わたしにとって春は一年で一番好きな季節だ。なのに、春が一番短い気がする。
汗ばむ陽気に服装を間違えたな、と思いながら上着を脱いで半袖になる。まだ五月になったばかりなのに、太陽が真夏のように燦々と照り輝いていた。
「おっはよー、風花」
校舎を目指して歩いていると、背後から大きな声で名前を呼ばれて振り返る。と、倫子がぶんぶんと大きく手を振ってわたしに駆け寄ってきていた。胸元まである髪の毛の巻きが今日は少しゆるいなと思いながら立ち止まって彼女を待つ。
「おはよー。どうしたの機嫌いいじゃん」
「昨日の合コン最高でさー! 風花も来ればよかったのにー」
「わたしはそういうの苦手だからなあ。最高だったってことはいい感じの男の子がいたの?」
わたしの質問に、倫子は「まあね」と言ってにやりと笑った。
倫子とはこの学校に入学してから出会った。初対面から、まるで幼いときから一緒に育った幼馴染のような雰囲気で話しかけてきてくれたことで、あっという間に仲良くなった。
その持ち前の社交性で、倫子には友だちが多く、その伝手を活用してしょっちゅう合コンに参加している。どうやら学生のあいだに絶対彼氏を作りたいらしい。
「今度こそ彼氏ができるに違いない。絶対彼も私に気があるはず。話の盛り上がりが半端なかったもの」
「ふふ、前も同じこと言ってたけどー?」
「前は勘違いだったの。今回はマジだから!」
うまくいくといいねえ、と答えると、「心がこもってないし!」と倫子に怒られてしまった。そんなつもりはなかったのだけれど、頬を膨らます倫子を見て思わず噴きだしてしまう。
彼氏、か。
心の中でつぶやいて、そばにある花壇に視線を向ける。
花壇にはまだアネモネが咲いている。先月末くらいには、色とりどりのアネモネが花壇を埋め尽くしていてとてもきれいだった。今は半分ほどになってしまったけれど、きれいなのは変わらない。
白が一番好きだけれど、赤やピンク、紫なんかも映える。
こんなに鮮やかな、明るい色をしているのに、花言葉は『はかない恋』だなんて。『あなたを愛する』という意味もあるらしいけれど、どちらかというと悲しい意味のもののほうが多い。そのせいで〝愛する〟という意味も物悲しい意味に感じてしまう。
「あれ? 風花?」
ぼんやりとピンクのアネモネを眺めていると、隣に誰かが並んでわたしの名前を呼んだ。優しい声色で誰だかすぐにわかる。顔を上げると同時に「文哉くん」と呼びかけた。
「またアネモネ見てるの?」
彼は目を細くして、本当にその花好きだなあ、とつぶやきながら近づいてくる。
はっとして隣を見ると、倫子が驚いた顔をしていた。目が合うと、にやりと不敵な笑みを見せる。
「じゃあ、私先に行くわ」
「え? あ、うん」
ぽんぽんっと肩を叩かれ、ついでに「先月話しかけられたとか言ってた男の子だよね? 名前で呼び合っていい感じじゃん、がんばれ」と長い耳打ちをされた。
「ち、違うよ、そんなんじゃ」
「いーからいーから、じゃあね!」
わたしの否定を聞くことなく、倫子はまるで自分のことのように嬉しそうに軽い足取りで去っていった。
あんなふうに喜んでくれるのはうれしいけれど……あとで誤解をとかなくちゃ……。
「いいの?」
文哉くんは小首をかしげてわたしの隣に並び、倫子の背中を見送る。
「あ、うん。大丈夫。あの、なんかごめんね、文哉くん」
「え? なにが?」
倫子の雰囲気から、わたしがなにに対して謝っているのかわかっているはずなのに、微笑むだけで知らないふりをしてくれた。
彼は大人っぽさと子どもっぽさの両方が混じり合ったような不思議な雰囲気を纏っている。常に余裕を感じる。
わたしのことも、彼は自然に「風花」と呼ぶようになった。そして、わたしが彼を鈴木くん、と呼ぶと、「下の名前で呼んでよ」と言った。その流れが自然で、そのとき、この人は女の子にもてるだろうなと思った。
なにより、彼は優しい。
初めて出会ったときから。
「なに? じっと見て。顔になにかついてる?」
「あ、いや、初めて話したときもアネモネの花壇の前だったなって」
つい、わたしよりも頭ひとつ分ほど身長の高い文哉くんの顔を凝視してしまった。はっとして目をそらし、視線を花壇に向ける。
――『アネモネの花言葉を知ってる?』
蘇る、あの日。
アネモネのかわいさに惹かれてじっと見つめているときに、彼は話しかけてきた。あまりの驚きに、一瞬息が止まった気がした。
正直言うと、彼は怪しさ満点だった。花を見つめているだけのわたしに校内であっても突然声をかけてくるなんてナンパみたいだ。おまけに、自分が女の子の視線を集める容姿であることを自覚していそうな男の子だったから。からかわれているのかもしれないと警戒心丸出しで彼に向き合った。
けれど、その印象は、数分ですぐにひっくり返った。
失礼なことを考えてごめんなさい、と謝りたくなったくらい、彼はとても自然体で、温かな口調で、頬を緩めるように笑って、わたしにいろんなことを教えてくれた。花言葉や、花の特徴。そして育て方なんかも。
それ以来、こうして話をするようになった。校内で出会ったらお互いに挨拶をして、しばらく他愛ないことを喋る。授業が終わったあとはほぼ毎日のように顔を合わせている。
校内の、どこかの花の前で。
文哉くんは、花の知識が豊富だった。話をするたびに感心するほどだ。花言葉にはとくに詳しく、聞けばだいたいのものは答えてくれる。
彼が花に詳しくなければ、こんなに親しくはならなかっただろう。
でも、それだけの関係だ。
彼の名前以外で知っていることは少ない。住んでいる家がどこなのかも、花以外の趣味も、普段はどんな生活を過ごしているのかも、聞いたことがないしわたしも聞かれたことはない。
なんでわたしなんかを気にかけて、こうして親しく話しかけてくるんだろう。なにか目的があるのではないかと思うほど優しい。けれど、彼からは一切邪なものは感じられなかった。
まるで、わたしを見守っているかのように思うときがある。
ただ、今見ている彼が彼のすべてだと思えない。
つまり……不思議な男の子。
「鉢植えはもう違う花にかわったね。風花、残念なんじゃない?」
「そうなんだよね。アネモネ、きれいだったんだけどなあ……」
先月には、校舎のそばにアネモネが植えられていた鉢が並んでいた。花壇にたくさん咲き並んでいるのも好きだけれど、鉢植えの中でぽっと光を灯すように花が開いている姿もかわいらしかったのに。
ゆっくりと花壇から鉢植えの前に移動して、花を覗き込んだ。
「でも、これもこれでかわいいよね」
「風花は花を見るのが好きだなあ」
「見るしか出来ないからね。育てるのも好きだけどあんまり向いてないみたい」
言われたことだけをするしかできないので、あれもこれも手入れができる人は本当に尊敬する。
でも、中学まではここまで花に興味があったわけじゃない。学校の花壇なんてろくに見ていなかったので、どんな花が咲いていたのかも記憶にない。なにもなかった、なんてことはないはずなのに。わたしの知らないところで誰かが手入れをしていたのだろう。毎日、丁寧に。
そんなこと、高校に入ってアネモネに一目惚れをするまで、考えたこともなかった。
今は花の美しさを保つために、どれほどの愛情を注いでいるのかをわたしは知っている。だからこそ、見るのが好きになった。
「かわりのこの花ってパンジーだよね?」
紫の花びらとそれよりも少し小さな白色の花びらは、まるでふたつの花が重なってひとつになっているみたいだ。そして、中央の黄色い部分は鮮やかに色づいていた。きれいな配色の花が、敷き詰められたような葉のなかにぽつぽつと浮かんでいる
「あれはビオラだと思うよ」
「え? そうなの? パンジーじゃないの?」
ビオラの名前は聞いたことがあるし、多分、写真を見たこともある。そのとき、パンジーに似てるんだなあと思ったけれど、鉢植えのあの花は絶対パンジーだと思った。一体なにが違うんだろう。
驚くわたしに、文哉くんは「小さいからね」と言った。
「パンジーよりもビオラのほうがこぶりなんだよ。と言っても今は大きなビオラもあるんだけど……まあ、鉢植えの花はかなり小さいからビオラかなって」
「大きさだけなの?」
魚のブリみたいなものなのだろうか。小さかったらハマチ、みたいな。多分違う。
「そんな感じ」
本当に詳しいなあ。
感心して「へえ」と声を漏らしながらまじまじとビオラを見つめる。
「そろそろ授業じゃない?」
「え? あ、そっか」
文哉くんに言われてはっと顔を上げた。そして自然と並んで校舎に向かう。授業が始まるまでは、まだ少し余裕があるので、ゆっくりと。彼もわたしの歩幅とスピードに合わせて歩いてくれているのがわかる。
「さっきのビオラの花言葉も、わかる?」
「いろいろあるけど、『信頼』とか『小さな幸せ』とか」
同じ春の花なのにアネモネとは大違いだ。
「文哉くんは、花に詳しいよね、ほんと」
「いろいろ教えてもらったからね」
そっか、と答えるとふたりのあいだに会話がなくなった。でも、春から夏に変わる直前のあたたかな風が、気まずさを感じさせなかった。
彼との時間は、なんだか懐かしさと心地よさをわたしに与えてくれる。目が合うと「なに」と目を細めて口の端を持ちあげる彼からは、まるでわたしのことを何年も前から知っているかのようなあたたかい空気を感じる。
そして、わたしも。
彼のことをずっと前から知っていたような、そんな気持ちを抱く。
「背が高いなって思っただけ」
やっぱり、不思議な男の子だな、と心の中でつぶやいた。
日が沈んだころに家に帰宅すると、ドアを開けた瞬間、わたしを出迎えるように心地よい音楽がかすかに聴こえてきた。
「ただいま、今日はベートーヴェンだね」
「おかえり。課題曲なんですって」
リビングに入りお母さんに話しかけると、お母さんがキッチンから顔を出して答える。晩ご飯がなんなのか、を訊く前に音楽の話をするのはいつものことだ。
二歳年上のお姉ちゃんは、幼いときからずっとピアノを続けている。趣味や習い事の範疇を飛び越え、プロとしてやっていきたらしい。
それはきっと可能だろう。贔屓目なしに、そう思う。昔、発表会で会場の喝采を浴び、先生にも「才能がある」と太鼓判をもらったくらいだ。
「ほんと、お姉ちゃんはえらいよね」
リビングの隣にある、簡易な防音室から漏れてくる音楽に耳を澄ませながらつぶやいた。
ベートーヴェンの有名な、ソナタ 第21番「ワルトシュタイン」ハ長調。細かな指使いで奏でられるそれが、わたしは好きだ。漏れてくる音だけでは小さすぎて、お姉ちゃんの表現まで感じることはできない。けれど、お姉ちゃんの調子はわかる。今日はかなりいい感じだ。音がなめらかだ。
「さすがに、もうそろそろグランドピアノ買わないとねえ……」
お母さんが頰に手を当てて、ふうっとため息をついて言った。
もうかれこれ五年くらい前から聞かされている悩みだ。お姉ちゃんのことを考えれば、グランドピアノを買うべきだとわたしも思う。いまだにアップライトピアノだなんて、お姉ちゃんくらいだろう。きっと同級生はみんな立派なグランドピアノと完璧な防音室で練習に励んでいるに違いない。
とはいえ、グランドピアノは高い。両親がカタログを手に頭を抱えていたときに聞いた話では数百万もするらしい。それをポンと購入できるほど我が家は裕福ではない。
――『弘法筆を選ばず、だよ。べつにいいってそんなの』
――『あのピアノに思い入れがあるんだからあれがいいの』
お姉ちゃんは悩む両親にあっけらかんとそう言った。その言葉にウソはなく、お姉ちゃんはアップライトピアノしかなくても数々のコンクールで入賞している。だからこそ、買うべきなのではないかとお母さんは悩んでいる。そして、問題がピアノだけではないからこそ。いや、本当の悩みはピアノではなく、それに付随する、もうひとつのほうなのだろう。
防音、だ。
今は完全防音室ではない。それゆえに、お姉ちゃんは七時から八時のあいだまでしか練習をしない。コンクール前などは、ピアノの先生の家に泊まり込むという手段を取っている。
……音楽をするのにこんなにお金がかかるなんて、昔は知らなかった。
うーんとずっと悩んでいるお母さんのそばで、冷蔵庫から取り出した紅茶を飲みながら聴こえてくるメロディに耳を澄ます。そして、曲が終わりしばらくすると「あ、風花おかえり」とお姉ちゃんがリビングに顔を出した。
長い髪の毛がさらりと揺らし、お姉ちゃんはダイニングテーブルに着いた。ふうっと一息ついて「疲れたあ」と背伸びをし軽く手のマッサージを始める。
「頑張ってるね、相変わらず」
「まあね。練習はうんざりだけど」
お姉ちゃんは辟易している、と顔に書いたような表情をしてからいたずらっぽく笑った。そんなこと言って、ピアノが好きで好きでたまらないくせに。
夢に向かって突き進むのは、簡単なことじゃない。毎日毎日ピアノを何時間も弾くなんて、好きでなければ続けられないことだ。
お姉ちゃんの練習が終わるタイミングに合わせて準備されていた晩ご飯がダイニングテーブルに並べられる。今日のメニューはスペアリブとズッキーニ、サラダと味噌汁。昨日わたしがお母さんにリクエストしたもので、それを見たお姉ちゃんは「うわ、がっつり!」と顔をしかめた。そういえば最近ダイエットをしているって言っていたのを思いだす。
「ピアノ弾くも体力使うんだから、エネルギー補給しないと」
「だったら風花はそんなに食べる必要ないんじゃない?」
「わたしはピアノのかわりに毎日運動してるからいいんですー」
ふふん、と誇らしげに笑うと「いつ運動してんのよ」とお姉ちゃんが笑った。わたしたちのやりとりに、お母さんが「いつまでも子どもみたいな言い合いしないの」と呆れて言う。
「けんかするほど仲がいいって言うじゃない」
お姉ちゃんは「ね?」とわたしを見て白い歯を見せた。
たしかに、わたしたちは仲がいい姉妹だと思う。わたしが中学生になるまではよく口げんかをしていたけれど、さすがに今はもうない。こうして軽口を叩きあうだけだ。
お母さんの得意料理でわたしの大好物のスベアリブは、じっくり煮込まれていてお肉が柔らかい。頬張るとタレと絡み合って満足感に満たされる。お姉ちゃんはお肉の気分ではないのか、わたしよりも箸の進みが遅い。文句を言いつつも、わたしと同じでお肉が好きだからぺろりと食べつくすのに。
「体調悪いの?」と訊くとお姉ちゃんは「ねえ」とズッキーニをひとくち食べてから意を決したような表情をわたしに向けた。
「風花、今度ピアノ弾かない?」
お肉がポロンとお皿に落ちる。
「――なに、急に。やだよお、弾かないよ。っていうか弾けないよ」
「えー」
えー、と言われてもわたしも困る。
わたしがお姉ちゃんと同じようにピアノを習っていたのは中学までのことだ。あっさりと、わたしはピアノを手放した。それからほとんど鍵盤に触れていない。指の関節はかなり固くなってしまった。
「風花もお世話になったピアノの山脇先生。今度五十歳になるんだよね。お祝いに風花とアンサンブルやりたいなあって。先生も風花が弾いたら喜ぶと思う」
「無理だよ、絶対手、動かないもん。しかもお姉ちゃんとだなんてバランス悪すぎるって。プロと初心者みたいなもんじゃん。やーだあ」
遊びならまだしも、そんなお祝いの席で弾くなんて絶対無理。
ぶんぶんと首を左右に振り、おまけに舌も出してみせる。お姉ちゃんは「えー」「なんでよ」「そんなことないって」「先生すごくうれしいと思うのに」となかなか諦めてくれない。しかもそれを聞いていたお母さんまで「いいじゃない」とお姉ちゃんの援護射撃をしてくる。
二対一は分が悪い。
「曲もできるだけ簡単なのにするからさ。ほら、『スペイン』のタンゴとかどう? 風花、あの曲昔好きだったよね」
「好きだったけど……わたしもう教室辞めてずいぶん経つし」
髪の毛をいじりながらどう断ろうかと考える。
先生にはかなりお世話になったし、お姉ちゃんがいるので今もまったく交流がないわけではない。よく練習をサボることで何度か怒られたことはあるけれど、優しくて、わたしは大好きだった。
きっと、お姉ちゃんの言うように、わたしがピアノを弾けば喜んでくれるだろう。
でも。
お姉ちゃんは知らないから。お姉ちゃんには知られたくないから。
「彼氏とやりなよ。先生がキューピットなんだしさ」
お姉ちゃんと今つき合っている彼氏の斎藤さんも、同じ山脇先生のピアノ教室に通っていた。中学生のときに先生が生徒を集めて開催したクリスマスパーティで出会い、ふたりは同い年ということで親しくなりつき合った。
ふたりとも今もピアノを続けているので、わたしとするよりも遥かにきれいな音色で、完成度が高くなるはずだ。曲もわたしに合わせる必要がないので、もう少し派手で、お祝いに似合うものを演奏することができる。
なにより、自分がきっかけで結ばれたふたりの絆を見せつけるようなアンサンブルは、きっと先生も喜ぶだろう。
「盛り上がるでしょ、そっちのほうが。お似合いだしさ」
そう言葉をつけ足すと、お姉ちゃんは悲しそうに眉を下げてしまった。
そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
「そう、かもしれないけど、でも……」
「あ、でもちゃんとパーティには呼んでよね!」
リビングの空気が湿っぽくなるのを察して、お姉ちゃんのセリフを遮り満面の笑みを顔に貼りつける。
「かわりにちゃんとプレゼントも用意しとくからさ。そこは安心して」
他にもなにかサプライズするの?
誰が来るの?
どこでするの?
お姉ちゃんがこれ以上わたしを誘わないように、困った顔をしないように、ペラペラと喋りつづけた。
へらへらと笑いつづけていると、まるでそういう仮面を被っているみたいに思えてくる。お姉ちゃんとお母さんに、今のわたしはちゃんとわたしに見えているだろうか。
無駄に明るくしていると、お姉ちゃんは根負けとでも言いたげに肩をすくめてから「わかった」と言ってくれた。
ほっとすると、無意識に、左手の中指を撫でるように、隠すように手を絡めている自分に気がついた。それをお姉ちゃんに悟られないように自然にほどき、食事に集中する。
こんな話になるのなら、今日は大好きなスペアリブなんか希望するんじゃなかった。味がまったくわからない。もったいない。
◇◇◇
授業が終わった放課後、鉢植えの前にしゃがみこみ、ポケットに入れていた折りたたみの定規を取り出して花に当てた。
「……なるほど、三センチ」
目測で大きさを判断するなんて、やっぱりすごい、と改めて思っていると、背後から「ぶはは!」と噴きだす声が聞こえた。
「なにしてんの、風花」
振り返ると、口元に手の甲を当てて笑う文哉くんがいた。
「あ、いや、その」
恥ずかしいところを見られてしまい、頬が紅潮してしまう。
なんでこんなところを見られてしまうのか……! もう、タイミングが悪い!
餌を求める金魚のように口をパクパクさせていると、文哉くんはくすくすと笑いながら近づき隣に来てわたしと同じようにしゃがんだ。そして、わたしの顔を覗き込む。真っ赤になっている顔を見られたくなくてうつむいてしまう。
「大きさ調べてたの?」
「そう、です。あ、べつに文哉くんの説明を疑ってたわけじゃないんだよ! ただ、なんとなく、測ってみようかなあって」
あははは、と羞恥を隠すように笑いながら顔を上げると、文哉くんと視線がぶつかった。その瞬間、心臓がぎゅっと握られたみたいな衝撃を受ける。
――なんで……そんな優しい笑みを浮かべているの。
思わず口にしてしまいそうになった心の声を呑み込み、再び鉢に視線を戻す。さっきと違った意味でわたしの顔は赤く染まっている。
そんなふうに、わたしを見ないでほしい。
どうしていいか、わからなくなる。
「ビオラ、だった」
「うん」
「あ、その、すごいね……」
なにを話せばいいのかわからなくなって、無言になる。文哉くんもそれ以上話を続けることがなく、しばらくのあいだ静寂に包まれた。遠くで、運動をしている誰かの掛け声が聞こえてくる。
いつもなら、文哉くんと一緒にいて会話がないことに居心地の悪さを感じたことはない。だけど、今はずっと彼がわたしを見ているような気がして、落ち着かない。
なにか話してほしい。
そうしたら、この変な鼓動も収まるはず。
そんな祈りが通じたのか、文哉くんは「ネットで調べたの?」と訊いてきた。
「あ、うん。五センチ以下か以上か、以外の違いはやっぱりないんだね」
「最近はそのあいだにパノラっていう品種もあるんだってさ。ややこしいよなあ」
それはややこしい。
まだまだ花については知識がないわたしには、さっぱりわからない。なんで同じ花を大きさだけで区別するのか意味がわからない。
「花言葉は違うんだよね?」
「パンジーはたしか『わたしを想って』とかだったんじゃないかな。色によっても違うけど、それは忘れたなあ。ちなみにパノラは、わかんねえや」
あ、ちょっと口調が砕けた。
それを嬉しく思うなんて、変だ。
「文哉くんでも知らないことあるんだね」
「植物博士だと思ってた? 残念ながらそこまでの知識はないよ。趣味に毛が生えた程度。しかも人から聞いただけだし」
「あはは。でも十分すごいよ」
偉そうでありながら冗談っぽく話す文哉くんに、さっきまでの変な空気が洗い流されて自然に笑うことができた。文哉くんはそれをわかっていたのだろう。
文哉くんはいつも相手の気持ちに寄り添って言葉を選んでいる。空気を読むのがうまいのかもしれない。
……わたしにも、彼のような優しさがあれば、昨日のアンサンブルの誘いももっとうまく断れただろう。お姉ちゃんにあんな顔をさせることはなかったはずだ。
「ビオラの次は、なんの花になるんだろうね」
「六月だから、多分アリウムとかじゃないかな」
アリウムは、一度、耳にしたことがあるような気がした。けれど、どんな花なのかさっぱりわからない。どんな花なのかを訊くと、文哉くんは丁寧に教えてくれた。
普段は落ち着いた雰囲気の文哉くんは、花のことになると一気に饒舌になる。目を輝かせ、ときに懐かしむように遠くを見つめる。
花が好きな、男の子。
それは、それだけでわたしを少し幸せに、そして少しさびしくさせる。
黙って訊いていたけれど、文哉くんははっとした顔をして口を噤んだ。慌てて喋るのをやめたように見えて「どうしたの?」と首をかしげる。
「いや……ちょっと、昔を思いだしただけ」
彼が、はは、と力なく笑うと、わたしたちの背後から生ぬるい風が通りすぎていった。髪の毛がふわりと揺れる。その中にどこかから飛んできたのか、白い花びらが雪のように風に乗ってやってきた。
「わ、なにこれ」
髪の毛にも絡まってしまった気がして頭を払う。
「ウツギ、かな」
「ウツギ?」
何語なのかもわからずきょとんとすると、文哉くんは辺りを見まわしてから「あそこ」と指をさした。その方向に視線を向けると、少し離れた場所に、人の身長くらいの植木が見える。
どうやらあれがウツギ、という名前のものらしい。たしかに白い花がついている。ただ、旬は過ぎたのかまばらだけれど。その花びらが風でわたしたちのところまで飛んできたようだ。
「あんなのあったんだ、気づかなかった」
「風花はアネモネしか見てないからなあ」
そんなことないよ、と言いたいけれど、その通りだ。
これからはもう少し周りの草木にも注目してみよう。知らない花がたくさんあるに違いない。高校に入ってからは多少知識を身につけたつもりだったけれど、文哉くんと話すたびに、知識の「ち」の文字にすら届いていないのだと感じる。
「あれにも花言葉ってあるの?」
「風花、花言葉好きだよね」
「だって、面白いじゃない。それに……最初に知った花言葉がなんだか、すごく悲しい感じだったから、さ。幸せな花言葉、いろいろ知りたいなって」
初めて花に一目惚れしたというのに、『はかない恋』という花言葉だったと知ったときはなんだか切なくなった。もっと前向きになるものがよかった。
でも、アネモネの花言葉が、例えば『ありのままでいい』とか『素敵な日々』とかだったらこれほど他の花言葉に興味をもたかなかっただろう。……そんな都合のいい花言葉があるのかは知らないけれど。
「ウツギは、たしか……『秘密』じゃなかったかな?」
「へえー。なんか意味深でおしゃれ」
本当にそう思ったのに、文哉くんは「適当だなあ」と苦笑した。
また、わたしたちのあいだを風が吹き抜ける。さっきよりも勢いのあるそれに、髪の毛が乱れる。五月だというのに今日は少し肌寒く小さく震えた。
「ねえ、そろそろ帰らない?」
文哉くんは時間を確認すると、すっくと立ち上がった。
いつの間にか、地面にくっきりと描かれていた影がぼんやりと滲んでいるのに気がついた。そろそろ太陽が沈んでしまうのだろう。でも、もう少し花を見つめていたい。それに、帰るにはまだ、少し早い。
「風花?」
「そういえばさっきの、思いだした昔ってどんなこと?」
彼の声が聞こえなかったかのように明るい口調で話を変えた。「気になるから教えてよ」「話途中だったよね」「なにかあったの?」と文哉くんに訊いているくせに話す隙を与えないくらいに口を動かす。
と、彼の手が、わたしに伸びてきた。
笑顔を貼り付けたまま、体がかちん、と固まってしまう。避けようという考えすらも過ぎらなかった。
わたしの髪の毛に、彼の手がかすかに触れる。
たったそれだけのことなのに、体がびりりと震える。ぎゅっと肩に力が入り目をつむってしまった。
「花びら」
「へ?」
ゆっくりと瞼を持ち上げると、立っていたはずの文哉くんは再び屈んでいて、わたしと目線を合わせていた。彼の顔の前には、摘まれた白い花びら。
「髪の毛についてた」
「あ、あり、がとう」
そういう、ことか。
そりゃそうだ。彼がわたしに触れる理由なんて、そのくらいしかない。なのに、やたらと意識してしまった自分が恥ずかしい。自意識過剰だ。
「まだついてる」
さっきのような触れるか触れないかのような繊細な手つきではなく、今度はぱんぱん、と払うように頭を撫でられた。そのたびにひらひらと頭上から白い花弁が落ちてくる。
本当に雪みたい。
彼の大きな手のひらから、ひらひらと舞い散る、粉雪。もしくは、わたしのなかのなにかが落ちているのか。
「ねえ」
どれだけついているのか、とぶるぶる頭を振ると、花びらのように文哉くんの声が落ちてくる。「なに?」と視線を持ち上げる。
文哉くんは、眉根を寄せて、けれど口の端をかすかに持ち上げている。それが、今にも泣き出してしまうんじゃないかと思うほど、苦痛に満ちた表情に見えた。ひどく優しくて、とてもさびしげな、笑み。
なんで、そんな顔をしているのだろう。
「無理して笑わなくていいんじゃない?」
文哉くんの言葉に、え、と声にならない声を発してしまう。
「いや、なんでもない。変なこと言ってごめん」
文哉くんは目をそらしながらそう言って立ち上がりわたしに背を向ける。そして「あ」と言って足を止めた。
「さっきの話。昔のことを思いだしたってやつ」
振り返った彼は、さっき一瞬見せたあの顔は見間違いだったのだろうかと思うほど、いつもの、けれどほんのわずか、子どもっぽさを孕んだ顔をわたしに向ける。
彼は、手にしていた白いウツギの花びらを口元に添えた。
「――秘密」
心臓が、大きく飛び跳ねた。
じゃあ、お先に、と言って歩いていく文哉くんの背中を見つめながら、体内で爆音を鳴らす心臓の音を聞いていた。
なんで自分がこんな気持ちになっているのか、わからない。
一体なにに対して、わたしはこんなに動揺しているのだろう。
両手で顔を覆いながら細く長く息を吐きだす。
落ち着け、落ち着けわたし。こんなのはまるで、まるで。でも、そんなはずはない。彼がちょっと、予想外のことを言ったから、仕草をしたから、それだけのこと――。
「ふーうか」
「うわあっ!」
ぽんっと肩を叩かれて、飛び跳ねる。実際わたしの体は浮いたと思う。絶対。
目を見開いて振り返ると、わたしと同じように目を丸くしている友梨がいた。
「ちょっと、風花驚かさないでよ。心臓飛び出るかと思った」
「……わたしは多分寿命が縮まったと思う」
「縁起でもないこと言わないの」
はあーっと深呼吸を繰り返し、呼吸と心臓を整える。
小学校からの友人である友梨は「あーもう、びっくりした」と言いながら、さっきまで文哉くんがいた場所に、楽器――高校から始めたサックス――の入ったケースを抱きかかえながら膝を折る。
吹奏楽はかなり厳しいので、すぐに辞めてしまうかも、と内心心配だったという友梨は、結果として今も続けているし楽しそうだ。
「さっき、誰かと話してたよね。遠くてよく見えなかったけど」
「ああ、この前倫子と一緒に遊んだときに話した、花言葉を教えてくれた男の子」
友梨と倫子は、わたしをきっかけに親しくなりたまに三人で過ごすこともある。
「すっかり仲良くなってんだー! いいじゃんいいじゃん」
友梨はにやにやとしながらわたしの肩に自分の体を軽くぶつけてくる。そのたびにわたしの体がゆらゆらと揺れる。
「いい感じ? 恋が始まっちゃう感じ?」
どうなの? どうなの? と友梨はうれしそうにする。でも。
「……残念ながら、友梨が想像するようなことは、ないよ」
「言い切れないでしょ、そんなの」
友梨は、苦笑を漏らしながら言った。それに対してわたしは失笑して「ないよ」ともう一度同じ言葉を繰り返す。
友梨は、わたしのすべてを知る唯一の友人だ。
だから、友梨が心配してくれているのはわかっている。友梨は、わたしがいまだに抱えているものが軽くなることを望んでいる。
その気持ちはうれしいし、友梨のためにわたしは少しでも変わっていかなくちゃいけないとも思う。
でも、そんなのできない。今はまだ、したいとも思えない。重い雰囲気にならないように「だってないんだもん」と軽い口調で言い立ち上がる。友梨も同じように体を起こしてわたしの隣に並んだ。
「そもそも、よく知らない人だし、彼だってそんな感じじゃないし」
「でも、誰だってはじめは知らない人じゃない。そのうち芽生えるかもよ?」
たしかにそのとおりだ。
でも、やっぱり無理だ。まだ出会ってから二ヶ月弱で、そんな気持ちにはなれない。相手だってわたしのことはなにも知らないのだ。
訊いて教えてくれるかどうかも、わからない。
逆に、わたしが訊かれたとして、教えるのかも。
「ねえ、風花。楽しいよ、誰かを好きになったり、誰かと遊んだりするのは、さ」
「うん。友梨と一緒にいるの、楽しいよわたし」
「もうー!」
ふふっと笑いかけると、友梨は困った奴だなあと言いながらわたしを抱きしめてくれた。
その優しさに、もうしばらく甘えさせてほしい。
でも、それはきっと友梨を苦しめてしまうんだろう。
今の自分は、家族に見せる仮面とまた別のものを被っているのかもしれないな、なんて思った。そんなはず、あるわけないのに。
視線の先に、さっき教えてもらったばかりのウツギと、わたしの大好きなアネモネの花壇があった。白色が、眩しい。
自分の左手を、自分の右手で包み込む。
――『アネモネの花言葉を知ってる?』
風の中から、彼の声が、聞こえた気がした。
目をつむると、彼の笑顔が脳裏に蘇る。
◆ 6月 ◆
校舎をなぞるように設置されている花壇には、アリウムとシラーが薄紫の花を咲かせている。
アリウムは細い茎の先に丸い花が、シラーは星形やベル形の小花がたくさんついていて、どちらも薄い紫色。花自体は小さくて目立たないが丈夫で育てやすいのが特徴だ。
梅雨時期には外での作業も難しくなるため、桜先輩が去年の冬前に球根をこれでもかというほど植えたそうだ。
夕暮れの校庭を横切れば、長い影も一緒についてくる。
グラウンドのほうからは野球部のかけ声がこだまのように響き、空に昇っていくよう。
毎日、部活の終わりには花壇を見まわっている。ときには右回り、ときにはジグザグにチェックをしていく。
園芸部は花だけでなく樹木も担当する決まりだが、さすがに部員ふたりでは手に負えず、下瓦さんに丸投げしている状態だ。
入部当時は作業着に緑色のエプロン姿でウロウロすることに恥ずかしさもあったけれど、人は慣れる生き物。最近では平気になり、花壇で作業をする僕に『ごくろうさま』と先生が声をかけてくれることも多くなった。
にしても、この高校はほかでは見ないほどに花壇が多い。
水やりだけでも相当な苦労があるだろうから、下瓦さんも大変だろう。
「あ! いた!」
向こうから風花が駆けてくる。さっき二手に分かれて見まわりを始めたところなのに。
「え、もう終わったの?」
「うん」
はあはあ、と苦しそうに息を切らす風花。額に光る汗が、頬の辺りに伝っている。
「走らなくていいのに。って、昨日も言ったよね?」
「あ、そうだった」
今、思い出したかの様子で風花は目を丸くしている。
「もう暗くなってきたし、走っちゃ危ないよ」
「うん。ありがとう」
褒めているわけじゃないけれど……。
部室に向かって歩いていると、ちょうど下瓦さんが用具入れから出てくるところだった。
僕を認めると、あごをクイッとあげた。これは、『こっちに来い』の合図だ。
「お疲れさまです」
ふたりして駆け足で近づくと、下瓦さんは「ん」とひと文字で答える。
最初のうちは苦労した意思疎通も最近ではコツが掴めてきたみたい。
「ガーベラの水やりをしたのは?」
下瓦さんが太い人差し指を交互に動かしたので、
「僕です」
と答えた。
「わたしです」
風花が言う。
「いえ、僕です」
「うるさい! もうどっちでもいい」
太い腕を組むと、下瓦さんは「腐るぞ」そう言った。
水の量が多すぎたということだろう。
「すみませんでした。以後、気を付けます」
きっちり謝罪する。風花が慌てて口を開いたところを、下瓦さんがごつい右手を開いて制した。
「きみは花壇へ」
花壇の手入れをするように、という意味だと受け取る。
「はい!」
慌てて駆け出す風花の頭は、もうアネモネで埋め尽くされているに違いない。走ったら危ないと言ったばかりなのに。
ふたりして見送ると、下瓦さんは体を僕に向けた。
「これ、頼む」
手渡されたのはラベルのはがされた二リットルが入る大きさのペットボトルだった。透明の液体が八割くらい入っていて、ずっしりと重い。
取っ手のついているところを見ると、焼酎が入っていたと思われる。
なんだろう、これ?
疑問が顔に出ていたのだろう、下瓦さんはわざとらしく大きなため息をついた。
「液肥」
最低限の言葉で説明しようとするが、すぐに僕が理解していないと悟ったのか、
「スマホで調べろ」
と、もう歩き出してしまう。
「えきひ、ですか?」
背中に声をかけると、足を止めた下瓦さんがめんどくさそうに振り向いた。
「間違っても飲むなよ。あっという間にあっちに行くぞ」
太い人差し指を上空に向けている。
どうやら『死ぬ』と言いたいらしい。強面で言われると思わずゾッとしてしまう。カクカクとロボットのようにうなずくと、下瓦さんはクワッと顔をゆがめた。
いや……どうやら笑っているらしい。
「四十倍に薄めて使え」
「わかりました」
「東校舎にホースが置かれたままだぞ」
「はい」
「倉庫に種が届いていたから持っていけ」
「はい」
頭にメモをして僕も歩き出す。
言われたことをこなしているとどんどん空が暗くなっている。
下瓦さんの言う通り、明日は雨らしく上空を厚い雲が覆い始めている。
日の入りは徐々に遅くなっているとはいえ、さすがに六時。
もう帰ったほうがいいだろう。
部室の建物が見えたと同時に、脇の花壇にしゃがみこむ風花のうしろ姿が見えた。
自然に足が止まってしまう。
――痛いな。
無意識に胸の辺りに手を当ててしまう。
先月までは会えることが楽しみで、部活の時間が待ち遠しかった。
入部以来、風花は毎日放課後になるとここに来たし、重労働な園芸部の活動にも文句は言わなかった。
むしろ、土にまみれ虫に刺されても楽しんでいるように見えた。
さっきまで一緒にいたのに、少し離れただけで会いたくなっている。
変わったのは僕のほうだ。
授業よりも友だちと話をするよりも、風花に会うことだけが毎日の中で重要なことになっている。
二十四時間分の約二時間。かけがえのない時間は、終わった瞬間からもう会いたくなっている。
同時に感じるのは孤独という名の耐えがたい感情。
――そんなわけがない。
これは恋なんかじゃない。自分に言い聞かせるように、今度はしくしくと痛むお腹に手をおろす。
ああ、こういうのもストレスになるのか。
たまたま同じ部活に入っただけの仲。クラスも違うし、プライベートな話なんて少しもしたことがない。
もちろんスマホの連絡先も聞けずにいる。知っているのは、家に帰る方向が違うということくらい。
意識して大きく息を吸いこむと、
「お待たせ」
軽い口調を心がけ、風花に近づいた。
「お疲れ様」
スコップを手に振り向く風花。花壇には、先週までアネモネがあんなに様々な色で咲いていたのがウソみたいに半分近く散ってしまっている。
「だいぶ枯れちゃったね」
風花が指す先、そこにはしおれかかっている白いアネモネがあった。
「もう六月だしね」
「残念だなぁ。ずっと咲いていたらいいのに」
「そうだね」
何気なく答えても、耳が心が彼女の言葉を受けとめようと必死になっている。
「夏にもいろんな花が咲くよ」
慰めの言葉をかける僕に、風花は「そうだね」と言った。全然、納得していないのがたった四文字の言葉でも伝わってくる。
「なんでそんなにアネモネが好きなの?」
「見た目と違うから」
「見た目?」
「あんなにきれいなのに、花言葉がさびしいでしょう? そういうところかな」
はかない恋、か。
まるで僕のことを表しているみたいだ。
必死で否定しても、コップから水が溢れるように気持ちが止められない。
風花に近づきすぎないよう距離を取りしゃがんだ。僕たちの前にある花壇では元気なく首を下に向けている。
「アネモネは球根植物なんだ」
間を埋めるように説明をする。
「球根?」
「うん。だから、明日から土の中にある球根を取り出して保存するための作業をするよ」
頭の上にハテナマークを浮かべる風花は、まだピンときていない様子。
「秋ごろに『分球』という作業をするんだ。分球によって古い球根から新しい球根に生まれ変わる。それを植えれば、来年の春にはまたきれいな花を咲かせるよ」
ようやく理解したのか、ぱあっと顔を輝かせた風花。あまりにうれしそうに笑うから、眩しくて目をそらしてしまう。
「それって、花が生まれ変わるってこと?」
生まれ変わるなんて大げさだと思ったけれど、喜ぶ風花をもっと見たくて、だけど見られないまま僕はひとつうなずいた。
「そう、だね。準備さえきちんとしていれば、生まれ変わるよ」
「もうお別れかと思ってたからすごくうれしい。ありがとう」
「いや、僕はべつに……」
実際のところ、枯れゆくアネモネを悲しがる風花のために必死で調べたこと。照れを隠すように空を見ると、夜がいた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「え、もう?」
立ちあがった風花の柔らかい髪が風に踊っていた。
同じように体を起こすと、僕は手にしていたペットボトルを見せた。
「下瓦さんからの指令でさ。液肥、ってのを調べなくちゃいけないから先に帰って」
「じゃあ、わたしも残る。一緒に調べたほうが早いよ」
「ひとりでいいよ。家族が心配しているといけないし」
そう言った瞬間、にこやかだった風花の表情が翳ったのを見逃さなかった。
それは僅かな変化だったけれど、悲しみを含んでいると思った。
が、すぐに風花は晴れ渡るような笑みに戻っている。
「いいから一緒にやろうよ。たったふたりの部員でしょう。部室に集合!」
僕の手からペットボトルをさらりと取ると、もう風花は部室に向かって歩き出す。
……今のは、見間違い?
ようやく足を動かし「早く早く」とせかす風花を追いかける。
確認するように横に並ぶと、すっとそらされる瞳。
恋はせつないな。
相手の些細な変化にも気づいてしまう。そうして、きっと今夜はその理由について思い悩むのだろう。
気持ちを再確認するほどに、風花への気持ちはどんどん成長していく。
まるでモンスターのように大きくなり、その存在を僕に知らせる。
ここにいるよ、と悲しく叫ぶ声が、僕を動けなくする。
◆◆◆
梅雨入りしてから雨はぴたりと止まり、この数日初夏の陽気が続いている。
昼休みになると同時に新しい液肥を用務員室に取りに行った。どうやらまだまだ散布しなくてはならないらしい。
重いペットボトルを両手に持って歩くそばから、白いシャツの中に熱気がこもる感覚。
なにか声が聞こえるな、と思ったら、友梨と犬神が花壇のところではしゃいでいた。
「あ、来た来た」
「遅いな。なにやってたんだよ」
それはこっちのセリフだ。
「こんなところでなにしてるわけ?」
いぶかしげに訊ねると、
「犬神くんがスズッキイのこと探してたから、連れてきてあげたんだよ」
友梨が自慢げにあごをあげた。
「教室で待ってればいいのに」
部室の鍵を開けて中に入ると、当然のようにふたりともついてきた。
「へぇ。園芸部の部室ってすげえな。秘密基地みたい」
キョロキョロと見まわす犬神が、僕の定位置の椅子にドカッと座った。
「ねぇ、その手に持ってるのなに?」
友梨の質問に「液肥」と前に下瓦さんに言われたままの言葉で答えるが、「ん?」と首をかしげている。
「液肥っていうのは、花にやる液体の肥料のこと。四十倍に薄めて、水と一緒に撒くんだよ」
先日、風花と一緒に調べたことを説明する。ちなみに主な成分は『油かす』だそうだ。
最近いろんな花に撒いているけれど酸っぱいにおいが苦手だ。
「そんなことまでやるんだ。園芸って意外に体を使うんだね。スズッキイも運動部の子みたいに焼けてるし」
たしかに僕の体は腕と顔だけが真っ黒に日焼けをしている。
土や肥料を運ぶことも多いので意図しなくとも腕や足が太くなってきた気もする。
……なんで風花は園芸部に入ったんだろう。
最近はことあるごとに頭に浮かぶ風花の顔。意識して追い払うと、まだ室内を観察している犬神の前に座った。
「なんの用だったの?」
すると、犬神が迷ったような顔をしたから驚く。
なんでもズバズバ言う奴だと思っていたから、こういう素振りははじめて見た。
「いや、なんか余計なお世話かもだけどさ、最近疲れてるだろ?」
「僕が?」
「ほかに誰がいるんだよ。部活が忙しいのかもしれないけど、元気がないのが気になっててさ、友梨に相談したら同じ意見だったし」
友梨も僕たちのそばに来ると大きくうなずく。
「今日だって昼ご飯食べてないでしょ。スズッキイはちょっとがんばりすぎなんだよ。部員がふたりってのは悲劇だけどさ、人間には活動限界点があるんだからね」
たしかに最近、体調が悪いことが増えた。
いつもかかっている医者にも薬を処方されるようになっていたのは事実だ。
やはりストレスや疲れが溜まってきているらしい。
そろそろ医者の言うようにちゃんとした検査をしなくてはならないだろう。
「疲れてないよ。それにがんばり屋なのはそっちのほうじゃん。サックスの練習大変みたいだし」
明るい口調で言うけれど、友梨は「そんなことない」という姿勢を崩さなかった。
「とにかく聞けよ。で、友梨と決めたんだよ」
犬神は友梨と視線を合わせる。ふたりして軽くうなずき合ってから、また口を開いた。
「おれたちも園芸部の手伝いをすることにした」
「え? なんだよそれ」
冗談かと思い笑ってしまうが、ふたりは真面目な表情をしている。
「べつに入部するわけじゃないぜ。おれたちも部活があるし、毎日は無理。でも重い荷物を運ぶときとか、人手がほしいときは遠慮なく言ってくれ。友梨が運ぶから」
「なんであたしなのよ。ふたりで協力するんでしょ」
「冗談だよ、冗談。だからさ、スズッキイ――」
犬神が体を少し前にして顔を近づけてきた。
「つらかったら頼れよ。友だちなんだからさ」
「そうそう。あたしたちにまかせなって」
どうやら本気らしい。
「……わかった。ありがとう。遠慮なくお願いさせてもらうよ」
そう言うと、ようやくふたりは表情を緩めた。
まさか表情や態度に現れているとは思わなかった。
これからは心配かけないように気をつけないと……。
部室を出て鍵を閉めていると、「そうだ」と友梨がうしろですっとんきょうな声を出した。
「風花がね、今日は部活参加できないってさ」
ビクッと跳ねる胸を誤魔化して、友梨を振り返った。
今、風花の名前が聞こえた気がしたけれど……。
「風花、すごく気にしてたよ。なんかの花を植え替える約束をしていたとか――」
「なんで?」
「家の用事だって。スズッキイに伝えてほしいって言われてたの忘れてた」
「そうじゃなくて――」
動揺を悟られないよう、鍵に集中しているフリで続ける。
「なんで友梨が風花のこと知ってるの?」
「え、もう呼び捨てなんだ。やるーぅ」
いや、それは風花から先週お願いされたことであって……。
って、今はそれどころじゃない。
ようやく鍵をかけ終えてから振り返ると、友梨たちは歩き出していた。うしろにつく僕に友梨は「だって」とこっちを見た。
「風花とは小学校からの仲だからね。この町は小さいから、ある程度みんな知り合いだよ」
「へぇ」
興味のなさそうな声を意識する僕は、なんだか間抜けなピエロみたいだ。
風花と友梨が知り合いなら、自分の気持ちは隠さないといけない。
体調の変化に気づくくらい敏感ならなおさらだ。
ふたりは親切で言ってくれているのに、大切な風花との時間が侵されるような気分になってしまう。自分のいやな部分を知ったみたいで気持ちが重くなる。
そんなことを考えてしまう自分もきらい。
これが『負のスパイラル』ってやつかも。
「ほら、さっさと行こうぜ。腹減った」
犬神の声に「ああ」とうなずくけれど、今日は風花に会えないという事実にさっきよりも足は鉛みたいに重く感じる。
◆◆◆
最後の鉢を校舎脇へ移動させ終わるころには雨は本降りになっていた。
犬神と友梨の手伝い宣言から二日が過ぎた。ふたりは約束通り、さっきまで文句も言わず鉢を荷台に乗せて運んでくれた。
雨に打たれているトルコギキョウはまだ満開とはいかないものの、ソフトクリームのようにねじれたつぼみは、夏いっぱいそのピンクの花を咲かせるだろう。
本当なら脇枝をカットしたかったけれど、この雨では無理そうだ。
レインコートのフードを深くかぶり、部室へ戻るといつものテーブルについているのは風花だけだった。
六月も後半に入り、本格的に梅雨がこの町にも訪れている。今朝までは晴れていたのに、今はそれがウソのように大雨が降っている。
「あれ、ふたりは?」
レインコートを脱ぎながら訊ねると、
「ふたりとも部活に行くって慌てて出て行ったよ」
風花は読んでいたマニュアルから目を離し僕を見た。
「そっか。まあこの雨じゃ作業はできないしなあ」
「植木鉢の移動だけでも相当かかると思っていたから助かったよね」
壁につけられたハンガーにレインコートをかけると、風花の前の席につく。
部屋の外では、雨が土を叩く音が聞こえている。
沈黙が怖くて僕は「ね」と声をかけた。
「珍しく早く終われたし、今日は帰ろうか?」
この提案はこれまでに何度かした。けれどそのたびに風花は首を横に振る。今も、まだ雨に濡れた髪を耳にかけながら、風花は一瞬表情を曇らせた。
が、次の瞬間には「そうだ」と明るい声を作った。
「トルコギキョウの花言葉ってどんなの?」
「……ああ、たしか『優美』とか『思いやり』かな」
「見た目と同じできれいな花言葉だね」
「うん。それより雨も強くなってきたしさ――」
「もう少し勉強していくから先に帰ってもいいよ」
風花はきゅっと唇をかみしめてから、すぐに笑みを浮かべた。くじけそうな心を意識して隠そうとしている。
こんな少しの変化でもわかってしまうんだ。
「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけどさ……家でなにかあったの?」
迷いながらも訊ねる僕に、風花はさっきと同じように口を閉じて、そして笑う。
「え? なにもないよー」
ふにゃっとした顔で答える風花に、僕は「そう」とうなずく。小さな勇気も、結局は萎んでしまう。
余計なことを聞いてぎこちなくなるよりも、この瞬間を楽しめばいい。
それはわかっているのに。わかっていたのに……。
「あの、さ」
まだ話しつづける僕に風花は「あ」と小さく口を開いた。
「液肥なんだけどね、聞いたら下瓦さんの手作りなんだって。少しでも部費を使わないように家で作ってきてくれているんだよ。やさしいよね」
「……そう」
「下瓦さんて本当に園芸が好きなんだろうね。そういうの知らなかったから、勝手に怖い人だって思いこんじゃってたから反省してるんだ」
急に饒舌になる風花は、この話題が続くことを拒否している。誰だって悩みはあるだろうし、人に言いたくないことだってある。
しくしくと胃が痛い。
「前にも言ったけどさ、無理して笑わなくていいんじゃない?」
ぽろりと言葉はこぼれる。
しまった、と口を閉じてももう遅い。
風花は時間を止めたように固まっている。
――僕は。
「僕もうまく笑えないし、愛想もないって自覚している」
――なにを言っているんだろう?
「だけど、無理して笑っている風花を見るのは悲しい」
自分の気持ちを押しつけているだけだ、とようやく口を閉じた。
風花はゆるゆると視線を落としてしまった。まるであの日に枯れた白いアネモネのように力なく肩を落としている。
「違うんだ……。ただ、心配でさ」
言いわけのように後づけする言葉に、雨が屋根を叩く音が強くなった。まるでこの世界にふたりきり取り残されたような気分になる。
僕はただ、風花に本当の笑顔でいてほしい。
僕の前では素直な感情を見せてほしいだけ。けれど、それこそが片想いのエゴでありおこがましいことだと感じてしまう。
どれくらい黙りこんだのだろう。
「すごいね」
ぽつりと風花が口にした。
見ると、彼女の髪の先からはまだ雫がひとつテーブルに落ちるところだった。
「誰にも気づかれていない自信あったんだけどなー。花に詳しいだけじゃなくって、こういうこともわかっちゃうんだね」
「ごめん……。余計なことだよね」
「ううん」
首を横に振れば、またいくつかの水滴がテーブルで跳ねる。
「わたし……ね、家に帰りたくないの。もうずっと前からそう思ってる。理由は言いたくない……」
「そうなんだ。ごめん」
また謝る僕に風花は「いいの」と言った。
「気づく人もいるんだな、って、ちょっとうれしかった」
言葉と裏腹に、風花は苦し気に目を伏せた。
長いまつ毛が濡れているように見えるのは雨のせいなのか、それとも僕が泣かせた……?
「それじゃあアドバイス通り、今日は帰ろうかな」
マニュアル本を棚にしまうと、風花はエプロンを外した。
「濡れちゃうから作業着のまんまで帰る。明日は晴れるといいね」
部室のドアを開けた風花が「ばいばい」と出て行く。
ゆっくりと閉まるドアにすぐにその姿は見えなくなる。
まるで追い出したみたいな罪悪感にため息をこぼした。きっと、これまでならそういう感情を押し殺していた気がする。
だけど……。
カバンを手に取り、外に出る。
雨は激しさを増し、少し先の景色も溶かしているみたい。傘をさせば、すごい勢いでビニールを打ちつけてくる。
走る足元で泥が騒がしく跳ねている。
校門の手前でようやく風花に追いついた。すぐに気づく。彼女は傘をさしていなかった。
「風花!」
「あ……。どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。傘は?」
「忘れちゃった。そっかぁ、部室のレインコートを借りればよかったんだ」
ふにゃっと笑う風花に、めまいのようなものが襲ってくる。
僕が、彼女を孤独にさせたんだ。
「ごめん。本当にごめん」
「どうして謝るの? わたしが傘を忘れちゃったからなのに」
誰かを抱きしめたいと思ったのははじめてのことだった。
柄を握る手に力を入れ、その気持ちを押しとどめた。
「これ、使って」
「え……でも。いいよ、どうせ濡れてるし」
「僕の家、近いから」
余裕がないまま傘を無理やり渡すと、一気に全身がずぶ濡れだ。
受け取った風花が困ったようにうつむいたあと、
「じゃあ……バス停まで一緒に来てくれる?」
そう訊ねた。
「いいよ」
「バスを降りたら、すぐ目の前が家だから」
「うん」
「じゃあ……お願いします」
どちらの声もきっと雨音に負けている。
それから僕たちは身体を寄せ合いながらバス停を目指した。外灯もけむる細道を、遠くて近いバス停まで黙って歩いた。
なにか気の利いたことを言えればいいのに、言葉は無力だと知っている僕がいた。
雨の中、僕たちはふたりなのにひとりずつ。
騒がしいのは雨の音じゃない。
愛しい気持ちと、それを上回る罪悪感が叫んでいる。
◆◆◆
雨は、窓からの景色をモノトーンに見せる。
廊下で騒いでいるほかのクラスの男子をよけながらトイレへ。
最近は昼休みが終わる前になるといつも気持ちが悪くなってしまう。生ぬるいため息が無意識にこぼれ、机に突っ伏したくなるほどだるくなる。
ストレスのせいで胃がおかしくなっているのだろう。
毎回トイレの個室に籠もるけれど、吐き気はない。
ただ便座に座って体の不調の波が収まるのを待つだけ。
今日もようやく落ち着いたのを確認し、廊下へ出るとさっきよりも雨の音は強くなっていた。
もうすぐチャイムが鳴る時間なのだろう。自分の教室に戻っていく生徒が扉に吸いこまれていく。
ふと、向こうから風花が歩いてくるのが見えた。
ドキッと足を止めてしまう自分が情けない。
あの雨の日以降、風花は部活には来ていない。理由はいろいろ。
『用事があって』
『宿題が大変で』
『友だちと買い物に行く』
どれも友梨伝いで僕に知らされることだった。
彼女が僕に気づくのがわかる。
「やあ」
なんて似合わないセリフを吐く僕に、風花は足早に駆けてくる。
「校舎の中で会うなんて新鮮だねー」
先日の気まずい雰囲気などなかったかのように笑顔の風花。気づかれないよう安堵の息を漏らした。
大事そうに両手に抱えているのは音楽の授業で使うテキスト。
僕の視線に気づいたのか、
「花壇行ってたら遅くなったの」
照れたように風花は言った。
「花壇?」
「アネモネの球根、外に干しっぱなしだったから。屋根はあるけど念のため倉庫に入れてきたの」
風花がはおっているカーディガンの肩の辺りがたしかに濡れていた。
「あ、ごめん。そこまで気が回らなかった」
「ううん。わたしの性格って、一度気になるとだめなんだよね。自己満足だから気にしないで」
前と変わらず明るい風花に胸を撫でおろしたのもつかの間、
「今日は部活、来られそう?」
という僕の質問に風花の表情が一瞬曇るのを見逃さなかった。
「今日は用事ができちゃって、ごめんね」
「そうなんだ」
「チャイム鳴っちゃう。わたし、行くね」
パタパタと駆けていくうしろ姿を見送る。
好きな人のウソならわかってしまうのが、うれしくて悲しい。
僕の話を聞き終えた友梨の第一声は、
「知らない」
だった。
あのあとも、ずっと風花のことが気になり、友梨にさりげなく訊ねることにしたのだ。
もしも、風花があえて部活に来ないようにしているのなら、それは僕のせいだ。
『無理して笑わなくていいんじゃない』なんて言うべきじゃなかったんだ。
あんなこと言われたら、どんな顔や態度で接すればいいのかわからなくなってしまう。
毎日のように猛省しているけれど、それ以上に風花に会いたい気持ちが募るなんて、自分勝手すぎる。
この教室から風花のいる五組までは数十メートルの距離。休み時間や放課後、会いにいこうと思えばいつだって行けたはず。
なにかと理由をつけて避けているのは僕も同じだ。
単なる臆病で、だけどウジウジ悩んでばかりで……。
自分のことよりも風花が気になる。存在は日に日に大きくなり、一方でだめな自分はちっぽけに思える。
ドラマや漫画はこんな気持ち、教えてくれなかった。
「知らないって本当に?」
先生みたいに教壇に立ち腕を組んでいる友梨にもう一度訊ねる。
今日の放課後、友梨に残ってもらうよう頼んでいたのだ。
「知らないしわからない、教えない」
「なんだよそれ、『教えない』ってことは知っているってことじゃん」
「うっ」
言葉に詰まった友梨は、昔からウソをつくのが苦手だった。友だちならなにか知っていると勘をつけたのは正解だったらしい。
「もしも知っていたとして、なんで教えなくちゃいけないのよ。コジンジョーホーだよ」
「たったひとりの部員だしさ、部長として――」
違うな、とすぐに自分でわかるほど薄っぺらなコーティングをした言いわけだ。
言葉の途中で口を噤む僕を友梨がいぶかしげに見てくる。
風花を好きになってから、自分を誤魔化すことが多くなった。
それは苦しくて苦くて、ささやかな幸せも感じるという複雑な感情。
自分でも処理できないから、こうしてウソの言いわけを繰り返している。
相手を好きになるほどに、自分のことをきらいになるような恋。
――僕が、風花を傷つけたんだ。
「違う、今のは間違い。部活とは関係なくって、ただ……心配なんだ」
「うん」
うなずく友梨の表情が少し緩んでいた。次の瞬間、僕のお腹に友梨のパンチが入った。
身構えてなかったせいで鋭い痛みが走り、うずくまりそうになる。
「痛い、なにするんだよ!」
「それくらい我慢しなさいよ。カツを入れてやったんだから」
両腕を腰に当てた友梨が人差し指を真っ直ぐこっちに伸ばしてきた。
「風花とスズッキイはなんか似てるよ。不器用なところもそっくり。さっさと自分で聞いてきなさい」
「でもさ、聞かれたくないこともあると思うし」
「聞いてほしいと思っているかもしれないでしょ。子どものころのスズッキイはもっと素直だったぞ」
ふふ、と笑うと友梨はカバンを肩にかけると教室を出て行く。廊下に出た友梨が振り返った。
「あの子、部活には行ってないけどさ、夜まで家にも帰っていないんだ。だから自分の教室にいると思うよん。じゃあね」
え、と口にする間もなく友梨の足音が遠ざかっていく。
意を決して五組の教室に顔を出したのは十分後のこと。
友梨の言った通り、ぽつんと真ん中の席に座っている風花。
いつだって見つめることができるのはうしろ姿ばかり。顔を見れば、自分の感情を隠してお互いに笑っているのかもしれない。
僕たちはやっぱり似ているのかも。いや、そう思いたいだけなのか?
わざと足音を立てて近づくと、風花が驚いた顔で振り向いた。
「隣、いい?」
答えを聞くよりも先に風花の隣の席に腰をおろしていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
風花の手元には園芸部のマニュアル本があった。コピーをしたらしく真っ白い用紙に印刷されていて、赤いペンでたくさんの書きこみがあった。
恥ずかしそうに裏返してから、風花は目を伏せた。
「部活行けてなくて、ごめん……ね」
「全然いいよ。体調、大丈夫?」
「あ、うん……」
歯切れ悪くうなずいた風花を見て、なぜか心が落ち着くのがわかった。
「聞いてほしい話があるんだ」
答えを待つこともせず、「あのさ」と言葉をつなげた。
「この町に来たのは親の離婚のせいなんだ」
突然の話題に風花が「え」と声にせずに口を動かした。
ゆっくりと顔をあげた彼女に、僕のほうが驚いている。
なんでこんな話をしているんだろう。
「ご両親……離婚しているの?」
「母親についてこの町に来たんだ。離婚の理由はよくわからないけど、母親は納得しているのかやたら明るい。弟は中学をサボりがちだけど放置してる。仲が悪いわけじゃなくて、お互いに干渉しないのは昔からだから」
「そうなんだ……」
「僕も弟みたいにストレスが表に出せればいいんだけどね。なんだか、最近体調を崩しがちなんだ。意外にダメージを受けているのかも」
風花は戸惑いを顔に浮かべている。突然こんな話聞かされても困るだろうし、どう対応してよいのかわからない感じだった。
「『花には人を元気にさせる力がある』ってばあちゃんが昔よく言っていたんだ。実際そうだと思うし、土をいじったり草むしりしているとなんだか安心できる。だから、園芸部に入った。一種の鎮痛剤みたいなものなのかも」
「うん……」
小さくうなずく風花を守りたいと思った。
「こないだは、無理して笑っているなんて言ってごめん。あんなこと言うべきじゃなかった」
「ううん、全然……」
「園芸部に入ってよかったって思ったのは、風花が入部してくれたから。あのままじゃ、ひとりで全部やらなくちゃいけなかったからさ」
風花がいてくれるから、毎日がんばれる。
恋とか愛よりも先に、彼女のためにできることをしたいと思った。
エゴ丸出しの気持ちなのに、そう思える自分がなぜか誇らしくもあった。
「風花を本当の笑顔にしたい。そのためには、風花の悩みも聞きたいんだ」
瞳を少し開く風花は、すぐに長いまつ毛を伏せてしまう。
「うん……」
「すぐにじゃなくていい。言えるときまで待ってるから。それまでは僕の悩みを聞いてもらうことにしようか」
「ふふ。それって面白いね」
作り物じゃなく、本当の笑みを浮かべてくれた気がした。
「今日じゃなくてもいいよ。少しだけ考えてみて。部室でいつでも待ってるから」
椅子から立ちあがる僕に、風花はなぜか自分の左手の指を開いた。
まるで『ストップ』と言われているようで、あっけなく僕は足を止めた。
「……わたしの左手、どこか変なのわかる?」
思ってもいないような質問に、再び椅子に腰をおろした。
じっとその細い指先の辺りを観察する。
「べつに変じゃないよ」
そう言う僕に、風花は右手の人差し指で左手の中指の辺りを指し示した。
「ここ、少し曲がってるの」
見ると中指がほんの少し内側に曲がっているように思えなくもない。首をひねる僕に、風花はそっと手を机に置いた。
「小さいころからずっとピアノを習ってたの」
鍵盤を操るように風花の美しい指が机を軽やかに叩いた。仕草とは反対に、どこか重い空気が教室を浸している。
「お姉ちゃんとふたりでよくピアノを弾いてたんだ。将来は『姉妹でピアニストになろう』って約束をしていたの。近所迷惑にならないよう、毎晩七時まではふたりで練習をしてた」
「へぇ、すごいね」
「ピアノを弾く時間は楽しくて、全然いやじゃなかった。指先から音が鳴っているのが魔法みたいに思えたの」
そこまで言ってから風花は言葉を止めた。
ゆっくり首を振ってから大きく息を吐き出した彼女の顔に、もう笑みは浮かんでいなかった。
「でも、二年前にね……。二階の廊下のところでお姉ちゃんと言い合いになったの。今思えばた他愛もない理由だったのに、お互い興奮しちゃって、最後は掴み合いになっちゃったんだ」
風花の唇が、再度躊躇したように動きを止めた。しんとした空気に自分の呼吸する音がやけに大きく聞こえている。
「わたしが……お姉ちゃんを突き放したと思う。だけど、その反動でバランスを崩したわたしのほうが階段を転げ落ちたんだ。それで、この指を骨折したの」
「風花……」
「お姉ちゃんはすごく泣いてて、何度も謝ってくれた。もちろんわたしも泣いて謝ったよ。それで終わりのはずだった。でも、骨折が治ったら……ピアノが弾けなくなっていたの」
顔を上げた風花の瞳に涙がいっぱい溜まっていた。
今にもこぼれそうに光っていて、だけど目をそらせない。
「指が、痛むの?」
「違う。全然痛くないよ。ピアノも普通には弾けた。でも、何度やっても左手の中指にだけ力が入らないの。バランスも取れなくなっていて、強いメロディを鳴らすことができなくなっちゃったんだ」
「そのことをお姉さんには……」
乾いた声で訊ねる僕に、風花は「ううん」とうつむいた。
「言ってない。お姉ちゃんはきっと、わたしがピアノに飽きたと思ってる。実際わたしもそういうふうに演じている」
「そんな……それでいいの?」
「お姉ちゃんはね、その年にコンクールで二位になったんだよ。たくさんのお客さんに拍手をもらって、ライトの中で輝いてたんだ。わたし……きっと、ううん、たぶん嫉妬しちゃったんだよね」
さびしげな口調に胸が締めつけられる気がした。息が苦しくて何度も大きく酸素を取りこむ。
そんな僕を気遣うように、風花は首を振った。
「ごめんね、こんな話。だけど、聞いてもらえて少しすっきりした」
ウソだと思った。だったらこんな悲しい顔はしないはず。
「今でもお姉ちゃんは音大を目指してピアノを続けている。『あんたもやればいいのに』なんて言ってくるんだよ」
ふう、と肩で息をついた風花が、「でも」とつぶやくように口にした。
「やっぱりピアノの音を聴くのはつらい。だから、七時までは家に帰らないことにしてる。わたしが家に帰りたくないのはそういうことなの」
風花が僕を見て言葉を続ける。
「無理して笑うのはよくないよね。でもさ、悲しい顔もできないじゃん。だから家ではいろんなわたしを演じているの。『ピアノに飽きたわたし』『部活が忙しくて帰れないわたし』『休みの日も家にはいないわたし』……どんどんわたしじゃないわたしが増えている気がする」
なんて自分勝手な言葉を投げてしまったのだろう。悩みに対する答えも用意していないのに話をさせるなんて最低だ、と思った。
「あ、違うよ」
僕の考えを読むように風花が右手を横に振った。
「このあいだ言われたことも一理あると思ったの。家だけじゃなくて学校でも、無理していることは自覚していたから」
「なにも知らなくて、ごめん」
「いいっていいって。なんか、ズバリ言われちゃったから、部室に顔を出しにくくなっちゃったの。でも、今日来てくれてうれしかった。こういう話、友梨以外とはしたことがなかったから」
洟をすすった風花が目尻を人差し指で拭った。
さびしく机の上に置かれた風花の左手の中指に自分の両手をそっと重ねることに、勇気なんて一グラムもいらなかった。自分の意思とは関係なく、ただお腹の底から生まれる感情に体が動いていた。
冷たい指先が風花の苦しい心を表しているみたいだ。少しでも和らぐようにただ願いをこめた。
「こうやって魔法をかけられたらいいのに」
「……うん」
くぐもった声でうなずく風花。彼女の左手が僕の両手の上に置かれた。あまりにも小さい手。
「僕がそばにいるよ」
今、大きな渦がお腹の中で生まれている。
それはずっと前、そう、風花に出会った日からあったのかもしれない。
どんどん成長していく感情が僕を幸せにし、同じくらいせつなくさせていたんだ。
「僕といるときは、いつだって本当の風花でいてほしい」
「うん。でも……できるのかな」
不安げに瞳を揺らす風花に、僕はゆっくりと首を縦に振った。
「悲しいときは悲しい顔をすればいい。つらいとき、苦しいときもそのまま見せてほしい」
もしも僕がきみの不安を取り除けるならば……。
「きっとね」
風花の唇が動くのが視界の端に映っている。
「魔法はかかったと思うよ。ありがとう」
ゆっくりとその顔を見ると、泣き笑いの表情がそこにある。
きみの毎日を、もっと幸せな感情で埋め尽くしてあげたい。
そのためなら僕は、命を投げ出したって惜しくない。本気でそう思った。
「風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい」
思うそばから、気持ちが言葉になっていくようだ。止められないし、止めたくない自分がいる。
今、僕はきみに伝える。
「きみのことが好きなんだ」
と。
◇ 7月 ◇
頭を抱えて過ごしているあいだにテスト期間に突入してしまった。
けれど、わたしの頭の中はそれどころじゃない。
「あー……どうしよう」
教室を出て廊下を歩きながらひとりごちると、隣にいた倫子に「なにが?」と訊かれた。
「えっと、今日のテストがやばいなって、思っただけ」
「そんなのいまさら気にしても仕方ないじゃん。今日が終わったんだから、また明日考えたらいいんだって!」
「明日になったらなおさら今更じゃん」
うははは、と倫子が豪快に笑う。
倫子は最近出会った男の子といい感じらしく機嫌がいい。もともと明るい性格だったけれど、それが三割増くらいになっている。そんな倫子がそばにいるとわたしも笑顔になれる。笑い飛ばしてくれると気が楽になる。
倫子に、本当はテストのことで悩んでいるわけじゃないんだ、と言えば、どんな反応を返してくれるのだろうか。
――『好きなんだ』
思いだすと胸の中がむずむずして、いても立ってもいられなくなってしまう。心臓がどどどど、と滝のような音を出して体中に血液を流していくのがわかる。
あの告白から、二週間。
まだ、返事はできないでいる。
文哉くんがわたしを好きだなんて、思いもよらなかった。あの瞬間の彼の表情も、声色も、すべてを覚えているというのに、それでも夢だったのではないかと思ってしまう。そのくらい信じられない。
どうしていいのか、わからない。
「ねえ……倫子は、突然、自分がそういう目で見ていなかった人から告白されたら、どうする?」
はあーっと息を吐きだしてから、ゆっくりと問いかける。
「誰に告白されたの? あ、いつも一緒に花の世話してる男の子?」
きょとんとした顔を見せてから、倫子はすべてを悟って口角を持ち上げる。格段驚いた様子は見せない。
どうしてあれだけのセリフでそこまでバレてしまうのか。
「いや、その」
迷いのない倫子の言葉に、しどろもどろになってしまう。額にじっとりと汗か浮かぶのがわかった。それは、初夏の暑さから、ではない。
「わたしのことじゃ、なくて」
「その話の流れで、風花のことじゃないわけないじゃん」
けらけらと笑われてしまった。そして、倫子はひとしきり笑ったあとで、「つき合えば?」と言った。
「っていうかてっきりもうつき合ってると思ってたー」
「つき合ってないってずっと言ってたじゃん。え? 信じてなかったの?」
「恥ずかしいのかなって」
だってどっからどう見ても恋人同士だったんだもーん、と倫子はわたしを肘で突く。
「っていうか、風花がなにを悩んでるのかよくわかんないんだけど」
「だって、悩むよ、そりゃ。告白されたんだもん」
「好きな人に告白されたら、悩む必要なくない?」
好きな、人。
倫子のセリフを反芻させる。知らず知らずのうちに足が止まっていたらしく、数歩前に出ていた倫子が「風花?」と言って振り返った。窓から差し込んでくる太陽の光が、わたしの視界を一瞬真っ白に染める。
好きな、ひと。
もう一度、脳内で繰り返す。その言葉は、数年間わたしの辞書になかったものだ。言葉が体内に溶け込んでくる。
「まさか」
頭で考えるよりも先に、声がこぼれた。
「そういうんじゃないよ。ただ、話しやすいだけで。ただの、友だち」
そう、それだけの関係だ。
学校で顔を合わせ、話をする。彼は本当に花に詳しくて、訊けばすぐに名前や花言葉を教えてくれる。見たことも聞いたこともない花についても、どんな色でどんな形なのかをわかりやすく説明してくれる。育てる方がわからないときは一緒に調べたりする。
そんな話しかしていない。わたしたちの会話のほとんどが花のことだ。
けれど、その時間の中で、彼はわたしの行き場のない迷子になった気持ちを見つけてくれた。そして、手を差し伸べてくれた。
それに気づかないフリをした。
園芸について話すだけの関係でいたかった。それ以外の話の仕方が、わからなかった。だから、なんとなく、気まずくて避けたりもした。
けれど、文哉くんはわたしに差しだした手を、決して引かなかった。それどころか、わたしの手を強引に掴み、けれど優しく包んでくれた。
夕暮れの校舎で、彼は言ってくれた。笑みを封印したかのような真面目な顔で。
――『無理して笑っている風花を見たくない』
夏に差しかかろうという生ぬるい空気の中で、彼の額には汗が浮かんでいた。わたしを走って探してくれたのかもしれない。
そんな彼を見て、そのやさしい手に触れたくなって、つい、お姉ちゃんとの話をしてしまった。けれど、まさか告白されることになるだなんて。
あの言葉を、どう受けとめたらいいのかわからない。
――『風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい』
思いだすと、胸がきゅうっと痛む。
記憶が溢れてくる。閉じ込めておきたいものが、こぼれてしまう。それをこらえるようにぎゅっと拳を作った。
倫子は、わたしの様子になにかを感じたのか「ふうん」と言う。
「今まで聞いたことなかったけど、もしかして風花って今まで好きになった人とかつき合った人とかいないの? だからそんなにガードが固いの?」
ガードって。
倫子の言い方がなんとなく面白く感じて口元が緩む。
「ちなみに私は三人つき合ったけどね。初めては小学生のとき」
「え。早すぎない?」
わたしが小学生のときは周りからそんな話を聞いたことがないし、自分でも想像したことがない。ピアノに夢中になっていたからか、誰かを好きになった記憶もないけれど。
「で、風花は?」
「……いるけど。ひとりだけ」
答えながらはじめてのつき合いを思いだす。初々しく、真っ直ぐだった自分が蘇る。好き! という気持ちしかなかった。そのくらい、あの頃のわたしは幼かった。そんなふうに思った自分にちょっと驚く。
でも、それらすべてをひっくるめて、やっぱりそれは幸せなのだと思う。
「今はあんまりそういうことに興味がないんだよね、わたし」
「えー、もったいない! たとえそうでもいい感じなら軽い気持ちでつき合っちゃえばいいのに」
「無理だよー! 倫子だって、そんなこと言いながら先月合コンで出会った男の子の告白断ったじゃない」
「あれはあれ、これはこれ。だって好きじゃなかったんだもの」
そう言われたら返す言葉がない。
軽くつき合う、なんてできるほどわたしは器用じゃない。
なによりも。
「わたしに、自信がない」
「なんの自信?」
「文哉くん、絶対もてるじゃない。だから、今まで何人かの女の子とつき合ってるはず」
聞いたことないけど、あんな子が今まで誰ともつき合ってないとかありえない。倫子も「まあそうだろうね」とあっさりうなずく。倫子にもそう言われたら確定じゃん。
「そう考えると、なんか、こう、ね」
「いや、意味わかんないんだけど」
ですよね。
わたしだってうまく説明できない。
「でもそれって、結局好きかどうか、っていう悩みじゃないんでしょ」
倫子が「じゃあ」と言葉を発する。
「なんで、悩んでんの?」
倫子の言うことはもっともだ。
校舎を出て、花壇のそばのベンチに腰かけながらぼんやりと考える。しばらく図書室で勉強をしていたけれど、集中できないまま時間を潰しただけになっていた。まだ閉館には早いものの、屋内でただただ流れる時間を過ごすくらいなら、とここでこうして過ごしている。
脳裏に彼を思い浮かべながら。
ゆっくりとゆっくりと太陽が沈んでいくのを感じながらまだ咲き切っていないひまわりを見つめる。春に比べて、見える景色から心なし色味が減って緑が増えたような気がする。
それを見ていると、月日は確実に過ぎていっているのだと実感する。わたしだけが同じ場所でずっと足踏みをしているのかもしれない。
きっと、今の悩みを友梨に話しても同じような答えを返されるだろう。むしろ倫子よりも友梨のほうが前向きに考えるようにと説得してくるかもしれない。カバンの中に入れっぱなしにしていたスマホを取りだし、友梨とのメッセージボックスを開く。
友梨に話してみようか。そしたらきっと――。
きっと?
頭に浮かんだ思いを黒く塗りつぶすように、アプリを閉じた。
「ばかみたい、わたし」
もう、とひとりごちて顔を上げる。
すると、少し離れた場所から歩いてくるひとりの男の子が視界に飛び込んでくる。じっと見つめていると、彼もわたしに気がついたのか軽く右手を上げてそばにやってきた。
歩いているのは彼だけじゃなかったし、そのなかには彼によく似た背格好の人だってたくさんいる。なのに、わたしはいつも彼を、文哉くんをすぐに見つけることができる。
「また時間つぶしてたの?」
「うん。文哉くんは? こんな時間まで学校でなにしてたの」
今はテスト期間なのでもっと早く帰れたはずなのに。さっきまでわたしのいた図書室では、彼を見かけなかった。一体どこでなにをしていたのだろう。そんなことを考えながら目の前に立つ文哉くんの足元に視線を落とすと、空色のスニーカーが泥まみれになっている。
「植木鉢の植え替え」
「え! ずるい! わたしもやりたかった!」
思わず声をあげてしまった。わたしをのけものにしてそんな楽しいことをしていたなんて。
「誘おうかとは思ったんだけど、テスト中だから悪いかなって」
「なんでー。いいなあ。そんなの気にしないのにー」
がっくりと項垂れると、ごめんごめん、と軽い口調で謝罪を口にしながら文哉くんはわたしの隣に腰をおろす。
「なに植えたの?」
「コスモス。咲くのはまだ先だけど。秋になったら目につく場所に移動させるんじゃないかな」
「楽しみだね」
文哉くんは、わたしを見て「そうだね」と言いたげに目を細めた。
その顔が思ったよりも近くにある気がして、慌てて目をそらす。一度意識しはじめると、いつもよりも彼との距離が近いように思えてきて、体が固まってしまう。
でも、文哉くんはまったく気にしていない。わたしだけが、狼狽えている。
文哉くんは、告白してからもわたしへの態度をまったく変えなかった。見かけたら声をかけてくれるし、こうして話もしてくれる。普段通りに振る舞ってもらえたことに、はじめはほっとした。けれど、あまりに変わらないので、彼は本当にわたしのことを好きなんだろうか、と思いはじめる。
彼の言った〝好き〟は恋愛感情としてのものではなかったのかもしれない。友情としての〝好き〟だったのかも。
そう考えると彼の態度も納得できる。
だからこそ、二週間もわたしは彼に返事をせずにいるどころか、あの日のことすらも話題に出さずにいるのだろう。
でも、それも結局は言いわけで、彼がなにも言わないことに甘えて、自分が言いにくいからという理由で今まで返事を放置しただけのこと。
いつまでも、わたしは自分勝手な甘ったれだ。
自己嫌悪が募る。
無言になったわたしを、文哉くんが「どうした?」と首を傾げて覗き込んでくる。間近で目が合い、大げさに体を反らして「いや、なんでもない!」と顔の前で手を振った。
「家に帰りたくないから、時間を潰す方法でも考えてる?」
「あ、うん、まあ」
たしかにそれもあるけれど、それだけじゃないです、とは言えない。けれど、お姉ちゃんとのこと、ピアノのことを話しておいてよかった、と思った。それが原因だと思ってくれるほうが楽だ。
あはは、と笑顔を見せると、文哉くんは返事に眉を下げた。心配そうなその表情に慌てて言葉をつけ足す。
「あ、でも、文哉くんに話したら、結構楽になったとは思うんだよ! ただ、今はなんかお姉ちゃんがアンサンブルの練習してて、その、彼氏が家に来てるっていうか。それを邪魔するのもなんだか悪いなって。練習に他人がいたら気が散るじゃない。だから、さ」
饒舌になってしまうわたしに、文哉くんは「そうなんだ」とだけ相槌を打つ。
今のわたしは、彼にはきっと『必死に大丈夫なフリをするわたし』が見えているんだろう。自覚もある。もう少し上手に演じることができるはずだったのに、文哉くんを前にすると、どうしてもうまくいかない。
自分で気づく前に、文哉くんにも気づかれるくらいだ。わかりやすいくらい伝わってしまっているだろう。
「……実はちょっと、しんどいんだよね」
取り繕っても仕方がないと思い、肩の力を抜いて素直な気持ちを吐露した。
わたしを慰めてくれるみたいに、頭上にある木々がさわさわと音を奏でる。緑が深まるその葉っぱを見上げてから、
「弱音吐いていい?」
と、文哉くんに訊いた。彼がこくんとうなずくのを確認してゆっくりと話を続ける。
お姉ちゃんはわたしのかわりに、彼氏の斎藤さんと一緒にアンサンブルをすることに決めた。歌劇「椿姫」の『乾杯の歌』だ。プレゼントにぴったりの選曲だ。その練習に、斎藤さんは週に一回か二回、家にやってくるようになった。本番が今月末だからという理由だけれど、ふたりの実力ならさほど練習しなくても誕生日会に弾くことくらいできるはず。にもかかわらず、だ。
まあ、それはべつにいいんだけど。
普段お互いに練習で忙しいからあまりデートもしていないみたいだし。
ただ、かわりに家にピアノが流れる時間が長くなった。おまけに斎藤さんが来ている日は晩ご飯を一緒にすることも多く、そういうとき、ふたりが仲睦まじくピアノの話で盛りあがる。それを見ながら、聞きながら、わたしはご飯を食べなくちゃいけない。
ときに『風花も昔はピアノうまかったんだよ』とか『今も続けていたらわたしよりもずっとプロに近かったと思うんだけどなあ』なんてことを言われながら。
ときに曲の解釈を語り合うふたりに意見を求められながら。
斎藤さんの家で練習すればいいのに。
グランドピアノもあるならそっちのほうがいいのに。
なにか事情があるらしいけれど、そんなのわたしには関係ないのに。
そんな本音をご飯と一緒に呑み込んでいる。
こんなこと、誰にも言えない。『なにも気にしていない妹』という自分でいなくちゃいけない。間違っても、その仮面の下に『妬ましくて仕方がない自分』が潜んでいることは悟られてはいけない。
そんな話を一通りすると、文哉くんは「やさしいな」と言ってくれる。
文哉くんはいつだって、それ以上のことを言わない。わかりやすい慰めも、根拠のない大丈夫という言葉も、そんなの気にしなくていい、といったわたしのための叱咤も。
ただ、いつだって耳を傾けてくれるだけ。
それが、なによりもほっとする。
そんな彼だから、わたしは家族や友人も知らない素直な一面を見せることができるのだろう。
「兄弟に、そんな優しいことしたことないなあ」
「そうなの? 意外」
でも男同士だったらそんなものなのかもしれない。姉妹で買い物に出かけるという話は聞くけれど、兄弟でそういうのはあまりないような気がする。女同士よりも淡白なのだろうか。
「自分と違いすぎて、なんか、やさしくできなかったな。自分には真似できない姿に、羨ましさを感じているのかも」
「文哉くんもそんなふうに思うんだ」
「そんなに聖人君子じゃないからね。自分と違うところに嫉妬もするし悔しくなるし、もどかしくもなるし、それをこじらせてつい、相手にきついことを言ったり。……昔は仲がよかったんだけど」
文哉くんはさびしそうに少しだけ目を伏せた。
じっと見つめるわたしの視線に気づいたのか、彼はついと視線を持ち上げて力なく笑う。わたしも、今までずっとこんなふうに無理して笑っていたのだろうか。
――『風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい』
あのセリフを、今、わたしは文哉くんに言いたくなった。
わたしよりも大きな体なのに、守ってあげたい気持ちになる。半袖から伸びる腕も、わたしよりずっとたくましいのに。
惹きつけられるように彼の顔を見つめつづけた。目元に、薄っすらと隈が浮かんでいる。額に浮かぶ汗が、暑さではないように見えるのはどうしてだろう。そういえば、少し痩せたような気がしないでもない。
「風花?」
文哉くんが戸惑いを孕んだ声でわたしの名前を呼ぶ。そのときやっと、自分の手が彼の額に伸ばされていたことに気がついた。
「っわ、あ、いや!」
慌てて手を引き、「その、あの」とどもりながら言いわけを考える。
一体なにをしようとしていたのか、自分でもわからない。おまけに大きな体だとか、たくましい腕だとか、どこを見ているのか。
恥ずかしすぎて目が合わせられない。
「あー、その、さい、きん、疲れてる?」
視線を泳がせ、最終的に自分の足先に落ち着いた。わたしのオレンジ色のローヒールパンプスが、左右に揺れている。まるで居心地が悪いみたいに。どこかに逃げだしたくてウズウズしているみたいに。
「え? なんで? どうしたの、急に」
「なんか、顔色悪くないかなって思って」
「……そうかな」
覗き見るようにちろりと視線を向けると、文哉くんは頬に手を当てて不思議そうな顔をしている。
「でも、たしかに最近はあんまり寝てないかも。あんまり食欲もないし」
「夏バテ? 早くない?」
「テスト勉強で忙しかったから」
わざとらしくあごを持ち上げてわたしを見おろすように話す文哉くんに、ふふ、と自然に笑ってしまった。
「でも、ちゃんと食べないと。ちゃんと、健康でいないとだめだよ」
「母さんみたいなこと言う」
「だって」
頬を膨らせると、「大丈夫大丈夫」と言って立ち上がった。
「風花、まだここにいるの? もうすぐ六時過ぎるけど」
「え、あ、うん。そうだね、もう少し……」
今から帰ればちょうどいい時間に家に着くだろうけれど、今日も斎藤さんが来ているかもしれないし、六時半ごろにここを出ればいいだろう。ただ、晩ご飯は一緒に食べることにはなるけれど、連日遅く帰るわけにもいかない。
「でも、よかった」
なにが? と言いたげに彼を仰ぐ。
「この前のことで、無理して笑ってるわけじゃなかったみたいだから」
多分だけど、と言葉をつけ足して、彼がはにかんだ。
文哉くんの言う〝この前のこと〟がなにを指しているのかすぐにわかり「違うよ!」と思わず大きな声を出して立ち上がる。立ったところでわたしと彼は数十センチの差があり、その距離が身長だけじゃないような不安を抱いた。
「うん、わかってる」
文哉くんはそう言って頷いてくれたけれど、ほっとすることなんかできない。
そんなふうに思わせていたなんて。
「あのとき、言ったことだけど……本当は言うつもりなかったんだ。だから、それで困らせてたら悪いなって勝手に思ってただけ」
わたしが二週間有耶無耶にしていたせいで、そんなことを思わせてしまった。
そんなこと、ないのに。
困っていたのはたしかだけれど、でも、それは文哉くんのせいじゃない。わたしの問題だ。文哉くんはなにも悪くない。
むしろ――彼の気持ちは、素直に嬉しかった。
なんて返せばいいのかわからず、ただ否定を伝えようと首を振る。でも、それが余計に気を遣わせているように感じたのか、文哉くんは「ごめんね」と小さく言った。
「風花に、笑ってほしかったのに」
その言葉が、胸に突き刺さる。
こんなふうに思ってくれる人がいるだなんて、考えたこともなかった。何度も聞いたはずのセリフなのに、初めて聞いたみたいな衝撃に体が震える。
でも。
「忘れていいよ。あの告白はさ、友情みたいな感じで受け取ってくれたらいい。それで十分なんだ。ややこしいこと言ってごめん」
そんなふうに言われたら、なおさらそんなふうに思えるわけないじゃない。
でも。
「ごめん、ね」
自分の謝罪がなにに対してのものなのかはわからなかった。
文哉くんに言わせたくないことを言わせてしまったことに対してなのか、わたしの気持ちを優先しようとしてくれている優しさに対してなのか。
それとも、彼の告白の返事なのか。
多分、すべてだ。
わたしは、つき合えない。
彼の気持ちに応えることができるほど強くない。そんな未来は、想像できない。
「うん」
文哉くんは、そんなわたしの気持ちもお見通しかのようにこくりとうなずいて「いいよ」とだけ言った。あまりにあっさりとした返事に、泣きそうになる。
「じゃあ、また」
また、という挨拶をしてくれているのに、同じ返事ができなかった。
文哉くんはいつも通りに背中を向けて歩いていく。
わたしの返事の意味は、きっと伝わっているだろう。いつだって、わたしが言葉にしなくても感情を読み取ってる人だ。だからこそ、落ち込む様子も、過剰な明るさも見せなかったのだと、思う。
これまでと変わらない仕草と表情で、これからも友だちとしてそばにいてくれるだろう。
でも、本当に?
――もしかすると、もう声をかけてくれないのではないか。
考えると、突風が襲ってきたみたいに体がよろめいた。
わたしは、これからも文哉くんと話がしたいんだ。だけど、彼がもうわたしと話すのはいやだと思うのならば、受け入れるしかない。だって、わたしが先に、彼を受け入れなかったのだから。つき合えないけど友だちでいたい、だなんてお願いは、ワガママになってしまう。
文哉くんに、無理をさせたくない。
彼を苦しめたくない。
でも、それでも、――いやだ。
自分の左手の中指にそっと右手を添える。
大事なものをなくしてしまったわたしは、大事なものを手にするのが怖い。また、失ってしまうのがいやだ。もう二度と、あんな思いはしたくない。
でも、今、わたしの中にあるこの感情は、悲しいとか、さびしいとか、なにかを失ったときに抱くものだ。
この現状で、わたしはすでに大事なひとを失うってことだ。
「……もう、わたしの答えは、決まってたんだ」
失笑がこぼれる。
ずっと同じ場所にいたかった。なにかを失う変化を受け入れなければいけないくらいなら、なにも得ない日々でいたほうがいい。
けれど、ずっと同じ場所にはいられないし、そんなことは不可能なんだ。
さっきわたしは友梨にメッセージでなにを言おうとしたか。そして、なんて言ってほしかったのか。
背中を、押してほしかった。
彼とつき合う理由が、欲しかった。
自分の足で踏み出す勇気がないから。
その時点で、わたしの気持ちはすでに決まっていた。
――『好きな人に告白されたら、悩む必要なくない?』
――『でもそれって、結局好きかどうか、っていう悩みじゃないんでしょ』
そうだね、倫子。
カバンから再びスマホを取り出して、メッセージ画面ではなく友梨の電話番号を表示させる。そして通話ボタンをタップして耳に当てた。呼び出し音が三回、そして四回目に「はーい、どうしたー?」と友梨の明るい声が聞こえてきた。
「あのね」
言葉に力がこもる。と同時にカバンを掴んで腰を上げる。
「友梨、わたし、好きな人ができたよ」
はっきりと、自信を持って口にすると、それは自分の胸にすとんと落ちてくる。さっきまでもやもやしてたなにかが、まるで綿毛に変わり飛散して体内から飛び出していくみたいだ。
体が、軽くなる。
彼と出会ったのは今年の春。話すようになってからたった四ヶ月弱だし学校以外で連絡を取り合ったこともない。
一緒に花を見て、花の話をした。
並んで景色を見て回った。
そんな中で彼はわたしを見てくれた。見つけてくれた。仮面の下の本当のわたしに、あたたかなぬくもりを与えてくれた。
そして、わたしはそんな彼に、いつの間にか彼に惹かれていた。ちょっとした仕草に暴れる心臓が、一番正直だった。どこが、とか、なんで、とかはわからない。はっきり答えられるほど彼のことを知っているわけじゃない。
ただ、一緒にいる時間が心地よかった。
彼と過ごす時間は、あたたかかった。
彼が隣にいると、自然に笑っている自分がいた。
――わたし、文哉くんのことが、好きなんだ。
突然の宣言に驚いたのか、友梨からの返事は数秒なかった。けれど、ふ、と笑いを漏らしてから、
「いいじゃん」
と声を弾ませて言ってくれた。
通話を終えるとすぐ、地面を蹴って駆けだした。カバンを振り回し、校門を目指す。
まだそんなに遠くには行っていないはずだ。すぐに追いつけるはず。ろくに運動をしてこなかったので、あまり持久力はないけれど、今ならどこまででも、彼の背中を見つけるまで走り続けられそうだ。
風に乗って、いつまででも。
「文哉、くん!」
校門手前で見つけた背中にお腹から声を出す。
「……風花?」
呼びかけに、文哉くんだけではなく周りにいた人も振り返った。
彼は目を丸くして立ち止まり、わたしが近づくを待ってくれる。そういえば、驚く文哉くんの顔を見るのは初めてのことだ。
必死で足を動かし、彼との距離と縮めていく。
それがもどかして、我慢できなくて、
「わたしも、好き、です!」
乱れた呼吸のまま、叫んだ。
一度足を止めると、突然ひゅうひゅうと、喉(のど)が隙間風のような音を鳴らす。
さっきはどこまでも走れると思ったのに、結局二百メートルくらいで限界だったらしい。ふらふらと、ゆっくりと、文哉くんに近づいていく。やっと彼に追いついても、どうしても息が整わず、声を発することができなかった。かっこ悪い。
膝に手をついて、額に浮かんだ汗を手で拭った。カバンからハンカチを取り出す余裕もない。肩を上下させながら、目をつむり必死で深呼吸をしようとする。まったくうまくできないけれど、ゆっくりと呼吸をするのが楽になってきた。
さっきよりも深く息を吸い込み、吐きだす。
まだ少し心臓が尋常じゃない速さで動いているけれど、「あの」と改めて顔を上げる。わたしの正面に立っていた文哉くんは「はい」と肩を震わせて背筋を伸ばした。その様子がなんだかかわいくて、頰が綻んでしまう。そして、わたしも姿勢を正して文哉くんに向かい合った。
「わたしも、好きです」
同じセリフを、今度は落ち着いて、目を見て、口にすることができた。
文哉くんは言葉を失ったみたいにしばらくぽかんと口を開けて、ゆっくりと頭を垂れる。頭に手を乗せて、なにかを考えているのかしばらく動かなかった。
……それは、どういう気持ちからの行動なのだろう。
さっきまでこれで両想いだ、と思っていたけれど……返事をしてくれないことに不安が胸の中で渦巻く。もしかして、考えたくないけど、本当に彼の告白には恋愛感情が含まれていなかったのだろうか。
もしくはいまさら調子のいいことを言うわたしに対して怒っているのかもしれない。
あれから時間が経ったことで、彼の気持ちはもう変わってしまったとか。
流れていた汗が瞬時に冷や汗に変わる。
「あ、あの、その」
この場合、どうしたほうがいいのだろう。
あまりに長い沈黙に耐えきれずオロオロしてしまう。と、文哉くんは「ふは」と噴き出して肩を震わせはじめた。そして、顔を上げる。隠れていた表情が顕になる。
彼は、頬を赤くしてなんとも言えない笑みを浮かべていた。
「こんなところで大声で告白とか、びっくりした」
「え? え、あ! つい!」
文哉くんの言葉にはっとしてあたりを見まわすと、近くにいた生徒たちの視線が集まっていることに気づく。やっと気づいたか、と言いたげに、まわりにいた人たちが「頑張れよー」「かっこいいじゃん」「返事早くしてやれよ」と口々に言い出した。
恥ずかしすぎる! 勢いでとんでもないことをしてしまった。
「ご、ごめ、ん! 文哉くんまで注目されちゃって……!」
「いいよ、驚いただけ」
はは、ともう一度声を出して笑った文哉くんは、耳も赤くなっていた。
「俺も好きです」
文哉くんは、はにかみながら答えてくれた。
彼の両手が持ち上げられてわたしに近づいてくる。ゆっくりとしたその動作は、どことなく躊躇しているように思えた。けれど、文哉くんはその手をわたしの背中に回す。引き寄せられたわたしの体は、すっぽりと彼の体に包まれた。
喧騒が耳に届く。
おめでとう、と祝福してくれる声が聞こえる。
嬉しいはずなのに、嬉しいだけじゃない涙が浮かんでくる。
喉が萎んでなにも言葉にできない。
「笑っていてくれるなら、なんでもするよ」
耳元で、まるで独り言のように文哉くんが言った。その声は、かすかに震えていた、と思う。
どんな表情で、どんな気持ちでそう言ってくれているのか、彼の胸板しか見えないわたしにはわからない。
ただ、なんとなく、今にも壊れてしまいそうだと思った。
抱きしめられているのはわたしなのに、彼を抱きしめたくなる。迷子になって不安で泣きそうになっている子どものように彼を包み込んで、大丈夫だと言いたくなる。
だから、わたしも彼の背中に手を回し、服をぎゅっと握りしめた。
文哉くんへのこの気持ちは、ウソじゃない。彼が口にしてくれた気持ちと同じように、わたしも彼を笑顔にしたいと思う。
そうしたら、彼に出会えたことの意味が見つけられるかもしれない。
ふわりと舞った生ぬるい風は、わたしの気持ちを少し重くさせる。
――運ばれてきたのは、罪悪感だ。
◆ 8月 ◆
堤医師は、血液検査が書かれた縦長の用紙を見ると、
「ううん」
と咳払いするように唸った。
ここは町はずれにあるこの町唯一の総合病院。
昔から町のシンボルで、八階建ての外観は遠くからでも見えるほど。
引っ越しをしてきてすぐに体調を崩して以来、たまにここに通っている。できれば、近所にある内科医がよかったけれど、母親は頑なに譲らなかった。
循環器科の堤医師が担当医だ。
「あまりよくない結果が出てるの。炎症反応の数値が先月より悪くなっている」
血液検査の用紙を渡されるが、項目はすべてアルファベットで書かれていてどこを見ればよいのかわからない。
「学校が大変なら少しお休みしてもいいくらいのレベルよ」
堤医師の進言に、僕が答えるよりも早くうしろに座っていた母親が身を乗り出すのがわかった。
「私もそう言っているんだけど、この子ったら全然聞いてくれないのよ。部活も毎日のように参加しているみたいだし。姉さんからも言ってちょうだいよ」
不満を訴える母親と、目の前に座っている堤医師は姉妹の関係。
つまり僕にとって堤先生は伯母さんに当たる人だ。だから、わざわざ総合病院に通う羽目になったわけで……。
「あらあら。どうりで体中真っ黒だと思ったわ」
五十代半ばの堤医師。すっぴんに近いメイクに黒縁メガネ、白髪交じりの髪をうしろでひとつに縛っている。
ちなみに独身で、母親が言うには『姉さんは自分自身と結婚している』のだそうだ。
「たしかに部活も大変だと思うけど、今は炎症反応を抑えるほうが先よ。食欲もないみたいだし、微熱だってあるのでしょう?」
小さいころからの関係だからか、堤医師は子どもに言い聞かせるようにやさしく諭してくる。
「はあ……」
「それに、抗生物質って飲みすぎはよくないの。悪い菌だけじゃなくて、いい菌まで殺しちゃうから」
「そこまでストレスとかないと思うんだけどなぁ」
そう、ストレスなんてどこか遠くへ飛んで行ったはず。実際に今の僕は過去最強クラスのリア充なのだから。
考えるとにやけてしまいそうで、わざと咳払いをすると、
「もう」
と、うしろの母親が声をあげた。
「ストレスって知らないうちに溜まっちゃうのよ。だいたい、最近食事もろくにとらないじゃない。どんどん痩せていくし心配なの。夏休みなんだから少し安静にしてよね」
「わかってるって」
ひとりでここまで来たはずが、予約の情報が回っていたのか待合室に平然とした顔で母親は待っていた。
ほんと、いつまでたっても子ども扱いなのだから。
「血液の検査範囲をもう少し広げたいから、このあともう少し血をちょうだいね」
まるでプレゼントでもねだるような口調の堤医師に顔をしかめてみせる。が、うしろの母親が「そうね」と聞いてもいないのに同意する。
「いくらでも取ってちょうだい」
「本当なら精密検査をしたほうがいいと思うの。ストレスにしては長引きすぎているし、ほかの病気が原因の可能性もあるのよ」
堤医師は僕ではなく母親に目線を送っている。『お前が説得しろ』と言いたげに目を細めあごをクイッと動かすと、母親は大きくため息をついた。
「私もそう言うんだけどねぇ、この子、言うこと聞いてくれないのよ。反抗期かしら?」
「子どものいない私に聞かないでよ。言うことを聞かせるのも母親の務めでしょう」
ズバリと言ってのけた堤医師に母親はなにやらブツブツ言っている。ようやく僕に視線を合わせた堤医師が、「あのね」と続けた。
「CTスキャンと胃カメラだけでも今日やっていかない? 時間はそんなにかからないし、胃カメラは麻酔を使ってもいいし」
「結構です」
「少しは考えてから答えてよ。お盆に入ってから具合が悪くなったら困っちゃうでしょう?」
「えっと……」
宙を見て数秒考えてから、
「結構です」
そう答えた。
クスクスと笑いながら堤医師がカルテをパタンと閉じて看護師に渡した。
「とにかく、今週は強い抗生物質出しておくから、そのあいだに数値を安定させましょう。お盆が終わったらまた来てちょうだい。これで数値が悪かったら、最悪入院してもらいます」
「ええっ、入院!?」
そこまで悪いと思っていなかったので思わず大きな声を出してしまった。そんな僕に、堤医師はメガネを人差し指で直しながら鼻でため息をつく。
「それくらい数値が悪いの。自分の体にもっとやさしくしてあげなさい。以上、わかった?」
彼女の中では、まだ僕は子どものまんまなのだろう。
渋々うなずく僕に、堤医師は満足そうに微笑んだ。
◆◆◆
駅の改札口に着くと、朝だというのに汗ばんでいた。
空を見ればどんよりとした重い雲が流れている。
……傘を持ってくるべきだったかも。
そんなことを考えながらスマホをチェックする。
朝、風花から来たメッセージには、
【おはよう。楽しみすぎて寝不足。十時に駅でね♪】
と書かれてあった。
暗記するほど何度も読み返してしまう僕こそ、今日のデートが楽しみでたまらない。
まだ九時過ぎだというのに到着してしまった。
二ヶ月前に風花に告白をし、先月その答えをもらえた。
自分に恋人ができるなんていまだ信じられないし、実感もないままだ。そんな僕たちの関係は、夏休みに入ると同時に急に近くなった。
本来は水やり当番も交代でするはずだったが、約束したわけでもないのに毎日のように僕たちは夕方、部室で会うようになった。
いつしか、待ち合わせ時間は早くなっていき、『こんな昼間に水やりするな』と下瓦さんに怒られてしまうほどに。
そんなときは、図書館で涼を取ったり、ショッピングセンターのフードコートで夏休みの課題をしたりした。
一秒一分一時間、そして一日が愛おしかったし、同時に具合の悪い日は神様を恨んだりもした。
風花はやっぱり夜は家にいたくないようで、夏休みになってからは昼間も外にいることが多いようだ。
風花の姉は二歳年上の高校三年生らしい。
『もうすぐ音大の推薦入試があるんだって。今度の日曜日は一日ずっと練習するみたい』
ちょっと悲しげに言った風花を今日のデートに誘ったのは自然な流れだったと思う。
けれど、よいことばかりは続かない。
「天気がなあ……」
今にも雨が降りそうな空模様。
これから四つ先の駅近くにある植物園へ行くことになっている。デートに植物園に行くなんて、部活の延長みたいにも思えるけれど共通の趣味だからこその選択だ。
風花はほかにどんな趣味があるのだろう。
彼女のことを、これから僕はどんどん知っていく。そのたびに、ふたりの距離は距離は近くなるんだ。
考えるだけで胸がまた鼓動を速めるようだ。
ポケットの中のスマホが震えているのに気づいたのはそのとき。風花からだと、慌てて取り出すが画面には【犬神】と表示されている。
『スズッキイ、暇してる?』
開口一番訊ねてくる犬神に、
「おはよう」
と、わざとらしく朝の挨拶をしてやった。
『おはよう、ってもう九時だぜ。暇だからこれからどっか遊びにいかね?』
「……えっとさ」
返事に詰まる僕に気づくことなく、犬神は『ボウリングとかは?』と話を進めるので困ってしまう。
風花とつき合っていることはまだ誰にも話をしていなかった。言えない理由なんてない。むしろ大声でクラス中に宣伝したいくらいだ。
それでも言えずにいるのは、風花が恋人だという実感がないままだから。いや、自信がない、というほうが近い感覚かもしれない。
「今日はちょっと出かける用事があってさ」
『珍しい。どこ行くわけ?』
「べつにたいしたところじゃないよ。そっちこそ部活はいいの?」
『大丈夫。それより体調が悪いのに出かけていいのかよ』
「ボウリングに誘っておいてよく言うよ。ほっとけよな」
焦って乱暴な口調になる僕に、なぜか犬神はため息をついた。
『あーあ。おれの友だちはなんにも話をしてくれないから悲しい』
「……なんだよそれ。そんなこと、ないって」
『あるある。初デートってこと、おれには内緒なんだな。くやしー』
「へ?」
周りを見まわすが、まばらな駅前に犬神の姿はない。
まさか、とうしろを振り向くと、バスロータリー近くの歩道に、ジャージ姿の犬神が立っていた。
「げ、いたのか……」
『これから他校で練習試合ってわけ。バスに乗ろうとしたら、おめかしをした親友がいたからさ。どう見てもデートだろ?』
「…………」
スマホを耳からはがせずに黙る僕に、犬神は『ふ』と笑った。
『デートの相手は風花ちゃん。友梨はとっくに風花ちゃんから聞いて知ってたみたいだぞ。おれにも正直に話をしてほしかったなぁ』
なんと答えていいのかわからないでいると、
『もしもーし?』
数十メートル先で友は片手をぶんぶんと振った。
「言おうと思ったんだけどさ……」
『照れんなよ。すげえうれしいニュースなんだからさ、堂々と宣言すりゃあいいじゃん。おれなら真っ先にお前に言うけどな』
昔から自分のことを周りに言って回るタイプじゃなかった。それでも、犬神の言うことはもっともだと思うし、逆の立場ならさびしくもなるだろう。
「ごめん。風花とつき合ってる」
素直に伝えると、向こうで犬神はピースサインを作った。
『おめでとう。幸せになれよ。んで、おれにも誰か紹介してくれよな。あっ――』
短く声を出した犬神が急に背中を向けた。
『じゃあおれ行くわ。風花ちゃんがそっちに歩いていく』
「えっ!?」
左に視線をやると、青色のワンピース姿の風花がこっちに向かっていた。彼女が僕を見つけてうれしそうに目を細める。
『なんかまるでスクープ映像みたいだな。動画でも撮ってやろうか?」
「……いいよ」
答えながらも風花から視線が外せない。
曇り空なのも忘れ、まるで眩い光の中にいるように見える。
いつの間にか通話は切られたらしい。
スマホをするんとジャージのポケットに滑らせると、犬神は軽く片手をあげて行ってしまった。
追いかければ間に合う距離なのに、もう視界も、頭の中も風花で満たされている。
「おはよう」
夏色のきみが僕だけを見てそう言う。胸がなんだかパンパンに膨らんだみたいで、
「あ……おはよう」
うまく声が出せない。
「じゃあ、行こうか」
そう言うと僕はもう歩き出していた。横に並ぶ風花の横顔を見られずに、駅へと進む。
まるで、片想いみたいだな。
そんなことを考える頭上で、雷がひとつ鳴った。
園内に入ったとたん降り出した雨は、目の前に広がる庭園の緑色をくすませた。
最初のうちは傘をさして雨に打たれる花を見ていたけれど、激しさを増す雨と雷にやむなく屋内に避難することに。
そばにある温室でサボテンやバラを見ているあいだにも、屋根を叩く音はどんどん大きくなり、僕たちはたまに顔を見合わせて笑った。
結局、温室を出たころには雨は本降りになり、屋内のカフェテラスで慣れないコーヒーなんかを飲んでいる。
事前にネットで調べた『夏の花コーナー』や『噴水広場』には行けずじまい。
もともと雨にはよいイメージがなかったけれど、最初のデートがこれではますますきらいになりそうだ。
「でね、アネモネは冬の寒さを実感させないと花が咲かないんだって。なんだかかわいそうだけど、十月になったらすぐに球根を土に戻そうね」
そう言うと風花は、この植物園特製のハーブティーに口をつけた。
「そうだね」
「液肥は月に一回程度だって。あげすぎると腐っちゃうからわたしがやるね。あ、下瓦さんにも言わないと。……って、なんで笑っているの?」
アネモネの話をするときの風花は本当に楽しそうだ。
もちろん、ほかの植物の手入れを怠っているわけじゃないけれど、贔屓しているのがバレバレで笑ってしまう。
「笑ってないよ」
「ウソ、笑ってるよ」
同じように微笑んでから、風花は窓の外の雨に目をやった。
今日の風花はいつにも増してかわいらしい。それは気のせいなんかじゃない。部活のためのパンツスタイルもかわいいけれど、青色のワンピース姿の風花を何度も見てしまう。
そのたびに緊張してしまう僕だ。
「これ、大事にするね」
風花の小さな手にのっているのは、さっきおそろいで買ったサボテンのキーホルダー。緑色のサボテンに丸い目が描かれている。
「花のやつにするかと思った」
まさかのサボテンに、さっきはずいぶん笑ったっけ。
「だってアネモネのキーホルダーがなかったから」
苦いコーヒーを飲んでからふと気づく。
「風花はどうしてそんなにアネモネが好きなの?」
ただ好き、というのとは違う気がする。
枯れたそばから来年の開花を楽しみにしているのが伝わるほど、風花はあの花に惚れこんでいるのはたしかだ。
「えっとね」と言ってから風花は少し目線を上げて考える仕草をした。
「はじめて会った日もね、家に帰りたくなかったんだ。それで学校の中を探検してたの」
あの日のことはずっと覚えている。アネモネに囲まれるように風花がそこにいた。
「はじめは『かわいい花だな』って思って見ていたの。でも気づいたらしゃがみこんでじーっと眺めてた。不思議なの、白いアネモネに吸いこまれるような感覚だった」
「あ、うん」
「そんな私に、花言葉を教えてくれたよね。アネモネが好きなのは、きっとわたしたちの出会いの花だから」
「あ、うん」
まさかそんな理由だとは思わなかった。
同じ言葉で返す僕に、風花は恥ずかしそうに視線を伏せた。長いまつ毛が瞬きのたびに揺れている。
「僕もアネモネが好きだよ」
照れくさいセリフも平気だ。本当に思っていることなら、するりと言葉にできる。
さっきの雨が、風花のワンピースの肩辺りを濃い色に変えている。
「お姉ちゃん、今ごろピアノがんばってるかなあ」
少しの悲しみ、少しのあきらめが一瞬浮かんだように見えたけれど、瞬きと同時に消えた。
つき合い出してから、風花はたまに姉のことを話してくれるようになった。
相変わらず気の利いた助言はできないままだったけれど、風花は気にした様子もなくぽつぽつと話を続けることが多かった。
「最近は、どんな自分を演じているの?」
「うーん。『お姉ちゃんを応援している自分』かな。でも、少しずつピアノの音を耳にしても大丈夫になっている気がする。前に話を聞いてもらってから、受け止められるようになったんだと思う。本当にありがとう」
「僕はなんにもしてないよ」
「そんなことない」
そう言ってから、風花はなぜかぷうと頬を膨らませた。
「そんなことないもん」
「急にどうしたんだよ」
なにかまずいことを言ったのかと心配になる僕に、風花は「だって」と上目づかいに僕を見た。
「自分のすごさをわかってなさすぎ。わたし、すっごく助けられているんだからね」
「え?」
「まずアネモネの花言葉を教えてくれたでしょう」
左手を上げ、美しい指を一本立てる風花に変えている気圧されるようにうなずくと、今度は中指を上げ指を二本にした。
「次にアネモネの育て方を教えてくれた」
「アネモネばっかじゃん」
苦笑する僕に、自分でも気づいたのかモゴモゴと口ごもってから、風花は「それに」と言葉を続けた。
「お姉ちゃんとの話を聞いてくれた」
「聞くだけだけどね」
「それってすごいことだよ。わたし、友梨にしか相談できなかったし、もちろん親にも言えなかった。こんなに安心して話せるなんて、なんでだろう?」
そんなこと訊ねられても困るけれど、悪い気はしない。
「花が好きな人に悪い人はいないから、とか?」
なんて誤魔化す僕に風花は感心したようにうなずく。
「たしかにそうだね。花が好きな人ってみんなやさしいよね。下瓦さんも最近いろいろ教えてくれるんだよ」
「そうかな。あの人、最近やたら命令してくるけど」
鉢の移動や雑草取りなどだけでなく、夏休みになってからは樹木の世話も任されるようになった。
体力仕事ばかりで、毎日ヘトヘトだ。
ふと、ポケットに入っている薬の存在を思い出した。抗生物質は結局一回飲んだだけでやめてしまった。
飲めば気持ち悪さは軽減できるものの、逆に胃痛が酷くなったから。
それに、今日の約束をしてからは頭の中がそのことでいっぱいになっていて、不調を感じている暇もなかった。
やっぱり恋をするってすごいことだ。
こんな魔法にかかったように夢中になれることはこれまでなかった。
でも僕らは恋だけをして生きているわけじゃない。僕は体調のことが心配だし、風花は姉のことで今も悩んでいる。苦しさを紛らわすために好きになったんじゃない。
それは風花も同じだろうか?
そっと風花の左手を握ると、風花は少し驚いたように目を丸くした。
「魔法」
単語を口にすれば、
「魔法だね」
風花は柔らかく微笑んでくれた。
トレイを持った店員が横を通りすぎたので、慌てて手を離した。
そうしてから僕たちはぎこちなく天気の話なんかをする。
告白した日からもっと風花を好きになっている。
このまま気持ちが止まらなかったら、自分はどうなってしまうのだろう。
そう思えるほど夢中になっている。
片想いなんかじゃない。風花が僕の彼女だという実感は、心地よい不安とともに存在している。
こんな話ができるなら、雨の日も好きになりそうだ。
◆◆◆
火曜日、久しぶりに不機嫌な朝。
理由はふたつある。
ひとつは、今日からお盆入りのため風花に会えないということ。
親戚の住む岐阜県に家族で行くらしく、平気なフリで昨夜も【行ってらっしゃい】とメールをしたけれど、全然平気じゃない。
もうひとつの原因は、母親がさっきから鬼のような形相で台所のテーブルの向こうに座っていること。
普段は怒ることは少ない分、たまにこうなるとかなり怖い。
怒鳴ったり大声をあげるならまだマシ。うちの母親が本気で怒ると、なぜか無言になるのだ。長い時間、仏像のように動かない母親に、重々しい空気がしかかってくる。
今も、微動だにせず見つめてくる母親に、僕は修行のようにじっとうつむくことしかできない。
「で、なんで?」
数分前と同じ言葉で訊ねる母親の手元には、隠しておいた抗生物質がある。ブルーの錠剤はひとつ空になっているだけ。
見つからないようにつねにズボンのポケットに入れていたのが逆効果だった。
うっかり洗濯物に出してしまったのだ。
「なんでちゃんと飲まないの!」
疑問形で訊ねないのが、母親が本気で怒っていることを示しているよう。
普段ならすぐに謝るところだけど、今日はこれ以上言われたくない気持ちのほうが強い。
風花に会えないことのほうが、今はよっぽど重要な問題だ。
「べつに理由はないよ」
椅子から立ちあがる。
食べかけのヨーグルトもそのままに出て行こうとする僕に、
「待ちなさい!」
焦った声を聞こえないフリでそのままリビングのドアを閉めた。
部屋にスマホと財布を取りに行きたかったが、きっと母親に捕まるだろう。
そのまま鍵だけを持って外に出た。
「うわ……」
朝から鋭く目に飛びこんでくる日差しに目を細め、そのまま自転車に飛びのった。
こうなったら部活に逃げるしかない。
ペダルを漕ぐと生ぬるい風が体にぶつかってくる。
足に力を入れてペダルを回すほどにスピードは上がっていくけれど、罪悪感がすぐうしろをついてくる気分。
風花も家にいたくないときはこんな気持ちだったのだろうな。
会えないと思うほどに会いたくなる。
こんな気持ち、今まで知らなかった。
校門をくぐり抜け駐輪場へ向かう。スマホがないからわからないけれど、まだ八時を過ぎたくらいだろう。
駐輪場の入り口が見えてきたとき、そこに風花がいた。思わず急ブレーキをかけるとすごい音が校舎に反響した。
え、なんで風花がここに……。
「おはよう」
ほっとした顔で駆けてくるのは、やっぱり風花だ。
白いスカートがひらひらと踊っている。僕も自転車のスタンドを立てて近づく。
「どうしたの? もう出かけたと思ってた」
「これから行くところ。でも、ひょっとしたら少しでも会えるかな、って思って来てみたの」
驚く僕に風花は胸に手を当てて息を吐いた。
「夕方にしか来ないってわかってたのになんでだろう? でも、会えた。うれしい」
白い歯を見せて笑う風花。
僕を待っていてくれたんだ……。
「僕もうれしいよ」
擽ったい幸せをくれる風花に、今朝のいらいらはどこかに飛んで行ったみたい。
駐輪場に自転車を置くと、荷台に風花はふわりと腰をおろした。
「体調はどう?」
風花の問いに、一瞬今朝のことを知っているのかとドキッとする。
けれど、風花は「ほら」と言葉を続けた。
「このあいだ、体調を崩してるって言ってたから」
「ああ」
納得すると同時に、心配をかけちゃいけないと思った。それは、決意に似ている。
「大丈夫。ストレスは風花がどこかへ打ち飛ばしてくれたから」
「ふふ。ホームランみたい」
「そ、ホームランだね」
クスクスと笑い合う。
「夏休みはどうしてるの?」
「とくに予定はないよ。犬神とたまに会うかも、ってとこ。戻ってきたらまたどっかに行こう」
「うん」
「映画もいいし、駅前にできた本屋さんも行ってみたい。結構広いみたいだし、カフェもついてるんだってさ」
行きたいところはたくさん。でも、それよりもそばにいたいと思っている。
口にすれば、これから旅立つ風花に心配させてしまうだろう。
「とにかく楽しみに待ってるよ」
ニッと笑う。
恋は、片想いじゃなくてもどこかせつないものなんだな。
こんなもどかしい気持ち、はじめて知ったよ。
ちょっとした沈黙に、誰にも聞かれていないのに僕たちは小さな声で笑った。
「あ、もうそろそろ行かなくちゃ」
「うん。気をつけて」
本当に気の利いた言葉が浮かんでこない。
風花は「うん」とうなずくと、
「いないあいだ、お花のことよろしくね」
と、頭を下げてから歩き出す。
わざわざ来てくれたうれしさと、これから数日会えないさびしさが同じ量で胸にこみあげてくる。
この瞬間から前よりももっと、きみのことばかり思うんだ。
鼻のあたりがツンと痛いし、お腹のなかは沸騰したように熱くなっている。
たとえ言葉にできなくても、今感じた気持ちを伝えたい!
「待って」
無意識に呼びかけると、僕は風花に向かって走っていた。笑顔のまま振り向く彼女をギュッと抱きしめる。
心がそうしたいと願っているように、あとから思考が追いつく感じだった。
驚いただろう、風花も僕の背中にゆっくり手を回した。
本当の気持ちなら、言葉なんていらないんだと思った。
すぐ近くで鳴き出すセミの声にようやく僕は体を離した。
目の前には真っ赤な顔の風花がいる。
「気をつけて行くんだよ。走ったりしないで」
「うん」
そっと体を離せば、彼女のぬくもりがまだ残っている。なんだか幸せなのに泣きたい気分だった。
「じゃあ、またメールして」
精一杯の強がりに、風花は僅かにうなずいた。
「……うん。行ってきます」
見えなくなるまで風花の背中を見送ると、何度も振り向いて手を振ってくれた。
会えない期間、何度もこのことを思い出すんだろうな。
自分のとった行動が恥ずかしくもあり、誇らしくもある不思議な気分だった。
鼻歌交じりに自転車を置く。
まずは気温が上がる前に水やりでもするか。
自転車の鍵をポケットに入れ歩き出したときだった。
思わず足が止まるほどの吐き気がこみあがってきた。今にも嘔吐しそうになり口を押さえて息を止める。
久しぶりに食べた朝食のせい?
いや、ほんの数口ヨーグルトを食べただけだ。
そのあとすぐに自転車に飛びのったことも影響しているのかもしれない。
「ああ……」
薬は台所に置いてきてしまった。
しょうがない。母親とのけんかがあったからこそ、風花に会えたのだから。
何度か深呼吸をしているうちに、徐々に吐き気は消えた。慎重に足を動かしても、もう大丈夫なよう。
そしてまた、きみの笑顔が頭に浮かぶ。
今までそこにいたのに、もう風花に会いたくてたまらない。吐き気も忘れて、僕は大切な人のことを考える。
セミはさっきよりもボリュームをあげて、騒がしく夏に鳴いている。
◆◆◆
風花に会えなくなって三日目の夕方、晴れ。
駐輪場に自転車を置くと、そのまま部室へ向かう。いつもの手順で作業着に着替えエプロンをつける。ホースを準備し水やりをしていく。
毎日のように風花とはメールや電話をしている。風花は親戚の人がいかにお酒を飲むかとか、従妹の子供が大きくなっていた話などをしてくれた。
学校と家の往復だけの僕の日々は平凡だったけれど、ちょっとした花壇の変化などを話すと彼女はそれをうなずきながら聞いてくれた。
だから、毎日の水やりも風花に話をするために、よりしっかりとするようになっていた。
「あと三日か……」
つぶやく声がかすれている。ここのところ体調が悪い。
抗生物質は母親により管理され、強制的に飲まされている。
飲んだあとの胃痛は相変わらずだったけれど、それでも日に日に吐き気は強くなっているようだ。
微熱があるのか今日は一日だるいままだった。それでも、水やりはしなくてはならない。
「おう」
声のするほうを見ると下瓦さんが近寄ってきた。
「お疲れ様です」
「ああ」
下瓦さんに夏休みはないらしく、お盆真っ只中の今日もいつもの作業着姿。両手にはなにに使うのかバケツを三つ持っていた。
「液肥はもうやらんでいい」
「あ、はい」
「裏門の木にハチがいたから、近くに巣があるかもしれん」
「はい」
「球根は乾燥したら小屋に入れておけ」
いつものように矢継ぎ早で出される指示を、必死で頭に入れる。
熱のせいかうまく処理ができないまま、一礼して部室へ歩き出す。
「なあ」
下瓦さんの声に振り向くと、彼は眉間にしわを寄せていた。
「明日からはしばらく休め」
言われた意味がわからず固まる僕に、下瓦さんは目を細めた。
「夏休みの宿題も多いんだろ。しばらくはそっちに集中しろ」
「え、でも……」
「水やりくらい俺ひとりで平気だ。実際、桜なんて今年の春休みは、一度も顔を見せなかったぞ」
顔をゆがめる下瓦さん。これが彼の笑みだということもすっかり理解している。
思い返せば最初はただおっかない人としか思っていなかった。
誰よりも植物を大切にしている下瓦さんのことを、見た目や態度だけで判断していたっけ……。
「下瓦さん」
「ん?」
「いつもありがとうございます」
「なんだそれ」
ケッと吐き捨てるように言う姿に、思わず笑みがこぼれてしまう。
彼は不器用だけどいい人だ。
「いつか下瓦さんのようになりたいって思っています」
「熱でもあるのか?」
怪訝な顔もそのはず。自分でも素直に出た言葉に驚いている。
ああ、そっか。
こういうのも風花が僕に教えてくれたんだ。
早く風花に会いたい。その日まではがんばらないと……。
「宿題は大丈夫です。もう終わらせましたから」
もう少しで風花も帰ってくる。
そうすればまたふたりでここで会えるのだから。風花がいないあいだ、花たちを守ることが使命のような気さえしている。
「いいから休め。これは業務命令だ。九月になったら忙しくなるからな」
言うだけ言って下瓦さんはさっさと行ってしまう。
困ったな……。
追いかけて『やらせてください』と言おうか、と思ったが、よく考えたら、逆に風花とほかの思い出を作れるチャンスだと気づく。
植物園のリベンジもしたいし、それならそれで……。
そこまで考えたときだった。
ぐにゃりと視界がゆがんだ。
気づけば僕は、地面にお尻をつけて座りこんでしまっていた。
これまでにないほどの強烈な吐き気がこみあげてくる。
「ぐ……」
自分の声とは思えないほどの低い音が口から漏れた。
「鈴木?」
声に顔をあげると、ゆがんだ世界の向こうで下瓦さんの声だけが聞こえる。
「どうした? おい」
返事をしようとすればさらに気持ち悪さが襲ってきて、口からなにかを吐き出していた。
喉がひりひりとして、さっき飲んだオレンジジュースが土に吸いこまれていく。
「鈴木、おい、鈴木!」
背中をさすられる感覚がするが、それよりも寒くてたまらない。
やがて鬼瓦さんの声も遠くなり、僕の世界は真っ黒に塗り替えられた。
◆◆◆
八月三十一日、夜九時。
しんとした部屋でクーラーの音だけが耳に届いている。
さっきまで我が家の食卓はにぎやかだった。
学校をサボりがちの弟とも最近はよく顔を合わせるようになったし、母親は仕事であった出来事を面白おかしく話していた。
食欲もずいぶんと戻ってきている。
あの日倒れた原因は『脱水症状』が原因と堤医師からは説明されている。実際、点滴や薬ですぐに回復したため、数日の検査入院で済んだ。
これまで拒んでいた検査もずいぶんさせられた。
下瓦さんに甘えて水やりに行くのはやめることにした。
風花とは何度か会うことができた。
それはファーストフード店だったり駅ビルだったり、たまには学校の花壇を見にいったりもした。
僕はうまく笑えていただろうか。
彼女に教えてもらった〝違う自分〟を演じられたのだろうか。
こうしてひとりベッドにもぐれば、否応なしに見たくない真実と向き合うことになる。
知りたくない秘密ほど、人は知ってしまうものなのかもしれない。
自分の体に起きていた異変は、今になって大きなモンスターのように僕に襲いかかっている。
もちろん、検査結果や病名を知らされたわけじゃない。
自分なりにネットで調べたり、母親や堤医師の反応を見て確信したことがひとつある。
どうやら、僕はもうすぐ死ぬらしい。
◇ 9月 ◇