雨が降っている。
雫は水たまりに泡を作り、ガラスに何百、何千滴と引っ付いては、重力に逆らうことも出来ずに地面に落ちていく。
そんな当たり前を横目に、ガラス越しの空を仰いだ。
曇天。底なしの供給力を持った雨の化身は、勢いを衰えさせることはなく、世界を濡らし続ける。
大きく深呼吸をすると、雨の日特有のペトリコールが鼻孔をくすぐってくる。室内だというのに、五感で雨を感じられる。
心地いい。
外は、他の追随も許さぬ雨一色で曇り空からは蒼一つすら見えない。
雨は、好きで嫌いで、それから好きだ。
元々は、いささか心地の良かった雨は、彼女のおかげで物足りなくなって、嫌いになった。
そして、その物足りなさの意味を知ったとき、又、僕は雨が好きになった。
再三、雨が好きになった理由は、たぶん彼女も知らない。だから、まぁ墓場まで僕一人で持っていこうと思う。
そんな気恥しい『好き』が肌をなぜるころ、僕の目の前に一つのシャボン玉が落ちてくる。
誰にも見えないとは知っていながらも、否定の仕様のないその答えを、誰にもバレることのないように掌に載せる。割れないように丁寧に。
目の前まで、その泡の塊を持ってくると、シャボン玉は綺麗なピンク色をしていた。
やっぱり、こうして自分の気持ちを俯瞰するのはまだまだ恥ずかしい。
突き放すように、急いでシャボン玉を空に放った。急いではいるものの、割れないように丁寧に放つ優しさは、彼女からもらったものだろうか。
雨脚の強い日は、気圧の関係でシャボン玉を作るのに、通常の幾倍もの力が必要になる、と昔に偉い人が言っていた。
ふとそんな考えが脳漿の隅に湧いて、どうにも頭を抑えたくなる。けれど、片腕が動くことは無い。
もしその腕に意思があるなら、動かしたところで野暮ったいなんて一蹴されてしまいそうだ。
そうしないことも、僕の自由だ。
人というのは愚かで我儘な生き物らしく、不自由から抜け出し好き放題できるようになった今この時代になっても、自由の刑に処されているらしい。
だから、君をこうして僕が待っていることも、もちろんその罪をほしいままにしていることの証なのだけれど。腕時計に目を向けると、何時もの約束の時間はもうとっくに過ぎていた。
どうやら、僕の日常を崩してくれた諸悪の根源は、今日も来ないみたいだ。
今から始まるこれは、僕の話。
雁字搦めでその罪すら被ることの出来なかった僕が、そんな罪を誰かのせいで手に入れることになって贖うようになる、以前の話。
それを雲一つない青空のキャンパスに描くのは、キャンパスが勿体ないから、もし綴るならこれくらいの曇り空が丁度いい。
そうして思い通りに窓から顔をのぞかせて、雨に打たれてどんどんと膨張していくシャボン玉を尻目に彼女を待った。
雨が好きだ。
悲しいだとか楽しいだとか、そんな人間しか抱かないような感情のすべてに、等しく降り付けて、起伏を平らにしてくれるような豪雨が。霧雨のように小さく弱く、くすぶる気持ちが、煮詰まったまま、口を思わずすぼめてしまうような小雨が。
窓越しに外を眺める。
そこには恵みの雨が降っていて、その雨音の一つ一つがリズムを作って曲になってやがて僕の気持ちを段々と安らかにしていく。
雫が滔々と、窓に張り付いては落ちていき、夜空の雲は星の見える日より幾分か明るく見えて、それがより一層、人一人くらいは攫ってもばれないくらいの不気味さを醸し出している。
少し立て付けの悪い窓をなるべく音が出ないようゆっくりと開いて、深呼吸する。雨のにおい。土壌を掬い上げた雫の一滴一滴が匂いを舞い上げては死んで、代わりにこの匂いが鼻孔をくすぐる。
ゆっくりと、いきなり広がる世界に怖気づかないように目を開く。
雨雲には、今日も描くことは無い。
いい日だった。何も見えない、何も感じない空虚な一日。だから、僕が僕として、褪せることも、死ぬこともない。
これから未来永劫死ぬまで、こんな雨空が続けばいいのに。
背をなぞる。ああ。今日も相変わらず、鬱屈になるくらい僕の裏手は重たい。良かった。
そうして変わらない日を恋しく思って、眠りについた。
今日は梅雨入りして間もない一日で、僕が焦がれてやまなかった天気になる、筈だった。天気予報は、降水確率が90%。何をどう間違えても、ほとんどの確率で雨が降る予定だったのに、生憎太陽の神様は皆に微笑んでくれたらしい。
まあ、こんな長々と何が言いたいのかというと、今こうして僕の貴重な朝の読書の時間までクラスメイトA君が突っかかってくるのは、まず間違いなく空が晴れているからだろう、ということだ。
八つ当たりのようにそう、太陽へのうっ憤を募らせていると、A君は椅子に座る僕の机に寄り掛かった。
「また本読んでるの、頭痛君。」
そう言って、陽気なA君は頭を抑える僕を楽しそうに見つめてくる。
頭痛君。
いつも頭を抑えている僕のためにわざわざクラスメイトがつけてくれた最高の渾名。それを、口にする時、誰しもが頭に黄色のシャボン玉をこの世界に産んでは空に放つ。それは、今こうして目の前にいるクラスメイトのA君も例外に漏れることはない。
はぁ、全く。
色のついたシャボン玉はもれなく、汚らしい。まるで汚泥を掬ってそれをそのままシャボン液に入れたみたいだ。無味無臭の嘲りに、吐き気がする。
けれど、それは人間が生み出すものだから仕方ない。もともと期待はしていないし、そんな余計な気持ちを抱かないためにもこれくらいが丁度いい塩梅だ。
幸い、窓際に位置するこの席からは太陽がよく見える。一瞬、目をそらしてから見るともなしに太陽を見て、この世に存在するあまたの罵詈雑言を向けてから、直ってばれないように作り笑いをして重たい口を開いた。視線はそのシャボン玉に向いたまま。
「その質問、今回で何回目か知ってる?全く、僕は頭が痛いよ。」
そう言ってさっきよりオーバーリアクションに頭を抑えると、彼は満足したようで、クククと悪役みたいにはにかむと立ち上がった。
「やっぱ、須藤は面白いな。」
立ち上がり気味にお褒めの言葉を頂戴し、そのまま彼は、いつもの誰それの中に歩いて行った。
ため息をつく。
本当に、頭が痛くなったらどうしてくれるんだ。そんな怒りに近しい感情を、片手で潰すと、直ぐに心は平静を保ち始める。僕が頭を離せないのは間違いなく君たちのせいなんだけど。冷め切った心地で、尚も黄色のシャボン玉を頭からポンポンと出す彼の背中に、視線を送った。
梅雨に入ると、クラスもある程度形を成してきて、5月や4月では味わえない賑わいや喧騒を朝に生み出していた。丁度、彼が入っていったメンバーシップも、結成したのは最近のはずだ。青春を謳歌しているところ申し訳ないけれど、沸き立つシャボン玉の色、そしてその愉快そうな顔は不愉快極まりない。
けれど、実際に危害を加えられたわけでもないし、何か因縁があるわけではないのでそっとイヤホンを取り出し耳にかける。
やっと読書を再開出来る。振り返って片手で支えていた本のしおりをめくろうと、思ったのも束の間、今度はクラスメイトのCちゃんが目の、目の前に立っていた。
わっ。
情けない声と、それに伴ってシャボン玉が頭を突き抜けていく感覚がした。
しまった。急いで頭を抑えるが、気づけば、あっという間に青色のシャボン玉は天井の近くに漂っている。
完全に手遅れだ。そう残念そうに、頭を抑えて『残念な』気持ちを消した。
「君が、そんなに取り乱すなんて珍しい。」
間違いなく、そんな諸悪の根源の彼女を軽くねめつけると、彼女は困ったように笑った。
「ごめんごめん。何の本読んでるのか知りたくて。」
そう言って彼女は、申し訳なさそうに合掌すると、頭からポポポと紫色のシャボン玉を出した。
そんな紫色に免じて、僕は許してあげることにする。申し訳なさそうなのは、嘘ではないらしいから早めに消してあげよう。
今は何も出る予定のない後頭部から片手を離して、彼女から漂うシャボン玉を撫ぜる。
「吾輩は猫である。」
そうして、又、作り笑い。
彼女の産み出したシャボン玉は僕の柔手ではかなげに霧散すると、まるで僕を驚かせたことなど全部嘘のように、開き直った彼女は笑顔で、いいね。といって、立ち去った。
良かった。大きくなる前に消しておいて。手が付けられなくなってからじゃもう遅い。
やり切った仕事を労うために頭に手を置いて、深呼吸する。
今日の僕も、上手くやれているだろうか。人を傷つけないように、傷つけられないように生きられているだろうか。
晴れの日はどうも駄目だ。気づいた時にはもう、どれだけ前に進もうとしても後ろ向きになって歩き出している。まあだからこそ晴れの日は、僕にとって堪らないくらいに重宝するものなんだけれど。
生まれた不安を、プチ、又潰すと僕は読書に勤しんだ。
何時からかは、もう覚えていない。物心ついた時には僕は人の頭上に生まれるシャボン玉が見えるようになった。まんまるで、太陽の光を屈折するシャボン玉。生み出す人によってさまざまだけれど、特徴はだれ一人変わらない遜色ない球体。それは、いつも単色で一種類。それから、人間の心に準拠して淀んだ色をしている、ということだ。シャボン玉は色によってその人の大まかな気持ちを表していて、ふわふわと漂い、その人がその感情をなくすまで消えることはない。それだけでは、嫌なものでしかないんだけれど、面白いことにこのシャボン玉に、僕は直接干渉することができる。理由がない限りはしないが他人のシャボン玉を無作為に壊したり、丁度今僕が抑えている頭の位置に手を置けば、シャボン玉が出てこれなくなって丁度僕を照らしつける蛍光灯のように、僕は簡単に感情をつけたり消したりできる。だから僕は、いとも簡単に、食えないやつを演じる事が出来る。
目は口ほどにものを言う、という先人の知恵には頭が上がらないけれど、口よりもっと便利なものを与えられたので使うほかない。だから今日も僕は、生きやすい毎日のために、自分の心に喜んで嘘をついて生きている。もう二度と、悔いの残らないように。
とはいっても、そこまでこの行為を演じることはやぶさかではない。気づいた時には、取るべき時に取るべき行動を本能に基づいたように脊髄が勝手にやってくれる。苦労は、そんなに感じない。
吾輩はシャボン玉である。名前はまだない。
シャボン玉というのは、雨の日になると、湿度の関係で消えにくくなる。
けれど、きちんと代償はある。
消えにくくなる代わりに、シャボン玉1つ作る労力が気圧の関係で、とてつもなく大きくなる、らしい。昔、偉い人がテレビで言っていた。
だから、シャボン玉の数が激減して何にも見えなくなる梅雨の日は気楽でいい。
見えたところで、変わらない。彼らの毎日行っている不可解なコミュ二ケーションや、他愛ない会話のことなんて、どうせ理解できない。だって、そんなことをしても人は完璧には分かり合えないのに、そこから生まれた亀裂に手を触れるだけで、いとも簡単に傷ついてしまうのに。
「HRを始める。」
全く集中できるでもなく、本にしおりを挟みこみ立ちあがる。
流石に、朝礼で頭を抑えるわけにはいかないので行儀よく両腕を腰につけて、先生のいる黒板のほうを向いた。
思うに、人という生き物は毎日の日課というものに甘んじている。だから、その日常に、いざ非日常が混ざりこんだ時、準備を怠った人間というのはあまりにも脆いのだと思う。
通り魔に刺されたりだとか、地震が起きた時の対応だとか。
起こるわけがない、と勝手に思い込んでいるからこそ、少しぐらつくだけで人は簡単に崩れる。迅速な対応を余儀なくされたときに何もできない。
だから、まあ何が言いたいのかというと、このことも完全に、予想外だった。
僕ももれなく、憎んでいた周りと同じ日課に甘んじていたものの一人だと気づかされた。
何が?と聞かれれば今、目の前の光景が物語っている。ここから見える全てが全部、解決の糸口は皆目見当もつけられない。きっと医者に見せたところで、匙を投げる段階だろう。
イヤホンというのは、とてつもなく便利なもので、先生の怒号にも似た朝礼でやっと外界を認識できるようになる。だから女子一人の足音など、その耳栓から漏れ出て耳小骨を鳴らすに至るわけもないわけもない。だからもし、江戸にこの精密機械があったなら、忍だけで天下統一も夢じゃない。
もっと早く、知ることもできたはずだ。例えば、いつも騒いでるグループが、ほら、今みたいに黄色い声でまくしたてたりだとか。女子たちが、表立って喜んで、猜疑心を包み隠したりだとか。
気づいた時には全てがもう手遅れだった。
視覚は目の前を正常に処理を始める。そして伝達系に情報を伝えて、感情を生み出す。その危険性に堪らず無意識に両手で頭を抑えつけていた。
けれどその自己防衛手段すらもう後の祭りで、先ほどと同じように幾つもの『淡色』のシャボン玉は天井で僕をあざけるように漂っている。
「おい。須藤。お得意の頭痛は間が悪いぞ。」
先生の言葉に、どっと笑いがこみ上げる。
何時もなら、はははと笑ってでも誤魔化す。
でもそんなこと気にならないほど、愛想笑いすら浮かんでこないくらい、僕は見惚れていた。
目の前の少女の、プカプカと浮かぶシャボン玉に。初めて目にする、本物のように、赤から紫のスペクトル全てを反射する人から生まれた球体に。
「燈昌あやめです。」
黒板から手を放し、チョークを置いて、その本物のようなシャボン玉の作り手は振り返った。
紛れもなく僕にだけ向けられたその言葉に、間抜けな声が漏れる、と思っていたが思いのほか冷静な僕は何も言わなかった。天井のシャボン玉は、もうすっかりなくなっていた。
謂わなかっただけで、其のあとに続く何かは鳴りをひそめたまま、気前のいい返事が脳漿からポコンと頭から弾け出てくるわけでもないし、本当の気持ちを言うわけにもいかない。
一際沢山のシャボン玉を尚も噴出し続ける彼女は、その居心地の悪い静寂に耐えかねて僕の頭上の手を取ると、ぶんぶんと振り回していった。
「よろしくお願いいたします。」
段々頭が熱くなっていく。それだけにとどまることは無く理解不能の感情がニューロンを伝って全身の熱量も上げていく。
目の前の女の子の手は、ひんやり冷たくて片手だけが冷静だった。でも、手だけではどうすることもできない。虫みたいに小脳があれば別だが、生憎思考が出来るのは普通の人と同じ、脳系統だけで、目の前を楽しそうに漂うシャボン玉が解決してくれるわけもない。
眼前の彼女は、どうしようもなく、七色だった。
それからはあまり覚えていない。覚えているのは、頭の中で何かが弾けたり、皆が急に傾いてぐわんぐわんと踊りだしたことくらいだ。
人と、感情は直結している。期待は人に向けられて、絶望も同様に人に向けられる。
前者は喜び、後者は悲しみに絆されている。人一倍傷つきやすい僕は、そんな気概を人から得まいと努力して、今の完璧な僕を手に入れたはずだった。
けれど皮肉なことに、人は一人では生きることができない。完璧な考え方を与えてくれた、いつかのクラスメイトもアンドロイドでは無かったし、後ろから僕をそう叱咤する偉人も、紛れもなく人だ。
嫌になる。
結局この期待もいつかは、裏切られるのだから。
でも、そのいつか来るかも分からない裏切りにすら手をこまねくことは出来なかった。
斜陽に作り出された陰を踏みながら教室に向かう。頭を抑えることも忘れてしまっていた僕は、もう人っ子一人いない筈と鷹をくくっていたのだろう。油断していた。
「ホントに頭痛かったんだね。頭痛君。」
気絶した帰りがけに、放課後の教室の扉を開けると、開口一番Cちゃんが詰め寄ってきた。
咄嗟に、脊髄が動き出す。腕は、無造作に頭に向かって歩を進める。僕の開きかけた口も、仰け反った姿勢も、もう元に戻っていた。人の培った癖は、本能に根付いているのかというくらい無意識に反応してくれるので、今日ばかりはそれがありがたかった。
「大丈夫だと思ったんだけど、結構無理してたみたい。」
そう言って彼女の頭上に湧いている、『心配』の色を表す紫のシャボン玉も腕で消した。
すると彼女は、心配など嘘だったかのような笑顔を僕に向けると、お大事に、また明日!と言って、教室からかけていった。
心がズキリと痛む、ことはない。これも、日課のおかげだ。
それにいつまでも心配されるのも気分がいいものではない。彼女の思いが膨らむ前に消してあげたのだから、ウィンウィンという言葉を殿に、僕は行為の正当性を訴える。
さて、僕も帰る支度をしよう。
いつも使っている机の整理を始める。
数学に、英語に、現代文。
今日受けられなったその全ての授業は誰に聞くこともできない。
億劫になりながらも使わなかった今日の教科書たちをカバンに入れていると、違和感が目を掻いた。
可笑しい。確か僕の隣は空席だったはずで、ペアを組む時だとか授業中の相談の時はいつも一人だったはずなんだけど。
あるはずのない学校指定の、其れもピカピカのカバンが机の横にかけられているのが見える。
きっと誰かのかけ間違いだろう。五月病をまだこじらせている誰かの、間抜けなミス。気にすることは、これっぽっちも無い。もう帰ろう。
知らず知らずのうちに仰け反っている、期待にも似た希望的観測は、悲しくもまんまと裏切られた。
「頭痛、さん。」
開かれたドアには、か細く啼く朝の少女が立っている。
今にも決壊してしまいそうな彼女は、僕を見るなり青色のシャボン玉をクラス中に散りばめた。
「ごめんなさい。私…わたしっ」
シャボン玉の奔流に動揺する僕を置き去りにして彼女は続ける。
「頭痛さんが、体調を崩されていることを知らずいきなり、お体に障るようなことを。」
頭痛、大方その名前は誰かがいったんだろう。
少しでも答えを間違えば、泣き出してしまいそうなそんな脆さを身にまといながら僕に必死に謝ってくる彼女を見ると、失いかけていた本当達が脊髄を食い破ってしまうような不安に駆られる。
このままずっと、彼女に抱いた感情の整理を雨が降るまで続けてもいいけれど天井で、今にも弾けてしまいそうな彼女のシャボン玉たちはそれを許してくれそうにない。
そのシャボン玉を消す、という事は出来そうになかった。一つどころか、数えるのもおっくうになる程散りばめられた球体はもう消す、という考えすらばかげて見える。
とりあえず頭を抱えることにする。
すると静かになった脳系統は、今すべきことをいとも簡単に導き出してくれた。僕とこの子は、ほぼ初対面に近いわけでそれから僕はまだ、彼女と会話すらしていない。つまり、まだこの女の子の中で僕の第一印象は出来上がっていない。だから、こういう時は怒りも労いの言葉も見せずにただ何ともないようにするのが吉だ。
「全然、大丈夫だよ。寧ろ、今まで無理してたからさ、助かったよ。」
そう言って、作り笑いを彼女に見せる。
微笑みかけると、彼女のシャボン玉は霧散し、屈折して見えていた蛍光灯が顔を出す。
そんな会話の成功に胸をなでおろす。
良かった、この少女、Tちゃんは僕の思っていたよりも案外簡単な人間みたいだ。
しかし、ホッとしたのも束の間、今度はより一層濃くなった藍色のシャボン玉を教室中に散りばめ、彼女はより一層悲しそうな顔をした。
可笑しい。
『藍色』は、悲しみを表すような色だ。嫌なことがあった時だとか、慰めて欲しい時だとかに出る、僕の一番かかわりたくない面倒な色。
どうして。100点満点とはいかなかったにしても、及第点はたたいていたはずの僕の回答のケアレスミスを探す。
彼女の鬱屈が、教室とシャボン玉を揺らしている。ますます疑問が深まるが今は考えている余裕はない。片腕で、彼女をなだめているとポツリと、彼女は呟いた。
「わたし、きまでつかわせてしまっ、て」
ごめんなさい。と謝り続けるその姿に心を痛めずにはいられない。
晴れの日は、嫌いだ。もう向こう暫く見ることは無くなって、ただただ汚いものを見るのが嫌になるきもちばかりだけれど、こんなに綺麗なシャボン玉を見て見ぬふりをすることが出来なくなるというのもすっかり忘れていた。
その誠意に観念した僕は、抱えていた腕を離して
「謝らないで。」
とただ身の内に秘めたそれだけを口にした。
無理をした僕は、きっとひどい笑顔を彼女に向けていただろうに、彼女は僕の顔を見るなりすぐに啼き止んで、一つごめんなさい。といって、二つ目に、ありがとう。といった。
霧散していく藍と、生み出される彼女の暖かな色に見惚れていた僕は、作り笑いが見抜かれていたことなどすっかり忘れてしまった。
彼女が初日だというのにこんなに遅い時間まで、学校に残っていたのは、やっぱり僕が原因だったらしい。更に、彼女が保健室に向かっていったのと、入れ違いで、僕は教室に帰ってきたという事の顛末も聞くと、なんだか申し訳ない気になる。
紛れもなく倒れた原因は僕にあるのであって、彼女にはない。それに、卒倒した理由を言えなんて言われたら、今までの僕に後ろ指をさされてしまうだろう。
でもシャボン玉が…と言って、初日から変人扱いされたくもないので心の中だけの謝罪に留めておく事にした。
あのシャボン玉はきれいだった。謝罪の言葉を探したときに一緒にひっぱり出てきた記憶を思い出す。本物のように、陽の光を照らし返し、まるで自らが輝いていると言いたげな、あの強く優しい虹色の泡。人があんなにきれいなものを出せるのかと、敬服する。それに、青も藍も鮮やかで深みがあった。
「須藤さんとおっしゃるのですね。」
そう言って、隣の席で僕の名前を告げる彼女の言葉は、なんだかむず痒い。それに幸せそうに、ポポポポポと虹色のシャボン玉を出す彼女を見ると、もう頭を抑えずにはいられない。
幸いなのは、彼女がこちらを向いていないことか…
安堵の感情が、心に余裕を作ってくれたことで、彼女がこちらを向いていない原因に興味がわく。
引っ張り出した、記憶を丁寧にしまい込むと彼女の机に目を剥いた。
「何書いてるの?」
頭は抑えているが生憎、彼女の視線は机の上のノートに向かっている。
こちらに目はない。何ともなしに彼女の作業を見ていたら、又不意を突かれてしまった。
「あなたの名前を、書いています。」
濁点のところで一区切りがついたのか、会話の途中で僕に笑顔を作った。
「な、前?」
どうしてそんなことを。と顔に書いてあったのだろう。
口をつぐんだ原因は、其れだけではないが、兎にも角にも彼女は話を続行してくれそうなので平静を保つことにする。
「そうです。名前です。私、日記を書くのが趣味なんです。」
えっへん、と言いたげにスグサマ彼女は答えをくれた。
日記、それにしたって僕の名前を書く必要なんてあるのだろうか。
見るともなしに、日記に視線をずらすと確かに僕の名前だけではなくクラスメイトの、おそらく全員の名前が書いてあった。
これを、初日で?
成程、すごい趣味をお持ちのようだ。
感心している僕を見てまた虹色のシャボン玉をポポポと出すと、彼女は質問をしてくる。
「なぜ、須藤さんは頭痛さん、なんていう名前で呼ばれているんですか。」
それは、見ればわかる。片腕で、いつも頭を抑えている僕に彼らは渾名をつけた。いつも頭を痛そうにしているから頭痛君、と。気づけば、僕のイデアの住所は彼らに定められていた。別に、言われたところでやめるつもりはないし興味もない。ただ、皆がこの名前を呼ぶときには決まって馬鹿にしている事だけは知っている。
「癖でさ、こうやっていつも腕が頭を抑えてるんだよ。だから頭痛君って、変な話でしょ。」
剽軽に、道化の一つでも演じてみる。謂われれば皆にはいつもやっていることで、笑いの一つでもしてくれる。衝突もしたくはないし、嘘をつくのは慣れっこなので、これが一番で丁度いいいなし方だった。彼女も僕をそう呼ぶだろう。今更一人増えたところで、比重は変わらない。そう思っていた。
だから、
「それは、本当に変な話ですね。」
今までの誰とも違って神妙な面持ちで、僕の目を見据える女の子に僕は、何も言えなかった。
その誠実さに僕は、怒ることも嘆くこともしない、ただ目を逸らせないでいた。
少しの静寂をよそに、彼女が口を開く。
「須藤さんの、一番好きなものは何ですか。」
訝しげに彼女に目をやる。けれど、彼女の、一体何が可笑しいのだ。と、無垢な笑顔を向けられると、彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回り始める。
「すきな、もの?」
はいっ。と勢い任せに、こちらを向いて彼女はうなずく。キラキラしているのは、どうやらシャボン玉だけではないようで、その目を見ると思考と施行を強制されている気がした。
まさか、これをクラス全員にやったのか。そんな嫌な予感も、彼女の瞳の、螺旋の中に放り込まれるとすぐに消えていった。
一番好きなもの。彼女の言葉を何度も反芻する。しまおうかしまわまいか、丁度考えあぐねていた文庫本が、机の引き出しから垣間見えた。
読書。読書は、いわば時間つぶしの手段であって、一番好きかと言われればそうでもない。それに、これはなんとなく頭をかすめるような何かに動かされて読むことを遂行しているのであって、自発的なものじゃない。かといって、それ以外の趣味は、ない。答えの出ないまどろみの中を延々とさまよっているとと彼女が、又笑顔で、何でも。と言った。
何でも。
そう頭の中で咀嚼しながら、空を見上げるとまるで暗闇に差し込む一筋の光のように、僕の一番好きなものはすっと言葉になった。
「雨。」
キザな言葉に加えて、自分がこの質問に嫌にまじめになって考えていたのにも気づき、頬が少しずつ紅潮していく。恥ずかしい。感情が暴走を始める前に、直ぐ頭を抑えようと右手を頭にもっていく。
けれど、頭を抑えるという、心を殺すその行為に至ることはなかった。まだ、消し去ることのできない良心の呵責が脊髄をとどめている。
彼女は僕の返事を聞くなり、ぱぁぁぁあああと今まで以上に教室をシャボン玉で満たすと、机の上のノートとは、また別のノートを取り出し、そのカギを開けて、記憶が色あせないように一刻でも早く、とノートに綴り始めた。
「須藤さんは、雨が好きなんですね。」
しゃっしゃっ、と鉛筆の音が教室に溶け込んで雨の日のような心地よさが生まれる。
語尾に音符をつけて、何度も続ける彼女に、出しかけた手を引っ込めた。人を馬鹿にするだとか、蔑みから生まれたわけではない。鮮やかで、透き通った純粋な喜びの黄色があふれ出す彼女を見ると、なんだか勿体ない気がしたからだ。気恥ずかしいけれど、この感情は消したくない。自分の感情に、今はうそをつかないでおこう。埃をかぶった感情が久しぶりに、目を覚ました。
でも、本能に根付いたものはそう簡単に消えてくれるはずもなく気づけばもう腕は頭を覆ていた。
書き終えた彼女は、まるで答えてくれたご褒美と言わんばかりに、今度は虹色のシャボン玉をポンポンと出しながらこちらを見やる。
「私も、好きです。雨!」
あぁ、全く、彼女はそのシャボン玉を一体どれだけ持ち合わせているんだろう。彼女の笑顔に、自然と僕は嬉しいと思っただろう。そんな生まれてきそうな気持に勝手に名前を付け、腕は頭を抱えようとはしなかったので、僕は自分の手で押さえなければいけなかった。直ぐに癖を思い出した脊髄も加えて腕に信号を伝え、無意識に僕の感情を殺した。少しだけの虚しさも、同じ様に。
冷静になった脳は、すぐさま彼女の雨が好きな理由を考えたけれど、全くと言っていいほど思いつかなかった。まだ僕は、目の前の転校生のことをなにも知らない。でも、彼女が雨の似つかわしくない人間であることぐらい、僕にはわかる。
一種の嫌悪感も、きっと浮かんでいたと思う。こんな子と、好きなものが一緒でたまるかと。それ以上、聞きたくはなかった。だから、この会話を早々に切り上げることにした。これ以上互いに傷つかないように。
本当に、馬鹿だと思う。どうして太陽のように明るい目の前の少女が、正反対の暗くじめじめした雨が好きなのか。しっかりと聞いておかなかった事を。耳をふさいだことを。
聞かずに満足していた僕を。
「そうでした。」
頼まれごとをしていました。と、浮かれ気味の彼女は、僕の名前が書かれた方のノートを机に広げた。
すぐに我に返るとそのノートを、僕もそいつを横目に入れた。
彼女は、そのノートを読み始める。
「1つ目は、明日の英語の小テストのこと。そして二つ目は…
学校案内のことです、須藤さんに頼んでおけと先生がおっしゃっていました。」
成程、あの担任は僕に任せたのか。部活に入っていないのは、クラスでは僕だけなので、先生は当然の采配をしたといえるだろう。けれど、この時間からは…
彼女は、あ。と、夕暮れをのぞかせる窓に息を吐いた。
梅雨の時期とはいっても、まだまだ日暮れは早い。
まだ興奮冷めやらぬ彼女に、明日の放課後に学校を案内する旨を伝え、おまけに英単語の出題範囲を教えてもらうと、僕らは学校を後にした。
帰りがけ、彼女は下駄箱の最下段に上履きを放りながら明日の単語の小テストに出てくる問題のゴロを得意げに教えてくれた。彼女のその剽軽な洒落に失笑してしまった。
たまには、こんな晴れの日があってもいい。
読みかけの本を、学校に置いて行ったのに気付いた僕は、帰途を終えると頭を抑えることなくおとなしく眠った。
間違いなく、初めて会ったその子はあんな短い時間の中で僕の中に『特別』を作った。それは眩しすぎて、思わず後ろめたさを隠したくなるような今までにないもので、そんな自分の胸の内が不思議でしょうがなかった。もし僕の気持ちが教室くらいの大きさなら、その隅っこの方、用具や数多の文房具に埋め尽くされて陽を見る事すら叶わなかった道具を、ふと思い立って引っ張り出された心地だ。その道具に名前を付けるなら期待だとか、心地良いだとか、楽しいとかといった、もう忘れかけてカビの生えたもの。忘れていた方が楽かもしれないのに、そんなこと思いもせずに気づけば何時もの机の上に放り出していた。だからその夜見たのは、僕を僕にする嫌な夢だった。
今日は、生憎の雨。
北上してきた梅雨前線の影響で作り出された雲は、延々とガラスに雨を打ち付けさせている。
生憎とは言っても、気が重いと思っているのはクラスの大半だけで僕はとても居心地がいい。梅雨はやっぱりこうでないといけない。昨日の晴天は、イレギュラーだったみたいで外界は蒼一つもない雲一色だ。
隣の席で、朝から今の今まで快活さを、遺憾なく発揮している彼女もどうやら本当に雨が好きみたいで安心する。裏と表とで口裏を合わせて、僕に気を使っていたとしたらどうしようという心配も杞憂に終わった。
「sortはソーっと仕分ける、だよね。」
胸の高鳴りを、ペンに載せて楽しそうに丸付けをする彼女に僕は昨日の帰りがけに教えてくれたお似合いの語呂を当てがった。雨の日、という事もありその舌は軽い。
目の前のミニットペーパーの意味する英語の小テストは、先生の発声に合わせて、英単語の綴りと意味をそれぞれ10ずつ、ペーパー用紙に書く、という構成になっている。二つどちらもあっていれば1点で、合格点は6点、悲しくもそれに届かなかった場合は、期日一週間までにレポート提出となっている。
今日の僕の点数は悪魔の数字、彼女の機転の利いたパスから生まれた一点がなかったら危ないところだったので、お礼の意味もかねて彼女の昨日の言葉を範唱した。
「そ、うですね。」
先ほどまで、楽しげに笑っていた彼女は僕から目をそらして、少しだけ恥ずかしそうにそう言った。そうに、というのは実際には見ていないので、言い切れないところがあったからだ。
シャボン玉の見えない雨の唯一の不便に少しだけムッとしたけれど、今の言葉を反芻すると語呂とは言っても、確かに幼稚で間抜けだったかもしれない。自分の言葉が少しだけ気恥ずかしい。これなら彼女が、顔をそらしたのも無理はない。
反省した僕は、彼女に、ありがとう。とだけ言うと、後方から回されてきたテスト用紙に、僕のテストも載せて先生に渡した。気持ちは消すほどではなかったので、そのままにしておいた。
やっぱり雨の日はいい。テスト用紙を受け取るために、後ろをちらりと見まわしたけれど教室にはシャボン玉どころか、塵一つも浮いてはいなかった。人の心が分からなくなる、という当たり前のことに気分は高揚し普通であることには優越感が生まれる。
人間とは常に他者との中で、自分を見比べながら生活する、劣等感に生きる生き物だ。野生の生き物のように、地面に食べ物が転がっているわけでもないのに下を向いて生きていく無意味に意味を持たせる生き物でもある。
自分より高い、低いを見ている人の心の色が、綺麗なはずはない。
そんな汚い心が外界に出るのを拒み、人々の内に悪心を燻ぶらせてくれる雨の日は僕にとって特別だ。
まるで、僕だけが羽を持っているような感覚になる。
だから、やっぱり雨の日はいい。
そうして、独り浮かれている自分の心地に気づいて僕はやっと頭を『抱えた』。
冷静になって、授業を半身で受けているとあっという間に放課後になった。
帰りのホームルームを終えて、クラスの大半がゾロゾロと下校しているのを尻目に、僕も帰路に就く準備を進める。
二日目だというのに隣が五月蠅い。クラスメイトが彼女の近くに集まって何やら楽しそうに話をしている。てっきり何か気持ちの一つでも浮かぶものと覚悟していたけれど、思いのほかあまり興味は湧かなかった。やっぱり雨の日は良い。
隣が静かになった頃を見計らって、席を立つ。面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁だし、この心地を邪魔されたくもない。けれど、どうしてか足が重い。多分、気圧の関係か何かでこうなっているんだろう。鼻につく違和感も、どうせ大した事では無い、とほったらかしにしていたらどうも冷静になりすぎていたみたいで、彼女との約束もすっかり忘れてしまっていた。
横でぷくぅーと頬を膨らませている彼女に気づいたのは、彼女の席の前を何食わぬ顔で通り過ぎるころだった。
「あ。」
彼女を横目に見たとき、記憶細胞のすべてが彼女を触媒にして、「思い出す」という化学反応を起こした。
「あ。じゃ、ないです!」
がっこうをあんないしてくださるって!と、とてもとても隣にいる人間へ聞かせる大きさではない怒声を浴びせる彼女に、又頭が痛くなった。しかし、雨なのが幸いして周りの目も大して気にならない僕は、ごめん、と一言謝るとまだ捲し立てたりない彼女を四の五の言わせずに連れて教室を飛び立った。
雨足のおかげで、廊下は人通りが少ない。窓からは黒い傘をさす生徒たちが校門に向かってまばらに点を作っている。見た限り廊下どころかもう、学校自体に生徒がほとんどいないのだろう。いつもは聞こえてくる野球部やらなんやらの掛け声も今日ばかりは息をひそめている。
「私は忘れていなかったのに!酷いです。」
尚も、小鳥のようにか細く啼く彼女に稚拙な笑顔で平謝りを続けていると、もういいです。と、遂に彼女はそっぽを向いてしまった。少しだけの憤りを感じた。めんどくさくて、この会話の一端でも指を切りそうな自分がいる。やっぱり人付き合いは、来世の僕に任せてしまおうか、と思った。
けれど、彼女を、怒らせてしまったままで学校を案内してもお互いにいい塩梅とは言えない。それに出会ってまだ二日目だし、ここで燻ぶらせてしまっては、これから先の隣人に余計居心地が悪くなる。
だから、取りあえずは彼女に機嫌を直してもらうのが何より先決だ。損得勘定が機敏に働いて誠意を見せるべきだと判断した脳系統は、急いで僕を駆り立てた。
「燈昌さん。」
振り向いた彼女に合わせて頭を下げた。
「ごめん。」
この謝罪の中には、知らないうちに昨日、迷惑をかけたことも含まれていた。僕のせいで、放課後遅くまで残されていた少女への申し訳なさが、体から先ほどの少しばかりの怒りを押しのけて、滲み出てくる。
しかしこのままだと、滲んだ気持ちの波に押し流されそうだったので頭はしっかりと抑えた。
その分真剣さが上乗せされた僕の姿勢を見て、彼女も観念してくれたみたいだった。
少しだけおろおろとした後に、その長い黒の髪を細い指先で整えて
「顔を上げてください。」
私も雨で浮かれていたみたいです。と腰を曲げると、彼女は困ったように笑った。頭を抑えていた僕に関係はないが、普通なら胸がずきりと痛むのだろう。そう思った。
顔を上げた僕に、彼女がほほ笑むと、それではいきましょう、と彼女は先ほどまでの怒りなど忘れてスキップをし始めた。どうやら、彼女の体と僕の体ではバージョンが違うらしく、軽快なスキップを見せてくれた新バージョンの彼女はあっという間に僕を置き去りにするほどの馬力を持っていた。
これじゃどっちが、今日の道草の主役か分からない。普通、背中を追いかけるのは僕の役目じゃないはずなんだけれど。言ったところで無駄な事を早々に悟った僕は、走り去っていく太陽みたいな元気な女の子の後を何も言わずに追いかけることにした。
「ここは何ですか?」 「何をする場所ですか?」 「ここは、体育館ですか?とっても広いです!」
「田舎だから。」
校内を電光石火の如く駆け回る彼女のおかげで、とりとめもない大きさの学校でもあっという間に彼女に冒険しつくされた。まだまだ探求したりない、という彼女の欲求は、残念ながら学校内で満たされることはもうない。粗方案内が終わって、代わりにもう十分すぎるほどの役割を果たした僕が報われる時が近づいてきた。
最後に、僕らの普段使っている教室の対角線上の暗がり、体育館に赴く道程の校舎の端で、期待に応えるのには、あまりに重荷すぎる小教室の前で燈昌さんは立ち止った。
「ここは、何ですか。」
彼女の指さした先にはジメジメとした暗がりがなりをひそめている。まるで、雨の湿度を体現したかのようなその教室には人っ子一人いる気配すら見せない。
「空き教室だよ。」
長らく人の入場を許可していなさそうなその教室を一瞥する。
空き教室、と言うのは嘘ではない。長らく使われていないこの教室は、使わない荷物が山積みにされカビの根城になっている。けれど、彼女への言の葉に何の役にも立たないよ。という含みを持たせたのは半分嘘だ。
この学校の教室は、それぞれがそれぞれの鍵で施錠できるようになっている。僕たちの使っているクラスも多聞に漏れることはない。先生か、担当の生徒が、放課後になると一般的な教室のカギ閉めを行う。梅雨の時期に入って知ったことだけれど、予算の都合か、此処のカギは存在していなくて音楽室のカギと同一の鍵型をしている。部活に組していない代わりに仰せつかった仕事の帰りで何とはなしにダメもとでカギを入れたら空いたのだから、田舎の学校とはいっても、もう少し防犯をしっかりしてほしい。
何とかかんとか同士は惹かれあうと、昔に読んだ漫画で云っていた。
ほかの人にとってはガラクタに見えても、僕はガラクタが宝物に見えてしまう人種らしく、適当にあてがった鍵が開いたとき、学校の隅で日の目を見ないこの教室はまるで秘密基地のようだ、と目を輝かせた。
丁度、今隣で実演してくれている彼女のように…
僕が嘘をついたのは、これを危惧していたからだ。
心を、感情を、なんの恥ずかしげもなく表に出す少女。感情を押し殺して生きてきた僕とはまるで正反対の彼女が、雨が好きだと言った時、嫌な予感がした。毛穴が全部開くくらいの一世一代の悪寒。今、真横で、むっふー、と変な声を出している彼女を見たところ、その予感は現在進行形で的中している。
「入る方法とか、あるのでしょうか!?」
一呼吸おいて、お菓子をねだる童のような顔でこちらを見つめてくる。さっきまで電光石火だったのにそんな柔軟さまで兼ね備えているのだから、彼女のせいで人類全員が感電死しても文句は言えない。どうやら、雷にあてがわれたのは僕が一番最初のようで、腹に決めていた黙秘も彼女の七色の瞳に押し切られてしまった。間違いなく昨日に引き出した気持ちが、押し切るのに足るものを産んだのは言うまでもない。
「音楽室。」
ぼそりと呟く。
彼女が次の言葉を、うんうんと頷いて催促してくる。
「音楽室のカギで、開くんだ。」
彼女の前では、辞世の句も、墓場まで持っていくと決めたものもあっという間に洗いざらい吐いてしまいそうなので、それっきり僕は頭を抑えることにした。
半ばやけくその僕の言葉を聞くなり、彼女はおお、と拍手をする。
そうして彼女の頭部からは雨なのに、喜びのシャボン玉がポポポと廊下を撫でた。雨の日も晴れの日も、エネルギーがどれだけ必要とされていようがいまいが、彼女の感情の邪魔はできないのだと、開き直った僕はまた感心した。
実は、やけくその中に彼女の虹色のシャボン玉が見られるかも、という見返りの心が少しあったのだけれど、そんなことが気にならないくらいに彼女が喜んでいたので、まぁ良しとしよう。これからの隣人関係は、さきがけ極めて良好なものになりそうだ。
彼女も満足してくれたようで、外にある渡り廊下を使って、教室に向かった。彼女は終始上機嫌で教室までの道のりは、僕の半歩前を軽やかに歩いていたが鬱陶しいとは微塵も思わなかった。
途中で立ち寄った自販機で、彼女は一言断って清涼飲料水を買った。まだ初夏が顔を出してはいないとはいえ、こんなに派手に動き回れば暑いし喉も乾く。半ば強引に彼女を連れ出し彼女に振り回されたため持ち合わせが無いことに気づいた時、落胆より先に彼女の腕が伸びた。
「お礼です。」
凛、として手を突き出した彼女の、一方のペットボトルを勢いで受け取ってしまう。
女の子、というか人に恩を売られる主義はないので直ぐに脊髄が拒否反応を示して返そうとしたが、報恩謝徳です!と良くは分からない難しい言葉で窘められてしまったので、ありがたく受け取っておく事にした。
キュポッ、という炭酸飲料独特の開梱音が響き、準透明の液体を勢いよく流しこむ。
美味い。五臓六腑が何かは知らないが、そこにシュワシュワの刺激が染み渡っていく。何にしても、最大のスパイスが空腹とはよく言ったものだ。ぷはぁ、と渇きを潤す水分に自然と小さく唸ってしまった自分を誤魔化す様に彼女に目を向けると彼女は僕の数倍気持ちよさそうに、ごくごくと喉を鳴らしていた。
「きっと、このシュワシュワと今日のことは忘れませんね。」
シャボン玉は、まるで泡のように無尽蔵に僕らの周りを漂い、のど越しの良さを全身で表現している。最近はやりの何でも炭酸にできる機械みたいに、彼女を使えばどんなものでも刺激的にできそうだな、と皮肉めいた笑みがこみ上げる。
何ですか?と訝し気にこちらを見やる少女に、何でもない、と笑うと、僕らは自販機を後にした。
教室につく頃になると、雨足はより一層勢いを強めていた。
彼女が、本当にありがとうございました。と、頭を下げ、とりとめのない返事をしてから僕らは、別々の帰路に就いた。
まだ二日目だというのに僕は、大層彼女にご執心らしい。
裏付けるように片手で事足りるこの二日間は、僕の10年間よりも長く思えた。
其れも仕方ない。こんな人間は、今まで見たことがない。あんな風に、感情表現が過激で裏表を知らないような、まるで子供のように好奇心旺盛で思わず目で追ってしまうような子は。例え皮肉でも嘘をつかずに笑ったのは何時振りかだし、人に謝ったのももう、しばらくぶりな気がする。それに振り回されただけなのに少しばかり、その不自由は楽しかった。
道路にできた水たまりを見れば、頬を緩ませた少年の顔が反射していた。
驚愕する。
これは、自分か。そう思った途端に腕は頭を捉えた。違う、これは僕じゃない。こんな風に笑ってしまうのは、気持ちに実直になってしまう人間は僕じゃない。これだと、今日という日が僕の中に描かれてしまう。今の今までそうしてきたはずで、僕は約束をしっかり守ってきた。でも、その約束を破ってしまったら『昔』が色褪せてしまう。だからきっと今日も又夢を見る。僕が僕だと云わしめるために。だから、感づいてしまったならこうするしかない。
雨は、まだ降っている。深呼吸をして、水たまりをもう一度見る。大丈夫、何時もの僕だ。元に戻った心地で帰りがけ、ずっとこんな雨が続けばいいのに、と傘についた雨粒を手でなぞった。曇り空なのに、僕の顔は晴れの日のような蒼で彩られていて変なこともあるもんだな、と歯牙にはかかなかった。
そうして、ようやくまともになった心持のおかげで夢は見なかった。
「おはようございます。」
「うん、おはよう。今日は晴れたね。」
何気なく笑ってから、他の人にするのと同じように何気なく口から返事を出す。彼女の表情を窺うこともせず、突き放すように言った。尤も、こうして頭に手を置いているからその真意が伝わることは絶対にないが。
窓から差し込む朝日は痛いくらいに眩しい。僕がチョコレートならドロドロに溶かされてしまいそうだ。それで、見られたくない中の中まで溶け出して、ぐちゃぐちゃになってしまって、そうして、あとは、もう考えたくもない。きっと僕を溶かすこの照り付ける陽光は融点の高い皆も彼女も、痛みなぞ一つも感じずに、気持ちいい、ぐらいに思うのだろう。その考えの相違に僕と彼ら、彼女らは違うことを改めて感じさせてくれる。それは二度目の快晴に加えて、有頂天になっていた僕の心を地の深くに叩き込むには十二分で、もう僕は、何時もの僕に戻ることが出来ていた。
窓とは反対方向の彼女は、その光を一心に浴びては瞳を瞬かせている。きっとこんな瞳を持つ女の子は、雨の雫と孫文違うことなく晴れの光線も心地のいいものと思うはずで、勝手に感情移入して付け上がっていた先日が恥ずかしくなってくる。丁度いい。引きだして雑多になった部屋を片付けるのにはいい日だ。もう抱くことのない気持ちに、今生の別れを告げて彼女に微笑む。
「晴れましたね。太陽の光というのは、ほんとに、い…。」
「おはよう、あやめちゃん。」
「あぁ、おはようございます、坂東さん。」
そうして一人、また一人とTちゃんの周りには人が集まっていく。
その光景に、昔からずっと出しっぱなしにしていた気持ちがここぞとばかりに反応して彼女との会話を中断する。そして今までの会話を嘘のようにしようと前を向いて、机から本を取り出す。きっとこれで間違ってはいない。気持ちの上と下が分かるくらい、Tちゃんに少し近づきすぎていただけで、人との距離というのはこれくらいでいい塩梅だ。彼女の組している隣の席は近い筈なのに余りにも遠く感じてそれでいい、それがいいんだと自分に言い聞かせた。
彼女のその続きの言葉と、一瞬虹色に混ざって生まれたシャボン玉は、聞いていないし見てもいなかったことにした。
「それで、偏執というのはパラノイアとも言って一般的には帰属バイアスであることでしられている。そして、それは...」
透明なガラスから透過している日差しが、狂おしいくらいに疎ましい。先生の声も、クラスメイトのひそひそ声も、それからみんなのシャボンも、五感に入る全てのものが脳内では異物だと認識して、なんとか自分の中から吐き出そうと躍起になっている。体が熱い。
「おい須藤、聞いてるのか。そんなに頭が痛いなら、病院にでも一回行くと良い。」
先生の言葉にははは、と皆が笑いだす。いつもは大したことに感じない、なんなら冗談の一つでも吐いてやるのが僕なのだが、今日はどうにも可笑しい。今年初めてこの雰囲気に包まれた時のように、不純物をゼロにしようと胃酸が全身を駆け抜け溜飲すらも溶かそうと躍起になって居る。声を荒げたところでみんながやめてくれるわけはない、みな自分の世界を持っていてそれが楽しかったら何でもいいのだ。
頭の中の起草も相まって幻肢痛ではなくなっていく頭の痛みに、やがてたまらなく我慢ならなくなって限界が訪れる。
「保健室、行ってきます。」
「お、おお。気をつけてな。」
どんな顔をしていたか、分からない。とにかく、この胸中に堪った汚泥の起伏のような感情を吐き出し、平らにしてしまいたくて必死だった。幸いなことに座席は最前だったから、その時の顔は誰にも見られていないだろう。断りの言葉を入れてから、一目散にトイレに向かった。
途中一番耳に挟みたくなかった隣の可愛らしい笑い声は聞こえないままでいた。
まだ不快感は、亡くなってはくれない。汚泥を吐き出せば楽になると思っていたが、まるでずっと車に揺られているような感覚がやんでくれないせいで、吐き気は止まらないままだった。
四月は、ずっとこんな感じで最初にA君だかが考え付いたこの言葉を、皆口々に呟きだした時は世界の終わりだと思ったのを覚えている。他の人からすればきっと何ともないようなこのいびりは、僕からすれば不快感を一手に集め築き上げた気色の悪いアーチにしか取れなかった。いじめられたことは今までにただの一度もないしそこにトラウマも、PTSDも存在はしていないはずでそれ自体は僕が一番理解していて、疑問符を巍然に浮かべているのも自分ぐらいのものだ。でもそれでも何とか生まれた不快感を押し込め出てこないように蓋をして、もうすっかり慣れたものだと思っていたが本能が受け付けないものは、時折こうして忘れた頃にやってくる。
こうして、思い出したようにはいずり出てくるのは大抵僕がへまをした時に限っている。妙な期待に胸を動かした日や、何かに期待した日には決まって、何でもないようなことに物凄い落差を感じてしまって、理想と現実の違いに吐き気が止まらなくなる。これは僕の不徳の致すところなので誰にも文句は言えないのは、陽を見るより明らかで、さしもの今回の原因には心当たりがある。
心当たりを思い出したところでどうしようもないことにまだみんなの粘膜質な笑い声は脳裏から離れない。背中を無数の指で際限なく突かれているようだ。きっと自分の指すらその中には入っていて一際強く、血が滲むくらいにえぐられているのが分かる。こんな自分を、自分も認められない。其れも僕自身が一番知っている。理想と現実の乖離にこれだけ胸を痛められるおめでたい心は、僕が弱い証で、こんな胸中がばれた暁にはそうやって後ろ指をさされて、変な人、変わった人と馬鹿にされる。其れで弱い者いじめが大好きな皆は私をサーカス団の見世物みたいに嗤って、蔑すんで、あぁ本当にこのまま生きる意味などないんじゃないかしら。そのうち、このトイレの個室の上からバケツでも放り投げられて全身雨一色のびしょびしょになるの。
頭にはびこる異物に、タガが外れて吐瀉する。全方位の悪意は、最早僕すらも純粋な異物に見えて、四面楚歌に涙も枯れそうになる。かの暴君の項羽も、嘆くことしかできなかったのだから、今は嘆くこともできずにうずくまっているだけ。ただ、チョコレートみたいなドロドロの感情と胃酸が全身を駆け巡るくらいだ。
誰も、僕すらもこんな自分を認めてはくれない。もう世界が、このトイレくらい小さければいいのに。そうしたら、みんなの顔も見なくて済むし僕も僕を見なくて済む。昔々に読んだ本によると、人は誰かもう一人がいないと自分を自分だと認識することは叶わないらしい。今は、そんな不利益も一縷の希望みたいに見えて一筋のシャボン玉を潰した。
こんな溶け切った脳漿を抱えたまま何とか耐え抜いて、現在の授業は四限。出るときに長針は終了十分前を指していたので、まさに今チャイムが鳴っている。頸木を切り個室のカギを開けて洗面台で穢れを取ってから、職員室に歩き出す。立てつけられた鏡を見ることはしない。
「すみません、音楽室のカギを借りに来たのですが…。」
「あぁ。それなら今、丁度入れ違いで取りに来た子がいたよ。」
「そうですか。」
多分形を保っているのは、すでに服から露出しているところだけ。それ以外は理性も本能もないぐちゃぐちゃで、裸になった時にはゲル状の液体が流れ出てしまう。そうならないためのとびっきりの方法を、僕は知っている。こうなった時にはどうするのがいいのか。この学校に来て、どうしようもないときの処世術は織り込み済みだった。
陽の当らない、じめっとした雨の体現のような場所。無作為に積み上げられた机や箪笥、それら全てに付着した香しい黴の匂い。程よい湿気、隔離された室内、そこに入るだけで僕は一瞬のうちに人間に戻ることが出来る。湿度の高さから、常温より数度高く感じるその室内はしかし僕の熱を醒ますのには十分で零れかけの己も僕ではない何かもたちまち僕の殻の中に我先にと閉じこもる。これは、一年生の時に見つけた自分だけの秘匿。万が一のために地窓は空けているので鍵がどうだろうと関係はない。
あった。
辺りを見渡す。幸い周辺には、人一人も見えない。こんな校舎の端の端に用があるのは、なにかのっぴきならない事情がある誰かくらいしかいないのも一目瞭然で、いつもこの教室に入るその前から教室に入ったような雰囲気を味わうことが出来る。這いずる黴の因子も、暗がりにさえずる埃の群れの進行も、誰一人邪魔はしない。空気を目いっぱい肺に取り込む。そうすると、何時ものように空気中に霧散していた僕の断片が酸素を介して少しずつ戻ってくる。
地窓に手をかける、すると右方向の扉が少し開いているのに気付いた。締め忘れていたのか。もうこうなるのも久しぶりのことなので真偽のほどは定かではない。そんなことよりも、と、閉じかけの殻が残りの全ても身に収めんと騒ぎ立て始める。なけなしの理性ももう限界で、そこに手をかけるのが世界の理のようになんの躊躇もなく扉を開いた。
いつも真っ先に目に入るのは、古ぼけた机とぎしぎしと歯ぎしりをやめない椅子だ。後ろ手から無理やり引っ張りだしてきて広い空間にちょこんと佇む教具。その椅子が目に入るといつもは直ぐに日の当たらない位置に腰かけ、俯いて一人を謳歌する。今日もすぐにそうするはずだった。
「どうして、ここに…。」
聞きながら、昨日の会話を思い出して自分の中で勝手に納得してしまう。あの時この場所を教えたのはほかでもない自分自身だ。
目の前には、椅子に腰かけて雨天浴をしている少女がいた。天井を向いて目を瞑り一手に闇を吸い込んで気持ちよさそうに座っている様は、何とも言えないらしさがある。
「どうして、といわれましても、どうにもこの教室が気になってしまって、来てしまいました。」
彼女の、本心に土足で踏み入ってくる言葉もいつもなら上手くやれたはずで笑顔を崩さずに頭を抑え、実は僕もおんなじだよ、なんて反吐の出るようなセリフものうのうと言えたかもしれない。でも、今日だけは違った。不幸なことに、汚いものは綺麗さっぱりに吐き切ってしまったし、面目を保つための理性も、折あしく持ち合わせてはいない。餌を眼前にして制止を強制され、よだれを垂らす忠犬の気持ちも今なら痛いほど分かる。
「出てってくれないかな。」
「え。」
「出てってくれよ!」
閉じかけの卵は完全に割れて、目の前の君と白身がぐちゃぐちゃになってつらつらと本当が出てきてしまう。隠していた溢れかけの本能と彼女への嫌悪感も、最早何とも無い事には思えなくなって身の丈に合った言葉が氾濫する。
その氾濫原の割れ目を抑えることも忘れて、跡になって本音を言ってしまったのを急いで隠そうとした。その行為は愚直極まりないもので、酷く間抜けに見える。目の前の女の子は呆けている。
「大丈夫、ですか。実は教室にいるときから思っていたのですが体調が悪いのかな、と心配だったのです。」
「い、や、違うんだ。これは、何でもないことで。これは。」
「頭もそんなに痛々しく抑えられて、響きますか?」
これは、癖だ。一種の自己防衛にも似た何かで、これをすれば感情の高ぶりは抑えることが出来る。これが癖であることは、僕は彼女にも何かの拍子に云ったはずで、それで誰もかれも見せなかった初めての応答に、僕は嬉しくなって。だから、これも彼女は癖だという事を知っている筈で、ともすればこの質問の意図は何なのだろう。真意は、どこにあるのだろう。そう考えると淡い期待にもぷっつんと歯切れがついて、逆に僕は自分を保つことが出来た。
「いや、まあ、少し痛むかな。でも、保健室には行ってきたから多分大丈夫だよ。」
世界には、愚生一人と残りは他人。だから気が付いた。この心の境界はきっと誰にも踏み入らせてはいけない。少しでも緩めれば心無い何かで簡単に壊れてしまう。ありがとうなんて、感謝の言葉すら湧いてくる。Tちゃんのおかげでそんな簡単なことにようやく気付くことが出来た。
「ごめん、僕もう行くね。」
彼女のシャボン玉を見ることもせず、閉じかけの扉を開いた。
「待ってください。」
待たない。初歩のミスは、手っ取り早く離れさえすればいくらでも誤魔化しは効く。それに、雨にしては些か居心地の悪いこの場所よりも烈日の光を一心に取り込んだ教室の方がまだ幾分かいい。
そんなあとづけの理由にかこつけて扉を開き切り一歩を踏み出すと、その女の子は僕の手を掴んだ。思えば簡単に振り切ることは出来た筈で、でも思いのほか彼女の冷たい腕は重たく感じて、振りほどくことは出来なかった。崩れ去った中身に、まだ面目を保とうとしていた己に自身で嫌気がさしたのだろうか、厭悪の中に埋もれた一縷の別なものがもぞもぞと這い出てくる。
「もしかして、苛立っていますか。」
一体全体何に苛立っているというんだ。君にも怒ってはいないし皆にも、苛立ってはいない。悪いのは僕で、こんな頭のおかしな話は愚生の中にとどめておくのには丁度良くて、それにもしばれようものなら僕は頭のいかれた精神異常者にでもなってしまう、だから僕は苛立ってなんかいない。しいて言うとすれば、扉を開けたときに肌身を眩しいくらいに照らすこの、
「晴れの日は、お嫌いですか。」
振り向く。彼女の言葉に苛立ったわけでも、嬉しく思ったわけでもない、ただ正鵠を射る彼女の言葉から目を放すことは出来なかった。
「実は、私も太陽が苦手で。」
そう言って、こめかみを恥ずかし気に撫でる少女の顔をまじまじと見つめた。
「それって、本当。」
確かめるように、その言葉の真意を自分のものと照らし合わせる。すると、彼女は手を放して微笑んだ。
「え、ええ。本当です。太陽に中てられると、どうにも疲れてしまって。だから、ここで少し体力を回復しようかとおもいまして。」
そうしたら須藤さんがいました。
その言葉の二人称にふさわしいものを僕も同じようにあてがって。
「もしかして、と、うしょうさんも晴れが嫌いなの。」
「あはは、なんだかおかしな質問ですね。でも、はい。私も晴れが嫌いです。あの照り付ける太陽に何時か大目玉を食らわせてやりたいくらい、あのお日様を見るとイライラしてしまいます。」
扉を閉めると、教室は雨一色になって彼女だけがより輝いて見えた。殻から零れ落ちたどろどろの大半は全身で拒否反応を示している。やめておけと、どうせ後悔すると。
でも一欠けらの勇気のおかげで、彼女から逃げることはしなかった。
だったら後悔してやる。人間一度くらいは裏切られて痛い目を見るくらいで丁度いい。だからどうせ裏切られるのならせめて笑顔が可憐で屈託のないこんな子がよくて、この子になら幻滅してもいい。その分、反目されたとき二度と人を信じられなくなるから。
初めて多数派の自分に逆らって、彼女の瞳を見つめた。
純粋な喜をてらったシャボン玉に、吸い込まれてしまいそうな虹色の蠱惑的な瞳。
「嫌いなものも一緒だなんて、私たちは似た者同士なのかもしれませんね。」
空に比べれば幾分か小さいこの薄明りの太陽なら、呆れるくらいの馬鹿になって信仰してもいい。それで、イカロスみたいに身を焦がされたってかまわない。だから今、ここから一度くらい最初で最後の呆れるくらいのバカげた一歩を踏み出してみてもいいのかもしれない。気づけば僕の中からは僕しかいなくなっていて、多数派は殻の中に鳴りを潜めている。さっきまでの考えが嘘のように心地良くなってきて鹿を馬だといったことには、後悔は生まれない。
踏み出した一歩の心地はきっと僕以外の誰にも分からなくて、足元からはこれから生まれるであろう喜びや悲しみや、苛立ちや焦燥、そして後悔が一度に地面を彩っていく。仄暗い闇の底だと思っていた場所は踏み出せば案外いい景色で、きっとこの一歩先の光景は自ずと見えてくるものではなかった。こんな初めての気持ちになんと名前を付けていいのかは分からなくなって、でもこれだけ僕には分かる。他の誰でもダメで、きっと彼女だけ、彼女だけがこのこま細い隙間をぬって糸を通すことが出来るのだろうと。だから、これは喜劇や物語でいうところの運命で、起こることの決してなかったはずの起をてらうほどの劇衝で、そう思わされるくらいに、彼女は七色だった。
自分の思い通りに事が運ぶことなんて、全くない、と大人たちは口を酸っぱくして言うけれど、全く持ってその通りだと思う。だって人は、面白いくらいに自分のことしか考えていない。誰かが思うようになれば、ならない人が出来るわけで、つまりならない人っていうのは一人を除いた残りの全部だ。もしも、それでも人の漢字の成り立ちが人と人が支えあってうんたらかんたらと、熱弁する人がいれば僕の視界をぜひ半分分けてあげたい。そうすれば甘ったれた考えが、粉みじんに消し飛ぶだろう。
人はみんな、寄り掛かる相手を探しているのだから。
僕は、宿り木なんかになってやるつもりもないしそもそも生憎その席は、ずっと昔に埋まっている。
いわば独りで二人分、そして僕とその遠い昔の誰かが世の中を斜に構えてみることで、人なんて漢字が出来ても面白そうだ。それが反り返って八になって僕の名前が出来たと考えてみるのも面白い。
でも、仮に、仮にもし僕が寄り掛かる相手を探しているんだとしたら、それはきっと僕とは正反対の人だろう。こんな暗がりから無意識に抜け出したくなって誰かに縋りついたのなら、多分それは。
彼女がクラスでの生活に違和感をなくし始めたころ、梅雨は終わりを告げた。
もう少し、梅雨前線にはがんばってもらいたかったけれど、120の内の5日を連続で雨にし、今年はまずまずの成果を上げてくれたので及第点だ。文句は言うまい。それは彼女も同じようで、連日の豪雨が嘘かのような雲一つない快晴を眺めて、お天気ですね。と悲しげに笑っていた。
「梅雨も明けて、気分が乗ってきたところで、来週からテスト期間だ。」
帰りのHRの時間、教壇に独り仁王立ちして先生がいう。
咄嗟に、えー、だのやだ、だのと言ったブーイングが教室中を駆け回った。
気づいた時には高校生お得意の駄々こねが始まっている。
羨ましい。叶わない気持ちにも、何一つ気にすることなく言葉にできるのが。
僕たちは子供と大人の間の、中途半端な位置にいる。都合のいい悪いで、大人たちにはころころその立ち位置を変えられてしまう、難しい生き物だ。
そんな難しい生き物は今回子ども扱いはしてもらえなかったようで先生が一喝した。
「お前らが二年生になってから、初めての期末考査だがこのテストの結果次第でお前たちの未来が決まるとは言っても過言ではない。このテストに熱心に取り組むことは受験の命運を分ける。」
騒めきは、一瞬止んだが、すぐにまた各々の言葉を先生に投げた。
皆口々に嘯いているが、今の先生の言葉でクラスの雰囲気が明らかに変わっている。
さっきまで、喧騒であふれていた教室は不安一色のシャボン玉に染まっていた。
この高校は、偏差値が高い。学校長は文武両道を謳い、生徒のほとんどは部活に入ることを義務付けられている。
今、口では、余裕ぶっているが皆プライドを研ぎ澄まし、各々がテストへの姿勢を改めているところだろう。その証拠に、先ほど配られた期末のテスト範囲用紙を、半身でみな熟読し始めている。
したり顔になる。
この学校にはテストだからといって部活の時間がなくなる、所謂テスト週間というものはない。
だから、今こうしてやっと危機感を煽りだしたクラスメイト達には、本当に申し訳ないがもう遅いと心の中で嘯いた。
世界は平等ではないので、早くもレースで優位に立った僕は、ほんの少しの優越感に浸った後、頭を抑えた。
隣の彼女は、ムムムと難しそうにその用紙とにらめっこしている。
「数学の範囲が凄く、広いです。」
よくよく考えてみれば、この半月間でだいぶクラスに馴染んだとはいえ彼女が部活に入った、という話は聞いていない。
だから、彼女も当たり前のように日々の研鑽を積んでいるものと思っていたが、焦りの色を見る限り、どうやらそういうわけではなさそうだ。無理もない、まだ転校してきてひと月もたっていないのにいきなりテストだなんて、心底同情する。
「数学、苦手なの?」
このままではこれから日が暮れるまで、にらめっこしているであろう彼女に何とはなしにそんな疑問をぶつけた。
はっきり言って、この質問は間違いなく僕にとっては蛇足だ。人よりも、感情の起伏が激しい彼女を授業中に見ていればシャボン玉で自ずと答えは解る。
特に数学と、国語の時間はそれが顕著なので、聞くくらいなら英語とかにしておけばよかった。と自分の杞憂に後悔を催した。
「ベクトルが、どうしても苦手で…」
どうやら心配は杞憂だったようで、彼女は渋々とノートに、ベクトル!!、と書きながら僕の質問に応えた。ノートに、まじめに書いているくらいなのでよっぽど苦手なのだろう。
確かに数学の時間、彼女は基礎の基礎、最初の説明の時点で頭にはてなマークを作っていた。教師の教え方は確かに褒められたものではなかったが、分からないほどではない。其れなのに彼女は、えとえと、とちんぷんかんぷんな頭の中を整理しようとしていた。
「各々頑張るように。」
先生は、そう告げると教室を出ていった。
そんな彼の背に、その各々はなおも捲し立てる。
しかし、えー、という不満げな声もやがて焦りという新しい感情によって、直ぐに色あせていくのが見える。
もう完全に、やる気に火がついていた。
ため息をついて、より一層強く頭を抑える。
その切り替えの早さが、少し癇に障るんだ。
だってそうだろう。
皆が、皆それだけの焦燥を日常生活に向けられたら、どれだけ世界は平和になるだろうか。
常にだれかを、傷つけていないか、と焦りをもって生きていたら、どれだけ悲痛に泣く人が減るだろうか。そんなこと、するのは造作もないことなのに。当たり前のように傷つき傷つけて、足をひとたびくじけば心が弱いと罵倒され、それでもなお、まるでそれが世界の理であるかのように人は疑いもなくうのみにして、そんな強がりが人間の生活に充満しているから、人は人を、当然のように傷つける。
これは、人の気持ちに人一倍敏感で、気持ちが見えるからこそ思うことだ。僕だけが持っている視点。けれど、自分もどうやら醜い人間のようでそんな彼らを理解しようとは思えなかった。
結局は、これも僕が活きやすいように生きていくうえでこうなればいいな、とかいう欲望をさらけ出したただのエゴ。そんなことはお構いなしの周りに、そして皆に似通った僕の気持ちに毒々しい感情が芽生えていく。
「大丈夫ですか。」
ノートを開いたまま、心配そうに見つめてくる少女にすぐに僕は正気に戻って笑顔を向ける。
大丈夫と。
「まだ一週間もありますし、大丈夫ですよ。」
頑張りましょう!と、虹色のシャボン玉と、お門違いも甚だしい言葉で彼女が鼓舞してくるのを、僕は何でもないような言葉で受け取った。
富嶽百景の一部分に、主人公がバスにゆらゆらと揺られる場面がある。あの、状況で主人公の思っていたことを50字以内で述べよ。といわれても、僕にはこれっぽっちも供述できない。
何もせずとも人の心など勝手に見えるし、見たくなどなくても人は自分を押し付けてくる。だから、わかろうとしなくても、自ずと答えはわかる。だからそんな一方的な圧力で傷つかないように僕は、ゆらりふわりとシャボン玉みたいに生きている。
崖に咲く一輪の花など知ったこっちゃないし、周りの人間がどうのなんて興味がない。どうせ太宰本人すらも、その日の夕食のことでも考えながら適当に書いたんだろう。
だから僕に国語の授業など必要ない、と毎度毎度現代文で頂戴する赤点の、丁度いい都合を考えていたところで、図書室に下校のチャイムが流れた。
真実は、いつも一つなのだとどこかの名探偵も言っていたし僕も全くそれを否定するつもりはない。寧ろ国語の回答ですらもそうであってくれ、と願う。
現代文の時間になると、いつも隣ではきはきとしだす虹色の少女には恐れ入る。
先生の問いに、喜びや悲しみ、焦りや怒りその他もろもろ。その数多を瞬時に頭に思い浮かべ、それをごちゃごちゃに混ぜて、良くわからないものを作ってから誰よりも早く、人の考え付く答えに行き着く彼女の様は、見ていて痛快だ。とても自分では、たどり着けない国衙力の境地を肌でピリピリと感じる。さらに面白いのは、いつもは何も考えていなさそうな彼女がその境地に達しているというところだ。皆は、一つしか物事を考えられないのに彼女は一度に、浮かんだ分だけ考えられる。
僕は彼女の思いついたうちの一つを浮かべるのにやっとになっているというのに。
誉め言葉を並べたところで、辺りを見渡すが図書室に彼女の姿はどこにもなかった。
なんだかやるせなくなったので、僕は足早に帰路に就いた。
下駄箱を漁っていると、後ろから声がかかる。
よお、頭痛君。という言葉に一瞬肩がこわばった。もしかしたら、人違いかもしれない。だったら反応するのは藪蛇なので僕は停止していた行動を何事もなく再開した。
そんな淡い期待は叶うはずもなく、少年は僕の肩を軽く叩いた。
「調子どうよ?」
あんまり良くはないかな。君のせいで。
とはとても言えないので、適当にぼちぼち、と返した。
「A君は?」
無意識に、生まれついてから身に着けた礼儀を持って彼にそう返すと、彼は一瞬、驚いたようにシャボン玉を出してから、すぐに笑った。驚いたように、というのは誰にでもわかることだから、付け加えて。
「本当は、調子よかったりしてな。」
なんて小言を残して。返そうかとも思ったが、心当たりがないので何も言わなかった。
「ばっちりよ!まぁ、テスト以外は…。」
彼は僕の問に笑ったり、ぶぅと悪態をついたりと、忙(せわ)しく表情を変化させている。
部活も終わったばかりだろうに、元気も衰えず忙しい奴だ。
数学があーだの、物理があーだのと愚痴を垂れている彼を傍観していると、何だよ。と、決まりが悪そうにしていた。決して怒っているわけではなさそうだった。
バツが悪いこの状況を打破すべく元気な少年は、そういえば、と話題を変えた。
「頭痛君の隣の転校生さ。」
咄嗟に頭を抑えた。別に浮かれていたわけでも、怒っていたわけでもない。
ただ、本能に根付いたように反射で腕が動いた。
どうしてかと聞かれても、理解らない。
その機微とは言いきれない大胆な行動を、彼は見逃さなかった。
「可愛いよな。」
にやにやとほくそ笑む、彼の真意が理解しかねる。適当にそうだね、とでも流しておく。
「狙ってんの?」
「狙ってない。」
さっきから何が言いたいのかわからない彼に、声を荒げる。でもそれはどうやら逆効果だったみたいで火に油を注いだ結果に、彼は攻守交代だ。と顔に書いていた。
これは、一度しっかりという必要がある。
ふぅー、と深呼吸する。
「君は、お腹がいっぱいの時に目の前に美味しい肉が転がっていたとしても、食べないだろう?」
それと一緒だ。
言い切った僕に、彼は少しだけまごついて、へぇ、と短声を漏らした。
「じゃぁ、頭痛君はお腹いっぱいなの?」
急所をつくような軽快な一撃に彼はまたにやりと笑ったが、折あしくも彼のその言葉は的外れで空を切っている。全くもって、ノーダメージだった。
「いや。僕は、ベジタリアンなんだ。」
そう言って今度は僕が笑うと、彼は、また別の面白いものでも見つけたように、ひねくれてらぁ、と負けを認めて下駄箱に上履きを放り込んだ。
靴を、アスファルトに広げると
「なんか、初めて頭痛君と話したかも。」
と僕に投げかけてじゃーな、と笑うとそのどろどろの靴で地面に跡を残しながら足早に行ってしまった。
前から何度か、話してただろうに。
真意がよくわからず、尻尾もつかめなかった彼の背中を目で追う。靴箱に上履きを放り込んだ時、片方の手が、地面に向いているのに気付いたのはその後だった。
道すがらに、アスファルトを突き破って咲く花を見つけた。
何も考えていないように見えて国語の時間、誰よりも考えている彼女は、きっとこんな花に僕の思ってもみない虹色の感情を抱くのだろう。
もしかしたら、国語の時間だけではなく彼女は常に沢山考えているのかもしれない。
いろいろ考えたうえで、一つの選択に実直になって行動しているのかもしれない。
いや、ないな。あり得ない。
脳裏に浮かべた少女の能天気な姿を見る限りそんなことは有り得ないだろう。
感づいて、思い浮かべた下らない憶測を、手のひらから落として踏みつぶした。
「だからここはどうなる須藤。答えろ。」
「1/2a+1/3b+3/11cです。」
「正解だ。」
答えると、先生は感心してくれたようでうむ、と頷いた。
「ここは来週のテストに出すぞ!皆も須藤のように、答えられるようになっておけ。」
其れでは授業を終える。そう言って先生は教室から出ていった。
やれ、出来るわけがないだの、頭が可笑しいなどの喚声が僕に向けられる。事はなく流石は進学校といった感じで、皆、先生の言葉に文句ひとつ言わずに教科書に〇をつけたり、メモを挟んだりし始めた。
皆焦っていた。
テストまで、あと三日ほどになったのだからそれもそのはずで、もはや悪態を本音でつくクラスメイトは一人もいない、と言っても過言じゃない。
彼らのほとんどが、今の問題とにらめっこしている。
楽々解けたのなら彼らを尻目に嗤うこともできただろうが。心の内から湧いて出た気持ちは、人を嘲るものではなかった。
僕も、危なかった。
昨日、たまたま勉強したところがこの問題だっただけで、しかも理解するのに結構な時間を費やした。これを、もし昨日先生に聞かれていたとしたら余裕で答えられなかっただろう。
別に、今日が三日ぶりの梅雨を思わせるほどの豪雨だったから頭がさえているというわけでもない。
完全にたまたまだったけれど、答えられたものは答えられたので、嬉しさを素直に受け取っておこうと思う。
クラスでの自分の立ち位置を知っている中で僕が、表立って酷いことをされないのは多分偏差値が高いだからだとか、学校の雰囲気がいいだけじゃない。恐らく、こういうことの積み重ねも漏れなく関係していると思う。
そうして少しだけの自尊心を愛でていると、雨の日だというのに僕の視界をシャボン玉がハイジャックしているのに気付く。
シャボン玉が見えた時点で、大方予想がついた。
隣の女の子、燈昌さんだ。
気づいて振り返るより早く、その少女は僕に電光石火を繰り出した。威力は40なのでお世辞にも高いとは言えないが、どうやら急所に当たったらしい。
「今の、答え! どうやって解いたんですか! 教えてください!」
怒涛の追撃に頭が痛くなる。
追加で大ダメージを食らいそうになったので、急いで頭をかばって急所を隠すことにした。
彼女の周りを気にしない公然とした声を触媒にして、続々とクラスメイトが集まってくる。
「お願いします!全然。1ッミリも理解できないんです。ご教授ください。」
俺も頼むよ。私も。と、気づけば僕の周りには10人ほどの輪ができていた。
頭が回りそうだった。ちょっかいをかけられることは毎度毎度おなじみで慣れっこだったけれど、それ以外の理由で人に集られるのは少しだけくすぐったい。人に期待を向けられるときには、こう、胸の奥がこそばゆくなるものなのか。自分の腕が、今ある位置になかったらと思うと、ぞっとする。
加えて、皆のその目が純粋な期待かどうか、わからなくて済むので今日ほどシャボン玉が見えなくなることに感謝を抱いた日はない。
悪い方も込めた二重の意味で。
そんな雨の日も、例外にシャボン玉をふわふわと纏わりつかせる彼女の頼みは頭を抑えても断れそうになかったので早々に観念して、僕は先生が消さずに残しておいた黒板に、チョークを立てた。
雨の日になると、気持ちの読めない彼らには、自然と毒々しい感情は湧かなかった。だから僕は、いつか来るかもわからない恩を、彼らにも投げやりに、売ることにした。
「すげぇ。」
説明を終えて、ぎこちなさと、期待に応えられたかの訝しさを行ったり来たりしていた僕に労いの声がかけられる。いや、どちらかというと称賛された。
「そんなこと、ないよ。」
「いやいや、凄いって。なんかすっと入ってきたもん、頭痛君の考えてること。」
な?と、E君が周りに同意を求めると、皆うんうんと、頭を合わしていた。
こんな経験初めてのことなので、本当に困る。
対応に困って、そ、そう、かな。と、恥ずかしくなり、思いがけず素が出てしまった。
そんな恥ずかしさに触発されて、後頭部には手が回されている。もう本能に根付いてしまっているものなので特別、驚くことはない。
けれど、一向に気持ちが鎮まることはないので可笑しいなと、その手を前後に動かすと、いつもよりかなり後ろの位置に手が置いてあった。
今頃になってどうしてそんな誤作動を体が起こしたのか、答えは分からなかったので取りあえずいつもの位置に手を載せて、落ち着くことにする。
すると、やっぱり頭痛いのかよ!と、冗談半分、心配半分くらいだろう言葉で笑われた。
頭の中は、さっきの答えを探すのに一杯だったけど、取りあえず笑っておいた。ほんの二週ほど前に感じた底知れない不快感は、ちっとも感じなかった。
少しして、皆この問題をかみ砕けたらしく、それぞれ再三のお礼と労いを持って僕の席から解散していった。
ふぅ、と一息つく。
人に必要とされるというはじめてにも近い経験で何とか乗り切った達成感と得も言われぬ気持にひとまずの折り合いをつけるためにもう一度ふぅ、と大きくため息をついた時、またシャボン玉が僕の視界になんの惜しげも感じさせずに、いた。
デジャブに対して、複雑な幾つもの気持ちを混ぜ合わせた心地になった僕は、それを言葉にはできず、ただ呆然と立っていた。彼女が動き出すまで。
「すーーーーー。」
新手のブートキャンプか何かの呼吸法だろうか。母さんが良く見るテレビ番組で、おんなじのを見たことがある。
触らぬ神に祟りなし。
そーーっと僕が気づかないふりをして黒板消しに手を伸ばすと、今回の当事者は息巻いた。
「ッッごいです!須藤さん!物凄くわかりやすかったです!」
映画館の客全員分に匹敵するくらいのシャボン玉を持って、映画のダイナミックなワンシーンのように言い放つ彼女に僕は圧倒された。
幸い、昼休みも半ばに入って賑やかさも山場を迎えた教室と、一向に止む気配のない雨音のおかげで彼女の声が部屋中に広がることはなかったけれど、声は僕を気圧すのには十分すぎるくらいで、続々と捲し立ててくる彼女の勢いに、うんだのすんだのの気の抜けた生返事しか出来なかった。
暫くの間彼女が、あれがこれでそれがあれだのと火山みたいにシャボン玉を噴火させ続けたのち、それを僕が沈下できるわけもなくやっとチャイムが鳴る。
助かった。
昼休みの終了の合図に、彼女は、ほっと胸をなでおろす僕とは対照的な表情をして、止まっている。電池の切れた機械のスイッチを入れなおす感じで、ほら、とチャイムの方を指さして、困り笑いをすると尚もしゃべり足りない様子で、イタチの最後みたいにポッと寂しく球体を吐いてから、渋々席に着いた。
引きずるかな、と心配したけど、それからすぐに調子を取り戻して、問題が解けた事への高揚でぱぁ、と明るくなり
「有難うございます。」
と、おしとやかな笑みを浮かべてから、前に倣った。
切り替えが早いのか、それとも。
考えるのも、億劫なので早々に結論付けた。
その早合点した解を頭の中で転がすと、雀でももう少し覚えていられるだろうな、と少しだけ気色ばみそうだった。
「それだとこの時の老婆に対する男の気持ちは、どうなる?須藤君。」
「すみません、分かりません。」
黒板の手前、支持棒を片手に目の前の女性は、大きなため息をつく。
「はぁ。ここテストに出そうかと思っているんだけれど、大丈夫?」
答えられないものは、答えられないものなので仕方ない。早々に、差しさわりのない降参の意思表示を向けると現代文の先生は呆れたようにやれやれ、と肩を落とした。
いや、そんなに肩を落とされても、一向にインスピレーションが浮かばない。
この時に、男が老婆に対して何かのっぴきならない事情があることは、なんとなく理解は出来るけれど、それが何なのか、まではたどり着けない。
これだけ頑張ってこうも国語が、出来ないとなると僕にも神様に与えられたのっぴきならない事情があるんじゃないか、と現実逃避したくもなる。
「じゃあ、隣の燈昌さん。分かるかしら。」
「はい。恐らくですけれど、この男は老婆の行為を見て、自分も悪事を働く覚悟のようなものが沸々と浮かんできたんじゃ無いでしょうか。」
先生はうんうん、と頷く。
「流石ね、燈昌さん。ばっちりだわ。」
隣で、有難うございます、と言って嬉しそうにポポポとシャボン玉を出している彼女に、僕の国語力は全て吸い取られてしまったんだろうか。そんなつまらない冗談を考え付いて、元々なかっただろう。と突っ込まれてしまったら敵わないのでおとなしくノートを取る。
この刹那の間に、やっと他を向いてくれたと安心した支持棒の矛先は、又僕に向けられた。
「須藤君。貴方、今回も赤点を取ったら、ゆるさないわよ。隣に優秀な生徒がいるんだから、しっかり教えてもらいなさい。」
僕が、赤点を取り続けていることをクラスの前でわざわざ言う必要があるのか…
赤点を取り続けていることは、進級のテスト以来周知の事実なので特別皆に驚かれることは無いが、これはあまりに趣味が悪すぎる。
はい、と文句を押し殺して返事する僕に、先生は、わかったわね、と更に念を押すと授業の終了を告げた。
ドアから廊下に出るときに笑いかけられ、背筋がゾゾゾ、と凍り付いた。
どうにも、あの先生は苦手だ。今日は、見ていないが先生の出すシャボン玉は、いつも楽しそうにふわふわとしている。どうしていつもあんなに楽しそうなのか。きっと僕の知らない様々なテクニックを使って、人生に国語力のスパイスでもかけて毎日を美味しくいただいているんだろう。それに、彼女だけは僕が頭を抑えていることに対して何にも云ってこない。小馬鹿にする先生すらいるというのにそれくらいの小さなこと、と意に介さない姿勢は人生への余裕の表れだろうか。
そう考えると、あの人を苦手なのにも合点がいく。
そんなこんなで、脳内で今日の国語の時間に沸いた気持ちの自己完結を一人で黙々と行っていると、今日で何度目かのいい加減鼻につくシャボン玉の視覚攻撃に、あっという間に僕は現実に引き戻された。
「何か言いたげだね。」
口を抑えて、赤…点…、と絶句する彼女を怪訝に見やる。
転校してきた彼女は、僕が絶望的に国語ができないことを知らなくて当然なので、その反応は頷ける。にしても、そんなに驚くほどのことでもないだろうに、少し大げさすぎる。
その透き通ったシャボン玉を今すぐ弾けさせることもできるが、直ぐにやる気も失せた。
数が多すぎるのだ、数が。今目に見えている彼女を消すだけで、あっという間に僕も皆からさっきの老婆を見るような男の目で、変人扱いされてしまうだろう。
それに他者から向けられる純粋な懸念を何とはなしに掻き消すほど、僕は腐っていない。
もし消すことになったとしても、何かしらは思うことがある。
まぁ、彼女に限ってはその純粋さが余計にたちが悪いんだけれど。
読解力がいくらあっても決してたどり着くことのできないものに、僕が思慮を巡らせていると手を下ろして少女が口を開いた。
「私でよければ、お教えしましょうか。」
この年になると、たいてい裏が見え隠れするはずの人の好意に比べて、彼女の好意は余りに透き通っていた。
そのせいで断るのが、なんだかこの上ない大罪な気がして返事を言いよどむ僕に彼女は、任せてください。と、腕をまくって既にやる気満々になっている。
「でも、自分で言っておきながら申し訳ないのですが今日は先約がありますから、うーん、何時にしましょうか。」
そう言ってメモ帳でも、カレンダーでもなく天気予報を見て続々と計画を煮えている彼女に待ったのタイミングを失い、物事は順当に決まっていく。
天気予報で、お目当てのマークを見つけたらしく彼女は指さした。
「土曜日で、どうですか。」
雨も降るらしいですし。
その日に決めた理由は全く納得のいくものではなかったが、きっと彼女にものっぴきならない事情があるのだろう。
ともかく、押し切られそうな約束を何とかはねのけようと
「ほら、僕が君に出来ることもないし、燈昌さんだけに迷惑をかけるのは。」
ねぇ。と言ってそれとなく断ろうとすると、そう、ですよね、いきなり迷惑ですよね。と、違う意味に捕らえられて気を沈めてしまった。本当に、彼女との会話はやりづらい。それは、いくらハンデをもらっても変わらない。
けれど、これでいいのだ、と少しの罪悪感にふたをしてこの話を終わらせようと踵を返すと、彼女は僕の肩を叩いた。
会心の一撃を持って。
「数学です。」
一言で、焦燥を感じさせる言葉に、思わず固まる。今度は僕が唖然とする番だった。
「でしたら須藤さんは、私に数学を教えてください!」
踵を返しかけていた足が止まる。
やられた。
純粋な少女は、どうやら伏線の回収の仕方も綺麗なようで、その抜け穴に絶句する。
その答えはさっきのとってつけたような僕の言葉を、粉々に打ち砕いた。
「そうしたら、ウィンウィンですね。」
と言って笑う彼女からは最早どんな言葉を持っても逃れることは不可能なようで、それなら。と、素直に負けを認めた。
長いものには巻かれる主義なので、という建前で少しだけ吝かではなかった気持ちはすぐに消した。
数学が人より少しだけ得意なところを見せつけた罰がここで当たった。やっぱり、慣れないことはするもんじゃない。
それにしても、彼女は神がかり的に正鵠を射るのがうまい。
これも神の思し召しなのだろうか。
まぁ、確かに目の前の少女なら神様の寵愛を一心に受け止めていても異論はない。
それだけ純粋なら、其の運は天性のものだ。と言われても何のためらいもなく納得できる。
彼女の前だと自然と浮かぶ負け犬根性では、勝負事も何にしても、彼女に勝つことは不可能だ、と喜ぶ彼女を横目に、この時確信した。
根拠のない確信は、本物だった。
雨脚が強まっていくと、流石に運動場で青春の一ページを刻もうとする輩の姿はどこにもなく、雨雫はグラウンドを一様に濡らし、地面を溶かしている。
晴れの日は高校生のエネルギッシュな熱意を染み渡らせて、地面を熱くし雨の日になると対照的に雨をしみ込ませて、その熱を冷まし、養生する。
彼女なら、この曇り空の下の窓の一縷の情報からこれだけ思い浮かべられるだろうか。と、らしさを真似てみたけれど『雨降って、地固まる。』ともいうのできっと彼女ならもっと旨い事が浮かぶだろうと、急いでくだらない妄想を捨てた。
だとしたら、雨の日に青春少年少女のエネルギッシュな熱意はどこで発散されるか。
その答えは、昨日もお世話になった僕の行きつけの図書室にある。
彼らは部活が無いことを歯牙にもかけず、水を得た魚のようにここぞとばかりに切り替えて、勉強にその熱意を振りかざしていた。
今こうして僕が図書館に行かないのは、彼らの熱意が息苦しいからだ。
僕も感化されてしまったら、たまったものじゃない。
それに、いつもはガラガラの図書室で広々と勉強しているのに雨の日に限って窮屈な思いをするのも、些かいいものではない。
対角の教室にふと目が行く。
あの空き教室は、なにもしないのには最適だけれど電気すら通っていないので暗く、勉学に専心することはできないだろう。
このまま学校にいても、八方ふさがりのまま。
だから、僕が勉強により励めるようにと、今から向かう場所は彼女に何の関係もない。そう自分に言い聞かせて、土曜日の、集合場所兼目的地でもある最寄りの図書館に赴いた。いや、少しだけ関係ある。寧ろ、もう、一人のものではない二人の約束を疎かにする事は褒められたものではないから。って一体僕は、誰に言い訳をしているんだ…。
いつも家路につく道とは、反対の方向。学校からは自転車で10分ほど漕いだところに図書館はある。県立、という事もあり学校の図書室とは比べ物にならないほど大きいその建物は、やっぱり何時みても威圧感を纏った荘厳さを誇っている。なんでもずっとずっと、まだ日本人が牛を食べ始めたくらいの昔からこの建物は存在しているようで、最近の隣接する病院との合併の改築もあり、その壮大さは言わずもがな透明なビニール傘越しに見てもひしひしと伝わってくる。
何時振りかの景色に、思わず立ち止ってしまった。
申し訳程度にビニールに着いた水滴を払ってから全面ガラス張りの目の前のドアをくぐり、傘をたたむ。
幸運なことに、雨天のテスト前の校内とはガラリと変わって、人はまばらにしか見えなかった。流石は図書館といった感じで、外界とは別世界の落ち着いた空気が全身を包みこむ。
それは雨が降っていてもいなくても変わるものではなくて、ここに来るといつもそう。
休日に雨の日ではなくても、雨を感じたいときはよくここに来る。
雨と、図書館の空気は類似している、というくだらない名目の論文を書いてくれる人がいるのならこの謎も解けるんだけれど。世の中には知らないほうが、素敵なこともあるのでこのままでいい気もする。
二階に上がると、より一層雨色が強くなる。
この図書館はその広さから、最大で一万人ほど人が収容できるらしく書物の持ち込みや勉学が禁止されていないので、専用の場所を探す必要もなく適当に少し歩いて適当な場所に腰かけてから参考書を開いた。
図書館によっては勉学を禁止している場所もある。この間気分転換にと出かけた隣町では勉強禁止という張り紙がはられていたし、ネットで調べるとそういう場所のほうが多いらしい。なので、今回彼女が迷いもなくここの名前を挙げたときには少し驚いた。
転校してきたばかりの彼女が、この図書館のシステムを知っているとは思わなかったから。
もしかしたら、燈昌さんが以前暮らしていた近くの図書館はここと同じ様な感じだったのだろうか。
思考が、当たり前、という琴線に触れる。
そういえば僕は、彼女のことを『当たり前』のように何も知らない。
前に住んでいた場所も学校も、この学校に来たわけも何もかも。
当たり前のことに今更気づいた。
会話の中で、詰まるときがあったら聞いてみてもいいかもしれない。
土曜にでも。
そんな一縷の楽しみをしまい込んで、其れからは黙々と勉強した。
図書館に巣くう雨の勢いを借りれば、まだ何とかなるんじゃないかと思っていた現代文への期待はあっという間に地面に溶けて、流浪人の気持ちも、求婚前の男の気持ちも、相も変わらずちんぷんかんぷんだった。
これは、得意げな文学少女でも僕に国語を教えるのは難しいんじゃないかと不安がると、自然と笑みがこぼれた。畢竟彼女が強引に組んだ予定は、連日暇続きの僕にとっても吝かではないことに気づいて、又笑った。
邪魔をして来るものは、もうあれからすっかり鳴りを潜めていて何時かの機会を窺っている。
見られて困る人も、幸い周りにはいなかったのでそうさせるに至った彼女から伝播した毒は、誰にも見られることなく体内に流し込むことにした。
彼女のことを考えると、自然と気持ちが表向きになってしまっている。何時かに立てた誓いも、彼女の前では色あせてしまっていた。
でも、きっとこれくらいなら許してくれるんじゃないだろうか。それ以外では、きちんと僕は僕のままだし比率は精々10%もないくらいだ。
最近はあの夢も見なくなった。それだけに、いつか来るかもしれないその未来が堪らなく怖い。
彼女と約束を取り付けてから、次の数字まで溢れるんじゃないかというプレミアムな日の快晴を挟んで今日は雨が降った。
降水確率は百パーセントと、天気予報のお墨付きをもらっていて晴れる心配もない。初夏も折り返し地点についているというのに梅雨を思いださせるようなこの豪雨は、実は彼女が雨の精か何かで力を使って無理やり起こしているものなんじゃないか、とも思えてくる。
馬鹿な妄想だ。
肝心の彼女は、現在進行形で10分ほど遅刻している。集合時間が開園に合わせてやけに早かったから多少の遅刻は全然許容範囲だけど、少し早く来てしまったこともあってさっきから立っている時間は10分ほどに感じなかった。
もしかしたら。
夏場にしては、湿気もあって涼しいはずなのに、いやな汗が背を伝う。
そういえばあの時彼女は、メモを取ってはいなかった。
だからもしかしたら、最初からあの約束も冗談のつもりで云ったのかもしれない。
僕だけが、真に受けてしまったのかもしれない。秒針が前に進む度、時間は進むのに気持ちは後ろ向きに歩いていく。僕は、人に寄り掛かっていたんだ。あの時に気づけたはずなのに、人は簡単に裏切ることに、傷つけることをいとわないことに。
背に汗が滲み、頭からは毒が湧き出てくる。
ここぞとばかりに、何時かの先に立った打算的な後悔が身を包み始める。
まぁ、いいか。また傀儡みたいになって、何食わぬ顔で学校に行けばいい。誰も傷付けず誰にも傷つけられず、シャボン玉みたいにふわふわと漂っていよう。
頭に手が行く。僕はきっと生きている限り、この癖が体から離れることは無い。けれどこれでいいんだ。こんな思いするくらいなら。
「遅くなってしまって申し訳ありません。」
ティラノサウルスみたいに、背骨を曲げうつむいていた僕に声がかけられた。こんなに下を向いていたら、せいぜい見えるのはアスファルトに打ち付けられた雫と、カタツムリくらいだろう。
手を下ろす。そしてまた手を挙げる。
「ううん、全然。」
そう言って、残りの力を振り絞って彼女のほうを向いた。
てっきり傘でもさしているかと思ったけれど、彼女は傘を持っていなかった。
透明な、顎まですっぽりと入るくらいのレインコートに、ビニールにカバンを入れボツボツと雨音を反射させて目の前に立っていた。
嫌な気持ちは消したはずなのに、彼女は僕を見るなりまた頭を下げて
「ごめんなさい。」
といった。
二回目にならないと、いつも本音でしゃべれない僕は遅れた時間の少なさの割に深々と頭を下げる彼女に、さっき考えていたことを重ねた。
「いや、僕もごめん、」
と、到底彼女からは理解できない理由で謝罪の言葉を放つ僕に気づくと、馬鹿にするわけでも、窘めるわけでもなく彼女は笑った。
あまり経験したことのないよくわからない空気に、つられて僕も笑ってしまった。
彼女と約束を取り付けてから、次の数字まで溢れるんじゃないかというプレミアムな日の快晴を挟んで今日は雨が降った。
降水確率は百パーセントと、天気予報のお墨付きをもらっていて晴れる心配もない。初夏も折り返し地点についているというのに梅雨を思いださせるようなこの豪雨は、実は彼女が雨の精か何かで力を使って無理やり起こしているものなんじゃないか、とも思えてくる。
馬鹿な妄想だ。
肝心の彼女は、現在進行形で10分ほど遅刻している。集合時間が開園に合わせてやけに早かったから多少の遅刻は全然許容範囲だけど、少し早く来てしまったこともあってさっきから立っている時間は10分ほどに感じなかった。
もしかしたら。
夏場にしては、湿気もあって涼しいはずなのに、いやな汗が背を伝う。
そういえばあの時彼女は、メモを取ってはいなかった。
だからもしかしたら、最初からあの約束も冗談のつもりで云ったのかもしれない。
僕だけが、真に受けてしまったのかもしれない。秒針が前に進む度、時間は進むのに気持ちは後ろ向きに歩いていく。僕は、人に寄り掛かっていたんだ。あの時に気づけたはずなのに、人は簡単に裏切ることに、傷つけることをいとわないことに。
背に汗が滲み、頭からは毒が湧き出てくる。
ここぞとばかりに、何時かの先に立った打算的な後悔が身を包み始める。
まぁ、いいか。また傀儡みたいになって、何食わぬ顔で学校に行けばいい。誰も傷付けず誰にも傷つけられず、シャボン玉みたいにふわふわと漂っていよう。
頭に手が行く。僕はきっと生きている限り、この癖が体から離れることは無い。けれどこれでいいんだ。こんな思いするくらいなら。
「遅くなってしまって申し訳ありません。」
ティラノサウルスみたいに、背骨を曲げうつむいていた僕に声がかけられた。こんなに下を向いていたら、せいぜい見えるのはアスファルトに打ち付けられた雫と、カタツムリくらいだろう。
手を下ろす。そしてまた手を挙げる。
「ううん、全然。」
そう言って、残りの力を振り絞って彼女のほうを向いた。
てっきり傘でもさしているかと思ったけれど、彼女は傘を持っていなかった。
透明な、顎まですっぽりと入るくらいのレインコートに、ビニールにカバンを入れボツボツと雨音を反射させて目の前に立っていた。
嫌な気持ちは消したはずなのに、彼女は僕を見るなりまた頭を下げて
「ごめんなさい。」
といった。
二回目にならないと、いつも本音でしゃべれない僕は遅れた時間の少なさの割に深々と頭を下げる彼女に、さっき考えていたことを重ねた。
「いや、僕もごめん、」
と、到底彼女からは理解できない理由で謝罪の言葉を放つ僕に気づくと、馬鹿にするわけでも、窘めるわけでもなく彼女は笑った。
あまり経験したことのないよくわからない空気に、つられて僕も笑ってしまった。
「どうしてレインコートなの?」
開園時間間近なのもあって、広さを持て余した図書館の一角に特に苦労することもなく座ることができた。この場所は貸出図書の本棚たちから少し遠い所に位置しているため、多少の談話は許されそうな空気がある。
だからここを選んだ。ここにしようといったのは彼女だ。僕もこの場所にしようと思ってはいたが、相談するより前に彼女は一目散にここに向かっていった。
やっぱり、彼女はこの図書館に詳しい。
「雨に当たっていると、時間が流れているのを肌で感じられる気がして。」
だから、たまにこうしてレインコートを着るんです。
成程わからん。彼女の答えとも言えない答えに固まる。
太陽を携えた彼女は、電波もその身に纏わせているのかもしれない。
ポポポと、嬉しそうに窓から雨脚を眺める彼女が楽しそうにしているのでそれ以上は聞かなかった。僕が深く聞いたところで犬に論語、馬耳念仏だろう。
大体、そもそもここにいるのは彼女の国語力を期末に向けて少しでも吸収するのが目的で、彼女の念仏に異を唱えるためではない。そのために他の科目は仕上げておいた。かといって、分からないものを分かるようにするための今回の授業でもあるので、今のは素直にわからないというべきなのだろうか。
エレベーターよりも下らないことに頭を割いていると、彼女が窓を見つめながら言った。
「さて、雨が好きで晴れが嫌いな須藤さん。どちらから先に倒しましょうか。」
少しだけ学校の時より声音を落としてなまめかしく笑う少女に、エレベーターは昇りもすることに気づく。
悩みどころだ。先に数学を倒すか国語を倒すか。
数学に至っては、先日のこともあって彼女の読解力からすれば、刺激一つであっという間にわからないの雲は晴れるだろう。けれど、問題は国語だ。今年の梅雨前線張りにしつこくねばっこい雲は彼女の太陽をもってしても晴れるかどうか。ならば先に、終わりの見当がついている教科から倒すべきだろう。
じゃあ、先に立ち向かうべきは…
「数学から、教えていただいてもいいですか。」
口を開いた途端、僕の出した結論を同様に彼女も導いていた。導出過程はどうであれ答えは同じになったので異論はない。少しだけ、バツが悪そうに言う彼女はもしかしたら僕の考えの対偶から出したのかもしれないが。
「了解。」
特に斜に構えることもなく、カバンからノートを取り出すと
「昼前には倒したいです。」
と、士気高々に抱負を抱く彼女に久方ぶりにやる気が刺激される。
「どうだろうね。」
人は強い思いに感化されると、思いの丈の中に斥力が生まれるらしい。剽軽さも、人の好さも忘れて自分でも思ってもみない意地悪を口にしてしまった。
「やってやります!」
「しぃー。」
「あ。ごめんなさい。」
口にはしたものの気持ちがそう簡単に霧散することはなく、余計やる気に火が付いたいつもの太陽を見やると僕もよし、と覚悟を決めた。
フレアを起こしてしまいそうなほどの彼女の熱量に、少し早めの熱中症になってしまったのかもしれない。それから瞬きの間に時間は過ぎて、昼飯時になる頃には本当にテストに出るであろう問題のほとんどを理解し終えていた。
「有言実行しました!」
一階に降りて、内設されたコンビニで買ったおにぎりを頬張りながら自信満々に彼女は腕を掲げた。何か文句を言ってあげたいところだったが生憎、満足気にしている少女を落胆させて喜ぶような嗜虐的な趣味は持ち合わせていないので何も言わなかった。
加えて、文句の言葉もこれっぽっちも浮かばない。実際、彼女の真隣で教鞭をとっていたものからしてみれば文句など、称賛の言葉で埋め尽くされてしまうだろう。
国語が得意な人は、数学の呑み込みが早い、というのはどうやら本当らしく1教えただけで10を学び取り、途端に閃きの泡を弾けさせる彼女の姿には思わず拍手を送ってあげたいほどだ。
折角、分からない時のために何通りかの説明や解法も用意してきたのに、とんだ肩透かしだった。人は人に物事を教えるとき、その物事を理解する三倍の理解をしていないといけないらしい。多少数学に自信がある僕が、人に教えられるくらいになるまでの今日までの努力には結果オーライという言葉で目を瞑ってもらおう。
教えられたりないという気持ちは分かるが、まさか教えたりない、と思わされることになるとは。読解力とは、もしかしたら万物に通じる最強の武器なのではないのだろうか。
「凄いよ。」
何が、と無粋なことは彼女に限って聞かないだろうから、今抱いている気持ちを率直に表した。
「須藤さんのおかげです。」
「いやいや。」
ニマっと雨の日にも関わらず、喜びと感謝を表す言葉やしぐさ、そして筒抜けの気持ちに謙遜半分照れ隠しが半分を言葉に乗せる。
「まさか、最後の問題もすらすら解いちゃうなんてね。」
「須藤さんの教え方が、上手なんですよ。それに、私の知らない解き方でも解を導けることができるなんて、知りませんでした。」
彼女の労いに、折れた骨たちが騒がしい。三倍ほどの努力はしていないにしても、折った骨に少しは価値を見出してもいいかもしれない。決して骨折り損ではなかったって。
「まぁ、どの解法でもたどり着く答えは一緒だからね。」
得意げになった僕は、彼女を真似して鷹揚に構えてみる。
我ながら、いいことを言った。
数学の凄いところをすべて集約したかのような真理に、矜持すら湧いてくる。
そうなのだ。数学はどれだけ過程が違おうとベクトルを使おうと方程式を使おうと必ずたどり着く答えは一つになる。
そのことは何物にも代えがたい。
何が間違いで、何が正しいかすら分からないこのくそったれな世界で、唯一の答えをもって生まれてきた数学は、解いている中でいつも、美しいと思う。別に数式を見て興奮する数学者ほどではないにしても、数学がほかの教科に比べて思い入れが強いのは言うに及ばない。
「そうなんですよ!」
背まで伸びるロングの髪をなびかせて、うんうんと頷いて見せた。
やっぱり彼女はセンスがある。同時に口を開いた。
「「だから数学って」」
「面白いんだよ。」「つまらないんです。」
は。
僕は今、鏡を見ている。目の前の少女の驚いたような顔。間違いなく僕も似たような顔をしていたはずだ。思ってもみない答えに、時が止まる。その中で聞こえてくるのは、天井に打ち付ける雨の音くらいだった。
「いや、国語みたいに答えが一つに定まらないような科目なんかより、絶対に数学のほうが有意義に決まってるよ。」
こんな感覚久しぶりだ。
鏡に映る自分に暗示する子供のように、ムキになっていた。
「いえ、最初から一つに決まっている答えへの道筋を立てることのどこが楽しいんですか。自分で決まった答えを導くことになんの面白みがあるのでしょうか。」
どうやら鏡も僕と同じ考えのようで、取るに足らない口論は熾烈を極めた。それからは二人とも水掛け論で争った。
「大体国語なんて、作者が今日の昼ごはんでも考えながら作ったものだろう。そんな文面からやれ心情だ、思いの丈だをこねくり回して考えるのは、不可解極まりないよ。」
「数学なんて、元々することのなくなった先人たちの娯楽から生まれたものらしいですが…起源を辿ればどちらが浅瀬か。賢い須藤さんなら分かるはずでは。」
なにおう。
論争は佳境に入る。一度深呼吸して、癖をつかえば心無い言葉でこの下らない言い争いを終わらせることもできた。が、何となくしたくはなかった。
それは、高尚な理由だとか、するべきだという使命が邪魔をしたからじゃなく、ただ、何となく下らないものに怒りを表すことがこんなにも楽しいことだなんて知らなかったから。
加えて、隣でいつも真っ向から立ち向かってくる少女には嘘がなく自然体でいられるからという心地よさもあった。大体、嘘で形作った顔は、ほとんど見透かされてしまって話にならないから止めたという理由を抜きにしても、彼女との会話は、忘れてしまうにはもったいなかった。
「まぁ、私は今回期末範囲の数学も出来たうえで、国語のほうが有意義だ。といっているんですけれどね。」
甲斐ない闘いは終極に至る。
鏡が、小悪魔めいた笑みを向けてきた。
そんなの僕には、できない。
考えていることは今もどうやら同じらしく、彼女のとどめの一撃に思わず僕も笑みがこぼれた。意味のないものほど、本気でやって楽しいことはない。途中からお互いに、怒りの着地点をどこに定めようか、逡巡していたことを察して何だか楽しくなってくる。
「中々、言うね。なら、その知恵とやらをぜひご教授願えるかな。」
そう言って、さっきまで僕らのいた二階を指さした。
貴方にできますかね。ぐらい言われて、からかわれるかと肝を冷やしたが、冗談は終わり、と早々に切り替えた彼女は真っすぐに任せてください!とその旨を受け取った。
思いもよらない返事に、肩透かしを食らったような気持ちになって口をつぐむ。
鏡に映っているのは紛れもなく自分で、間違いないはずなのに僕は忘れていた。
鏡は己を左右対称に映している事に。全く同様なわけではなくむしろ反対に映ることに。
それに鏡に映る自分は、普段の自分よりもなんだか少しイケて見えていたから。
だから切り替えも目の前の鏡は僕より早かったし理解も僕よりよっぽど早い。
彼女に手を引っ張られて二階に上がる。
けれど、それから鏡の必死の教示も虚しく僕が彼女と同じ土俵に立つことも無かった。
まっったく分からない。
「羅生門」も、「富嶽百景」も、教えられた通りに文をなぞったけれど、付け焼き刃は文豪の歯牙にもかからないらしい。
彼女が申し訳なさそうに自分の実力不足を責める度、拙い言葉では言い表せないような気持が胸を締める。さっきまでの威勢は、いったいどこに隠れてしまったのか。
文を詠む、というのは一朝一夕で身につくものではないことは、身に染みるほど理解している。でも流石に、彼女がいれば青天の霹靂でも落ちて少しは通用する視点が手に入ると思っていた。
現実は、甘くない。あまりに長すぎる、人に許された時間は霹靂閃電の成長を許してくれるはずもなく、ただ塵ほどの天恵しか与えてくれなかった。
「ホント、ごめん。」
「いえ、こちらこそ。でもまさかこれほどとは、思ってなかったです。」
明らかに、萎んでいるのは彼女も同様で声に籠った生気が抜けていく。畢竟彼女との口論で早々に負けを認めていればよかった、と後悔の念が頭を支配し始めたころになると、一度休憩を取ることにした。
さっき買ったチョコレートを頬張り、彼女にも促す。台風の目にでも入った感じで至福の時間が訪れる。
そういえば。
「こんなド田舎に来る前の高校は、どんな感じだったの。」
摂取した糖分が、体に潤いを与えまわり始める。一番最初に浮かんだのは、ここでふと、聞こうと思っていた彼女のこと。
至福の時間にはお似合いの質問に、彼女はう~ん、と口の下でチョコレートを転がしている。だから普通にこのまま、返答が貰えるものと思っていた。
「覚えてないです。」
溶かし切れていないチョコレートを、無理やり飲み込むと彼女は笑った。
てっきり彼女の昔の話やら何やらが聞けると、高を括っていたので意外な反応に思わず彼女を見やる。
分からない。
頭には、いつも肌身離さず纏わせているシャボン玉はなく、初めて彼女が何を思っているのかわからなくなった。
その笑顔が、取り繕っているのかどうかも分からない。
雨窓に反射する僕の姿は、この上なく間抜けだった。
人には、生きていれば触れられたくないことなんてごまんと出てくる。
けれどその触れられたくないものは、他人には見えない。それは地面に埋められた地雷と一緒で、人の地面を土足で歩いていれば必ずいつかは踏むことになる。
それに触れないよう、そして特に触れられないよう今までうまく生きてきた。だから人の心に、地雷を踏み抜くことに全くの経験のない僕は今この状況に足踏みしていた。
聞いた当人がこれでは、彼女も報われない。なんとかほかの話題を見つけ出そうとするけれど、頭を抑えてみても気持ちが空っぽになるだけで、解決策は浮かばない。
雲があれば雨が降るように、蕾から花が芽吹くように、見方を借りて彼女が口を開いた。
そこには、重苦しい重圧に耐えかねた感じも、僕が地雷を踏んだことに対する怒りもなかった。ただ純粋に話題の転換を提案した。
「どうして、須藤さんは数学が好きなんですか。」
それは。
反芻すると、聞かれていることがそのままで、そのままではないような圧迫感が生まれる。
どうして数学が好きなのか。その質問の奥底には、どうして僕がそれを好きになったのか。というものが存在しているような。
そこに「それ」は関係なく、どうして、に重点が置かれていて、もっと根元の僕を知ろうとしているような質問をされている、気がする。
彼女の目を、見る。
彼女の瞳のずっとずっと奥、遠い遠い所に小さく僕が映っていた。
答えが一つしかないから、という答え。
物凄く小さく見える。
それは勉強への意欲を、とってつけるための手段にすぎず彼女の聞いている(ような気がする)根幹には、なんら深く関係しない。そこに僕は、いない。
詰まるところ、僕はどうしようもなく空っぽで薄っぺらに生きてきたせいで身の回りの、好きなものやらまで薄っぺらで構成されているらしく、彼女の真意に口を開くことは出来なかった。
視線を逸らす。窓には、雨が張り付いていた。
僕の好きなもの。唯一薄っぺらではないもの。
彼女は、ハッとする僕を見るともなしに見て、口を開いた。
「私、国語の時間が好きなんです。」
知っている。下に降りた時もこれでもかと熱弁されたし、いつもの授業を見ていれば僕じゃなくても彼女がその時間に生き生きとしていることくらい誰でも知っている。そして、そんな天真爛漫な少女がどことなく憎めなく僕を僕でいられなくしてくれることも、知っている。
でも、こうもこの子の言葉は耳に透き通るものなのか。
「国語が好き、というより、文章を読んで幾つもの気持ちが浮かび上がってくるあの感覚がたまらなく好きなんです。二つを一つにしたり、三つを二つにしたり。」
謂わんとすることが、すっと胸に落ちてくる。彼女が、現代文の時間にしていることを言葉にしたら丁度こんな感じだろうから。
「だから私、考える、という時間が好きです。一つしかない答えよりも、二つも三つもある答えの中から、一番これだ。と、思うものを自分で選んで導き出した、私だけの答え。もともと決まった一つを大事に抱えるより、誰にも邪魔されない一つを考え抜いて、選ぶことはきっと何物にも代えがたくて、きっと。」
楽しいことですから。
国語だけに当てはまることではなく、万物に当てはまるような言葉は、彼女の人生を、生き方を、形にして聞かされているようだった。
レールみたいに一直線じゃない、幾つもの道が頭の中に浮かぶ。その中から、考え抜いて一つを選ぶ彼女の姿も。少しだけ羨ましいな、と思っていた。
あの時間になると隣で、今言ったことを寸分違わずに実行する彼女のことが。
だから、まるでそれが人間の真理みたいになって、抵抗することもなくその一欠けらが胸に刺さった。僕にも彼女の持つ一欠けらの力でもあれば、その刺さった傷ももっときれいに受け取れたのかもしれない、と考えたらたまらなく悔しくなった。
人の、本当に好きなものを完全に理解することは全くもって不可能に近いことだとは思うけれど、その一端に触れるだけで、僕に彼女が伝わってくる。
堪らなくなって、こそばゆくなるけれど少し暖かくて嬉しい。
どうしてかは、まだ分からない。
今の僕では、まだ全容のほんの一部、塵ほどの理解しかできない。
もしかすると、もしかしたら、彼女は僕の思っているような彼女ではないのかもしれない。
好きなものが、嫌いなものが同じだけで、気持ちが分かるだけで、目の前の全てを分かった気になっていたのかもしれない。
今の彼女の言葉が、もし紛れもない彼女の言葉なら…。
それは紛れもなく僕の思っているだけの彼女とは、違う。
「知っていますか、人は皆自由の刑に処されているんですよ。」
燈昌さんはもう、いつもの燈昌さんに戻って、愛らしいシャボン玉を周りに漂わせていた。
「なんて、臭すぎますね。」
困ったようにはにかむのは、照れ隠しをしているから。
さて、とノートを開くのは気恥ずかしさに邪魔をされて僕を見られないから。
彼女は、いつもの彼女に戻った。そのことが堪らなく僕にとっての彼女を分からなくさせていった。いつもに戻ったその笑顔は分かるのに、分からなかった。
怖い。分からないことは、初めてのことで恐ろしい。けれど怖いの中には好奇心があって知りたい、とも思った。
わけのわからないことに幾つものめどを立てて、予測してはずれて、当たって。そして、彼女を少しでも知りたい、とこのときに思った。
本当は純真無垢で、明朗快活ではないのかもしれない彼女のことを、手探りで。
たとえ知らないほうが良かった、と後から後悔することになろうとも、僕にしかとらえられない彼女の影はしっかり捉えたかった。それに、もう何時かの後悔の約束はもう作っていて、一つ増えたところでそれは変わらない。
それは、もしかするとさっき口にしていた彼女の言葉を借りるような行動なのかもしれない。そう思量すると、良くは分からないけれど心のどこかで彼女が活きている気がして、言いようのない一縷の充足感がじわぁっと体を灼いた。
それからは彼女の言葉が、信じられないくらいにすっと喉を通り、体を蝕む。
さっきのポンコツ具合が嘘のように、少しだけ詩人たちの言葉も分かるようになった。紛れもなく彼女の説明があってこそなのは変わらないけれど。
「本当は、実力でも隠していたんですか。」
さっきとは打って変わって彼女の言葉を、躊躇いなく飲み込む僕に対して異和を唱えた。
「いや、全くできない方が教えがいもあるかなって思って。」
小言を言うくらいの余裕は出来始めたが、君の言葉に感化されたんだよ。とは、とても言えなかった。口にすればきっと、僕だけじゃなく彼女まで恥ずかしさで死んでしまうかもしれないと危惧したからだ。
あの時、あの瞬間に彼女が思い出したようにその話題を口にした理由は、どれだけ考えても見当がつかない。例えお門違いだろうとなんだろうと僕には刺さったのだからまぁいいか、とこれ以上考えるのはやめにした。
「これだったら、赤点を取ることは無さそうで良かったです。」
「正直、明日になっても分からないままなんじゃないかと思ってたけど燈昌さんのおかげで何とかなりそうだよ。ありがとう。」
正直自分でもびっくりだ。手に取るように、とはいかないにしても零れ落ちた雫の一滴を掴みとれるくらいにはなった。神様は人間を平等に作ったはずなのに、こんなに成長していいものだろうか。だって今なら、少し勉強すれば彼女にも或いは。
「じゃあ、勝負をしませんか。」
顔がほころんでいた。
変な自信が纏わりついてもしかしたら、なんて考えていた。
「私が教えてもらった数学と、私が教えた現代文、どっちがより高い点数を取れるのか。期末テストで勝負しましょう!」
彼女の自信満々の笑みに、僕もつられた。なけなしの矜持を総動員して迎え撃つ。
「いいね。其れだけだと詰まらないから。じゃあ、負けた方は勝った方の言うことを、一つ聞くっていうのはどうかな。」
僕の提案に、彼女はより一層乗り気になって、負けても知りませんよ。としたり顔になった。
こういう時には、大抵雨が上がるものだけれど降りやむことを知らない雨はザァーとお構いなしに存在感を露にしていた。
本当に馬鹿だな、と思う。この時僕は、どうして昔々イカロスの翼が焼け落ちてしまったのかに気づけなかった。太陽に近づけるだなんて慢心が、己を焼き切ることになるなんて知らずに高を括っていた。
結果は、言うまでもなく悪癖を腕に滲ませた少年の負けだった。
今を生きてい「く」うえで、やらなければならないことはたくさんあるけれど、今を生きてい「る」上でやらなければいけないことなんて一つもない。だから、そんな二種類の人間をひっくるめて、明日は「くる」のだと思う。
「うーん。20点です。」
「それは何点満点中か聞いても?」
「100点満点です。」
「手厳しい。」
修行が足りませんね。と明朗に笑う隣の少女に、思わず笑みがこぼれる。筈もなくいやいや君がさせたんだろうに、と呆けた。
惨敗、完敗、こうやって今僕が恥ずかしいポエムを彼女に発表しているのも今日と同じ雨の日に慢心して太陽に勝負を挑んだ、北風の落ち度だ。
大敗に喫する。勝負にあそこまで差をつけられて負けるとき、人は敗北にこんな名前を付けるんだろう。
結果は彼女が満点で僕は赤点ぎりぎりの及第点。すさまじい点差をつけられたというのにあの時は少しでも勝てる、と思い込んでしまっていた自分が烏滸がましい。いや、確かにあの時はこの調子でいけば勝てる、と思っていた。でも後日どれだけ勉強しても、彼女の言葉を思い出しても僕がそれ以上成長することは無かった。結局、お情け程度の漢字問題と、選択問題、其れから読解問題の部分点でギリギリ事なきを得た。一方彼女は、基礎も応用も、僕の教えてない発展問題すらも乗り越えて満点。数学の点数勝負を提案したところで辛酸をなめていたのは言うまでもない。
加えて、テストが返されると彼女は言った。
『須藤さんのおかげです』
なんて虹色のシャボン玉を出しながら。窓から差し込む日差しに反射して光るその七色の虹に、折れていた骨が疼きだして、あっっという間に負け犬根性が顔を出した。別に、負けてもよかったんじゃないかと。ノートにいそいそと何かを書く彼女を見ながら、負けるが勝ちという言葉にあやかろうと思った。
だから彼女の労いの言葉のおかげですっかり罰ゲームのことなんて忘れて悦に浸っていた。勿論現実はそんなに甘くはなく、忘れたころに彼女が口を開いたのは今でも記憶に新しく感じる。
「ポエムを書いて下さい。」と言われたときは、は?と鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていたと思う。再三ポエム?と聞く僕に彼女はハイ、といい返事をした。
「私が教えたのにもかかわらず、その点数はあまりにも低いです。低すぎます!」
国語力の向上を図るためにポエムを書いてください、って。
前者は納得がいくし反省もしているけど、だからってその手段がポエムというのは、余りにもひどすぎると思う。
それを言えたらどれだけ楽かとも思ったけれど、口には出さなかった。いや、出せなかった。
あれだけ教えてもらったのにもかかわらずこの点数をとったのは責められても仕方ないと思うので文句なぞ出てくるはずもなく、目の前で、少しだけの親しみと喜びのシャボン玉を出す少女に面と向かっては何も言えなかった。
近況の変化は毎日の罰ゲームだけにとどまらず、シャボン玉にも表れた。
今まで一つしか見えていなかった色が、二つに分かれるようになった。
どうしてなのかと問われれば確固たる答えは持ち合わせていないし、これがどういった意味を持つのかもまだ容量をつかめてはいないが、間違いなくこのことは僕にとっては大きな成長だった。今、ガラガラのバスに揺られながら隣に座る彼女からも二つの色が見て取れる。
この奇怪な変化を通して一番驚いたのは、クラスメイトについて。彼らが僕を皮肉を込めた愛称で呼ぶときは、嘲りだけではなく少しの親しみを込めているという事。きっと嘲りだけ見えていたのは、僕がそういう風に見たかったからなんだと思う。だから汚いと思っていた誰も彼ものシャボンの澱も、聊か晴れていた。少しだけこの事実に触れたとき、心の奥底で燻ぶっていた毒は面白いように薄まって、代わりに触るとこの上なく恥ずかしい気持ちになる何かが生まれた。その度に、頭を抑えたり抑えなかったりと大変だけれど、不思議と嫌な気分になることを拒む自分がいた。あれだけ本能に虚しくこびりついていた癖は、少しずつ少しずつ剥がれていくのを最近になって顕著に感じる。夢も見ない。それに、脊髄に根付いた腕が上がらないようになってしまった。クラスメイトや彼女の言葉に対する行動を一々判断するのは面倒で堪らない。にもかかわらず不思議と、何も考えずに頭を抑える自分に戻りたいとも思わなかった。
そんなこんなで、新しく芽吹く花にまだきちんと折り合いのつけられないまま夏休みは始まって、どうしてか僕は今バスに揺られている。
どうして、か。
きっかけは、あの雨の日に彼女とメールアドレスを交換したという些細なことから初まる。面倒が嫌いなので選んだ、連絡手段を電話とメールの二種類しか搭載していない携帯を見せたときは、彼女がよくわからないどこかの諸島の名目を口にして絶句していた。その後に、彼女の方から宜しくの旨のメールが送られてきて、無視することは出来たがしなかった。渋々返信したその瞬間から、もう詰みになっていることなんて知らずに能能と「よろしく。」と無機質に返した。
其れからは簡単な話。夏休みの間の恥ずかしいポエムチェックは死んでもメールにして送りたくはなかったのでその旨をメールで伝えると、すぐに見当はずれな画像が送られてきた。
そこには、よくあるデパートの福引の広告と良くは見たことのない色の玉。一枚目の福引の広告と、その球を照らし合わせて、驚愕の波に押しやられた瞬間にピコンと新しいメールが届いた。
海を見に行きましょう!
と、簡単な一文になんの悪びれもない絵文字を同封して。
その文面が送られてきたときは、家にいるのにまるで彼女のシャボン玉が周りに漂っているみたいな気持ちになった。正直に言うと、最初は断ろうと思った。ペアチケットなんて、この先一生縁のないものだと敬遠していたしそもそも僕と行く理由なんてないだろうと感づいたから。でも、それじゃあ確認はどうやってするんですか。と言われてしまった時の程よい答えは、生憎持ち合わせていなかった。
全ての落ち度は、僕にあるのだ。詰将棋のように気づいた時には、もう王手を取られていた。投了する以外の選択肢はなかった。
だから、返答に答えあぐねていた僕に何回もなる着信音が後押しして渋々頭を縦に振ってしまったのは言うまでもなく、今こうしてバスにゆらゆら揺られているのも口にするまでもない。
ありもしない面目を保つために此処にいる言い訳を反芻させて何とかひねり出す自分がいる反面で、別にいいか。と窓に張り付いて外を見ている彼女を横目に開きなおっている自分もいた。
どうせ乗りかかった船だ、日和っていても仕方ない。来てしまったからには、楽しまなければ。もう半ばヤケクソで僕がガラガラの席の中彼女の隣に座っていることも彼女はきっと知らないだろう。
それにしても。
「運がいいんだね。」
「君から写真を送ってこられたとき、目を疑ったよ。」
福引や、宝くじ、その類で一度も日の目を見たことがない人間からしてみれば彼女の引き当てた確率はほぼ、0に等しい。ので、称賛とちょっとばかりの鎌をかけた。鎌の穂先が短いのは変に納得していたから。僕や周りのクラスメイトならまだしも、神に愛され給うた少女のことだ。仮に宝くじが当たっても、驚くほどのことでもない。
「嘘じゃないですよ。」
彼女は、その手にギフト券をひらひらさせながらにこやかに笑っている。
ビクッと、全身の毛が逆立った。
どうやら見透かされていたみたいで、バツが悪くなって頭を掻く。
「それに。」
彼女が続ける。
「そんなこと、無いです。私は、運が飛び切り悪い方です。」
てっきり、肯定的な賛同が得られると思っていたから彼女の返答は意外だった。急に何時かの彼女のように表情が陰るのを目で見るとまた僕は何か踏んでしまったか、と焦燥に駆られる。周りには、何でもないようなシャボン玉とその中に少しだけ悲しい色をしたシャボン玉が漂っていた。
その陰りをうやむやに消すと、すぐにまた彼女は笑った。
「それより、須藤さんの考えた恥ずかしいポエムを早く見せてくださいよ。」
「恥ずかしいって…。誰がやらせたんだか。」
「嘘ですよ。半分。半分嘘です。」
「残りの半分は?」
「秘密です。この世界には知らないほうがいいこともあるんですよ。」
しぃー、と人差し指を立てると、二人でくすクスと笑った。
そうだ。
この世界には、知らないほうが幸せなことなんてごまんとある。だから今は目を瞑ることにして、恥ずかしいポエム発表会に花を咲かせることにした。目を瞑ったところには、陽があたらず花が芽吹くことなどないことも知らずに。
「それで、次のものは。」
案の定「恥ずかしい」ポエム達は、とてもとても人には見せられない今までの国語のテストみたいな点数を彼女から頂戴し海の底に沈んでいった。全部合わせても、100点には到底届かない僕の可愛いかわいい子供たちは悲痛の声を漏らしながら背に無能の十字架を刻まれていく。
ごめんよ。
謝罪の中には、その子供たちにあまり胸が痛まないことへの手向けも含まれている。
彼女の質問に最後に残った子供が、僕には重荷だ、と音を上げる。
関係ない。作ったものは作ったのだからしっかり彼女には見てもらわないと。
ん?と、今か今かと端を発するのを待ちわびているこの騒動の元凶に僕は終止符を打った。
苦労していないと、思われることが一番の苦労だ。
言い切って、籠った息をバス内にふぅっと吐き出した。特に思い入れはないけどこのポエムには、記憶に新しい情報が添付してあって口にすると、あぁ成程と顎に手を置きたい気分になる。
僕は彼女と同じくらい、よく笑う。正確には、彼女と同種の笑いを浮かべるなんて口が裂けても言わないが、それでも大体の人間には快いと思われる笑みを浮かべることができる。
無論いつでも。最近になってからは恥ずかしい話、転校生のほとんどに時間をハイジャックされているからその無機質な笑みが顔を出すことは少なくなっていたけれどそれでもまだ機会が完全になくなったわけじゃない。彼女がいないところで、まだこびり付いた本能の一つは息巻いている。そして、偶然が重なってこの顔をする時決まって誰かが言ったり思ったりする。
苦労が何もなさそうな笑みで、羨ましいと。
全くもう的外れなその言葉は、球体に乗って僕に届いてくる度に沸々と怒りが湧いてくる。一体誰のおかげでこの笑顔が身に着いたと思っているんだ、と。
紛れもなく、君たちへの苦労のおかげだ。だから、そう思われることがどれだけ痛ましいことか。しっかりとものを考えて何度も反芻させ本当にその言葉が正しいのかどうか確かめてから物事の本質をとらえてほしいと心底願う。こちらはこれでも傷つかないように必死なのに。
自分でも疎ましく思う、小鹿ほどの心はおおきくなったとて大差はない。僕は、まだ心の奥底に怖さを隠している。
「これは、貴方のことですか。」
何時もは、直ぐに見るに堪えない点数をつけて次、と流すのに今回のに限って彼女の採点は一向に終わりの兆しを見せない。
他のものと、変わらないように悟られないように織り交ぜたこの本心は決して誰にも気づかれることは無いだろうと侮っていたので、いきなり虚を突かれて僕は本当を言うべきかどうか、考えあぐねていた。
肝心な時になると、何時も出まかせすら口から出てこない僕の代わりに何時もは彼女が端を発するので今回も活路を見出してくれるだろう、と待っていても何にもなかった。
まただ。また君はその真っすぐな、なんの曇りもない目で見つめてくる。
心配なのか、訝しいのか、苛立っているのか、悲しいのか。
それは分からない。
この表情をするとき彼女は、決まってシャボン玉を出さないから。
そしてその真っすぐが、バス内にはびこる雨の日独特のジメジメと合体すると僕にまとわりついてきて、とうとう僕は逃げ場をなくした。
「そうだよ。」
降参して、肯定の意を紡ごうとしたところで空気を読んでか読まずかは知らず、バスは空き切った室内によく聞こえる声で、目的地への到着を伝えた。
一瞬で。
その言葉を聞いた途端に彼女は、もう僕への興味を外界に移して
「ほら、付きましたよ。」
と立ち上がって荷物を下ろすと、レインコートに着替え始めた。
思っていたよりあっという間の到着に嬉しいのか悲しいのかよく分からなくなったから、言いようのない気持ちは噛み砕くのをやめ下の奥の方で転がして、大人しく外に出る準備をすることにした。
さっきの続きは、また帰りにでもすればいい。
言いかけた彼女の言葉と、その時のまなざしは忘れることにしよう。
旅は道連れ世は情けとはよく言ったものだ。僕は少しの悲しさも同情も、せっかくなら旅に同伴させて欲しくはなかったので、彼女のアスリート顔負けの転身がむしろありがたいと欣喜雀躍した。
準備を完了させると、彼女が申し訳なさそうにリュックを預けてくる。
その服装だと携行品はびしょびしょになるだろうし仕方ない。
彼女の荷物係を渋々承諾すると僕らは外に出た。
バスから出るともうそこにはいつもの日常とは別世界が広がっている。
少しだけ、ぎこちなく一歩を踏み出すと、ペトリコールに鼻孔をくすぐられる。遠出しても、仮にパスポートのいる外国に行ったとしてもこの雨のにおいは、変わらない。すぅーっと、深呼吸して雨を取り込むと彼女を見やった。
顔までかぶったピンクのレインコートにその身を包み、濡れてもいいように靴の代わりにはサンダルを履いている。一見すれば浜辺でビーチバレーでもしそうな特異な服装に、異を唱える人間はいない。
バスガイドが僕と彼女を含めて片手に収まる程の観光客に再集合の時間を告げると、晴れて解散、帰りまでは自由時間に入った。
片手に収まる。それもそのはずで、彼女の当選したチケットは今日のものと一週間先のもの、二日の中から選んで参加できる仕様になっていた。旅行に晴れはつきもので、夏休みの予定も折悪しく無い僕からしてみれば正直後日のほうが嬉しかったし、ほとんどの人は僕とおんなじ考えだったのが今この場にいる人数を見ればよくわかる。
晴れさえすれば、旅行会社のプラン通りこれから帰るまでの予定は確立されていた。でも、雨が降った今日はプランもなく最初から最後まで完全に客丸投げの自由行動。僕一人なら、近場の図書館か喫茶店を探して、再集合まで本でも読んで時間を潰すくらいだ。
僕は晴れの日でもよかったのだけれど彼女は、望んで雨の日を選んだ。天気予報の画像と、かわいらしい絵文字を携えて今日にしましょうと。別に彼女も予定があるからとかではないと思う。それが、この場所で自由行動が出来るところから来るものか雨の日だからかと問われれば間違い無く後者だろうけど。本音を言ってしまえば、晴れの日が良かった。最近彼女の隣にいて、やっと気づいたことが一つある。それは彼女が虹色を出すのは、決まって晴れの日だけということ。今回彼女の招待に重たい腰を上げたのは、夏休みに入って久しぶりに無垢な七色を拝見したい、という目的もあった。
もしも理由の一つにこの唐変木に気を使って、今日を選んでいたらと思うと善意が錯綜しているように感じる。虹のことに勘づいてからは、彼女がいるなら僕は晴れの日が別に嫌いではないから。いないのならば絶対にごめんだが、もし隣にいてくれるのならば僕は陽に照らされても少しだけ前を向くことが出来る。そうして気持ちの悪いドロドロも鳴りを潜めてくれる。
本当なら雲一つない晴天でも嫌な顔はしなかった。
快晴の中視界を簒奪する様々な人間のシャボン玉の中で、一際存在感を醸し出す虹。それを道しるべに彼女の後を追っても楽しいのかもしれない。
まぁ、今か今かと少し前の方で僕を待ちわびている雨の似つかわしくない少女が視界に入るともう、そんなこともどうでもよくなるんだけど。まっさらな一日に、もう彼女なりの予定をびっしり詰めている様子を見ると、少女にまっさらな一日を振り回されるのも悪くはないかな、と心の奥に高揚感が生まれた。
今彼女に向かってしたやれやれは、建前。
やったことがないからわからないけど、ちょうどバンジージャンプで思わず目を瞑るのに似ている。早く行きましょう。と、手を引く太陽にどこまでも高まっていく気持ちが急に怖くなって久々に僕は自分に、嘘をついた。
頭を抑えて、後を追うと
「気圧が低いと、痛くなりますよね。」
と歩を緩めてくれるのを見てまた、胸が痛んだ。
「今日のご予定は?」
「秘密です!」
さいで。事前に云っておいてくれた方が反応にも困らないしありがたいけど、今日の主催者がそういうのだ。これ以上の詮索は藪蛇なのでやめておくことにした。
県と県を橋で繋ぐ中継地点に存在するこの島は、僕らの住んでいる場所と比べて幾分か小さい。だから、決して視界が良好なわけではないのに必ず四方のどこかしらに海を感じるこの島を、彼女はどうやって切り崩していくのか、より楽しみになってくる。
島の端に降ろされた僕たちは、少し行けば海を見ることなど容易いのに彼女はその真反対、島の内側に向かっている。
神以て、彼女の行き先は思慮の乏しい僕には到底わかるものではない。
それなのに不安な気持ちがどこにも生まれないのは、少し前で一心に雨を受け、楽しそうにしている彼女がいることが大きい。時々立ち止って、レインコートで覆いきれない顔の部分を天に向け野ざらしにして、ふふっ、と目を瞑る。もうそのまま一生動かないんじゃないかと思って立ち止れば、また歩き出す。一連の動作が板についてきたので、僕も彼女に倣ってほんのちょっぴり傘をずらしてみる。彼女の荷物は濡らさないように。
思いもよらない冷たさに声が漏れる。夏場でも、頬に伝う雨雫はこうも涼しくて気持ちいいのか。地理で習った知識を存分に発揮しても、瀬戸内海の夏場の気温は地元とそんなに変わらないはず。だとしたら雨にも、海から作られてから気持ちよく感じられる鮮度みたいなものがあるのかもしれない。そんな潜水艦よりも下らないことで頭をいっぱいにして誤魔化そうとしても、声を聞きつけた彼女が許してくれるはずはなく、チャレンジャーですね、と雨に向けた笑顔を僕にも向けた。言い訳をしても、逃れられないことは言うまでもないので今回ばかりは正直に、君に倣ってみたんだと言ったら、まぁ、と片手で口を抑えて嬉しそうにしてくれた。
それから彼女は、歩を緩めて僕と肩を並べる。
「雨粒も、やっぱり悪いものじゃないですよね。」
顔をビショビショに濡らして言われると、説得力がある。
風邪をひかれたらたまったものではないのでたまたま、ポケットに忍ばせていたハンカチを取り出して彼女に渡す。
「ありがとうございます。」
「悪いものではないけど、たまにでいいかな。風邪ひいたらたまらないし。」
感謝を伝える彼女を真っすぐに捕らえることは出来ず、何時かと同じ少し後ろの方の頭を撫でる。
「でも私、風邪をひいたことは無いですよ。」
「それは、なんたらはなんたらしないっていうやつじゃ。」
「私は馬鹿じゃないです!」
もう、とそんな感じでからかったりからかわれたりを繰り返していると、不意に彼女はサンダルを水浸しにするよどみを、気にもせず曲がり角まで走っていった。
そして、どこかにかけていってしまうのかと思えば立ち止って
「須藤さん。お腹はすきませんか。」
謂われて、確かにとお腹をさする。公道を歩いてから、まだ一日の1/24ほどしか経っていないのにもう少しで限界だと音を上げる空腹機関を励ますと、確かに短針は昼下がりを指していた。
「お待たせしました。ここで食事にしましょう。」
足早に彼女のもとへ、辿った道をなるべくなぞることのないように向かうと、指さす先交差点の曲がり角にはポツンと魔法でもかけられてこの世に現れたような、こじゃれた店があった。
「狙ってた?」
「さぁ、どうでしょうか。」
いきなり現れた彼女のお目当てのものに、甲斐のない質問をする。
本当は知っている。彼女が可愛らしい、靴とは呼べない代物を雫で濡らすたびにシャボン玉は嵩を大きくしていき、彼女が交差点にかけていったときには爆発寸前の最高潮に達していたことを。今ばかりは、折角の彼女の贅沢なプランを見透かすこの視界が、彼女のとても綺麗にまるでこの世界の彩全てに染まったことのないような、逆に染まりきったから出せるようなシャボンの色が、少し恨めしかった。
彼女と出会って、何度目かに抱いたこの気持ちには未だに折り合いがつけられない。取り敢えずは、そのざるで水をくむような答え探しは雨に流して店に入っていく彼女を追った。
店に入るなり、彼女は入り口でレインコートを脱ぐとハンガーにかけた。雨受けを脱衣した彼女を見ると、見込んだ通りに上から下までずぶ濡れだった。上を向いたり、時にはフードを取ってみたりしていたせいだ。一体何の名目でレインコートを着ているんだろうと、不思議に思いながらあまり彼女を見ないようにリュックを渡すと、有難うございます。と、燈昌さんはトイレらしきところまで歩いて行った。
さて。どこか適当なところにかけよう。店内を物色して回ることにする。玄関を抜けると目の前には、おおきな狸が陣取っていてそこから二手に道が分かれている。片方はごうごうと降る雨に加え立ち込める森を映す席、そしてもう片方は棚田のように団地の遠くにはちきれんばかりの大荒れの海を映し出す窓の席。坂道を歩いたこともあって、これだけ遠くからでも海が見えるんだと感心した。やっぱり、島というのは見かけよりも狭いんだろう。
お世辞にも広いとは言えない店には、テーブルがたったの二つ。
靴を脱げば、どちらも畳に座す仕様になっている。
この間取りに加えて、どこか彼女と少しだけ親和性のある風情を醸し出すこの店はたとえあまり外食をしない身であっても人気があるだろうな、と何となくわかる。それなのに店には賑わいはなく、それどころか席を外した彼女を除けばこの空間には僕だけなんじゃないか、という不安感まで生まれ始める。
まぁ、考えていても仕方ない。仕方ないので片っぽの席に座って彼女を待つことにした。
「お待たせしました。」
それから特に待つこともなく慌ただしさと、それでいて品を残した所作で着替えを終えた彼女は顔を出した。少しきょろきょろと、海の席の方に出向いて僕の姿を探してからこちらに来たので選び間違えたのかもしれない。
クーラーの効いた店内で、少し汗が流れる。
彼女は未だ僕がこちらの席を選んだことに対する感情の整理を終えていないらしく、辺りを見るともなしに見回しても雨の日に添った優しく灯る蛍光灯の明かりしか見られない。
嫌悪なり、喜意なり見えるようになってくれるなら対処の仕様もあるのに。彼女が足踏みしているようじゃ、答えを待つ人間は如何することも、気の利く言葉すらも出てこないものだ。
人が、何を思っているのか分からなくなると僕はとことん無力だった。
彼女が口を開くのと同じくらいにやっと、待ちわびたシャボンが姿を現した。
「その場所。自分で選んだんですか。」
けれど悲しくも、蛍光色のほのか照らす優しい光では質問者の吐き出した色を網膜に反映させることは出来ず、そこにある、という存在しかわからない。なので気に入るような言葉も見つけることは出来ずに後手の後手に回った。
席に座る時に念のため形創っておいた理由から、ポロポロと建前だけが零れ落ちていく。
気持ちがわからなければ、人との会話は熾烈を極める。無限大にある選択肢から、一つを選ぶことの難しさは痛いほどに感じる。自由の刑とはよく言ったものだ。それは普段は誰よりも派手に気持ちを吐露する彼女とて、面と向かっているならば例外ではない。
「選んだよ。燈昌さんが、あの窓に映るくらいの海じゃ満足しないと思って。」
それに。
「それに、今海を見るのは、なんだか違う気がしたから。」
本音だけで形が作られた言葉のすべてを、馬鹿正直に始まりから終わりまで彼女に伝えてしまう。人に、自分のしでかした行為の説明をするのは初めてに近い経験なので、しっかり伝えることができたかは分からない。伝わっていようがいまいが不思議と、その「初めて」に悪い気はしなかった。
「成程。須藤さんは二つある席から、しっかりとした理由をもって一つを選んだと。」
こくり、と頷く。
あ。
驚きのシャボン玉が、天井に飛び上がったのがわかる。
そのシャボン玉でやっと、少し昔の雨の日に仕掛けられた一本を、取られたことに気づいた。
「とっても素直な方ですね。須藤さんは。」
何時かに、彼女の言った国語が好きな「理由」。知らないうちに、そんな国語の好きな彼女が僕の中にとけこんでいたみたいだ。きっと今まで気にも留めずに五萬と選んできた選択に、言及されることでやっと心づいた。なんだ。道理で悪い気がしないわけだ。
ともすれば、いったい彼女が僕の何枚上手なのか。もしかしたら、先に着替えという名目で席を開けたのも文学少女の術中なのか。はたまた、杞憂なのか。気になってくる。
「狙ってた?」
「さぁ。どうでしょうか?」
シャボン玉は、遅ばせながら明るみに出はじめる。
そこでは不敵な笑みを浮かべる彼女が、親しみのシャボンをより一層濃くしたのを見た。
「私は須藤さんが選んだならどちらでも構いませんでしたが、しいて言うなら。」
「しいて言うなら?」
「私もこっちの席がいいです。」
「へぇ。」
「はい。だってこれから私たちは、海を見に行くんですから。」
ぶっきらぼうになってしまったが、彼女の同意を得られて嬉しい。にしてもこんな豪雨に関わらずうみがみたいというのは、少し感性が変わっていないとできない。
さ。
食べましょう!と、燈昌さんはお品書きを取り出していつものように手早く注文を済ませると、さっきの舌戦のことなどすっかり忘れてしまったようにこの後の予定を小出しに話し始めた。彼女にとって、さっきの苛烈な舌戦はなんでもないことなのかもしれない。
驚いたのは、彼女の呼び出しにどこからともなく店員が現れた事。あまりの存在感の薄さに一瞬幽霊とかあやかしの類かと危惧した。彼女の海を見たい動機探しに取られて、お品書きもろくに読まなかったので彼女の頼んだ後に、僕もそれで、と付け加えた。
それにさっき言われた、素直、という言葉。僕は、僕が彼女(少なくとも僕の思う)のように、素直で実直な人間だとはとても認められなかった。とどのつまり、僕は真っすぐなんかじゃあない。真っすぐには、なれない。
たまには、燈昌さんでも的外れなことを言うもんだなと、少しの違和と親しみを深めながらこれからの話を聞いた。少しの違和は、消すことにして。
「先ずは、これから森を抜けます。」
「森?」
「はい。今見えている森です。抜けるとは言っても、獣道を通るわけではないのでご安心を。ちゃんとした道を通ります。」
「でも、どうして森を抜けることと海を見ることに、関係があるの。」
「それは…。秘密です。」
「了解。聞かないでおくよ。」
「大丈夫です。きっと後悔はさせません。多分。後悔先に立たずともいいますし。」
「あー、うん。了解。えっと…」
「お待たせしました。天ぷらそば二つになります。」
「有難うございます。須藤さん。取り敢えずは、食べて午後のために精をつけましょう!」
「精って、ちょっと待ってよ。今、大体海に対してどのくらいなの。」
「ちょっと待ってください、今地図を見るので。そうですねぇ。あ、まだ半分も行ってません。」
「本気?」
「本気です。本気の本に本気の気で、マジです!」
「うーん。タクシーを拾うのは?」
「小道なので、厳しいかと。それに須藤さん。美食に通ずる一番のスパイスは、空腹なんですよ。」
「まぁ、そうだけど。」
「ささ、お腹もすきましたし取りあえず食べましょう。いただきます。」
「いただき、ます。」
「…。」
「どうしましたか。」
「これ、玉ねぎ?」
「そうですね。」
「まるごと?だよね?」
「丸ごとてんぷらにするというのが、ここの名物らしいですよ。」
「本気?」
「ほんきです。ほら、そこの天ぷらつゆをかけて食べるんです。」
「…。」
「どうですか?」
「…。美味しい。」
「それはよかったです。私も…。」
「どう。」
「…。美味しいです。とっても。」
×××。
「ご馳走様でした。」
「ご馳走様です。」
「有難うございました。是非、またご予約ください。」
会計を済ませてから、入った方向とは別の扉から外に出た。相変わらず雨足が収まる気配はなく、雫は、再度レインコートを着込んだ彼女と僕の持つ透明な傘に容赦なく降りかかっている。
「着替え、何着持ってきてるの。」
少し後ろの方、雨でぬれる箇所を減らすため、立ち止ってレインコートを微調整している彼女に心配の声をかける。
「あと、二着くらいですね。計算通りです。」
「それはよかった。」
またも、天を仰いで雨に打たれながら生真面目な返答をするピンク頭に、それはよかったという失笑が漏れた。彼女が元気でいられるゲージの残量は二つ。なら、今全身をびしょびしょに濡らしてもバスに乗るときに着替えたら、まだ一着余裕がある。雨に濡れることもへの河童なわけだ。身軽な彼女を見ていると、なんだかこっちまで体が軽くなってくる。だからこれから、まだ半ばにすら達していないらしい道程も何とか乗り越えられそうな、気が、して来る。
身軽さは視界の感度にも響いた。フクロウみたいにあちらこちら彼女のあたりをきょろきょろ見回すと、さっき僕たちの入ったお店の看板がでかでかと張り出されているのに目が行く。
『 〇〇屋 完全予約制 二名様から 』
…。見立て通り、此処までで少なくとも二本は上手だったらしい。そんな高嶺に組する彼女の前を歩くことははばかられたので、僕は立ち止まって雨粒を身一つではじく少女が歩きだすのを待つことにした。
「お待たせしました。さぁ、行きましょう!」
元気な声に仕草で、ぽつぽつと、雨に中てられるたびにポッポッとシャボンを吐き出し続ける燈昌さんが先行して歩き出す。僕にしかわからない永久機関を搭載した彼女は雨の日であれば、永遠に動いていられそうだ。あの山間に見える白い風車たちにも雨の日のふるまい方を是非見習ってほしい。
乾き始めた靴がまた濡れ始めた頃、打ち付けてくる雨が弱まり始める。
「雨、収まってきたね。」
雨と連動している機関を持つ彼女と、そのシャボンの発生率があからさまに衰萎しているのを、傘越しに危惧する。
てっきり、ばててきている彼女を拝めるものだと思っていた。だからここらで休憩でも提案して少し歩を止めようかと考えていたら、予想に反して彼女はばててなんかいなかった。
こちらを振り返ると太陽は、余裕の笑みを浮かべた。流石は永久機関、まだまだ疲労を知らないらしい。
そして、返答の代わりにぶかぶかのレインコートからわずかにはみ出た指で上をさした。
「あぁ、なるほど。」
矛先につられて天を見やると、彼女と出会ってから何十回目かの「成程」に出くわす。やけに暗くなった空は、雲の層が幾重にも重なったからじゃない。木々に邪魔されて、雲が見えないことを今更になって認知するのは皆がみているものより何時も僕の見ているものが後塵を拝しているからだろう。
このまま何も言われないのもしゃくなので、変に見栄を張ってみる。
その程度の矜持、気にもしないで彼女は囲まれた木々に一つ深呼吸をした。
「はぁ。マイナスイオンを感じます。」
「それって、プラセボ効果じゃないの。」
思い切り息を吸ってみても、鼻孔を突き抜けるのは雨のにおいだけ。森林の趣は、残念ながら嗅覚だけでは伝わってこない。
「夢がないですよ。もし本当じゃないにしても信じなきゃ、何も始まりません。」
これは冗談だ。もっともなことを論じているように見えて、彼女は雑言を使って遊んでいるだけ。色さえ見えれば、どうってことは無い。心理学者だろうが、ヒトラーだろうが、その仮面に隠した真意を読み解くのは難しくない。忖度に、自信がないだけで。
雨のにおいに加えて嘘の色をかぐというのは、何とも酷だ。入ったのはいいが、終わりの見えない緑に大きな息を吐く。これは、今まさに彼女のしている深呼吸とは別のものだ。
「須藤さんも、何か失ったんですか。」
「え。」
不意に彼女が口を開く。その声音は雨音の中で一際耳の中に透き通って入ってくる。だから、この疑問形は聞き取れなかったから出た言葉ではない。
「いえ、実はいつ聞こうかとずっと機会を窺っていたのです。」
「何を。」
「貴方が雨が好きな理由と、」
そして、晴れの日が嫌いな理由。
その言葉は、仮面などどこにもついていない彼女の素面でその真意が計り知れない。冗談で言っているのか、真面目に聞いているのかも分からない。僕の知らない顔。一切合切の内在する感情を、一所に表して彼女は続ける。
「ねぇ、知っていますか。」
「何を。」
「このマイナスイオンと呼ばれるものの正体です。新鮮な空気、って言ってもいいかもしれません。」
「だから、偽物じゃないの。」
とは言ったものの妖しく笑う彼女とそれを取り巻く雰囲気のシャボンに、其れだけではない気がして、取りあえず一考してみる。幸か不幸か、しとしと降る雫を有体で跳ね返す質問者は立ち止ったままなので粗略に始めたひらめき探しには段々と熱が入った。
「んと、なら実は木々の一部が微粒子になって漂っているとか。」
「違います。」
「なら、木の吐いた息、とか。」
「それは概念です。私が聞いているのは、その息の意味するものです。」
「んー。全然わからない。降参するよ。」
想像力もこれといって持たない、寧ろ人後に落ちる頭ではこれ以上は浮かばない。颯とあきらめた僕に彼女は満足げな表情を浮かべて正解を教えてくれた。
「答えは、毒です。」
「毒?」
「はい、其れも猛毒です。」
「も、猛毒って、でも僕たちが吸っても何ともないじゃないか。」
「はい。私たちにとっては、ですけど。」
「と、いうと、つまり。」
「というと、詰まるところ他の者にとっては猛毒なわけです。例えば、あそこに生えているコナラの木は、隣に生えているクヌギの木を殺そうとしています。自分が成長するために隣の木は、邪魔ですから。殺そうとして出す猛毒の空気を私たちは心地いいと、思うわけです。」
彼女の真意が読めない。ただの、豆知識の披露ではないだろう。シャボンが見えないのは、きっとこの言葉に二つより上の意味が込められているから。でも、その一つも僕には到底思いつけない。
「真意は。」
最近、随分わがままになった。今までなら、それはそれと遠く離れた他人の考えを、安易にあきらめることもできたけど今は、分かりそうで分からないまでに近づいた気持ちを、知らないと満足できない、と思うようになった。かゆいところに手が届かないのは、もどかしかった。
「真意、ですか。いえ、特にはありませんよ。でもたまに思うんです。燦燦と照り付ける心地のいい太陽の光も、誰かにとってみれば猛毒なのかもしれないって。」
かろうじて舗装された道から、少しそれたところで彼女は大木を撫でている。その表情は見えない。
それで僕だけがここにいるような気持になって何時かのトイレに映った自分を思い出した。
それは。
それは、僕だ。
この子の言葉は、紛れもなく僕のためのものだ。
朝日も夕陽も、春日も、炎陽も秋の日も冬日もみなと同じようには一度として、僕にその温かさを分けてくれたことは無かった。代わりに吐き出した猛毒で、見たくもない人間の形をした悲しい生き物たちを延々と見せつけられるだけ。生まれたときから、それにあの日からはずっとそう。気づいた時には、シャボンが辺りを漂っていて、物心着いた時には、それが僕に限ったことなんだと知った。母にも父にも、兄にも一度も言ったことはない。僕だけのために太陽から作られた、毒。
誰にも打ち明けなかったこの毒は、どこにも漏れることなく今も僕を内から食い破っている。
「それで、ほら、貴方の話に戻るわけです。もしかしたら私たちは、本当の似た者同士なのかもしれないので。」
ずっと先、拳大ほどになった彼女の声が木々をこすり合わせてここまで聞こえてくる。そうしてこすりあわされた声は歪曲したり曲解したりして僕の耳に入ってくる。
行く?何処に?彼女の近くに?どうせ、何も変わらないのに?今更もう遅いのに?いつから、自分まで彼女と同じようになれると勘違いしていた?どれだけ近づいたところで、彼女にはなれないのに。いつから夢を見ていた?体中が毒に蝕まれた僕は彼女より、こんなにも、汚いのに。
あの日僕のしたことで、今もきっとあの子は苦しんでいるのに。
僕はしばらくぶりに、夢を見た。
「須藤、さん?」
拳大から、等身大になった彼女が心配そうに手を伸ばしてくる。
その柔らかそうで、穢れのなさそうな純真で綺麗な手を、
僕は払いのけた。
ぺしっという、虚しい音はすぐに雨にムチ打たれた森のざわめきにかき消された。
「あっ、ごめ…。ん…。」
無意識だった。
のけられた手を、もう片方で抑える彼女は、え、と涙ぐんでいた。この世の、悲劇を一所に集めたような悲しい顔をして。何を盾にしても、どれだけのいいわけを並べても、もう遅い。
直ぐに踵を返すと、さっきまでの調子が嘘みたいに、とぼ、とぼと彼女は歩き出した。
どれだけ遅くても、僕がその前を歩くことは、出来なかった。自分で生み出した、最悪の結果を見るだけの覚悟が、僕にはなかった。
森は、どんどん深くなっていく。歩を進める度、空どころか道の脇まで木々が覆いつくしていく。行けども行けどもきりのないこの森は、知りつくせない世界の恐ろしさを、怖いほどに表している。
逃げたい。五感は僕がこの場から逃げるための都合のいい理由を今も、現在進行形で増やしてくれている。すでに目の前とは言えない、数歩先に位置する彼女からは悲しみだけ。傷口から漏れるようにドクドクとシャボンが流れ出ている。そして、重力に影響された泡は、そのまま地面に溜まっていく。血みたいだった。致死量の。その痛々しい傷口を作ったのは、紛れもなく僕。繊細な風船に、乱暴に針を突き立てたらどうなるかなんて、赤子でもわかる。
こんな風に軽んじて人を傷つける人間を、僕は許せないんじゃなかったのか。結局、僕も醜く汚い彼らと何も変わらない。取り繕っていても、変えられない。毒に蝕まれて僕も気づけば、人間の皮をかぶった汚らわしい何かになっていたらしい。
ずっと昔に舗装されてから人間の手を加えられていない荒れ放題の道は、彼女の副産物で一杯になっている。この一つでも、もし踏みつぶすことが出来たらどれだけ楽だろうか。でも、僕にはできない。する権利は、何を建前にしても絶対にない。だって、今踏みつぶしたら彼女は、また踵を返していつもの笑顔で僕の方に向かってくる。其れで云うんだ。何の軋轢も感じさせずに「一体どうして、こんなに離れちゃってたんでしょうね。」と。
反吐が出る。その偽物の光景に、吐き気と嫌悪が滲み出てくる。
自分で作った他人への傷を無理やりに癒着させて何もなかったことにするのは最早、人間以下だ。毒に蝕まれたとしても、どれだけ毒に近づこうとも、毒になることだけはあってはならない。
今なら分かる。
ずっとずっと昔、癒着させたあの子の毒にもきちんと薬を塗らなければいけなかったんだ。
シャボンを踏まないように、足を地面につける。後ろ見たさで振り返ると、シャボンは道を満たして僕の辿ってきた足場すらなかった。
それは彼女の、純粋な悲しみの中に一つ、また一つと僕がいたから。その泡は、彼女ほど綺麗じゃない。純潔とはとてもいえない、けれどしっかりと悲しみだけは表したシャボンが、僕の歩いた道を、濡らしている。
そうか。
その景色に、どこか遠く離れていってしまったみたいな、自分の気持ちがわかった。
そうだ。僕は。
「燈昌さん。」
こんなに小さかったら聞こえない、叫ぶ。
「燈昌さん!」
彼女が振り返った。
走る。道路をはみ出して、森を。途中で何度も枝葉がズボンを突き刺し、頬を切った。関係ない。一歩でも速く、一秒でも早く、こうすべきだった。
彼女が前に倣おうとしている。待って。本当は、ちゃんと言うべきだったんだ。すぐに、この言葉を。
「ごめん!」
文字の通り斜に構えた彼女は、その場で立ち止った。
走り切り、目の前にまで差し掛かった彼女に
「ごめん。ごめん、なさい。」
悲しいんだ。彼女を傷つけたことが、彼女に悲しい思いをさせてしまったことが。
頭を下げた。出てきた声は、寒くもないのに震えていた。
僕は、彼女に誠心誠意謝った。それが、気持ちに嘘をつかせることより、ずっとずっとマシに思えたから。しなければ一生後悔すると思ったから。
僕は、彼女に謝りたかった。後悔を、もうずっとしまい込むことはしたくなかったから。今は、そう思える。
いいですよ。とは言ってくれなかった。理想的な、僕を許すような言葉はどこにもなかった。でもかわりに、視界が重力に引き寄せられたままの僕にもわかるようにふふっ、と笑って。
「ほら、やっぱり貴方は素直で、とっても真面目な人じゃないですか。」
顔を上げると、彼女はぶかぶかのフードで顔を隠していた。振り返ると、シャボンは綺麗霧散に僕の分まで消えてまたただの荒れた道に戻った。それが、たまらなく誇らしく、悲しくなって、もうしない。したくはない。と彼女に誓った。
「結局のところ、一体全体をどうしたんですか。」
「いや、ただ君の言葉に、ちょっと昔を思い出して。」
隣で気脈の通じた心地の彼女に、申し訳なさを伝えた。正確には、隣じゃなくて彼女よりも少しだけ斜め後ろに位置しているけど、概ね隣しているのでこの言葉に違和感はない。筈。
「へぇ、考え事をしていただけで、私の手を突っぱねたと。」
「それは、ホント、ごめん。」
「冗談です。それに、言葉は言った時点で一人だけのものではないですから。もし仮に、私の言葉で貴方を傷つけてしまったなら私も謝るべきです。」
すみませんでした。
謝って、謝られるのは何とも水臭い。
水臭く感じるのは、海が近づいていることも含まれている事に気付くのはまだもう少し先だった。
「ほら、つきましたよ。」
彼女の指さす先、森を抜けたところに崖が佇んでいる。
太陽が、雲に覆われているとはいえ幾分かマシな明るさを提供してくれて、視界は少し晴れる。崖に向かってかけていく彼女に感化されて、駆け足ほどではないにしても早足になる。
「早く早く、こっちです。」
手を振る彼女に連れられて崖の先から顔を出すと、そこには。
海があった。
荘厳な、海。
いつもは命の源、生命の母とまで言われている、どこまでも広がる大らかな海。それが一転して雨の日になると、恐ろしく感じた。命の怒りや苦しみを一手に受けとめて発散してくれているような、そんな八方位のどこにも当て所のない憤怒を波の一つ一つに纏わせている。
快晴の日に感じる綺麗さは見る影もない。
でも、綺麗の一言では片づけさせないこの海のほうがずっと好きに思えた。なんだか一言で片づけられないあたりが、何か誰かに似ているから。
「悪くないでしょう。」
言葉をなくした僕に、したり顔をのぞかせる。
「わるく、ない。」
本当は、いいと、素晴らしいと言いたいところだけど、調子づく彼女をずっと見ていられるのが怖くなって言うのはやめておいた。彼女は、一体全体この景色をどう思っているんだろうか。自然の堤防に力任せでぶつかる波に、あちらこちらに立つ白波に、彼女は何を感じているんだろうか。どうせ聞いても、秘密です、の一言で済まされてしまうのだから。まぁ、いいか。
「私、さっきのバスでの須藤さんの言葉をずっと考えていました。」
「うん。」
「苦労してないと言われることが、一番の苦労だと。」
「うん。」
「私の点数を言ってもいいでしょうか。」
「どうぞ。」
「99点です。」
「高いね。」
「はい、高いです。私なりに考えると、この言葉は、とても素敵なことのように感じられますから。」
「それは、どうして。」
「苦労してないように見られること。それはきっと、とっても難しいことです。苦しいことです。だって、それは自分の経験してきた数えきれないほどの苦渋や悲哀を、自分の中になんとか押し込めて何食わぬ、幸せそうな顔をする。という事ですから。」
大綱をついた言葉は、棒立ちの的を射抜いた。
「私は、それがとても、とっても素敵なことだと思います。須藤さんの苦労は私には到底分かるものではありませんが、その苦労を顔に出さない事はとても難しくて、とても素晴らしいと思います。だって…、だって、誰も悲劇に身を包んだような人と仲良くしたいなんて思いませんから。何時もみたいに小言を並べて、国語の点数に本気でがっかりする須藤さんが、私は好きです。もしそれが偽物の貴方で、私の気付かない形作られたものだとしても、私はがっかりなんてしません。それは、紛れもなく私の、私たちのために作ってくれた、貴方ですから。」
分かったような口をきくな、なんて考えもしなかった。だって、彼女は何もわかっていない。何もわかっていないうえで、僕のことを、繕っていた僕を認めてくれている。何度目かの言葉の詰まる彼女の真っすぐに、始めて僕は
「あ、りがとう。」
ぎこちなく、感謝の気持ちを言葉にすることができた。
「いえいえ。と、こんな話をするとなんだか…、水臭くなっちゃいましたね。」
「そうだね。海も近いし。」
「今のは、0点です。水を差すようなこと言わないでください。でも、もうポエムは、貴方には必要ないかもしれません。」
「手厳しい…、ありがとう。」
ふふっと、彼女は何時もする何の苦労もなさそうな笑顔を僕に向けると、又視線を戻して海の方を見ていた。車軸を流すほどの雨空の下で傘を投げ出して、しばらくは、僕もそうしていた。
でも。
「でも、残りの一点は。」
それから、流石に太陽にも疲労はあったようで、また森を抜けてへとへとになった僕らはタクシーを拾うことにした。適当なところで僕と彼女は着替えてから、タクシーに乗った。傘を差さずに海を見ていたので、その時にべとべとになったリュックを見せつけられ、捲し立てられたのは言うまでもない。雨の浸食で一着を無駄にした事をタクシーの中で聞き、残りの一着は今着ているからレインコートをもう着られない、と怒られた。そんなびしょびしょになるレインコートの着方があるか、と異議を唱えたかったけど、今回は僕が悪いので何も言わないで置いた。
タクシーから降りると、レインコートを着用せず、なおかつ傘の持ち合わせもない彼女に僕は、しかるべき行動をとった。少し窮屈になった心と場所に、気持ちが爆発しそうになって、バスに着くまでの間はずっと頭を抑えていた。心を殺しているのに、何となく気持ちが高ぶった理由は、僕にはまだわからなかった。
「一日が終わっちゃいますね。」
「ね。」
バスに着いて、僕と彼女は今日のメインディッシュを平らげた感想をそんな言葉と少しの吐息に乗せて惜しんだ。二人とも、気持ちがいいくらいに疲れ切っていたのでそれからは特に話すこともなく、彼女に至ってはすぐに眠ってしまった。
覗き見たわけじゃない。見るともなしにそろりと、ちらっと彼女の横顔をうかがう。
好き。そんな言葉、母と父くらいしか言われたことがなくて、実感がわかない。
好きって、つまりなんだ。好意を寄せている?人間として?友達として?分からない。
今まで自分のことだけで一杯一杯だった人間に、僕なんかに答えが分かるわけはない。何度も答えが出るまでその言葉の真意をぐるぐると反芻してみても、真相に一歩も近づくことができないのは仕方のないことだった。
迷路に迷い込むと、時間はあっという間に過ぎるらしい。あ、という暇もなく彼女との時間が、過去の一つに積み込まれていくのを感じて、少し嬉しくて悲しくなるとバスは何度も見てきた景色たちのいる場所に差し掛かった。
僕は。
僕は、彼女のことをどう思っているんだろうか。
一つ目の迷路を抜け出すこともできず二つ目の迷路に迷い込む。今回ばかりは、横で眠る彼女が答えを示してくれることもなさそうだ。
答えは、出さなければいけない。ただ一つだけある決まった答えを。今までもそうしてきた。
ただ、最近になって毒を食い破る新しい毒を体に盛り込んだ僕は、その一つを出すことがなんだかすごくもったいないような気がしてきた。答えを出すことは、数多ある可能性の芽を、積んでしまうことになると。誰かが、耳打ちしてくる。
毒を食らわば皿まで。新入りが彼女の威を借って体内を蠢いているのがわかる。全く、とんでもないものを体に取り込んでしまった。
ため息混じりに元凶を見やると、陽に照らされてすやすやと虹色のシャボンを漂わせて気持ちよさそうに寝ている。
虹色?
外を覗くと、天使の梯子が雲の間から顔を出しているのが見えた。彼女の脊髄は、寝ている合間の差し込んでくる太陽にも機敏に反応するらしい。今も、不思議と憎らしく感じない太陽の前で漂うシャボンの軌道を目で追うと、その虹はふわりと周りを回ってから僕にくっついた。
彼女のことだ。僕にはわからない何処かに、チャームポイントの一つでも見つけたのかもしれない。
それを、割らないように丁寧に掌に載せる。いいんだろうか。こんな虹色を、彼女は僕に寄せてしまって。手を窓に寄せて陽にさらすと、より一層シャボンは輝きだした。
そうだ、僕は。虹に照らされて、やっと数多あるうちの一つの答えにたどり着いた。全部を全部知る必要なんてない。そう唯一つ認知した自分の気持ちをシャボンに乗せて、窓から薄明光線に向けて放った。
「お…、はようございます。」
ふわぁ、と一つ大きなあくびをして起床を伝える隣人に清々しいくらいのおはようを返す。
「あぁ、おはようございます。」
まだ寝ぼけているようで、二度目のあいさつを済ました彼女は窓辺の陽の光を目で追った。
「雨、止んだね。そのうち雲も、晴れるんじゃないかな。」
軽快な所作で、答えの一つを言葉に乗せてから彼女に向けた。彼女も、微笑んでくれるものだと思って。笑いながら、そうですねなんて。
「う、そ…。」
雲から差し込む輝かしい太陽の光に、彼女は。
彼女は光を失った。
嘘、嘘、と呪文のように唱え続け、忘れ物を探す様に頭を何度も抑えながらみるみると、顔を真っ青に染めていく彼女の豹変ぶりに言葉を失う。
「お、落ち着いて。どうしたの。」
「無い、無い、どこにも。何処にもないんです。」
「いったい、何が。僕も探すよ。」
何時も身に纏わせている彼女らしさはどこにもなく、代わりに「絶望」の二文字で彩られていく彼女を、何とか落ち着かせようとするけれど僕の言葉は、無力だった。
「あれ、あれ、あれ。何処。何処ですか。」
「お、落ち着きなって。」
そう、肩に手を置いて彼女を制止させようとすると、びくんと体を揺さぶらせた。
拒絶反応のように、身震いした彼女をこちらに向かせる。
なんの抵抗もなくすんなりと、彼女はこちらを仰いだ。
振り向いた時に彼女は、薄明光線に照らされて輝く雫を流していた。
自分で振り向かせておきながら、こちらを向かせた後のことを何も考えていなかったので、彼女の出所の分からない悲しみに口をつぐむ。
代わりに表情でどうして、と形作ると僕の手を、今度は彼女が払いのけて涙をぬぐった。
「あな、たは。」
震えた声で、陽にさらされた彼女はこれまでにないくらいの悲しみを吐き出した。
「貴方は、心を、なくしたことがありますか。」
其れだけ言って、彼女は丁度帰路に到着したバスから僕の食指が動く暇も与えずに飛び出ていった。
僕は茫然と、彼女の涙の意味が分からないままに彼女が残した虹色と、相反する真っ黒なシャボン玉をずっと眺めていることしかできなかった。
その言葉を、何とか飲み込んだ時には日が暮れて、太陽はどこにもいなかった。彼女の残した斜陽すら、見る影もなかった。
「あら、おかえり。」
「ただ、いま。」
母におあつらえ向きな返事を返すことができずに、玄関をくぐるとすぐに自室にこもった。
布団を頭からかぶって、遮断された視覚にあの時の彼女を描いた。
心を失くす。それは、僕が何千回、何万回も繰り返してきたことだ。臆病に飼いならされて思うがままにしてきた僕だけがしてきたズルだ。僕のためだけに向けられた彼女の言葉を何度も何度も頭の中でかき混ぜて、その真意を読み解こうとした。でも、分かるのは彼女が怒りすらも混ぜていない純粋な悲哀をにじませていたという事実だけで他には何一つとして分からない。
僕の判定できない何かが彼女を、見る影もないどん底にたたきつけていたとしたら。
そう感じた瞬間に、僕の中で紐づけられていた何かがプツンと完全に断ち切れた。断ち切れたのに、二つは同じ方を向いていた。彼女の悲哀に感化されてまた心の奥底が、頭が痛くなる。でも、もう僕の手が頭をかすめることは無かった。
もしも、自分に嘘をつき続けていなければ君の悲しみを分かることができたかもしれない。考えたところで後の祭りだ。けど、これから先にそうすることが少しでも君の役に立ってほしいと願ってもいいのなら。
僕は、君のように生きてもいいのだろうか。
もう分からないまま君を、傷つけたくはない。分かろうとしないまま、生きていたくはない。
だから。真っ暗な視界の中で思い描いた彼女に、そう誓った。
直ぐにメールで、親族以外に入れた初めてのアドレスに謝罪の旨を伝えた。いつもはRe;となって楽に返信をしていたので、思いのほか手間取ってしまった。加えて取り乱した原因を訪ねた。けれども、僕の望むような答えは一つも与えてはくれず彼女からは一言、ごめんなさい。とだけ送られてきた。そこには、いつも付け加えられた絵文字も彼女の甲斐性も見る光は無かった。
煮え切らない答えは、テストのように放っておいても誰かが教えてくれるわけはなく夏休みが終わるまで、ずっと喉に何かが詰まったままの心地で僕は無為に時間を過ごした。何度もメールを送ったが、彼女からの返信が送られてくることはそれきりもう、無かった。
そうして募れば募る程辛い思いを、消すこともしなかった。
それは彼女もずっと、ずっと前から変わらなかったんだと思う。
募り募った思いの丈を、何処にどうすればいいのかも分からないので気の赴くままに外に出た。この散歩に最たる意味はない、ただ部屋に籠っていると身に背負った何かが腐敗していくような気持になって思い立った時には重たいドアを開けていた。
暑い、影法師はこんなに近くにあるのに炎天下に晒されているせいでぼやけて見える。終夏のはじめとはいえまだ衰えなぞ見せないくらいに、燦燦と太陽は照り付けていた。
滲んだ汗が目に入った。あれから数日経っているというのにまるでついさっきのことのように彼女の姿が、瞼の裏に滲む。時間は相対的だ。こうして、晴れた日の中で練り歩くのももう二、三時間くらいはしているものと思ったのに時計をにらむと短針は、その半分も動いてはいない。
大きな息が、脳裏にはびこるほんの少しの鬱積を吐き出した。こんな気持ちをずっと消さないでいるのは初めてのことで、見るのも億劫な周りに漂うシャボン玉もこのまま一生消えないんじゃないかと思えてくる。不安がたまると独りでに腕が動いてくれる癖は、まだほんの少しだけ残っていてピクリと神経をくすぐっている。そんな四肢の一つを寂しく眺めていると、急に腕が暗幕に染まった。
太陽が陰ったのか、確かめようとして顔を上げると何時かの白い建物が目の前にそびえたっている。そこの自動ドアは開くと夏の日も知らない風が心地よく頬を撫で、僕の周りのシャボンをどこか遠くに飛ばしていく。歩く方角も距離も時間さえ何も決めていなかった僕のほんの少しの抵抗は、思わぬところに帰着した。
図書館に入ると、真っ先に深呼吸をする。息を吐き終えたところで瞼を下げた。晴れの日でも、雨の匂いは変わらずに図書館を漂っている。でも何時もの通り、心地いいとは思ったけれど何かが足りない気がした。雨の匂い、とはいってもいろいろあって図書館の匂いはあの教室のような匂いじゃない。もの静かで、それでいて一定な雨そのものの持っている概念を表したような匂いがする。
匂いへの言葉探しに夢中になっていると足は、知らずの内に答えを求めて二階を目指していた。二階にたどり着くと粒子はより一層濃くなる。匂いの正体は、何千何万と羅列された本だった。一つだけじゃこんな香りにはならない。募り募った幾つもの本が一所に集まって初めてこんな馨になる。もし、物語の色々が混ざり合ったものが雨になるならそれはなんて素敵な事だろうか。
なにか無い物か本棚をちらほら物色する。その何かに明確な答えなんてなくただあてもなく手さぐりに色々な本を取っては戻すを繰り返した。
この本は、読んだことがある。それでいてあの本は、読んだことは無いけれどどこかで見た気がする。その割に、内容は頭の中につらつらと入ってきて変だ。それでこの本は、主人公が猫の話。奇怪で、最後の最後まで名前の決まることなく生を終える、そんな哀しくて剽軽な猫のお話。カタルシスは感じなかった、別段悲劇でもないし。それに、最初から展開を知っていて物語を読むっていうのもどうにも酷な話で、どちらかと言えば何時かに初めて読んだ誰かの記憶が妬ましかった。
ねぇ、どこかの誰かさん。この本に素敵な感想を持った君は今、元気でやっているのだろうか。この答えは胸の内が一番心得ているけれど、こんな言葉で君の悲しみの容器に少しでも穴が開いてくれるのを願った。
そういえば、この本で思い出したことがある。あの時に芽生えた檸檬とケーキの丁度間の味がする気持ちにはまだ、名前を付けていなかった。彼女なら知っているだろうからどんな名前なのか聞いてみて、教えてもらわないと。それは何時でもいいけどせめて死ぬ前には、聞いておきたい。
それに雨が好きで晴れが嫌いな理由も、どうしてそんなに笑うのか、表情が豊かなのか、そんなに綺麗な虹色のシャボン玉を出すのかも知りたい。
気づけば周りは、彼女に感化されたシャボン玉で一杯になっている。
その僕から出た筈のシャボン玉は、僕の知らないことを教えてくれた。
僕は彼女のことをもっと知りたいと思っている。あの時君の泣いた理由も、何がそうさせているのかも、分かりたいし分かってあげたい。其れで僕が悪いのであれば、しっかりと謝りたい。
でも、その欲求は今の僕には我儘で手に余る願いなのも知っている。彼女に足るような人間にならなければ手が届かないのも心得ている。そうやって手が伸びない言い訳を探しているうちは、僕は彼女にふさわしくない。
こんな相反する感情を持ち合わせているのは初めてのことだ。自分はずっと不実で他者に何も抱かない薄情な人間だと思っていた。でも今こうして、一生続くと思っていた鬱屈とは別の憂鬱が体を支配しているのをみるとその限りではないみたいだ。それに、彼女はもう他人じゃない。
蕪雑な心境を気にもせずシャボン玉は、本棚を越えて緩やかな曲線を描いて何処かに飛んで行く。それを目で追うのはもったいない気がして、猫を本棚に戻して追いかけた。
気泡は、目的地を定めたように迷うことなく一所に向かっていく。歩いていくうちに、大悟した。それは分かる。あれは僕のシャボンなのだから。
目的地は彼女と初めて待ち合わせをして、一緒に勉強をしたあの場所。あれから、もしかしたらを考えて何度も訪れた場所でもある。僕自身嘘はつけてもシャボンにはつけないみたいであの場所を快く思っているのがバレバレだ。この時ばかりは、誰にも見えなくて本当に良かった。
シャボン玉が最後の本棚を飛び越えると、一瞬視界から消えた。早歩きをしていたので少し呼吸を整えてから歩き出すのに、都合が良くて立ち止る。やっぱり晴れの日でもこの場所は人気が少ない。辺りを見回してみても、人っ子は一人も見えなかった。
ふぅ、と息を吐き出してから歩き出す。足を運ぶのは大抵雨か曇りの日で、晴れた日にここに来るのは初めてのことになる。それにしても、晴れた日も、ここはこんなに暗いものなのか。屋上まで届きそうなくらいに縦長を集めた合わせ鏡のようなガラスは、きっとここまでなら容易に太陽光を透過できるはずなのだけれど。
立てかけていた手を本棚からどかす、さっき僕を見かねて置いて行ったはずのシャボン玉が足元で燻ぶっている。今一度確かめるために手で掬ってみると、それは余りに青々と綺麗に蛍光灯の光を反射していて、これは、僕のものではないことなどすぐに分かった。
透度に間違いがなければ、いや間違いなど無い。これは、彼女のものだ。
あの日が簡単に瞼から剥がれ落ちて、目の前に不二の景色が現れる。
棚から席を一望すると、やはりいるはずのその女の子は俯いて瞳を蒼で濡らしては泣いていた。その胸にはいつも肌身離さず持っているノートを握りしめている。何時かと酷似したその光景に僕は、また何もできずにいる。誓ったはずなのにしまいには、本棚の裏に隠れる始末だ。本当は、直ぐに飛び出してしまいたい。でも、足は床と同化してしまって動こうとはしてくれない。
嘘だ。本当は、恐ろしい。彼女の今まで見たことのないその悲しみの表情が、理解らなかったらどうしようかと考えると怖くて一歩を踏み出せない。そんなもの後からついてくるものだ、なんて僕には思えない。負け犬根性は、まだ治らないままで無能の烙印を押された楔は足についたまま。もしこんな意気地なしを消せたなら、でも初めて立てた綺麗な約束がそれを邪魔する。これじゃあ、何のために取り付けたのかも分からない。でも、取り繕った偽物で彼女を慰めることは、もっとしたく無い。倒錯した気持ちに彼女への善意まで錯綜して、僕はここにいることしかできない。傷つくのが怖いから、結局僕はエゴで身を包んだ生き物だった。
もう一度彼女を見る。
すると僕のシャボン玉は、泣いている彼女の周りを妖精みたいにずっと漂っている。このときほど、僕の気持ちが誰かに見えて欲しかったことは無かった。その気泡は僕に見えるだけでも、十分絶大なものだ。それは紛れもない僕のものだから。
何度も同じ過ちを繰り返していたのは大変不肖らしくはあるが、目の前で僕が言っているのだ。ここで出端をくじいているのも僕だけれど、あそこにいるのも隠しようのない僕だ。騙すことはしたくない。点数なんていらないし、満点もいらない。ただ彼女に泣いてほしくない旨を伝えようと、そう思った。
「燈昌さん。」
ひねり出した言葉と同じように足は軽く、ぬかるみのようなドロドロも脚にはつかない。
けれどたどり着いた先にはもう、彼女はいなくなっていて代わりに泡沫に彼女の姿をした泡が四散して辺りを舞っている。そして、僕のシャボンだけが机の上に張り付いていた。
彼女を描いていたのか、真偽はもう泡になってしまった。
辛酸をなめる、というのはこんな時に云うんだろう。彼女にもらった附子が、行き場を失って熱を冷まそうと体中をうごめいている。二度目の過ちは、結局過ちのまま終わって彼女の涙を止めることもたまった留飲を呑むことも出来はしなかった。
不快感が喉を鳴らす。
このことは、すべてが悲しいと思っていた。彼女に色々を教えてもらった僕も、いつか来るかもしれない不幸せを願っている僕も、不思議と同じ気持ちを抱いている。
不思議でもなかった。後者は何時かの誰かの涙から出来たものだから、もう同じ思いは二度とはごめんなんだろう。次こそは間違えない、とあの時に彼女を投影させているのがよくわかる。それは、僕もおんなじだ。この辛くて苦しくて消せない悲しみがあれば、僕はきっと彼女のために正しい選択が出来る。
あの時とは違う。悲観的になって、この世界を嘆くような格好の悪い真似はしない。もう手遅れだと、見て見ぬ振りもしない。
今一度誓った。彼女のために、彼女が頼ってくれるように、もう彼女への気持ちに嘘をつくようなことはしない。気持ちを殺すようなこともしない。この鬱積を何時か彼女へと晴らすために、僕は自分に正直に生きたい。そうすれば僕がそうしてもらっているように、彼女にも同じものを上げることが出来るだろうから。
その決意は、邪魔されることも疎外されることもなかった。強固な殻はきっともうとっくのうちに剥がれ落ちて僕の中で混ざり合っていて、でもそれでも飽和して残っている部分が違和を唱えることもない。
彼女へ踏み出したこの一歩は、紛れもなく彼女のためで僕のためのものだ。しばらく辺りを歩いてみても彼女の影は無かった。『...僕は、人が嫌いだ。鳥がさえずるように、雲から零れ落ちた涙が余すことなく地に降りしきるように、草花が咲き乱れやがて散るらんと言うように僕は、狂おしいほどに人が嫌いだ。それは、どうしてか。どうしてかってそれは、僕や、誰かがどれだけ頑張っていようが、お構いなしに人はその努力や、悪行、人柄を一言で済まそうとするから。一瞬吐いた悪態が、ほかの人には僕を悪人として表すための言葉になって、気まぐれにした善行が僕を誇る理由にするからだ。その癖、自分の行動の一つ一つにそこまで意味を感じて動くほど人は用意周到じゃない。いつか傷つけた誰かのことなんて覚えちゃいない。
動作の一つ一つに気を使っているのが僕だけだと気づいたときに人間は、どれだけ醜いのだろう、と空虚になった。人は、一言では済ますことなぞできない生き物のはずで、僕のことは僕すら知らない。なのに、一言で分かった気になって済ませようとするのはなんと烏滸がましいことか。それで、自分の期待通りに動かないのなら落胆するのだから、もう呆れることすらできない。人は、醜い。』
「え、これでおしまいですか。」
「みたいだね。」
ページをめくっても、これに続く文章はどこにもない。そのことが意味するのは、この物語の終わり。なんとも後味の悪い食感が、舌先でまだくすぶっているのがわかる。
「ポエムって、もしかしたら僕たちが思っているよりずっと恐ろしいのかもしれない。」
「です、ね…。」
蝉の喚声も恋しくなってきた秋空の下、図書館で適当に時間を潰している中で彼女の手に取った詩人たちのポエムは読み進めれば進めるほど、引き返したくなる恐ろしさがあった。
「この方は、少しばかり考え方が後ろ向きすぎやしませんか。」
「うーん。そうかもしれない。」
「その飲み込み切れていない言葉。含みがありますね。」
「まぁ、ね。」
彼女の言葉に二つ返事が出来なかったのは、何となくこの、筆者の言いたいことがわかってしまったから。神経質に生きてきたからこそわかる、人は僕ほど毎日の中であれこれ考えてはいないということ。知らず知らずのうちに誰かを傷つけている、という事。きっとみんな、言われてみればあぁ確かにそうだ、と納得できるんだ。でも、それを胸の内に潜ませて生きているのは極々少数で、この言葉の真意はきっと読解力の塊である彼女にもわからない。期待して、期待して裏切られて、辛酸をなめないと、なめ続けないと分からないんだ。
これは、もしかしたら僕なのかもしれない。取り付く島も見つけられずただ一人で生きていこうとした孤独な一人なのかも知れない。
でも。今は違う。
「でも、まだ死にたくはないよ。」
不安と、疑念と好奇心を肌にまとわりつかせてくる彼女に本当のことを言った。
「かっこいいじゃないですか。」
「そりゃどーも。」
からかってくる彼女を、適当にあしらう。
夏も終わりに差し掛かり、芸術が顔を出し始めた頃になってくると学校が始まり、夏休みが終わった。いつもは憂鬱にしか感じられない晩夏が、今年は待ち遠しくて仕方がなかった。
なぜならそれは。
始業式の日になると、隣に座る彼女へ真っ先に謝った。メールで散々繰り返すよりも、言葉で伝えた方がよっぽど伝わると思ったのは言うまでもなかったから。
結果は、成功でも失敗でもない。彼女にはそのことを何も気にしていない様子で、仕方のないことですから、と適当にあしらわれた。あれから、約一か月ほど考え込んでひねり出したその謝罪が彼女に刺さることなく行き所を失うのを見て、本気でへこんだけれど本当に何も後ろめたさを感じていない彼女のシャボンに、本来の目的が達成されたことに気づいた。気持ちと結果は、別々に存在しているのでやっぱり納得できなかった僕の気持ちと、少しの違和は何とか押し込めて飲み込んだ。
こうして彼女の仮面を外すことも出来ず、僕らの夏は蝉の体の中みたいに空っぽに終わった。
そして、秋が始まった。
初週のテスト期間に、彼女に又国語を教えてくれないかと頼んだ。理由なんてどうでもよくて本当は、ただ一緒に勉強したかっただけで、彼女を確かめたかっただけで、でも、予定があるらしく、彼女には断られてしまった。
そんなこんなで、国語の点数は散々で、二度目の何とか及第点といったところだった。
彼女の数学の点数も散々で、少しからかったら、晴れのせいです、と軽くいなされてしまった。
そして、現在に至る。
「おーい、頭痛君に燈昌さーん。衣装できたよー。」
暫く、甘ったるいミルクチョコを口いっぱいに頬張った時の気持ちの悪さを目の前の本で共有していると、図書館には元気のいい声が響き渡った。
声の主を見やると、案の定怒られている。当たり前だ。いくら人の少ない放課後とは言っても、こんなに大きな声を出せば怒られるに決まっている。
「安達さん。図書館では、お静かに、ですよ。」
「ごめんごめん。」
そう言いながらまた元気に平謝りしている彼はワクワクを隠しきれていなかった。
「それより早く早く。衣装班、会心の出来だってさ。相当頑張ってたよ。」
「おぉ、それは着るのがとっても楽しみです!さ、行きますよ須藤さん!!」
行きますよと言っているのに、その声はもう図書室からだいぶ離れたところから聞こえてきた。呆れながら彼女ほどではないけれど僕も、早足を決め込む。
「ベジタリアン君。」
早足を決め込んだのには、もう一つ理由があった。視界にいる安達こと、A君から早く離れるためだ。残念ながらその急ぎ足が報われることは無いが。
「夏休みになんかあった?」
「いや、なにも。」
ははーん。と、勘繰り半分ニヤケが半分の彼は含みを持って笑うと、僕を制止して続けた。
「ホントに変わったよな、須藤。なんか、一皮むけたっていうか。」
言い得て妙で、変に勘がいい。だから、彼のことは苦手だ。別人みたいだ、とかそんな言葉ではなく一皮むけた、というのは的を得すぎていて怖いとすら思うほどに。
「ほら、こっちの方が皆しゃべりやすいかなって。」
半分嘘を混じらせてぼやくと、彼はうんうん、と頷いた。
「俺もこっちの方が好きだ。なんか、前の頭痛君は無理してる感じがしたし。」
平然と言ってのける彼に、ドキリとした。そっちの趣味がなくて本当に良かった。と、胸をなでおろしていると肩をポンっと叩かれる。
「俺は、応援してるよ。頭痛君のこと。頭痛君が何時肉食になるか、ホントに楽しみだ。」
余計なお世話だ。
頭を抑える事をすっかり忘れた僕は、最近小学生のように思ったことが脊髄から言葉に変えられて口から出てくる。最近の悩みが今まさに発揮されたので、またやってしまったと口をつぐんで後悔した。
目の前の彼は一瞬驚いた顔をしていたけれどそれが面白みに変換され直ぐに笑って、やっぱり面白いな、と頬にしわを刻んだ。ペースを握られたままでは、虫が悪いので僕も特権を使わせてもらうことにする。
「僕のことより、君の心配をしたら。部活のない文化祭の期間が、一番の頑張り時じゃないの。」
Bちゃんのこと。
云ってすぐに、彼から余裕が消えた。
「それ、誰にも言ってないよな。」
「勿論。」
いう人もいないし。
ただ、シャボンを見ているだけで手に取るように分かる彼の情報は、言ってあげないとかわいそうだから言ってあげた。シャボンが見えなければうまいことやっていた彼にはそんな皮肉を、垂れてあげた。
「ま、お互い頑張ろうぜ。」
「あー、ん。そうだね。」
すぐに、開き直って突き出してくる彼の拳を適当にいなすと、やっと彼女を追いかける。彼に答えを言うこともできたけど、それはきっと双方にとっても詰まらないから内緒にしておいて、図書館を後にした。思いのほか、彼との会談はいつもより疲れた。
文化祭が近づいてくると、クラスだけじゃなく学校全体が浮足立っているのを肌で感じる。今こうして走っている渡り廊下にも誰のとも分からないシャボンが、ちらほらと漂って邪魔をして来る。壊さないように、慎重に、それでいて走らないといけないというのはなんという諷刺だろうか。一つ一つ潰して回るのもいいけれど、それは野暮だ。だから、シャボン玉を避けて通った。
今の僕は、間抜けそのものだろう。はたから見れば、あふれる感情をダンスで表現しているような誰よりも浮足立った人間の印象を与えていると思うと恥ずかしくなる。
実際には、遍く誰のとも分からないシャボンが、たまらなく怖くて避けていることは僕しか知らない。そもそも、きっと世界でただ一人シャボンを見えるのが僕だけなのでそのこと自体があまりにも剽軽で痛々しい話だけれど。
軽快にステップを刻む。あまりの足の軽さにこれは自分ではない別人じゃないかと錯覚した。もしもこれが僕なら、このイベントをみんなと同じように心待ちにしているのかもしれない。芽生えた自分のものとは思えないシャボンに否定の意を示す。それでも昨年からは想像つかないこの状況に、頭を抱えることはなかった。
渡り廊下を終えて、教室に隣する廊下に差し掛かる。あちらこちらにそれぞれのクラスで使う資材や、完成したなにやらが廊下中を埋め尽くし、進みづらい。
なんとか避けながら歩いて、教室に着いた。
「もう、遅いです。」
「ごめん、いそいだんだけど歩きづらくってさ。」
「歩いてるじゃないですか!」
「あ…。」
「あ、じゃないです!」
入った途端に浴びせられる叱咤に、少しの申し訳なさを示していると横やりが入る。
「痴話喧嘩はそのくらいにして、ほいこれ。」
両手には、不気味な黒装束と仮面、それから黒い布が伺える。そして、それぞれをそれぞれの胸に押し付けた。
「痴話げんかって…。」
「ん、何か言った無口君。」
「いや。なんでも。」
そ、と言って女の子は興味を失くした。
「いやー、頑張ったよ。採寸合わせてから今の今まで皆血眼で作ったからね。相当の自信作に仕上がってると思うよ。」
な?、と女の子が後ろを振り返ると、衣装班の皆が口々に苦労を地面に吐いた。
「ホントに、有難うございます。私の頼みを聞いてくださって。」
「いいよいいよ。メインの方はもう終わってるし、入り口になにもないんじゃ物足りんかったしな。またなんかあったら何でも言ってくれ。あやめちゃんの悩みなら何でもこなしてあげるよ。」
「リーダー、そりゃ辛いよ。」
「はいはい、お疲れお疲れ。まだ終わったわけじゃないんやから気ィ抜くなよ。」
ぶーぶー、と皆が決められた愚痴を垂れてそれをまたリーダーことEちゃんが一喝する。そんな一連の流れを、見ていてヒヤヒヤと嫌な気がしないのは、皆楽しそうだからだ。最近特に、そんな乳繰り合いへの微笑ましさを顕著に感じるのは、僕の視野が広がったからだろうか。あれだけ醜く、人間ではない何かだと思っていた皆は実際視野の狭い僕が、彼らをそんな風に色眼鏡で見ていたかっただけなことに気付いた。実際には、人はもっと複雑でもっと奥深い。愛情の中には不安があって、嘲笑の中には親和があって、怒号の中には優しさがある。広がった視界が実は世界は、そんな繁雑で彩られていることを教えてくれた。
悪い所だけを見ようとしていれば、人は簡単に悪人に見えてしまう。嫌いになった人は、少しの仕草でもう、ダメになる。そんな人間らしさを誰よりも抱えた僕を、自力で歩むには数世紀はかかる速度で少しだけ変えてくれた彼女を見やる。
申し訳ないと有難うとが入り混じった僕の顔を見て、彼女は笑った。
「それじゃ、着替えに行きましょうか。」
「そうだね。」
勿論、同じ場所で着替えるはずもなくそれぞれ文化祭用に立てつけられた更衣室で着替えを行った。着た後の微調整がしやすいようにと、それぞれ何人かEちゃんの子分を携えて。
「でもさー、ホント雰囲気変わったよな。頭痛君。だって、全然頭抑えないんだもん。」
「確かに。なんか違和感感じすぎて俺の方が頭痛くなっちゃうよ。」
視線は、彼らより少し下、浮かぶシャボン玉が見えないように切る。
「恋ってぇのは、素晴らしいねぇ。」
「ホントホント。」
「いや、別に、そんなのじゃないよ。」
しどろもどろになる僕を見て、二人はまた笑う。
「おぉ、戸惑ってんねぇ。珍しい。」
「ホントホント、須藤がキョドってるのなんて全然想像つかなかったのになぁ。」
「なんか、人間っぽくなったな。」
「僕はもともと人間だから。」
そんな風に幾分か人間らしくなった僕を横目に、二人は顔を見合わせて高らかに笑った。シャボンは見ていないから、どんな気持ちだったかは分からない。それでも、嫌な感じがしないのはつまり、そういうことだろう。
けれど、彼女のようにまだ彼らを信じ切るのは怖い。
「ほら、これ。」
ハロウィーンの仮装大会に出席するのかというくらいに黒みがかったホラーテイストの衣装を渡される。文句を垂れてもしようがないので、何も言わずに受け取った。
「ホントはあれ着るの、少なくとも須藤ではないかなって思ってたよ。」
「でも、あんなもん見せられちゃ敵わないだろ。心理学にめちゃくちゃ強いなんて、誰も勝てねえよ。」
「だな。」
全部聞こえてるよ。少し離れたところで着替えながら、仕様もない悪態をつく。
今着ている衣装は、僕等のクラスの出し物である、お化け屋敷に関連したものだ。最初は何をするか、煮詰まっていたけど声の大きいAくんやら、B君やらのごり押しであっという間に決まった。
でも、僕がこの衣装を着てすることは客を脅かすことじゃない。どちらかというと前座、皆が驚かす前に雰囲気を出す役に立候補した。注意要項、ルール説明、その他もろもろを椅子に座って入り口で行う仕事だ。これはこれで面倒くさいことこの上ないが、大きな声で人を驚かせるのや、慣れていない裁縫に専心するよりはこっちの方が楽だと思ったから願い出た。皆は、同じ役に立候補していた彼女の後追いで僕がこの役になったと思っているが、それは違う。断じて違う。
でも、何人か出た僕と同じ考えをしていた候補たちから競り上がるのに、シャボンを使ってまでズルをさせてもらった必死さが、何処から出てきたのかは僕でさえも知らないが。
「終わったよ。」
鏡を一通り見終わってから、二人に声をかけた。
「おー、似合ってるな。」
「似合ってるも何も、素体さえあれば皆合うと思うけど。」
「そんなこと言うなって。小柄な須藤に合わせて作ったんだからサイズは須藤だけにフィットする特別性だぜ。」
昔、何かのゲームで見たことがある。確か名前は、ペストマスク、って言ったような気がする。そのカラスみたいな仮面に加えて、全身黒ずくめの衣装。誰が見ても、中世の死神を想起させるこの不気味な格好からは、衣装班のただならぬ本気を感じる。
「それで、あの時みたいに考えてること当てられちゃったら、俺なら背筋が凍り付いちゃうよ。」
「間違いないな。」
気密性、服のサイズ感、その他もろもろを確認し終えた二人はそんな小言を言ってからかってくる。よろしいならば、と立候補の時と同じように彼らのいつか見たシャボンを口に出させてもらうことにした。
「Eちゃんのこと。」
彼らの心臓が、一瞬止まったのを感じる。しょうがない。君たちが望んだことだから。
「頑張ってね。」
文化祭が近づいてきただけで全くどこもかしこも、ピンク色で息が詰まって困る。
其れだけ言って立ち去ると、もう着替え終わったであろう彼女のいる教室に向かった。後ろの方から聞こえてくる、お前もか!とかいう仲睦まじい二つの声は聞かなかったことにした。
シャボンを見れば、誰が誰を思っているかなんて手に取るようにわかる。それを悪用するつもりはないが、広がった世界は少しだけ彼らの反応を心待ちにしていた。これもひとえに、彼らに興味を持ったからだった。取るに足らない、悲しい生き物だと思っていた彼らは実は、僕の持っていない魅力をそれぞれ持っている。僕が今まで、彼らをしっかり見ないようにしていたのはこんな魅力を秘めていることが怖かった所からきたのかも知れない。
だけども、分からない。それを教えてくれた彼女だけは、僕に対して何を考えているのかは分からなかった。楽しいの中に、悲しいがある。嬉しいの中に、悲しいがある。そして、好きの中には相反して僕を突き放したい思いがある。見識を広げてくれたその日から、見えるようになったいつも彼女に付きまとっている後者の感情は僕にとっての彼女を、より複雑にして、より分からなくさせた。単純だと思ってみていた彼女の後ろには、犇めく影が一つ、二つ。そしてその陰ばんだ悲哀は、日に日に嵩を増していっているように感じる。
目の前で今も、ほら。
「燈昌さん。」
呼ぶと、少しびっくりしたみたいで肩をビクっと震わせた。
「わっ、須藤さん、ですか。びっくりしました。どうして、私だと分かったんですか。」
「どうしてってそりゃ。」
目の前で、怪訝なシャボンを浮かべる燈昌さんに答えを言おうとして、口をつぐむ。
そんなのシャボンを見れば、一瞬でわかる。なんて、言えるわけがないことに今更になって感づいた。
それで違う理由を探そうと躍起になってから、またハッとする。目の前の彼女は、体を包帯でぐるぐる巻きにしていて、その顔は見る影もないくらいに血だらけになっている。ミイラか何かをモチーフにしているのだろうか。いくら顔見知りでも、これが一目で彼女だと認識するのは至難の業だろう。加えて、周りには同じようにミイラやムンクみたいな顔をしたスクリーム、それにあれは人間の皮をはぎ取ったレザーフェイスだろうか。
仮想大会の会場の中から彼女を見つけるのは、もう不可能に近い。
その中で言い逃れするのも、至難の業だ。
「それは、何となく、そんな気がして。」
「はぁ、何となく、ですか。」
「うん。何となく。多分、燈昌さんがマスク越しでもこの声が僕のだと分かるのと同じような感じだと思う。」
今までなら、もっとうまくやれた。頭を抑えて自分を隠して、平然と嘘を言ってのけて切り抜けることが。
でも今の僕にはそんな小さな嘘も、少し先の未来を真っ暗にする青田買いをしているような気分になってとてもつけなかった。
ジリリと、彼女が訝し気に僕の言葉を、目利きしている。
「何となく、嘘をつかれているような気分です。」
「そ、んなことないよ。」
何度もぱちりと瞬きを繰り返す。幸せなことに、顔はマスクでおおわれていて彼女からは見えない。それにマスクをしている僕からも、身を覆う彼女は分からない。
ふーん、と僕の衣装と、マスクを一瞥した後で、まぁ、いいです。と懐疑的なシャボン玉を弾けさせた。興味はもう、別のことに向いたみたいだった。
「それより、その衣装。お医者さんみたいでかっこいいです。」
「初見でこれが医者だと思うのは、君くらいだと思うけど。」
情状酌量の余地をいただけたようで、余裕の生まれてきたレンズ越しの視界で彼女の衣装を改めて瞥見する。
包帯の下には黒の布切れを忍ばせてあって、上半身の露出は少なく所々には血糊がついている。下半身に目を向けると、黒のタイツが覗かせている。所々、張り割かれたみたいに破けていて各箇所にはお情け程度に血がまぶされている。
…、不埒だ。こんなもの彼女には、似合わない。
目のやりどころに困っていると、左目だけ包帯から出すことを許されたマスクをかぶった彼女は、その慧眼をこちらに向けた。
「でも、その恰好なら頭痛も自分で治せちゃいそうですね。」
「まぁ、そうかも。」
うっ、と心が痛い所をつかれてうめき声をあげた。他の誰につかれても痛くもかゆくもないそこは、彼女にだけは小突かれたくなかった。原因に触れられると、こそばゆいんだ。
「ほら、最近頭痛もなさそうですし。その服のおかげじゃないですか。」
「それは、夏が終わったからじゃないかな。」
「へぇ、秋は台風が来て低気圧になりがちなのに、可笑しいですね。」
「それは、気分の問題だよ。ほら、僕も君も雨が好きだし、雨が降ると逆に、ね。」
そう言って外を指さすと、雲一つにすら邪魔されていない太陽が同意してくれている。その斜陽がやけに心地よくて一瞬目を瞑った。パッと目を開けるとまだ照り付けてくる太陽に、今度は苛立ちを感じて、どうもご親切に有難う。願わくはあれは癖だと彼女が思い出してくれますように、そんな皮肉を込める。
続いて、彼女も太陽に目を向けた。それから、心底真面目な顔つきになって
「明日も明後日も、雨が降ればいいのに。」
儚げに太陽を見つめると風邪を引いた日の体の中みたいに、体の外にあるいいシャボンと悪いシャボンの比率が取って代った。急に、喚声の中で二人だけ隔絶されたような気分になる。天気予報を見てみても、悉く今日からずっと晴れの日マークで埋め尽くされていた。
「どうして、」
「はい。」
「どうして、君は雨の日が好きなの。晴れの日が、嫌いなの。」
「それは、」
「それは、秘密です。貴方と同じで。」
ダメで元々、教えてくれればうれしいくらいに思っていたので特に驚くこともない。もう一押しをして、無理に聞かなくても何時か聞けるだろう。
何時かの晦まされた答えが不意に脳裏をよぎった。
「ねぇ、どうし、」
「お、やっぱり雰囲気出てていいねぇ。おばけやしきはこうでなくっちゃあ。」
静寂を踏み散らして、Eちゃんが詰め寄ってくる。
「凄いです!あんなに少ない予算で、こんな衣装を作れるなんて。衣装造りが好きなことは知っていましたが、それを差しひいても素晴らしい出来です!江崎さんは天才です。」
「仕事冥利に尽きること言ってくれるじゃないか。んー、そうだね。テーマは『最愛の人を生き返らせるために禁忌に手を染める医師。』なんて、どうよ。」
ニヤリ、と誰もかれもに再三向けられた笑顔と同じものを、Eちゃんまでもが僕に向けてくる。それでんん?なんて言われたら、もう駄目だった。
身に余るその表情を誰もかれもが僕に浮かべることに、辛抱堪らなかった。
「ホントに、趣味が悪いね。彼女の服装も、そのテーマも、もっとうまいやりようがあったんじゃないの。」
目の前の唖然とするEちゃんこと江崎さんが何を考えているかは、手に取るようにわかっていた。あるのは少しだけ屈折した深切と良心だけでそこに純粋な悪意なんて、これっぽっちもないことも知っている。でも、それでももう何回目かの彼女らのおせっかいと、中断させられた会話に腹が立ってしまった。
ズキリ。言の刃を突き立てると、瞬間彼女と同じくらいに胸をえぐられた気持ちになる。
こんな衣装を着ていれば、刃はさぞかし鋭利だろう。
気さくに謝罪してくる、いつもは勝気な少女が作り笑いが凄く下手なことを知った。
「ごめんごめん。実はあやめちゃんの下のズボンはあたしの衣装だよ。ちょっとからかってみただけ。」
「ええ、こんなに素敵なのに。」
「だろ。でも文化祭は、露出の多い服装には厳しいからそのままじゃ難しいんだ。」
「ろ…しゅつ…。」
思い出したように下半をまじまじと見つめる彼女に、何か言ってあげる元気もない。
「とにかく八色、悪かったよ。ごめんな。」
「いや、僕の方も、ごめん。ホントに。」
ズキリ。僕のせいで出来た彼女の傷をせめて少しでも早く治るようにと向けた言葉は、送り出すと何故か僕にもできた傷に塩を塗られたような心地にさせた。
それに、言ったところで彼女のその傷がきれいさっぱりなくなったわけでもなかった。
僕は、知っている。人の傷は、簡単には癒えないことを。今までごまんと見てきた。それに対する解決策がないことも。
僕は、他の人間と何ら変わらない、傲慢で醜い生き物だ。だから、今まで自分を隠してきたんだろう、と誰かが言った。
キョロキョロと、Eちゃんと僕とを反復している燈昌さんを置いて、Eちゃんは逃げるようにその場を離れた。自分は絶対にするまいと思っていた行為にいざ触れてみると、どうしようもなく無力になって泣きそうになる。彼女を傷つけた刃は両刃仕込みだという事を、身をもって知った僕に彼女は、私、もしかして今恥ずかしいですか?と訪ねてきた。其の無垢に晒されると、やっぱり僕は君にはなれない。というのを改めて認識して、又深く顔を落とした。
彼女はその仕草にまた別の解釈をしたようで、酷く慌てだしていた。
「皆、ちょっと聞いて。」
離れてから少しした後。
適当な座席に駆け上がり、Eちゃんは周りに促した。
「いよいよ明日は文化祭だ、各々今日までよく頑張ってくれた。」
おー、いいぞ、と歓声が漏れる。
「苦労もあった。衝突もした。でもそれは、よりよいものを作るためのものだ。」
「これから二日、本番は驚かして驚かしまくって、最高の文化祭にしよう!」
「「「おー!!」」」
Eちゃんの拳に合わせて、皆それぞれの拳を掲げる。特に、衣装班に至っては雄たけびを上げている。
成程。今こうしてEちゃんに憧憬の目を送っているさっきの二人を見て、何となくわかった気がする。
ズキリ。
彼女も、隣でうおーと可愛らしい声で腕を掲げた。それで、何か言いたげな表情でん?と隣の僕に同意を促してくる。その理由も、分からなければどうということは無いが察しの冴えわたっている今、意味ありげな行動をされてしまったらうまくいなせるわけもなく、根負けして僕も小さな声で、ぉーと拳を掲げた。腕は思うようには上がらず、関節が何個もついているようなぎこちなさがあった。それを見て、満足げにクスッと笑って
「明日は頑張りましょうか。」
と、僕らの抱負を掲げた。ニコッと笑ったその刹那で、虹色と一緒に彼女から飽和した哀情を僕は、僕は一つも潰す勇気などなかった。
制服に戻って帰りの支度を終え、隣でいつものノートにメモを取っている彼女に提案する。
幸いEちゃんの声明の後は別館の現地解散だったので、いつもの教室は人気が少ない。
誘うには、いい塩梅だ。
「今日、一緒に帰らない。」
言って、早々に後悔した。脈絡もへったくれもあったもんじゃない。もっとうまい口上の一つでもあったろうに、こんな文句じゃ犬も食わない。
「いや、違くて。ちょっと図書館にでも寄ろうかなって。ほら、燈昌さんの家の方向と一緒だからさ。」
一言目で、気持ちの整理をまだつけていない彼女のいつ出るか分からないシャボンが、急に怖くなって言い訳をいくつも並べた。並べる度にどんどん苦しくなってくるのは多分、真理だ。
「ごめんなさい。私も図書館に行く予定があるんですけど、用事を済ませた後なんです。なので、帰りたいのは山々なんですが…。」
申し訳なさげにしているのを見た感じ、嘘ではなさそうだ。
「そっか。」
予想以上にがっかりしていた声が自分から漏れたことに驚きを感じながら、カバンを背負う。
「今回は、気が合ったという事で許していただけませんか。」
「それも、そうだね。また明日。」
「はい。明日は、頑張りましょう!」
「うん。頑張ろう。」
そう言って僕は、彼女より先に学校を後にした。横目で見たとき、彼女があのミイラみたいな衣装をノートに事細かに描いているのに勘づいた。その不気味さと、お世辞にもうまいとは言えない塩梅がやけにツボにはまって、失笑した。
彼女と、帰りを共にしたかったのは別に時間をなるべく共有したかったとか好意の延長線上に存在する気持ちを代弁したとかじゃない。そんな中高生らしい理由だったら、どれだけ気が楽だろうか。実のところは、もっと複雑で一言では済まされぬのっぴきならない事情から来たものだ。
あの旅行で彼女が突然泣いた訳を、教えてもらいたかった。それに、図書館で見たあの涙の意味も。
夏が終わってすぐ、最初のうちは彼女が気にしてないならそれでいいか、と思った。満足だった。でも、それだけじゃ取り返しのないことになるんじゃないかと一日また一日と日々を燃やすたび、何かが膨らんでいくのを感じた。のうのうと、臭い物には蓋をして生きていくとどうなるのか。それは、今までの僕が一番よく知っている。
放っておいていいはずがない。此の悪寒は、きっと確信に届く。
聞いておきたい。嫌われたっていい。間違いなく、彼女は夏ごろから、いやひょっとするともっとずっと前から何かに苦しんでいる。なのに、自分のことで一杯一杯のはずの彼女は、僕に優しさを分けてくれた。
だから、僕も何かで応えてあげたい。あの海で言ってくれた言葉を、そっくりそのまま彼女に返してあげたい。偶には思いのたけを、ため込んだ苦労を吐き出してもいいじゃないか。
誰でもいい、君の苦労を聞くのは。でも、誰もかれもが彼女のことを第一印象のまま見ている。君の苦労は、僕以外の誰も知らない。僕もそれが何なのかすら分からない。
君の口から教えてほしい。哲学ゾンビみたいに生きてきた僕が、人間らしく生きる第一歩。他人の言葉に、思いに、自分を重ねる。自分のことのように悲しんだり喜んだり。その一歩は、ほかの人じゃない。紛れもない君に手伝ってほしかった。
そしたら、僕も君も一石二鳥だから。
だから。
だから僕を、頼ってほしい。
「ダメだ。」
どうしても、キザなセリフで格好つけてしまう。もっと、単純で短くしないと。
本来なら今、彼女に伝えるはずだった言葉を反芻させる。
それならまだ、伝えなくてよかったのかもしれない。人を平然と傷つける今の僕には、その資格がないだろうから。
まだ痛む胸に手を当てて、何十回目かの下書きを頭の中でぐちゃぐちゃにした。
帰り道、独りだと暇に飽かして色々が頭の中をぐるぐる回る。答えのない答え探しに、へとへとになった僕は、家に着くとすぐにベッドめがけて飛び込んだ。
ベッドに俯せになると、そのうちに体は沈み込んで意識と一緒にまどろみの中に消えていった。
『どうして今日、彼女のシャボン玉を消さなかったの。』
誰かが囁いてくる。聞きなじみのないその声は、なぜだか親しく思えてきて、洗いざらい吐き出してしまおう、なんて変に強気になる。
「怖かったんだ。皆が血肉の通った生き物だと分かった途端に、僕が彼らを簡単に変えてしまえることが堪らなく。」
『Eちゃんのことは、いいの?それに、今更になって?』
「だって、しょうがないじゃないか。どっちも今まで知らなかったんだ。」
『そんな言い訳で、罪が消えるとでも?』
「それは…。」
『私を殺したのが、許されるとでも?』
声の主は肉薄してくる。妖しい息遣い、聞こえる心の音、やけに人間らしい女の子が目の前に立っていた。どこか、面影があるようでないようなその顔が、すぐにだれなのか、僕にはわかった。
彼女は初めて気持ちを殺した、あの時の女の子だった。其れもやけにリアルな質感で、あれきり会ったこともないのに成長した姿で、目の前に立っている。
彼女の幻影に比べれば、Eちゃんのあの服の方がよっぽど趣味が良い。
『ねぇ、答えてよ。』
その眼には、あるはずの瞳もなく、代わりにどこまでも真っ暗な闇が広がっていた。
『ねぇ、』
闇が僕を吞み込み、声が耳を貫いた。
『ねぇねぇねぇねぇねぇ』
「ねぇ、ご飯できたわよ。」
「わっ。」
目を覚ますと、母がお玉を片手に僕をコツンと叩いていた。
「随分魘されてたけど、大丈夫?」
全身には、纏わりついてくる嫌な汗をかいている。詰まらせていた、息を吐く。
「初秋に頭から布団かぶるなんて。そりゃ汗の一つも掻くわよ。とりあえず、先にシャワーでも浴びてきたら。」
「そうする。」
母に促されて、階段を下りた。
「あっ、そういえば。」
寝癖を正し乍ら、振り返る。
母は、思い当たりのない微笑みを向ける。
「やっぱり、なんでもないわ。」
「なんだよそれ。」
「そうだ。あんたが行くんなら今年は、文化祭行かせてもらおうかしら。」
「ん。」
「あんたのクラスは、何やるの。」
「秘密。」
「まぁ、いいわ。勝手に探すから。」
「ん。」
階段を下りながら、さっきの母との問答を少し意識する。全く似ても似つかないような僕と母。そんな母から、どうして僕が生まれたんだろうと、悲しくなる。遺伝子がどうだかは関係なさそうだし。ブクブクと、浴槽で泡を立ててみたけれどその答えがポッと浮かぶことは無かった。
それから、今度はしっかりと支度をしてから床に就いた。寝付くまでに思いのほか時間がかかったのは、きっともう一回、あの夢を見るのが怖かったからだろう。動悸の激しい心中と闘いながら、楽しいことを浮かべて何とか眠りについた。明日のことを思い浮かべると余計に胸が疼いたのは、きっと何でもないことのように思う。
良くある話だ。
まだ漂うシャボン玉に、少しの違和感も感じなかった小さな頃、僕のクラスにはいじめがあった。いじめっていうのは癌に似ていて、露見した時にはもう取り返しのつかないことになっていることが多い。まさしくその通りで、ただ給食を食べるのが遅いだとか、かけっこが遅いだとか、そんな他愛もない理由から始まったそれは日に日にエスカレートしていって、僕の気づいた時にはもうだれも止められないくらいに大きくなっていた。
その子はよく本を読む子だった。図書館に行くと毎回、サクランボみたいな二つの水玉の髪留めを後ろにつけてタイトルも子供には読めないような難しい本を読んでは、パッと笑ったり、とっても悲しそうな顔をしたり、そんな彼女を遠目から眺めていたのをよく覚えている。
話しかけたことは一度も無かった。ただ、その子のシャボン玉は純粋な子供たちの中でもとびぬけてきれいで、何時の日か話したいな、と思っていた。
別れは、突然にやってきた。
帰りの会になると、先生がその子を黒板の前に呼び出して言った。
「〇〇ちゃんは、明日引っ越すことになった。皆悲しいとは思うが、今日はちゃんと別れの挨拶をしてあげなさい。」
先生の言葉に、周りを見回すと幼いながらに疑問に思った。
どうして、皆悲しそうな顔をしているのに、汚い色をしたシャボンが周りにはたくさんあるんだろうって。今なら、身に染みるほど分かる。
それで、いつものように放課後になって図書館に向かうと、いつものようには女の子はいなかった。不思議に思って、辺りを探すと悲し気なシャボン玉がいくつもいくつも、右から左へ流れていく。濃蒼に彩られたそのシャボンに見惚れて出所に向かうと、雨も降っていないのにびしょびしょになっているその女の子がいた。
何も言わない僕に、彼女はやっと気づくと
「悲しいの。辛いの。」
其れだけ言って、又泣き出した。藍色のシャボン玉は、僕が集めていたどのビー玉よりもきれいだった。
「悲しいの?」
その子の言葉を借りてみても、その子の気持ちが僕に伝播することは無かった。
「うん。私のことをいじめるあの子たちは引っ越してもずっとずっと、わたしにつきまっとてくるの。きっとどれだけ楽しく生きようと思っても忘れた頃に、思い出せって。最近は、ゆめにも出るようになったの。」
「くるしい?」
「うん、すっごく。もし、この気持ちが忘れられたらな。そうしたらずっと、ずっと幸せなのに。」
「なら、それ、僕にちょうだいよ。」
一石二鳥。
藍色のシャボンを手に取って、彼女の前にもっていく。こんなにきれいなものを要らないというのだから、もったいないし貰っておこう。それで、ビー玉入れに入れて僕の宝物にするんだ。食べるのもいいかもしれない。このふわふわは、きっとおいしいだろうから。まだ、それが何かすらも分からなかった僕は、女の子の、もらって。という言葉に一層にんまり笑って、そのシャボンをポケットに入れようとした。興味の中には、ほんの少しだけの好意もあった。彼女が、また綺麗に笑ったり怒ったりできるのなら、こいつは僕が貰ってあげようって。
この時から。
この時、この瞬間から僕の周りをうろつくビー玉みたいなものが本当は何なのか、そして周りを漂う色の意味するものがなんなのかを知った。周りの目を訝しく思っていたのも、多分彼女がくれたものだ。
当然シャボン玉は小さなポケットに入るわけもなく、家に持ち帰れないなと幼いながらに悟った僕は食べてしまうことにした。口の前まで持っていくともうシャボンは動くのをやめて、その場にうずくまっていた。だから、僕はそれを口に入れた。
奥歯で噛むと、シャボン玉は当然綺麗霧散に口腔で弾けて、唾液の出るくらい苦い味がした。
瞬間、さっきまで泣いていた女の子は突然に、僕を突き飛ばした。
「どうして。どうして、私は引っ越しなんてしなくちゃいけないの。悲しいことなんて一つもないのに。貴方がとったのね。ねぇどうして、返してよ。私の楽しい記憶を、取らないでよ。」
綺麗な宝物が弾けたのを、確認する暇もなく彼女は僕の胸ぐらをつかんだ。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ!返して!返して!」
喚く彼女の後ろには、さっきのと同じ色のシャボン玉が漂っている。
ほら、そこにあるんだ。返すから、その手をどけてよ。
何かでぐしゃぐしゃになった視界のなかで、彼女にそう目いっぱい叫ぶけれど、嗚咽が邪魔をしてくる。何も言えない僕に、先生が来るまで彼女はずっと、返して、どうして、と叫んだ。
最後の最後まで、僕は彼女に口を開くことは出来なかった。
だから、僕と彼女の話はこれでおしまい。
簡単に、ちょうだいなんて言ってしまったばかりに僕は、その日から彼女のことを殺してしまったように思う。
それから、僕は人に触れるのが堪らなく怖くなって、寄り付く芽はなるべく早く摘んで、他人には遠ざける納得のいく理由を自分の中に作って生きていた。それで、彼女からもらった都合のいい先入観を振りかざして、持ってもいないトラウマを使ってもっともらしい理由を作って殻に閉じこもっていた。
彼女に会うまでは。
一つ消したところで、屁にも思わない大軍を引き連れて僕の前に現れた彼女は僕にいろんな世界を教えてくれた。有り余るくらいにたくさんを持った彼女といれば、僕が間違っても君を消してしまうことはないと、安心する事が出来た。
けれど。
もらったそのシャボンは、忘れた頃に出てくる悪夢になった。
今も、そう。燈昌さんとの日々を僕の中に刻んでいくたびにその根っこにあるこれが、騒めきだして告げる。忘れるな、と。僕の罪を、消したくても消すことはできない過ちを。
「ようこそ、真実の館へ。」
やっと耳に馴染んできた何度目かの定型文を、彼女がまた新しいお客さんに放った。こんな中二感満載の恥ずかしい名前を後ろ手にあるお化け屋敷に付けたのは、紛れもなくEちゃんだ。
ズキリ。
んんっと喉を鳴らす。なるたけ声を低くしたいときにはこうすればうまくいくと、やっと身に着いた何十回目の教訓を遺憾なく行使する。
「ここでは、まずご入場頂く前にお客様にいくつかの質問をさせていただいております。よろしいですか。」
「どうぞ。」「なんか、めっちゃっぽいな。」
「有難うございます。それでは、こちらの椅子に座って水晶をご覧ください。」
そう促して、僕もレンズ越しに水晶に目を向ける、フリをする。実際に見ているのは今目の前に座っている客とその周り。衣装を作ってもらうときに視線が切れるものを要望したのが功を奏している。
目の前のカップルに漂っているシャボンは、類まれで独特なものだった。座っている女の人の方には、純粋な喜びが感じられる。シャボン玉は一人につき、一度に幾つも見えるようになったはずだけれど、その人から感じられるのはただただ嬉しいという気持ちだけ。椅子に座るだけで漂ってくるその人の幸せを脳漿でかみ砕くだけで、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
けれど、男の人の方には逸楽の中に少しの焦りと、それから苦痛が読み取れる。彼女はこんなにも楽しそうなのに、彼はいったい何が不満なんだろうか。
どうしてか。それは、分からない。
分からなくても、何とかはなる。だって、言葉は発された時点で僕だけのものじゃなくなるから。受け取り手によって様々に色を変えて、都合のいいように心に刺さる鍵みたいなものだから。
「そちらの殿方は、何をそんなに苦しんでいらっしゃるのでしょうか。苦悶の表情が見て取れます。」
「は?」
明らかに、焦燥で塗りたくられたような声音で質問を質問で返す男の人に続けて捲し立てる。
「それに加えて何をそんなに焦っていらっしゃるのですか。まるで、この女性といるから生まれてくるみたいです。」
「だから、何がだよ。」
何がって、もう言う必要はない。
目は泳ぎ、額には汗が滲んでいる。男性は誰が見ても分かるような動揺を内から外に造り上げた。何故そうなったかはわからない。分からないけれど僕の言葉は彼にとっておあつらえ向きだったようで、余裕や喜びとは無縁の表情で此方を窺ってくる。僕もそうだが、人は突然に思ってもみないところから正鵠を射られるとうまく対応できないように作られている。
「それは、私には解りかねます。けれどここは真実の館。この先に、きっと答えはあるでしょう。道程の中、どれだけ辛くても恐ろしくても貴方たちは進まねばなりません。ほんの少しでも、このライトが貴方たちの役に立つことを祈っています。」
引き出しに忍ばせていたライトを二人分取り出すと、無機質なグローブの上に乗せて女性に渡した。
嫌がる男性に、兎に角行ってみようという女性。そこには先ほどまで形造られていた、亀鑑の男女の姿はなかった。
「良い旅を。」
暗闇の中に鬼を見た女性と、男性、二人の背を、何とはなしに見送った。
そこからお化け屋敷は、阿鼻叫喚の巷と化した。どれだけ本格的とはいっても所詮は何部屋かの教室を段ボールやら何やらで改築したに過ぎないハリボテでは、彼の声を掻き消すことは出来ないらしい。防音もへったくれもない暗室で叫び、何かに必死になって謝罪している声が聞こえてくる。
「悪かった。○○、出来心だったんだよ。俺が悪かった。ごめん、ごめん。」
僕と、隣に座る彼女にとっては直ぐのことだったが、二人にとっては恐らく想像つかないくらいの永い旅路を経て、三棟ほど離れた教室の端から廊下に顔を出した。泣きながら縋りつく男性に、苦虫を咀嚼したような顔つきでそれを引きはがす女性。極めつけに、「最低」の二文字を叩きつけると女性は男性を置いてどこかに行ってしまった。
「凄い、ですね、このお化け屋敷は。私なら絶対に入りたくありません。」
「ホントに…、どうしたら大の大人が泣くくらいのお化け屋敷を作れるんだろう。」
そろそろ両手に収まらなくなるくらいの、客が恐怖に悶える姿を見て今着ている黒衣に氷を入れられたような心地になって身震いした。この調子だと僕と彼女のアナウンスも、意味をなさないんじゃないかと思えてくる。彼女も同じ心地のようで、体をブルッと震わせた。それを、始終見ていた僕に気づくとバツが悪そうに眼をそらして、あはは、と笑った。
「そういえば、須藤さんの言葉であの男の人は、上を下へと酷く動揺されていました。図星でもつかれなければ、人はあそこまでなることはありません。どうやって、あの方の考えてることを言い当てたんですか。」
「いや、全然分からなかった。これぽっちも。でも、何となくだけどあの人が焦ってるのだけは分かって鎌をかけたら…、でもあんなに動揺されるとは思ってなかったよ。」
「お得意の心理学で?」
「お得意の心理学で。」
へぇ、と妖しく疑ってくる少女を適当にいなす。
彼女が、この話題についてよく突っかかってくるのも無理はなかった。親密にしてきたはずの人間がいきなり、今まで見たこともない特技をひけらかし始めたのだ。もし僕なら、絶対その人に対して疑心暗鬼になると思う。でも、彼女はそんな小さなこと、と気にも留めず今もこうして楽し気に疑りをかけてくる。太陽の前には、何通りか準備していた言い訳も、誤魔化しも、見透かされてしまうみたいで意味をなさないらしく、本当にやり辛いことこのうえない。
「もしかして、私が今考えていることも分かったりするのでしょうか。」
マスクの恩恵にあやかって、見るともなしに彼女に目を向ける。
「いや、残念ながら。」
いつも通り見えるのは、たくさんの楽し気なシャボンに虹色のシャボン、そんな明るい色に照らされた彼女に陰る少しの悲しい色をしたシャボン玉。皆目見当もつかない彼女の心境に、早々と降参の意思を示した。
分からない旨を心底残念に伝えると彼女は心底嬉しそうに、良かったです、と頬笑んだ。それを見て再三うなだれた。
うなだれた僕は、差し詰めオペに行き詰まる医者にでも見えたらしく彼女が糸を垂らした。
「そういえば、須藤さん。好きなものは見つかりましたか?」
「どうしてそんな質問、突然するの。」
先ほどの男性ほどではないが、声音に動揺が含まれてしまっている。こうやって弱みを見せたら、もういつもの調子で彼女に実権を握られて会話は彼女の掌の上で転がされる。
「ほら、お客さんが来るかもしれないしこみ入った話はまた後に。」
「そろそろお昼ごはんの時間ですね。お客さんも廊下には見えませんしまだ大丈夫だと思いますよ。」
むぅ。掌から零れ落ちるための努力は、何時もの通り虚しく砕けた。
「それに、須藤さんは言っていました。初めて会った時、楽しいことや趣味がないって。」
「言った覚えはないけど。」
「いえ、ほらそんな雰囲気だったじゃないですか。」
どんな雰囲気だろう。身に覚えのない哀愁を思い出そうとしたところで思い出せるはずもなく、言い訳探しに戻ることにする。
「それにそれに、一度聞いたのです。二度三度と、貴方の好きなものが見つかるまで問い続けるのは、私の義務です。それにそれにそれに、私が知らないのはあなただけですから。」
根拠も何もあったものではないが、そこまで言われてしまうと答えない、というのも虫が悪い。だから、また何時もの通り目を爛々と輝かせる彼女の質問に対する答え探しを始めることにした。悲しいことに、客足が少ないのも事実なようで会話が中断されることは無かった。
好きなもの…。初めて聞かれた時とは、また違った気持ちが頬をなぜる。嬉しくて、少しだけ恥ずかしいこの気持ちの名前はなんというのだろうか。
脱線した思考に、いかんいかん、と頭を振った。
好きなもの…。初めて聞かれたあの時から一度も考えたことは無かった。まるであの日からの一日一日をなぞるように自分の今までしてきたことを思い出し始める。
読書、は最近しなくなった。学校に来れば暇な時間などなく、隣の誰かさんに振りまわされているから、気づけばそんな時間失くなっていた。
ポエムは、できれば二度とごめんだ。自分を見つめなおすいい機会を彼女には与えてもらったし、この大敗の末に起こった行事を通して、素敵な考え方も貰った。でも、如何せんあまりにも恥ずかしすぎる。自分を見つめなおすにしても、もっと他にうまいやりようがあると思う。
そうだ、旅行は。今までそういった類の出掛で感じたことは無かったが、あの時に見た海はまたみてもいいかな、と思った。彼女にとっては、思い出したくない過去なのかもしれないけれど、またいつかその蟠りが潰えた後に今度は僕から誘ってみてもいいかもしれない。
なんだ、彼女ばっかりじゃないか。
今もこうして、一人では絶対にしない思い出探しに花を咲かすことが出来るのは誰のおかげかと目を遣る。到底誰かは分からない衣装に身を包み、片目だけで此方を見つめるその人に自然と笑みがこぼれるのは、こんな奇想天外な状況でも嫌な気がしないのは。
そうだ、見つけた。
君といる時間。君と一緒にいられるこの時間が堪らなく僕は愛しいんだ。
「まぁ。」
顔を上げると衣装には到底似合わしくない声で驚いて、口元を手で隠した。
最初は、何をしているんだろうと首を傾げた。でも、段々と彼女から出るシャボン玉に要領を得始めた。全く、どうしてこうも調子の悪いところで悪癖が顔を出すんだろう。気づいた途端にお互い目をそらした。それから二人のシャボン玉が何とも言えない空気を醸し出して、本能のように前を向く事が出来なくなってしまった。
嘘は、言っていない。けれどそれが幸か不幸か、言い訳の言葉さえも思いつくことが出来なくなって何とも言えない沈黙に、時間だけが過ぎていく。
せめてもの抵抗に息を大きく吸い込んで、過ぎ去る時間に縋りつこうとするけれど無味無臭の筈の空気は甘くて、酸っぱくてむせてしまった。
「どしたの、そんなしんみりして。」
静寂を切り裂いてくれたのは、二人のうちどちらでもない。後ろ手の暗幕から、ひょこと顔を出した鬼の面をかぶっているA君だった。
「江崎ちゃんが、二人で昼ご飯でも食べてこいってさ。この時間帯なら、あんましお客さんも来ないだろうしここは俺と坂東に任せて行ってきな。」
ズキリ。
でも、という彼女に、いいからいいからとA君は半ば強引に席を変わった。
「それなら。」
と、僕たちはお言葉に甘えて校内を歩いて回ることにした。
何時もより、倍くらい離れた二人の距離にお互い違和感を感じながら校内を、あてもなく歩く。彼女が左にそれれば僕もそちらについていき僕が右にそれれば彼女も右にずれたりと、付かず離れずの距離感が慣れてきたころになると、校内がいつもより幾倍も彩られていることに目がいった。
「綺、麗だね。」
天井に張り巡らされたアーチを、会話の種にしようと称賛した。
「そ、うですね。」
「う、ん。」
お互いのぎこちなさを埋めあうように気を使いあい、かえってそれが新たな軋轢を生みだす。いい加減このサイクルから抜け出さなければいけない。けれど、自分も周りと同じように浮ついていたことと、彼女へ告げた言葉を飲み込むのにはまだ時間がかかりそうだった。
「ほら、その、せっかく江崎さんと安達さんが言ってくれたことですし、何か食べたいものでも、ありますか。」
ズキリ。
どれだけ浮つき、空高く舞い上がっていようが、己に付いた閉じかけの傷は関係なしに開き始める。そして、その名前を聞くだけで天高く舞い上がったような気持ちは地面に引きずり降ろされた。
「焼きそばとか、どうかな。」
嫌に冷静になってしまった心を、ばれないよう隠してそう告げると、それは、い、いですね、とさっきまで僕の持っていたものを携えて彼女は言った。この心地に比べれば、さっきの方がどれだけ良かったろうと泣きそうになる想いもなんとか隠して、人だかりの中を進んだ。
「美味、しいですね。」
仮面を外して、適当なベンチに腰掛けると彼女が言った。
「うん。」
頷いてはみたけれど彼女の美味しいという、焼きそばは味がしなかった。それどころか、噛めば噛むほど苦虫を何度も咀嚼しているような気分になり堪らなくなって勢いよく飲みこんだ。
その後ろめたさに目をそらすと、何時かの手癖が顔を出して肩の半ばまで腕が上がってきている。其れで云うんだ。
忘れられれば、楽になれる。Eちゃんを傷つけたことが忘れられれば彼女に勢いで告げてしまったあの言葉にも、今こうして彼女と肩を並べていることにもなんら胸が痛むことは無い。すぐだ。頭を抑えればすぐに、この苦しみから解放される。
人を傷つけた汚い僕も、綺麗さっぱり傷一つついていない体に生まれ変わることができる。そうすれば、なんの都合の悪さも感じずに僕は堂々と生きる事が出来るようになる。
さぁ、さぁ、と腕は上がってくる。
其れだけは、ダメだ。そんな気持ちの悪いこと、今の僕にはできない。それに、絶対にしたくない。それがどれだけ罪深くて悲しいことか、今なら分かるから。
意識して、どこかの他人みたいになったその腕を下ろした。
「どうしたんですか。」
僕という生き物自体は、どうしようもなくポーカーフェイスが下手糞な人間みたいで、今彼女の抱いているものとは全く違った感情の片鱗が、どこかに零れてしまっていたらしい。加えて、彼女の大きな掌はそんな零れ落ちた感情を汲み取るのが恐ろしいくらいに得意らしく、その心配げな言葉に込められた真意にまた、泣きそうになる。こんなことなら、マスクをつけておけばよかった。
何でもないよ、とは言わなかった。顔に書いてあるものを、今更誤魔化したところで意味はないから。それに、謂えなかった。このまま身一つに背負ったモノを、誰にも言えないままでいつか爆発させるのが怖かったから。
ぼそり、と、それでも彼女に伝えようと言葉は紡がれる。
「何とも、ないような言葉で、人を傷つけてしまったんだ。それで、その人の面影を見る度に胸が痛くなって、自分はこんなに醜い人間だ、と君の隣にいるのが堪らなく辛くなって。」
世に吐き出した言葉の一つ一つが、刃物になって僕に突き刺さる。
「続けてください。」
それでも、話すことをやめないのは彼女が怒らず驕らず聞いてくれているからだった。
「僕は、僕が特別な人間だと思っていたんだ。人を平気で傷つけるモノを見ながら僕はこうはならない。僕なら、人の気持ちを常に考えて、人を傷つけることなんて絶対にない、って。でも、違った。いざ、少しだけ自分らしさを出して生活していこうと思ったら、自分はしない、とあれだけ固く誓った矢先に人を、いとも簡単に傷つけてしまった。」
感情のベクトルがあちらこちらに進んでいってその一つが、彼女に当たった。
「分からないんだ。これから僕がどうすればいいのか。謝りはしたけど、でも、僕もその人も心の傷が、完全にいえたわけじゃない。それどころか、日に日に悪化していって、今こうしているだけでも後ろ指をさされているみたいで、それが、たまらなく、辛くて。それに、人を平然と傷つけてしまったことが許せなくって。」
いつか彼女の悩みを聞いてあげたい、という僕の願いが叶うのは、まだまだ先のことのように思える。今、こうして親身になって聞いてくれている彼女にはいつまでたっても勝てる気がしなかった。
「ぼくは、僕はどうすればいいのかな、」
マスクを外した彼女を見やると、一度大きく深呼吸をしていた。
スー、ハー。
「おバカさんですね。貴方は。」
息が詰まった。
「私が、あれやこれやと乙女心を冷や冷やさせていた時にそんなことを考えているとは、思いもしませんでした。…。以前から知っていましたがやっぱり貴方は、とても、とっても純粋な方です。ドを通り越して、おがつくくらいの生真面目さです。それに、誰も傷つけたくはなく、誰にも傷つけられたくはない、というガラスのハートもお持ちのようです。」
クスッと笑う彼女に、けれど嫌な気がしないのは僕のことを馬鹿にしているわけではなく、親しみとそれに通ずる何かを込めて言葉を発しているからで、寧ろその罵り言葉は清々しいとさえ思えてくる。
其れだけで話が終わるわけもなく、また一呼吸を置いて、
「馬鹿、とは言いましたが実は、私もかなりのおバカなんです。なので、貴方と同じおバカが貴方に思ったことを話してもいいですか。」
「うん。お願いしても、いいかな。」
はい、と笑んで彼女は続けた。
その娘が立ち上がった反動で、ベンチからはふたつの太陽がまぶしいくらいに輝いて見えた。
「私は、貴方のそんな考え方が羨ましいです。人は、生きていれば必ず誰かを傷つけてしまいます。それは、どうしようもないことなんです。私たちは、みな違う人間ですべてを分かりあうことなんて出来ないですから。
けれど、私たちくらいの年になると人は、生活の中で貴方が作ったような小さな小さな傷なんて、もう気にも留めなくなっていくんです。気にしても無駄だと気にも留めずに、何事も無かったかのようにお互いふるまいます。だからって、それが許されることでもありません。人と人とがかかわる中での正解でもありません。けれど、めんどくささで隠した方が、よっぽど楽なんです。一々気を使わなくて済むし、疲れなくて済む。他人に期待しないで済みますし、裏切られることもない。生活の上で自然と身につく、エゴという名の処世術です。
だから、良いわけがないと思っているからこそ、そんな些細なことにも、本来感じるはずの面倒くささを微塵も感じずに胸を痛めることのできる貴方は、やっぱり素敵だと思います。なくしてはいけないものを、何処にも落とすことなく今の今まで持っている。人は、そんな特異な貴方を馬鹿だというでしょう。でも、それは羨ましいんです、綺麗であろうとすることが。誰よりも、何よりも誇るべきものなんです。」
罵られて、諭されて、褒められて、よくわからない気持ちになる。けれど、肝心な答えを彼女は教えてはくれなかった。
「人を傷つけることによって傷つく貴方は、正しいです。そして、そんな些細な傷を、胸を痛めるほどの傷だと思える貴方は素敵です。だから、あともう一歩。そこからどうすればいいかは、私の口からは言いません。私が言ったらきっと、あなたはバカではなくなってしまいます。ひょっとしたら、貴方の言う、皆のような人間になってしまうかもしれません。それにどうして気づけなかったんだと、後悔するでしょうから。
私にあんな素敵な言葉をくれるくらいです。これくらい、素敵で馬鹿な貴方ならきっと一人でも答えを出せると、私は信じています。鹿を、馬だと言い通してください。」
「有難う、素敵なおバカさん。」
僕と彼女の間に漂うシャボン玉が余りにもおあつらえ向きなので、恥ずかしくなって言葉を濁した。それに、なんの恥ずかしげも、誤魔化しもなく自分の想いを洗いざらい全て伝えてくれる彼女が余りにもかっこよく見えた事を悟られないようにしたかった。
「何おぅ、言うようになったじゃないですか!」
でも。
「ありがとう。」
「へ…。」
「僕一人じゃ、そんなこと思いもつけなかったから。だから、素敵な考えをありがとう。」
喉の奥の方に詰まっていた言葉は、やっと出てきてくれた。
詰まっていたのにその言葉を吐いた瞬間、さっきまで取り込んでいた酸素がいきなり吸いづらくなったのはどうしてかと彼女を見ると、彼女も同じように張り詰めた空気を吸うので精一杯、という感じだった。
それから、直ぐに又何か誤魔化すための言葉を考えないといけない雰囲気に変わってあれやこれや、と考えていたら、今度は彼女が笑いだして僕らの空気を濁した。その濁った空気は、吸い込むと僕も何だか笑えてくるものがあって、しばらく二人でツボにはまったように笑っていた。多分だけど僕のツボは一人ではなく、二人が合わせて混濁させた酸素が、さっきよりも吸いやすいことにあったんじゃないかと思う。
最後に少し頬を染めてニコッと笑う彼女に、ほんの少しだけ、自分が誇らしくなって、さっきの絶望が嘘のように僕も自然と笑う事が出来た。彼女の恐らく初めて使った少し汚い言葉も、それを覆い隠すくらいの素敵な言葉たちに比べたらそんなこと、と気に留まらなかった。
「おバカさん。」
少女のぼそりと吐き出した最後の言葉は、少年に届くことは無かった。
さて、そろそろ行きましょうか、とマスクをかぶる彼女につられて僕もマスクをかぶった。カラスのくちばしを模した仮面は先ほどまでとは、また違う原因で泣きそうになった顔を隠すのにはあまりにも便利で、悟られることなく彼女の隣を歩く事が出来た。
それに、八方ふさがりでどうしようもなかった悩みは、九方向目の上に向かって必ず何とかする、という決意に変わった。言葉一つで変えられてしまうあまりの単純さ(バカさ)に、自分でも笑ってしまいそうになるけれど、立ち止ってみると、下を向いてずっとくよくよしているよりはマシだ、と今まで見えなかった背中に、張り付くシャボンの色が物語っている気がして再び僕は、その隣を歩こうと思った。
彼女の言葉だからこそ、自分のことのように突き刺さったのだと気づけたのは、それから少し先のことだった。