ソロオーディション、本番当日。

 がちゃりとドアを開けると、南波と目が合った。結局一日も欠かさず音楽室に一番乗りしていたから、彼もそれだけ本気だということなのだろう。

 向こうから声をかけてこようとしてこないので、私は牽制の意味合いも込めて、大きく「お、は、よ、う!」と声を張った。

「……はよ」

「……あんたにしては元気なくない? まさか柄にもなく緊張してる、とか……」

 自分も人のこと言えないけど。

 激しい動悸にそんなことを思っていると、南波がじっと目を見つめてくるのでたじろいだ。

「な、なに、お前もだろとか言うつも……」

「なあ、俺さ、お前に聞いて欲しいことがあるんだよね」

 何でそんなことをわざわざ言ってくるのかわからなかった。それでも目の中を覗き込むようなその視線がどうしようもなく痛くて、私は僅かに視線を逸らしながら唇を曲げた。

「え、別に今でも聞くけど」

「ちがう。そうじゃない」

「……は?」

「もし、俺がソロになったら、聞いて欲しい」

 なにが“ちがう”のか。それも、聞かせてくれるのだろうか。

「そんなこと言って、私、負ける気なんかさらさらないけど、いいの?」

「……いい」

 俺が勝つに決まってんだろ、くらいは言われると思っていたので面食らう。

 幾度か目をしばたかせたところで、私は浅くため息をついた。そうだ、こいつが意味わかんないのは今になって始まったことじゃなかった。

「じゃあ、私も。私がソロになったら、言いたいことがある」

 私がそう言うと、南波は珍しく邪気の無い顔で、ふっと頬を緩めた。


✱✱✱

 今日は合奏なんていう名目では集められなかった。3人以外の部員達は、何も持たずに集まっている。

 正真正銘、ソロオーディションだ。

「では皆さん、後ろを向いてください。誰かわからない状態で、音を聴いてもらいます」

 なんで今回はそんなことを? とざわつきながらも、みんな後ろを向いて座り直した。

「では、これを引いてください」

 3人の前に3本割り箸が入った缶が差し出される。順番をわからなくするためだろう。

 引いた番号は……3番。

 先輩が1番、南波が2番だ。

「皆さんは、後で番号を言うのでいちばん良かったと思う番号に手を挙げてくださいね。では、1番の人、どうぞ」

 気負いなく立つ姿は、2週間前と変わらない。すっと楽器を構える姿に無駄はなくて、目を僅かに伏せて息を吸う姿勢にも、全く力みはない。

 アタックは息と音が同時に出てくっきりとしてとても綺麗だ。メロディにも淀みは無い。

 ……でも、ただそれだけだ。

 普通にうまい、と思うだけ。

「次、2番の人、お願いします」

 南波が息を吸う。腹式呼吸でお腹側だけでなく、背中側も膨らむのがわかった。

 深い呼吸。ベルから吐き出される音は、隣に立つ私の制服の裾をびりびりと震わせた。

 決して音が異常に大きいわけじゃない。無駄のない音量で、でも確かに空気を震わせているとわかる、深い音だった。

 指先の感覚が、じんわりと弱くなる。でもそれは嫌な感じではない。

 そう、胸を震わせる音。それは、きっとこういう音のことを言うのだろう。

 やっぱり、南波はトランペットを吹くのがうまい。

 もちろん、先輩もとてもうまいけれど。それは誰が聞いてもそうだと思う。

 でもその『うまい』は、『上手い』ではなく、『巧い』なのだと、落ち着いて聴ける今ならわかる。

 テクニックとしての『巧さ』も、当然必要だ。努力で身につく力で、良くも悪くも演奏手を裏切らない。

 でも、人に聴かせる音。聴いて欲しい音。人の胸に届く音。

 それは南波の音の方だ。

 こちらが恥ずかしくなるくらいに素直な音。想いをそのまま伝えてくるような。普段は全然素直なんかじゃないけれど、楽器を手にした途端、彼は変わる。

 南波の演奏で音楽室の空気が変わったのがわかった。本来はプレッシャーになるような空気の重さだ。

 それでも、不思議と気負いは無かった。むしろ凄い演奏を聴いたという高揚感だけが胸の内を占めていた。

「それでは最後、3番の人。お願いします」

 それを聞いて、楽器を構えた。

 ――人は、吐き出さなきゃ吸い込むことはできないんだよ。

 ねえ、芽衣。

 私は、難しいこと考えるの、あんまり得意じゃないし、そんなに器用でもないからさ。

 だから、私は、限っ界まで吐いて……それで、入ってきた分だけ、吸うことにするね。

 その結果そんなに入ってこなかったら、それはそれって思うだけ。その時はその時で、また考えればいいや、って。

 私らしくていいと思うんだけど、どうかな。

 目を瞑っても、芽衣の顔はもう浮かばなかった。他の誰も。
 それは確かに、自分が過去と決別できた瞬間だった。

 時間が何倍にも引き伸ばされているようだった。周りの音は聞こえない。まるでひとりだけ、別の空間にでもいるようで。

 息を吐く。肺にある空気も、指先から身体中全部の空気を。

 もう何も出てこないというところまで吐き切って、それから、お腹のもっと奥の方に重心を感じながら、ゆっくり息を吸う。

 身体が全部タンクにでもなったみたいだ。足先から新しい空気が溜まっていって、喉の辺りまできたのがわかって、ぴたりと止まった。

 いっぱい吐けばいっぱい吸える。
 当たり前のことだけれど、それが難しい。

 吐くためには、身体がちゃんと自分に委ねられてなきゃいけないから。たぶん今まで、自分の身体は本当の意味で自分のものじゃなかったのだと思う。

 吸うためには吐かなくちゃいけなくて、だけど吐くのは簡単なようで少し難しい。

 でも一回吐き始めてしまえば、あとは何も考えなくていいから。
 それは本来とても自然なことだから。そうわかったら、あとはもう簡単だ。

 息はすぐそこで塞き止められている。唇を震わせると、待ってましたと言わんばかりに、小さなマウスピースの中に注ぎ込まれた。

 指の先程も無い穴から送り込まれた私の息が、張りのある音になって響く。

 ……ああ、だから私は、楽器に触れていると安心できたんだ。

 やっとわかった。トランペットは言うなれば、私の拡声器だったのだ、と。

 嫌なこともあったけれど、それ以上に。
 臆病だった自分を、変えてくれたものだった。

 マウスピースから管の中を通って、ベルから出ていく。これだけの仕組みなのに、どうして楽器という物は、息をこんなにきらきらしたものに変えてしまうんだろう……

 そう思ってしまうくらい、今まで自分が自分の演奏を聞いた中で、最高だと思えるものだった。



「では、今から番号を言うので、一回だけですよ?手を挙げてください」

 途端、緊張が解けたようにざわっとした部員達に、「話し合いは無しです!」と先生がしーっと唇に指を当てた。

「1番がいいと思う人」

 誰も手を挙げない。

 先輩の表情をちらりと窺うと、思った以上に無表情で驚く。てっきり憤慨しているかと思ったのに。

「2番がいいと思う人」

 ばらばらと手が挙がる。当たり前だ。上手かった、本当に。

 先生が数える。22、と最後に言ったのがわかった。

 ……待って、22? って半分超えてる? うちの部活、何人だったっけ。40……えっと……?

 人数なんて把握してるはずなのに、思った以上に緊張しているらしい。思考が覚束ず、ぐるぐると頭が回る。

「3番がいいと思う人」

 手が挙がった。残りの部員たちだ。

 夕歩も……挙げている。私の音だとわかったのだろうか。

 先生はきっと全体の人数がわかっているはずなのに、わざわざ数えている。

「……22」

 指さしているのは最後の一人だった。

 ――同数!?

 そうだ、部員は全部で47人、本当は割り切れないはずだけれど、ここに3人いるから割り切れるのだ。

 じゃあ、どうなる? まさかジャンケンで決めるわけにはいかないだろうし……

 頭の中はパニックだ。静かに慌てていると、先生がこちらを向いて、

「23、ですね」

 と頷いた。

「えっ」

 思わず小さく声を上げる。先生の視線を辿ると、隣で南波が手を挙げていた。

「では、3番がいちばん多かったので、3番の人にソロを任せようと思います。皆さん、姿勢を戻してください。ソロは、東峰さんです」

 私たち3人を見た部員達は、少なからず驚いた表情を浮かべた。「1番って、神崎先輩だったの……?」と困惑した声がどこからか聞こえた。

「東峰さん。よろしくお願いしますね」

「……はい……」

 皆は知らない。南波が23人目に手を挙げたことを。

「では、皆さん練習に戻ってください」

 先生の声が遠く聞こえていた。

 皆が祝福してくれる声も遠くて、ありがとう、と生返事をする。

 私の目に、寄ってくる人だかりをするりと抜けて、南波が音楽室を出ていったのが映った。

「ごめん、私、ちょっと……」

 よく考えもせず、それを追いかける。ばたん、と背中でドアが閉まると、廊下は随分静かだった。

「……南波」

 小さな声で呼びかけても、もう姿はない。

 いつもいる場所がどこなのかと考えて、心当たりがないことに目を見開く。自分が思っていたよりずっと南波のことを知らないのだなと思う。
 何となく苦手だったから、中学の時もそれほど関わりはなかった。今も然りだ。

 心当たりがないなら、探すしかない。

 階段を駆け上がる。飛びつくように開けたのは、屋上のドア。
 強い風圧に、目を細めた。今日はいつもより風が強いみたいだ。

 こちらを背に、手すりに腕をのせて寄りかかる人影が見える。

 ふーっと呼吸を整える。

 ……いた。

 足音が聞こえたのか、南波が振り返る。

「よう」

 そう言って笑う南波は、いつもの飄々とした彼だった。

 風が吹く。髪で視界が塞がれて、私は乱暴に後ろに払った。

「なんで手ぇ挙げてんの」

「別に俺ら、挙げるななんて言われてねえし」

「そういう問題じゃない。はぐらかさないで」

 南波が笑みを消した。微かに唇を噛んで、零す。

「俺は、おまえに負けた。そんだけ」

 それに、私はどうしようもなく腹を立てた。そんなふうに一人で勝手に終わった気持ちになられては困るのだ。

「そういうことなら、言わせてもらうけど」

「そういう約束だったし。言いたいだけどうぞ」

「でも」

 言葉を切った私を不思議そうに見る。

「言いたいことある、って言ったから。聞いて欲しいとは言ってないから、私がこれから言うこと、別に聞かなくてもいい。南波には、納得いかないかもしれないから、無理に聞き入れなくていい。これはただの独り言だから」

 南波は何も言わなかった。