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 雨は、窓からの景色をモノトーンに見せる。

 廊下で騒いでいるほかのクラスの男子をよけながらトイレへ。
 最近は昼休みが終わる前になるといつも気持ちが悪くなってしまう。生ぬるいため息が無意識にこぼれ、机に突っ伏したくなるほどだるくなる。

 ストレスのせいで胃がおかしくなっているのだろう。

 毎回トイレの個室に籠もるけれど、吐き気はない。
 ただ便座に座って体の不調の波が収まるのを待つだけ。

 今日もようやく落ち着いたのを確認し、廊下へ出るとさっきよりも雨の音は強くなっていた。
 もうすぐチャイムが鳴る時間なのだろう。自分の教室に戻っていく生徒が扉に吸いこまれていく。

 ふと、向こうから風花が歩いてくるのが見えた。

 ドキッと足を止めてしまう自分が情けない。
 あの雨の日以降、風花は部活には来ていない。理由はいろいろ。

『用事があって』

『宿題が大変で』

『友だちと買い物に行く』

 どれも友梨伝いで僕に知らされることだった。
 彼女が僕に気づくのがわかる。

「やあ」

 なんて似合わないセリフを吐く僕に、風花は足早に駆けてくる。

「校舎の中で会うなんて新鮮だねー」

 先日の気まずい雰囲気などなかったかのように笑顔の風花。気づかれないよう安堵の息を漏らした。
 大事そうに両手に抱えているのは音楽の授業で使うテキスト。

 僕の視線に気づいたのか、
「花壇行ってたら遅くなったの」
 照れたように風花は言った。

「花壇?」
「アネモネの球根、外に干しっぱなしだったから。屋根はあるけど念のため倉庫に入れてきたの」

 風花がはおっているカーディガンの肩の辺りがたしかに濡れていた。

「あ、ごめん。そこまで気が回らなかった」
「ううん。わたしの性格って、一度気になるとだめなんだよね。自己満足だから気にしないで」

 前と変わらず明るい風花に胸を撫でおろしたのもつかの間、
「今日は部活、来られそう?」
 という僕の質問に風花の表情が一瞬曇るのを見逃さなかった。

「今日は用事ができちゃって、ごめんね」
「そうなんだ」
「チャイム鳴っちゃう。わたし、行くね」

 パタパタと駆けていくうしろ姿を見送る。

 好きな人のウソならわかってしまうのが、うれしくて悲しい。


 僕の話を聞き終えた友梨の第一声は、
「知らない」
 だった。

 あのあとも、ずっと風花のことが気になり、友梨にさりげなく訊ねることにしたのだ。

 もしも、風花があえて部活に来ないようにしているのなら、それは僕のせいだ。
 『無理して笑わなくていいんじゃない』なんて言うべきじゃなかったんだ。

 あんなこと言われたら、どんな顔や態度で接すればいいのかわからなくなってしまう。
 毎日のように猛省(もうせい)しているけれど、それ以上に風花に会いたい気持ちが募るなんて、自分勝手すぎる。

 この教室から風花のいる五組までは数十メートルの距離。休み時間や放課後、会いにいこうと思えばいつだって行けたはず。

 なにかと理由をつけて避けているのは僕も同じだ。
 単なる臆病(おくびょう)で、だけどウジウジ悩んでばかりで……。

 自分のことよりも風花が気になる。存在は日に日に大きくなり、一方でだめな自分はちっぽけに思える。

 ドラマや漫画はこんな気持ち、教えてくれなかった。

「知らないって本当に?」

 先生みたいに教壇に立ち腕を組んでいる友梨にもう一度訊ねる。
 今日の放課後、友梨に残ってもらうよう頼んでいたのだ。

「知らないしわからない、教えない」
「なんだよそれ、『教えない』ってことは知っているってことじゃん」
「うっ」

 言葉に詰まった友梨は、昔からウソをつくのが苦手だった。友だちならなにか知っていると勘をつけたのは正解だったらしい。

「もしも知っていたとして、なんで教えなくちゃいけないのよ。コジンジョーホーだよ」
「たったひとりの部員だしさ、部長として――」

 違うな、とすぐに自分でわかるほど薄っぺらなコーティングをした言いわけだ。
 言葉の途中で口を(つぐ)む僕を友梨がいぶかしげに見てくる。

 風花を好きになってから、自分を誤魔化すことが多くなった。
 それは苦しくて苦くて、ささやかな幸せも感じるという複雑な感情。

 自分でも処理できないから、こうしてウソの言いわけを繰り返している。
 相手を好きになるほどに、自分のことをきらいになるような恋。

 ――僕が、風花を傷つけたんだ。

「違う、今のは間違い。部活とは関係なくって、ただ……心配なんだ」
「うん」

 うなずく友梨の表情が少し緩んでいた。次の瞬間、僕のお腹に友梨のパンチが入った。
 身構えてなかったせいで鋭い痛みが走り、うずくまりそうになる。

「痛い、なにするんだよ!」
「それくらい我慢しなさいよ。カツを入れてやったんだから」

 両腕を腰に当てた友梨が人差し指を真っ直ぐこっちに伸ばしてきた。

「風花とスズッキイはなんか似てるよ。不器用なところもそっくり。さっさと自分で聞いてきなさい」
「でもさ、聞かれたくないこともあると思うし」
「聞いてほしいと思っているかもしれないでしょ。子どものころのスズッキイはもっと素直だったぞ」

 ふふ、と笑うと友梨はカバンを肩にかけると教室を出て行く。廊下に出た友梨が振り返った。

「あの子、部活には行ってないけどさ、夜まで家にも帰っていないんだ。だから自分の教室にいると思うよん。じゃあね」

 え、と口にする間もなく友梨の足音が遠ざかっていく。


 意を決して五組の教室に顔を出したのは十分後のこと。
 友梨の言った通り、ぽつんと真ん中の席に座っている風花。
 いつだって見つめることができるのはうしろ姿ばかり。顔を見れば、自分の感情を隠してお互いに笑っているのかもしれない。

 僕たちはやっぱり似ているのかも。いや、そう思いたいだけなのか?

 わざと足音を立てて近づくと、風花が驚いた顔で振り向いた。

「隣、いい?」

 答えを聞くよりも先に風花の隣の席に腰をおろしていた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 風花の手元には園芸部のマニュアル本があった。コピーをしたらしく真っ白い用紙に印刷されていて、赤いペンでたくさんの書きこみがあった。

 恥ずかしそうに裏返してから、風花は目を伏せた。

「部活行けてなくて、ごめん……ね」
「全然いいよ。体調、大丈夫?」
「あ、うん……」

 歯切れ悪くうなずいた風花を見て、なぜか心が落ち着くのがわかった。

「聞いてほしい話があるんだ」

 答えを待つこともせず、「あのさ」と言葉をつなげた。

「この町に来たのは親の離婚のせいなんだ」

 突然の話題に風花が「え」と声にせずに口を動かした。
 ゆっくりと顔をあげた彼女に、僕のほうが驚いている。

 なんでこんな話をしているんだろう。

「ご両親……離婚しているの?」
「母親についてこの町に来たんだ。離婚の理由はよくわからないけど、母親は納得しているのかやたら明るい。弟は中学をサボりがちだけど放置してる。仲が悪いわけじゃなくて、お互いに干渉(かんしょう)しないのは昔からだから」
「そうなんだ……」
「僕も弟みたいにストレスが表に出せればいいんだけどね。なんだか、最近体調を崩しがちなんだ。意外にダメージを受けているのかも」

 風花は戸惑いを顔に浮かべている。突然こんな話聞かされても困るだろうし、どう対応してよいのかわからない感じだった。

「『花には人を元気にさせる力がある』ってばあちゃんが昔よく言っていたんだ。実際そうだと思うし、土をいじったり草むしりしているとなんだか安心できる。だから、園芸部に入った。一種の鎮痛剤(ちんつうざい)みたいなものなのかも」
「うん……」

 小さくうなずく風花を守りたいと思った。

「こないだは、無理して笑っているなんて言ってごめん。あんなこと言うべきじゃなかった」
「ううん、全然……」
「園芸部に入ってよかったって思ったのは、風花が入部してくれたから。あのままじゃ、ひとりで全部やらなくちゃいけなかったからさ」

 風花がいてくれるから、毎日がんばれる。
 恋とか愛よりも先に、彼女のためにできることをしたいと思った。

 エゴ丸出しの気持ちなのに、そう思える自分がなぜか誇らしくもあった。

「風花を本当の笑顔にしたい。そのためには、風花の悩みも聞きたいんだ」

 瞳を少し開く風花は、すぐに長いまつ毛を伏せてしまう。

「うん……」
「すぐにじゃなくていい。言えるときまで待ってるから。それまでは僕の悩みを聞いてもらうことにしようか」
「ふふ。それって面白いね」

 作り物じゃなく、本当の笑みを浮かべてくれた気がした。

「今日じゃなくてもいいよ。少しだけ考えてみて。部室でいつでも待ってるから」

 椅子から立ちあがる僕に、風花はなぜか自分の左手の指を開いた。
 まるで『ストップ』と言われているようで、あっけなく僕は足を止めた。

「……わたしの左手、どこか変なのわかる?」

 思ってもいないような質問に、再び椅子に腰をおろした。
 じっとその細い指先の辺りを観察する。

「べつに変じゃないよ」

 そう言う僕に、風花は右手の人差し指で左手の中指の辺りを指し示した。

「ここ、少し曲がってるの」

 見ると中指がほんの少し内側に曲がっているように思えなくもない。首をひねる僕に、風花はそっと手を机に置いた。

「小さいころからずっとピアノを習ってたの」

 鍵盤を操るように風花の美しい指が机を軽やかに叩いた。仕草とは反対に、どこか重い空気が教室を浸している。

「お姉ちゃんとふたりでよくピアノを弾いてたんだ。将来は『姉妹でピアニストになろう』って約束をしていたの。近所迷惑にならないよう、毎晩七時まではふたりで練習をしてた」
「へぇ、すごいね」
「ピアノを弾く時間は楽しくて、全然いやじゃなかった。指先から音が鳴っているのが魔法みたいに思えたの」

 そこまで言ってから風花は言葉を止めた。

 ゆっくり首を振ってから大きく息を吐き出した彼女の顔に、もう笑みは浮かんでいなかった。

「でも、二年前にね……。二階の廊下のところでお姉ちゃんと言い合いになったの。今思えばた他愛もない理由だったのに、お互い興奮しちゃって、最後は掴み合いになっちゃったんだ」

 風花の唇が、再度躊躇(ちゅうちょ)したように動きを止めた。しんとした空気に自分の呼吸する音がやけに大きく聞こえている。

「わたしが……お姉ちゃんを突き放したと思う。だけど、その反動でバランスを崩したわたしのほうが階段を転げ落ちたんだ。それで、この指を骨折したの」
「風花……」
「お姉ちゃんはすごく泣いてて、何度も謝ってくれた。もちろんわたしも泣いて謝ったよ。それで終わりのはずだった。でも、骨折が治ったら……ピアノが弾けなくなっていたの」

 顔を上げた風花の瞳に涙がいっぱい溜まっていた。
 今にもこぼれそうに光っていて、だけど目をそらせない。

「指が、痛むの?」
「違う。全然痛くないよ。ピアノも普通には弾けた。でも、何度やっても左手の中指にだけ力が入らないの。バランスも取れなくなっていて、強いメロディを鳴らすことができなくなっちゃったんだ」
「そのことをお姉さんには……」

 乾いた声で訊ねる僕に、風花は「ううん」とうつむいた。

「言ってない。お姉ちゃんはきっと、わたしがピアノに飽きたと思ってる。実際わたしもそういうふうに演じている」
「そんな……それでいいの?」
「お姉ちゃんはね、その年にコンクールで二位になったんだよ。たくさんのお客さんに拍手をもらって、ライトの中で輝いてたんだ。わたし……きっと、ううん、たぶん嫉妬(しっと)しちゃったんだよね」

 さびしげな口調に胸が締めつけられる気がした。息が苦しくて何度も大きく酸素を取りこむ。
 そんな僕を気遣うように、風花は首を振った。

「ごめんね、こんな話。だけど、聞いてもらえて少しすっきりした」

 ウソだと思った。だったらこんな悲しい顔はしないはず。

「今でもお姉ちゃんは音大を目指してピアノを続けている。『あんたもやればいいのに』なんて言ってくるんだよ」

 ふう、と肩で息をついた風花が、「でも」とつぶやくように口にした。

「やっぱりピアノの音を聴くのはつらい。だから、七時までは家に帰らないことにしてる。わたしが家に帰りたくないのはそういうことなの」

 風花が僕を見て言葉を続ける。

「無理して笑うのはよくないよね。でもさ、悲しい顔もできないじゃん。だから家ではいろんなわたしを演じているの。『ピアノに飽きたわたし』『部活が忙しくて帰れないわたし』『休みの日も家にはいないわたし』……どんどんわたしじゃないわたしが増えている気がする」

 なんて自分勝手な言葉を投げてしまったのだろう。悩みに対する答えも用意していないのに話をさせるなんて最低だ、と思った。

「あ、違うよ」

 僕の考えを読むように風花が右手を横に振った。

「このあいだ言われたことも一理あると思ったの。家だけじゃなくて学校でも、無理していることは自覚していたから」
「なにも知らなくて、ごめん」
「いいっていいって。なんか、ズバリ言われちゃったから、部室に顔を出しにくくなっちゃったの。でも、今日来てくれてうれしかった。こういう話、友梨以外とはしたことがなかったから」

 (はな)をすすった風花が目尻を人差し指で拭った。
 さびしく机の上に置かれた風花の左手の中指に自分の両手をそっと重ねることに、勇気なんて一グラムもいらなかった。自分の意思とは関係なく、ただお腹の底から生まれる感情に体が動いていた。

 冷たい指先が風花の苦しい心を表しているみたいだ。少しでも和らぐようにただ願いをこめた。

「こうやって魔法をかけられたらいいのに」
「……うん」

 くぐもった声でうなずく風花。彼女の左手が僕の両手の上に置かれた。あまりにも小さい手。

「僕がそばにいるよ」

 今、大きな(うず)がお腹の中で生まれている。

 それはずっと前、そう、風花に出会った日からあったのかもしれない。
 どんどん成長していく感情が僕を幸せにし、同じくらいせつなくさせていたんだ。

「僕といるときは、いつだって本当の風花でいてほしい」
「うん。でも……できるのかな」

 不安げに瞳を揺らす風花に、僕はゆっくりと首を縦に振った。

「悲しいときは悲しい顔をすればいい。つらいとき、苦しいときもそのまま見せてほしい」

 もしも僕がきみの不安を取り除けるならば……。
「きっとね」
 風花の唇が動くのが視界の端に映っている。
「魔法はかかったと思うよ。ありがとう」
 ゆっくりとその顔を見ると、泣き笑いの表情がそこにある。

 きみの毎日を、もっと幸せな感情で埋め尽くしてあげたい。
 そのためなら僕は、命を投げ出したって惜しくない。本気でそう思った。

「風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい」

 思うそばから、気持ちが言葉になっていくようだ。止められないし、止めたくない自分がいる。

 今、僕はきみに伝える。

「きみのことが好きなんだ」
 と。