青い季節にちゃんと呼吸(いき)をする方法




夏の香り、
向き合う心



 たんたんたん、と自分の足がリズミカルに階段を上っていく音が耳に残る。その奥で微かに届くのは、尾を引く蝉の声。

「ふー……」

 思わずため息をついて髪を払う。

 暑い。背負った楽器ケースのせいでシャツが背中に張り付くのが、今だけ恨めしい。

 しかしそれも当たり前だ。もう7月の半ばもとうに過ぎて、世は夏休み。授業は無くても、吹奏楽部の活動はこれからが正念場。

 中学の時のくせで、毎朝早く来てしまう。最初はそんなの自分くらいだと思っていたのだけれど。

「おっそ。おまえやる気あんの?」

 毎朝音楽室のドアを開けると、第一声は極めて不愉快だ。

「南波……あんたさ、ほんと何時に来てんの。私校門開く時間丁度ぐらいには来てるんだけど」

「はー? 階段上るのが遅いんじゃね?」

「そんなに変わるわけないじゃん」

 楽器のメンテナンスを既に始めている南波を横目で見ながら自分も荷物を下ろす。

 時計を見ると7時35分くらい。校門が開くのが7時半だから、本当に丁度ぐらいの時間に来ているはず。

 それより早いって……まさか校門開くの待ってるってこと?

 校門の前で汗を流しながら生真面目に佇んでいる南波を想像するとちょっと笑えてきた。

「なにニヤニヤしてんだよ」

「別に……オイル貸して。忘れた」

 誤魔化すように仏頂面でそういった私にピストンオイルを放ってきた。

 同じ物を使っているのは好都合だけど、何となく唇を尖らせた。

 私もメンテナンスを始めると、かちゃりと時折響く金属音と、古びたエアコンのごうんごうんというやたら大きな稼働音が部屋を占める。

 私は手を動かしながらも、その沈黙に数秒も我慢できずに口を開いた。

 南波といる時は、沈黙が怖い――というより、先に口を開かれて何かを言われるのが怖い。

 だから、先に会話の主導権を握ってしまいたいのだと思う。

「あのさ」

「……なに」

「正直、朝早く来てるの、ほんの気まぐれだと思ってた。すぐ来なくなるだろうって」

「あー、俺朝吹かないと駄目なんだよ。身体の目覚めと一緒に耳も起こさねぇと」

「それは同意、っじゃなくて」

「なんだよ?」

 不機嫌そうな視線を向けてきた南波から、今度は私が目を背けた。

「……あんたもさ、やっぱ、思うとこあったんだなぁって」

「“も”ってか……まあ、そりゃな……」

 歯切れの悪い私の言葉に、南波も目を伏せると皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 時は一週間前、夏休み初日に遡る―――



 その日、集まった部員を前に先生が合奏をしようと言った。

 押しが弱くて物腰柔らかで、あまり自己主張の強い先生ではないことを知っているから、部員達は明らかにざわついた。
 それでもセッティングを済ませ、チューニングを終え着席する。

 指揮台に置かれた椅子にゆっくりと座った先生はいつも通りにこやかな表情で口を開いた。

「では、これからソロオーディションを始めますね」

「……は……!?」

 自分がやろうと言い出した曲だから責任感を感じているのかな、ぐらいにぼんやり考えていたところに、見事に冷水をぶっかけられたようなものだった。

「ちょっと待て……ください、さすがに何の知らせもなくやるってのはどうかと」

 がたん、と音を立てて南波が立ち上がる。それを手で座るように促しながら、先生は至ってにこやかに続ける。

「落ち着いてください。何もこの一回で決めようという訳ではありません。これから合奏をする上で仮にとしては決定しますが、2週間後にもう一度オーディションをして、そこで本決定をします」

「それは……そんなことをして、何か意味があるんでしょうかー?」

 にこやかさを保とうとする神崎先輩の顔も明らかに引きつっている。

 先輩としては、今やろうが後からやろうが、自分がソロを吹くことになるに違いないんだから、というところだろう。

 私には負けるはずないと考えているし、高校ではサボり魔だったらしい南波は真面目にやらないと思っているはずだ。

 先生はそれに答えない。先輩が表情を消した。

「チャンスは全員に平等にあるべきだと思うので、3年生、2年生はもちろん、1年生の2人にもソロを吹いてもらってもいいと考えていますが……」

 それを聞いて我関せずとぼーっとした顔をしていた1年生の2人が激しく首を横に振った。

「い、いいえええ私たちなんて全然吹けないので」

「そ、ソロのところ練習もしてないですし」

「そう言うなら無理強いはしませんよ」

 頷く先生に、すっと手を挙げたのは夕歩だ。

「先生、私も辞退します」

「え……夕歩……本当にいいの?」

「うん。私はこーゆーのは、いいんだ」

 にっと笑う夕歩が無理をしているようには見えなかったので、私はそれ以上何も言えなかった。

 ……じゃあ、自分は? 辞退しなくていいの?

 ここで手をあげれば、吹かなくて済む。もうあんな目にあいたくない。それなら辞退する方がいいんじゃないの?

 そのはずなのに、手をあげるのを躊躇ってしまう。どっと汗が吹き出して、それでも体は動かない。

 ……あげられない。だって、本当は……私は。

「では……神崎さん、東峰さん、南波くんの3人でオーディションをするということでいいですか?」

 先生がぐるりと見回しても誰も視線すら上げようとしなかった。空気はもう随分重い。

「では、ソロの決定は多数決にします。手を挙げた数が多かった人にしましょう。もちろん目をつぶって周りは見えないようにして。では、神崎さんから」

 促されて、すっ、と構えるその姿に、何の気負いもない。

 私はもうこのオーディションの行く末がわかっていた。私だけじゃない。きっと、この場にいる誰もが。

 目をつぶろうがつぶるまいが関係ない。きっとみんな、皆先輩に手を挙げる。当たり前だ。それは……私だってそうだから。

 先輩が深くブレスを吸う。一音目が放たれる。特に非の打ち所のない、完璧にほど近い演奏。

 誰も身動きしない。静かに聴いていた。

 次に構えた私は正直、もうやりたくなかった。全部投げ出して出ていきたかった。もう吹いたところで何も意味が無いと思った。

 マウスピースを口に当てても、息を吸っても、唇を震わせても、自分の演奏だという気がしなくて。
 終わってみれば、ミスはしてないけれど、機械のように楽譜をなぞっただけで、そこに自分の意思はなかった。

 先輩の演奏を聴いて、完全に萎縮した。

 ――なんて、ただの言い訳か。

 ただ、いつも通りの自分というだけだ。

 もう目立たないように、集団から飛び出さないようにそつなくこなして。そこに自分は、どこにも……いない。

 自嘲気味に唇を歪める私の耳に、最後の南波の演奏が届く。

 久しぶりに聴いても上手いと思った。伸びやかで聴きやすい音。普段の本人の振る舞いに反して、ちっともひねくれていない真っ直ぐな音。アタックが綺麗で、リリースも力強い。

 ただ、やっぱり練習不足が尾を引いているのがわかる。全体的に粗削りな印象を受けるから、先輩か南波かとなれば、先輩に軍配が上がるだろう。

 でも、2週間後はわからない。ろくに練習もしてないのにこれだけ吹けるのなら。

 次のオーディションは、先輩と南波の一騎打ちになるのだろうか。

「はい、ではみなさん顔を伏せてください」

 先生のその声でハッとして顔を伏せる。

「神崎さんがいいと思う人」

 見えなくても、沢山の人が手を挙げたのが気配でわかって、まあそうだろうなと思う。

 人数的にもう先輩に決定だ。

「東峰さんがいいと思う人」

 駄目だとわかっているのに、私はこっそり薄目を開けてしまった。
 トランペットは一番上段に座っているので、さほど顔を上げずに全体が見える。

 かしゃ、と楽器が微かな音を立てたことで、自分の手が震えているのだと初めてわかった。

 ――こうなると、わかっていたのに。

 視界に入る限り、誰も手を挙げていなかった。そのことに、そんなにショックを受けるだなんて。

 そっと横に視線を滑らせると、先輩が薄く笑みすら浮かべながら目を閉じていた。

 夕歩が一人、真っ直ぐ手を挙げているのが見えた。

 そのことに驚きながらほんの少し顔を上げると、南波と目が合った。

 ……あんた、なんで目開けてんの。

 見ないで欲しかった。自分が酷く情けない表情をしているのがわかるから。

 冷たい目を向けられると思って構えていたのに、南波はただすっと目線を逸らしただけだった。そのまま俯いて目を閉じる。

 それが想定外で、驚きながら私も顔を伏せた。

 ……なんで、そんな悲しそうな顔をするの。



 南波もあの日のことを思い出していたのだろう、横顔には微かに憂いが浮かんでいる。

「なあ、おまえさ……」

南波が何かを言いかけた時、がちゃりとドアが開いた。

「おはよー梨花子、と南波」

「……おはよ」

「俺はついでかよ」

「あったりまえでしょうが」

 今日もふたりとも早いねえ、私も結構早く来たのになあ、などと言いながら荷物をどかりと降ろす夕歩に笑う。

 ちらっと南波に視線を向けるが、もう話す気は無さそうだった。本当に気まぐれというか適当というか。

 ふーっとため息をついて暗い気持ちを振り払う。

「ねえ、今日もパート練やると思う?」

「パート練習かー、うーん私は全然いいけど……」

 言い淀んだ夕歩に南波が頭をがりがりと掻いた。

「あー1年2人だろ」

「南波、そんなハッキリ……」

「うーん2人とも、凄くいい子、なんだけどねえ」

 今年の1年生は2人、安藤夏海ちゃんと九重早紀ちゃん。

 夏海ちゃんは初心者、早紀ちゃんは中学の時ホルンをやっていて、トランペットに転向した。

 2人とも、努力家で日々うまくなっていくのがわかる。ただ、問題なのは――



 ガン! と先輩が机を蹴る。隣に座る夏海ちゃんが椅子から飛び上がった。

「ほんとに本気でやってるの?」

「ほ、ほんきで……す……」

 ここのところ毎日詰まっている所だった。指の動きが難しい連符。

「へえ、本気でやって今のなの? じゃあよっぽど問題ね」

「……っ……」

 すっかり怯えきった夏海ちゃんはもう言葉が出ないようだ。

 そして私はといえば、この数日で普段の神崎先輩が随分猫を被っていることを知った。キレると口調からふわふわ成分が消え去る。

「あなた1stなのよ? 合奏のメロディラインを引っ張るのはトランペットの1stなの。それはわかってるのよね当然」

「は……」

「中途半端にやる気なら、別にいいのよ? 吹かなくても」

「わたしっ、そんなつもりは」

「へえ? じゃあどんなつもりなのか言ってみなさいよ。どうするつもりなの? もう夏休み入ったんだけど? 大会までもう日にちも無いの。初心者だからって優しくできる時期はとっくに過ぎたの、わかる?」

 先輩はそこでじろりと目をやった。

「あなたもよ、九重さん。楽器が変わって大変なのは皆分かってる。でもそんなの関係無いの」

「は、はい……」

「安藤さんも九重さんも、『ひとりぶん』ちゃんと吹いてくれなきゃ困るの。『1』以外の端数は邪魔なの。マイナスにしかならないのよ、迷惑なの。わかる? ゼロの方が幾分もマシ。今年は2年生が3人いるから、あなた達が吹かなくたって形にはなるから」

「先輩!」

 我慢できずに声を上げたけれど、先輩は私に目も向けなかった。

「先輩、そんな風に言わないでください……夏海ちゃんも早紀ちゃんも、頑張ってるんです」

「そうね。で、その結果がこれでしょ?」

「……まだ、結果じゃありません。時間はあります。先輩は……この子達が毎日だんだん上手くなってるのがわからないんですか……!?」

 先輩はやっと、うざったそうに私のことを見た。

「元が下手なんだから当然上手くはなるでしょ。でも少しずつじゃ困るのよ。努力が足りないだけでしょ。へらへらしてほんとイライラする。じゃあ夏休み始まってからの一週間で何か変わった? 注意されたところを集中して繰り返し練習したりとか、わからない所を進んで先輩に訊いたりとか」

「……」

「答えられないんでしょ。それに、東峰さん?」

「はい……」

「役に立たない1年生の面倒なんて見てる余裕あるのね、自分もろくに吹けてないくせに。ソロ降りれば少しは楽になるんじゃないかな?」

 明らかに皮肉だとわかる言葉に目を伏せた。

「……できない人を切り捨ててまで結果出すのが大事だとは思えません」

 そう言うと、先輩はふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「ふうん。随分偉そうなこと言うけど、何か勘違いしてない?」

「勘違い、ですか」

「あなたはそれが自分の意思だとでも思ってるのかもしれないけど。私には、ただ切り捨てるっていう選択肢を選べないだけにしか思えない。あなたはどうしてその子達に吹かせたいの?」

「それ、は……」

 なにか言おうと口を開いて、咄嗟に何も言えないことに絶句した。

「わかってる? 本番のステージで、『私は初心者です』っていう看板を首から下げることなんてできないの。ステージの上では皆責任を持って吹かなきゃいけない」

 誰も何も答えられない状況にうんざりしたように首を振ると、先輩は荷物を手早くまとめて席を立った。

「まあ、どうでもいいけど。馬鹿らしいから私はパート練抜けるわ。ああ、合奏は出るから心配しないで」

 大きな音を立ててドアが閉まると、隣に座る夏海ちゃんがふにゃりと背もたれに体を預けた。

「……夏海ちゃん」

「はっ、すみません先輩」

 慌てて姿勢をなおす彼女を、いいよ、と手で制した。

「もー、まったくあの先輩、好き勝手言いやがってぇ……夏海ちゃんも早紀ちゃんも頑張ってるっつーの!」

「もう夕歩、口悪いんだから」

「ごめんごめん。けどさぁ、イラッとするんだよね」

「あいつが言ってんのが正論だからだろうが」

 唇を尖らせる夕歩に南波がぼそりと呟く。

 私はどきりとしたけど、夕歩はためらいなく南波を睨んだ。

「正論が最善とは限らないでしょ。なーに知ったげに言ってんの」

 その言葉にはっとする。

 鋭い視線を受け止めた南波が表情を緩めた。

「ま、そうなんだけどな」

「まさかあんたも先輩と同じ考えだっていうの? それなら敵ね」

「……萩はそう言うよなあ。お前のそういうハッキリものいうところは嫌いじゃねえよ」

「あんたに褒められても嬉しくない」

「へいへい」

 軽口を叩く2人が今はとても眩しく見えて、私は目を逸らした。

 私は夕歩みたいに自分の思いが無い。

 夕歩はどうしてソロを吹かないんだろう。夕歩の方が私よりずっと向いている。

「先輩。すみません……私のせいで」

「ううん本当に気にしないで。ごめんね、私が悪かった。もっと早く気を配れてたらよかった。できないとこ、一緒に潰そうか」

 椅子を寄せようとした私を、夏海ちゃんがあわあわと手を振って留めた。

「あ、や……えっとぉ、私、最初ひとりでやってみてもいいですか? さっき神崎先輩の言葉、ショックでしたけど、確かにそうだなあって思ったんです」

「え」

「梨花子先輩も、ひとりでやる時間ほしいですよね? すみません私のせいで……自分でできる限りやってみます!」

 あ、でも困った時は助けてくださいねっ、と笑う彼女に、私はどうにか唇を歪めた。
 部活が終わり、帰路につく。この季節は日が落ちかけてもまだ暑い。じわりと滲み出す汗を拭いながら、爪先を見つめて歩き続ける。

 皆、自分なりに前に進もうとしているのに、自分だけ。

 信号で立ち止まる。赤を確認して一瞬だけ上げた視線はすぐに落ちる。

 ああ、もう、嫌だ。

「青だよ。渡んないの?」

「あ、すみません……」

 とんとんと肩を叩かれ、邪魔だったのかと思い端に避けながら緩慢に顔を上げる。

「え、なにどうしたの? 梨花子ちゃんだよね? 人違いじゃないよね?」

 大きな茶色がかった瞳が見開かれて私を映した。

「……芽、衣……」

「やっほ、久しぶり。元気してた? ……感じじゃあないね」

 じっとりと背中に嫌な汗をかく。

「ちょっと、話さない?」

 芽衣が髪を耳に掛けながら笑った。



 はい、と差し出されたジュースの缶を断ろうとしたら押し付けられたので、躊躇いながら受け取る。そのまま握り締めていたら今度はひったくられて、プルタブを開けて戻された。

「懐かしいね、ここの公園。小学校のときよく遊んだよね。ブランコが好きでさ、よく競争したよね。どっちが高くできるかって」

 芽衣が言いながらブランコに腰掛ける。仕方がないので自分も隣に座る。

「もう今じゃちっちゃいよね。足余っちゃう」

 反応できないでいると、芽衣は困ったように笑ってこちらを見た。

「ね、梨花子ちゃん。久しぶりだね」

「……うん、久しぶり」

「小学校一緒だとさ、校区的に家近いじゃん? だから結構会うかなって思ってたんだけど、なかなか会わなかったね」

「そう、だね」

 うまく話せない。何か言わなければと思っても、口が動かない。

 重苦しい沈黙がおりた。

「梨花子ちゃん」

 名前を呼ばれて、弾かれるように立ち上がる。ぴしゃりとジュースが地面に飛び散った。それに構わず頭を下げる。考えるより先にそうしていた。

「ごめん、ごめん、ごめんなさい……! 芽衣をすごく傷つけたの、わかってる。芽衣が私のこと嫌いになっても当然だよね。でも、私は……」

 身勝手な謝罪だ。自分がすっきりしたいだけの、独りよがりな言葉で。けれど、止まらなかった。

「まだ、芽衣のこと好きだよ。ごめんね、こんなこと言ってごめん。許されることじゃないよね。ごめんね……」

「梨花子ちゃん」

 芽衣が私の手を握った。

「顔上げて、こっち向いて」

「……無理だよ、私、どんな顔して芽衣を見ればいいかわかんない」

「どんな顔でもいいよ。今の顔が見たい」

 それは驚くほど柔らかい声で、思わず顔を上げる。芽衣は朗らかな笑みを浮かべていた。

「なんで、そんな、顔」

「梨花子ちゃんこそなんて顔してるの。もー、私怒鳴ったりキレたりなんてしないよ」

 あは、と芽衣が声を立てて笑う。

「やっと目を見て話せる。私、もう二度と話せないんじゃなかって、そう思ってたから」

 笑ったままの顔で、声だけが震える。そこでやっと、自分の手を握る芽衣の手が小刻みに震えていることに気がついた。

「ごめん、さっきの嘘。ほんとは何回か見かけてた。だけど、いつも俯いて歩いてる梨花子ちゃんを見て……声がかけられなかった」

 今度は深く芽衣が俯く。

「梨花子ちゃんがそんなふうになったのは私のせい。私は梨花子ちゃんを妬ましいと思った。僻んでた。うざいって思った。失敗した時……ざ、ざまあみろ、って……思っちゃったの……!」

 ぱた、と落ちた滴で地面にしみができる。

「吹奏楽を始めてから、きらきらしてる梨花子ちゃんが羨ましかった。私の後ろで、『何でもいいよ、芽衣のすることなら』って言ってた今までの梨花子ちゃんの方がいいって、思っちゃったの……そんなはずないのに。友だちが生き生きしてるのを、疎ましく思うなんて。私、最低だった……!」

「芽衣」

「才能が無かったのはただ自分のせいなのに。上手くなかったのは自分の努力不足のせいなのに。それを全部、梨花子ちゃんのせいだと思って」

「芽衣!」

 ぎゅっと強く、繋いだ手を握る。

「ありがとう、そんな風に言ってくれて。でも、私が皆を傷つけてたのは事実だから。芽衣は何も悪くないよ」

「……それなら、それを止めるのが私の役目だった。だって……私は、梨花子ちゃんの、友だちだったのに」

「だったなんて言わないでよ。今もそうだって……私は、思ってるよ」

 芽衣がぱちくりと瞬く。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、にかっと笑った。

「そう……そう、だよね……そう……っ」

 笑ったまま、器用に声を上げて泣いた。それを見て笑ったはずの私も、気がつけば泣いていた。拭っても拭っても止まらなくて、諦めて芽衣を強く抱きしめた。


 暫くして落ち着き、我に返った私たちは、お互いの酷い顔を見て噴き出した。

「ね、梨花子ちゃん。これからは人を気にし過ぎちゃダメだからね。周りばっかり見ないで。皆、今まで少なからず失敗なんてしてるんだから、いいんだよ。失敗した後のことの方が大事なんだってわかった。こうして謝ったら、ほらっ、なんだか前より仲良しじゃない?」

 おどけて言う芽衣の目の縁がまだ濡れていた。

「だから、ね。どんな梨花子ちゃんでも梨花子ちゃんだけど、無理するのはもうやめて。私はあの時の傍若無人な梨花子ちゃんもちょっとだけなら好きだよ」

「でも……私はもう人を傷つけたくないの」

「だから何も言えないの? 何もできないの? そんなはずないよ。傷つけずに想いを伝えることだっていくらでもできるはず。失敗したから、人を傷つけてしまったから、傷ついたから……だからきっともう梨花子ちゃんは大丈夫」

 まだ頷けない私に、芽衣はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。

「じゃあ、とっておきのひとことをあげる。――人は、吐き出さなきゃ吸い込むことはできないんだよ。楽しいことも、嬉しいこともね。嫌なことばっかり溜め込みすぎたら壊れちゃうんだから。今だって、思う存分吐き出したらスッキリしてるでしょ?」

 芽衣がブランコを漕ぎ始めた。ぐんぐんと動きが大きくなる。昔と違っていとも簡単に高度を上げると、ぱっと手を離して飛び降りた。

 思わず手を伸ばしていた私を可笑しそうに見て、芽衣が破顔する。

「私ね、高校でもトロンボーン吹いてるんだ。今は、この楽器が一番好き。いつかまた一緒に吹こうね、梨花子ちゃん!」

 ばいばい! と大きく手を振って、芽衣は暗闇に紛れて消える。

 胸に灯ったあたたかい熱は、もう消えそうになかった。


✱✱✱

 翌日。練習の終わり際、私は階段を駆け上った。

 私は屋上で吹くのが好き。
 ……だった。

 自分の音がどこまでも響いて、何にも邪魔されることなく風に紛れて消えていく。屋上で吹いている時は、何より自由な気持ちになれたから。

 でも今になっては、反射するものもなく、ありのままの音が遠くまで届くのは、苦痛でしかなかった。

 風が髪をなぶる。それすらもうざったくて、唇とマウスピースの間に入り込んだ髪の房を、乱暴に払い除けた。

 そっと触れたマウスピースは、ひんやりと冷たかった。それ以上に自分の唇はもっと冷たかった。

 楽器に触れると、酷く安心を覚える。

 空気はじっとりと蒸し暑いのに、何故か自分の体だけ冷えきっていた。

 数度深く深呼吸をする。

 胸の中の汚い感情も、暗い心も、重い気分も、全て吐き出す。

 そして吐いた分だけ、澄んだ自由な空気を思いっきり吸い込むのだ。

 いつまでも知らないままじゃいられない。それを理解して、大人の世界に足を踏み入れかけた、不安定な存在。それが今の私たちだ。

 ひとは一人じゃ生きていけない。誰かと支え合って、集団で生きる存在だ。

 いかに飛び出さず、周りに溶け込み、集団の一つのパーツとしての自分の役割を、どれだけそつなくこなすかが大切で。

 吹奏楽は、私にとってまるで人間社会の尺図のようなものだ。
 誰がどんなふうに何をするか、それぞれに役割があって、その役割を全うできなければ役立たずと罵られ、その役割から逸脱し過ぎたことをしたら咎められる。

 “息苦しさ”。

 皆少なからず感じて、でも意識的に、あるいは無意識に、自分なりに折り合いをつけて、通り過ぎていく。

 なんでも無かったように笑って。

 ――人は、吐き出さなきゃ吸い込むことはできないんだよ。

 あの言葉は、芽衣なり見出した、この息苦しさの克服の仕方だったのだ。

 吹奏楽ではもちろん、狭くて息苦しい世の中で、どうにか自分でひとりで立って、呼吸をするための。

 芽衣は私より少し早く大人になったのだろう。

 やっと私にもわかったよ、芽衣。

 あの頃の私はきっとまだ子ども過ぎたのだ。自分を諦めて、迷子になって――そのうち、元の自分が本当にわからなくなってしまっていた。

 だから。一度、今の自分を忘れて、昔の自分に戻ることもなく、ありのままの自分をさらけ出して。

 体の中の空気を全て吐き出す。すると意識しなくても、ぴったりその分だけ新しい空気が入ってくる。

 それはとても自然なことに思える。いつも吸ってばかりで、浅い呼吸を繰り返してじたばたともがいていたのが馬鹿みたいで、おかしくて少し笑ってしまった。

 ピストンに乗せた人差し指と中指を押し込む。

 唇を震わせた感覚もほとんど無かった。

 本当はすぐそばのはずなのに、その音がどこか遠い所で鳴っているのをぼんやりと聴いていた。

 自分が何処か知らないところに消えていきそうな感覚。

 それ以上続ける事ができなくて、口を離した。


「――梨花子」

「!」

 自分の名前が呼ばれて振り返る。
 目が合ったのは、泣きそうな顔をした夕歩だった。

「夕歩……どうしたの? あ、ごめんね占領して。夕歩も屋上で練習したかった?」

 へらりと笑う私に、夕歩が唇をわななかせた。

「すぐよけるからちょっと待って」

 それに気がつかないふりをして、私は視線を外す。

「梨花子!」

 夕歩が私の腕を力一杯ぎゅっと握り締めた。

「痛いよ、夕歩」

「ごめん」

「謝るなら離してほしいけどなあ」

「違う。そのごめんじゃなくて」

「……なに?」

「いままで、ごめん」

 びっくりした。夕歩が何を謝っているのか、本当に心当たりがなかった。

「夕歩? 私に謝るようなこと何も無いよ。むしろ……」

 むしろ、あのパート練の時だって、あの場に夕歩がいなかったら。たぶん私は南波が言ったことに納得して、また一つ先輩に劣等感を抱いていた。

 今日だけじゃない。今まで何度だって、夕歩は私の話を聞いてくれて。

「夕歩は、私の大切な友だちだよ」

 微笑むと、夕歩は居心地悪そうに目を伏せた。

 いつの間にか沈みかけた太陽が、彼女を緋色に染め上げている。そのはずなのに、頬は酷く青ざめて見えた。

「私には、そんなこと、言ってもらえる資格無いの」

「なんでそんなこと言うの? 私は夕歩のおかげでいつも……」

「違うの!」

 私の言葉を遮った夕歩は私の目を真っ直ぐ見据える。しかし、内心を隠しきれないように長いまつ毛が小刻みに震えていた。

 こんな夕歩を見るのは初めてだった。

「私、すごく卑怯者なの。ほんとは」

「そんなことないよ。夕歩はいつもかっこいい。私とは違って、はっきり意見が言えて」

「違うの。自分が弱いってバレるのが嫌だからってだけ。口ばっかり達者なだけなの」

 大きく息を吸う。喉が震える。

「そ、ソロだって、私ほんとは怖かっただけなの! 皆に自分の音聞かれるの怖かっただけ! 梨花子は、私が何か考えがあって自分の意思でそうしたんだって思ってくれてるんだろうけど……そんなんじゃないよ。ただ単に怖かっただけで……っ」

「そんな」

 ううん、と夕歩が静かに頭を振った。

「でも、私と違って梨花子は強いね。さっきの、音聴いてわかった」

「音?」

「あれが、本当の梨花子なんだね」

 逆光で暗くなっていても、笑っているのがわかった。

「私、梨花子のこと何もわかってなかった。あの時の音とは……全然違う」

 あの時というのは、きっと、夕歩が部活に誘ってくれた時のことだ。私の音を聴いて、うまいと言った時。
 今、彼女はそれを酷く後悔しているようだった。

「事情はわからないけど、何かが原因で自分を出せなかったんだね。何も知らないくせに伊集くんのこととか、色んなこと好き勝手言って、ごめん」

「ううん……ううん、そんなこと!」

 激しく首を振る。

「私こそ、夕歩がそんなふうに思ってるの全然気がつけなかった。自分が話を聞いてもらうことばっかりで……ごめんね、夕歩。私、このままじゃだめってやっと気がつけたから。これからは夕歩に頼ってもらえるくらい、しっかりするからね」

 ふ、と夕歩が頬をゆるめた。

「すごいな、梨花子は。自分を変える決意なんて、そんなの誰にでもできるもんじゃないよ」

 そんなことない。一人じゃ無理だった。

「めんどくさいばっかで嫌なことも多くて、息苦しいこともあるけど。私も頑張りたい。変わりたいな」

 その言葉にびっくりして目を見開く。

「夕歩も、そう思う? 息苦しいって……」

 彼女は私の質問には答えずに、にやっと笑った。

「高校生とかってさ、いちばんめんどくさくない? 子どもと大人の真ん中でさー。どこにもいないのはダメなのに、どっちにもいるのもダメみたいで。ホントなんなの? って感じ」

「あーあれだ……マージナルマン、だっけ。倫理の授業でやった」

「そうそう、確かそんなヤツ。でも教科書とか作ってる大人らは多分全然わかってないよ。私たちがどんだけ大変なのかーって。そんな何文字かで簡単に表せるような軽いもんじゃねーんだぞー! って、さ」

「大人たちも皆も、通ってきてるはずなのにね」

「うーん、忘れたいし、忘れちゃうんだろうなあ」

「なんで?」

「皆、周りにどうにかして馴染もーってするし、それが普通だって思ってて。自分が思うように動けなくなって、苦しくなって。なんか、人生で初めての……いわゆる挫折なんじゃないかなって思うんだよね」

「……うん、確かに、そうなのかも。自分の意思じゃどうにもなんないこともあるんだなって、わかっちゃって」

「そう。だからさ……たぶん、自分たちと違って、やりたいことを好き勝手にできてる人を羨ましいって思って、僻んで。んで結局、それが納得いかないからハブるんだよ。『集団を乱すアンタが悪い』とか、それっぽい理由をつけてね」

「……こりゃ、いちばん大変なときのはずだね」

「青春は甘くないってことですかねぇ」

 夕歩が話すことは、とてもすんなりと自分の中に落ちて、ぽそっと呟く私に彼女はいたずらっぽく笑った。

「夕歩は……大人、だね」

「あー梨花子よりちょっと早く馴染んじゃったのかな。だからまだお子様の梨花子の面倒見たくなるのかもね」

 夕歩は私を見て眩しそうに目を細める。それを見ていると、自然と口が動いていた。

「私ね、神崎先輩が羨ましい。やりたいことが決まってて、意志が見えてる感じも。裏表があるのはどうかと思うけど、思ったこと言えるところも。それから……海ちゃんに、好かれてるところ……も」

「うん」

「私、もっと変わりたい。それで、海ちゃんを振り返らせたい」

 夕歩は酷く嬉しそうに、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。

「梨花子はもっとずるく生きた方がいいよ? ずる賢く、って言うべきかなー。馬鹿正直過ぎるんだよねえ。本当は思ってないことだって、保証できないことだって言っていいのに。アイツもそうだし」

「アイツって?」

 珍しく嫌悪感を露わにした顔で夕歩は頷いた。

「南波! まー別にそれ自体は全然悪くないと思うけど。梨花子にやたら突っかかってるのが腹立つの!」

「うーん、前の私が良かったってやたらと言われるんだけど」

 地団駄を踏む夕歩にそう言うと、はああ、と唇を尖らせてしたり顔になった。

「あんま関わり深くないけど、アイツ絶対超面倒臭い奴だってのはめっちゃわかるからねー。もし、南波にまたなんか言われたら、その時は自分の思ってること全部言ってやりなね」

「ん? うん?」

 首を傾げても、当事者じゃない第三者だからわかることもあるってことさ、とそれ以上教えてくれない。

「ま、ともかく。梨花子は先輩にもアイツにも、その他のどんな人にも。劣等感なんか感じる必要なんて、微塵も! 無いんだからね。たまたま大変な事が重なっただけだからね? 梨花子は梨花子なんだから」

「……うん」

「あーあっ。なんか柄でもない事ばっか言っちゃったな。練習戻ろーっと」

 何でもなかったように踵を返す夕歩の背中に、気がつけば声をかけていた。

「あのさ、夕歩。ソロオーディションの時……」

 夕歩の足が止まる。暫くして、肩があがったのがわかった。

「……ああー見てたのか、悪い子だなー」

 数瞬躊躇うように踵を踏んだ後、肩越しに振り返るとにっこりと微笑む。

「私こうみえて、好きな人にはひいきするタチなの」

 『ひいき』なんて言葉、わざと使ったんだろう。
 彼女のは、『ひいき』というより、『期待』のような気がするけれど。

「頑張って、って言っていいよ。夕歩になら言ってほしい」

「……まあ、若干希望的観測も入ってるかもだけど?」

「いいよ、期待に応えられるように頑張るから」

 ばれてるか、と夕歩が呟く。

「頑張って、梨花子。誰より応援してる」

 頷いて、私は宙を仰いだ。

「うん――もう負ける気、しないや」

 ソロオーディションだけじゃなくて、自分自身にも。

 びゅう、と耳元で風が唸る。髪を巻き上げて、私を追い越してあっという間に通り過ぎていく。

 細めた私の瞳に映る、陽の落ちかけた地平線は、今まで見たどんな光よりも綺麗に滲んでいた。




深呼吸、
さよならを告げよう



 ソロオーディション、本番当日。

 がちゃりとドアを開けると、南波と目が合った。結局一日も欠かさず音楽室に一番乗りしていたから、彼もそれだけ本気だということなのだろう。

 向こうから声をかけてこようとしてこないので、私は牽制の意味合いも込めて、大きく「お、は、よ、う!」と声を張った。

「……はよ」

「……あんたにしては元気なくない? まさか柄にもなく緊張してる、とか……」

 自分も人のこと言えないけど。

 激しい動悸にそんなことを思っていると、南波がじっと目を見つめてくるのでたじろいだ。

「な、なに、お前もだろとか言うつも……」

「なあ、俺さ、お前に聞いて欲しいことがあるんだよね」

 何でそんなことをわざわざ言ってくるのかわからなかった。それでも目の中を覗き込むようなその視線がどうしようもなく痛くて、私は僅かに視線を逸らしながら唇を曲げた。

「え、別に今でも聞くけど」

「ちがう。そうじゃない」

「……は?」

「もし、俺がソロになったら、聞いて欲しい」

 なにが“ちがう”のか。それも、聞かせてくれるのだろうか。

「そんなこと言って、私、負ける気なんかさらさらないけど、いいの?」

「……いい」

 俺が勝つに決まってんだろ、くらいは言われると思っていたので面食らう。

 幾度か目をしばたかせたところで、私は浅くため息をついた。そうだ、こいつが意味わかんないのは今になって始まったことじゃなかった。

「じゃあ、私も。私がソロになったら、言いたいことがある」

 私がそう言うと、南波は珍しく邪気の無い顔で、ふっと頬を緩めた。


✱✱✱

 今日は合奏なんていう名目では集められなかった。3人以外の部員達は、何も持たずに集まっている。

 正真正銘、ソロオーディションだ。

「では皆さん、後ろを向いてください。誰かわからない状態で、音を聴いてもらいます」

 なんで今回はそんなことを? とざわつきながらも、みんな後ろを向いて座り直した。

「では、これを引いてください」

 3人の前に3本割り箸が入った缶が差し出される。順番をわからなくするためだろう。

 引いた番号は……3番。

 先輩が1番、南波が2番だ。

「皆さんは、後で番号を言うのでいちばん良かったと思う番号に手を挙げてくださいね。では、1番の人、どうぞ」

 気負いなく立つ姿は、2週間前と変わらない。すっと楽器を構える姿に無駄はなくて、目を僅かに伏せて息を吸う姿勢にも、全く力みはない。

 アタックは息と音が同時に出てくっきりとしてとても綺麗だ。メロディにも淀みは無い。

 ……でも、ただそれだけだ。

 普通にうまい、と思うだけ。

「次、2番の人、お願いします」

 南波が息を吸う。腹式呼吸でお腹側だけでなく、背中側も膨らむのがわかった。

 深い呼吸。ベルから吐き出される音は、隣に立つ私の制服の裾をびりびりと震わせた。

 決して音が異常に大きいわけじゃない。無駄のない音量で、でも確かに空気を震わせているとわかる、深い音だった。

 指先の感覚が、じんわりと弱くなる。でもそれは嫌な感じではない。

 そう、胸を震わせる音。それは、きっとこういう音のことを言うのだろう。

 やっぱり、南波はトランペットを吹くのがうまい。

 もちろん、先輩もとてもうまいけれど。それは誰が聞いてもそうだと思う。

 でもその『うまい』は、『上手い』ではなく、『巧い』なのだと、落ち着いて聴ける今ならわかる。

 テクニックとしての『巧さ』も、当然必要だ。努力で身につく力で、良くも悪くも演奏手を裏切らない。

 でも、人に聴かせる音。聴いて欲しい音。人の胸に届く音。

 それは南波の音の方だ。

 こちらが恥ずかしくなるくらいに素直な音。想いをそのまま伝えてくるような。普段は全然素直なんかじゃないけれど、楽器を手にした途端、彼は変わる。

 南波の演奏で音楽室の空気が変わったのがわかった。本来はプレッシャーになるような空気の重さだ。

 それでも、不思議と気負いは無かった。むしろ凄い演奏を聴いたという高揚感だけが胸の内を占めていた。

「それでは最後、3番の人。お願いします」

 それを聞いて、楽器を構えた。

 ――人は、吐き出さなきゃ吸い込むことはできないんだよ。

 ねえ、芽衣。

 私は、難しいこと考えるの、あんまり得意じゃないし、そんなに器用でもないからさ。

 だから、私は、限っ界まで吐いて……それで、入ってきた分だけ、吸うことにするね。

 その結果そんなに入ってこなかったら、それはそれって思うだけ。その時はその時で、また考えればいいや、って。

 私らしくていいと思うんだけど、どうかな。

 目を瞑っても、芽衣の顔はもう浮かばなかった。他の誰も。
 それは確かに、自分が過去と決別できた瞬間だった。

 時間が何倍にも引き伸ばされているようだった。周りの音は聞こえない。まるでひとりだけ、別の空間にでもいるようで。

 息を吐く。肺にある空気も、指先から身体中全部の空気を。

 もう何も出てこないというところまで吐き切って、それから、お腹のもっと奥の方に重心を感じながら、ゆっくり息を吸う。

 身体が全部タンクにでもなったみたいだ。足先から新しい空気が溜まっていって、喉の辺りまできたのがわかって、ぴたりと止まった。

 いっぱい吐けばいっぱい吸える。
 当たり前のことだけれど、それが難しい。

 吐くためには、身体がちゃんと自分に委ねられてなきゃいけないから。たぶん今まで、自分の身体は本当の意味で自分のものじゃなかったのだと思う。

 吸うためには吐かなくちゃいけなくて、だけど吐くのは簡単なようで少し難しい。

 でも一回吐き始めてしまえば、あとは何も考えなくていいから。
 それは本来とても自然なことだから。そうわかったら、あとはもう簡単だ。

 息はすぐそこで塞き止められている。唇を震わせると、待ってましたと言わんばかりに、小さなマウスピースの中に注ぎ込まれた。

 指の先程も無い穴から送り込まれた私の息が、張りのある音になって響く。

 ……ああ、だから私は、楽器に触れていると安心できたんだ。

 やっとわかった。トランペットは言うなれば、私の拡声器だったのだ、と。

 嫌なこともあったけれど、それ以上に。
 臆病だった自分を、変えてくれたものだった。

 マウスピースから管の中を通って、ベルから出ていく。これだけの仕組みなのに、どうして楽器という物は、息をこんなにきらきらしたものに変えてしまうんだろう……

 そう思ってしまうくらい、今まで自分が自分の演奏を聞いた中で、最高だと思えるものだった。



「では、今から番号を言うので、一回だけですよ?手を挙げてください」

 途端、緊張が解けたようにざわっとした部員達に、「話し合いは無しです!」と先生がしーっと唇に指を当てた。

「1番がいいと思う人」

 誰も手を挙げない。

 先輩の表情をちらりと窺うと、思った以上に無表情で驚く。てっきり憤慨しているかと思ったのに。

「2番がいいと思う人」

 ばらばらと手が挙がる。当たり前だ。上手かった、本当に。

 先生が数える。22、と最後に言ったのがわかった。

 ……待って、22? って半分超えてる? うちの部活、何人だったっけ。40……えっと……?

 人数なんて把握してるはずなのに、思った以上に緊張しているらしい。思考が覚束ず、ぐるぐると頭が回る。

「3番がいいと思う人」

 手が挙がった。残りの部員たちだ。

 夕歩も……挙げている。私の音だとわかったのだろうか。

 先生はきっと全体の人数がわかっているはずなのに、わざわざ数えている。

「……22」

 指さしているのは最後の一人だった。

 ――同数!?

 そうだ、部員は全部で47人、本当は割り切れないはずだけれど、ここに3人いるから割り切れるのだ。

 じゃあ、どうなる? まさかジャンケンで決めるわけにはいかないだろうし……

 頭の中はパニックだ。静かに慌てていると、先生がこちらを向いて、

「23、ですね」

 と頷いた。

「えっ」

 思わず小さく声を上げる。先生の視線を辿ると、隣で南波が手を挙げていた。

「では、3番がいちばん多かったので、3番の人にソロを任せようと思います。皆さん、姿勢を戻してください。ソロは、東峰さんです」

 私たち3人を見た部員達は、少なからず驚いた表情を浮かべた。「1番って、神崎先輩だったの……?」と困惑した声がどこからか聞こえた。

「東峰さん。よろしくお願いしますね」

「……はい……」

 皆は知らない。南波が23人目に手を挙げたことを。

「では、皆さん練習に戻ってください」

 先生の声が遠く聞こえていた。

 皆が祝福してくれる声も遠くて、ありがとう、と生返事をする。

 私の目に、寄ってくる人だかりをするりと抜けて、南波が音楽室を出ていったのが映った。

「ごめん、私、ちょっと……」

 よく考えもせず、それを追いかける。ばたん、と背中でドアが閉まると、廊下は随分静かだった。

「……南波」

 小さな声で呼びかけても、もう姿はない。

 いつもいる場所がどこなのかと考えて、心当たりがないことに目を見開く。自分が思っていたよりずっと南波のことを知らないのだなと思う。
 何となく苦手だったから、中学の時もそれほど関わりはなかった。今も然りだ。

 心当たりがないなら、探すしかない。

 階段を駆け上がる。飛びつくように開けたのは、屋上のドア。
 強い風圧に、目を細めた。今日はいつもより風が強いみたいだ。

 こちらを背に、手すりに腕をのせて寄りかかる人影が見える。

 ふーっと呼吸を整える。

 ……いた。

 足音が聞こえたのか、南波が振り返る。

「よう」

 そう言って笑う南波は、いつもの飄々とした彼だった。

 風が吹く。髪で視界が塞がれて、私は乱暴に後ろに払った。

「なんで手ぇ挙げてんの」

「別に俺ら、挙げるななんて言われてねえし」

「そういう問題じゃない。はぐらかさないで」

 南波が笑みを消した。微かに唇を噛んで、零す。

「俺は、おまえに負けた。そんだけ」

 それに、私はどうしようもなく腹を立てた。そんなふうに一人で勝手に終わった気持ちになられては困るのだ。

「そういうことなら、言わせてもらうけど」

「そういう約束だったし。言いたいだけどうぞ」

「でも」

 言葉を切った私を不思議そうに見る。

「言いたいことある、って言ったから。聞いて欲しいとは言ってないから、私がこれから言うこと、別に聞かなくてもいい。南波には、納得いかないかもしれないから、無理に聞き入れなくていい。これはただの独り言だから」

 南波は何も言わなかった。
「私正直、あんたのことが苦手だった。ううん、今でもちょっと苦手。何でもかんでも言ってくるところが苦手。怖いの。見透かされてそうで、私の嫌なところ、全部バレてそうで、怖かった」

 静かにこちらを見る瞳を見つめ返す。

「あの頃の方が良かったって言われて、でも、あの頃の私は自分にとっては一番消し去りたいものだったから。だから、嫌だった。それを肯定されるのが理解できなかった。あの私の何が良かったの、って。……じゃあ今の私はなんなの、って」

 声が震えそうになるけれど、唇を噛んで押さえ込む。

「私、今の私が好き。不格好でも弱虫でも、必死に頑張ってる今の私が好き。……あの頃の私も、ちょっとだけなら好きだけどね」

 だから、と。

「ごめん。私、戻れない。前にしか進みたくないから」

 今までの私に、さよなら、って言う勇気が出たから。

「あんたも、なんか癖みたいにいつもへらへらするのやめなよね。さっきの演奏、すごい良かった。感動した。本当の南波は、あれなんでしょ。素直になりなよ」

 最後だから、ちょっと偉そうなことを言わせてね。

「……演奏は嘘つかない、ってか? さっむいなあ! ……とか言ったらお前どうせ怒るんだろ?」

 あははは、と南波が笑う。その笑い声がとても幼く聞こえて、私はびっくりして彼の顔を見た。

 見たこともないほど目尻を下げて、朗らかな笑みを浮かべている。

 笑われるなんて想像していなかった。何調子乗ってんだよって殴られるんじゃないか、くらいには覚悟をしていたのに。

「あーもー完敗だよ完敗。こりゃ勝てないはずだわ」

 じゃあな、と手を振って階段を降りていった彼は、いつもより少しだけ背筋が伸びているみたいだった。


✱✱✱

 私はさっきまで南波が立っていたところでもたれ掛かりながら、グランドを眺めていた。

 ……あのソロオーディションは、たぶん、先生が私たちに気づかせようとしてくれたのだと思う。心の持ち方の大切さを。音楽の経験なんて関係ない。私たちの何倍も長く生きているからこそわかるのだ。

 2週間間を空けたのだって、2回目は手の数が見えるようにしたのだって。

 十代の私たちがどれだけ変わりやすい存在で、今が大事な時なのかということを、わからせてくれたのだ。

 私たちにはまだちょっと難しい。それでも、なんとなくぼんやりと掴み始めた。

 風がまた強く吹く。それに運ばれるようにグランドで練習する部活の声が大きく聞こえてきた。
 半面ずつ使って練習しているのは、野球部とサッカー部だ。知らず知らずのうちに、視線が吸い寄せられていく。

 どれだけ離れていたって、人がたくさんいたって、きっときみを見失うことはないだろう。

「……海ちゃん」

 意識しなくても、すぐに見つかる。

 ずっと誰よりそばにいたから。

 それなのに、ほんの2年。2年だ。高校に入ってからの2年間、一緒にいなかった時間の方が長く感じる。

 どうしてだろう、と時々思うけれど、たぶんそれは、海ちゃんがいることが当たり前過ぎて、それが日常だったからなのだと思う。

 それがどれだけ幸せなことだったのかも知らずに。大切なものは、いつだって喪ってから気づくのだ。

 ……私の想いは、きみには負担なんだろう。

 わかっていた。本当はずっと前から。

 いつも私の言葉に、困ったように一拍置いて微笑むのも。私の笑顔に、戸惑ったように眉尻を下げるのも。

 困らせたくない。
 でも、そばに居たい。

 だから、わかっていたのに、海ちゃんが何も言わないのを良いことにずっと気づいていないフリをしていた。

「でもそれじゃ、だめだよね」

 やっと踏ん切りがついた。

 そばにいるために、しなきゃいけないことが、私にはある。

 ピーッと笛の音が聞こえた。休憩だ。

 私は慌てて階段を下りる。部活中だとはわかっていても、今を逃したら、もう言えない気がした。

 玄関から飛び出す。グランドの方を見ても海ちゃんはいない。それなら部室棟の方だろうと校舎の角を曲がると、誰かとぶつかりそうになった。

「すみませ……」

 顔を上げてから凍りつく。私を僅かに見下ろしているのは、神崎先輩だった。

 何か言われるのだろうかと反射的に体を固くした私を暫く見つめてから、先輩は私を素通りして玄関の方に歩いていった。

「私、明日からパート練出るから、よろしくね」

 すれ違いざまに、ぼそりとそう聞こえて振り返る。先輩がそのまま歩き去ろうとするので、思わずその腕を掴んだ。

「……何?」

「あ、えっと……えっと」

 よく考えていなかったので困って口を開閉する。そんな私を見て、先輩はため息をついた。

「やっぱりあなたには勝てない。本気出されたら無理ね」

「……え?」

「私たち、本当は初めましてじゃないの。少なくとも私は。あなたが中学1年生の冬のアンサンブルコンテスト。同じ日で、出番が終わって客席で見てたの」

「え、え……っ!?」

 同じ日、どこの学校があっただろう。思い出そうとするけれど記憶はよみがえってこない。別に有名なところじゃなかったからそんなものよ、と先輩が皮肉げに苦笑した。

「確かに技術は完璧じゃなかったかも。でも私はあの時初めてあんなに楽しそうに楽器を吹く人を見たの。トランペットが好きなんだって伝わってきた」

 過去の私は、そんなふうに映っていたのか。
 自分ではわからないものだ。嫌だとしか思っていなかった昔の自分だけれど、芽衣が言うように、悪いばかりではなかったのかもしれない。

「あの時からあなたの音が憧れで、中学の名前は知ってたから、きっとこのあたりで吹部が強い高校に行くんだろうと思った。同じところに行って、一緒に吹いてみたかった。……でも志望校に落ちたの。それで仕方なくここに来て。鬱憤を晴らすみたいに当たり散らした。でも、そうしたらまさか、あなたとここで会うなんて」

 私は吹部の強さなんて気にせず、知り合いと会わないことだけを考えて入ったから、本当に偶然だったのだろう。すごい巡り合わせだ。

「すごく驚いた。嬉しかった。だけど、あなたは様変わりしてた。ずっと俯いて、吹けないっていうじゃない。……腹が立ったの」

 先輩はひょいと肩を竦めた。

「まあ、そういうことよ。それだけのこと。だから、私も……これからはもう少し、周りを見るようにしようと思うわ」

 今度こそ通り過ぎようとする先輩の背に声をぶつける。

「……先輩。高校入ってからは、先輩が私の憧れでした!」

 驚いたように肩越しに振り返って、固まって。それから、ぎこちなく、ほんの少しだけ微笑む。

「明日から、またよろしくね」

 頷くと、先輩はくるりと踵を返した。
 

 それを暫く見守って、ぶんぶん、と頭を振る。

 とにかく今は休憩が終わる前に早く海ちゃんを見つけないと。

 今度こそ角を曲がる。部室棟の前のベンチに座っているのは、やっぱり海ちゃんだ。

「海ちゃん」

 声をかけると海ちゃんはゆっくり頭をもたげた。

「……ああ、りっちゃんか。どうしたの?」

 海ちゃんに自覚は無いのだろうけれど、その声のトーンでわかる。

「先輩がいたんだ?」

「そうだよ、よくわかったね」

「そこであったから、もしかしてって思って」

「なるほど、さすがりっちゃん」

 にこーっと笑う海ちゃんに、ぎゅっと心臓が痛くなる。

 やっぱり、私じゃダメなんだね。

「りっちゃん、ごめんけど休憩あんまないから、長話はできないんだけど……」

「うん、大丈夫。すぐ終わるから」

 私はブレザーのポケットに手を突っ込んだ。さっき来る前に急いで入れたものを確かめて取り出す。

「手、出して海ちゃん」

「えっ、うん?」

 淡々とした私に目を瞬かせながら、海ちゃんはそろりと手を出す。

 その上に、私はそれを載せた。

 手が震える。

「聴きに来て、海ちゃん。今年も」

 吹奏楽コンクールのチケット。

「私、ソロ吹くことになったんだ」

 は、と海ちゃんが目を見開いた。次いでそっと目を伏せる。私が失敗した時も聴きに来ていたから、ソロときいて不安がるのはわかる。

 私だって不安だ。不安しかない。……でも。

「あのね。私、海ちゃんのことが好き」

 自分が驚くくらい、何気なく。

 想いを告げた。

「好きだよ、海ちゃん」

 阿呆みたいに口を開ける海ちゃんに、畳み掛けるようにもう一度繰り返す。

「私じゃダメってわかってる。ダメだった、って」

「……そんな」

 何か言おうとした海ちゃんを手で制した。きっと優しい彼のことだ、何か慰めの言葉をかけてくれるつもりだったのだろう。

 幼馴染みとして。

「だけど、私変わるから。今まで自分のこと全然好きじゃなかった。自信なくて。嫌で。でも自分のことが好きって思えなきゃ、好きって思ってもらるはずないって……そんなの当たり前のことだったのに」

 でもそんなのもう、終わりだ。

「お願いだから、もう分からないふりだけはしないで。私、本気なの。これは、恋愛感情としての好きだから」

 胸を張って、この関係にさよならを告げよう。

「幼馴染みじゃやっぱり満足できなかった。これからは、ちゃんとそういう目で私を見てほしいの」

 海ちゃんが黙って私を見つめていた。首を縦にも横にも振らず、呆然と。

「じゃあ……きっと来てね。約束だよ、海ちゃん」

 反射的に伸ばされたような海ちゃんの手が空を切る。タイミングよく再開の笛の音が鳴る。

 躊躇うように握られた手を見て、私は踵を返して走った。

 勝手でごめん。迷惑かけてごめん。
 だけど、こんなにも好きなの。

 ずっと大切に抱えてきたものを紐解いて、すっきりとしていた。

 そのはずなのに涙が出るのは、どうしてなのだろう。拭っても拭っても、袖はいつまでも濡れる。視界が歪んで、涙は止まらない。

 今更怖くなって、歯がかちかちと鳴る。

 全てを喪うかもしれない。今度こそ、本当にだ。

 そういえば、あの日もこんな風に走りながら泣いていた。

 ……海ちゃんが、先輩を好きだと言った日。

 これまで何度も海ちゃんへの『好き』を諦めようとしてきたけれど、誤魔化そうとしてきたけれど。

 これでもう、どう転んでも終わりだ。

 そう思ったら、鼻がつんと痛くなって、また涙がこぼれた。



変わるもの、
変わらないもの





 カチ、カチ、カチ、とメトロノームが均等に時間を分けていく。
 そのリズムを聞きながら、私は拍子をとる。

「いち、に、さん」

 し、で全員一斉に息を吸う。

 ここが一番大事だ。同じようなタイミングで、同じように同じだけ息を吸わなければ一音目は合わない。

 6人。それだけの人数が合わせるのは、並大抵の事ではない。

 ……あ、誰か遅れた。

 そう思った瞬間、やっぱりアタックがバラついた。皆もわかったようでマウスピースから口を離す。呼吸が合わなかったらそれ以上続けても意味が無いから、また最初からだ。

「九重さん、ちょっとみんなより遅いよ。半拍の半分ぐらいだけど」

「はいっ、すみません」

「3rdは上の2つのパートより音低いから、遅れやすいから。もっと自分が思ってるよりテンポ速く感じるようにして」

「はいっ」

 早紀ちゃんの横で訥々と注意をしているのは、神崎先輩だ。

 先輩はソロオーディションの翌日から、またパート練に出てくれるようになった。それに、今では声を荒らげることなく、隣の早紀ちゃんに注意もしてくれている。

 私にきつく当たることも無くなった。というよりは、誰に対しても思ったことをそのままぶつけてくる事が無くなった……ような気がする。

 ともかく。

 1stは私、夏海ちゃん。2ndは南波、夕歩。3rdは神崎先輩、早紀ちゃん。やっと6人がちゃんと揃ったような気がする。それがとても嬉しい。

 私はメトロノームを止めて巻き直しながら、輪になって座ったトランペットのメンバーを見渡した。

「もう最後の合奏も終わったし、明日は本番だから今更大きく変えることなんてできないけど……でも、呼吸とか和音とかそういうのは自分が合わせようと思ったらいくらでも合わせれるし。その、なんて言うか……頑張ろうね」

「えらそーなこと言うなぁ」

「……うるさい」

 南波が茶化すようにそう言うから、べっと舌を出してやった。
 こいつは、あの後も結局変わらずに接してくる。頑張ってそうしているのかもしれないと思うから、私もそうすることにしている。

 でも南波が言う通り、我ながら随分偉そうなことを言っているなと思う。前だったら絶対に飲み込んでいた。

「でもでも、このメンバーならホント絶対うまくいく! ような気がします。ですよね、先輩?」

 大会までのこの数週間で随分打ち解けたように夕歩が神崎先輩の方を向く。

「まあ、人並み以上の結果は出て当然でしょ? 私と2年生3人、これだけ経験者がいるんだから、1年生2人分くらいカバーできなきゃダメ……」

「先輩ってほんと素直じゃないですよね。私わかってきましたよ。神崎先輩ってなんて言うか、素直になれなくてひねくれてるだけですよね」

「……ちょっと、何言ってるの、萩さん?」

 なぜか夕歩は先輩の扱いをすっかりマスターしたようだ。

 私は事情を知っても正直そんなにすぐには無理だけれど、顔を赤らめて夕歩に文句を言う先輩の顔を見ていたら、やっぱりそんなに悪い人じゃないのだろうと思う。私も、いつかはあのくらい仲良くなりたい。

「でも、ひとりで吹くより、3人で吹くより、6人で吹いたほうが絶対いい音するから、ね。吹奏楽ってそういうものだと思う。皆の音が混ざりあって、ハーモニーになってね、いやっ、もちろんカバーもするけど……!」

 先輩が言ったことを気にしてるかな、と1年生2人の方を見ながら言う。

「はい、先輩。それなんかちょっとわかってきました」

 そう夏海ちゃんが笑った。

「正直な事言うと……ええと、その……何本気になってるんだろう、って気持ちもあったんです。うちって別にそんな強くないし」

 じろっ、という神崎先輩の視線を受けながら、夏海ちゃんが続ける。

「……でも、そうじゃないですよね。結果も大事ですけど、過程が大事なんですよね。吹奏楽してて何を感じるか、とか、皆でひとつのものを作り上げる、ってことが、大事なんですよね。って、すみません! 偉そうなことを……!」

 しん、と部屋が静まる。でもそれは、皆どこか思い当たることがあるからこその静寂だった。

「いや、その通りだな。な? 東峰」

 やっぱり沈黙を破るのはへらりとした態度の南波。

「うん。ほんとその通りだと思う。ね、サボり魔の元幽霊部員さん?」

「まあ、それは……置いとこうぜ今は」

 あはは、と部屋が笑いに包まれる。

 6人、みんなが一緒に笑っている。こんな光景、全然想像できてなかった。

「ほんとに、よかった」

 ほんの些細なきっかけで、ほんの少しの勇気で、それだけで何かが変わって、予想もできなかった未来が広がっているのだと。

 私はひとり、噛み締めていた。


✱✱✱

 楽器を片付けていると、少し先に片付け終わった先輩が荷物を背負って帰ろうとしていた。視線を感じたので、とりあえず「さようなら」と挨拶をしたら、先輩は軽く頷きを返した。

 ……やっぱり私は、まだ先輩のことが少し苦手だ。

「東峰さん」

「は、はい」

「今日は真っ直ぐ帰って、早く寝るのよ。明日本番だし」

「はい……?」

 普通に話しかけられることなんか今まで無かったから、そんな風に話しかけられると身構えてしまう。それでも私にもできれば先輩と仲良くなりたいという気持ちはあるので、どうにか話を続けようと頭を捻る。

「あ、先輩は海ちゃ……伊集くんの所に寄って帰るんですか?」

「……はぁ……?」

 先輩の思いっきり怪訝そうな顔に気分を損ねたかと不安になるものの、もう言ってしまったものはどうしようもない。

「行かないわよ。行くわけないでしょ?」

「あ、です……よね。大会の前日ですもんね……」

「ち・が・う」

 どうやら気分を損ねたわけでは無いらしい。私たちはお互いに疑問符を浮かべて首を傾げた。

「何も聞いてないの? 伊集くんに」

 ……伊集くん? 海里くんって呼んでなかったっけ。

「はい、もう話してもないですし。ふつーに考えて、幼馴染みが夏休みにまで会ってるって変だと思いません?」

 へらりと笑う。それだけの言葉をどもらずに滑らかに言えたことに安堵する。……ほら、もう言える。大丈夫。

「まあ、それなら特に私から言うことでもないから」

 この人は自分の感情を隠すつもりがないだけなんだろうな。猫被るのはめっちゃ上手だし。不満げにきゅっと目を細めているのを見つつ、そんな風に思う。

「……私には、あなたたちは『ふつー』の幼馴染みには見えてなかったけど」

 じゃ、明日ね。と先輩が音楽室を出ていく。

 先輩が言っていることはほとんどよくわからなかったけれど。聞いてないの、ということは。

 ……まさか、付き合ってる、とか?

 ぱたん、と閉じた楽器ケースの金具を留める指が小刻みに震えているのに、私は気づかないフリをした。


✱✱✱

 吹奏楽コンクール県大会、当日。

 学校で音出しをして、軽くチューニングをして合わせるくらいの時間しかないのは毎年のこと。いつもの十倍くらいの速さで時間が過ぎていく。慌ただしい朝だ。

 午後の最後の方を運良く当てれば話は別だが、そんなことはなかなかない。今年も例に漏れず午後の2番を引き当てたけど、これはかなりましな方だ。

 バスで学校を出発し、会場に着き、音出し室を出てチューニング室へ。

 木管から始まって、順番が回ってくる。

 トップに座る自分から音程を合わせる。緊張で口が締まっているのだろう、いつもより少し高い。肩を上げ下げしたり唇を震わせてリラックスしようと試みながら、なんとかチューニングを終える。

 次に構えた夏海ちゃんの手が震えていた。きつく締まって潰れた音。いつもは出る高音がどうしても出ない。
 泣きそうな顔でマウスピースに口をつける。

 ……緊張、するよね。

 当たり前だ。まして彼女は初めてなのだから。

 コンクールは空気が違う。会場は人でごった返しているけれど、一歩踏み入れた途端にわかる、ぴんと張り詰めた空気がある。

 どれだけ合わなくても、時間は決まっている。その後金管のチューニングも終わり、基礎合奏が始まる。

 曲を合わせる前にこれをするのは、曲中の和音を取ったり、ブレスのタイミングを合わせたりする上でとても大切なのだけれど――

「……っ」

 出だしが合わない。呼吸が合わない。和音が濁る。

 ……絶対、上手くいくのに。

 皆がひとつになって、ひとつのものをつくりあげようとしている。私たちにはそんな雰囲気がずっとあった。

 きっと私たちのソロオーディションも皆の気持ちを変えたのだと思う。

 そっか……だからこそ、緊張するんだ。

 がた、と椅子がずれた音で、自分が立ち上がったのだとわかった。そのくらい無意識だった。

「すみません、ちょっと、いいですか……」

 さあっと血の気が引くのを感じながら、どうにか口を動かす。

「おねがいします、きいてください」

 ……もう仕方ない、なるようになれ。

 南波の視線も、夕歩の視線も、神崎先輩の視線も感じる。色々な人のおかげで、私は変われたのだ。

「私、途中から入ってきて。それなのに、偉そうなこと言うのは……とは……思うんですけど」

 臆病で卑屈な自分が出てきそうになるけれど、どうにか押しとどめる。

「私、すごく不甲斐なくて……でも、皆が助けてくれました。私は、こうして一緒に吹いてくれる皆が好きです。私たち吹奏楽部は、誰一人欠けちゃ駄目で、それぞれに役割があって――」

 私は、やっぱり吹奏楽が好きだ。トランペットをやめなくて本当に良かった。

 吹奏楽部を引退しても、これからもきっとうまくやっていける。そう思えたから。

「だから、本番でも、皆で……悔いのない演奏をしたいです。緊張とか吹き飛ばして、全力で……っ」

 恐る恐る見渡した顔は、どれもにこやかで。

 もしかしたら情けない顔をする私を見て緊張が緩んだのかもしれない。「終わりです。舞台袖に移動します」と誘導の人が来た時には、幾分か肩の力が抜けているように見えた。


✱✱✱

 前の学校の演奏が聞こえる。もう自由曲に入っているから、あと少しで、私たちの番。

 やっぱきんちょうする、と呟きながら、早紀ちゃんが音を立てないようにつま先で足踏みをしている。

「楽器冷えるとチューニング変わるから、息入れて楽器あっためといてね」

 こくこくと頷き、早紀ちゃんと夏海ちゃんがふーっと息を入れる。

 私はこういう時にソロの指とかをシュミレーションすると、大体緊張やら何やらで飛んでしまう質なので、それはしないでおく。

 譜面を確認。それから息を入れながらぱたぱたとピストンを押す。うん。大丈夫だ。楽器はどうしたものか本番前になると突然ご機嫌斜めになったりするので怖い。

 かしゃん! と控えめながら金属音がして、肩をそびやかす。

「……悪い」

 顎を引いて南波が謝った。貯まった水を出そうと管を抜いて手元が狂ったらしい。南波でも多少は緊張してるんだなと思うと少し可笑しい。

 背中に軽く衝撃を感じて振り返ると、夕歩が頭を押し付けていた。

「ばか、梨花子」

 ずっ、と鼻をすする音が聞こえてぎょっとして、つられるように鼻の奥がつんとする。

「ほんと、もう、好き勝手言って……泣かさないでよね。吹けなくなったらどーすんの」

「夕歩」

「……さっきの梨花子が言ったやつ、嬉しかった。皆でやってるって感じがしてさ」

「なーに、最後みたいな雰囲気出して。まだ終わるって決まったわけじゃないと思うけど?」

 にっと笑うと、夕歩が目を擦ってにやっと笑い返してきた。

「……そうだね、もしかしたらもしかするかもしれない気もしてきた」

 暗くても、私たちはお互いの目の中にお互いが映っているのがわかっていた。それが何より頼もしくて。

「がんばろ!」

「うん!」

 笑って拳をぶつけ合う。それだけでふっと肩が軽くなった気がした。

「はい、どうぞー」

 スタッフさんのその合図で、3rdの端、トランペットの先頭に立つ神崎先輩がステージに出ていく。ひとり、ひとりと舞台袖から出ていく。

 私もステージに足を踏み出した。

 まだ薄暗い中を歩く。よく見えないせいか自分の足音が異様に大きく聞こえる。

 前の方に座る、結果発表を待っているどこかの高校の生徒たちの視線が刺さる。

 祈るように握られた手に胸が苦しくなって、そっと目を逸らす。
 彼女たちには悪いけれど、そう簡単に失敗してはあげられない。

 楽器を持つ手が汗で滑る。誤魔化すように服でぐいと強く拭った。

 席につく。譜面の高さを調節しようと伸ばした手が震えていた。

 全員が席に着いたと同時に、ぱっと照明がつく。いつも聞く声で学校の名前と曲名が読み上げられる。

 けれど、もうそれも遠く、聞こえない。

 どくどくと早く鐘を打つ、心臓の音だけが耳の奥で鳴っている。

 先生が指揮台に立った。

 挙げられた手はお世辞にも指揮に慣れているようには見えないけれど、優しそうに微笑んだ顔は、私たちに「大丈夫」と言ってくれているようだった。

 先生が余拍を振る。

 揃うブレスの音。

 指揮棒が空中に一拍目を叩く瞬間、空気が張り詰めて爆発する。

 ――私たちの12分間が始まった。
 課題曲はⅣ。マーチだ。マーチを選ぶ学校は多い。メロディ、ベース、オブリガード、リズムなどの役割分担がはっきり分かれているので練習がしやすいし、テンポの変化や転調も少ないので演奏しやすいと思われているからだ。

 ただ、本当はそればかりではない。決まりきっているからこそ、表現すること、アピールするそとが難しい。

 トロンボーンの表拍に、ホルンが裏拍を刻む。

 低音のベースと中低音のオブリガートを聞きながら、それを崩さないようにそっと、かつ大胆に高らかにメロディを歌い上げるのがトランペットの役目だ。

 最後のファンファーレのリリースまで丁寧に。でも自由曲の余力も残しておかなければいけないから、ペース配分も大事だ。

 ジャン! と最後の和音が響く。

 ここまで大きなミスはない……と思う。唇を離してふぅっと小さく息をつく。

 いよいよ、私の出番だ。

 席移動が終わって、先生が深呼吸して静かに肩を落としたのがわかった。すっ、とこちらに手のひらが差し出される。

 楽器を構えて、目を閉じる。

 長く息を吐き、深く吸う。
 不安、期待、皆の気持ちも、全部。

 ゆっくりと目を開けた時、まるで運命のように、絡んだ……視線。

 どうしてか、海ちゃんの姿がひとりだけ、くっきりと見えて。

 優しく、微笑んだのがわかった。
 その瞬間、しつこくこびりついていた最後の不安が消え去った。

 ――さあ、想いの丈を伝えるなら、今。

 びっくりするくらいたくさんの息が注ぎ込まれて、びりびりと楽器が震える。

 音が弾けて、目が眩んだ。


 ……お願い。
 私の声を、きっと届けて。

 あらん限りのこの声を。


 一度目のフレーズのあと、もう一度同じフレーズが繰り返される。今度は、包み込むような伴奏も。

 夕歩の音も、南波の音も、先輩の音も……皆の音が、一緒にいる。

 私は、ひとりじゃない。いつもそばに誰かがいた。今ならそれがわかる。
 そのことにどうしようもなく胸が熱くなって、私はまた、深く息を吸った。


✱✱✱

 まあ、そんな人生上手くいくもんじゃない。

「でもさぁ、金賞ってすごくない? っと、よし、これで終わりーっと」

 夕歩が最後のティンパニを音楽室に運び入れて、ぱんぱんと手を払った。

「うん……だけど、なんだろうね、なんか金賞だと……こう、むしろ期待しちゃうっていうか」

「わかる。『推薦団体を発表します』のやつでしょ? まさかあれをドキドキして待つことになるとは思ってなかったよ」

「まーさすがに、そんな漫画みたいなこと起こんなかったね」

「私からしたら、金賞も充分夢みたいなんだけどね」

 へへっ、と夕歩が笑う。

「でも何賞でも皆でとれたってことが嬉しいなあ、私は。代表は……そうだねえ、後輩たちにでも託そうか」

「うん……」

 不完全燃焼感はない。やり切った。最高の演奏だった。

 ……はず。

「おい」

 突然腕を掴まれてびくりとする。目を見開いて振り返ると南波がいつものように怠そうに立っていた。

「えっ、ちょっ」

 制止しようと試みるも、ぐい、と強く腕を引かれる。助けを求めるように夕歩を見たけど、困ったように笑って手を振ってきただけだった。

 屋上のドアが勢いよく開け放たれる。

 吹き付ける風に思わず気持ち良く目を細めながら、ぶんぶんと頭を振った。

「ちょっと、なんでこんなとこ連れてくるの? もう夜だし、片付け終わったし、私も今日くらい早く帰りたい……」

「わかってんだよそんなことは。でも今日言いたいんだよ!」

 珍しく声を荒げる南波に身を引く。ちょっとだけでいいから、と言う南波に私は頷くしかなかった。

 その切羽詰まったような表情が、いつかの私と被って見えた。

「……約束破るのは、今回だけだからさ」

「約束?」

「そ。ソロオーディションの前にしただろ。俺が勝ったら」

「『聞いて欲しいことがある』、だっけ。……いいよ別にそのくらい」

 そう言うと南波はくしゃりと笑った。さんきゅ、と呟いたような気もしたけど、気のせいかもしれない。

「俺、まあ見ての通り、適当なことばっか言って適当なことばっかして過ごしてきた。吹奏楽も姉貴に唆されて入ったけど、面倒臭いばっかで別に面白くねぇし。辞めるのも面倒だし、ここでも適当に手ぇ抜いてそこそこで過ごすか、って思って」

「適当なことばっかっていうか……ぐさっとくること言うだけだよ、南波は」

「適当なことばっか言ってんだよ。相手が気にしてるんだろうってことをわざと選んで。自分がろくでもない人間なのはわかってた。そのくせ、それを指摘されるのは嫌だった。……先に攻撃すれば、色々言われずに済むだろ」

 南波が首を振る。

「ほら、吹奏楽なんて少々バレねぇじゃん。一人くらいまともに吹いてなくても。むしろ俺みたいに向いてんじゃねえの、って。俺だけじゃない。ほとんど多分そんな奴ばっかりだった。けど、お前は違った。うざいぐらい一生懸命でさ。それが、好きだったんだ。最初のきっかけはそれだった」

 一瞬耳を疑ってから、はっと我に返って笑う。ぎこちなくなってしまったのが恥ずかしい。

 やけに真剣に聞こえはしたけれど……だって、そんなはず。

「……それは、その、普通に……だよね?」

「そう」

「だよね、はは、ちょっと勘違いしちゃった」

「勘違いじゃねぇよ。普通に、好きだ、って言ってんだけど」

 南波が一歩、こちらに近づいた。

「悪かった。今のお前をつまんねえとか言って。俺の理想ばっかり押し付けて。だから……こんな俺が、いう資格なんか本当は無いのかもしれねぇけど」

 見たことのないくらいに、澄んだ真っ直ぐな目で。

「焦ってる顔とか、怒ってる顔とか、泣きそうな顔とか、情けない顔とか。お前のいろんな顔見て……なんて言ったらいいんだろうなぁ……なんかさぁ、めちゃくちゃ人間臭いなあって思って。今まで好きだったはずの強いと思ってたお前も好きだけど、今のちょっと頼りないお前も好きになって」

 びゅうっと風が吹く。頬を叩く。
 でもどれだけ風が強くても、もう目を背けられなかった。

「……東峰。お前のことが、ますます好きになってくんだよ。すぐ悩むお前も、すぐ卑屈になるお前も、本当は言いたいことをいっぱい抱えてるお前も、強くて弱いお前も、全部好きだ」

「そ、れは……」

 思考が追いつかない。

「え……その、ま、待って。私たちそういうのじゃなかったじゃん。突然……」

 じゃ、なかったのか。

 私のことを、ずっと見ていたのだ。だから私は南波のことが苦手だったのかもしれない。いつも、誰よりちゃんと見られていたから。だから……怖かったのだ。

 今更のように、ぼっ、と顔が火照る。

「俺にしとけばいい。伊集のことで辛そうな顔するなら、俺にしとけよ」

「……こ、こまる」

 これだけ想いを伝えてくれている相手にどうにか絞り出した言葉がこれとは、我ながら酷いと思った。けれど南波は気にした様子もなく首を傾ける。

「俺でいいじゃん。今は好きじゃなくてもいい。伊集のことが好きなままでいい。そんなすぐ気持ち変わんないのはわかってるし」

「……違うの。そうじゃなくて、私は」

 どうしても、どうしようもなく、しつこく私の胸を締め付けるのは、ずっとそばで見てきた、あの優しい笑顔への恋心で。

「海ちゃんだから、好きになったの」

 言ってしまってからハッとする。

 告白されている人の前で他の人に対する恋心を吐露するなんて、もしかしなくても最低な行為では。

「ごっ、ごめん、なさい……」

 はーっという深いため息に恐る恐る南波の方を見ると、やれやれとでも言いたそうに肩を竦めていた。

「やっぱ好きだなぁ。伊集を好きって言ってるお前も好きなんだから、どうしようもねえわ」

 そんなに真っ直ぐ言われたら、流石にどうしようもなく顔が赤くなる。言われる方が恥ずかしい。

「あーあ、俺、死ぬほどかっこわりーな。元々オーディションで勝っていうつもりだったけど、それも負けて。約束破ってまで告って、挙句あっさりフラれるとか。やっぱ付け焼き刃じゃダメか。今までのツケが回って来たんだな」

「……別に、南波が悪いわけじゃ……」

「おい、もっと悩めよ。そのくらいしてくれていいだろ」

 普段とのギャップに眩暈がする。

「けどま、諦めたわけじゃねえから。俺もすぐ追いつく。そん時はフったこと後悔させてやる」

 ったく、と一瞬で普段の調子に戻って、悪態をつきながら南波はこちらに腕を突き出した。唐突に目の前にスマホを出されて目を白黒させる。

 開かれているのはメッセージアプリの画面だ。画面の上には『kairi』とある。

《今、東峰と屋上》

「はっ? 海ちゃん!?」

「伊集のことになるとこれだからなあ。なに、お前メールとかも何も交換してねぇの?」

「……してない。要らなかったから。だって毎日会うし、何か用事あったら窓から叫べばよかったし。てかなんで南波が海ちゃんとやり取りしてんの……?」

「なんでもなにも普通に。そこそこ仲良いっつったじゃん」

 言いながら南波が新しく打ち込む。

《早くしないとどうなっても知らねえけど》
《お前が俺は告ったからな》

「いや、うん……いやいやそうじゃなくて、何送ってんの!」

 ついさっき告白された人だということもすっかり頭から飛んで力一杯襟首を掴むと、南波はぐるりと目を回した。

「元からこういう予定だったから?」

 そのまま画面を見ていると、パッと『既読』がつく。

「わああもうっ、やっぱいっつもよく分かんないことばっかする!」

「あーあーそうだよ! 俺も自分で自分がわかんねぇよ! お前が目の前にいると色々言いたくなるし! 突っかかりたくなるし! 今だって……好きな人の恋路応援するようなことしてやってるし!」

 そっと手を離す。もちろん南波の剣幕に圧されたわけじゃない。

「ごめん」

「本当しょうがないな、お前らは。……伊集とちゃんと話してこいよ」

「……ごめん」

 いや、違う。

「ありがとう」

 私よりずっと辛いのは南波のくせに。私に、いつもみたいにへらりと笑ってくれた。

「――りっちゃん!」

 グランドから大きな声がする。

「りっちゃーん! いるんでしょー!」

「……海ちゃん」

 そっとグランドを見下ろす。もうライトに照らされた暗いグランドで、こちらに向かって大きく手を振っている人影がある。

「なんで……」

「呼んでんだろ。行ってこいよ、ほら」

 どん、と強く背中を押されて、一歩踏み出してしまえば、もう足は止まらなかった。

 まるで振り向くな、と言われているみたいだ。

 鼻を啜ったような音が聞こえたのには、気づかないフリをした。