今を生きてい「く」うえで、やらなければならないことはたくさんあるけれど、今を生きてい「る」上でやらなければいけないことなんて一つもない。だから、そんな二種類の人間をひっくるめて、明日は「くる」のだと思う。

「うーん。20点です。」
「それは何点満点中か聞いても?」
「100点満点です。」
「手厳しい。」
 修行が足りませんね。と明朗に笑う隣の少女に、思わず笑みがこぼれる。筈もなくいやいや君がさせたんだろうに、と呆けた。
 惨敗、完敗、こうやって今僕が恥ずかしいポエムを彼女に発表しているのも今日と同じ雨の日に慢心して太陽に勝負を挑んだ、北風の落ち度だ。
 大敗に喫する。勝負にあそこまで差をつけられて負けるとき、人は敗北にこんな名前を付けるんだろう。
 結果は彼女が満点で僕は赤点ぎりぎりの及第点。すさまじい点差をつけられたというのにあの時は少しでも勝てる、と思い込んでしまっていた自分が烏滸がましい。いや、確かにあの時はこの調子でいけば勝てる、と思っていた。でも後日どれだけ勉強しても、彼女の言葉を思い出しても僕がそれ以上成長することは無かった。結局、お情け程度の漢字問題と、選択問題、其れから読解問題の部分点でギリギリ事なきを得た。一方彼女は、基礎も応用も、僕の教えてない発展問題すらも乗り越えて満点。数学の点数勝負を提案したところで辛酸をなめていたのは言うまでもない。
 加えて、テストが返されると彼女は言った。
『須藤さんのおかげです』
 なんて虹色のシャボン玉を出しながら。窓から差し込む日差しに反射して光るその七色の虹に、折れていた骨が疼きだして、あっっという間に負け犬根性が顔を出した。別に、負けてもよかったんじゃないかと。ノートにいそいそと何かを書く彼女を見ながら、負けるが勝ちという言葉にあやかろうと思った。
 だから彼女の労いの言葉のおかげですっかり罰ゲームのことなんて忘れて悦に浸っていた。勿論現実はそんなに甘くはなく、忘れたころに彼女が口を開いたのは今でも記憶に新しく感じる。
「ポエムを書いて下さい。」と言われたときは、は?と鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていたと思う。再三ポエム?と聞く僕に彼女はハイ、といい返事をした。
「私が教えたのにもかかわらず、その点数はあまりにも低いです。低すぎます!」
 国語力の向上を図るためにポエムを書いてください、って。
 前者は納得がいくし反省もしているけど、だからってその手段がポエムというのは、余りにもひどすぎると思う。
 それを言えたらどれだけ楽かとも思ったけれど、口には出さなかった。いや、出せなかった。
 あれだけ教えてもらったのにもかかわらずこの点数をとったのは責められても仕方ないと思うので文句なぞ出てくるはずもなく、目の前で、少しだけの親しみと喜びのシャボン玉を出す少女に面と向かっては何も言えなかった。
 近況の変化は毎日の罰ゲームだけにとどまらず、シャボン玉にも表れた。
 今まで一つしか見えていなかった色が、二つに分かれるようになった。
 どうしてなのかと問われれば確固たる答えは持ち合わせていないし、これがどういった意味を持つのかもまだ容量をつかめてはいないが、間違いなくこのことは僕にとっては大きな成長だった。今、ガラガラのバスに揺られながら隣に座る彼女からも二つの色が見て取れる。
 この奇怪な変化を通して一番驚いたのは、クラスメイトについて。彼らが僕を皮肉を込めた愛称で呼ぶときは、嘲りだけではなく少しの親しみを込めているという事。きっと嘲りだけ見えていたのは、僕がそういう風に見たかったからなんだと思う。だから汚いと思っていた誰も彼ものシャボンの澱も、聊か晴れていた。少しだけこの事実に触れたとき、心の奥底で燻ぶっていた毒は面白いように薄まって、代わりに触るとこの上なく恥ずかしい気持ちになる何かが生まれた。その度に、頭を抑えたり抑えなかったりと大変だけれど、不思議と嫌な気分になることを拒む自分がいた。あれだけ本能に虚しくこびりついていた癖は、少しずつ少しずつ剥がれていくのを最近になって顕著に感じる。夢も見ない。それに、脊髄に根付いた腕が上がらないようになってしまった。クラスメイトや彼女の言葉に対する行動を一々判断するのは面倒で堪らない。にもかかわらず不思議と、何も考えずに頭を抑える自分に戻りたいとも思わなかった。
 そんなこんなで、新しく芽吹く花にまだきちんと折り合いのつけられないまま夏休みは始まって、どうしてか僕は今バスに揺られている。
 どうして、か。
 きっかけは、あの雨の日に彼女とメールアドレスを交換したという些細なことから初まる。面倒が嫌いなので選んだ、連絡手段を電話とメールの二種類しか搭載していない携帯を見せたときは、彼女がよくわからないどこかの諸島の名目を口にして絶句していた。その後に、彼女の方から宜しくの旨のメールが送られてきて、無視することは出来たがしなかった。渋々返信したその瞬間から、もう詰みになっていることなんて知らずに能能と「よろしく。」と無機質に返した。
 其れからは簡単な話。夏休みの間の恥ずかしいポエムチェックは死んでもメールにして送りたくはなかったのでその旨をメールで伝えると、すぐに見当はずれな画像が送られてきた。
 そこには、よくあるデパートの福引の広告と良くは見たことのない色の玉。一枚目の福引の広告と、その球を照らし合わせて、驚愕の波に押しやられた瞬間にピコンと新しいメールが届いた。
 海を見に行きましょう!
 と、簡単な一文になんの悪びれもない絵文字を同封して。
 その文面が送られてきたときは、家にいるのにまるで彼女のシャボン玉が周りに漂っているみたいな気持ちになった。正直に言うと、最初は断ろうと思った。ペアチケットなんて、この先一生縁のないものだと敬遠していたしそもそも僕と行く理由なんてないだろうと感づいたから。でも、それじゃあ確認はどうやってするんですか。と言われてしまった時の程よい答えは、生憎持ち合わせていなかった。
 全ての落ち度は、僕にあるのだ。詰将棋のように気づいた時には、もう王手を取られていた。投了する以外の選択肢はなかった。
だから、返答に答えあぐねていた僕に何回もなる着信音が後押しして渋々頭を縦に振ってしまったのは言うまでもなく、今こうしてバスにゆらゆら揺られているのも口にするまでもない。
 ありもしない面目を保つために此処にいる言い訳を反芻させて何とかひねり出す自分がいる反面で、別にいいか。と窓に張り付いて外を見ている彼女を横目に開きなおっている自分もいた。
 どうせ乗りかかった船だ、日和っていても仕方ない。来てしまったからには、楽しまなければ。もう半ばヤケクソで僕がガラガラの席の中彼女の隣に座っていることも彼女はきっと知らないだろう。
 それにしても。
「運がいいんだね。」
「君から写真を送ってこられたとき、目を疑ったよ。」
 福引や、宝くじ、その類で一度も日の目を見たことがない人間からしてみれば彼女の引き当てた確率はほぼ、0に等しい。ので、称賛とちょっとばかりの鎌をかけた。鎌の穂先が短いのは変に納得していたから。僕や周りのクラスメイトならまだしも、神に愛され給うた少女のことだ。仮に宝くじが当たっても、驚くほどのことでもない。
「嘘じゃないですよ。」
 彼女は、その手にギフト券をひらひらさせながらにこやかに笑っている。
 ビクッと、全身の毛が逆立った。
 どうやら見透かされていたみたいで、バツが悪くなって頭を掻く。
「それに。」
 彼女が続ける。
「そんなこと、無いです。私は、運が飛び切り悪い方です。」
 てっきり、肯定的な賛同が得られると思っていたから彼女の返答は意外だった。急に何時かの彼女のように表情が陰るのを目で見るとまた僕は何か踏んでしまったか、と焦燥に駆られる。周りには、何でもないようなシャボン玉とその中に少しだけ悲しい色をしたシャボン玉が漂っていた。
 その陰りをうやむやに消すと、すぐにまた彼女は笑った。
「それより、須藤さんの考えた恥ずかしいポエムを早く見せてくださいよ。」
「恥ずかしいって…。誰がやらせたんだか。」
「嘘ですよ。半分。半分嘘です。」
「残りの半分は?」
「秘密です。この世界には知らないほうがいいこともあるんですよ。」
 しぃー、と人差し指を立てると、二人でくすクスと笑った。
 そうだ。
 この世界には、知らないほうが幸せなことなんてごまんとある。だから今は目を瞑ることにして、恥ずかしいポエム発表会に花を咲かせることにした。目を瞑ったところには、陽があたらず花が芽吹くことなどないことも知らずに。

「それで、次のものは。」
 案の定「恥ずかしい」ポエム達は、とてもとても人には見せられない今までの国語のテストみたいな点数を彼女から頂戴し海の底に沈んでいった。全部合わせても、100点には到底届かない僕の可愛いかわいい子供たちは悲痛の声を漏らしながら背に無能の十字架を刻まれていく。
 ごめんよ。
 謝罪の中には、その子供たちにあまり胸が痛まないことへの手向けも含まれている。
 彼女の質問に最後に残った子供が、僕には重荷だ、と音を上げる。
 関係ない。作ったものは作ったのだからしっかり彼女には見てもらわないと。
 ん?と、今か今かと端を発するのを待ちわびているこの騒動の元凶に僕は終止符を打った。

 苦労していないと、思われることが一番の苦労だ。

 言い切って、籠った息をバス内にふぅっと吐き出した。特に思い入れはないけどこのポエムには、記憶に新しい情報が添付してあって口にすると、あぁ成程と顎に手を置きたい気分になる。
 僕は彼女と同じくらい、よく笑う。正確には、彼女と同種の笑いを浮かべるなんて口が裂けても言わないが、それでも大体の人間には快いと思われる笑みを浮かべることができる。
 無論いつでも。最近になってからは恥ずかしい話、転校生のほとんどに時間をハイジャックされているからその無機質な笑みが顔を出すことは少なくなっていたけれどそれでもまだ機会が完全になくなったわけじゃない。彼女がいないところで、まだこびり付いた本能の一つは息巻いている。そして、偶然が重なってこの顔をする時決まって誰かが言ったり思ったりする。 
 苦労が何もなさそうな笑みで、羨ましいと。
 全くもう的外れなその言葉は、球体に乗って僕に届いてくる度に沸々と怒りが湧いてくる。一体誰のおかげでこの笑顔が身に着いたと思っているんだ、と。 
 紛れもなく、君たちへの苦労のおかげだ。だから、そう思われることがどれだけ痛ましいことか。しっかりとものを考えて何度も反芻させ本当にその言葉が正しいのかどうか確かめてから物事の本質をとらえてほしいと心底願う。こちらはこれでも傷つかないように必死なのに。
 自分でも疎ましく思う、小鹿ほどの心はおおきくなったとて大差はない。僕は、まだ心の奥底に怖さを隠している。
「これは、貴方のことですか。」
 何時もは、直ぐに見るに堪えない点数をつけて次、と流すのに今回のに限って彼女の採点は一向に終わりの兆しを見せない。
 他のものと、変わらないように悟られないように織り交ぜたこの本心は決して誰にも気づかれることは無いだろうと侮っていたので、いきなり虚を突かれて僕は本当を言うべきかどうか、考えあぐねていた。
 肝心な時になると、何時も出まかせすら口から出てこない僕の代わりに何時もは彼女が端を発するので今回も活路を見出してくれるだろう、と待っていても何にもなかった。
 まただ。また君はその真っすぐな、なんの曇りもない目で見つめてくる。
 心配なのか、訝しいのか、苛立っているのか、悲しいのか。
 それは分からない。
 この表情をするとき彼女は、決まってシャボン玉を出さないから。
 そしてその真っすぐが、バス内にはびこる雨の日独特のジメジメと合体すると僕にまとわりついてきて、とうとう僕は逃げ場をなくした。
「そうだよ。」
 降参して、肯定の意を紡ごうとしたところで空気を読んでか読まずかは知らず、バスは空き切った室内によく聞こえる声で、目的地への到着を伝えた。
 一瞬で。
 その言葉を聞いた途端に彼女は、もう僕への興味を外界に移して
「ほら、付きましたよ。」
 と立ち上がって荷物を下ろすと、レインコートに着替え始めた。
 思っていたよりあっという間の到着に嬉しいのか悲しいのかよく分からなくなったから、言いようのない気持ちは噛み砕くのをやめ下の奥の方で転がして、大人しく外に出る準備をすることにした。
 さっきの続きは、また帰りにでもすればいい。
 言いかけた彼女の言葉と、その時のまなざしは忘れることにしよう。
 旅は道連れ世は情けとはよく言ったものだ。僕は少しの悲しさも同情も、せっかくなら旅に同伴させて欲しくはなかったので、彼女のアスリート顔負けの転身がむしろありがたいと欣喜雀躍した。

 準備を完了させると、彼女が申し訳なさそうにリュックを預けてくる。
 その服装だと携行品はびしょびしょになるだろうし仕方ない。
 彼女の荷物係を渋々承諾すると僕らは外に出た。
 バスから出るともうそこにはいつもの日常とは別世界が広がっている。
 少しだけ、ぎこちなく一歩を踏み出すと、ペトリコールに鼻孔をくすぐられる。遠出しても、仮にパスポートのいる外国に行ったとしてもこの雨のにおいは、変わらない。すぅーっと、深呼吸して雨を取り込むと彼女を見やった。
 顔までかぶったピンクのレインコートにその身を包み、濡れてもいいように靴の代わりにはサンダルを履いている。一見すれば浜辺でビーチバレーでもしそうな特異な服装に、異を唱える人間はいない。
 バスガイドが僕と彼女を含めて片手に収まる程の観光客に再集合の時間を告げると、晴れて解散、帰りまでは自由時間に入った。
 片手に収まる。それもそのはずで、彼女の当選したチケットは今日のものと一週間先のもの、二日の中から選んで参加できる仕様になっていた。旅行に晴れはつきもので、夏休みの予定も折悪しく無い僕からしてみれば正直後日のほうが嬉しかったし、ほとんどの人は僕とおんなじ考えだったのが今この場にいる人数を見ればよくわかる。
 晴れさえすれば、旅行会社のプラン通りこれから帰るまでの予定は確立されていた。でも、雨が降った今日はプランもなく最初から最後まで完全に客丸投げの自由行動。僕一人なら、近場の図書館か喫茶店を探して、再集合まで本でも読んで時間を潰すくらいだ。
 僕は晴れの日でもよかったのだけれど彼女は、望んで雨の日を選んだ。天気予報の画像と、かわいらしい絵文字を携えて今日にしましょうと。別に彼女も予定があるからとかではないと思う。それが、この場所で自由行動が出来るところから来るものか雨の日だからかと問われれば間違い無く後者だろうけど。本音を言ってしまえば、晴れの日が良かった。最近彼女の隣にいて、やっと気づいたことが一つある。それは彼女が虹色を出すのは、決まって晴れの日だけということ。今回彼女の招待に重たい腰を上げたのは、夏休みに入って久しぶりに無垢な七色を拝見したい、という目的もあった。
 もしも理由の一つにこの唐変木に気を使って、今日を選んでいたらと思うと善意が錯綜しているように感じる。虹のことに勘づいてからは、彼女がいるなら僕は晴れの日が別に嫌いではないから。いないのならば絶対にごめんだが、もし隣にいてくれるのならば僕は陽に照らされても少しだけ前を向くことが出来る。そうして気持ちの悪いドロドロも鳴りを潜めてくれる。
 本当なら雲一つない晴天でも嫌な顔はしなかった。
 快晴の中視界を簒奪する様々な人間のシャボン玉の中で、一際存在感を醸し出す虹。それを道しるべに彼女の後を追っても楽しいのかもしれない。
 まぁ、今か今かと少し前の方で僕を待ちわびている雨の似つかわしくない少女が視界に入るともう、そんなこともどうでもよくなるんだけど。まっさらな一日に、もう彼女なりの予定をびっしり詰めている様子を見ると、少女にまっさらな一日を振り回されるのも悪くはないかな、と心の奥に高揚感が生まれた。
 今彼女に向かってしたやれやれは、建前。
 やったことがないからわからないけど、ちょうどバンジージャンプで思わず目を瞑るのに似ている。早く行きましょう。と、手を引く太陽にどこまでも高まっていく気持ちが急に怖くなって久々に僕は自分に、嘘をついた。
 頭を抑えて、後を追うと
「気圧が低いと、痛くなりますよね。」
 と歩を緩めてくれるのを見てまた、胸が痛んだ。

「今日のご予定は?」
「秘密です!」
 さいで。事前に云っておいてくれた方が反応にも困らないしありがたいけど、今日の主催者がそういうのだ。これ以上の詮索は藪蛇なのでやめておくことにした。
 県と県を橋で繋ぐ中継地点に存在するこの島は、僕らの住んでいる場所と比べて幾分か小さい。だから、決して視界が良好なわけではないのに必ず四方のどこかしらに海を感じるこの島を、彼女はどうやって切り崩していくのか、より楽しみになってくる。
 島の端に降ろされた僕たちは、少し行けば海を見ることなど容易いのに彼女はその真反対、島の内側に向かっている。
 神以て、彼女の行き先は思慮の乏しい僕には到底わかるものではない。
 それなのに不安な気持ちがどこにも生まれないのは、少し前で一心に雨を受け、楽しそうにしている彼女がいることが大きい。時々立ち止って、レインコートで覆いきれない顔の部分を天に向け野ざらしにして、ふふっ、と目を瞑る。もうそのまま一生動かないんじゃないかと思って立ち止れば、また歩き出す。一連の動作が板についてきたので、僕も彼女に倣ってほんのちょっぴり傘をずらしてみる。彼女の荷物は濡らさないように。
 思いもよらない冷たさに声が漏れる。夏場でも、頬に伝う雨雫はこうも涼しくて気持ちいいのか。地理で習った知識を存分に発揮しても、瀬戸内海の夏場の気温は地元とそんなに変わらないはず。だとしたら雨にも、海から作られてから気持ちよく感じられる鮮度みたいなものがあるのかもしれない。そんな潜水艦よりも下らないことで頭をいっぱいにして誤魔化そうとしても、声を聞きつけた彼女が許してくれるはずはなく、チャレンジャーですね、と雨に向けた笑顔を僕にも向けた。言い訳をしても、逃れられないことは言うまでもないので今回ばかりは正直に、君に倣ってみたんだと言ったら、まぁ、と片手で口を抑えて嬉しそうにしてくれた。
 それから彼女は、歩を緩めて僕と肩を並べる。
「雨粒も、やっぱり悪いものじゃないですよね。」
 顔をビショビショに濡らして言われると、説得力がある。
 風邪をひかれたらたまったものではないのでたまたま、ポケットに忍ばせていたハンカチを取り出して彼女に渡す。
「ありがとうございます。」
「悪いものではないけど、たまにでいいかな。風邪ひいたらたまらないし。」
 感謝を伝える彼女を真っすぐに捕らえることは出来ず、何時かと同じ少し後ろの方の頭を撫でる。
「でも私、風邪をひいたことは無いですよ。」
「それは、なんたらはなんたらしないっていうやつじゃ。」
「私は馬鹿じゃないです!」
 もう、とそんな感じでからかったりからかわれたりを繰り返していると、不意に彼女はサンダルを水浸しにするよどみを、気にもせず曲がり角まで走っていった。
 そして、どこかにかけていってしまうのかと思えば立ち止って
「須藤さん。お腹はすきませんか。」
 謂われて、確かにとお腹をさする。公道を歩いてから、まだ一日の1/24ほどしか経っていないのにもう少しで限界だと音を上げる空腹機関を励ますと、確かに短針は昼下がりを指していた。
「お待たせしました。ここで食事にしましょう。」
 足早に彼女のもとへ、辿った道をなるべくなぞることのないように向かうと、指さす先交差点の曲がり角にはポツンと魔法でもかけられてこの世に現れたような、こじゃれた店があった。
「狙ってた?」
「さぁ、どうでしょうか。」
 いきなり現れた彼女のお目当てのものに、甲斐のない質問をする。
 本当は知っている。彼女が可愛らしい、靴とは呼べない代物を雫で濡らすたびにシャボン玉は嵩を大きくしていき、彼女が交差点にかけていったときには爆発寸前の最高潮に達していたことを。今ばかりは、折角の彼女の贅沢なプランを見透かすこの視界が、彼女のとても綺麗にまるでこの世界の彩全てに染まったことのないような、逆に染まりきったから出せるようなシャボンの色が、少し恨めしかった。
 彼女と出会って、何度目かに抱いたこの気持ちには未だに折り合いがつけられない。取り敢えずは、そのざるで水をくむような答え探しは雨に流して店に入っていく彼女を追った。

 店に入るなり、彼女は入り口でレインコートを脱ぐとハンガーにかけた。雨受けを脱衣した彼女を見ると、見込んだ通りに上から下までずぶ濡れだった。上を向いたり、時にはフードを取ってみたりしていたせいだ。一体何の名目でレインコートを着ているんだろうと、不思議に思いながらあまり彼女を見ないようにリュックを渡すと、有難うございます。と、燈昌さんはトイレらしきところまで歩いて行った。
 さて。どこか適当なところにかけよう。店内を物色して回ることにする。玄関を抜けると目の前には、おおきな狸が陣取っていてそこから二手に道が分かれている。片方はごうごうと降る雨に加え立ち込める森を映す席、そしてもう片方は棚田のように団地の遠くにはちきれんばかりの大荒れの海を映し出す窓の席。坂道を歩いたこともあって、これだけ遠くからでも海が見えるんだと感心した。やっぱり、島というのは見かけよりも狭いんだろう。
 お世辞にも広いとは言えない店には、テーブルがたったの二つ。
 靴を脱げば、どちらも畳に座す仕様になっている。
 この間取りに加えて、どこか彼女と少しだけ親和性のある風情を醸し出すこの店はたとえあまり外食をしない身であっても人気があるだろうな、と何となくわかる。それなのに店には賑わいはなく、それどころか席を外した彼女を除けばこの空間には僕だけなんじゃないか、という不安感まで生まれ始める。
 まぁ、考えていても仕方ない。仕方ないので片っぽの席に座って彼女を待つことにした。

「お待たせしました。」
 それから特に待つこともなく慌ただしさと、それでいて品を残した所作で着替えを終えた彼女は顔を出した。少しきょろきょろと、海の席の方に出向いて僕の姿を探してからこちらに来たので選び間違えたのかもしれない。
 クーラーの効いた店内で、少し汗が流れる。
 彼女は未だ僕がこちらの席を選んだことに対する感情の整理を終えていないらしく、辺りを見るともなしに見回しても雨の日に添った優しく灯る蛍光灯の明かりしか見られない。
 嫌悪なり、喜意なり見えるようになってくれるなら対処の仕様もあるのに。彼女が足踏みしているようじゃ、答えを待つ人間は如何することも、気の利く言葉すらも出てこないものだ。
 人が、何を思っているのか分からなくなると僕はとことん無力だった。
 彼女が口を開くのと同じくらいにやっと、待ちわびたシャボンが姿を現した。
「その場所。自分で選んだんですか。」
 けれど悲しくも、蛍光色のほのか照らす優しい光では質問者の吐き出した色を網膜に反映させることは出来ず、そこにある、という存在しかわからない。なので気に入るような言葉も見つけることは出来ずに後手の後手に回った。
 席に座る時に念のため形創っておいた理由から、ポロポロと建前だけが零れ落ちていく。
 気持ちがわからなければ、人との会話は熾烈を極める。無限大にある選択肢から、一つを選ぶことの難しさは痛いほどに感じる。自由の刑とはよく言ったものだ。それは普段は誰よりも派手に気持ちを吐露する彼女とて、面と向かっているならば例外ではない。
「選んだよ。燈昌さんが、あの窓に映るくらいの海じゃ満足しないと思って。」
 それに。
「それに、今海を見るのは、なんだか違う気がしたから。」
 本音だけで形が作られた言葉のすべてを、馬鹿正直に始まりから終わりまで彼女に伝えてしまう。人に、自分のしでかした行為の説明をするのは初めてに近い経験なので、しっかり伝えることができたかは分からない。伝わっていようがいまいが不思議と、その「初めて」に悪い気はしなかった。
「成程。須藤さんは二つある席から、しっかりとした理由をもって一つを選んだと。」
 こくり、と頷く。
 あ。
 驚きのシャボン玉が、天井に飛び上がったのがわかる。
 そのシャボン玉でやっと、少し昔の雨の日に仕掛けられた一本を、取られたことに気づいた。
「とっても素直な方ですね。須藤さんは。」
 何時かに、彼女の言った国語が好きな「理由」。知らないうちに、そんな国語の好きな彼女が僕の中にとけこんでいたみたいだ。きっと今まで気にも留めずに五萬と選んできた選択に、言及されることでやっと心づいた。なんだ。道理で悪い気がしないわけだ。
 ともすれば、いったい彼女が僕の何枚上手なのか。もしかしたら、先に着替えという名目で席を開けたのも文学少女の術中なのか。はたまた、杞憂なのか。気になってくる。
「狙ってた?」
「さぁ。どうでしょうか?」
 シャボン玉は、遅ばせながら明るみに出はじめる。
 そこでは不敵な笑みを浮かべる彼女が、親しみのシャボンをより一層濃くしたのを見た。
「私は須藤さんが選んだならどちらでも構いませんでしたが、しいて言うなら。」
「しいて言うなら?」
「私もこっちの席がいいです。」
「へぇ。」
「はい。だってこれから私たちは、海を見に行くんですから。」
 ぶっきらぼうになってしまったが、彼女の同意を得られて嬉しい。にしてもこんな豪雨に関わらずうみがみたいというのは、少し感性が変わっていないとできない。
 さ。
 食べましょう!と、燈昌さんはお品書きを取り出していつものように手早く注文を済ませると、さっきの舌戦のことなどすっかり忘れてしまったようにこの後の予定を小出しに話し始めた。彼女にとって、さっきの苛烈な舌戦はなんでもないことなのかもしれない。
 驚いたのは、彼女の呼び出しにどこからともなく店員が現れた事。あまりの存在感の薄さに一瞬幽霊とかあやかしの類かと危惧した。彼女の海を見たい動機探しに取られて、お品書きもろくに読まなかったので彼女の頼んだ後に、僕もそれで、と付け加えた。
 それにさっき言われた、素直、という言葉。僕は、僕が彼女(少なくとも僕の思う)のように、素直で実直な人間だとはとても認められなかった。とどのつまり、僕は真っすぐなんかじゃあない。真っすぐには、なれない。
 たまには、燈昌さんでも的外れなことを言うもんだなと、少しの違和と親しみを深めながらこれからの話を聞いた。少しの違和は、消すことにして。