自分の思い通りに事が運ぶことなんて、全くない、と大人たちは口を酸っぱくして言うけれど、全く持ってその通りだと思う。だって人は、面白いくらいに自分のことしか考えていない。誰かが思うようになれば、ならない人が出来るわけで、つまりならない人っていうのは一人を除いた残りの全部だ。もしも、それでも人の漢字の成り立ちが人と人が支えあってうんたらかんたらと、熱弁する人がいれば僕の視界をぜひ半分分けてあげたい。そうすれば甘ったれた考えが、粉みじんに消し飛ぶだろう。
 人はみんな、寄り掛かる相手を探しているのだから。
 僕は、宿り木なんかになってやるつもりもないしそもそも生憎その席は、ずっと昔に埋まっている。
 いわば独りで二人分、そして僕とその遠い昔の誰かが世の中を斜に構えてみることで、人なんて漢字が出来ても面白そうだ。それが反り返って八になって僕の名前が出来たと考えてみるのも面白い。
 でも、仮に、仮にもし僕が寄り掛かる相手を探しているんだとしたら、それはきっと僕とは正反対の人だろう。こんな暗がりから無意識に抜け出したくなって誰かに縋りついたのなら、多分それは。
 
 彼女がクラスでの生活に違和感をなくし始めたころ、梅雨は終わりを告げた。
 もう少し、梅雨前線にはがんばってもらいたかったけれど、120の内の5日を連続で雨にし、今年はまずまずの成果を上げてくれたので及第点だ。文句は言うまい。それは彼女も同じようで、連日の豪雨が嘘かのような雲一つない快晴を眺めて、お天気ですね。と悲しげに笑っていた。
「梅雨も明けて、気分が乗ってきたところで、来週からテスト期間だ。」
 帰りのHRの時間、教壇に独り仁王立ちして先生がいう。
 咄嗟に、えー、だのやだ、だのと言ったブーイングが教室中を駆け回った。
 気づいた時には高校生お得意の駄々こねが始まっている。
 羨ましい。叶わない気持ちにも、何一つ気にすることなく言葉にできるのが。
 僕たちは子供と大人の間の、中途半端な位置にいる。都合のいい悪いで、大人たちにはころころその立ち位置を変えられてしまう、難しい生き物だ。
 そんな難しい生き物は今回子ども扱いはしてもらえなかったようで先生が一喝した。
「お前らが二年生になってから、初めての期末考査だがこのテストの結果次第でお前たちの未来が決まるとは言っても過言ではない。このテストに熱心に取り組むことは受験の命運を分ける。」
騒めきは、一瞬止んだが、すぐにまた各々の言葉を先生に投げた。
 皆口々に嘯いているが、今の先生の言葉でクラスの雰囲気が明らかに変わっている。
 さっきまで、喧騒であふれていた教室は不安一色のシャボン玉に染まっていた。
 この高校は、偏差値が高い。学校長は文武両道を謳い、生徒のほとんどは部活に入ることを義務付けられている。
 今、口では、余裕ぶっているが皆プライドを研ぎ澄まし、各々がテストへの姿勢を改めているところだろう。その証拠に、先ほど配られた期末のテスト範囲用紙を、半身でみな熟読し始めている。
 したり顔になる。
 この学校にはテストだからといって部活の時間がなくなる、所謂テスト週間というものはない。
 だから、今こうしてやっと危機感を煽りだしたクラスメイト達には、本当に申し訳ないがもう遅いと心の中で嘯いた。
 世界は平等ではないので、早くもレースで優位に立った僕は、ほんの少しの優越感に浸った後、頭を抑えた。
 隣の彼女は、ムムムと難しそうにその用紙とにらめっこしている。
「数学の範囲が凄く、広いです。」
 よくよく考えてみれば、この半月間でだいぶクラスに馴染んだとはいえ彼女が部活に入った、という話は聞いていない。
 だから、彼女も当たり前のように日々の研鑽を積んでいるものと思っていたが、焦りの色を見る限り、どうやらそういうわけではなさそうだ。無理もない、まだ転校してきてひと月もたっていないのにいきなりテストだなんて、心底同情する。
「数学、苦手なの?」
 このままではこれから日が暮れるまで、にらめっこしているであろう彼女に何とはなしにそんな疑問をぶつけた。
 はっきり言って、この質問は間違いなく僕にとっては蛇足だ。人よりも、感情の起伏が激しい彼女を授業中に見ていればシャボン玉で自ずと答えは解る。
 特に数学と、国語の時間はそれが顕著なので、聞くくらいなら英語とかにしておけばよかった。と自分の杞憂に後悔を催した。
「ベクトルが、どうしても苦手で…」
 どうやら心配は杞憂だったようで、彼女は渋々とノートに、ベクトル!!、と書きながら僕の質問に応えた。ノートに、まじめに書いているくらいなのでよっぽど苦手なのだろう。
 確かに数学の時間、彼女は基礎の基礎、最初の説明の時点で頭にはてなマークを作っていた。教師の教え方は確かに褒められたものではなかったが、分からないほどではない。其れなのに彼女は、えとえと、とちんぷんかんぷんな頭の中を整理しようとしていた。
「各々頑張るように。」
 先生は、そう告げると教室を出ていった。
 そんな彼の背に、その各々はなおも捲し立てる。
 しかし、えー、という不満げな声もやがて焦りという新しい感情によって、直ぐに色あせていくのが見える。
 もう完全に、やる気に火がついていた。
 ため息をついて、より一層強く頭を抑える。
 その切り替えの早さが、少し癇に障るんだ。
 だってそうだろう。
 皆が、皆それだけの焦燥を日常生活に向けられたら、どれだけ世界は平和になるだろうか。
 常にだれかを、傷つけていないか、と焦りをもって生きていたら、どれだけ悲痛に泣く人が減るだろうか。そんなこと、するのは造作もないことなのに。当たり前のように傷つき傷つけて、足をひとたびくじけば心が弱いと罵倒され、それでもなお、まるでそれが世界の理であるかのように人は疑いもなくうのみにして、そんな強がりが人間の生活に充満しているから、人は人を、当然のように傷つける。
 これは、人の気持ちに人一倍敏感で、気持ちが見えるからこそ思うことだ。僕だけが持っている視点。けれど、自分もどうやら醜い人間のようでそんな彼らを理解しようとは思えなかった。
 結局は、これも僕が活きやすいように生きていくうえでこうなればいいな、とかいう欲望をさらけ出したただのエゴ。そんなことはお構いなしの周りに、そして皆に似通った僕の気持ちに毒々しい感情が芽生えていく。
「大丈夫ですか。」
 ノートを開いたまま、心配そうに見つめてくる少女にすぐに僕は正気に戻って笑顔を向ける。
 大丈夫と。
「まだ一週間もありますし、大丈夫ですよ。」
 頑張りましょう!と、虹色のシャボン玉と、お門違いも甚だしい言葉で彼女が鼓舞してくるのを、僕は何でもないような言葉で受け取った。

 富嶽百景の一部分に、主人公がバスにゆらゆらと揺られる場面がある。あの、状況で主人公の思っていたことを50字以内で述べよ。といわれても、僕にはこれっぽっちも供述できない。
 何もせずとも人の心など勝手に見えるし、見たくなどなくても人は自分を押し付けてくる。だから、わかろうとしなくても、自ずと答えはわかる。だからそんな一方的な圧力で傷つかないように僕は、ゆらりふわりとシャボン玉みたいに生きている。
 崖に咲く一輪の花など知ったこっちゃないし、周りの人間がどうのなんて興味がない。どうせ太宰本人すらも、その日の夕食のことでも考えながら適当に書いたんだろう。
 だから僕に国語の授業など必要ない、と毎度毎度現代文で頂戴する赤点の、丁度いい都合を考えていたところで、図書室に下校のチャイムが流れた。
 真実は、いつも一つなのだとどこかの名探偵も言っていたし僕も全くそれを否定するつもりはない。寧ろ国語の回答ですらもそうであってくれ、と願う。
 現代文の時間になると、いつも隣ではきはきとしだす虹色の少女には恐れ入る。
 先生の問いに、喜びや悲しみ、焦りや怒りその他もろもろ。その数多を瞬時に頭に思い浮かべ、それをごちゃごちゃに混ぜて、良くわからないものを作ってから誰よりも早く、人の考え付く答えに行き着く彼女の様は、見ていて痛快だ。とても自分では、たどり着けない国衙力の境地を肌でピリピリと感じる。さらに面白いのは、いつもは何も考えていなさそうな彼女がその境地に達しているというところだ。皆は、一つしか物事を考えられないのに彼女は一度に、浮かんだ分だけ考えられる。
 僕は彼女の思いついたうちの一つを浮かべるのにやっとになっているというのに。
 誉め言葉を並べたところで、辺りを見渡すが図書室に彼女の姿はどこにもなかった。
 なんだかやるせなくなったので、僕は足早に帰路に就いた。
 下駄箱を漁っていると、後ろから声がかかる。
 よお、頭痛君。という言葉に一瞬肩がこわばった。もしかしたら、人違いかもしれない。だったら反応するのは藪蛇なので僕は停止していた行動を何事もなく再開した。
 そんな淡い期待は叶うはずもなく、少年は僕の肩を軽く叩いた。
「調子どうよ?」
 あんまり良くはないかな。君のせいで。
 とはとても言えないので、適当にぼちぼち、と返した。
「A君は?」
 無意識に、生まれついてから身に着けた礼儀を持って彼にそう返すと、彼は一瞬、驚いたようにシャボン玉を出してから、すぐに笑った。驚いたように、というのは誰にでもわかることだから、付け加えて。
「本当は、調子よかったりしてな。」
 なんて小言を残して。返そうかとも思ったが、心当たりがないので何も言わなかった。
「ばっちりよ!まぁ、テスト以外は…。」
 彼は僕の問に笑ったり、ぶぅと悪態をついたりと、忙(せわ)しく表情を変化させている。
 部活も終わったばかりだろうに、元気も衰えず忙しい奴だ。
 数学があーだの、物理があーだのと愚痴を垂れている彼を傍観していると、何だよ。と、決まりが悪そうにしていた。決して怒っているわけではなさそうだった。
 バツが悪いこの状況を打破すべく元気な少年は、そういえば、と話題を変えた。
「頭痛君の隣の転校生さ。」
 咄嗟に頭を抑えた。別に浮かれていたわけでも、怒っていたわけでもない。
 ただ、本能に根付いたように反射で腕が動いた。
 どうしてかと聞かれても、理解らない。
 その機微とは言いきれない大胆な行動を、彼は見逃さなかった。
「可愛いよな。」
 にやにやとほくそ笑む、彼の真意が理解しかねる。適当にそうだね、とでも流しておく。
「狙ってんの?」
「狙ってない。」
 さっきから何が言いたいのかわからない彼に、声を荒げる。でもそれはどうやら逆効果だったみたいで火に油を注いだ結果に、彼は攻守交代だ。と顔に書いていた。
 これは、一度しっかりという必要がある。
 ふぅー、と深呼吸する。
「君は、お腹がいっぱいの時に目の前に美味しい肉が転がっていたとしても、食べないだろう?」
 それと一緒だ。
 言い切った僕に、彼は少しだけまごついて、へぇ、と短声を漏らした。
「じゃぁ、頭痛君はお腹いっぱいなの?」
 急所をつくような軽快な一撃に彼はまたにやりと笑ったが、折あしくも彼のその言葉は的外れで空を切っている。全くもって、ノーダメージだった。
「いや。僕は、ベジタリアンなんだ。」
 そう言って今度は僕が笑うと、彼は、また別の面白いものでも見つけたように、ひねくれてらぁ、と負けを認めて下駄箱に上履きを放り込んだ。
 靴を、アスファルトに広げると
「なんか、初めて頭痛君と話したかも。」
 と僕に投げかけてじゃーな、と笑うとそのどろどろの靴で地面に跡を残しながら足早に行ってしまった。
 前から何度か、話してただろうに。
 真意がよくわからず、尻尾もつかめなかった彼の背中を目で追う。靴箱に上履きを放り込んだ時、片方の手が、地面に向いているのに気付いたのはその後だった。

 道すがらに、アスファルトを突き破って咲く花を見つけた。
 何も考えていないように見えて国語の時間、誰よりも考えている彼女は、きっとこんな花に僕の思ってもみない虹色の感情を抱くのだろう。
 もしかしたら、国語の時間だけではなく彼女は常に沢山考えているのかもしれない。
 いろいろ考えたうえで、一つの選択に実直になって行動しているのかもしれない。 
 いや、ないな。あり得ない。
 脳裏に浮かべた少女の能天気な姿を見る限りそんなことは有り得ないだろう。
 感づいて、思い浮かべた下らない憶測を、手のひらから落として踏みつぶした。
 
 
「だからここはどうなる須藤。答えろ。」
「1/2a+1/3b+3/11cです。」
「正解だ。」
 答えると、先生は感心してくれたようでうむ、と頷いた。
「ここは来週のテストに出すぞ!皆も須藤のように、答えられるようになっておけ。」
 其れでは授業を終える。そう言って先生は教室から出ていった。
 やれ、出来るわけがないだの、頭が可笑しいなどの喚声が僕に向けられる。事はなく流石は進学校といった感じで、皆、先生の言葉に文句ひとつ言わずに教科書に〇をつけたり、メモを挟んだりし始めた。
 皆焦っていた。
 テストまで、あと三日ほどになったのだからそれもそのはずで、もはや悪態を本音でつくクラスメイトは一人もいない、と言っても過言じゃない。
 彼らのほとんどが、今の問題とにらめっこしている。
 楽々解けたのなら彼らを尻目に嗤うこともできただろうが。心の内から湧いて出た気持ちは、人を嘲るものではなかった。
 僕も、危なかった。
 昨日、たまたま勉強したところがこの問題だっただけで、しかも理解するのに結構な時間を費やした。これを、もし昨日先生に聞かれていたとしたら余裕で答えられなかっただろう。
 別に、今日が三日ぶりの梅雨を思わせるほどの豪雨だったから頭がさえているというわけでもない。
 完全にたまたまだったけれど、答えられたものは答えられたので、嬉しさを素直に受け取っておこうと思う。
 クラスでの自分の立ち位置を知っている中で僕が、表立って酷いことをされないのは多分偏差値が高いだからだとか、学校の雰囲気がいいだけじゃない。恐らく、こういうことの積み重ねも漏れなく関係していると思う。
 そうして少しだけの自尊心を愛でていると、雨の日だというのに僕の視界をシャボン玉がハイジャックしているのに気付く。
 シャボン玉が見えた時点で、大方予想がついた。
 隣の女の子、燈昌さんだ。
 気づいて振り返るより早く、その少女は僕に電光石火を繰り出した。威力は40なのでお世辞にも高いとは言えないが、どうやら急所に当たったらしい。
「今の、答え! どうやって解いたんですか! 教えてください!」
 怒涛の追撃に頭が痛くなる。
追加で大ダメージを食らいそうになったので、急いで頭をかばって急所を隠すことにした。 
 彼女の周りを気にしない公然とした声を触媒にして、続々とクラスメイトが集まってくる。
「お願いします!全然。1ッミリも理解できないんです。ご教授ください。」 
 俺も頼むよ。私も。と、気づけば僕の周りには10人ほどの輪ができていた。
 頭が回りそうだった。ちょっかいをかけられることは毎度毎度おなじみで慣れっこだったけれど、それ以外の理由で人に集られるのは少しだけくすぐったい。人に期待を向けられるときには、こう、胸の奥がこそばゆくなるものなのか。自分の腕が、今ある位置になかったらと思うと、ぞっとする。
 加えて、皆のその目が純粋な期待かどうか、わからなくて済むので今日ほどシャボン玉が見えなくなることに感謝を抱いた日はない。
 悪い方も込めた二重の意味で。
 そんな雨の日も、例外にシャボン玉をふわふわと纏わりつかせる彼女の頼みは頭を抑えても断れそうになかったので早々に観念して、僕は先生が消さずに残しておいた黒板に、チョークを立てた。
 雨の日になると、気持ちの読めない彼らには、自然と毒々しい感情は湧かなかった。だから僕は、いつか来るかもわからない恩を、彼らにも投げやりに、売ることにした。

「すげぇ。」
 説明を終えて、ぎこちなさと、期待に応えられたかの訝しさを行ったり来たりしていた僕に労いの声がかけられる。いや、どちらかというと称賛された。
「そんなこと、ないよ。」
「いやいや、凄いって。なんかすっと入ってきたもん、頭痛君の考えてること。」
 な?と、E君が周りに同意を求めると、皆うんうんと、頭を合わしていた。
 こんな経験初めてのことなので、本当に困る。
 対応に困って、そ、そう、かな。と、恥ずかしくなり、思いがけず素が出てしまった。
 そんな恥ずかしさに触発されて、後頭部には手が回されている。もう本能に根付いてしまっているものなので特別、驚くことはない。
 けれど、一向に気持ちが鎮まることはないので可笑しいなと、その手を前後に動かすと、いつもよりかなり後ろの位置に手が置いてあった。
 今頃になってどうしてそんな誤作動を体が起こしたのか、答えは分からなかったので取りあえずいつもの位置に手を載せて、落ち着くことにする。
 すると、やっぱり頭痛いのかよ!と、冗談半分、心配半分くらいだろう言葉で笑われた。
 頭の中は、さっきの答えを探すのに一杯だったけど、取りあえず笑っておいた。ほんの二週ほど前に感じた底知れない不快感は、ちっとも感じなかった。
 少しして、皆この問題をかみ砕けたらしく、それぞれ再三のお礼と労いを持って僕の席から解散していった。
 ふぅ、と一息つく。
 人に必要とされるというはじめてにも近い経験で何とか乗り切った達成感と得も言われぬ気持にひとまずの折り合いをつけるためにもう一度ふぅ、と大きくため息をついた時、またシャボン玉が僕の視界になんの惜しげも感じさせずに、いた。
 デジャブに対して、複雑な幾つもの気持ちを混ぜ合わせた心地になった僕は、それを言葉にはできず、ただ呆然と立っていた。彼女が動き出すまで。
「すーーーーー。」
 新手のブートキャンプか何かの呼吸法だろうか。母さんが良く見るテレビ番組で、おんなじのを見たことがある。
 触らぬ神に祟りなし。
 そーーっと僕が気づかないふりをして黒板消しに手を伸ばすと、今回の当事者は息巻いた。
「ッッごいです!須藤さん!物凄くわかりやすかったです!」
 映画館の客全員分に匹敵するくらいのシャボン玉を持って、映画のダイナミックなワンシーンのように言い放つ彼女に僕は圧倒された。
 幸い、昼休みも半ばに入って賑やかさも山場を迎えた教室と、一向に止む気配のない雨音のおかげで彼女の声が部屋中に広がることはなかったけれど、声は僕を気圧すのには十分すぎるくらいで、続々と捲し立ててくる彼女の勢いに、うんだのすんだのの気の抜けた生返事しか出来なかった。
 暫くの間彼女が、あれがこれでそれがあれだのと火山みたいにシャボン玉を噴火させ続けたのち、それを僕が沈下できるわけもなくやっとチャイムが鳴る。
 助かった。
 昼休みの終了の合図に、彼女は、ほっと胸をなでおろす僕とは対照的な表情をして、止まっている。電池の切れた機械のスイッチを入れなおす感じで、ほら、とチャイムの方を指さして、困り笑いをすると尚もしゃべり足りない様子で、イタチの最後みたいにポッと寂しく球体を吐いてから、渋々席に着いた。
 引きずるかな、と心配したけど、それからすぐに調子を取り戻して、問題が解けた事への高揚でぱぁ、と明るくなり
「有難うございます。」
 と、おしとやかな笑みを浮かべてから、前に倣った。
 切り替えが早いのか、それとも。
 考えるのも、億劫なので早々に結論付けた。
 その早合点した解を頭の中で転がすと、雀でももう少し覚えていられるだろうな、と少しだけ気色ばみそうだった。
 

「それだとこの時の老婆に対する男の気持ちは、どうなる?須藤君。」
「すみません、分かりません。」 
 黒板の手前、支持棒を片手に目の前の女性は、大きなため息をつく。
「はぁ。ここテストに出そうかと思っているんだけれど、大丈夫?」
 答えられないものは、答えられないものなので仕方ない。早々に、差しさわりのない降参の意思表示を向けると現代文の先生は呆れたようにやれやれ、と肩を落とした。
 いや、そんなに肩を落とされても、一向にインスピレーションが浮かばない。
 この時に、男が老婆に対して何かのっぴきならない事情があることは、なんとなく理解は出来るけれど、それが何なのか、まではたどり着けない。
 これだけ頑張ってこうも国語が、出来ないとなると僕にも神様に与えられたのっぴきならない事情があるんじゃないか、と現実逃避したくもなる。
「じゃあ、隣の燈昌さん。分かるかしら。」
「はい。恐らくですけれど、この男は老婆の行為を見て、自分も悪事を働く覚悟のようなものが沸々と浮かんできたんじゃ無いでしょうか。」
 先生はうんうん、と頷く。
「流石ね、燈昌さん。ばっちりだわ。」
 隣で、有難うございます、と言って嬉しそうにポポポとシャボン玉を出している彼女に、僕の国語力は全て吸い取られてしまったんだろうか。そんなつまらない冗談を考え付いて、元々なかっただろう。と突っ込まれてしまったら敵わないのでおとなしくノートを取る。
 この刹那の間に、やっと他を向いてくれたと安心した支持棒の矛先は、又僕に向けられた。
「須藤君。貴方、今回も赤点を取ったら、ゆるさないわよ。隣に優秀な生徒がいるんだから、しっかり教えてもらいなさい。」
 僕が、赤点を取り続けていることをクラスの前でわざわざ言う必要があるのか…
 赤点を取り続けていることは、進級のテスト以来周知の事実なので特別皆に驚かれることは無いが、これはあまりに趣味が悪すぎる。
 はい、と文句を押し殺して返事する僕に、先生は、わかったわね、と更に念を押すと授業の終了を告げた。
 ドアから廊下に出るときに笑いかけられ、背筋がゾゾゾ、と凍り付いた。
 どうにも、あの先生は苦手だ。今日は、見ていないが先生の出すシャボン玉は、いつも楽しそうにふわふわとしている。どうしていつもあんなに楽しそうなのか。きっと僕の知らない様々なテクニックを使って、人生に国語力のスパイスでもかけて毎日を美味しくいただいているんだろう。それに、彼女だけは僕が頭を抑えていることに対して何にも云ってこない。小馬鹿にする先生すらいるというのにそれくらいの小さなこと、と意に介さない姿勢は人生への余裕の表れだろうか。
 そう考えると、あの人を苦手なのにも合点がいく。
 そんなこんなで、脳内で今日の国語の時間に沸いた気持ちの自己完結を一人で黙々と行っていると、今日で何度目かのいい加減鼻につくシャボン玉の視覚攻撃に、あっという間に僕は現実に引き戻された。
「何か言いたげだね。」
 口を抑えて、赤…点…、と絶句する彼女を怪訝に見やる。
 転校してきた彼女は、僕が絶望的に国語ができないことを知らなくて当然なので、その反応は頷ける。にしても、そんなに驚くほどのことでもないだろうに、少し大げさすぎる。
 その透き通ったシャボン玉を今すぐ弾けさせることもできるが、直ぐにやる気も失せた。
 数が多すぎるのだ、数が。今目に見えている彼女を消すだけで、あっという間に僕も皆からさっきの老婆を見るような男の目で、変人扱いされてしまうだろう。
 それに他者から向けられる純粋な懸念を何とはなしに掻き消すほど、僕は腐っていない。
 もし消すことになったとしても、何かしらは思うことがある。 
 まぁ、彼女に限ってはその純粋さが余計にたちが悪いんだけれど。
 読解力がいくらあっても決してたどり着くことのできないものに、僕が思慮を巡らせていると手を下ろして少女が口を開いた。
「私でよければ、お教えしましょうか。」
 この年になると、たいてい裏が見え隠れするはずの人の好意に比べて、彼女の好意は余りに透き通っていた。
 そのせいで断るのが、なんだかこの上ない大罪な気がして返事を言いよどむ僕に彼女は、任せてください。と、腕をまくって既にやる気満々になっている。
「でも、自分で言っておきながら申し訳ないのですが今日は先約がありますから、うーん、何時にしましょうか。」
 そう言ってメモ帳でも、カレンダーでもなく天気予報を見て続々と計画を煮えている彼女に待ったのタイミングを失い、物事は順当に決まっていく。
 天気予報で、お目当てのマークを見つけたらしく彼女は指さした。
「土曜日で、どうですか。」
 雨も降るらしいですし。
 その日に決めた理由は全く納得のいくものではなかったが、きっと彼女にものっぴきならない事情があるのだろう。
 ともかく、押し切られそうな約束を何とかはねのけようと
「ほら、僕が君に出来ることもないし、燈昌さんだけに迷惑をかけるのは。」
 ねぇ。と言ってそれとなく断ろうとすると、そう、ですよね、いきなり迷惑ですよね。と、違う意味に捕らえられて気を沈めてしまった。本当に、彼女との会話はやりづらい。それは、いくらハンデをもらっても変わらない。
 けれど、これでいいのだ、と少しの罪悪感にふたをしてこの話を終わらせようと踵を返すと、彼女は僕の肩を叩いた。
 会心の一撃を持って。
「数学です。」
 一言で、焦燥を感じさせる言葉に、思わず固まる。今度は僕が唖然とする番だった。
「でしたら須藤さんは、私に数学を教えてください!」
 踵を返しかけていた足が止まる。
 やられた。
 純粋な少女は、どうやら伏線の回収の仕方も綺麗なようで、その抜け穴に絶句する。
 その答えはさっきのとってつけたような僕の言葉を、粉々に打ち砕いた。
「そうしたら、ウィンウィンですね。」
 と言って笑う彼女からは最早どんな言葉を持っても逃れることは不可能なようで、それなら。と、素直に負けを認めた。
 長いものには巻かれる主義なので、という建前で少しだけ吝かではなかった気持ちはすぐに消した。
 数学が人より少しだけ得意なところを見せつけた罰がここで当たった。やっぱり、慣れないことはするもんじゃない。
 それにしても、彼女は神がかり的に正鵠を射るのがうまい。
 これも神の思し召しなのだろうか。
 まぁ、確かに目の前の少女なら神様の寵愛を一心に受け止めていても異論はない。
 それだけ純粋なら、其の運は天性のものだ。と言われても何のためらいもなく納得できる。
 彼女の前だと自然と浮かぶ負け犬根性では、勝負事も何にしても、彼女に勝つことは不可能だ、と喜ぶ彼女を横目に、この時確信した。
 根拠のない確信は、本物だった。
 

 雨脚が強まっていくと、流石に運動場で青春の一ページを刻もうとする輩の姿はどこにもなく、雨雫はグラウンドを一様に濡らし、地面を溶かしている。
 晴れの日は高校生のエネルギッシュな熱意を染み渡らせて、地面を熱くし雨の日になると対照的に雨をしみ込ませて、その熱を冷まし、養生する。
 彼女なら、この曇り空の下の窓の一縷の情報からこれだけ思い浮かべられるだろうか。と、らしさを真似てみたけれど『雨降って、地固まる。』ともいうのできっと彼女ならもっと旨い事が浮かぶだろうと、急いでくだらない妄想を捨てた。
 だとしたら、雨の日に青春少年少女のエネルギッシュな熱意はどこで発散されるか。
 その答えは、昨日もお世話になった僕の行きつけの図書室にある。
 彼らは部活が無いことを歯牙にもかけず、水を得た魚のようにここぞとばかりに切り替えて、勉強にその熱意を振りかざしていた。
 今こうして僕が図書館に行かないのは、彼らの熱意が息苦しいからだ。
 僕も感化されてしまったら、たまったものじゃない。
 それに、いつもはガラガラの図書室で広々と勉強しているのに雨の日に限って窮屈な思いをするのも、些かいいものではない。
 対角の教室にふと目が行く。
 あの空き教室は、なにもしないのには最適だけれど電気すら通っていないので暗く、勉学に専心することはできないだろう。
 このまま学校にいても、八方ふさがりのまま。
 だから、僕が勉強により励めるようにと、今から向かう場所は彼女に何の関係もない。そう自分に言い聞かせて、土曜日の、集合場所兼目的地でもある最寄りの図書館に赴いた。いや、少しだけ関係ある。寧ろ、もう、一人のものではない二人の約束を疎かにする事は褒められたものではないから。って一体僕は、誰に言い訳をしているんだ…。
 
 
 いつも家路につく道とは、反対の方向。学校からは自転車で10分ほど漕いだところに図書館はある。県立、という事もあり学校の図書室とは比べ物にならないほど大きいその建物は、やっぱり何時みても威圧感を纏った荘厳さを誇っている。なんでもずっとずっと、まだ日本人が牛を食べ始めたくらいの昔からこの建物は存在しているようで、最近の隣接する病院との合併の改築もあり、その壮大さは言わずもがな透明なビニール傘越しに見てもひしひしと伝わってくる。
 何時振りかの景色に、思わず立ち止ってしまった。
 申し訳程度にビニールに着いた水滴を払ってから全面ガラス張りの目の前のドアをくぐり、傘をたたむ。
 幸運なことに、雨天のテスト前の校内とはガラリと変わって、人はまばらにしか見えなかった。流石は図書館といった感じで、外界とは別世界の落ち着いた空気が全身を包みこむ。
 それは雨が降っていてもいなくても変わるものではなくて、ここに来るといつもそう。
 休日に雨の日ではなくても、雨を感じたいときはよくここに来る。
 雨と、図書館の空気は類似している、というくだらない名目の論文を書いてくれる人がいるのならこの謎も解けるんだけれど。世の中には知らないほうが、素敵なこともあるのでこのままでいい気もする。
 二階に上がると、より一層雨色が強くなる。
 この図書館はその広さから、最大で一万人ほど人が収容できるらしく書物の持ち込みや勉学が禁止されていないので、専用の場所を探す必要もなく適当に少し歩いて適当な場所に腰かけてから参考書を開いた。
 図書館によっては勉学を禁止している場所もある。この間気分転換にと出かけた隣町では勉強禁止という張り紙がはられていたし、ネットで調べるとそういう場所のほうが多いらしい。なので、今回彼女が迷いもなくここの名前を挙げたときには少し驚いた。
 転校してきたばかりの彼女が、この図書館のシステムを知っているとは思わなかったから。
 もしかしたら、燈昌さんが以前暮らしていた近くの図書館はここと同じ様な感じだったのだろうか。
 思考が、当たり前、という琴線に触れる。
 そういえば僕は、彼女のことを『当たり前』のように何も知らない。
 前に住んでいた場所も学校も、この学校に来たわけも何もかも。
 当たり前のことに今更気づいた。
 会話の中で、詰まるときがあったら聞いてみてもいいかもしれない。
 土曜にでも。
 そんな一縷の楽しみをしまい込んで、其れからは黙々と勉強した。
 図書館に巣くう雨の勢いを借りれば、まだ何とかなるんじゃないかと思っていた現代文への期待はあっという間に地面に溶けて、流浪人の気持ちも、求婚前の男の気持ちも、相も変わらずちんぷんかんぷんだった。
 これは、得意げな文学少女でも僕に国語を教えるのは難しいんじゃないかと不安がると、自然と笑みがこぼれた。畢竟彼女が強引に組んだ予定は、連日暇続きの僕にとっても吝かではないことに気づいて、又笑った。
 邪魔をして来るものは、もうあれからすっかり鳴りを潜めていて何時かの機会を窺っている。
 見られて困る人も、幸い周りにはいなかったのでそうさせるに至った彼女から伝播した毒は、誰にも見られることなく体内に流し込むことにした。
 彼女のことを考えると、自然と気持ちが表向きになってしまっている。何時かに立てた誓いも、彼女の前では色あせてしまっていた。
 でも、きっとこれくらいなら許してくれるんじゃないだろうか。それ以外では、きちんと僕は僕のままだし比率は精々10%もないくらいだ。
 最近はあの夢も見なくなった。それだけに、いつか来るかもしれないその未来が堪らなく怖い。


 
 彼女と約束を取り付けてから、次の数字まで溢れるんじゃないかというプレミアムな日の快晴を挟んで今日は雨が降った。
 降水確率は百パーセントと、天気予報のお墨付きをもらっていて晴れる心配もない。初夏も折り返し地点についているというのに梅雨を思いださせるようなこの豪雨は、実は彼女が雨の精か何かで力を使って無理やり起こしているものなんじゃないか、とも思えてくる。
 馬鹿な妄想だ。
 肝心の彼女は、現在進行形で10分ほど遅刻している。集合時間が開園に合わせてやけに早かったから多少の遅刻は全然許容範囲だけど、少し早く来てしまったこともあってさっきから立っている時間は10分ほどに感じなかった。
 もしかしたら。
 夏場にしては、湿気もあって涼しいはずなのに、いやな汗が背を伝う。
 そういえばあの時彼女は、メモを取ってはいなかった。
 だからもしかしたら、最初からあの約束も冗談のつもりで云ったのかもしれない。
 僕だけが、真に受けてしまったのかもしれない。秒針が前に進む度、時間は進むのに気持ちは後ろ向きに歩いていく。僕は、人に寄り掛かっていたんだ。あの時に気づけたはずなのに、人は簡単に裏切ることに、傷つけることをいとわないことに。
 背に汗が滲み、頭からは毒が湧き出てくる。
 ここぞとばかりに、何時かの先に立った打算的な後悔が身を包み始める。
 まぁ、いいか。また傀儡みたいになって、何食わぬ顔で学校に行けばいい。誰も傷付けず誰にも傷つけられず、シャボン玉みたいにふわふわと漂っていよう。
 頭に手が行く。僕はきっと生きている限り、この癖が体から離れることは無い。けれどこれでいいんだ。こんな思いするくらいなら。
「遅くなってしまって申し訳ありません。」
 ティラノサウルスみたいに、背骨を曲げうつむいていた僕に声がかけられた。こんなに下を向いていたら、せいぜい見えるのはアスファルトに打ち付けられた雫と、カタツムリくらいだろう。
 手を下ろす。そしてまた手を挙げる。
「ううん、全然。」
 そう言って、残りの力を振り絞って彼女のほうを向いた。
 てっきり傘でもさしているかと思ったけれど、彼女は傘を持っていなかった。
 透明な、顎まですっぽりと入るくらいのレインコートに、ビニールにカバンを入れボツボツと雨音を反射させて目の前に立っていた。
 嫌な気持ちは消したはずなのに、彼女は僕を見るなりまた頭を下げて
「ごめんなさい。」
 といった。
 二回目にならないと、いつも本音でしゃべれない僕は遅れた時間の少なさの割に深々と頭を下げる彼女に、さっき考えていたことを重ねた。
「いや、僕もごめん、」
 と、到底彼女からは理解できない理由で謝罪の言葉を放つ僕に気づくと、馬鹿にするわけでも、窘めるわけでもなく彼女は笑った。
 あまり経験したことのないよくわからない空気に、つられて僕も笑ってしまった。