羊は推理ではなく仮説を解く

 四

「――おいおい、聞いたか? 
「二年C組の牛山っていう女子生徒が、盗難の犯人じゃないかって噂されている話。
「本人は否認しているけど、B組の戸田が証拠を掴んだって言って教師に突き出したんだと。
「そしたらさ、牛山を庇った奴が戸田に自分が一日で真犯人を暴くってC組の教室で堂々と宣言したんだよ! いやぁ……すげぇ緊迫感で圧倒されたよ。
「戸田って理事長の息子だろ? 絶対二人とも退学処分にされるよな……。停学とか、謹慎処分だったらまだいい方だろうけど……。
「え? 喧嘩を売った奴? C組の一番後ろの席でいっつも寝てる奴がいるだろ? 
「そう、アイツ。起きているところなんて初めて見たぜ。もしかしたら声も初めて聴いたかも。
「そいつの名前は確か――」


「東雲君、どうやって捜すつもりなの?」
 全ての授業が終わった放課後の教室は、ホームルームを終えた生徒達がやれ部活だやれ塾だ、どこで遊ぼうかなど、朝と比べてとても賑やかだった。
 様々な会話が飛び交う中、教室の一番後ろの席で机に頬杖をついてボーッとしている東雲君の元へ行くと、開口一番に問う。
 授業中はもちろん、放課後もほぼ寝ていて誰かが声をかけないと帰らない彼が、朝の戸田君に宣言してからずっと目を開けている。
 授業中も窓の外を見ていてまともに先生の話を聞いてはいなかったものの、「起きているだけ嬉しい」と担任の猪野先生に泣かれると、小さく溜息を吐きながら困った顔をしていた。
 私が声をかけると、東雲君は頬杖をついたまま目だけを動かした。
「おー……ウシワカちゃん」
「牛山だって。ふざけてる?」
「いやいや、俺がそんなバカに見える?」
 見えるから聞いているんだよ。
 ……とは言えなかった。いちいち名前を訂正するのも疲れてきた。私は小さく溜め息を吐くと、東雲君は席から立ち上がった。
「それじゃ……牛山ちゃん、付き合ってよ」
「……は?」
「だから、アンタがいないと犯人見つけられないから、付き合って」
「……ああ、うん」
 突然何を言い出すのかと思った。
 少しだけ驚いた心臓を落ち着かせて、教室を出ていく東雲君の後を追う。
 一歩教室の外へ出ると、廊下にいたほぼ全員が私に目を背け、わざとらしくひそひそと話し出した。
「お。アイツが噂の泥棒か……」
「今日はどこのクラスの奴を狙うのかな?」
「ちゃんと鍵を閉めておかなくちゃ」
「意味ないんじゃね? 開けられたら終わりだろ?」
「戸田の奴、今日も動画を撮るのかな?」
「…………」
 校内は既に盗難騒ぎの噂で持ち切りだった。面白がっている人もいれば、本当に恐れている人もいる。例えそれが他人を傷つける言葉であっても、仕方がないことだってわかっている。
 ――わかっている、はずだった。
 人って、小さな言葉一つでこんな簡単に傷つけられるものらしい。胸が痛い。早くこの場から離れたいと思いながらも、足は竦んで動こうとしない。
 顔も上げるのも辛くなって俯くと、突然頭に何か乗せられた。重みで頭が上がらない。横目で見上げると、東雲君が左手で私の頭を押さえ、軽い力でグリグリと髪を掻きまわし始めた。
 暫く放置していたが、流石にうざったくなってきたので強引に彼の手を掴んで頭から離す。
「――人の髪をぐしゃぐしゃにして楽しいか!」
「だって顔が不細工だったから」
「理由になってないし相変わらず失礼だよね! 元々こういう顔なの!」
「元気じゃん。その不細工な悲劇のヒロイン顔してても問題は解決しねぇぞ」
「別にヒロインなんて……!」
「言わせたい奴には言わせておけばいいんだよ。アンタは濡れ衣を証明することだけを考えて、前だけを向いていればいいんだって」
 茶化すように笑って言うと、昇降口とは反対の方向に歩き出す。ぶっきらぼうな言い方だったが、彼なりの励ましだったのだろう。彼が歩き出した方向に足も動くようになっていた。
 駆け寄って彼の隣に追いつくと、軽い愚痴を続けた。
「そもそも、盗まれるのが恐いなら学校に大金を持って来んなって話だろ。五千円や一万円なんて、学生にしては高価な金額だろ。クラス内とはいえ、ランダムで狙われているのがわかっているなら教師の言うことを聞かずに管理できなかった生徒が大問題。更に話を聞かないとわかって放置した教師はもっと問題! 特進科も普通科も、加えて教師も問題児ばっかりだな!」
 授業中に寝ている問題児の東雲君は自分にも言っているのだろうか。どう聞いても自分の首を絞めているようにしか思えない。
「……そういえば、どうしてお札ばっかりなんだろう?」
 私が小さく呟いた言葉に、東雲君は足を止めて振り返った。眉をひそめて首を傾げると、不思議そうに聞いてくる。
「お札だけって? なんで盗まれたのが札だけってわかるの?」
「わ、私は聞いただけだからね? それに小銭を盗まれたところでこんなに大事にはならないんじゃないかな?」
 彼にそう言ったものの、私も実際にどこまで被害が出ているのか把握できていない。
 教室中で聞こえてきた話をまとめると、被害に遭ったのはすべて二年生で、財布からお札の代わりに折り紙が入っていたことくらいだ。
 私も東雲君も、まず情報収集から始めた方が良さそうだ。しかし、この状況で生徒にA、B組の生徒に話は聞きに行きづらい。彼らは犯人が私だと思っているし、戸田君に啖呵を切った東雲君も快く思われていないだろう。すると何か思い付いたのか、彼は一度止まって私に問う。
「アンタ、運動苦手?」
「いや別に、普通だけど……って、関係あるの?」
「ないけど。でも情報収集するのに最適の場所を思い付いた」
 付いて来い、といって先を歩く。ニヤリと口許を緩めた彼はとても楽しそうだった。
 東雲君が向かった先は非常階段だった。教室のある二階から延々と登っていき、何階かの踊り場でようやく彼の隣に並べると、彼は小さく笑って言う。
「おー頑張るじゃん」
「付いてこいって言ったのは東雲君でしょ……! ってか、なんで非常階段なの?」
「用があるのが五階だから」
 この学校の校舎は五階建ての構造になっている。最上階である五階は、大きなプロジェクターがある視聴覚室と資料室が並ぶだけでほとんど使われておらず、生徒や教師や立ち入ることもない。
 そして非常階段もあまり使われていないため、埃がうっすらと積もっていたりしている。学年別で掃除担当があるため定期的に掃除はされているものの、先生の目も届かないのでサボりがちな場所でもある。
「普段使っている階段でもよかったんじゃ……」
「こっちの方が近いんだよ。ほら、あと一階分だ。頑張れ」
 心のこもっていない声援を投げながらさっさと上がっていく。もう少しくらい労わってくれたっていいのではないか。
「ねぇ、朝の動画のことなんだけどさ、どうして戸田君が撮ったものじゃないってわかったの?」
 話をすれば少しくらい歩くスピードを緩めてくれるかもしれない。そう思って朝から疑問だったことを彼に問う。
 彼はあの時、動画の静止画をじっと見ていただけで戸田君が撮ったものではないと判断した。それが本当なのか、戸田君の顔色を見れば明白だった。
「『細工するなら動画の中に時間と場所がわかるものを入れない方がいい』って、一体どこに入ってたの? 私も一通り見たけど、そんなのどこにも映ってなかったと思うんだけど……」
「……牛山ちゃんさ、動画の中心にいた女子生徒と南京錠しか見てなかったってことはない?」
 階段の途中で足を止め、東雲君は振り返って呆れた顔をして言った。
「女子生徒以外はちゃんと見た?」
 うろ覚えになっている動画を思い出す。
 確かにあの時は【私に似た人物が鍵を開けている】場面を見ていたから、周りの景色にまで気を留めていなかったのかもしれない。
 眉をひそめると、東雲君が小さく溜息を吐きながら教えてくれた。
「動画の女子生徒の顔、ちゃんと見れなかっただろ。あれはわざと窓の光を利用して、逆光で顔が見えないように計算していた。それに編集して顔以外の部分に加工を施せばある程度騙せる。
「……まあ、それはいいとして。
「俺が気になったのは影の伸び方だ。
「ウチの学年、AからD組まで一列に並んでるだろ? 窓際は西側にあって、中庭、柵を越えて校庭のグラウンド、それから少し離れたところに夏しか使われない、運が良ければ教室から見えるっていう屋外プール。
「二階ってことも含めて、C組は日の入り方が授業中の居眠りに最適な教室だ。明るすぎず、眩しすぎず。程よい太陽光が差し込んでくるのがいいよね。
「……話がずれたな。なんだっけ。
「ああ、そうそう。専門分野が中心のため、すぐに技術室や美術室に移動できると隔離された専門学科の五階建ての校舎――別館が、C、D組の教室と位置が被って影が教室内まで届くことは知ってるか? 丁度校舎が重なっているから、西に沈む太陽は、特にD組の教室には大きな影ができる。
「……ここで動画との矛盾が生じる。
「【五階建ての別館が影になっているあの教室に、どうやってあんなに夕焼けの日差しが入ったのか】ってことだ。不思議だろ?
「C組の教室を思い出して。天気の良い日は黒板に近い席の奴が眩しそうに比べて、俺が座っている後ろ側――つまり、D組側は眩しくない。俺があの席で爆睡できるのは、別館の影のおかげで丁度良い日差しの入り方をしているからだよ。
「……そう、影の伸び方。ロッカーの扉を開けたときの影の伸び方は、どう見ても昼間にはできないくらい伸び方をしていた。
「それらを踏まえると、動画の加工からしてオレンジ色の日差しは放課後以降に撮影されたもの、その時間帯に教室内を照らせるほど日差しが差し込む教室でしかできない。だから撮影されたのは、日当たりのよいAかB組の教室だ。
「……どっちかは知らねぇよ? だってD組の被害に遭った奴と同じ南京錠なんて、似たようなモン買ってくればいいだけの話だし。どの教室でも可能だっていう事実はわかった。
「ま、ぶっちゃけた話、誰もいない放課後にロッカーを開けても、中は教科書だけだろ。荷物なんて部活がある奴は部室に持って行ってるだろうし。教室にいちいち戻って帰る奴って早々いないんじゃね?
「まとめると、撮影された場所はD組の教室でもなく、動画に移っていたお札も財布も折り紙も、撮影の為だけに用意されたモンってことだ。わかった?」
 動画の再生時間は三分程。彼はその短い時間で、そこまで深く読み込んだとでもいうのだろうか。あの小さな画面の中でそこまで見えてしまうその洞察力に圧倒されていると、彼は更に続けた。
「動画を撮影したのが別の奴だと聞いたのは、口臭が気になる年齢にはまだ早い戸田クンは『生徒が教室にいない授業中に撮影した』と言った。
「もし仮に撮影されたのがD組生徒が教室にいなくて、授業中に取り付けられたカメラだったとしたら、人の動きに感知してズームを自動でできるカメラを仕掛けたってことだろ。
「殺風景な教室にカメラが仕掛けられてたら、俺だったら別の学年の空き教室を狙うね。
「でもあの動画の女子生徒は、一度動画を撮られたにも関わらず、堂々とカメラのすぐ近くでピッキングしていた。流石に不用心すぎねぇ?」 
「撮られた動画は手元がメインで上半身くらいまでしか映っていなかった。その高さからの撮影となると、監視カメラが隠せる場所はない。つまり、誰かが近くにいて撮影していたってことになる。
「撮影した動画は編集して、戸田に『決定的瞬間を撮ったけど言い出しにくい』とか言って渡したんだろうな。戸田君が顔に出やすいタイプでよかったぜ」
 確かにおかしい話だ。
 仮に二年生のすべての教室に監視カメラを設置したとして、戸田君一人でセットから編集までしているとは考えにくい。自動的にズームをするカメラなんて最近なら沢山あるだろうが、いくら理事長の息子で権限を持っているからといって、自己判断で監視カメラを設置するのはやりすぎな気がする。加えて東雲君の言う通り、女子生徒は一度ピッキングしている場面の動画を撮られている。警戒して周囲に目を配り、不審な動きをしてもおかしくはない。
「じゃあ、戸田君はその人物と共犯っていう線もあるんじゃ……」
「どうかな。表情に出やすい人間ほど、素直で馬鹿正直だったりするし。それをこれから探していけばいいんだよ」
 東雲君は五階と書かれた扉を開ける。いつの間にか五階まで登りきっていたらしい。
 開かれた扉の先には、他の階と同じように教室が並んでいるにも関わらず、ただ人気の少ない不気味な空気が流れていた。都市伝説のような開かずの間のようなものは存在しないため、七不思議や都市伝説の噂が出てきていないだけまだマシだろう。
 非常階段への扉のすぐ近くにある『資料室』と掲げられたパネルのドアを軽くノックすると、間も空けずに扉を開いた。そこには壁一面にファイルや本がずらりと並んでおり、その前には古びた二人掛けソファーが二つ、更に教室で使用している机が三くっつける形で置かれていた。少し離れた窓際の机には、プリントや新聞紙が散乱している。
 教室のひとつを改造して何でも相談室にしたり、本棚を裏返して出てきたボタンを押すと秘密の地下通路への道があるといった非現実的な仕様ではなさそうだが、小さいながらに物語に出てくる秘密基地のように思えた。
 異様な光景に唖然としていると、東雲君は扉を閉めて自分はソファーに倒れ込んだ。勢いが良かったのか、ソファーから軋む音がする。
「多分そろそろ先輩がくるから牛山ちゃんも座って待ってなよ」
 ……とてもくつろいでいらっしゃる。
 私は躊躇いながら近くにあった椅子に座った。
 慣れない空間に落ち着かず、挙動不審に周りを見渡していると、作業台の上に散乱しているものが大会で活躍した部活動のスナップ記事だと気付いた。他にも歴代の卒業写真やアルバムの他に部活等で賞を取ったときの新聞の切り抜きをファイリングして保管しているようだった。
「ねぇ、ここは何をするところなの? それに先輩って、東雲君には他の学年の人に知り合いがいたの?」
「随分失礼極まりない質問の連続だな」
 東雲君に言われたくはない。
「ここは歴代生徒会長が管理している資料室。校内の出来事を一年かけて紙に保存していく作業場ってところか。生徒会には他の生徒の出入りがあるし、他にも荷物があるからっていう理由でこの部屋が作られた。……らしい」
「らしいって、知らないの?」
「俺が知ってるわけないだろ。ま、こんな最上階まで来て、薄暗くボロボロの教室に好んで入ってくる奴はいねぇよ。そもそも五階に資料室があること自体、知っている生徒の方がいないんじゃねぇの。それでも気になるなら発案者に聞け」
「その発案者は?」
「知るか。……そこファイル取って。三十八って書いてあるやつ」
 怠そうに答えながらも、彼は指をさして私の後ろにある本棚のファイルの背表紙を指差す。『校内事変、三十八』と書かれたまだ新しいファイルを取って渡すと、彼はソファーに寝そべった状態でパラパラとページをめくった。
 横から覗き込むと、そこには今回の盗難騒ぎに関する情報が事細かに書かれていた。事件が発生した日、無くなったもの、被害に遭った生徒の名前。容疑者として名前が挙がっている私の名前もしっかり書き込まれている。
「約一ヵ月で二クラスの被害、か。随分手の込んだ窃盗犯だな。面倒臭い仕掛けのおかげでアンタが犯人じゃないことを明確にしてくれている」
「さっきから失礼ね!」
「喜べよ。濡れ衣だってことを証明出来る第一歩だ。……それにしても、わっかんねぇな」
 ソファーから上半身を起こし、ページを捲りながらぼやく。
「この騒ぎの目的が金目当てに思えないんだよ。それが目的だったら、わざわざ折り紙を財布に入れて盗んだ犯人がいることを主張する必要がない。
「大体、財布の中身を朝と放課後で違うことを正確に覚えている奴なんて何人いる?
「大金だったらわかるけど、別に五枚の千円札のうち一枚消えていたとしても、それがうろ覚えな記憶だったら無くなっていることに気付けるか?
「……わからないって顔をしているね。えーっと……。
「要は、【盗まれたという証拠が曖昧】だってこと。
「もし盗まれていなかったとしたら、最初に盗まれたと言い出した五人が怪しい。または五人は本当に盗まれていて、誰かが面白がって模倣犯が続いたのかもしれない。
「……となると、被害者だと言っているA、B組の生徒も含めた全校生徒が犯人の可能性が出てくる。
「そもそもなぜ牛山ちゃんに濡れ衣を着せようとしているんだ? 彼女に絞った理由は? 仮に恨みだったとしても、もっと物的証拠を残してもいいと思うんだよな……。
「お札と折り紙を取り替える理由も謎だ。レシートまみれの財布の中から一枚抜いたところで気付く奴なんて何人いる? 盗まれたと気付かせるために、わざわざ折り紙を入れたことに何の意味があるのか?
「それにロッカーの鍵はどうやって開けた? やっぱり犯人はピッキングが出来る人物? 動画は放課後に別で撮影したとして、いつ誰がD組の教室に忍び込んでロッカーを開けた?
「……仮に共犯がいたとして、結局黒幕は誰だ?」
 ブツブツと呟いて疑問点を挙げていく。声がだんだん小さくなっていくと、私は途中から何を言っているのか聞き取れなくなった。
 それ以前に、私はこの状況を未だに呑み込めていないのだ。
 情報収集に最適な場所と言われてこの資料室に連れてこられて、まるで自分の家のようにくつろぎだした彼に戸惑いを隠せない。
 加えて彼が独り言とはいえ、こんなに喋る人だと思っていなかったのも事実だ。いつも教室では寝ているばかりで、珍しく起きたかと思えば口が悪くて、教師から問題児扱いされてもどこか納得してしまう。
 偏見で判断するのは良くないといわれるが、実際に難しい判断だなと考えていると、彼はムッとした顔で私を見ていた。
「今、俺を不良とか変人とか思っただろ?」
「えっ……そ、そんなことないよ! 思っていた以上に真面目だったんだなって関心したというか、まぁ少しだけ不良っぽいなーとは思ってたよ?」
「全然隠す気ねぇじゃん。別にいい。真面目なんて言われたことないけど、逆に牛山ちゃんは真面目そうに見えて実はやんちゃだよな」
「……ちょっとどういう意味?」
「そのまんまの意味。……あ、来たかな」
 東雲君がファイルに目を戻したところで教室のドアが開く。
 入ってきた顔の整った男子生徒は、学年の垣根を越えた交流をしていない私でもよく知る人物だった。
「なんだ祥吾、来てたのか……って誰だコイツ?」
「裕司先輩、遅ぇ。また補習の告知でも受けてたの?」
「ちげぇよ! ホームルームが長引いただけだ。つか、部外者は入れるなって言っただろ?」
「俺も部外者なのに入れてくれたじゃん」
「お前は例外中の例外だ! この部屋に無関係の奴を入れたのがバレたら、先代の生徒会長に怒られるの俺なんだからな!」
「そんなの裕司先輩のせいじゃん。それに牛山ちゃんはセーフだよ。セーフ。迷える子羊みたいなモンだろ? あ、牛か?」
「うしやま……?」
 先輩と呼ばれた彼はそう言って苦い顔をしながら私の方を見た。
 私は私で「ショウゴって誰だっけ」と首を傾げていた為、しかめっ面の顔で先輩と対面することになった。すると先輩は何か納得したかのように頷き、丁寧に扉を閉めて散らかった窓際の作業台に向かいながら言った。
「なるほど、二年C組の牛山鼓か」
「えっ……私の名前、知ってるんですか?」
「生徒会長の俺に不可能はない!」
「ダサい」
「おいコラ聞こえてんぞ!」
 自信満々の顔で答えるが、東雲君にひと蹴りされてしまった。
 三年D組の巳波(みわ)裕司(ゆうじ)先輩。整ったルックスと明るい人望で、二年生の時に生徒会の執行部に入って副生徒会長を勤め、生徒会選挙で多くの支持により生徒会長になった校内の有名人だ。ただ、留年スレスレだったという噂は本当らしく、卒業も怪しいという話も出てきている。
 人望が厚い話は良く聞く話であったが、まさか東雲君とまで繋がりがあったとは思わなかった。
「連れてくるなら事前に……って、お前はスマートフォンを持ってなかったな」
「電話できなくてもなんとかなるっしょ」
「……ったく、資料はそこにあるから、勝手に漁れ。……もう漁ってるか。言っておくが、まだ未完成だからな。破いたり持ち出しするのは禁止だぞ」
 私を連れてきた理由も聞かずに了承するなんて。呆気に取られていると、巳波先輩は笑って答えた。
「祥吾が理事長の息子に宣戦布告した話は校内に広まっているからな。それに俺も、犯人は他にいると思っている。奴は利用されているだけだろう」
「奴って、戸田君が?」
「あのお坊っちゃん気質は親の七光りも同然だ。権限も多少握っていて教師が横入りできない、探偵役には持ってこいだろ。それに本人が権力を振り回している節があるのは、入学当初から懸念されていたのは事実。だから学校側は多少のことは見なかったフリをしているっていう噂もあるくらいだ」
「え……本当だったんだ、その噂」
「あんなの嘘に見えたら随分お気楽な考えの持ち主だぞ、お前」
  噂は噂でしかない。人は等しく人である以上、鋭い牙を持った化け物を相手にするような命の危険はあり得ない。そんな曖昧な考えがこんなところで甘えになるとは考えもしなかったのだ。
「それに盗難騒ぎだって他人事として思ってた。自分は盗まれない、大丈夫だって。でもまさか疑われる側にまわるとは思わなくて」
「……ま、それが普通の反応だよな」
 東雲君はソファーから起き上がり、ファイルの次のページを捲りながら私に言う。
「確実なアリバイの証明もできず、怒りに任せて理事長の息子にビンタ。もう十分犯人扱いされてもおかしくないだろうなー」
「ああ、それも校内に広まっているぞ。女子のくせに過激な奴だって」
 苦い笑みを浮かべる巳波先輩。一歩引かれているのがわかる。
 ああ、叩くのを我慢できなかったあの時の私を蹴り飛ばしたい。
「まあ……その、お前の心境もわからなくはないが、流石に暴力はダメだぞ。八つ当たりならそこのクッションにしていいから」
 巳波先輩がそう言ってソファー横に置かれている水色のフカフカのクッションを指さすと、東雲君が投げて渡してくれた。
 肌触りの良いクッションをソファーに置いて、私は思いっきり右手で作った拳を撃ちつける。
 あ、穴が空いた。
「…………」
 クッションを持ち上げると空いた穴から綿が出てくる。それを見て先輩が悲しそうな顔をして見つめていた。
「……えっと」
「……ま、まあいい。クッションなんていつでも買えるからな!」
 買うのか。
 クッションを大事そうに抱える先輩に、東雲君は笑いを堪えながら励ます。
「それ、この間買ったばかりだったのに……っ先輩、ドンマイ」
「……どいつもこいつも、クッションクラッシャーか! しかも前のクッションはお前が破いたんだろうが! 寝相の悪さはいい加減直せよ!」
「寝相って直るモンなの?」
「知るか! 自分で調べろ!」
 若干涙目で訴える先輩に対し、東雲君はとても楽しそうに笑う。遊んでいる、といった方がいいかもしれない。とにかくこんなに楽しそうに誰かと話している東雲君は教室では見られない。
「そんなことより情報くれよ、裕司先輩。あれから進展くらいあっただろ」
「あっさりスルーするなよ! つか、さっきからそのファイル見てるならもう貰ったも同然だろ!」
「俺が知りたいこと書いてない方が悪い。先輩、他にねぇの? 例えば……盗まれたものとか」
 東雲君はここに来る前に盗まれたものを気にしていた。先輩は小さく溜め息をついてから、破れたクッションの穴をなぞりながら教えてくれた。
「今のところ、盗まれたものは全て現金だ。被害にあった生徒に聞くと千円だの五千円だの札ばかり。
「……ただ、朝からその額がしっかり入っていたかは曖昧なんだと。
「生徒がなんで盗まれたって思ったかって?
「盗まれたお札と差し替えるように、折り紙が入ってたんだよ。見せてもらったけど、なんも変哲もない、そこら辺に売っているただの折り紙だった。
「ファイルに貼っている折り紙は、実際に使われたものと同じメーカーの折り紙だ。どこにでも売っている、安くて子供だましな和柄の折り紙だ。
「和柄でまとめているのが気になるが……きっと犯人の手元にはこれしかなかったんだろう。ちなみに学校の備品ではないことは生徒会の管理表で確認済みだ。
「あと、ロッカーを施錠していた南京錠とダイヤル錠も確認してきた。
「……そもそも、今朝の出来事の説明をしろと? お前、知らずに啖呵切ったのか。
「一日で情報を整理してファイリングできるとか思うなよ? しょうがねぇな。
「昨日の被害者である二年D組の女子生徒は、学校終わりに立ち寄るピアノ教室に提出する月謝一万二千円を持ってきていた。厳重に鍵をかけておけば盗まれることはないだろうと踏んでいたらしいが、
月謝を渡そうと袋から出したところ一万円しか入っておらず、代わりに折り紙が入っていたそうだ。
「女子生徒は自分の財布に常に入れていた二千円を使って月謝を払うことができたが、折り紙が入っていた事実を学校に伝えたことから、盗難騒ぎの延長線上ではないかと学校側が判断。恐らく今までと同じ人物によるものと教師陣は考えている」
 巳波先輩が淡々と説明をしてくれるが、様々な情報が交差しすぎて、頭の中で整理が間に合わない。そんな様子を見かねた東雲君は、私に先程のファイルを差し出した。
「裕司先輩の話は被害に遭った生徒に直接聞いているから、ある程度信頼してもいい。ファイルに書かれた内容のほとんどが被害者に直接聞いた話でもある。嘘は書かれてねぇよ」
「……先輩、なんか雑誌の編集者みたいですね」
「そうなんだよ……生徒会長も大変だぜ」
 やれやれ、とどこか嬉しそうな笑みを浮かべて溜め息をつく。この学校の生徒会長が異色なだけだと思うのは私だけだろうか。確かに渡されたファイルに事細かに書かれた内容は、被害に遭わなければ書けないものばかりだった。
「ま、被害者の話が嘘だったら全部おじゃんになるけど、その点は安心してくれ。俺は人望が厚いからな! その人望のおかげで今回、特別に女子生徒から南京錠を借りることができた。ダイヤル錠は今ロッカーで鍵を掛けているから、こっちだけな。俺が見てもわからないだろうが、祥吾なら何か気付かと思ってさ」
 先輩はポケットから小さな透明ビニール袋に入った南京錠を東雲君に渡す。
 私も近くまで寄って南京錠をじっと見つめた。どこにでも売っていそうはこの錠前は、自分のものとわかるように可愛らしいオレンジの花が描かれたシールが貼ってあるだけで、特に変わったところは見当たらない。
 しかし東雲君の目線は南京錠ではなく、私に差し出したファイルに向けられていた。
「裕司先輩、一万二千円ってことは一万円札が一枚と、千円札が二枚あったんだよな?」
「……ってことになるな」
「変だな……。今まで犯人が狙っていたのは、その生徒の【財布に入っている最大の金額】のはずだ。なぜ折り紙が入っているのかは現時点で不明だけど、今まで最大金額を盗んできた奴が、今回はD組の被害者の最大金額である一万円を盗まなかった。これって今までの傾向と変わってるんじゃね?」
 最大の金額――それが本当なら、今回盗まれたものが千円札の二枚なのは引っかかる。
 何らかの理由で盗む金額を変えたのか、それとも模倣犯が出てきたのか。……何にせよ、これまでの騒ぎと異なる点はヒントになるかもしれない。
「ジュースでも飲みたかったんじゃないのか? 自販機って一万円札が入らないし、小銭にしてしまえば千円札自体は手元から消えるんだから」
「それは犯人が自販機に売っているジュースがどうしても飲みたいがためだけに、二つも鍵をかけて厳重な防犯対策をしていたロッカーを、わざわざ手間隙かけて開けたって言いたいの? 一体、何の為に?」
「それはー……ほら、あれだよ。スリルが欲しかったんだよ!」
「却下。校内に盗難の話が広まって捕まる確率が高くなっている時点でこんなスリルを誰が求めてるんだよ? プロの泥棒だったらまだ妥協案として考えてもいいけど、さすがにそれはない。推理小説の読みすぎじゃねぇ?」
「少しくらいロマンがあったっていいじゃないか!」
 二人でわいわいと――主に先輩が――スリルだのロマンだの言っているが、私の今後の学校生活がかかっていることを忘れないでほしい。
 東雲君の手からそっと南京錠が入っているビニール袋を抜き取り、袋越しから眺める。やはり普通のどこにでも売っている錠前だ。ダイヤル錠に関して言えば、解除する番号の検討は大体つくが、鍵が必要な南京錠はどうやって開けたのだろう。
「……あれ?」
 南京錠のある部分に目が止まった。私の声に気づいたのか、二人が顔をこちらへ向ける。
「牛山、どうした?」
「え、あ……いや、大したことじゃないんですけど……南京錠の鍵穴が、ピッキングされた割には綺麗だなって思って」
 大抵ピッキングにあった錠前の鍵穴には、針金で引っ掻いたような痕が残る。日常で傷が付くこともあるが、この南京錠にはほとんど傷がないので最近買ったものだろう。持ち主が一日に何度も鍵を使って開けていたとしても、鍵穴には新しい傷が見当たらない。錠前の中にあるシリンダーを分解すればピッキングされたか調べれられるが、なんせここには分解する器具も判断できるプロもいない。
 私は髪に隠すようにつけていたヘアピンを一本取り出し、L字に折り曲げて袋から出した南京錠の鍵穴に差す。
「お、おい、何をしてんだ?」
 先輩は少し焦った表情で私を見る。
「……この南京錠、ピッキングされてないと思います」
 私の感覚が正しければ、この錠前は今私の手によってピッキングされている。ヘアピンを差し込んだこの感覚は、初めて見つけた鍵穴に差し込んだ時とよく似ていた。
「い、いやいやいやいや。牛山、どうしてわかるんだよ?」
「う、上手く言えませんけど、ピッキングをしたら多少なりと鍵穴の近くに引っ掻いた痕が残ります。これにはそれがないし、差し込んだ時の感覚がこう……つっかかると言いますか」
「そんなの感覚でわかるのか?」
「ぐ、偶然そういう場面に一度遭遇したことがあるんですよ! 最近大型のイベントで脱出ゲームがあるじゃないですか、そういうのによく参加してて……」
「お、おう……」
 作り笑いをして誤魔化すと、先輩は府に落ちない顔をしながらもそれ以上は聞いてこなかった。私は表情に出やすいのだろうか、東雲君が隠れて鼻で嗤っていた。私の座っている席からなら丸見えだからな。
「じゃあ……牛山の感覚を信じるとして、ピッキングの痕がないってことは、本人の鍵を拝借したか、犯人が合鍵を作って開けたってことになるのか? 前回ロッカーに南京錠をかけていた男子生徒はともかく、今回の女子生徒はダイヤル錠も南京錠もしてたんだぞ? しかも祥吾の【生徒の財布のの中に入っていた最大の金額】っていう犯人の特徴はどこにいった? ピッキングの時間をかけて二千円しか持っていかなかったのは割に合わないだろうし、型取りをして合鍵を作ったとしても、金の無駄だろ?」
「それは……私も思いました」
 合鍵を業者に依頼しても、安くて五百円はする。わざわざ一度しか開けない南京錠の為にそこまでするだろうか。加えて犯人が合鍵を作ったとしたら、一体どのタイミングで型取りをしたのだろう。
「先輩、南京錠の鍵は本人が持っていたんですよね?」
「ああ。……そういえば、南京錠は預かっても鍵は見てなかったな。ちょっと行ってくるか」
 先輩はそう言って、大切そうに抱えていたクッションを散らかった作業台の上に置くと、私から南京錠の入った袋を取ることなく、出入り口に向かう。
 そのまま出て行くのかと思えば、ドアを開ける前にこちらを振り返って不思議そうな顔をした。
「何してんだよ? 一緒に行くぞ」
「行くって……どこに?」
「この南京錠の持ち主は陸上部のマネージャーで、部活に出ているんだよ。牛山が一緒に来れば借りなくても見るだけで型取りされたかわかるだろ?」
「……はい?」
 いやちょっと待って。私は一言もピッキングを見破れますなんて言ってない。
 すると東雲君もソファーから立ち上がると、私の肩を軽く叩く。
「さっさと行くぞ」
「お。祥吾も行くか?」
「興味本位で」
「よし。それじゃ、皆で聞き込みしてくるか!」
 満面の笑みを浮かべて廊下に出る先輩。東雲君がこそっと耳元で教えてくれた。
「裕司先輩、ああ見えて寂しがり屋なんだよ。付き合ってやらねぇと拗ねるから」
 ああ、嫌な予感しかしない。
 南京錠の入った袋を持って、重い腰を上げた。
 五

 柚木第二高校のモットーは『文武両道』だ。勉強も部活も両立しましょう。楽しむときは思い切り楽しみましょう。――そんな緩いモットーの下で全国大会にまで出場している部活動がいくつかある。
 その中で近年、大会で好成績を残しているのが陸上部だ。九年くらい前にある男子部員がハードルの種目で全国大会に出場したのがきっかけで、学校側が部活動にも力を注ぐようになり、今では特待生まで取るようになった。
 今回の被害者の一人である女子生徒――馬場(ばば)実咲(みさき)は、陸上部のマネージャーだった。容姿端麗で普通科の生徒でありながらも成績は常に上位の彼女は、いわゆる『高嶺の花』だ。
 水飲み場でボトルを洗っていたジャージ姿の彼女に巳波先輩が声をかけると、手を止めて話を聞いてくれた。
「えーっと……馬場さんでいいかな? さっきはありがとう。確認をしたくてまた来てしまったんだけど、大丈夫かな?」
「あ、はい。……ってあれ?」
 先輩の後ろにいた私と目が合った途端、彼女は嬉しそうに目を輝かせて私に飛び付いてきた。
「ツヅミ! 大丈夫だった? クラスの子に苛められてない? 戸田にビンタしたって話は聞いたけどツヅミは怪我してない? 桜井さんから殴られそうになったって話も聞いて……ああ、なんで私はツヅミと一緒のクラスになれなかったんだろう! 私が近くにいたら、代わりにボコボコにしてやったのに!」
「お、落ち着いて、実咲……っ!」
「落ち着いていられる訳ないでしょ? 私の友達が理不尽に酷い目に遭っているのに、何もできない自分が悔しくて仕方がないの! せめて、せめてツヅミの前では笑顔でいたいけど、今だけは怒らせて!」
「ぶべっ! つ、つべだ……っ!」
 先程まで水に触れていた彼女の手が私の両頬を挟む。ひんやりとした感覚と勢いで挟まれて変な声が出た。彼女の背中を叩いて離れてもらうように訴えるが、先程から続く懺悔のせいで効果はない。彼女は力も自分を追い詰める加減も知らないのだ。
「牛山ちゃん、知り合いだったの?」
 驚いた顔をしている先輩の隣で仏頂面の東雲君が問いに苦笑いで答える。
 私と実咲は中学からの友人だ。三年間同じクラスで行動するときはいつも一緒だった。高校は別だと思っていたにも関わらず、たまたま受験した高校が一緒だったため、今でも仲は有難いことに健在だ。
 先程『高嶺の花』と例えたが、実は彼女の心配性で慌てやすい性格は昔から変わらない。これが更に進んでいくと、発言は狂った追っかけやヤンデレに近いものがある。それを凌駕するように、彼女の笑顔はいつも眩しくて、知られたくない黒い部分は見せないのだ。
「どうしてツヅミが二人と一緒に? すごい珍しいコンビよね」
「……とりあへずはにゃして(とりあえず離して)」
「へ? ああ、ごめんね」
 今の状態に気付いたのか、実咲はどこか名残惜しそうに離れた。
「なんて言ったらいいのかな……濡れ衣であることを証明するために、二人に助けてもらっているっていうか……」
「そうだったんだ……とにかく、まだ何もされてないんだよね?」
 何が?
「あのー……盛り上がっているところ悪いんだけど」
 完全に蚊帳の外にされていた巳波先輩が声をかけてくる。ああ、忘れていた。
「まさか昨日の被害者と知り合いだったとは……牛山、とばっちりにも程があるぜ」
「生徒会長、私とツヅミは中学からの仲です。この子を犯人扱いするなら許しませんからね!」
「お前ら見れば嫌でもわかるよ、牛山が腐れ縁の荷物を漁るほど腐ってねぇことくらい」
「酷い! 腐れ縁なんて言い方は酷すぎます。せめて運命の糸とか、偶然ではなく必然だったとか……まさか、そうやって私とツヅミを引き離そうと……」
「してねぇよ! なんでそんな怖い発想に繋げられるんだよ?」
「実咲、ちょっと落ち着いて」
 彼女が暴走すると私でさえ手に負えない。こんなところで時間を使っている余裕は今の私にはないというのに。不服そうな顔をしている彼女に、本題の南京錠を見せる。
「ねぇ、この南京錠の鍵はある?」
「鍵? うん、部室に置いてある鞄に入ってるけど……何かあったの?」
 詳しい事は伏せて確認したいことがあると伝えると、彼女は小さく頷いて部室に向かった。流石に部外者で泥棒の噂が広まっている私が無闇に近付くと実咲にも迷惑がかかるので、ここで待たせてもらうことにした。
 待っている間、どこからか視線を感じて目を向けると東雲君が仏頂面でこちらを見ていた。
「なんでそんなにふて腐れた顔なの?」
「……別に。普段からこんな顔だけど」
「いやいや、いつもより目付き悪いじゃん」
「随分容赦のない悪口だなオイ」
 拗ねたようにそっぽを向く東雲君。
「……アンタが馬場ちゃんと仲が良いなんて知らなかった」
「へ? 馬場ちゃん? 東雲君、実咲と知り合いだったの?」
「一年の時、同じクラスでずっと叩き起こされてたから嫌でも名前は覚えた……」
 どこか遠くの方を見ながら若干震えている。実咲は怒る時は怒るから、きっと昨年の約半年は彼女を見るたびに眠い目を擦っていたに違いない。何より私も一度怒らせたことがあるので、大体想像がついた。
 今度、東雲君と被害者の会でも作ろう。勝手に彼の肩に手を置いて黙って頷くと、東雲君は不思議そうに首を傾げた。
「それにしても、まさか馬場ちゃんがねぇ……」
「ね、私もビックリした。そういえば実咲、合唱部の助っ人でピアノの伴奏頼まれたって話をしてたような……」
 彼女は小学生の頃からピアノを習っていたこともあり、中学の時も何度かクラス合唱で伴奏を引き受けていた。その傍ら、自身は陸上部に入っていて、リレーの選手に選ばれたこともあった。それでもピアノの伴奏は嫌な顔をせず引き受け、授業の間の休み時間や放課後を利用して音楽室で練習していたのを何度か見たことがある。
 流石に無理をしていないかと思い、一度聞いたことがあるが、「私が好きだから伴奏するの。ツヅミが一緒にいてくれるのと同じで、私は自分にとって負担になることは絶対しないわ」と、やけに嬉しそうに笑う彼女を、今でも鮮明に覚えている。
「いや、その話じゃなくて」
「へ? じゃあ何?」
「そっち」
 どっちだ。
 東雲君の回答に首を傾げていると、部室から実咲が戻ってきた。手には南京錠の鍵と、可愛らしいオレンジ色の花のキーホルダーがついている。南京錠についていたシールと同じ花だ。
「いつも制服のポケットに入れてるんだけど、あの日は盗難が続いていたから体育の授業でも持って行ってたの。ダイヤル錠もついてるから大丈夫だと思ってたけど、念の為に。だから放課後になって月謝袋を見たとき驚いたわ」
「……ダイヤル錠の番号、自分の誕生日でしょ」
「えっ? うん、なんでわかるの?」
 私が言い当てると、実咲はとても驚いた顔をした。こういうものは大抵自分が忘れない番号に設定しがちになってしまい、名簿や誕生日、携帯の番号に設定すると他人でもすぐわかってしまう。
「この話、結構有名だと思うんだけど……」
「そっか……じゃあ今度からツヅミと出会った記念日にしておくね!」
「設定してもいいけど、ロックをかける時はちゃんと番号を全部ずらしてね。一つだけ回しても無駄だから」
 小さくため息をつきながら、実咲が持ってきた鍵を見つめる。どこも怪しいところは見当たらない。むしろきれいに拭かれているように思えた。ハンカチに包まれていた訳ではなさそうだ。
「牛山、何かわかったか?」
「何かって、なんですか?」
「ピッキングに使用されたかとかさ、見てわかんねぇの?」
「何度も言いますけど、私別にピッキングを見破れる名人でもなんでもないですから!」
 先輩を軽く睨みながら言うと、威力が強かったのか、先輩が両手を上げて落ち着けと促す。
「わ、わかったよ……」
「……いえ、すみません」
「でもこの鍵、なんか妙だな」
 横から覗くような形で鍵を見てくる東雲君が呟く。
「馬場ちゃん、裕司先輩に話した昨日のこと、特にロッカーのことを教えて」
「わ、わかった。えーっと……。
「まず、私は体育の授業の後から放課後まで一度も開けてないわ。
「昼休みに食べたお弁当をしまう時に一度開けたけど、体育の授業は昼休みの後だったし、自販機で飲み物を買った時も、持ち歩いている小銭入れのお金を使っていたし……。
「少なくともロッカーには放課後になるまで近づいてない。これは断言できるよ。
「最初はダイヤル錠しかつけてなかったんだけど、盗難が多発してるって聞いて一週間くらい前に南京錠をつけたの。貴重品はいつもロッカーに入れているわ。
「鞄までは入れられないから、ロッカーの中は財布とピアノ教室に持っていく月謝袋だけ。あとは教科書がいくつか入っているくらいかな。
「南京錠の鍵はいつもブレザーのポケットに入れているけど、最近は盗難騒ぎが多発していたから、昨日は体育の授業にも持って行ったわ。持ち歩くようになったのは……ここ二、三日前。B組に盗まれた人が出た頃かな。
「それまでは自分の席の椅子にかけてたわ。私、教室では廊下の出入り口近くだから、入れっぱなしにしておくと怖いなって思って。
「……遅かったけど、ね。
「正直、D組まで来るとは思ってなかったのよ。A組から順番にこう……。
「……ごめんなさい。訂正するわ。悪気があった訳じゃないのよ。
「あ、昨日の放課後の部活は出てないわ。
「大会に出る合唱部の伴奏を頼まれた時は、休ませて欲しいって先生にお願いしてるの。今年に入ってマネージャーも増えたから、役割分担ができて融通が利くようになったのは良かった。
「中学の時から、ピアノ教室の先生に無理を言って時間を作って貰っているの。だから昨日はホームルームが終わってすぐ学校を出たかな。グラウンドにはまだ野球部が準備運動してたもの。
「それにしても、不思議よね。
「月謝袋に入っててすり替えられた二千円、財布の中に四千円入ってたときから、私が移し忘れただけなのかなー……とか思ってて。でも折り紙は入れた覚えがないし。
「一応念の為に学校には連絡したわ。でもツヅミに迷惑をかけることになるなんて……これは想定外だったわ。犯人が見つかったらすぐに弁慶の泣き所を蹴ってやるんだから!」
 実咲の話が一通り終わると、東雲君は腕を組んで黙り込んだ。今の話を聞いて整理しているのだろうが、彼の目線は私の掌に乗せられた南京錠の鍵に向けられていた。何度見ても、どこにでも売っている南京錠の鍵にしか見えない。
 すると東雲君がいる反対側から急に影が伸びてきた。顔をあげると、中学の頃からよく見慣れていた顔が覗き込んでいた。
「その鍵、なんか焦げ臭くないですか?」
「へえっ⁉」
「相変わらずいい反応ですね、ツヅミ先輩」
 彼はそう言って笑うと、少し離れて私達を見下ろした。黒の短髪にキリッとした眉、一八五センチの長身の彼は、陸上部のジャージ姿だった。あまりにも急なことに驚いていた私の代わりに、実咲が彼に問う。
「瑛太、お疲れ。もう休憩?」
「いえ、ランニングから戻ってきたところです。馬場先輩が遅いから見て来い。……って、部長が」
「ああ、そっか。ごめんね」
「気にしないでください。事情は何となく察したので」
 瑛太と呼ばれた彼はそう言ってこちらを見る。
「ツヅミ先輩」
「は、はい!」
 唐突に名前を呼ばれて反射的に敬語になる。彼は私の後ろを差しながら問う。
「その変な顔をしている奴は誰ですか?」
「……はい?」
 彼の視線の先――後ろを振り返ると、更に仏頂面が増した東雲君と呆然とした顔で見ている生徒会長の姿があった。
「えっと……同じクラスの東雲君と、その後ろにいるのが生徒会長の巳波先輩で……」
「同じクラス……先輩とどういったご関係で?」
「えっと……」
「ただのクラスメイトだけど。何、なんかイイ感じにでも見えた?」
 私を差し置いて、東雲君はグッと前に出た。東雲君もそんなに低くないはずなのに、彼と目線を合わせる為に少し見上げている。
「ええ、随分仲が良く見えたので。世話になった先輩が面倒ごとに巻き込まれた話は校内に広がっていますし、何よりロングスリーパーで有名な問題生徒が、理事長の息子に啖呵を切ったらしいじゃないですか。心配にもなりますよ」
「心配? いやいや、それは嫉妬以外の何物でもないよ。ボディーガードだがなんだか知らないけど、男の嫉妬は醜いらしいぜ」
「随分口の悪い先輩ですね。だから問題児扱いされてるんですか?」
「別に俺のことは何言っても別に良いんだけどさ、俺よりアンタの方が毒舌だよ。後輩なら目上に対する姿勢ってモンを覚えろ」
「――ってちょっと待って、ストップストップ!」
 二人が睨み合いにになってくる前に、間に入って仲裁する。私を挟んで喧嘩を始めないでほしい。
「ちょっと牛山ちゃん、コイツなんなんだよ? 知り合い?」
「コイツじゃありません。先輩、こんなのと一緒にいると何か悪いものが移ります。一刻も早く離れましょう」
「ああ、もう! ちょっと黙って!」
 出会ってまだ五分も経っていないというのに、なんでこんなに敵意をむき出しにしているのだろうか。彼らの間にバチバチと火花が散っているのは、後ろで口を開けて固まっている巳波先輩にも見えたらしい。
 ちなみに実咲は慌てて仲裁に入る私を楽しそうに傍観していた。せめて部活の後輩である瑛太を宥めるところくらい、手伝ってくれたっていいのに。
 二人が落ち着いたところで、二人に長身の彼を紹介する。
「彼は犬塚(いぬづか)瑛太(えいた)。私と実咲と同じ中学の後輩で、特進科の一年生。陸上部でハードル走の競技選手の特待生だよ」
「……はぁ?」
 柚木第二高校の受験には一般と推薦の他に、特待生受験が用意されている。
 瑛太はその中でもスポーツ特待生として入学し、陸上部のエース候補として活躍している。実際に彼は中学二年生の頃からハードル走で全国大会で上位に入るほどの実力者だ。
 実咲に誘われて見学しに行ったときも含め、何度か走っているところを見たことがあるが、素人の私が見ても彼の走り方はとても綺麗で、力強いと思えた。
「今年のスポーツ特待生がヤバイって騒いでいたのは、お前のことだったんだな。噂では聞いていたんだが……うん。なかなかの男前じゃないか。宜しくな」
「俺は世話になった先輩達が、変質者に何かされていないか確認しに来ただけです。手伝う気は毛頭ありません」
「勝手に先輩を変質者にするな!」
「裕司先輩、ちょっと黙って」
 明らかに挑発している瑛太に、東雲君は先程と打って変わって真剣な目で彼に問う。
「さっき、焦げ臭いって言った?」
「……言いましたけど」
「それってどこから?」
「鍵から」
 瑛太が指をさしたのは、私の掌にある実咲の南京錠の鍵だった。
「俺、昔から嗅覚が鋭いんです」
「そんなどや顔で言われてもなぁ……牛山、その鍵から何か匂うか?」
 先輩も信じられないといった顔をしている。私もただ金属臭いくらいしかわからない。更に周りの土の匂いや近くの商店街から流れてくる惣菜のわずかな匂いがするくらいで、焦げ臭い感じはしない。
 すると東雲君が何かを見つけたようで、鍵を横から奪い取るようにしてギザギザの部分をじっくり見つめた。
「……あった」
 鍵のギザギザの部分を私達に見えるように指をさす。微かに凹んでいるところに黒い煤がついていた。
「煤……というより、焦げた痕というか。馬場ちゃん、摩擦熱でも起こした?」
「そんなことするわけないでしょ! 私のポケットに発火物なんて入ってないわよ!」
「……あ」
 焦げた痕――その言葉でふとある方法を思いついた。これなら犯人は南京錠の合鍵を、低コストで作って開けることができる。しかし、これを校内で行うとなると、完全に人がいない時間帯と空間が揃っていないと成立できない。
「犬塚君、他に何か感じない?」
 東雲君が瑛太に問いかけると、迷惑そうな顔をしてそっぽを向く。
「出会って五分も経たないうちに犬扱いですか」
「アンタのその犬並みの嗅覚、自分で自慢したんだから有効活用させろ。鋭い嗅覚を持ってるアンタならわかるだろ?」
 完全に喧嘩を売っている。
 ニヤリと笑みを浮かべた東雲君に対し、瑛太は眉間に皺を寄せた。不服そうな顔をしながらも、差し出された鍵を鼻に近づけると、すぐ何かに気づいたようだ。
「……香水? いや、これは薬……?」
「わかるのか?」
「まぁ、多少……これ、市販で売っている、薬用のハンドクリームの匂いがします」
「薬用なら私も持ってるわよ?」
「馬場先輩が持っているハンドクリームはシトラス系でしょ。その匂いとは別に、薬品臭いのが混ざってる。それが恐らく無香料なんでしょうね」
「無香料って匂いしないよね? 瑛太の嗅覚どうなってんの?」
「だから薬用なんだろ」
 実咲の問いかけにあっさりと切り捨てた東雲君は、瑛太の顔を見てニヤリと笑った。
「サンキュ。ちょっとわかったよ」
「別に協力した訳じゃありませんから」
「わぁってるよ。邪魔して悪かったな」
 東雲君は踵を翻し、校舎の方へ戻っていく。私と先輩も一緒になって彼を追う。少し後ろを振り返ると、実咲が苦笑いする瑛太の背中を軽く叩いて楽しそうにしているのが見えた。
 六

 校舎に戻ると、東雲君は五階の資料室ではなく中庭に向かっていた。
 普通科、難関大学進学を目的とした特進科に加え、あらゆる専門の技術を学ぶ専門科は、カリキュラムの関係で校舎が分かれている。普通科と特進科は技術や美術、音楽がない限り近付かないうえ、クラス同士の関わりもほとんどないため、同じ学年でも顔と名前が一致しないことが多い。
 専門科の校舎――多くの生徒は別館と呼んでいる――は中庭を中心にして分かれており、その片隅にはゴミ捨て場になっている倉庫がある。四畳くらいの大きさの倉庫は古い丸落としがかかっているだけで、誰でも出入りが可能だ。
 扉の引き戸を開けて中に入ると、東雲君はおもむろにゴミ袋の口を開いて漁り始めた。
「祥吾、お前なにしてんの? 腹でも減った?」
 彼の行動を不審に思った巳波先輩が声をかける。若干顔が引きつっているのは気のせいではないだろう。流石に私もゴミを漁ってまで食事を求めるのは抵抗がある。
「裕司先輩は俺がゴミを食べるところ見たことあんの?」
「いや、見たこと無いから聞いてんだよ」
「専門科のゴミだったら、金属くらい一緒に捨てられるだろ」
「……あ!」
 思わず声が出た。
 首を傾げる巳波先輩を横目に、私も倉庫の中に入ってゴミ袋の中を漁り出した。
「え……牛山、お前も腹減ってんの?」
「減ってません! 先輩、暇だったら技術室と金工室を見てきてください」
「は? 技術室と、金工室? ……ああ」
 そういうことか! と大きな独り言を叫びながら先輩は専門棟へ向かった。
「なんだ、やっぱりアンタもわかってたんじゃん」
 可燃物の入ったゴミ袋を漁りながら、東雲君が私に向かってニヤリと口許を緩めた。
 彼が探しているものは誰かの食べ残しでもテストの答案用紙でもなく、実咲の南京錠を開けるために使用した合鍵だ。
 先程瑛太が気付いた【焦げ臭い】匂い。もしこの匂いが関係しているとするならば、低コストで鍵を作り、開けることができあの方法が考えられる。そして作った合鍵は、普段から置かれているゴミ袋の中に入れて捨てることも可能だ。
 もしこの推測が間違っていなければ、犯人は合鍵を捨てた可能性が高い。さすがの犯人も、合鍵をずっと持っている訳にはいかないだろう。それが学校以外で破棄されていたとしたら――もう遅いかもしれないけど。
「東雲君、どうしてわかったの?」
「さぁな」
 答えにならない返事をしながらも、彼は手を止めることなくゴミ袋を漁る。
 異臭が充満するこの狭い倉庫に、長時間滞在するつもりはお互いに毛頭ない。しかし小さい倉庫ながらも可燃やプラスチック、ビン、缶といった様々な種類の袋に分けられ、足元を埋め尽くした挙げ句、上に重なって乱雑に置かれているゴミ袋の山は、二人で手分けしても時間がかかってしまうのは明白だった。
 専門棟に向かわせた巳波先輩が早く戻ってくることを願いながら、次のゴミ袋を開けた瞬間、袋から溢れ出した腐った臭いが顔に直撃した。
 飲み残しが入ったまま捨てられたのか、袋の口元には飛び散ったジュースがシミのように張り付いており、底には黒ずんで溜まった液体が異臭を放っている。思わず袋を閉じて顔をしかめてえずく。肺の空気を入れ替えたくても、吸って出ていくのは埃と異臭だけ。
 ああ、最悪。触りたくもない。でもこの袋の中に鍵が入っていたとしたら……?
「…………うう」
 ……やるしかない。でも嫌だな……。
 手を入れることを躊躇していると、東雲君が私の目の前に可燃ゴミの袋を差し出した。
「牛山ちゃん、その袋とこっち交換して」
「え? でもこれ飲み残しが……」
「いいから。変えて」
 有無を言わさず強引に袋を取り替えられると、東雲君は袋を開けてすぐ顔をしかめた。それでも恐る恐る二本の指で慎重に空き缶を持ち上げて確認していく。
 私が嫌な顔をしていたから無理して取り替えてくれたのかもしれない。ちょっとはいいところあるじゃん。――なんて思いながら渡された袋を開ける。
 それにしても、可燃ゴミにしてはやけに軽い。中から聞こえてくる音も紙きれだけのようだ。職員室のシュレッダーにかけられたプリント類だろうか。
 袋を開けてみると、シュレッダーのような綺麗に揃えられた紙ではなく、雑に破かれたプリントが大量に入っていた。
 その中から何となく手に取ると、緑色の線が入った原稿用紙には「反省」の文字が書かれていた。気になって似た筆跡のものを探して二、三枚ほど繋ぎ合わせて見ると、丁寧に綴られた反省の言葉が並べられていた。

『――反省……私は……グロス一点……万引きし……』
『気がついた時には……入れて』
『反省し……従うこ……』

 これだけではない。他にも反省文らしき紙切れがいくつか見つかった。インクが滲んで読めないものや、細かく千切られているものがあってすべてが読めたわけではないが、その中でも気になる人物の名前がはっきりと残っていた。
『二年A組 桜井朋美』
 桜井朋美――戸田君と一緒に教室に乗り込んできたA組の学級委員だ。
 そういえば彼女は、B組の教室から出てきた私を目撃したと言っていた。
 実際に私は、B組の教室の前は通っても中に入ったことは一度もない。――知り合いのいない教室に好んで入る意味が、私にはわからない。――それに加え、彼女は私がピッキングができるのではと鎌をかけてきた。苦い顔をして答えてしまった私を見て、彼女は確信を持ったのだろう。あんなに堂々としていられたのは、それがあったからかもしれない。
 いつの間に隣に来ていたのか、東雲君が横から顔を覗かせて反省文の切れ端を見つめていた。
「戸田と一緒に来てた女子か。へぇ、あんな優等生ぶってんのに万引きしちゃうとか、世の中何があるかわからねぇモンだな」
 何を感心しているんだこの人は。
「それにしても、反省文って本当に書かされるんだな。初めて見た」
「え? 東雲君は書いたことないの?」
「ねぇよ。それなりに授業は出てるし成績も問題はない。案外身なりだけで判断する教師ばかりじゃねぇってことはわかってる。大体、反省文を書く程しでかした奴が……」
 彼はそう言いながら可燃ゴミ袋の中に手を入れ、他の切れ端を持ち上げて見比べる。いくつか見ているうちに、彼は眉をひそめた。
「……これって、誰が管理してるか知ってる?」
「誰って……生活指導だから担任か……生徒指導の先生じゃない?」
「これ見て」
 ゴミ袋から紙の切れ端を私に差し出す。桜井さんが書いたものの他に、明らかに他の生徒が書いたであろう原稿用紙が破れた状態で出てきた。――「万引き」「暴行」「口論」「ゲーム機」どれも反省文の一部分であることが見受けられる。どれも筆跡がバラバラだから少なくとも四、五人分の反省文が混ざっているだろう。名前までしっかり破られているから人物を特定するのは困難だ。辛うじてどの用紙にも【二年A組】と書かれていることがわかった。
「どういうこと……?」
 A組は特進科――普通科よりも倍の授業量と教師陣の目が光る、いわゆるエリートクラスだ。そんなクラスから生活指導が入るのは、学校としては宜しくない事態といえるだろう。しかし、反省文の通りに指導が入るような出来事があったとしても、すべて事実であるという証拠はない。
 この学校の生徒は皆、口が軽いうえ噂話が好物であることは、私が騒ぎの犯人扱いされて――半分は東雲君のせいで――理事長の息子と教師に喧嘩を売ったという話が、たった数時間で校内全体に広がったことで実証されただろう。
 それにも関わらず、反省文を書いた生徒達が噂にも引っかからないのはどう考えてもおかしい。生徒が問題を起こしたなどという生徒絡みの情報は、必ずどこかしら漏れているようなものだ。仮に私と東雲君が校内の噂や流行に疎くても、生徒会長の業務とはいえ、校内で起きたあらゆる事件を一からまとめてファイリングしている巳波先輩が知らないはずがない。巳波先輩がどれだけ間抜けだったとしても、あの几帳面な性格が反省文を書かされるレベルのことをしでかした生徒を調べないわけがない。
「反省文を書いている全員が二年A組の生徒……生徒指導担当か担任の教師が反省文を書かせたとしても、保管せず破り捨てることはないだろ」
「誰かが破いて捨てたってこと? ……もしかして証拠隠滅のため? 学校の内外に広まらないように、とか……」
「同じことを繰り返しさせない為に反省文を書かせたにも関わらず捨てるか?」
「うっ……せ、先生が捨てたとか限らないんじゃないかな? 生徒だって職員室には入れるし、手で破くなんて誰でもできるでしょう?」
「在り得ない話ではない……が、リスクが高すぎる。仮に生徒がこれを盗んで捨てたとして? 見つかったら即呼び出されて謹慎処分、校内に噂は広まるだろう。管理しているのが職員室ならもっと大事かもになっているかもな。それにしてもこのタイミングで見つかるってことは、これを捨てた奴は随分焦ってたのか? 俺達が何か探しているのもわかってたのかもしれねぇ。……これは、不味いかもなぁ」
「不味いって?」
「学校側が隠蔽しようとしていた証拠を見つけちゃって、退学に一歩近づいちゃったかも?」
「そ、そんなことある……? だってこれは校内で起こった盗難とは関係のない反省文でしょ?」
「関係あるかどうかは、俺達が判断できることじゃねぇよ。でも少なくとも、このタイミングで桜井の反省文が見つかったってことは、嫌な予感してるんだよなぁ……」
 眉をひそめ、難しそうな顔をする。そしてまたブツブツと独り言を呟き始めると、ああでもない、こうでもないと頭を抱えた。
 これって結構やばいんじゃない?
「東雲君、とりあえず一度出て先輩と合流しない? 桜井さんが万引きしたっていう話も、もしかしたら先輩のファイルに書いてあるかも――」
 ようやく重い腰を上げた瞬間、倉庫の引き戸が嫌な音を立てながら閉まった。
「ちょっ……待って!」
 急いで引き戸に駆け寄った途端、扉にかけられた丸落としが落ちた音がした。
 思い切り引き戸を叩いて中にいることを伝えようとするが、外にいる誰かは反応してくれない。建付けが悪いことをいいことに、強引に引っ張って壁の隙間から覗くと、校舎に入っていく人物の後ろ姿と、壁を繋ぐように跨いでいる扉につけられていた丸落としの鉄の棒が見えた。
 彼の嫌な予感は的中した。
 言うまでもなく、私たちはこの薄汚いゴミ置き場に閉じ込められたのだ。
 七

「誰か、誰かいませんか! 開けて! あーけーてー!」
 腐敗臭がこびり付いた扉を大きく叩きながら、外にいるかもしれない誰かに訴える。ポケットに入れていたスマートフォンには十七時と大きく映し出していた。放課後で人がいないとはいえ、まだ部活動で残っている生徒や先生はいるはずだ。
 しかし、かれこれ十分が経過するが、反応どころか倉庫に人が寄ってくる気配はない。
 スマートフォンで連絡するにしても、実咲と瑛太は部活中で手放している。今から送っても来てくれるまで時間がかかってしまうだろう。巳波先輩は持っていても連絡先を知らない。担任の猪野先生は、今日の午後は出張だと言っていた。他のクラスメイトにはかけづらいし、学校に連絡するのも笑い話だ。
「どうしよう……」
「……参ったな」
 一人で項垂れていると、助けを呼ぶこともせず破かれた反省文を眺めていた東雲君がようやくこっちを向いた。その表情はどこか残念そうな顔をしている。
「ちょっと、考えるの後回しにして手伝ってよ」
「え? 何かあった?」
「閉じ込められたの! 鍵がかかってて開かないから助けを呼ぶしかできなくて」
「なんでそんなことに……あ、本当だ。いつの間に」
 東雲君はあっけらかんと扉を押したり引いたりして鍵がかかっていることを確認する。
 なんてこった。ずっと一人の世界に浸っていたのか。ドンドン、と扉を叩くが、勿論外からの反応はない。
「外に誰もいないの?」
「何度か声をかけているけど誰もいなさそう。本当は巳波先輩と連絡が取れたらいいんだけど、私知らなくて……」
「裕司先輩、基本スマートフォンは鞄の中だから多分知っていても意味ねぇな。あ、俺はスマートフォン持ってないから」
 信用できないし、期待もできない。
「こうなったら体当たりで……」
「教師から一番目をつけられているアンタが、学校の建物を壊してお咎めがないとでも思ってんの? 生徒の現金を盗み、理事長の息子をぶっ叩いただけでは飽き足らず、ゴミ置き場とはいえ学校の建物壊すとか……かなり最悪な状況になるけど」
 彼の言う通りだ。ここで学校の建物を壊したら即停学処分――もしかしたら退学かもしれない。それでもこんな場所にずっと居座るのは嫌だ。
「これは非常事態なの! 壊したところで誰かに閉じ込められたんだから多少の融通は効くはず!」
「その自信はどこから出てくるの?」
「それに、東雲君も一緒にいるんだから連帯責任でしょ!」
「あ……」
 今しまった、っていう顔をした。
「こんなところでゴミを漁って散らかしてるなんて、生徒指導室に呼び出されるに決まってるよ! ただでさえ授業中寝ているんだから、今度こそ反省文を書くことになってもしょうがないよね!」
 自棄になって怒鳴った途端、東雲君は何か閃いたように目を見開いた。そしてまた、手に持っていた破り捨てられていた反省文を見つめる。
「……あー……そういうこと?」
 彼は残念そうに溜息を吐くと、私を見た。
「あくまで仮説だから詳しいこと言わないけど、分かったかも」
「何が?」
「犯人」
「……はい?」
 とぼけた声を出した私に、東雲君は鼻で哂う。一体どういうことだろうか。
 眉をひそめていると、東雲君は鍵が掛けられた引き戸を限界まで引っ張った。当然、丸落としの鉄棒がはまっていて開く様子はない。かなり古いこともあってか、約五センチほどの隙間はできても、鍵を開けることは難しそうだ。
「これが限界か……」
「ちょっと、何しようとしてるの?」
「……まだわかんねぇの?」
 軽く舌打ちすると、振り返って私に言った。
「この倉庫の鍵になっている丸落としの構造からして、簡単に取り付けられる代わりにとても脆い。体当たりでもすればすぐ抜け出せる。でも壊してまで外に出るとなると器物破損で訴えられるかも。……どうする?」
「どうするって、急に何? 壊す以外の方法があるっていうの?」
「アンタならわかるだろ。この隙間を使って、鍵を開ければいい。そうすれば扉を壊すことなく外に出られる」
「は……?」
「牛山ちゃんだったら開けられる。……いや、開けたくてうずうずしてんの、わかりやすい」
 一瞬、息が止まるかと思った。彼の皮肉な笑みに悪寒を感じて、思わず一歩後ろに下がる。
「何を……言ってるの?」
「そのまんま。アンタなら、慣れた手つきで開けられるって言ってんの」
 苦し紛れに問うと、あっさりと返される。
「……東雲君も同じことを言うの?」
 震えるのをどうにか抑えて絞り出た言葉はそれだけだった。私が盗んでいない事実を証明してくれるのではなかったの?
 私の反応を見て察したのか、東雲君は少し考えてから口を開いた。
「同じこと……それは『牛山ちゃんならピッキングできるでしょ?』ってこと? いやいやまさか。俺は最初からアンタは犯人じゃないって言ってるじゃん。
「……ああ、『犯人じゃない』とは言ったけど『ピッキングができない』とは断言してないな。それに関しては謝るよ。ごめん。ピッキングに関して言えば、アンタは犯人よりプロだと思うよ。
「根拠? ピッキングって、錠前の中を開けて確認しないとわからないくらい、上手く開ける泥棒はそうそういないんだろ? 警察が調べれば見つかるものに、素人がわかる訳がない。
「アンタは南京錠を俺から取って、真っ先に鍵穴を確認していたよな? 普段の生活で付くひっかき傷とピッキングした形跡の傷を判断するのって結構難しいんじゃねぇかな。それをアンタは短時間で気付いた……それって見慣れているから見分けがつけられたんだろ。南京錠にピッキングされた痕がないってわかった途端、鍵まで調べたいとまで言い出したら、気にかけないわけがないよな。だから鍵を見たかと裕司先輩に聞いた。
「でもそれは自分の無実を証明するためでも、被害に遭った馬場ちゃんのためでもない。アンタの好奇心からだ。『鍵を開けたい』という欲を抑えつつ、平然を偽るには好奇心が顔に出すぎ。……ちがう?」
 淡々と並べた彼の話に、私は頬が引き攣ったまま固まってしまった。あくまで仮説でしかないその話が、あまりにも私の行動にぴったりはまっていたからだ。
「……仮に私がピッキングできるとして、どうしてこの丸落としを私がわざわざピッキングしないといけないの? 私がピッキングできることを証明しているようなものじゃない。それだったらここで大人しく待って、犯人が来たところを取り押さえたらいいんじゃないの?」
「アンタが敵に回してるのは学校全体だ。奴が学校関係者の有力者にゴマを擦っていれば、すぐ警察に突き出されてもおかしくはない」
「そうかもしれない。……でも、私はこんなことでピッキングをして約束を破るわけには……!」
 ――あ。
 口が滑った。気付いた時には東雲君は少し笑みを浮かべていた。
「……ここを出ることは黒幕をおびき出し、アンタが犯人じゃないことを証明することに繋がる。仮にこの倉庫をピッキングしたところで、棒を突いたら開きましたって言えばどうとでもなる。校舎で今頃走り回ってるユウジ先輩が開けたことにしてもいい」
「……でもそれはこの倉庫のことだけであって、盗難騒ぎの南京錠をピッキングしていない証明にはならないんじゃ……」
「それも大丈夫。犯人は応急処置の方法でしかできない素人だ。それに――アンタがピッキングするなら、そのヘアピンで十分足りるだろ」
 東雲君は私の左耳を指さして言う。いや、正確には耳ではなく隠すようにして差し込んでいたヘアピンを指していた。
「南京錠を見て実際にそのヘアピンでピッキングしてただろ。普通、あんな自然にヘアピンをL字に折り曲げたりしねぇからな」
「…………」
「あくまで仮説だから否定とかしてもらっていいけど、反論ある?」
 ああ、もうこれは弁解の余地がない。論破するだけして反論を問うなんて、なんてえげつないやり方だ。
 私は大きな溜息を吐いて、降参と両手を挙げた。
「……いつから気付いてたの?」
「教室を出てすぐ、俺がアンタの頭をぐしゃぐしゃにしただろ。アンタが俺の手払ったときに人差し指にタコがあったのが気になった」
 ほんの数時間前、教室を出てすぐのことだ。確かに私は彼の手を掴んで降ろさせたが、まさかあんな数秒の出来事で気になるなんて。右手を見てみると、よくヘアピンを挟んでいる親指と人差し指にわずかなくぼみがあった。自分でも気付かないくらい、小さなタコだ。
「結構前からピッキングできたんでしょ。いつから?」
「……小学校、くらい」
「随分早いな。どこでそんな技術を……」
「護身用ってことで、教えてもらってたから」

   *

 ――私の両親の馴れ初めは、とてもロマンチックだったらしい。
 父は空き巣の常習犯、母は鍵屋の娘。出所後の父が最後の一回だけと決めて盗みに入った家に、錠前を綺麗に磨いている母がいた。
 懸命に錠前を磨いて満足げに笑う母に一目惚れした父は、盗みで入ったにも関わらず、ずかずかと母の前に行くと、その場に片膝をついて「貴女の心を盗みに来ました」とキザな台詞で唐突に告白をしたという。
 母は何を思ったのか、その場で「盗んでごらんなさい」と哂って挑戦状を出した。
 それから毎日、父は母に会うために一輪の花と一緒に同じ時間帯に訪れ、母が用意したであろう錠前をいくつもこじ開けて家に入ってきた。最初は冗談半分でやり始めた母も、いつしかムキになってきてわざと難しい錠前をつけて待っていたらしい。
 出会って一ヵ月経ったある日、父はいつもの時間に来なかった。
 母はついに諦めたかと思って買い物に出たところ、公園でお年寄りのお爺さんが乗っていた自転車を直していた父を警察が事情聴取をしている場面に遭遇した。
 なんでも、父がお爺さんから金銭を騙し取ろうとしているのではないかと、巡回中の警察官が疑っていたらしい。
 老人の話に耳を向けない警察官に腹を立てた母は、彼らの間に割り込んで怒鳴ったという。
「警察のくせに被害者の話も聞かないの? 今困った顔をしているのはお爺さんよ。こっちの話を聞くのが先でしょう? そこのアホ面の男は逃げも隠れもしないし、私がさせないんだから放っておきなさい!」
 母の一言でお爺さんの話を聞いた警察官は、苦虫を潰した顔で父に謝罪すると、逃げるように去っていった。
 このことがきっかけで更に惚れ直した父は、また毎日母の元へ通うようになった。最終的に母の方が折れる形で交際に発展、プロポーズまで時間は掛からなかった。

 ……ね? 傍から聞いているとすごく恥ずかしくなってくる惚気でしょ? 話している私も恥ずかしいんだけどね。
 それでもこの話を聞いた幼い頃の私は、ふざけた告白をした父と、勝負を仕掛けて最終的に折れた母の関係性がすごく素敵だと思った。物語の中でしか在り得ない非日常な出来事を、自分の両親が体験した。――それが誇らしかった。

 結婚して一年後に私が産まれ、小学校に上がってすぐ鍵屋の仕事をしていた母の職場で悪気もなく南京錠をいじって遊んでいた私を見て、父は内緒で私にピッキングを教えてくれた。南京錠はもちろん、ダイヤル錠にシリンダー錠、金庫まで、ある程度の錠前は時間をかけてでも確実に開けられるようになっていた。
 母がそれを知ったのは、玄関の鍵をピッキングしている、最悪のタイミングだった。
 学校から帰って玄関を開けようと鞄を開けると、鍵を忘れていたことを思い出した私は、つい先日父が教えてくれた玄関錠のピッキングを試みた。
 鍵穴に差し込んだヘアピンが音をたてて開けた瞬間、母が買い物袋を落とした音が同時だったのを今でも覚えている。唖然とした表情の母に、私はただ顔を青くして地面に落ちた買い物袋の中で潰れた卵を見つめていた。その日の夜は当然、私も父もかなり怒られた。
 そしてピッキングをするにあたって、両親と約束事を決めた。
・必ず必要な時だけ使用すること
・必ず誰かの為に行うこと
・必ず自分の為に行うこと――そして三つ全て該当するときだけ、使用すること。
 それ以来、誰かの前で絶対ピッキングをしない代わりに、私は自分で買った錠前や母の職場で使わなくなった錠前を集め、自室でピッキングをするようになった。
 これは高校に入学してすぐ、母から聞いた話だが、父が私にピッキングを教えていたことを何となく察していたらしい。
 コミュニケーションの取り方が苦手な父なら、きっと娘の気になっているものを話のネタにして近づこうとしていたのはわかっていた。まさか南京錠のピッキングを教えているとは、想像を超えていて笑ってしまったという。
「南京錠で遊んでいるときから予感はしたのよ。でも二人が楽しそうに話してるから止められなくてね。……それに、ツヅミが目的もなしに鍵を開けようとする子にならないように頑張らないといけないねって、あの人とちゃんとお話できたんだから、今となっては良い思い出なのかもね」
 その話を聞いて、私は二人を裏切ることはしないと誓った。察することしかできない小学生の時も、高校生になった今も。

   *

「――東雲君の言う通り、私だったらロッカーにつけられた南京錠もダイヤル錠も開けられる。でも私は絶対に人前でやらないし、金銭目的で開けることは絶対しない」
 私は自分が無実であることを強調して訴える。東雲君は口を一文字にしたまま黙って話を聞いてくれた。
 やっと口を開いたかと思えば、どこか満足そうな顔をして見たことがない程、優しい笑みを浮かべた。
「……思った通りだった」
「はい?」
「何でもない。今の話聞いて、やっぱりアンタにはこの扉を開けてもらう必要があると思った。これは無実を証明するためじゃない。アンタの言う約束事に当てはまっているし、何より鍵穴が見えない裏側から開けるなんて楽しそうじゃん?」
 東雲君はそう言って、悪い笑みを浮かべた。
「俺は俺で、アンタの無実を証明するよ」
 私はもう一度、両親と交わした約束を思い出す。――閉じ込められたこのゴミ倉庫から出るために、
巻き込まれた東雲君と自分のために。全ての条件に当てはまってはいる。あとは私が懸念していたことを彼に問う。
「東雲君、本当に犯人がわかったの? ただここを出るための口実だったりしない?」
「疑い深いなぁ。少しくらい信用してよ。……いや、それ以前にアンタは自分を信じなきゃダメだ。自分の今後を他人に預けているんだから、自分で決めるべきなんじゃない? 俺だったら絶対嫌だけど、アンタの場合は俺に委ねている部分もあるんだし。俺が犯人について今言えるのは、証拠が少ない中でこんなことができるのは一人だけだってこと。……よく考えて。アンタが決めなきゃ、俺を選んだ選択はおじゃんになる」
 真相を解明することも、自分の無実を証明することも、ほとんどを東雲君任せにしている今、私に正解を導くことはできない。――いや、そもそも正解なんてないのかもしれない。推理も仮説もどうせ似たようなものだ。
 それならいっそ、彼を信じてみるのも悪くはないんじゃないか。
「……証明、してくれるんだよね?」
「もちろん」
 自信満々の笑みを浮かべて簡単に言ってくれる。私は小さな溜息を一つ吐いて、タコの痕が残っている右手を差し出す。
「……わかった。今回だけね」
「そう来なくっちゃ」
 小さくハイタッチをした音が倉庫内に響いた。
 八

 倉庫の扉につけられたのは、丸落としという閂の一種である。丸落としは本来、扉の下に取り付けて地面に開けた穴に固定させるのだが、この倉庫は扉の取っ手から少し離れた位置に横にして取り付け、地面の穴の代わりに輪っかの形をした金具を取り付けた仕様になっている。
 南京錠やダイヤル錠のように鍵や暗証番号で開かないようするものではなく、一本の棒にはストッパーのようなものがついており、そのストッパーを淵にはめることで鍵がかかるという仕組みだ。
 さらに南京錠をつければさらに強化できるだろうが、流石にゴミ置き場に盗みに入る輩はいないと考えてもおかしくはない。誰でも出入りが自由だから、いつ火事が起きても不思議ではない、案外不用心な倉庫だ。
 東雲君が引っ張って開けてくれた、わずか五センチの隙間からストッパーになっている鉄の棒が見える。この棒を引いた方向とは反対に動かせば、錠となっている棒も一緒に動いて扉も開けられるはずだ。
 私は大量に積まれたゴミ袋の中から、缶のゴミ袋の近くに錆び付いたハンガーを見つけると、軽く折り曲げてみた。少し錆びて塗装が剥げているが問題はない。折り曲げて長細いU字に少しだけ反らせた形を作る。
「そんなボロボロのハンガーを使って開けられるモンなの?」
 歪な形のハンガーを珍しそうに見ながら東雲君が聞いてくる。
「丸落としの棒のストッパーを上に動かすの。初めてやるから上手くいくかわからないけど、この倉庫自体が古いから外れるかも」
 扉の前にしゃがみ、五センチの隙間からハンガーを通し、丸落としの棒を伝ってストッパーに当てた。カンカン、と小さな音が聞こえる。やはり簡易的な丸落としのようだ。ストッパーさえ上げてしまえばこっちのもの。――と、高を括っていたが、手元が見えないからこそ難しい。
「もうちょっと、なのに……っ」
「扉、もう少し開けた方がいい?」
「ううん。大丈夫」
 これ以上開くと、ストッパーがしっかり嵌ってしまって動かない可能性がある。慎重にハンガーを動かして、ストッパーを上へと押し上げる。
「ねぇ……手元見えないのになんでわかるの?」
「なんとなく」
 ハンガーに集中しているため目線は動かせないが、不思議そうに訪ねてきた東雲君に投げやりで答える。すると勝手に考察を始めた彼は、私の後ろでブツブツと呟いていると、納得したように言う。
「きっと身体にピッキングの感覚が沁み込んでいるんだろうな。幼少期からの英才教育とでもいうべきか……。牛山ちゃんがいれば密室も開けられるね」
「絶対、嫌」
 謙遜しなくても、と茶化してくる東雲君は放っておく。これ以上は時間の無駄だ。
 全神経をハンガーに集中させて、棒を通して丸落としの形状とストッパーがどうやって入っているかを確認する。入る前に見た形状を頭に浮かべながら、丸落としをなぞるようにハンガーを動かす。
 ようやくストッパーの部分に触れると、折り曲げたU字の部分にはめる。あとはストッパーを上にあげるだけだ。
「――東雲君、もう一回聞くよ。本当に私の無実を証明してくれるんだよね?」
 手元だけを見つめながら、後ろにいるであろう彼に問う。私から見えないが、きっと彼は嗤っているのだろう。
「もちろん」
「……そう」
 ――がちゃん。
 ストッパーが上がった音が倉庫内に響く。立ち上がって引き戸に手をかけると、簡単に扉は開いた。
 開かれた先には見慣れた中庭と校舎が並んでおり、人気はなかった。隙間から見えた誰かの後ろ姿も今はもういない。
 ハンガーをゴミ置き場に投げ捨てると、私は呆然としている彼に笑って言う。
「開いたよ」
「……マジか」
「ちょっと、信じてなかったの?」
「いやだって……本当に開くとは思わねぇじゃん! 鍵が扉の向こう側で、手元が見えない状態で開けた? アンタもしかして透視能力とか持ってんの?」
「開けろって言ったの東雲君でしょ!」
 私がピッキングできることを見抜いた彼が、今更何を驚いているのだろうか。
 どうしてこれがハンガーだけで動いたのか、牛山ちゃんには壁の向こう側が見えるのかなど、興奮冷めやらぬ東雲君が倉庫の外に出て丸落としをガチャガチャと動かしながら、訳の分からない質問攻めに遭うが、すべて無視することにした。
「たまたま、運がよかっただけ」
 私はそう言って大きく息を吐いて、ハンガーの剥がれた塗装が付いた右手を見つめる。
 適当に買ってきた南京錠をピッキングをし続けて数年、仕組みくらいしかわからない丸落とし――簡易的な錠を開けたことはなかった。更に錠前も鍵も見えない中でピッキングをするなんて、開けることだけが楽しかった小学生の時の私は想像できただろうか。
 不安の中、見えない鍵を開けたその瞬間は、今まで味わってきた達成感と快感がじわじわと湧いてくる。そして錠前が外れた音がすると同時に、感じるほんの少しの寂しさが心地良いのだ。
 ――楽しかった。
 ピッキング自体が犯罪に変わりないかもしれない。楽しいと思ってしまった私はやはり泥棒の子供だからなのか。悪い気はしない。
「さて、資料室に戻るか」
 一通り丸落としをいじって満足したのか、東雲君は倉庫から可燃物の袋を持って資料室のある校舎に向かう。
 校舎の中に入ってすぐ、廊下の向こうから巳波先輩が慌てた様子で走ってきた。
「お前ら、今までどこに行ってたんだよ!」
「裕司先輩、何慌ててんの? 汗だくじゃん」
「別館から戻ってきてもいなかったから、校内をずっと走って探してたんだよ。一度資料室戻ってスマートフォンに連絡が入っているか確認しようと思ったけど、牛山の連絡先知らないし、祥吾がスマートフォン自体持ってないこと思い出したから虱潰しに走って……って、なんでそんなに汚れているんだ? つか臭くね?」
 鼻をひくつかせながら私達を見る巳波先輩。それはそうだろう。なんせ私達は先程までゴミという異臭の山奥にいたのだから。
「こっちもこっちで大変だったんです。あのゴミ置き場の倉庫に閉じ込められて、叫んでも誰も近くにいなかったから……」
「倉庫に? 業者はそっちにいなかったのか?」
「業者って?」
「専門棟から戻ってきて倉庫に行こうとしたら止められたんだよ。『今、倉庫に業者が来て作業しているから近づくな』って。お前らのことを聞いたら校舎に入って行ったとも言われたし……てっきり、他の教室でも調べているんだと思ったんだ」
 ゴミ置き場の倉庫に閉じ込められてから出てくるまで、業者どころか人がいる様子はなかった。誰かが校内に入っていく後ろ姿は見えたけど、はっきり見えたわけではない。立ち去ったあの人物は本当に業者だった? あの後ろ姿は実は犯人で、あの倉庫に立ち寄らないように仕組まれていた?
 東雲君は黙って倉庫がある方向へ目を向ける。
「祥吾、どうかしたか?」
「……いや、何でもない。とりあえず資料室に戻ってこれを見てみよう」
 そう言ってずっと持っていた袋を掲げる。破り捨てられた二年A組の反省文が入った袋だ。
「なんだ? ゴミ?」
「そう。裕司先輩は何か見つけた?」
「ああ、それらしきものはいくつか見つけた。……でもこんなのでわかるのか?」
「見つけるさ」
 鼻で哂う東雲君は真っ直ぐ資料室に向かって歩き出した。無表情ではあったものの、どこか怒っているようで、声をかけるのを躊躇う。
 巳波先輩と顔を合わせると「いつものことだ」と肩をすくめて小さく笑い、彼の後を追うように歩き出した。
 先輩には東雲君の行動が読めているのだろうか。資料室でのやり取りをただの小言争いだと思っていたのであまり気にしていなかったが、東雲君が意見交換できる人だと考えると、巳波先輩は聞き上手であることがわかる。
 彼らの関係性が未だにわからないが、何となく羨ましく思った自分に首を傾げながら、二人の後を追った。

 資料室に戻ると、東雲君はすぐさまゴミ袋を机の上に広げて分別し始めた。
 お菓子のパッケージや袋など、他にもたくさんあるゴミの中から原稿用紙だけを取り出し、それらを同じ筆記体のものをセロハンテープで繋ぎ合わせていく。作業をしながら見ていた巳波先輩に反省文の話をすると、何か思い出したように本棚を漁って「校内事変、二十五」と書かれたファイルを開いた。
「生徒指導になった生徒が反省文を書くことになったのはここ二、三年の話だ。事の発端はカンニングした生徒の指導だったらしい。といっても反省文は書いて教師が保管、生徒が卒業した後に処理されるのが決まりになっている。例えば一年の時に何か問題を起こしたら、その時書いた反省文は三年生になって卒業する時まで保管される。……二年A組はまだ卒業もしてない。これはおかしいぞ」
「それだけじゃない。原稿用紙を見る限り日が経ってない。少なくともここ一か月……いや二か月くらいか」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「原稿用紙の日焼けの色が違う。ちゃんと管理していたとしても、新品みたいに白いだろ」
 繋ぎ合わせた五枚の反省文の一部を見比べる。まだ完成していないが、しっかりと書かれた本人の名前と内容が確認できる。
 ――「私は放課後、駅近くの薬局でリップグロス一点を万引きしました」「私は深夜になっても家に帰らず、警察に補導されました」「部室で他の生徒の私物を盗みました」「学業に必要のないゲーム機を授業中に使用していました」「他校の生徒と口論になり、暴行してしまった」
 そして巳波先輩がまとめた校内事変ファイルに、最初に窃盗にあったA組の生徒の名前が原稿用紙に書かれた名前が全員一致した。
「こんな反省文一つで終わらせたつもりか? 現に処分を下していない時点で、学校側が無かったことにしているのだとしたら大問題だぞ。今からでも校長先生に……」
「落ち着けよ、生徒会長。卑劣なことをしたエリート組の生徒を学校側が見過ごしましたって吊し上げたところで、この窃盗騒ぎは終わらねぇ。それに下手したら理事長にも手が回っている可能性だってある」
「じゃあどうしろって言うんだ? 学校の存続を懸念していた経営者側の言いなりになれとでも言うのか?」
 怒りを露わにした巳波先輩に、東雲君はあくまで涼しい顔をして続ける。
「五人を裏で動かしてた黒幕を引っ張り出す。その方が早い」
 私も先輩も混乱している中で、東雲君が反省文の一番最後の分を指さす。そこには確実に黒幕を裏付けるものが五枚全てに書かれていた。
「これって……」
「これだけあれば十分脅せるさ。そうだ、裕司先輩。先輩の広い人望を利用してちょっと調べて欲しいことがあるんだけど」
「調べてほしい? 人望と何か関係があるのか?」
 東雲君が耳元で話すと、巳波先輩は眉をひそめた。
「なんだ、それならすぐわかると思うが……そんなことだけで本当に実証できるのか?」
「やってやるよ」
 そう一言だけ答えると、東雲君はまた作業に戻った。いつになく真剣な表情に声をかけるのを躊躇うと、私も巳波先輩も目の前の作業に取り掛かった。
 九

 翌朝の空は快晴で、太陽の日照りが容赦なく降り注ぐ。こんなに良い天気なのに、駅から学校までの数十分が、今日ほど憂鬱だとは思ったことはない。登校中の私に刺さるのは日照りではなく、先程からジロジロと見てくる、同じ制服を身に着けた生徒の視線だ。
 それもそうだろう。今の私は最近頻繁に起こっている盗難騒ぎの容疑者で、理事長の息子を殴り飛ばした――実際はビンタしただけである――、今最も注意しなければならない生徒であるからだ。
 それだけだったらよかった。切実に。
「……ちょっと、なんで生徒会長まで一緒なのよ?」
「しょうがねぇだろ、同じ学校なんだから」
「裕司先輩、朝からうるせぇ……」
「生徒会長サン、声のボリュームを抑えてくれません? それか俺達から離れて歩いてください」
「朝から辛辣すぎやしないかお前ら!?」
 私を中心に、実咲と東雲君、瑛太が一斉に巳波先輩を弄っている。それはいつもの朝の光景にしてはとてもとても賑やかで、他の生徒が驚いて二度見をして凝視する程、注目の的だった。
 なんせ容姿端麗の実咲、スポーツ特待生で女子からの人気も高い瑛太、そして人望の厚い生徒会長の巳波先輩――この三人が揃えば周りがぼやけて見える。加えて眠そうに目を擦る東雲君も、問題児として既に校内に知れ渡っているうえ、啖呵を切った当人でもあるから、より注目度は高いだろう。
 彼らに囲まれていると、特に私のような普通――いや、窃盗犯の容疑者みたいな立ち位置の私が彼らの間に挟まれていると思うと気が重い。
「ツヅミ、ちゃんと眠れた?」
 先程から苦笑いが収まらない私に実咲が声をかけてくれる。
「まあ……うん。巳波先輩はともかく、二人とも部活は?」
「今日は朝練がない日なの。それにツヅミに何かあったら困るから一緒に登校しようって。そしたら瑛太も同じこと考えてたらしくて」
「まさか同じタイミングで、そっちの二人が声かけてくるとは思ってなかったので滅茶苦茶腹立たしいんですけど」
「一応俺、先輩なんだけど?」
「後輩ですけど何ですか? 年下に圧力かけても何も出てきませんよ」
「このっ……!」
 鼻で哂う瑛太に何も言えずに唇を噛み締める巳波先輩。どこかで見たことのあるような光景だ。
「でも私は純粋にツヅミと学校に行きたかっただけよ?」
 ニッコリと笑みを浮かべて言う実咲に、少し後ろにいる東雲君が苦い顔をして俯いた。
 彼女のこの表情は、本心では口が悪くなっているときだ。後ろの巳波先輩と瑛太の話を聞いて「煩いなぁ、さっさとどっか行け」くらい思っていてもおかしくはない。実際、何度かそれに近い小言を聞いたことがある。そしてそれは、東雲君にとっては昨年からずっと見ていたトラウマの笑顔だったのかもしれない。
「あら、どうしたの東雲?」
「ななななんでもない! 今日も馬場ちゃんは元気だなって思っただけです!」
 朝なのによく喋る東雲君は新鮮だ。二人のやり取りに呆れながらも、自分の頬が少し緩んだ気がした。ふと視線を変えると、どことなく嬉しそうに微笑んだ瑛太と目が合う。
「瑛太? どうしたの?」
「いえ。……先輩、やっと笑ったなって」
「へ?」
「ほら、疑われるようになってから無理に笑っている気がしていたんで。特に教室で公開処刑されたとき、俺は近くにいなかったから、少しだけ心配してました。……って、馬場先輩が」
 最後は後付けのように早口で言うと、瑛太は相変わらずの仏頂面で口元を少しだけ緩めてくれた。
 私が容疑者扱いされたのはほんの二、三日前のことだというのに、そんなに暗い顔をしていたのだろうか。鏡を見なければ自分の顔は見れないから、他人から見れば死んだ顔をしていたのかもしれない。
 瑛太とは中学からの付き合いではあっても頻繁に話していたわけではなかったけど、普段から周りの人の顔色を察して無意識に気遣う優しい人だということを、私はよく知っている。
「……心配かけてたね、ごめん。ありがとう」
「お礼なら全部終わってからにしてください。それに心配していたのは馬場先輩ですから。俺は先輩に付き添ったくらいで……」
 拗ねたようにそっぽを向く。後輩ながら可愛いところもあるものだ。
 すると突然、後ろと隣から冷たい視線が背中に刺さった。それは瑛太も同じだったらしく、同時にそっと振り返ると、実咲と東雲君がじっとこちらを睨みつけていた。
「瑛太? ツヅミと何楽しそうに話しているの?」
「犬塚君、ちょっと牛山ちゃんに近いんじゃねぇ? 馬場ちゃんに怒られる前に離れたら?」
「……俺、別に馬場先輩に怒られても仕方がないとは思って割り切っているんですけど、なんで昨日会ったばかりで性格の悪い東雲サンに注意されるのか、マジで意味不明です」
「奇遇だなぁ。俺も同じこと思ってたんだよ」
「あ、そうなんですか? そんなに後輩を妬まないでくださいよ。『嫉妬は悪い』言い方してたの、先輩でしょう?」
「アンタのどこを妬むって? ちょいちょい先輩後輩の上下関係を入れてくんじゃねぇよ。下剋上でもしたきゃそこの仲間外れ生徒会長にしとけ」
「生徒会長サンに下剋上したところで何を得られますか? ああ、少なくとも人望だけは東雲サンに勝てるか」
「俺の人望に勝とうだなんて随分ちっぽけな野望だね。止めた方がいい。絶対後悔するから」
「自分で言ってて悲しくなりません?」
「ああもう……顔を付き合わせるたびに喧嘩腰になるのやめて!」
 昨日初対面の癖に喧嘩を勃発させ、数十時間後にまた同じ繰り返しをする二人。言い争いの内容は先輩も後輩もない、小学生以下の悪口対決だ。
「放っておけばいいのよ、ツヅミ。やらせておけばいいの。……それより瑛太も東雲も生徒会長も、私のいないところでツヅミに手を出したら許さないわよ!」
「ちょっと待て。俺、何も言ってないしやってなかったよね? 無関係だったよな?」
 放っておけと言う割に加勢する実咲、更に理不尽な扱いを受けている巳波先輩。皆の後ろ姿がなんだか可笑しくて、いつの間にか笑って見ていた。

 校内に入り、教室の階が違う巳波先輩と瑛太と分かれて二年C組の教室に向かうと、待ち構えていたように戸田克之と桜井朋美が満面の笑みを浮かべて扉の前に立っていた。
「おはよう。焼かれる準備はできたかな?」
「朝からその煩い笑顔をどうも、今日はちゃんと歯磨きしてから来たか?」
 戸田君と東雲君がいきなりぶつかる。ああもう、どいつもこいつも朝から喧嘩して楽しいのか。
「それより牛山、お前は昨日の放課後どこに行っていた?」
「放課後? 東雲君と一緒だったけど……」
「ああ、それはもちろん知っている。お前らはどこにいた、と聞いているんだ」
 昨日の放課後は五階の資料室と中庭にあるゴミ置き場の倉庫くらいしか出入りしていない。
 資料室で原稿用紙の修復を試みていたが、五枚全て直すには時間がかかりすぎて、いつの間にか完全下校時刻の数十分前になっていた。流石にこの時間まで私が残っていると更に容疑がかかってしまうからと言って、三人でどうにか二枚分だけ完成させて帰宅したのだ。
 ちなみにゴミ置き場の臭いが付いた制服は、家に帰ってすぐ消臭スプレーを何度吹きかけても、ゴミ置き場の独特な異臭は残ってしまった。
 朝から嫌な臭いが染みついた制服を着るのが憂鬱だったことを思い出すと、戸田君はポケットから自慢のスマートフォンの画面を見せつけてくる。映し出された動画は、昨日閉じ込められた倉庫が映し出されていた。扉の隙間から細い針金のようなもので、鍵代わりの丸落としが突かれて外れると、中から私と東雲君が出てきた。そしてその場で二人で何かを話し、可燃物のゴミ袋を持って画面から去るところまで映し出されていた。
「お前ら、倉庫で何をしていた? なぜゴミ袋を漁って持ち去った? この倉庫の鍵を外したのは牛山、お前か?」
 真っ直ぐ私を見て戸田君が問う。すると隣にいた実咲が前に出た。
「ちょっと、何百人の生徒がいる中でツヅミを犯人扱いしすぎじゃない? 何を根拠にそんなこと言えるわけ?」
「盗まれた際の動画の件しかり、ピッキングができる人物が確定されている。状況証拠がそろっている以上、疑わない理由はないだろ」
「思い上がりもいい加減にして! 私はツヅミと中学の頃から一緒なの、この子は泥棒まがいなことは絶対にしない!」
「牛山を庇うか。別にいいが、お前のこれからの立場が危うくなるぞ。容姿端麗、成績優秀。他人が口々に言うお前への誉め言葉を、お前自身が知らないわけがない」
「私の評価なんてどうでもいいわ。理事長の息子だからって、個人的なことで権限使ってんじゃないわよ!」
「実咲、駄目!」
 歯をギリッと噛んで、今にも殴りかかりそうな実咲の腕を掴んで抑える。同じ性別でも関わらず、実咲の力は強くて自分が飛ばされてしまうのではと錯覚してしまう。そういえば彼女は馬鹿力の持ち主だった。
「離して、さすがにこれは一発殴らないと気が済まない!」
「そんなことしたら実咲が悪者になる! そんなの絶対に嫌だ!」
「ツヅミ……っ!」
 ただでさえ実咲は盗難騒ぎの被害者だ。そんな彼女まで犯人扱いする戸田君は到底許せないが、それ以上に彼女がこんな事に巻き込みたくないという気持ちの方が強かった。
「――――ははっ! なんだこれ!」
 緊迫した空気の中、後ろから東雲君の笑い声が聞こえてきた。横目で見ると、彼の口元はとても楽しそうに緩んでいた。
「よく撮れてんじゃん。今度は……へぇ、中庭の木にでも括りつけたか。時間通りの撮影ができて良かったね、口臭が怪しい戸田クン」
「さっきからその虐め同然の呼び方はやめろ! ……ははーん。そうか、そうやって俺を挑発しながら言い訳を考えているんだな? 時間稼ぎも無駄だ。どうして二人がこんなところから出てくる? 人目に触れられては困ることでもしていたのか? さあ答えて見ろ! そのバカバカしい、笑ってしまうような言い訳を!」
「……ったく、最近の学生はギャーギャー騒がしいな」
「なに……?」
 いや、東雲君も最近の学生でしょ。――とは、この状況で口には出せなかった。
「歯磨き忘れた戸田クン、アンタの得意な推理ってので教えてくれよ。なんで俺達がアンタと同じくらい臭い場所に二人で入っていったのか、アンタが謳う真実ってのを話してくれよ?」
「え?」
「正解を知っているから俺達に問いただしているんだろ? この倉庫で何していたと思う?」
 東雲君は彼のスマートフォンの画面を指で突きながら問う。それに対し、戸田君は苦虫を潰した顔をして唇を噛んでいた。
「……う、牛山とお前は手を組んだんだ。でも誰かの財布から金目のものを盗るにはハードルが高くなっていしまい、仕方がなくゴミ袋から誰かを恐喝できるネタを探してたんじゃないのか?」
「おーおー。大きく外れている割にはおまけの三角がついてきたか。……アンタ、定期テストだったら赤点レベルな話をよく推理だと言えたな、ふざけてんの?」
「なっ……!」
「確かに俺達はある目的でゴミ置き場の倉庫に入って探していたよ。
「……そうだな、犯人を恐喝できるネタ探しってところだな。金銭目的じゃない。
「考えてみろよ、問題になっている盗難騒ぎの犯人が盗んだものはすべて現金だ。誰が好んで現金をゴミ箱に捨てる?
「捨てるほど札を持ってる奴がいるなら、一度拝んでみたいものだね。
「それとこの動画、倉庫から出てくるところはあっても俺達が入ってくるところは映っていないけど、どうしてこの中に俺と牛山がいるってアンタは断言できたのさ?
「実際に俺達が入っていくところを見ていたのなら、どうして倉庫の鍵がかけられた場面の動画がない? また誰から動画を貰ったのか?
「答えてみろよ、犯人が牛山だっていう理由がアンタにあって答えられるから、こうやって聞いてきたんだよな?
「……わからないとは言わせねぇぞ」
 東雲君の質問攻めに戸田君の目が泳いだ。論破できる相手ではないことを察したのか、戸田君が顔を背けたその瞬間、東雲君は彼のワイシャツの胸倉を掴むと、近くの壁に力づくで押し付けた。鈍い音が廊下に響くと同時に、顔を歪める戸田君を東雲君は見下すと、嘲笑うように口元を緩めて彼の耳元で言った。
「推理とか真実とか、知ったかぶりの言葉を自慢げに並べて語ってんじゃねぇよ。めちゃくちゃカッコ悪いぜ、アンタ」
 苛立ちを隠しきれない彼の声に、戸田君は放心状態でその場に立ち崩れた。近くにいた私はもちろん、今にも殴り掛かりそうな実咲も腕の力を弱め、戸田君の隣に立っていた桜井さんも、ただ唖然として彼らのやり取りを見ていた。
 戸田君を見下ろしていた東雲君の表情は笑みを浮かべていたにも関わらず、後ろ姿ではとても怒っているように見えた。
「アンタも、もう茶番に付き合う必要ないだろ」
「え……」
 東雲君はその表情のまま、桜井さんの方を向いて言う。先程と打って変わって優しい声だった。
「牛山ちゃん」
 彼は振り向かず、私に言う。
「化けの皮剥がしに行くから、付き合ってよ」
 東雲君は座り込んだままの戸田君が持っていたスマートフォンを拾い、横を通って歩き出す。廊下にいた生徒は皆、彼に道を開けるように両端に寄る。道の真ん中を堂々と行く東雲君の後を、恐る恐る追いかけた。
 十

 二年A組の教室まで来ると、東雲君は何も言わずに扉を開けた。
 朝のホームルームの時間にはまだ早いのに、教室の中には談笑している生徒と、数名の生徒の話を真剣な表情で聞いている高岡先生の姿があった。扉が開かれた音に気付いた高岡先生は、話を聞くのをやめてこちらにやってきた。それを迎えるように、東雲君も何歩か前に出る。
「おはよーございます、高岡センセー。相変わらず人気者だね」
「おはよう。君達がA組に来たってことは桜井に用事かな? 先程B組の戸田と一緒に出て行ったのを見かけたけど、そこで会わなかったかい?」
「会ったよ。廊下で会って、またふざけた話をされたから我慢できなくて黙らせてきちゃった」
 やっちゃった。と舌を出してお茶目なポーズをする東雲君。普段との差がありすぎて教室にいたほぼ全員が引いている。その中にはもちろん、高岡先生も含まれていた。
「東雲……君は普段から授業をしっかり受けていないと聞いている。それはどうして? 先生だって皆の将来の為に教えているんだ。君も誠意を見せてくれよ。でも正直、君が暴力に手を出すとは思っていなかった。……一応私も生活指導の担当だからね。ちょっと職員室で話そうか」
「いいや、ここでいいよ。俺はアンタと違って恥ずかしいことしてねぇから」
「……どういうことだい?」
 先生の目の色が変わる。教師独特の威圧感というか、まるで「何か喋ったら成績を落とす」と脅しているように思えた。
 それでも東雲君は緩んだ口元や楽しそうな表情は変わることなく、教室にいた生徒を煽るように全体に問う。
「自分の金を盗んだ犯人くらい、皆だって知りたいっしょ?」
「……犯人が、わかったのか?」
 教室にいた誰かが問いかけた。東雲君は黙って頷いてまた高岡先生の方を向いた。
「俺は昨日、戸田と桜井、そして先生やC組のクラスメイトの前で牛山鼓が無実であることを証明すると宣言した。
「それを聞いた犯人は焦って、俺と牛山をゴミ置き場の倉庫に閉じ込めると中庭の木の上に小型カメラを設置した。抜け出せなかったら恐喝して他に従わせる、抜け出したらピッキングしたという証拠として提出する。
「強引に盗難と関連付けさせて牛山を犯人に仕立て上げようとしたんだろうが、結局俺達は倉庫から抜け出せてしまったから、思い通りにいかなくて残念だったな」
 これがその証拠の映像、と言って先程立ち崩れて動けなくなった戸田君から拝借したスマートフォンを取り出し、動画を再生する。画面の端に緑色の何かが見えるのは、きっと小型カメラをセットしたときに葉っぱが被ってしまったのだろう。
「この動画……東雲達が出てくるところしか映っていないじゃないか。もしかして編集されているのか? 入ったところは残っていないのかい? そういえば閉じ込めたって言ってたよな、一体誰が……」
「編集なんてされてねぇよ。俺達が入ったところを偶然見てしまった犯人が扉を閉めてから、念の為と持ち歩いていた小型カメラを設置したんだ」
 食いつくように動画を見ていた高岡先生に、東雲君が切り捨てるように言う。
「閉じ込めた後って……どうしてそんなことがわかるんだい?」
「倉庫の鍵だよ。俺達が閉じ込められてすぐ、ある生徒が『業者が作業しているから近づくな』と言われて中庭に行かせてもらえなかった話を聞いて思ったんだ。
「今倉庫に行かれたら俺達を閉じ込めた意味がない。あんなボロい倉庫なら、話し声や物音は筒抜けだから、中で騒げばすぐ開けてくれるはずだ。
「閉じ込めた理由は、犯人に仕立て上げようとした牛山が倉庫の丸落としを自力で開ける証拠動画を撮りたかった、ってところじゃねぇかな?
「結局、動画も証拠にならないな。見ればわかるけど、先に外に出たのは牛山。でもその後俺が出入り口でうろうろしてるだろ? 思っていた以上に簡単に外れてちょっと興奮しちゃってさ。
「ガキみたいだって? 何度でも言ってろ。
「……ああ、話が逸れたな。
「その生徒が校内へ戻ったのは犯人がカメラを設置し終えた後。相当焦ったと思うよ。自分が黒幕であることを示す証拠品が、ゴミ袋の中に入っていたんだから。
「……そう。一発でわかっちゃう証拠。抜け出せてよかったよ。下手したら死んでたかもね。
「あの倉庫、何年前に建てられたかは知らないけど、見た目からしてボロボロだろ? 俺達ごと焼いて、証拠自体を燃やそうとしていたかも。……って、心配したんだよねぇ」
 そんな大げさなことを口にしたものだから、教室中がざわつき始めた。私だって昨日、この話を聞かされたときは息が止まるかと思った。
 生徒が一斉に話し出して落ち着かせようとする高岡先生を見て、東雲君は口元を緩ませた。これが狙いだったのだろうか。
「東雲、皆を混乱させるようなことは言わないでくれ! やっぱり場所を移動しよう。授業に身が入らなくなる」
「駄目だよ、ここで話さないと奴らは名乗るどころか反省もしない。一番最初に被害に遭ったクラスだからこそ、この教室で話さないといけない。それに実際に倉庫にいたのは俺と牛山だろ。アンタらが疑っている奴が逃げずに居るのに、アンタも犯人も背を向ける気?」
 東雲君の言葉は脅しのように、高岡先生の顔を歪ませていく。しかし先生も彼の話が気になったのか、恐る恐る問いかけた。
「奴ら……? 何を言っているんだ、犯人って、東雲はこの中に犯人がいるとでも言うのか?」
「こうでもしないと出てこないでしょ。……正直、焦ったと思うよ。俺達がゴミ置き場に入っていったの、予想外だったんだから」
「じゃあ、犯人はゴミ袋に入れた証拠を見つからないように?」
「そういうこと。可燃物に入れたら問答無用で業者が回収していくからな。燃やしても証拠は無くなるから一石二鳥だったんだろ」
「……確かに、ゴミ袋に入れたものを漁ろうとする人はいない。証拠とはどういうものなんだい?」
「紙だよ。読めなかったけど」
「紙……そうか、だから可燃物のゴミ袋に入っていて、火を付けることも考えていたのか。『破られていた』とはいえ、漁られたりしたらわかってしまうかもしれない……東雲、その証拠はどこに?」
「俺が持ってるよ」
 東雲君はポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出す。その紙を見て、高岡先生は急に眉をひそめた。
「本当にそこに書かれているのかい?」
「それはどういう意味?」
「証拠の『原稿用紙は破かれていた』んだろう? どう見たってそんなに小さくないし、綺麗なコピー用紙を折り畳んだだけにしか見えない。何か裏でもあるんじゃないのか?」
「うわっ、先生は俺のことを疑うの? 確かにほとんど授業は熟睡しているけど、まだ生徒指導室に呼ばれたことないのに」
「君の場合は猪野先生のおかげだ。私も生徒に脅しを掛けるようなことはしたくない。それにこれは学校全体に関わる問題だ。君だけの問題じゃないんだよ」
 気のせいだろうか。
 普段おどおどしている高岡先生にしては強気な口調だ。東雲君が問題児という認識をしているからなのか、いつになく堂々としている高岡先生は今まで見たことがない。
 違和感を覚えたところで、後ろにあった出入り口からか細い声が聞こえた。
「……それ、どういうことだよ……?」
 桜井さんに支えられながら戸田君が入ってくる。先程の東雲君の迫力に、腰でも抜かしてしまったらしい。
「お前達が探していたものって、犯人の証拠品だったのか? 牛山の潔白を証明するために? もしお前達が倉庫から出ていなければ、ボヤ騒ぎになっていたかもしれないのか?」
「だって学校全体が敵だったんだぜ? どっかの誰かさんが話を大きく広げて悪者扱いするから」
 ったく面倒なことさせやがって、と小さく舌打ちを一つ。
 ここまで話をして、被害に遭ったほぼ全員が集まっているというのに、一向に東雲君は犯人の名前を口にしない。
 更に東雲君は続けた。
「犯人はあるアクシデントでやむを得ず、自分が犯人である証拠をゴミ袋に入れて捨ててしまった。紙まみれの可燃ゴミに紛れ込ませれば、見つかる可能性は低いものだったからと高を括っていたんだろう。木を隠すなら森の中、みたいな。正直、そのアクシデントがなかったら俺達も証拠を見つけることはできなかっただろうね」
「アクシデント……?」
「ある生徒会長の話だと、昨日の夕方に全職員室の大掃除があったらしいじゃん? きっと犯人は職員室のどこかに証拠になるものを隠していて、見つかったら不味いから処分した。……まあ、写真は撮ってデータとして残っているんだろうけど」
「勿体ぶらずに教えろ、誰が盗難騒ぎの犯人なんだ? その証拠とやらはなんだ?」
 痺れを切らした戸田君が吠える。支えていた桜井さんを押しのけて東雲君の前に立つと、仕返しのように彼のワイシャツの胸倉を掴んだ。今にも殴りかかりそうな戸田君の手を見て溜息を吐くと、とても残念そうに言った。
「盗難騒ぎの実行犯は、A組の校則違反をし、一番最初に盗難に遭った五人だ」
「は……」
「彼らは本当の犯人――つまり、この騒ぎの黒幕に脅されて、現金を盗んでいたんだ」
「五人……ちょっと待て、それって……」
「ああ、でも五人がやったのは折り紙を入れたり、財布の中のお札をレシートで隠したりしただけで盗んじゃねぇと思うよ」
 東雲君はポケットから更に被害者の財布に入っていた和柄の折り紙を取り出し、A組の生徒に見せつけるようにひらひらと揺らしながら続けた。
「自分の財布の中身を朝から夜まで把握してる奴なんているか?
「学校に来てから購買や自販機で買って、部活で備品が足りなくて、急遽コンビニまで走ることもあるだろうし、放課後、駅の近くのカフェで仲が良い子同士で喋っていたりするんじゃない?
「……まぁ、他にも何かあると思うけど、最初から入ってた金額を覚えているなんて曖昧だろ。実際、俺もわかんねぇし。それにこういうモンには性格が出る。
「レシートが詰まった財布なんて、よく見たら札が紛れていてラッキー! ……それと一緒だよ」
「一緒? ちょっと、全然頭が追い付かないんだけど……?」
 慌てて話に割って入る。私だけじゃない、事情を把握しきれていないのはA組の生徒も一緒だった。気怠そうに溜息を吐くと、胸倉を掴んでいた戸田君の手を外しながら問う。
「他の人はともかく……牛山ちゃんはどれだけ噛み砕いて話せばわかってくれるんだよ……。戸田、アンタも被害者なんだろ? なんで盗まれたと思った? 財布の中身の金額を覚えていたとか?」 
「金額なんて覚えていられるか! ただ札が入っているところに折り紙が――」
 ――折り紙が入っていたから。
 そういうことか。
 ハッとして東雲君の顔を見ると、またにやりと口元を緩ませた。
「……そう。この盗難で共通していたのは、【盗まれたお札の代わりに入れられた折り紙】だった。騒ぎの関連性を匂わせる理由がわからなかったんだけど、馬場の月謝袋から抜かれた二千円で分かった。あれは財布の持ち主に『抜かれた、盗られた』と認識させるためのものだったんだ」
 盗難被害に遭った実咲の月謝袋の金額を思い出してほしい。
 彼女は財布とは別に、ピアノ教室の月謝袋に一万円札が一枚と千円札が二枚を入れていた。――ロッカーの鍵をどうやって外したかは今の時点で置いておいて――もともと財布には二千円が入っていたこともあったが、東雲君に言われて思い出したのが、【財布のお札は常に二千円入ってはいるが、月謝を提出する際に見たときには四千円入っていた】という事実だ。
「実咲のロッカーを漁った人物は、月謝袋の中から二千円を取り出したあと、代わりに折り紙を入れて抜き取った二千円は財布に戻した……ってこと? 和柄の折り紙にしたのも、軽く指で触れただけでは札と間違えやすいって思ったから?」
「まぁ、そういうことになるかな。随分面倒なことをした挙句の話だけど、全員がお札を盗まれたわけじゃないっていう事実が出てくる。そこんところは盗んだ本人に聞いた方が早そうだ。そうだろ――桜井」
「…………」
 扉の入り口で立ち尽くしていた桜井さんがビクッと肩を震わせる。唇を噛みしめて、どこか悔しそうな表情に見えた。それとは反対に、戸田君は信じられないといった顔をして東雲君に問う。
「東雲、言いがかりも大概にしろ! 桜井は優秀生徒でA組の学級委員で、被害者なんだぞ? そんな奴が犯人で、校則違反者? 桜井に限ってそんなこと……」
「戸田君、やめて! ……もういいの」
 桜井さんは両目にうっすらと涙を浮かべながら、今にも怒鳴り散らしそうな戸田君の腕を掴んで止めた。
「いいのって、お前……俺に相談してくれたのに、なんで……?」
「アンタが使いやすかったからだよ」
 一方的に桜井さんに怒鳴る戸田君を制し、東雲君が続ける。
「理事長の息子という肩書きだけで、アンタには利用価値があった。アンタ自身が不祥事を起こしても、学校側はもみ消すことができるんだよ。そして『自分が全て正しい』と訴えるその口調は、全生徒や教師陣が信用してしまう程の支持がある。一番は騙しやすそうなその性格を加えれば、アンタを利用する理由に十分だ。アンタは掌の上で踊らされていたんだよ」
「……桜井、本当か? いやだって、え……?」
 戸惑う戸田君は桜井さんに問いかける。
 盗難騒ぎがあって以降、この二人はいつも一緒にいた気がする。私が戸田君を叩いたときも、私に向かって殴りかかろうとしていた。戸田君に惹かれている反面、彼を利用していることの罪悪感でいっぱいだったのかもしれない。
 その証拠に、彼を見てすぐ桜井さんの頬を涙が伝う。
「……戸田君は、A組が盗難の被害に遭った話にすぐ私に大丈夫かって心配してくれた。犯人探しをするから教えてくれって、でも……真っ直ぐな貴方に私は答えられなかった。ごめんなさい」
 しゃくりあげながら、桜井さんは彼に深々と頭を下げた。
「……桜井の他にあと四人いる。出ておいでよ、余計な重荷なんて捨てていいから」
 東雲君の一言で、四人が苦い顔をして前に出てきた。事前に巳波先輩からもらっていた生徒名簿と照らし合わせると、原稿用紙に書かれていた名前の人物と全員が一致した。
「俺達、校則違反で一度生徒指導室に呼ばれているんだ。特に俺は三者面談もして停学確実なくらいのことをしでかしている。それでも『帳消しにしてやるから指示に従え』って言われて……」
「あたしも、『退学になりたくなければ』って……脅されてる気分だった、ううん。脅された」
 四人が次々と口を開いて話してくれる中、A組の生徒は皆、静かにそれを黙ったまま聞いていた。
「学校に不都合がある生徒は停学か、または退学処分。……それを逃れるためにこいつらは従わざる得なかった。どのみち自分勝手すぎるけど、黒幕は本当にクソだな」
 東雲君はそう言って、ある人物の前に立つ。
「現金を盗んだ代わりに折り紙を入れた盗難計画を立て、生徒のロッカーへのピッキング、そして昨日の放課後、俺達を中庭のゴミ置き場倉庫に閉じ込めて、牛山に全てを擦り付け、強引にこの騒ぎを終わらせようとした一連の黒幕は――アンタだ」
 今まで黙って傍観していた【彼】は、動揺して一歩後ろへ下がった。
 十一

「……ちょっと待ってくれ、何を言っているんだい?」
 A組の教室内が騒然とする中、高岡先生は口元を引きつらせて東雲君に問う。
「私が黒幕? 言いがかりも程々にしてくれ、推理ごっこをしているんじゃないんだ。教師の私がそんなことをするわけ……」
「そう、これは『ごっこ遊び』でもなければ『推理』でもない。俺が話すのは仮説であって真実とは程遠いかもしれない。それでも今日は牛山の潔白を証明するって大勢の前で宣言したから。まぁ、冗談だと思って聞いてくれよ」
 二人が睨みあった途端、緊迫した空気にがらりと変わったのがわかる。
 教師という立場からの威圧感なのか、それを上回る東雲君の見下し加減なのか。私はただ、教壇の下から他の生徒と同じようにじっと見ていた。
 東雲君は先程取り出した、犯人の手がかりが書かれている証拠と謳った紙を開いて見せる。当然、中には何も書かれていない。
「とりあえず最初に証拠品って言ってたコレ。先生の言った通り、この紙には証拠も何も書かれてないただのコピー用紙の端切れ。……先生、大正解! どうしてここに書いてないってわかったの?」
 音が出ない拍手を送ると、東雲君は高岡先生の目の前で、綺麗に折られていた白い紙をぐしゃりと握り潰してその場に落とした。ぐしゃぐしゃになった紙が教壇に転がると、高岡先生のつま先に当たって止まった。
「し、東雲が自分で言ってたじゃないか、さっき原稿用紙に書かれていたって」
「可笑しいな。ねぇ牛山ちゃん、さっき俺はコレを『原稿用紙』だって言ったっけ?」
「……ううん。『紙』としか言ってなかったよ」
 これは確かだ。東雲君も桜井さん達も、一度も原稿用紙とは言っていない。
「紙と言ってもたくさんある中で原稿用紙に限定したのはなぜ? 偽物だと見抜いた紙は開いてもないよね?」
「そ、それは……反省文を……」
 あ、自爆した。
「反省文! そう、校則違反者には書かせる反省文はいつも原稿用紙だ。……あれ、可笑しいな。五人は反省文の話はしても、何の紙に書いたかは誰も口にしなかった。それはつまり……アンタは最初からその反省文の存在を知っていたってことになるよね?」
「知っていて当然だろう。私は生徒指導の担当だ。反省文を書く紙は原稿用紙だと知っているのは私以外にも数名の教師がいる。私だけが知っているわけじゃない。大体、用紙はバラバラに破られていた。見つかるわけが……っ!」
「あーあ。……俺、読めなかったとしか言ってないんだけど」
 東雲君は次々と高岡先生が隠していることを吐かせていく。
 口を滑らせた自覚があったのか、高岡先生は唇を噛んだ。
「……仮に、私が彼らに反省文を書かせたとしても、それが黒幕である証明にはならないじゃないか。それにロッカーにつけられていた南京錠とダイヤル錠のピッキングはどう説明するんだい? 私にそんな技術はないし、私がやったという証拠もない。牛山がやったことをすべて私に擦り付けようとしているんじゃないのか? 動画だって彼女を映していただろう!」
「動画の人物は桜井の変装だ。彼女なら牛山と身長が同じくらいだし、残りの四人のうち一人が所属している演劇部からウィッグくらい拝借しても問題ねぇだろ」
 私はふと、少し離れた場所にいる桜井さんを見る。最初に撮られた動画も、今の立ち位置と同じくらいの距離であれば見分けはつかないかもしれない。
「桜井……? だったらロッカーの鍵を開けたのは桜井じゃないか。なぜ私が関わっていると言い切れるんだい? 大体、撮られた動画は授業中だったんだろう? 私が関係のないクラスの教室で生徒と二人きりなんて、誰かに見られていてもおかしくはないはずだ」
「オイオイ、早とちりしすぎだろ。動画はピッキング中の場面を撮影していたわけじゃない。盗んだ後、アンタはもう一度同じ手順で盗んでいる動画を撮らせて編集したんだよ」
 昨日彼が見抜いた動画の仕組みを説明しても、先生は眉間にしわを寄せたままだった。
「……動画については理解した。でも実際にロッカーを開けて現金と折り紙の交換は行われている。
それはいつ、誰がどうやってできたんだ?」
「実際に盗まれたのは昨日の昼間……D組が体育の授業で教室が空になった時だ。
「五人のうちの誰かは、黒幕のアンタに言われるがまま、南京錠とダイヤル錠の鍵を外して折り紙を月謝袋に入れ、抜いた二千円を財布に戻した。その日の放課後に桜井を変装させ、ピッキングをしている動画を撮影し、編集したものを桜井経由で戸田に送った。
「これは最初に現金をロッカーで保管していた男子生徒の時も同じ方法で動画を撮影したんだろ。
「桜井が実際にピッキングをしたかは別の話だ。ピッキングって確か針金とか専用のツールとかで開けるんだっけ。でも桜井には使えないんだよ」
「使えない? どういうことだ?」
「桜井は二週間前、所属しているバトミントン部の練習中に手首を捻ってドクターストップをかけられている。初めてC組に殴り込みに来た時、アンタ、腕掴まれて痛そうにしてたよな」
 殴り込みなんて物騒な言葉が出ると、教室中がざわついた。
 実際には私を犯人として突き出そうとしていたところで、東雲君が間に入ってくれて有耶無耶になった時の話だ。
 そういえばあの時、私に向かって平手打ちをしようしていた桜井さんの腕を掴んでいたっけ。私のヘアピンのタコといい、東雲君はある意味視野が広い。
「もしかして先輩に調べてもらっていたのって、このことだったの?」
「まあね。ほら、俺の唯一慕っている先輩って人望があるでしょ? 誰がどの部活に入っているかなんてすぐ調べられるよ」
「手首を痛めている人間が、難しいピッキングなんてできるわけがない。それが素人なら尚更だ。
「開けられたとしても、教室に誰もいない時間は限られているし、鍵穴に新しくできたひっかき傷がなかったことからして素人ではなくプロか経験者。だから考える視点を変えてみた。
「――黒幕である人物が事前に作っておいた合鍵を、五人の誰かに渡して使わせたんじゃないかって」
 少し間を置いて、ゆっくりと言い放った彼の言葉に高岡先生は顔を歪めた。
「合鍵を作る……? そんなことのために金を出したとでもいうのか?」
 戸田君が不思議そうに問う。その傍らで震える桜井さんを一度だけ見て、東雲君は容赦なく突っ込んでいく。
「いやいや、それがさぁ……合鍵なんてライターとセロハンテープさえあれば型取りできるんだよ」
「ライターと、テープ……?」
「そう。実際に使っている鍵をライターで炙ると煤が付く。その煤をセロハンテープに張り付けて型を取るんだ。それを空き缶に貼り付けて形に添って切っていくと……あら不思議、鍵屋に行かなくても合鍵ができちゃった!」
 説明しながらポケットから空き缶で作った鍵を高岡先生の目の前に差し出す。更に実咲が使っていたオレンジ色の花のシールが付いた南京錠を掲げ、鍵穴に差し込んだ。すると、いとも簡単に即席の鍵が回り、掛け金が小さく音を立ててツルが弾けるように開いた。
 これには教室にいた全員が驚き、食いつくように南京錠を見る。
「これは合鍵の作り方をネットで探したら、鍵の修理を請け負っている会社のサイトから出てきた方法。でもこの方法は非常事態のためのものであって、悪用されるために載せているわけじゃないってことくらい、先生ならわかるでしょ。それをわかってて合鍵を作った。
「これを作るには、馬場が持っている南京錠の鍵の型が必要。でもそれは桜井を含む五人には無理な話。教師による巡回が授業中に行われていたら、すぐ見つかって生徒指導室行き、反省文を書かされて暫く要注意人物として監視されるだろうよ。
「――でもいるんだよ。見つからないうえ、校則違反を受けない立場にいる集団が。
「――そう、教師だ。高岡先生、生徒指導のアンタなら巡回にも出てたよな? 無人の教室に入って見つかったとしても『教室に空き缶が転がってました』とか言い訳できるもんな。
「アンタは事前に馬場の鍵を型取りして、金工室で合鍵を作った。そしてそれを昨日盗む前に桜井に渡したんだよ!」
「な、んで……っまさか!」
 高岡先生は不意に桜井さんを睨みつけるが、彼女はすぐ首を横に振った。
「私、捨てました! ちゃんとゴミ箱に捨てたのに、なんでそれが……!」
「ゴミ袋の底でも破れていたんじゃない? あの倉庫に何分も閉じ込められていたから、見つけられたのかもなぁ」
「嘘……」
「桜井……お前っ!」
 頭に血が上ったのか、顔を真っ赤にした高岡先生が東雲君を押しのけ、桜井さんに向かって拳を固めた右腕を大きく振り上げた。怯えた表情で足がすくんで動けない桜井さんを庇うように、戸田君が彼女の腕を引いて前に出ようとすると、颯爽と入ってきた瑛太が高岡先生の振り上げた腕を掴んだ。
「……ったく、これどういう状況? どっかの誰かさんが煽りに煽りすぎてこうなったんですか?」
「え……瑛太? なんで、教室に行ったんじゃ……」
「馬場先輩に呼ばれた。……間に合ってよかった」
「いっ……! 君は、教師になにを……!」
「何って、先輩方に危害を加えようとしていたので仲裁に入っただけですけど。これが俗に言う、スクールハラスメントってやつですか?」
 瑛太は高岡先生の腕を掴んだまま、長身を活かして数センチ低い先生の目をじっと見つめる。本人は睨んでいるつもりはないのだが、接点の少ない教師なら威圧的に見えるだろう。
「それに、そこのクッソムカつく東雲サンにお届け物もあったんで」
「クッソ可愛くない後輩、犬塚君。『ギリギリ滑り込みセーフ、いいタイミングで助かったよ!』とかそんな優しいこと言わねぇからな?」
「それは望んでいないので結構です。そんなに言うんだったら東雲サンも手伝えばよかったんじゃないですかー?」
「アンタらが来るまで時間稼ぎしてやったんだよ、少しは称えてくれたっていいんじゃねぇの?」
「誰を? バカですか、俺が東雲サンなんかを称える訳ないデショ」
「こんな時まで喧嘩してんじゃねぇよ! ったくお前らは!」
 遅れて突っ込みながら入ってきた巳波先輩は息切れを起こしていた。きっとミサキから連絡が来てすぐ来てくれたんだろうけど、陸上部の瑛太には追い付かなかったらしい。
 ……ちょっと待って。
「東雲君、今『時間稼ぎ』って言った?」
 私が聞くと、東雲君と瑛太は目を見合わせると鼻で嗤った。
「俺達、ツヅミ先輩達と別れてから別室で修復作業してました」
「犬塚君、器用そうだったから利用するしかないと思って」
「修復……?」
「本当に無茶苦茶なことやらせやがって! ……って、牛山、わかんねぇの? これだよこれ!」
 巳波先輩がそう言って手に持っていたボロボロの五枚の紙を掲げた。どれも沢山のセロハンテープに繋ぎ合わせられており、皺くちゃになっていながらも原稿用紙の線やそれぞれの反省文が、ボロボロの原稿用紙全てに黒幕の名前がはっきりと読めるほど修復されていた。

『――反省文。私は放課後、駅近くの薬局でリップグロス一点を万引きしました。勉強や家のことで考えることに疲れてしまい、気がついた時にはリップをポケットに入れていました。深く反省し、今後高岡先生の全ての指示に従うことを誓います。二年A組 桜井朋美』

 大量の原稿用紙の切れ端を、たった二人で残りを作り直したというのか。巳波先輩が額の汗を拭いながら言う。
「間に合ってよかったぜ。昨日の夜のうちに持ち帰って三枚は完成してたんだけどな、あと二枚がどうしてもできなくてダメだと思ったけど、犬塚が手伝ってくれて助かった。マジでありがとうな」
「本当、信じられない。まさか昨日数分しか会ってない見知らぬ上級生なんかに、こんなにこき使われるとは……」
 高岡先生の腕を掴んだまま、瑛太が大きな溜息を吐いた。
「俺もまさか犬塚を巻き込むとは思ってなかった。フォローできなくて悪かった」
「もういいです。……ツヅミ先輩を餌に釣らせようなんて、人使いが荒い変人は趣味が悪いことがよくわかりました。いつか詐欺師になりますよ、この人」
「結局釣られたんだから文句言うなっての。……まあ、いろんな人の協力があったおかげで、原稿用紙の修復と、合鍵を発見できたってワケ」
「あと金工室のゴミ箱から合鍵の型を取った空き缶の残りを見つけた。さらに専門科が資材を保管している準備室から針金が数本無くなっていると連絡がきた。資材管理には厳しい教師が毎日つけているチェック表は嘘をつかない。……となると高岡先生、貴方が小型カメラを木に取り付けたのに使った針金の可能性が高いのですが……見覚えはありませんかね?」
 巳波先輩が原稿用紙と一緒にビニール袋に入った、鍵の形に切り取られた空き缶、さらに木に括りつけてあったであろう曲がった針金を突き出す。
「更にある筋から、高岡先生が授業中の巡回しているときの時間帯を教えてもらいました。二年生の体育の時間に必ず出ているそうですね。加えて桜井含め五名の生徒と頻繁に生徒指導室で何か話をしているところを目撃されています。
「加えて昨日の放課後、専門棟と中庭を行き来しているところも確認済みです。専門棟には美術品もありますから、出入り口に防犯カメラが設置されていることくらい、高岡先生もご存じですよね? いろんな先生に許可貰ってカメラ映像を確認させてもらいました。生活指導の担当ではあるものの、一般教科担当の貴方が行くことのほとんどない専門棟を出入りしてた説明、していただけますか?」
 巳波先輩は淡々と話しながら複数の写真を教卓の上に並べていく。
 そこには私と東雲君の後を付いていく高岡先生の姿が鮮明に映っており、更に別館から針金を数本持って出てくる様子もしっかり捉えていた。
「そして極めつけは……犬塚君、犬並みの嗅覚はどうだ?」
「犬扱いしないでくれます? ……あ、本当だ。高岡先生、煙草吸ってますね」
 エイタは掴んでいた腕をじっと見つめた。鼻を小さく動くと、何か気付いたように話し始める。
「着火してからそんなに時間経ってないから、ここに来る前に一本吸ってから来てますね。日頃のストレスですか? 紙巻き煙草の中でも癖の強い銘柄のものとみた。
「なぜ銘柄がわかるかって? 親父の影響ですかね?
「あ、俺は吸いませんよ。当たり前じゃないですか。
「煙草の匂いを誤魔化すために香水をつけているみたいですけど、俺にははっきりわかります。だからあえて言いましょう。趣味が悪い。そこの東雲サンの人使いが荒い性格よりも何十倍も悪い。
「それと……ハンドクリームもつけていますね。確かこれは……『薬用ハンドケア・スベール』シリーズの無香料。馬場先輩の鍵からした匂いと同じです。
「確認の為にポケットにあるもの全部、教卓の上に出してもらえます? 
「胸ポケットの四角い箱と、合鍵を作るために使用したライター。勿論、ズボンのポケットに入れたハンドクリームも全部」
「はっ……!」
「このクッソ生意気で可愛くない後輩、犬塚瑛太君は犬並みに嗅覚が鋭い。きっと彼がいなかったら鍵についていた煤に気付かなかっただろうな、犬だけに!」
「いや、嗅覚良すぎだろ……」
 自慢げに話す東雲君の傍らで、ボソッと呟いた巳波先輩に頷く。
 嗅覚が鋭いのは中学の頃から知っていたとはいえ、二十人以上いる教室の中から高岡先生のものだけをピンポイントで嗅ぎ分け、更に商品名までわかるとは。流石の先生もドン引きしている。
 先生は唇を噛んでエイタに掴まれている腕を払って振り向くと、東雲君が待ち構えていた。
「……さて、一応これだけ証拠揃ってるんだけど、どう?」
 ――まだ続けんの?
 とても丁寧な口調で嘲笑った彼の目はまるで静かに伸びた氷柱のように鋭くて冷たくて、脅迫まがいなその言葉に高岡先生はその場に立ち崩れた。
 十二

 ――現金を盗むフリをして折り紙を入れる、折り紙窃盗騒ぎ改め、折り紙『窃盗未遂』騒ぎから一週間が過ぎた。
 黒幕であった高岡先生は東雲君の最後の脅迫――ではなく、問いかけに答えるどころか、その場に立ち崩れてがっくりと肩を落とした。
 その後、巳波先輩から猪野先生を通じて校長と理事長に伝わり、高岡先生は退職が決定。学校には教育委員会の調査が入ったが、こぴっどく叱られた程度で済んだ。
 学校側も教育委員会も、なぜ高岡先生はどうしてこんなことをしたのかと不思議で仕方がなかったらしい。それもそうだ。いつも温厚で生徒の話に耳を傾ける先生が、脅すような事をするなんて、誰も想像できなかったのだから。

 これは後から巳波先輩から聞いた話だが、高岡先生は威厳のない自分が嫌だったらしい。
 この学校に赴任し、生徒指導の担当になってからも自分をバカにする生徒は絶えることなく、歯向かう生徒も過去にはいた。そしていつの日からか、どうしたら生徒を見返すことができるのかと考えるようになったという。
 新年度になって一ヵ月も経たないある日のこと、二年A組のある生徒が万引きをした事が発覚。謝罪をしに行って生徒を引き取りって学校に戻ると、生徒が高岡先生に「何でもするから家族には言わないで」と泣きながら頼み込んだ。その時、彼の中で今までにない優越感が芽生えた。
 ――ああ、今まで見上げていた生徒を見下ろすのはこんなにも楽しいものなのか、と。
 それからここ二、三年前から始まった反省文を書かせ、二度としないと誓わせる措置を利用し、原稿用紙に自分が隠したい事実と指示に従うことを書かせると、自分のデスクの引き出しに仕舞い込んだ。それを皮切りに、高岡先生は謝罪しに行っては問題の生徒を脅し、反省文を書かせていたという。
 暫くして高岡先生の指示に従うことになってしまった五人を見て、「一斉に盗難被害が出たら誰が怪しまれるだろう」となんともふざけたことを思いついた。
 別にお金に困っていたからではない。純粋に気になったのだと言っていた。「適当に生徒の財布に折り紙を入れてこい。その代わりに盗んだ金は自分のために使え」と指示し、盗難騒ぎが次第に拡大していった。
 ロッカーに付いていた南京錠を外したのも、知らぬ間に開いていたら鍵を掛けた本人はどうなるだろうと思ったから。高岡先生はいつしか、支配下にある五人に勝ち誇った気でいた。
 ――しかし、高岡先生が優越感に浸っている中、違反者だとレッテルを貼られた生徒は皆、本当に改心しようとして指示に従うフリをして、折り紙を入れて「盗まれた」と錯覚させる方法を思いついたそうだ。
 B組でロッカーに南京錠を掛けていた被害者の男子生徒については、偶然にも桜井さんの従兄弟だったらしく、彼女から「使って。返さなくていいから」と言って一度抜いた一万円札を手渡しで返していた。
 また、桜井さんに戸田君を利用するよう助言したのも高岡先生だったことが分かった。
 これは東雲君の言う通り、理事長の息子だということで何か問題を起こしても学校からの処分が無い、または軽度のものになるのは考えずともわかっていた。。学校運営のスポンサーでもある戸田家の息子に何かの処分を与えたら、きっとこの学校は早い段階で廃校になっていたかもしれない。
 原稿用紙を破ってゴミ袋に詰めて倉庫に置いたのは、東雲君が言った通り生徒指導室で今までの資料や反省文を点検し、更に自分のデスクの中も整理して一斉に掃除することが伝えられていたからだ。
 その日が丁度、東雲君が戸田君に宣言していた日と同じだったのは、本当に偶然だった。『運も実力のうち』だとはよく聞くが、これも彼の運なのだろうか。

 そして最大の謎だった「関係のない牛山鼓が、なぜこの騒ぎの犯人として濡れ衣を着せられる筋書きだったことになったのか」、ということに関して。
 最初の方にも言ったが、私がC組のクラスメイト以外で関わりがあるのはD組にいる馬場実咲くらいで、同学年の特進科や専門科に知り合いはいない。無断で他のクラスの教室に入ることなど在り得ないのだ。加えて指導を受けるほど校則違反をした覚えはない。校内でピッキングをしたのも、あの倉庫が初めてだ。
 高岡先生の気まぐれだったとしても、ピッキングしているフリの動画を撮影したり、わざわざ合鍵を作ったり、適当にしては手が凝りすぎていたのが異様に引っかかっていた。

   *

 東雲君の脅迫まがいな問いかけの後、A組の教室から移動して生徒指導室に入ると、私と東雲君、巳波先輩、戸田君、そして先生側に付いていたA組の五人の生徒、そして生徒指導担当の教師数名を前に、高岡先生に問うとあっさり口を開いた。
「……牛山が学年の中で一番浮いていたからだ。成績も運動も普通、どの部活にも所属せず、学校が終わったらすぐ教室を出て帰宅する女子生徒……そんな君が気になってね、勝手に君の家族を調べさせてもらった。
「お父さんが空き巣の常習犯なんだって? 随分不幸な家庭に生まれたなぁと思ったよ。自分の父親が犯罪者なんて、誰にも言えやしない。もしかしてそれで一人で帰っていたんじゃないのかなって思った時に閃いたんだ。
「五人は私の意図的にはならなかったが、この盗難騒ぎの犯人を君に全て擦り付けたら、君は泥棒の道に進むんじゃないかって思った。
「随分ふざけたことを考えたなって思っただろう? 私も思ったんだよ! でもそれ以上に、考えただけで楽しそうでさ。
「だって泥棒の子はピッキングくらい簡単なんじゃないか? 私なんてしたことないからさぁ、南京錠なんて合鍵の作り方くらいしかわからなかったんだ。
「そうだ、あの倉庫はどうやって開けたんだい? 鍵……というか、丸落としって言うんだっけ? ゴミ置き場に必要な鍵でも落ちていたのかい? 手元も見えない中、ゴミ山の異臭の放ったあの空間で、どうやって鍵を開けられたんだ? ぜひ聞きたいなぁ! ねえ、教えてくれよ!」
 狂ってる。
 今まで見てきた温厚な高岡先生の姿はどこにもなく、変わり果てたように狂った高岡先生がそこにいた。
 私が泥棒の娘だから全てを擦り付けた?
 ピッキングをしたら、私は泥棒の道に進むと思った?
「……牛山、何を黙っているんだい? 
「そうだ、こんなこと他の生徒や進学先にバレたら不味いだろう? 今回はお互い無かったことにしよう。そうしたら君も私も万々歳だ。どうだい? 悪いことじゃないだろう?
「そんなに怖がらなくてもいいんだよ。生徒は先生の言う通りにしていればいい。怖がる必要は何もないんだ。牛山の今まで隠していたことは恥じるべきことじゃない。
「むしろそれに乗っかってみたらどうだろう! 『泥棒は悪い大人』のことだと誰が決めた? 生徒を正しい道に導くのが教師の務めなら……今まで私がしてきたことは何だったんだよ? 生徒なんて、私の言う通りに動いていればいい。
「……なんでそんな悲しそうな顔をしているんだい? 君と私の利害は一致しているはずだよ?
「……やめろ、そんな目で見るな! 戸田も桜井も他の違反した生徒も要らない、使えない生徒は要らない!
「みんなみんな、私の言うことだけ聞いていればよかったのに!」
 辛うじて引っかかっていたネジが外れたのか、狂ったように叫び出す。教師としては到底信じ難い言葉を並べ、頭を掻きむしり、声を荒げた。
 無茶苦茶な提案にどう答えていいのか困っていると、高岡先生の目の焦点が合っていないことに気付いた。人はこんなことで欲望に盲目になってしまうものなのか。恐ろしく感じてしまった私は、震えを抑えるために拳を固く結んだ。
「全部全部、お前らが私の言うことを――」
「――アンタに何がわかるんだよ?」
 狂った笑い声が教室中に響く中、東雲君の苛立った低い声がはっきりと聞こえた。
「自己満足で脅迫した五人に犯罪まがいなことさせて、泥棒と繋がりがある生徒を見つけたらそれさえも利用する? 挙げ句の果てに『随分不幸な家庭に生まれた』だって? アンタ、牛山のことをどこまで知ってるの? 牛山だけじゃない、桜井達のことをどこまで信用しようとした? 近くにいたくせにコイツらの何を見てたんだよ? 例え校則違反者だったり泥棒の子だったとしても、一番近くで見ている家族の期待を裏切りたくないから、自分の決めた軸だけは守ってんだよ。不幸な家庭? 確かにそう思ってる奴はいるかもしれない。でもそれって何も見ていないアンタが決めること? ……他人の声ってそんなに必要? 俺は家族との時間にあまり良い印象はないけど、その価値って他人が決めることじゃないだろ」 
 ――ああもう、コイツなんなの。
 東雲君の背中を見据えて、更に拳を強く握る。私が叫びたくて仕方がなかったことを、なんで彼は全部言ってしまうんだろう。自分の口から言えなくて代弁してもらうのが、こんなに悔しいとは思わなかった。
 言葉にするだけでは足らなかったのか、東雲君は高岡先生の胸倉を掴んで顔を近づける。あと数センチで鼻先が触れそうな距離で、焦点がずれた目を合わせようとする。
 先程の脅迫を思い出したのか、高岡先生は肩を大きく震わせた。
「……やめてくれ、邪魔者を見るような目で私を見るな。見るんじゃない!!」
「別にアンタの生き方と考え方に文句を言ったところで変わらないのは目に見えているんだけどさ、そこにいるA組の奴らは自分の将来を犠牲にしても自分の軸だけは守ったよ。アンタはいつ折れたの? 要らないのは指示に従わない人間じゃない。この世界に本当に要らないのは、自分のことしか考えない大きすぎる自己中心的な思考そのものだ。それがわかっていたから、騒ぎ程度で収まったんじゃないの?」
 東雲君の言葉が脅迫に聞こえたのか、それとも図星を言い当てられたのかはわからない。高岡先生の頬に零れた涙が伝うと、噛み締めるように声を抑えてその場に蹲った。

   *

「――高岡先生は気付いてたと思う。自分が間違っていること」
 東雲君は唐突に言った。
 盗難騒ぎから一週間後、私は東雲君と共に五階の資料室に来ていた。ソファーに座って新調したふかふかのクッションをいじりながら、作業台の前に座ってファイルを整理している巳波先輩が仕入れた今後の高岡先生の話に耳を傾けていると、ソファーに寝ころんだ東雲君が唐突に口を開いた。やけに眠そうな目を擦りながら彼は続ける。
「間違っていても止められなかった。止めたところで自分を守る術がないことも気付いて、結果的に攻めることしかできなかった」
「……それはあれか? 『攻撃は最大の防御』的な?」
「まぁそんなところだろうな。本当に脅すなら原稿用紙なんて捨てずに持ち帰るなり隠すなりしただろうし、バレるとわかってて犯人を作ったりすることはしねぇよ」
 確かにあの状態の高岡先生なら、もっと卑劣な脅し方ができたかもしれない。桜井さん達を脅してまでやりたかったことがこれだったとしたら、一体彼は何がしたかったのだろう。
 「使われる立場はどうだい?」と焦点の合わない目の彼に聞いたところで、教育にもならないことを理解していたとしたら、それはきっと高岡先生のどこかに潜めていた罪悪感だったのかもしれない。それを確かめる術はない。
 ……いや、知っていても確かめることはないだろう。私自身、これ以上高岡先生に関わりを持ちたくないのもあるが、一番は東雲君の興味が逸れたからだ。
「そういえば、合鍵の型を取った空き缶が金工室のゴミ箱に紛れていたのは俺が見つけたけど、合鍵はどこにあったんだ? 倉庫?」
 思い出したように巳波先輩が手を止めて東雲君に聞く。
 言われてみれば、東雲君はいつ合鍵を見つけたのだろうか。高岡先生の前でポケットから出したときは持っているなんて聞いていなかったし、少なくとも私がピッキングしていない時、彼がゴミ袋を漁っている様子はなかった。
 すると彼はポケットからあの時と同じ合鍵を取り出して掲げ、大きな欠伸をして言った。
「あー……作った」
「……は?」
「あんなクソ広いところで小さい鍵もどきが見つかるわけねぇじゃん。だから先生と同じ方法で作ったんだよ。ちゃーんとネットで調べて、同じ方法で。半信半疑だったし、鍵が回った時はマジで驚いた! ちなみに鍵が開くかどうかはあの時が初めてだったから、一発勝負。やっぱ俺、なんか持ってるんだろうなー」
「…………」
 先程の眠そうな目はどこに行った?
 話していくうちに目が覚めたのか、興奮しながら説明してくれる東雲君に、私と巳波先輩は口を開けたまま愕然としていた。……いや、饒舌に喋り出したのもあるが、合鍵を自ら作ったことが一番の驚きだ。
「ちょっと待って……え? じゃあぶっつけ本番で鍵開けたってこと?」
「そうそう。バレないように表情隠すの大変だった!」
 あの緊迫した状況で大変だったのが表情を隠すこと? ――いやいやいや、しっかり嗤って煽って脅していたじゃないか! 
「倉庫で見つけた合鍵は偽物で、本物は? あれが東雲君が作った鍵なら、実際に高岡先生が作ってた鍵はどこに?」
「んなの、桜井がちゃんと捨てたに決まってんだろ。失敗を許されず脅され続けている奴が証拠隠滅を考えてないわけねぇし、一か月前に開けた南京錠の合鍵なんてずっと持ってるわけねぇよ」
「いや……それだけで断言していいのか? 逆に脅されていた証拠として今も隠し持っているんじゃ……」
「持ってねぇよ。桜井の顔色を見ればわかる」
 確かに合鍵を見た高岡先生は真っ先に桜井さんを睨みつけていた。彼女の震えた声も真っ青になった顔色も、演技には到底思えなかった。
 巳波先輩が言った通り、桜井さんは証拠として残しておくこともできただろう。しかし彼女にとって脅威だったのは高岡先生が作った空き缶の合鍵よりも、自ら書いて筆跡と名前まで残っている原稿用紙だったのかもしれない。紙っぺら一枚で今後の人生が変わってしまう、せっかく特進科に入ったのに全てがおじゃんになってしまう。目指していた夢も好きなこともすべて暗転してしまう恐怖は、私もよくわかる。

 脅迫を受けていた二年A組の桜井さんを含めた五人は、隠蔽しようとした校則違反の件で担任教師と生徒指導と面談後、高岡先生が退職した日と同時に一週間の自宅謹慎が言い渡された。
 五人のしたことに対して対処が軽いという声もあったが、彼らも被害者の一人である。脅されていたという事情含め、特進科の教員同士で話し合って「自宅謹慎中の課題」という名目で問題集を作成し、謹慎明けの登校日までにすべて問題を解いてくることになった。これはすべて先生が一から作成していたもので、両面印刷されたプリントを幅のある紐でくくられている。その厚さ、約二センチ。ホチキスだと上手く刺さらない、絶妙な厚さのそれを五冊分渡されるのは、いくら特進科の生徒でも大きな溜息を吐いたことだろう。
 さらに今回、理事長の息子である戸田君に対して、権限の悪用が理事長に知らされると五人と同じ問題集に取り組むよう、理事長直々に言い渡されたそうだ。
 彼は自宅謹慎にはならず、登校しながら問題集を全て終わらせることになっているため、五人に比べたら倍の勉強量をこなすことになる。作成した学校側からはやりすぎなのではと心配されたが、理事長に「恥を知れ」と怒鳴られたらしい。それ以来、すっかり大人しくなってしまった。あの鼻で哂う表情は暫く見ていない。……というより、近くに寄ってこない。――そういえば謝られた覚えがない。――原因はわかっている。東雲君だ。彼曰く、一週間経った今でも戸田君とすれ違うと、すぐ顔が真っ青になってどこかに逃げてしまうらしい。あの時の脅しが相当怖かったのだろう。
 ちなみに桜井さんには振られた。(謹慎処分が解けた後、瑛太のファンクラブに加入したと私達が知るのは数日後の話だ。)

 ――ああ、忘れていた。
 私が泥棒の娘だと少人数ながら高岡先生に暴露された話は、狂った言動として捉えられた人が多く、あっさりと流されてしまった。
 しいて言うなら、担任には伝えた方がいいのかと思って声をかけたが、猪野先生は「牛山が家族のことで悩んで、どうしても詳しい事情を私に話さないといけないときに言いなさい。私は黙って勝手に調べるようなクソッタレ教師じゃないわ」と言って笑いながら教室を出て行ってしまった。
 それ以来、他の生徒も教師も私に今回の件を話しかけてくることはなかった。きっと裏で猪野先生が手をまわしてくれたのかもしれない。
 ……せめてそれが、恐喝でないことを心から願っている。
「とりあえず、折り紙盗難騒ぎも落ち着いたことだし、新しいクッションも手に入った。……うん。幸先がいいぞ!」
 ファイルをまとめ終えた巳波先輩が作業していた机から立ち上がって大きく伸びをする。『校内事変 三十八』も許容範囲を超えそうなのか、大きく膨らんでいる。
「牛山、疑いが晴れてよかったな」
「はい。ありがとうございました。……あの、東雲君」
 クッションを脇に置いて姿勢を正す。ソファーの上で寝転がっていた東雲君が顔をこちらに向けると、私は深く頭を下げた。
「無実を証明してくれて、ありがとう」
「……何、熱でもあんの?」
「失礼な。私だってちゃんと感謝くらい伝えるからね? ……でも本当に助かった」
 きっと彼がいなかったら、私はきっとあの時頷いて自分がやったと口にしていたかもしれない。桜井さん達と同じように、高岡先生に脅迫されて反省文を書かされていたかもしれない。高岡先生に逆らえず、見知らぬ生徒のロッカーの鍵を開けろと指示されたら開けていたかもしれない。
 あの時、東雲君がいなかったら――そう思うと本当に私は救われた。
 彼だけじゃない。一緒に証拠を探してくれた巳波先輩も、私の代わりに怒ってくれた実咲も、ずっと心配してくれていた瑛太も。一度クラスメイトどころか学校全体を敵に回した私を、彼らは助けてくれた。自分が見えていないだけで、実は沢山の味方が近くにいるんだって教えてもらった。
 私が満足げに笑ったのを見て東雲君は鼻で笑い、上半身を起こした。
「別に俺は推理とか真実をドヤ顔で堂々とバカを晒す戸田君に腹が立っただけ。……それより、どーすんの?」
「どーするって、何が?」
「アンタがピッキングできるっていう話。俺らに悪用されると思わないわけ?」
「…………え?」
 ニヤリ、と。それはもうとても楽しそうな笑みを浮かべた東雲君に、私は頬を引きつらせた。
 待って。彼は今、何を企んでいる?
「悪用する、の? 何か悪いことでもしでかすつもり……?」
「いや全然。でも必要に応じて利用するかも。でもアンタは両親との約束を守りたいんだろ? 皆には黙っててあげるから、ちょっと利用されてくんない?」
 口元は笑っていても目が笑っていない。
 高岡先生の時のような言葉攻めではなく、じわじわと圧力をかけていく脅迫ではないか。――そもそも脅迫の時点で同じなのだが――私は助けを求めるように巳波先輩の方を向くと、苦虫を潰したような顔をしていた。この人絶対助ける気ないな。
「あー……実は俺も祥吾と同意見なんだよなぁ」
「……どういう意味ですか?」
「こう……生徒会長としてのこのファイルをまとめてはいるが、情報が入ってこないうえ一人で作成するのには時間がかかる。だから次期生徒会長候補を呼んで一緒にやったりとかしているけど、やっぱり人手と情報が足りないんだわ。祥吾とは別件で世話になってからずっと手を借りてるんだけど、お前もひと肌脱いでくれよ」
「……セクハラ?」
「違う違う! 情報集めに協力してくれってこと! 盗難騒ぎが終わっても祥吾がここに連れてきたってことは、力になってくれるって思ったからだろ?」
「いやそこまで言ってないし」
 ……要するに、巳波先輩の生徒会長としての裏の仕事が片付かないから東雲君と一緒に手伝えと。
 壁一面の本棚に敷き詰められたファイルは、既に校内事変だけで三十八冊。更に今までの資料やスナップ写真集を含めると膨大な数になる。確かにこれを一人で情報を集めて作成し、整理するのはいくら時間があっても大変な量だ。
 加えて巳波先輩は先輩というだけあって三年生だ。噂では留年になるかもと校内に広がっている中、受験勉強はおろそかにできない。
「……どうして、東雲君は手伝っているの?」
「特に理由はねぇよ。ただ――」
 ここに来れば、大体楽しいことに巻き込めそうだから。――と、仏頂面ながらも口元を小さく緩ませた。
 彼は巳波先輩の近くにいれば今回の窃盗のような、校内の事件に遭遇できるとでも思っているのだろうか。一度容疑者として扱われた身としては、もう二度と盗難事件になんて出会いたくないし、ゴミ置き場の倉庫に閉じ込められたくもない。
 苦い顔をしながら巳波先輩に問う。
「私にメリットはあります?」
「そりゃ勿論、この資料室に出入りし放題だし、そこのクッションにいくら八つ当たりしてもいい。例え壊したとしても新しいものを買うからな!」
「……私がいたら毎回買い替えることになると思うんですけど大丈夫ですか?」
 横に置いた真新しいクッションを見て言うと、巳波先輩は一瞬で顔を歪めた。
 それはそうだろう。なんせクッションが一週間前と違うのは、私がクッションに八つ当たりをして穴を開けてしまったからだ。
「……そ、それは祥吾も同じだから問題はない! いや、問題なんだけどな?」
 それはごもっとも、と東雲君が笑いをこらえながら呟くと、巳波先輩は軽く睨みつけた。質の良いクッションが資料室にあるのは巳波先輩の興味らしい。お気に入りを購入し、愛着が湧いて暫くして破れる頻度が多いなら、最初からここに置かなければいいのに。
「とにかく、学校での暇つぶしとか思ってくれてもいい。現に祥吾はそんな感じだろ?」
「ええー……そこで俺に振る? まぁ確かに、思っていた以上に変な事件に巻き込まれるのは意外に楽しかったりする」
「犯人扱いされたり監禁されたりすることが楽しい? 全然共感できないんだけど」
「それは実際に濡れ衣を着せられたアンタの方が詳しいんじゃない? 誰も好んで監禁は頼まねぇ。……でも俺は、このまま平和な学校生活を終えるのはすごくつまらないとは思う」
「……東雲君、学校がつまらないの?」
「つまらないね。たまに息苦しくなる」
 目線をそらして、軽く首元に触れながら呟いた。
 彼に何があったかなんて知ったことではないが、教室に居ても誰とも話さずに眠っていることは何か関係があるのだろうか。
 ――いや、彼は本当に眠っているのか?
 私が猪野先生と彼の机の近くで話していたとき、机に突っ伏していたから顔は見えなかったが、実は起きていて私達の話を最初から聞いていた。つまりそれは、彼が寝ているフリをしていたことを証明している。
 なぜ寝たフリをする必要があるのだろう? 本当に授業中に当てられて教科書を十ページも読みたくないから? 過去に何か気まずいことがあったからクラスメイトと話しにくいとか、苛めに遭っているから人と関わるのが怖いとか、実は人見知りで自分から話しかけにくいとか。考え出せばいろいろ出てくるが、答えになりそうなものは見当たらない。
 むしろどんどんマイナスな考えが頭の中で飛び交って混乱していると、東雲君がかははっと笑った。
「別にクラスで何かあったとか、人見知りとかじゃねぇから」
「えっ……なんで考えてることわかったの……?」
「顔に書いてあんだよ。『ツヅミちゃん』は表情に出やすいな」
「…………ん?」
「え、なに?」
「つ……は? ちょ、なんで……うぇ?」
 一瞬、思考が止まった。
 今まで「牛山ちゃん」と呼んでいた人物から急に下の名前で呼ばれて変な声が出る。人って、ほんの些細なことで驚くと身体のすべての機能が止まりかけるものなのか。
 呼んだ本人は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「びっくりしすぎじゃない? 別にいいじゃん。名前で呼ぶなって言われてねぇし」
「言ってないけど……ええ……?」
「顔真っ赤じゃん。あ、別に俺のことも名前で呼んでいいよ? 呼べるなら」
「……ぜ、絶対……呼ばない!」
 ただでさえ顔が熱いのを自覚しているうえで答える。
 作業台の近くで足をバタバタと暴れながら大声で笑っている巳波先輩に向かって、近くにあったクッションを投げつけた。
「せっかくクッション新しくしたんだから投げんなよー!」
「先輩笑いすぎです!」
「だって……ひぃーっ! よかったな、牛山! 祥吾が名前で呼ぶなんてレアだぞ、レア!」
「今度は本棚のファイル投げてもいいですか……!」
「待って、歴代会長の歴史だからやめて!」
 独特な笑い方の先輩にイラッとさせられるも、本棚にあった分厚いファイルの背表紙に触れた途端大人しくなった。
 しかし、巳波先輩の言うことも一理ある。東雲君から名前で呼ばれるのはかなり珍しいのかもしれない。特に私は同じクラスでも話したことがなければ「名前なんだっけ」と問われるほど関わりがなかった。
 そういえば一年の時に彼と同じクラスだった実咲にも、苗字で呼んでいるところしか見たことがない。それ以前にクラスで誰かの名前を口にしていることはあるのだろうか。多分、私の覚えている限りでは「猪野チャン」が断然トップだ。
「俺、気に入った奴しか呼べないから」
「呼ばない、じゃなくて呼べないの? それ大丈夫?」
「結構不味いと自覚はしている……ここだけの話、二年に進級してクラス替えしただろ? クラスメイトの名前どころか、顔も怪しい」
 苦笑いで答える東雲君。先が危ういのが目に浮かんだ。
「でも今回の件でいろんな人と結構話した気がする。あの騒ぎ以来、クラスの人から声をかけられることが必要以上に増えて……全然顔と名前覚えてないけど、授業中の板書はすごい助かってる。クラス分かれたからもう関わりがないと思っていた馬場ちゃんは相変わらず馬場ちゃんだったし……ああ、犬塚君は想定外だった」
「瑛太が? 後輩だから?」
「俺は委員会も部活も入っていないから、後輩っていう存在が未確認生物と一緒なんだよ。あんなに生意気な奴がいるとは思わなかった」
「でも仲良かったじゃん。私、瑛太があんなに毒吐いて言い合いしているところ久々に見たよ。すごい楽しそうだったから、てっきり知らないところで仲良くなってたんだと思ってたんだけど」
「仲良かった……? あれが?」
「良かったと思うぞ。俺もそう捉えたけど……違うのか?」
「ちょっと待て……後輩に舐められてる裕司先輩は絶対違うじゃん。ある意味惨敗だったよ」
「うっ……! 俺だって言い返せるぞ! ……多分」
「自信持てよ。だから論破されるんだろ」
 一通り笑い終えると、東雲君は座り直して真正面から問う。
「で、どーすんの? 俺は付き合ってくれると楽しいんだけど?」
「付き合っ……! いやいやいや! あのな、俺は別に交際をしろとは……」
「そっちじゃねぇし。なんでそんなピュアな捉え方すんの?」
「うっるせぇ!」
 なぜか巳波先輩の頬が赤く染まる。誰もこんな展開は期待していない。
 小さく溜息は吐きながら私は「いいよ」と一言呟いた。しっかり耳に届いていたのか、二人とも驚いた顔をしてこちらを見る。
「……脅した二人がなんで驚いているの?」
「え? だって……いいのか?」
「だって拒否権なさそうだし」
 拒否権はない――これは事実だと断言してもいい。
 東雲君のことだ、私がピッキングできることは話さなくても要請はしてくるだろうし、それを嫌だと断っても、きっと私は目の前に錠前があれば鍵を開けてしまうだろう。
 そして何より、私もあんな状況が楽しいと思ってしまったのだ。
 学校は学業を学びに行く場所、社会に出る前の準備をする場所。それを少しの時間でも全部忘れたい場所が校舎のどこかにあってもいいんじゃないか――なんて、そんなものは甘い考えなのは十分承知している。「高校生になってまで子供じみたことを」と影口を叩かれても構わない。人生は一度きりだし、高校生活は順調に行けば残り二年もない。
 だったら楽しい方が良いに決まってるじゃないか。
 私が口を開きかけて止まっていると、不思議そうに巳波先輩が声をかける。
「どうした?」
「……ううん。二人にはお世話になったから。借りたものはちゃんと返さないと失礼だなーって」
「なんか物騒なことにしか聞こえないだけど」
「物騒って何? ねぇ、物騒って何?」
 ふざけた冗談に突っ込むと、東雲君は楽しそうに声を上げて笑った。
「いいじゃんいいじゃん! アンタ、やっぱりやんちゃだったね」
「前も同じこと言ってたけど、どういう意味?」
「だって一歩間違えたら停学、退学もあり得る秘密じゃん? そりゃ口封じのために俺達は利用するかもだけどさ、本当はいろんな鍵を開けたくて仕方がないんじゃねぇの? 今もポケットに入れているんだろ?」
 ニヤリと口元を緩ませ、ポケットの辺りをトントン、と叩く。
 隠す必要もないので小さく溜息を吐くと、制服のスカートのポケットに入れていた手の平サイズの南京錠を取り出す。
「やっぱり。持ってると思ったんだー」
「……なんで持ってるのわかったの?」
「音。歩く時にペチペチ聞こえた」
 スカートのポケットに入れていたから必然的に歩く度に太腿に当たる。その音が聞こえたのか。
「それにしても南京錠とは……なんでまたそんなモン持ってんだよ?」
「……お母さんからの、挑戦状的な?」
 倉庫の丸落としを開けてから、やけに手元が落ち着かないことを母に話したら、満面の笑みを浮かべてこの南京錠を渡されたのだ。
 これは昔、父でさえ開けるのが困難だったという母特製の南京錠らしい。なぜこれをくれたのか、母に問うと「これはあの人でも三日はかかった南京錠なの。きっと暇つぶしになると思うわよ」とやけに誇らしく話していた。よほど自信があるのだろう。しかし、その自信が嘘ではないことは貰ってすぐ家の自室でヘアピンを使ってピッキングしてわかった。今まで南京錠はいくつか開けてきたが、この錠前は一向に開く気配がない。ついに学校にまで持ってきて、一人になった時にこっそり開けようとしている。勿論、東雲君や巳波先輩の前ではやったことがない。だからスカートのポケットに南京錠が入っているのをどうして彼が見抜けたのか不思議だった。
 両親といい東雲君といい、どうしてこう私のまわりには変人ばかりなのか。
「東雲君も結局変質者か」
「『も』って何? 裕司先輩と一緒にすんじゃねぇよ」
「俺もお前に言われたかねぇよ! つか牛山、もっとオブラートに! 優しく包んで! 中華まんのように柔らかい皮でアツアツの餡をふんわり優しく包むかの如く!」
 オブラートはどこに行った。
「やめろ、冷たい目で俺を見るな! 悲しくなってくる……!」
「返答のしようがなかったので。……なんか肉まん食べたくなってきた」
「俺、ピザまんがいいな。裕司先輩、買ってー」
「なんで肉まん……! 遠慮がねぇのな!」
 この二人の前だと口が軽くなって悪くなる。口に出さずに思っていることが気付けば出ている感じは、信頼すると決めた証拠なのだろう。
 私と巳波先輩のやり取りを見て一通り笑い終えると、東雲君はソファの上に座り直しながら言う。
「あー……笑ったぁ……人は貪欲だとアンタが証明してくれてるよね」
「……東雲君、思っていた以上に口が悪いね」
「おっ。褒めてくれんの?」
「むしろ貶してる」
「最高ー……いいね、楽しくなってきた」
 同じクラスでも話したことがない。むしろあの事件がなかったら一生話さなかったかもしれない。
 東雲君はとても楽しそうな笑みを浮かべた。
「改めて、これから宜しく。『ツヅミちゃん』」
 一難去ってまた一難。苦笑いをする傍ら、これから巻き込まれるかもしれない厄介事に胸を弾ませて待っている自分がいる。
 目の前で楽しそうに嗤う、かなり変わったクラスメイトの変人を前に、私はやれやれと小さく溜息を吐いた。