっかじゃん」

 苦笑する僕に、自分でも気づいたのかモゴモゴと口ごもってから、風花は「それに」と言葉を続けた。

「お姉ちゃんとの話を聞いてくれた」
「聞くだけだけどね」
「それってすごいことだよ。わたし、友梨にしか相談できなかったし、もちろん親にも言えなかった。こんなに安心して話せるなんて、なんでだろう?」

 そんなこと訊ねられても困るけれど、悪い気はしない。

「花が好きな人に悪い人はいないから、とか?」

 なんて誤魔化す僕に風花は感心したようにうなずく。

「たしかにそうだね。花が好きな人ってみんなやさしいよね。下瓦さんも最近いろいろ教えてくれるんだよ」
「そうかな。あの人、最近やたら命令してくるけど」

 鉢の移動や雑草取りなどだけでなく、夏休みになってからは樹木の世話も任されるようになった。
 体力仕事ばかりで、毎日ヘトヘトだ。

 ふと、ポケットに入っている薬の存在を思い出した。抗生物質は結局一回飲んだだけでやめてしまった。
 飲めば気持ち悪さは軽減できるものの、逆に胃痛が酷くなったから。

 それに、今日の約束をしてからは頭の中がそのことでいっぱいになっていて、不調を感じている暇もなかった。

 やっぱり恋をするってすごいことだ。
 こんな魔法にかかったように夢中になれることはこれまでなかった。

 でも僕らは恋だけをして生きているわけじゃない。僕は体調のことが心配だし、風花は姉のことで今も悩んでいる。苦しさを紛らわすために好きになったんじゃない。

 それは風花も同じだろうか?

 そっと風花の左手を握ると、風花は少し驚いたように目を丸くした。

「魔法」

 単語を口にすれば、
「魔法だね」
 風花は柔らかく微笑んでくれた。

 トレイを持った店員が横を通りすぎたので、慌てて手を離した。
 そうしてから僕たちはぎこちなく天気の話なんかをする。

 告白した日からもっと風花を好きになっている。
 このまま気持ちが止まらなかったら、自分はどうなってしまうのだろう。
 そう思えるほど夢中になっている。

 片想いなんかじゃない。風花が僕の彼女だという実感は、心地よい不安とともに存在している。

 こんな話ができるなら、雨の日も好きになりそうだ。



◆◆◆



 火曜日、久しぶりに不機嫌な朝。
 理由はふたつある。

 ひとつは、今日からお盆入りのため風花に会えないということ。
 親戚の住む岐阜(ぎふ)県に家族で行くらしく、平気なフリで昨夜も【行ってらっしゃい】とメールをしたけれど、全然平気じゃない。

 もうひとつの原因は、母親がさっきから鬼のような形相(ぎょうそう)で台所のテーブルの向こうに座っていること。
 普段は怒ることは少ない分、たまにこうなるとかなり怖い。

 怒鳴ったり大声をあげるならまだマシ。うちの母親が本気で怒ると、なぜか無言になるのだ。長い時間、仏像のように動かない母親に、重々しい空気がしかかってくる。

 今も、微動だにせず見つめてくる母親に、僕は修行のようにじっとうつむくことしかできない。

「で、なんで?」

 数分前と同じ言葉で訊ねる母親の手元には、隠しておいた抗生物質がある。ブルーの錠剤(じょうざい)はひとつ空になっているだけ。

 見つからないようにつねにズボンのポケットに入れていたのが逆効果(ぎゃくこうか)だった。
 うっかり洗濯物に出してしまったのだ。

「なんでちゃんと飲まないの!」

 疑問形で訊ねないのが、母親が本気で怒っていることを示しているよう。
 普段ならすぐに謝るところだけど、今日はこれ以上言われたくない気持ちのほうが強い。
 風花に会えないことのほうが、今はよっぽど重要な問題だ。

「べつに理由はないよ」

 椅子から立ちあがる。
 食べかけのヨーグルトもそのままに出て行こうとする僕に、
「待ちなさい!」
 焦った声を聞こえないフリでそのままリビングのドアを閉めた。

 部屋にスマホと財布を取りに行きたかったが、きっと母親に捕まるだろう。
 そのまま鍵だけを持って外に出た。

「うわ……」

 朝から鋭く目に飛びこんでくる日差しに目を細め、そのまま自転車に飛びのった。
 こうなったら部活に逃げるしかない。

 ペダルを()ぐと生ぬるい風が体にぶつかってくる。
 足に力を入れてペダルを回すほどにスピードは上がっていくけれど、罪悪感がすぐうしろをついてくる気分。
 風花も家にいたくないときはこんな気持ちだったのだろうな。
 会えないと思うほどに会いたくなる。

 こんな気持ち、今まで知らなかった。


 校門をくぐり抜け駐輪場へ向かう。スマホがないからわからないけれど、まだ八時を過ぎたくらいだろう。

 駐輪場の入り口が見えてきたとき、そこに風花がいた。思わず急ブレーキをかけるとすごい音が校舎に反響した。

 え、なんで風花がここに……。

「おはよう」

 ほっとした顔で駆けてくるのは、やっぱり風花だ。
 白いスカートがひらひらと踊っている。僕も自転車のスタンドを立てて近づく。

「どうしたの? もう出かけたと思ってた」
「これから行くところ。でも、ひょっとしたら少しでも会えるかな、って思って来てみたの」

 驚く僕に風花は胸に手を当てて息を吐いた。

「夕方にしか来ないってわかってたのになんでだろう? でも、会えた。うれしい」

 白い歯を見せて笑う風花。

 僕を待っていてくれたんだ……。

「僕もうれしいよ」

 擽ったい幸せをくれる風花に、今朝のいらいらはどこかに飛んで行ったみたい。

 駐輪場に自転車を置くと、荷台に風花はふわりと腰をおろした。

「体調はどう?」

 風花の問いに、一瞬今朝のことを知っているのかとドキッとする。
 けれど、風花は「ほら」と言葉を続けた。

「このあいだ、体調を崩してるって言ってたから」
「ああ」

 納得すると同時に、心配をかけちゃいけないと思った。それは、決意に似ている。

「大丈夫。ストレスは風花がどこかへ打ち飛ばしてくれたから」
「ふふ。ホームランみたい」
「そ、ホームランだね」

 クスクスと笑い合う。

「夏休みはどうしてるの?」
「とくに予定はないよ。犬神とたまに会うかも、ってとこ。戻ってきたらまたどっかに行こう」
「うん」
「映画もいいし、駅前にできた本屋さんも行ってみたい。結構広いみたいだし、カフェもついてるんだってさ」

 行きたいところはたくさん。でも、それよりもそばにいたいと思っている。
 口にすれば、これから旅立つ風花に心配させてしまうだろう。

「とにかく楽しみに待ってるよ」

 ニッと笑う。
 恋は、片想いじゃなくてもどこかせつないものなんだな。

 こんなもどかしい気持ち、はじめて知ったよ。

 ちょっとした沈黙に、誰にも聞かれていないのに僕たちは小さな声で笑った。

「あ、もうそろそろ行かなくちゃ」
「うん。気をつけて」

 本当に気の利いた言葉が浮かんでこない。
 風花は「うん」とうなずくと、
「いないあいだ、お花のことよろしくね」
 と、頭を下げてから歩き出す。

 わざわざ来てくれたうれしさと、これから数日会えないさびしさが同じ量で胸にこみあげてくる。

 この瞬間から前よりももっと、きみのことばかり思うんだ。

 鼻のあたりがツンと痛いし、お腹のなかは沸騰(ふっとう)したように熱くなっている。
 たとえ言葉にできなくても、今感じた気持ちを伝えたい!

「待って」

 無意識に呼びかけると、僕は風花に向かって走っていた。笑顔のまま振り向く彼女をギュッと抱きしめる。

 心がそうしたいと願っているように、あとから思考が追いつく感じだった。

 驚いただろう、風花も僕の背中にゆっくり手を回した。

 本当の気持ちなら、言葉なんていらないんだと思った。

 すぐ近くで鳴き出すセミの声にようやく僕は体を離した。
 目の前には真っ赤な顔の風花がいる。

「気をつけて行くんだよ。走ったりしないで」
「うん」

 そっと体を離せば、彼女のぬくもりがまだ残っている。なんだか幸せなのに泣きたい気分だった。

「じゃあ、またメールして」

 精一杯の強がりに、風花は僅かにうなずいた。

「……うん。行ってきます」

 見えなくなるまで風花の背中を見送ると、何度も振り向いて手を振ってくれた。

 会えない期間、何度もこのことを思い出すんだろうな。
 自分のとった行動が恥ずかしくもあり、誇らしくもある不思議な気分だった。

 鼻歌交じりに自転車を置く。
 まずは気温が上がる前に水やりでもするか。

 自転車の鍵をポケットに入れ歩き出したときだった。

 思わず足が止まるほどの吐き気がこみあがってきた。今にも嘔吐(おうと)しそうになり口を押さえて息を止める。

 久しぶりに食べた朝食のせい? 
 いや、ほんの数口ヨーグルトを食べただけだ。

 そのあとすぐに自転車に飛びのったことも影響しているのかもしれない。

「ああ……」

 薬は台所に置いてきてしまった。
 しょうがない。母親とのけんかがあったからこそ、風花に会えたのだから。

 何度か深呼吸をしているうちに、徐々に吐き気は消えた。慎重に足を動かしても、もう大丈夫なよう。

 そしてまた、きみの笑顔が頭に浮かぶ。

 今までそこにいたのに、もう風花に会いたくてたまらない。吐き気も忘れて、僕は大切な人のことを考える。

 セミはさっきよりもボリュームをあげて、騒がしく夏に鳴いている。



◆◆◆



 風花に会えなくなって三日目の夕方、晴れ。
 駐輪場に自転車を置くと、そのまま部室へ向かう。いつもの手順で作業着に着替えエプロンをつける。ホースを準備し水やりをしていく。

 毎日のように風花とはメールや電話をしている。風花は親戚の人がいかにお酒を飲むかとか、従妹の子供が大きくなっていた話などをしてくれた。

 学校と家の往復だけの僕の日々は平凡だったけれど、ちょっとした花壇の変化などを話すと彼女はそれをうなずきながら聞いてくれた。

 だから、毎日の水やりも風花に話をするために、よりしっかりとするようになっていた。

「あと三日か……」

 つぶやく声がかすれている。ここのところ体調が悪い。

 抗生物質は母親により管理され、強制的に飲まされている。
 飲んだあとの胃痛は相変わらずだったけれど、それでも日に日に吐き気は強くなっているようだ。

 微熱があるのか今日は一日だるいままだった。それでも、水やりはしなくてはならない。

「おう」

 声のするほうを見ると下瓦さんが近寄ってきた。

「お疲れ様です」
「ああ」

 下瓦さんに夏休みはないらしく、お盆真っ只中の今日もいつもの作業着姿。両手にはなにに使うのかバケツを三つ持っていた。

「液肥はもうやらんでいい」
「あ、はい」
「裏門の木にハチがいたから、近くに巣があるかもしれん」
「はい」
「球根は乾燥したら小屋に入れておけ」

 いつものように矢継ぎ早で出される指示を、必死で頭に入れる。
 熱のせいかうまく処理ができないまま、一礼して部室へ歩き出す。

「なあ」

 下瓦さんの声に振り向くと、彼は眉間(みけん)にしわを寄せていた。

「明日からはしばらく休め」

 言われた意味がわからず固まる僕に、下瓦さんは目を細めた。

「夏休みの宿題も多いんだろ。しばらくはそっちに集中しろ」
「え、でも……」
「水やりくらい俺ひとりで平気だ。実際、桜なんて今年の春休みは、一度も顔を見せなかったぞ」

 顔をゆがめる下瓦さん。これが彼の笑みだということもすっかり理解している。

 思い返せば最初はただおっかない人としか思っていなかった。
 誰よりも植物を大切にしている下瓦さんのことを、見た目や態度だけで判断していたっけ……。

「下瓦さん」
「ん?」
「いつもありがとうございます」
「なんだそれ」

 ケッと吐き捨てるように言う姿に、思わず笑みがこぼれてしまう。
 彼は不器用だけどいい人だ。

「いつか下瓦さんのようになりたいって思っています」
「熱でもあるのか?」

 怪訝(けげん)な顔もそのはず。自分でも素直に出た言葉に驚いている。

 ああ、そっか。
 こういうのも風花が僕に教えてくれたんだ。

 早く風花に会いたい。その日まではがんばらないと……。

「宿題は大丈夫です。もう終わらせましたから」

 もう少しで風花も帰ってくる。
 そうすればまたふたりでここで会えるのだから。風花がいないあいだ、花たちを守ることが使命のような気さえしている。

「いいから休め。これは業務命令だ。九月になったら忙しくなるからな」

 言うだけ言って下瓦さんはさっさと行ってしまう。

 困ったな……。

 追いかけて『やらせてください』と言おうか、と思ったが、よく考えたら、逆に風花とほかの思い出を作れるチャンスだと気づく。
 植物園のリベンジもしたいし、それならそれで……。

 そこまで考えたときだった。

 ぐにゃりと視界がゆがんだ。

 気づけば僕は、地面にお尻をつけて座りこんでしまっていた。
 これまでにないほどの強烈な吐き気がこみあげてくる。

「ぐ……」

 自分の声とは思えないほどの低い音が口から漏れた。

「鈴木?」

 声に顔をあげると、ゆがんだ世界の向こうで下瓦さんの声だけが聞こえる。

「どうした? おい」

 返事をしようとすればさらに気持ち悪さが襲ってきて、口からなにかを吐き出していた。
 喉がひりひりとして、さっき飲んだオレンジジュースが土に吸いこまれていく。

「鈴木、おい、鈴木!」

 背中をさすられる感覚がするが、それよりも寒くてたまらない。

 やがて鬼瓦さんの声も遠くなり、僕の世界は真っ黒に塗り替えられた。



◆◆◆



 八月三十一日、夜九時。

 しんとした部屋でクーラーの音だけが耳に届いている。
 さっきまで我が家の食卓はにぎやかだった。
 学校をサボりがちの弟とも最近はよく顔を合わせるようになったし、母親は仕事であった出来事を面白おかしく話していた。
 食欲もずいぶんと戻ってきている。

 あの日倒れた原因は『脱水(だっすい)症状』が原因と堤医師からは説明されている。実際、点滴や薬ですぐに回復したため、数日の検査入院で済んだ。
 これまで拒んでいた検査もずいぶんさせられた。
 下瓦さんに甘えて水やりに行くのはやめることにした。

 風花とは何度か会うことができた。
 それはファーストフード店だったり駅ビルだったり、たまには学校の花壇を見にいったりもした。

 僕はうまく笑えていただろうか。

 彼女に教えてもらった〝違う自分〟を演じられたのだろうか。

 こうしてひとりベッドにもぐれば、否応(いやおう)なしに見たくない真実と向き合うことになる。
 知りたくない秘密ほど、人は知ってしまうものなのかもしれない。

 自分の体に起きていた異変は、今になって大きなモンスターのように僕に襲いかかっている。
 もちろん、検査結果や病名を知らされたわけじゃない。
 自分なりにネットで調べたり、母親や堤医師の反応を見て確信したことがひとつある。

 どうやら、僕はもうすぐ死ぬらしい。 






◇ 9月 ◇






「あー……あっついねえ」
「暑いなあ」

 授業の合間、太陽の日差しを浴びながら、いつものように花壇の前で文哉くんと並んで花を眺める。日光浴をしている草花は気持ちよさそうに見えるのに、わたしたちはぐったりだ。立っているだけで汗が浮かんで流れていく。早く秋になってほしい。

「最近体力落ちてるから学校しんどいなあ……」

 はあーっと文哉くんはげんなりした顔でぼやいた。

 文哉くんとつき合ってから約二ヶ月。
 毎日のようにメッセージのやりとりをし、電話でも他愛ない話をし、デートも重ねた。つき合う前は学校でしか顔を合わさなかったけれど、つき合ってすぐに夏休みに突入したことで、たっぷりの時間を一緒に過ごすことができたのはすごくよかった。どこに行っても混んでたこと以外は。

 最初はお互いに少し緊張していたけれど、最近は少しずつ一緒にいると自然体で過ごせるようになったと思う。普段はやさしい口調の文哉くんの語尾も、たまに砕けることがある。そんなちょっとしたことに、嬉しくなる。

 最初出会ったときの文哉くんは、つねに落ち着いていて余裕がある印象だった。けれど、この二ヶ月で、実際の彼はそうじゃない面もたくさんあることを知った。からかうと()ねるし、嬉しいときは顔をくしゃりと崩して目を細める。そして、たまにまるで過保護な父親のようにわたしを心配したりする。

 いろんな文哉くんに出会い、触れた。
 今年の夏は、数年ぶりに笑顔で過ごした。

「なに見てるの?」

 じっと見られていたことに気づいた文哉くんは、照れているのか少し口を(とが)らせる。子どものような仕草がかわいくて、そういうところが好きだなあと改めて思う。

 今は、あのとき勇気を出して自分の気持ちを認めることができてよかったと心から思う。あの一歩がなければ、今、隣に文哉くんはいなかった。今のわたしも、存在しなかった。

 過去を振り返ることができるようになったわけじゃない。今でも思いだすと逃げだしたくなるし、自分がいやになる。

 でも、なにかが変わっているのがわかる。

「文哉くんの肌が、焼けたなあって思って」

 自分の腕を前に出し、文哉くんの肌と比べる。ふたりとも程よい色だ。白すぎず、黒すぎず、健康的に見える。ほぼ毎日外にいたから当然といえば当然だのだけれど。

 今までのわたしは、どちらかと言えばインドアだった。
 幼いときからピアノをしていたこともあるし、怪我(けが)をしてからも外で遊ぶようなことはあまりしなかった。一時期は少し外で過ごしていたこともあるけれど、ここ数年はとくに学校と家を往復するだけだった。たまに外出してもウィンドウショッピングをしたりや映画を観るだけ。

 自分の腕や肌を見るたびに、活動している感じがしてほっとする。
 生きている自分を実感する。
 そんなふうに考えることができるようになったのは、文哉くんのおかげだ。

「……っていうか文哉くん、痩せたんじゃない?」

 ふと並んだ腕を見て口にする。
 前はもう少し、太かったような気がする。顔も心なしほっそりしているように見えるし、目の下に薄っすらと隈がある。肌が焼けているからか、顔色は悪くないけれど、少しやつれたような頰が、疲労を感じさせる。

「あー、夏バテじゃないかな。ちょっと体もだるいし。夏苦手なんだ」
「夏前から言ってるよね? もしかしてご飯あんまり食べてないの?」
「いや、食べてるよ、多分」

 多分って。
 たしかに今年の夏は猛暑だったし、今もまだまだ暑い。けれど、こんなに長いあいだ夏バテが続いているなんて、おかしい。

 不安が頭をよぎって「本当に大丈夫?」と顔を覗きこむ。額に手を伸ばして肌に触れる。外風邪のような異様な熱は感じられなかった。もちろん、おかしいほど体温が低くもなさそうだ。

 じいっと至近距離で文哉くんの顔を見つめる。
 痩せてはいる、けれどそこまでひどくはない、ような気がする。

「本当に、ただの夏バテ?」
「大丈夫。そんなに不安そうな顔しないでよ」

 はは、と笑って文哉くんはわたしの手を取り額から()がす。恥ずかしいからそんなに見ないで、と言いながらわたしの手に自分の手を絡ませる。

「夏休み終わっちゃったなあ」
「そうだね。あっという間だったなあ」

 とくにお盆を過ぎてからは、タイミングが合わず文哉くんと会う機会が減っていた。そのせいもあって、後半はまたたく間に過ぎ去ってしまった。
 楽しい時間ほど時間の流れが速い。

「一日に二回映画観たの初めてだった」
「ふふ、さすがにちょっと疲れたよね。文哉くんが死んだ魚の目で恋愛映画観てたの、思いだすたびに笑っちゃう」
「あれはそうなっても仕方ない」

 ポップコーンに手を伸ばしたときに見た横顔が、シルクスクリーンからの光を浴びていた。ああ、隣にこの人がいるんだな、と思ったと同時に、あまりにも無表情だったので感動的なシーンだったのに噴きだしてしまった。

「花火見に行けなかったのだけが心残りかなあ」

 電車で行ける距離にある有名な花火大会を、わたしはずっと見に行きたかった。たくさんの夜店が並び、花火の打上数もかなり多いらしい。今年こそ文哉くんと行こうと思ったのに、運悪くわたしが帰省するお盆に被ってしまったのだ。去年までは八月の上旬に開催されていたというのに。

 あと、最近できたブックカフェにも行きたかったんだった。
 あれもこれもと、やりたかったことが浮かんでくる。悔いのないようにと、全部叶えるつもりだった。けれど、なかなかできるものではないらしい。

「来年は行けたらいいよね」
「……うん」

 文哉くんの手に力が込められる。

「植物園もいいよね」

 一度行ったけれど、もう一度行きたい。文哉くんは、あれこれ訊くわたしにいろんなことを教えてくれるだろう。

「そろそろ教室に行く時間だね」

 腕時計を確認した文哉くんが、ほら、と言って立ち上がりわたしの手を引き上げた。大きな手のひらをみつめて「文哉くん」と呼びかけると、彼は「ん?」と口を閉じたまま返事をして口角をあげる。

 その優しげな、けれどどこか悲しげな、まるで『自分じゃない誰か』を演じているような笑みに背筋が冷たくなる。以前から不調そうな文哉くんに抱いていた小さな不安の種が、(から)を破って芽を出してくるのがわかる。

 今日は帰りにショッピングモールにあるフラワーショップに行こう、と口にしかけた言葉を呑みこむ。

「ねえ、今日は早めに帰って」
「え? なんで? 一緒に帰るんじゃなかった?」
「夏バテ、早く治してほしいから。それに、ほら! 元気になってもらわないと一緒にいても気を遣っちゃうじゃない」

 それに、久々に友梨と遊ぼうって連絡があったんだよね、と校舎に向かって歩きながらウソをついた。九月に入ってから遊べていないし、とペラペラとデタラメなことを喋る私に、文哉くんは少し怪訝な表情を作る。

「今日は休んで、ちゃんと体調戻してから思い切り遊ぼう」

 それに気づかないフリをして話し続けていると、文哉くんは諦めたように息を吐きだしてから「わかった」と答えてくれた。

 早く元気になってね、と今度はウソではなく本音で伝える。文哉くんはこくりとうなずいて、自分の教室に向かって歩いていく。

 ……ただの夏バテだ。しばらくゆっくり休めばきっとすぐに回復するだろう。
 これ以上不安が大きくならないように、心の中で何度も大丈夫、と自分に言い聞かせた。



惚気(のろけ)を言うためにわたしを呼び出したの?」

 目の前にいる友梨が顔をしかめてストローに口をつけた。

 文哉くんに友梨と遊ぶと言ったときはウソだったけれど、せっかくならばとわたしから友梨を誘ったのだ。サックスの練習があるから無理かも、と思ったものの、友梨はすぐに「行く行く!」と返事をくれた。

 最近ゆっくり話しをしていなかったので、時間を気にせず長居できるファミリーレストランで顔を合わせた。店内には中途半端な時間ということもあり、席の半分ほどのお客さんしかいない。

「惚気を聞かされるなら練習に顔を出せばよかったあー」
「どこが惚気なのよー」

 久々に声をかけたことで「どうしたの?」と訊かれたから、今日あったこと――主に文哉くんとの会話――を伝えただけなのに。

「うわ、自覚がないんだ。やだなあ、幸せな人はこれだからー」

 友梨は芝居がかったように、大げさに肩をすくませる。「あたしも彼氏欲しいんだけどー」と唇を尖らせつつも、わたしに温かみのある笑みを浮かべた。

「だって、やっぱり心配じゃない」
「まあ、気持ちはわかるけど。ただの夏バテなんでしょ?」
「本人はそう言ってるけど、さ」

 自分でもちょっと考えすぎかもしれないと思う。たしかに以前に比べたらやせたけれど不健康なほどではないし、足取りもしっかりしている。

 夏休みに遊園地で一緒に走り回ったとき、かなり汗を流しヘトヘトになっていたので、夏が苦手というのも本当のことだと思う。

 でも、嫌な予感を振り払うことができない。

「風花は元気になったけどねえ」

 肌艶がいい気がする、と友梨が身を乗り出した。

「そう?」
「健康的な生活してるからじゃない? 前は、学校にはちゃんと来るけどあんまり遊んだりはしなかったじゃない。よかったよかった」

 あたしも安心だ、と友梨はメニューを広げた。飲みものだけではお腹が空いてきたらしく、店員を呼んでデザートを注文した。せっかくなのでわたしもプリンをお願いする。

「同じ学校でつき合うって、やっぱりいいよねえ」
「そうだね。倫子の彼氏は別の学校らしくて、会えない! ってこの前さびしがってたよ」

 友梨はあはは、と豪快に笑った。
 たしかに、同じ学校のほうが毎日必然的に顔を合わすことになるので、わたしにとってはよかったな、と思う。じっくりと、文哉くんに向かい合うことができる。

「夏休みはたっぷり一緒に過ごせて楽しそうだったもんねえ。そのせいで私や倫子とはあんまり遊んでくれなくなっちゃって……」
「そんなことないじゃんー。結構遊んだよー」
「そうだっけー?」

 からかうように言われて否定すると、ぼけたような表情をされた。

 運ばれてきたデザート目の前にして、友梨に言いたかったことがあったのを思いだす。そばに置いているカバンを一瞥(いちべつ)して「あのさ」とパフェに目を輝かせる友梨に呼びかけた。

「最近、家でもなにか育ててみようかなって思ってるんだよね」
「そっか、いいじゃん。なに育てるの?」

 まだ具体的には考えていない。
 そもそもわたしは初心者だ。種を植えることも、植え替えも、液肥を散布したことだってある。でも、ほとんど手伝ってもらった、というかむしろわたしが簡単なことを手伝っただけ。

 カバンからぼろぼろになったマニュアルのコピーを取り出し、パラパラとめくって、「なにがいいのあるかなあ」とひとりごちた。

「風花、それ毎日持ち歩いてるの?」
「え? あ、いや、たまにだよ。毎日はさすがに。ただ、なにか育てたいなって思ったから。できればこのなかのなにかを。それを考えるために」
「……ならいいけど」

 友梨は呆れたのか、ため息をついてパフェをスプーンですくった。

「アネモネにしようかなって思ったんだけど、やっぱり無理だなって思ってる。そもそもまだ季節じゃないしね」
「別のにしたほうがいいよ」

 だよね、とうなずいてから、高校で何世代も受け継がれていたマニュアルのコピーを眺めた。赤いペンで書き込まれているのは、わたしの文字だ。下瓦さんに教えてもらった、いや、怒られたことを忘れないようにメモしてある。ところどころ滲んでいるのは濡れた手で何度も触れたから。彼に教えてもらった花言葉を書き足してあるページを見て、つい「ふふ」と笑みをこぼしてしまう。

 ふと視線を持ちあげると、わたしをじっと見ている友梨と目があった。

「なに?」
「いや、幸せそうでよかったなって思っただけ」

 友梨の眼差しはとてもあたたかい。

 今まで心配や迷惑ばかりかけてしまった。そんな友梨を突き放し、八つ当たりしたことは何度もある。けれど、友梨はわたしを責めたりしなかった。弱音を吐いたわたしを、ときに叱咤し、ときに慰め、そして手を引いてくれていた。一度だって嫌な顔をすることなく、見放すこともなく、そばにいてわたしを見守っていてくれる。

 友梨がいなければ、今のわたしはまだ、暗闇の中にいただろう。

「あ、ねえねえ、もうすぐハロウィンじゃない?」
「もうすぐって、まだ一ヶ月以上あるよ」

 そう言ったけれど、店内はすでにハロウィンモードが漂っている。さっき注文したプリンもかぼちゃのものだ。期間限定のハロウィンデザート。それが終わればすぐにクリスマスムードが街中に溢れてくるのだろう。

 イベントごとが苦手なわたしには少し居心地が悪い季節だ。とくにクリスマスなんかはあまりいい思い出がないので、これから始まる冬を思うと気が重い。

 ……でも、今年はもう少し楽しめるかもしれない。文哉くんがいるから、楽しく過ごさなくちゃいけない。

「犬神とこの前話してるときにパーティしよう! って盛り上がったんだよね」
「えー」

 友梨はイベントが好きだ。誰かの誕生日には必ずサプライズを用意するし、去年もクリスマスに盛大なパーティを計画していた。イベントと言うより、人と一緒に楽しむ時間が大好きなのだろう。誘われたので少しだけ顔を出したけれど、どうしても長居できなかったことを思いだす。

 ハロウィンパーティも友梨は毎年計画しているけれど、参加したことはない。だからこそ、ハロウィンは大丈夫かも、と思った。

「楽しそうだね」
「でしょでしょ! 仮装しようよ」
「……それは、どうかな」

 友梨が仮装、と言い出したということは、本格的なものを求めているということだ。そういうのは、向いていないというか、なんというか。そもそもやったことがない。みんな、どの程度の仮装をするのだろう。想像するだけでちょっと恥ずかしい。

 答えを渋るわたしに「彼氏も一緒に参加したらいいんだって」と親指を立てた。

「参加しないと思うけどなあ」

 仮装をしている文哉くんはちょっと想像しにくい。でも、どんな恰好でも似合いそうだなとも思う。案外ノリノリでやったりするのかも。
 ……いや、でもなあ。

「まあ、一度聞いてみようかな」
「一度じゃなくて二度三度聞かなくちゃ!」

 そんなことじゃ負けちゃうよ、といつの間にか勝負をするようなことを言われてしまった。このままではわたしがはっきりとした返事をするまであきらめてくれなさそうだと思い、
「犬神くんと相変わらず仲いいね」
 と、話題を変える。

「えー、やめてよ。まあ仲はいいけど、あいつは友だち、悪友。それだけ。倫子もいっつも茶化してくるんだもん。やめてほしいよねえ、あたしの好みじゃないのにさあ」

 それにしては仲がいいけれど、口にすると怒られそうなので黙っておいた。

 友梨には男女問わず友だちが多い。けれど、恋愛の話は一度も聞いたことがない。何回か告白もされているはずなのに、友梨にその気がないのかすべて断っている。その理由を、倫子は犬神くんだと思っているらしい。わたしも、実はそう思っている。

「あたしの好みは、もっと繊細で、知的な感じの人なの」
「犬神くん、悪くないと思うんだけどなあ。」

 ただ、たしかに繊細さも知的さもあんまりない人ではあるけれど。どちらかというと大雑把(おおざっぱ)で豪快な人だ。デリカシーがない! と友梨によく怒られていて、そのたびに「なにが?」とキョトンとした顔をしていた。けれど、すごく友だち思いの熱い一面もある。

「いい奴なのは間違いないけど、それとこれとは別よ、別」

 言い切る友梨を見て、ふたりのあいだに恋愛感情らしきものはまったくなさそうだと思った。相当気の合う男友だちなのだろう。それはそれですごく素敵な関係だ。これからもそんなふたりでいてほしい。

 くすくすと笑っていると、友梨は「幸せなんだね」ともう一度言って微笑んだ。

「――うん」

 躊躇なく答えることができた自分が、うれしかった。

「最近はお姉ちゃんと話しててもなにも思わなくなったしね。彼氏の話もしてるよ」
「そうなんだ。風花のお姉さんは彼氏とうまくいってんの?」
「みたい。アンサンブルで仲が深まったのかも」

 友梨はドラマみたい! ピアノで愛を深め合うんだ! と目を輝かせた。



 その後はくだらない話をしながらふたりで時間を潰した。

 三時間以上喋っていたので喉が乾き、水をがぶがぶと飲んでしまった。そのせいでお腹がたぷたぷの状態だ。

 まだまだ日が落ちるのは遅いけれど、気がつけば外は真っ暗に染まっている。時間を確認しようとスマホを取り出すと、ちょうどいいタイミングで文哉くんからメッセージが届いた。

【帰って今まで寝てた。明日は全快の予定だよ】
 内容にほっとする。でも、明日会ってみないと本当かどうかはわからない。
【ちゃんとご飯を食べてね】と返信すると、すぐに【わかった】と返ってきた。

「なによもう、見せつけないでよー」

 友梨が目尻を下げて顔を近づけてくる。そんなふうにからかわれるほどわたしの顔は緩んでいたのかな。羞恥で頰に手を当てる。そんなわたしを見て、友梨が口の端をあげて微笑んだ。

「いい相手でよかったよね、ほんとにさあ」

 しみじみと言葉をこぼす友梨と並んで、駅を目指して歩く。外灯も多く、車もよく通るため、道は暗くなかった。昼間は汗が出てくるほど暑いけれど、日が沈むとけっこう過ごしやすい。このまま、あっという間に冬になるんだろう。

「風花のこと、全部受けとめてくれる人と出会えて、ほんとよかった」

 そうだね、と相づちを返すつもりだったのに、喉がぎゅっと萎んだ。
 足も、動くのをやめてしまう。

 前を向いていた友梨が「風花? どうしたの」と振り返る。

 ここが、暗闇だったらよかったのに。そしたら、今のわたしの顔を友梨に見られることはなかったのに。
 どうにか誤魔化さないと、と思うのに、言葉が出てこない。そんなわたしを見れば、友梨にはすべてがバレてしまう。


「……風花、もしかして、伝えてないの?」


 唇に歯を立てて、いまさらウソは通じないと思い、ゆっくりあごを引いた。



◇◇◇



 どんよりと重たげな雲が頭上には広がっている。
 太陽の光が届かないからか、窓の外にある草花も心なし元気がないように思えた。しょんぼりと項垂れているみたい。

「傘持ってる?」

 目の前に座っていた文哉くんの質問に「折りたたみならあるよ」と答える。もうしばらくしたら雨が降るだろうと、今日は学食で過ごしている。雨の日はここで過ごすことが定番化している。屋内では、この場所が一番花壇をよく見ることができるから。

 授業が終わった後の学食は閑散としている。
 昼休みは生徒でごった返していて騒がしいけれど、この時間は静かで落ち着く場所だ。窓際の席も早いもの勝ちじゃないところもいい。

「雨降らなかったらいいんだけどなあ」
「でも、草花にとったら恵みの雨かもしれないよ」
「毎日水もらってるんだから関係ないんじゃないかな」

 言われてみればそのとおりだ。むしろ水分過多で根腐れでもしてしまいそうな気がした。今までなんともないので大丈夫だろうけれど。

「でも、雨の日に静かなここから外を眺めるのも好きだよ、私」
「家の中だといいんだけど、ここにいたらいつかは外に出なきゃいけないじゃん」

 ああ言えばこう言うんだから、と唇を尖がらせると、文哉くんは「だってさあ」と子どものように口を結んで頬杖をつく。

 文哉くんの隈は、少しマシになった、ような気がする。
 あれからできるだけ早めに別れるようにしているし、土日もどちらかは会わないようにしている。ただ、そのおかげで文哉くんが元気になったのかどうかはっきりとはわからない。たまに大きなあくびをしているので、寝不足気味は継続中なのかも。

 なんともないといいな、というわたしの希望だ。

 ご飯は食べているのか、眠れているのか、体はだるくないか、と訊いたら「大丈夫」と笑顔で答えてくれた。ただ、「母親みたい」と苦笑されてしまった。

「風花は心配性だよ」
「だって」

 心配なんだもの。
 大丈夫だって、と同じ言葉を繰り返し、文哉くんはわたしの頭に手をのせて、優しい手つきで髪の毛を撫でた。胸がきゅうっと甘く痛む。わかった、と伝えるためにこくりとうなずくと、安心してくれたのか文哉くんの手がわたしから離れる。そして、「あのさ」と、いつもと違う声色で話しかけてきた。

 文哉くんは少し眉を下げて申し訳なさそうな表情をわたしに見せる。

「これから、少し会う時間減るかもしれないんだ」
「……どうしたの?」
「ちょっと、今家がバタついてて。って言っても学校には来るし、休みも今までみたいにどちらかは会えると思う。平日はなかなか時間が作れなくなるかも」

 必死で手振り身振りで説明する文哉くんは、いつもと少し違っていた。
 ――だから、多分ウソなのだろう。直感的に思った。

 目の前にわたしがいるのに、視線がぶつからない。
 嘘でしょう? と口にすることができなかった。彼とわたしのあいだに、それを言っちゃいけない、壁のようなものを感じた。

「そっか」

 へらっと笑って見せる。

 返事にほっとしたのか、やっと文哉くんはわたしを見てくれたけれど、わたしの表情にすぐに目をそらす。わたしは、笑顔をうまく貼りつけることができていなかったのかもしれない。

 文哉くんはやさしい。ときどきいじわるなことも言うけれど、よく笑ってくれるし、いつだってわたしのことを考えてくれる。彼からの愛情を感じることができるから、わたしの気持ちも同じだけ、いや、それ以上に感じてもらいたい。

 だけど。

 いつからだろう。
 一緒にいて楽しそうにしてくれるのに、ふと、ほんの一瞬、一緒にいるのがつらそうに見えるときがある。痛みに顔をゆがませて、それを耐えているみたいに歯を食いしばっているときがある。

 それは、わたしのせいなだろうか。
 もちろん、どうしてなのかはわからない。

 わたしのなかで今もずっと変わらず大事にしているものを、感じ取っているのかも。

「……ごめん」

 文哉くんは消え入りそうな声で謝罪を口にした。

「謝らなくていいよ。さびしくないって言ったらウソになるけど、でも、仕方ないよね。気にしないで!」

 しょんぼりされてしまい、明るく振る舞う。多分、今度はちゃんとできている。

「かわり、って言ったらあれだけど、今度風花の行きたがっていた花屋めぐり行かない? いくつかリストアップして、順番に回るツアーみたいなの。最近オシャレな感じの店も増えてるから、見てるだけでも楽しいと思う」

 あまりに必死の様子に、さびしさや不安が薄れる。
 どうして会う時間が減るのか、どうしてウソをつくのかはわからないけれど、目の前でわたしのことを考えてくれている文哉くんのことだけは、信じることができた。上手にウソをつけない人だからこそ。

「うん、行こう!」

 喜ぶわたしに、あからさまに胸を撫でおろすところも素直だ。

「風花、いつなら行ける?」

 ふたりしてスマホを取り出しカレンダーアプリを起動して予定を確認する。今月は残り三週間。と言ってもわたしにたいした用事はない。けれど、ずいぶん前にメモしておいた予定を見て思いだした。ピアノ教室の発表会がある。以前先生の誕生日パーティに参加したときに手伝ってと言われて引き受けたんだった。

 お世話になった先生からのお願いだ。いまさら断るわけにもいかない。ということは今週の土曜日は無理で、結構な重労働になるのでできれば次の日の日曜日はゆっくり休みたい。

 来週末にはお姉ちゃんの誕生日がある。せっかく花屋に行くのなら、お姉ちゃんへのプレゼントに観葉植物とかをプレゼントしてもいいかも。そろそろなにを買えばいいのかわからなくなってきていたし。そうでなくても出かけたら、なにか見つけることができるかも。

 となると、お姉ちゃんの誕生日の前日がいいだろう。あまり早く渡すのもいまいちプレゼント感がないし、月末だったら誕生日が過ぎてしまっている。

 となると、空いている日は一日だけだ。
 日付を確認し、しばらく目を閉じて思案する。
 どうしようか。
 でも。

「――来週の土曜日は?」

 なぜか文哉くんは動きを止めて、自分のスマホ画面を見つめたまま微動だにしなくなった。彼にも予定があるのだろうかと返事を待つ。

「ごめん、その日は、用事があるんだ」

 文哉くんは画面を見つめたまま、どこか覇気(はき)のない声で言った。

 どう考えても文哉くんはいつもと違っていたのに、わたしはなぜか、ハロウィンパーティーの話をまだ文哉くんにしていなかったな、とどうでもいいことを思った。



◇◇◇



 結局話をした週の日曜日に出かけることになった。

 いくつかの花屋をめぐり、幸福の木と呼ばれるガジュマルの小さな鉢植えを買った。白い陶器(とうき)の鉢はシンプルなのに少し変わった形をしていて、育てるのも比較的楽だと言われて決めた。本当はお姉ちゃんへのプレゼントにしようと思ったけれど、渡さずに自分で育てている。ちょうどなにかを育てたいと思っていたところだったし、花をつけない観葉植物なら大丈夫だろう。

 かわりに、プレゼントはオリジナル雑貨店で見つけたメガネケースといい香りのするハンドクリームにした。

 誕生日には少し早かったけれど、それまで渡さなければいい。

 土曜日の朝九時過ぎ。バスに乗って最寄り駅まで向かいながら、やっぱり、今日に出かけることにならなくてよかったな、と考えた。

 きっと、わたしは後悔して、楽しむことができなかっただろう。

 文哉くんに用事があってよかった。先週一週間も、彼と顔を合わせたのは一度だけだった。なにやら忙しいらしく、たった三十分だけ。疲れが溜まっているようにも見えたけれど、大丈夫だろうか。毎日やりとりしているメッセージや電話では、いつも通りだけれど。

 停留所についてバスを降りると、一軒の花屋に向かった。

「すみません、花束をお願いします」

 中に入り、店員に声を掛ける。奥から髪の毛を後ろでひとつに纏めた三十歳くらいの女の人が顔を出し「お待ちしていました」と言った。

「いつもありがとうございます」

 二年ほど前から毎月花束を買っているので、すっかり顔と名前を覚えられてしまった。店員のお姉さんはなにも言わなくても旬の花を選び、ふたつのあまり大きくない、わたしが求めるサイズの花束を作ってくれる。

 ネリネと言われる白い花は、光が当たると花びらがきらきらと輝いて見えた。アキイロアジサイという、シックな色味のあじさいがネリネの白さを引き立てている。花の説明とともに、店員のお姉さんは「どうですか?」と笑顔を見せた。やっぱりプロの作ったものはきれいだ。

 それを抱きかかえて電車に乗り、目的地に向かう。

 ――『……風花、もしかして、伝えてないの?』

 あのセリフを口にしたときの友梨を思いだす。

 ――『どうすべきなのかは、わからないけど、でも、いいの?』

 友梨は戸惑い狼狽えながら言った。

 ――『このままなにも言わないつもり?』
 ――『黙っているのも、覚悟がいるよ、風花』
 ――『風花が、苦しくなるよ』

 友梨のセリフはどれもわたしのために言ってくれていた。

 文哉くんに、すべてを伝えることが正解か不正解かはわからない。それは、友梨も理解している。どちらを選んでも、最悪の結末を招く可能性はある。

 友梨は、どっちにしても、覚悟がいることを言っていた。そして、それが、わたしにはないことに気づいていた。

 わたしが文哉くんに伝えていない理由は、ただ、言いたくないというだけ。そこに、わたし決意も覚悟もない。

 だから、ときに申し訳なくなったり苦しくなったりする自分がいる。このままでいいのかと、自分に問いかけてくる声が聞こえるときもある。

 結局、わたしは、いまだどこにも歩みだしていない。
 でも、それでいい。
 今のままで、いい。

「……アネモネ、育てようかな」

 電車の中でひとりごちた。その言葉がわたしに安心感を与えてくれる。
 わたしは、そんな最低な人間なんだ。

 文哉くんがわたしにウソをついたのはなにか事情があるのだろう。本当のことを言えないのは、わたしのためなのでは、と思っている。

 楽観的すぎるかもしれない。
 そう思いこみたいだけなのかもしれない。
 そういうことにして、目をそらしていたい。


 問い詰めることができないのは、わたしにも隠していることがあるからなのに。
 自分にどこかやましいことがあるから、人に踏み入ることができないんだ。


 文哉くんを好きだと、彼がいてくれて幸せだと間違いなく感じている。
 けれど、心の最深(さいしん)では、文哉くんを好きなわけじゃない、と思っている自分がいる。





◆ 10月 ◆