今日は、生憎の雨。
 北上してきた梅雨前線の影響で作り出された雲は、延々とガラスに雨を打ち付けさせている。
 生憎とは言っても、気が重いと思っているのはクラスの大半だけで僕はとても居心地がいい。梅雨はやっぱりこうでないといけない。昨日の晴天は、イレギュラーだったみたいで外界は蒼一つもない雲一色だ。
 隣の席で、朝から今の今まで快活さを、遺憾なく発揮している彼女もどうやら本当に雨が好きみたいで安心する。裏と表とで口裏を合わせて、僕に気を使っていたとしたらどうしようという心配も杞憂に終わった。
「sortはソーっと仕分ける、だよね。」
 胸の高鳴りを、ペンに載せて楽しそうに丸付けをする彼女に僕は昨日の帰りがけに教えてくれたお似合いの語呂を当てがった。雨の日、という事もありその舌は軽い。
 目の前のミニットペーパーの意味する英語の小テストは、先生の発声に合わせて、英単語の綴りと意味をそれぞれ10ずつ、ペーパー用紙に書く、という構成になっている。二つどちらもあっていれば1点で、合格点は6点、悲しくもそれに届かなかった場合は、期日一週間までにレポート提出となっている。
 今日の僕の点数は悪魔の数字、彼女の機転の利いたパスから生まれた一点がなかったら危ないところだったので、お礼の意味もかねて彼女の昨日の言葉を範唱した。
「そ、うですね。」
 先ほどまで、楽しげに笑っていた彼女は僕から目をそらして、少しだけ恥ずかしそうにそう言った。そうに、というのは実際には見ていないので、言い切れないところがあったからだ。
 シャボン玉の見えない雨の唯一の不便に少しだけムッとしたけれど、今の言葉を反芻すると語呂とは言っても、確かに幼稚で間抜けだったかもしれない。自分の言葉が少しだけ気恥ずかしい。これなら彼女が、顔をそらしたのも無理はない。
 反省した僕は、彼女に、ありがとう。とだけ言うと、後方から回されてきたテスト用紙に、僕のテストも載せて先生に渡した。気持ちは消すほどではなかったので、そのままにしておいた。
 やっぱり雨の日はいい。テスト用紙を受け取るために、後ろをちらりと見まわしたけれど教室にはシャボン玉どころか、塵一つも浮いてはいなかった。人の心が分からなくなる、という当たり前のことに気分は高揚し普通であることには優越感が生まれる。
 人間とは常に他者との中で、自分を見比べながら生活する、劣等感に生きる生き物だ。野生の生き物のように、地面に食べ物が転がっているわけでもないのに下を向いて生きていく無意味に意味を持たせる生き物でもある。
 自分より高い、低いを見ている人の心の色が、綺麗なはずはない。
 そんな汚い心が外界に出るのを拒み、人々の内に悪心を燻ぶらせてくれる雨の日は僕にとって特別だ。
 まるで、僕だけが羽を持っているような感覚になる。
 だから、やっぱり雨の日はいい。
 そうして、独り浮かれている自分の心地に気づいて僕はやっと頭を『抱えた』。

 冷静になって、授業を半身で受けているとあっという間に放課後になった。
 帰りのホームルームを終えて、クラスの大半がゾロゾロと下校しているのを尻目に、僕も帰路に就く準備を進める。
二日目だというのに隣が五月蠅い。クラスメイトが彼女の近くに集まって何やら楽しそうに話をしている。てっきり何か気持ちの一つでも浮かぶものと覚悟していたけれど、思いのほかあまり興味は湧かなかった。やっぱり雨の日は良い。
 隣が静かになった頃を見計らって、席を立つ。面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁だし、この心地を邪魔されたくもない。けれど、どうしてか足が重い。多分、気圧の関係か何かでこうなっているんだろう。鼻につく違和感も、どうせ大した事では無い、とほったらかしにしていたらどうも冷静になりすぎていたみたいで、彼女との約束もすっかり忘れてしまっていた。
 横でぷくぅーと頬を膨らませている彼女に気づいたのは、彼女の席の前を何食わぬ顔で通り過ぎるころだった。
「あ。」
 彼女を横目に見たとき、記憶細胞のすべてが彼女を触媒にして、「思い出す」という化学反応を起こした。
「あ。じゃ、ないです!」
 がっこうをあんないしてくださるって!と、とてもとても隣にいる人間へ聞かせる大きさではない怒声を浴びせる彼女に、又頭が痛くなった。しかし、雨なのが幸いして周りの目も大して気にならない僕は、ごめん、と一言謝るとまだ捲し立てたりない彼女を四の五の言わせずに連れて教室を飛び立った。
 雨足のおかげで、廊下は人通りが少ない。窓からは黒い傘をさす生徒たちが校門に向かってまばらに点を作っている。見た限り廊下どころかもう、学校自体に生徒がほとんどいないのだろう。いつもは聞こえてくる野球部やらなんやらの掛け声も今日ばかりは息をひそめている。
「私は忘れていなかったのに!酷いです。」
 尚も、小鳥のようにか細く啼く彼女に稚拙な笑顔で平謝りを続けていると、もういいです。と、遂に彼女はそっぽを向いてしまった。少しだけの憤りを感じた。めんどくさくて、この会話の一端でも指を切りそうな自分がいる。やっぱり人付き合いは、来世の僕に任せてしまおうか、と思った。
 けれど、彼女を、怒らせてしまったままで学校を案内してもお互いにいい塩梅とは言えない。それに出会ってまだ二日目だし、ここで燻ぶらせてしまっては、これから先の隣人に余計居心地が悪くなる。
 だから、取りあえずは彼女に機嫌を直してもらうのが何より先決だ。損得勘定が機敏に働いて誠意を見せるべきだと判断した脳系統は、急いで僕を駆り立てた。
「燈昌さん。」
 振り向いた彼女に合わせて頭を下げた。
「ごめん。」
 この謝罪の中には、知らないうちに昨日、迷惑をかけたことも含まれていた。僕のせいで、放課後遅くまで残されていた少女への申し訳なさが、体から先ほどの少しばかりの怒りを押しのけて、滲み出てくる。
 しかしこのままだと、滲んだ気持ちの波に押し流されそうだったので頭はしっかりと抑えた。
 その分真剣さが上乗せされた僕の姿勢を見て、彼女も観念してくれたみたいだった。
 少しだけおろおろとした後に、その長い黒の髪を細い指先で整えて
「顔を上げてください。」
 私も雨で浮かれていたみたいです。と腰を曲げると、彼女は困ったように笑った。頭を抑えていた僕に関係はないが、普通なら胸がずきりと痛むのだろう。そう思った。
 顔を上げた僕に、彼女がほほ笑むと、それではいきましょう、と彼女は先ほどまでの怒りなど忘れてスキップをし始めた。どうやら、彼女の体と僕の体ではバージョンが違うらしく、軽快なスキップを見せてくれた新バージョンの彼女はあっという間に僕を置き去りにするほどの馬力を持っていた。
 これじゃどっちが、今日の道草の主役か分からない。普通、背中を追いかけるのは僕の役目じゃないはずなんだけれど。言ったところで無駄な事を早々に悟った僕は、走り去っていく太陽みたいな元気な女の子の後を何も言わずに追いかけることにした。
「ここは何ですか?」 「何をする場所ですか?」 「ここは、体育館ですか?とっても広いです!」
「田舎だから。」
 校内を電光石火の如く駆け回る彼女のおかげで、とりとめもない大きさの学校でもあっという間に彼女に冒険しつくされた。まだまだ探求したりない、という彼女の欲求は、残念ながら学校内で満たされることはもうない。粗方案内が終わって、代わりにもう十分すぎるほどの役割を果たした僕が報われる時が近づいてきた。
 最後に、僕らの普段使っている教室の対角線上の暗がり、体育館に赴く道程の校舎の端で、期待に応えるのには、あまりに重荷すぎる小教室の前で燈昌さんは立ち止った。
「ここは、何ですか。」
 彼女の指さした先にはジメジメとした暗がりがなりをひそめている。まるで、雨の湿度を体現したかのようなその教室には人っ子一人いる気配すら見せない。
「空き教室だよ。」
 長らく人の入場を許可していなさそうなその教室を一瞥する。
 空き教室、と言うのは嘘ではない。長らく使われていないこの教室は、使わない荷物が山積みにされカビの根城になっている。けれど、彼女への言の葉に何の役にも立たないよ。という含みを持たせたのは半分嘘だ。
 この学校の教室は、それぞれがそれぞれの鍵で施錠できるようになっている。僕たちの使っているクラスも多聞に漏れることはない。先生か、担当の生徒が、放課後になると一般的な教室のカギ閉めを行う。梅雨の時期に入って知ったことだけれど、予算の都合か、此処のカギは存在していなくて音楽室のカギと同一の鍵型をしている。部活に組していない代わりに仰せつかった仕事の帰りで何とはなしにダメもとでカギを入れたら空いたのだから、田舎の学校とはいっても、もう少し防犯をしっかりしてほしい。
 何とかかんとか同士は惹かれあうと、昔に読んだ漫画で云っていた。
 ほかの人にとってはガラクタに見えても、僕はガラクタが宝物に見えてしまう人種らしく、適当にあてがった鍵が開いたとき、学校の隅で日の目を見ないこの教室はまるで秘密基地のようだ、と目を輝かせた。
 丁度、今隣で実演してくれている彼女のように…
 僕が嘘をついたのは、これを危惧していたからだ。
 心を、感情を、なんの恥ずかしげもなく表に出す少女。感情を押し殺して生きてきた僕とはまるで正反対の彼女が、雨が好きだと言った時、嫌な予感がした。毛穴が全部開くくらいの一世一代の悪寒。今、真横で、むっふー、と変な声を出している彼女を見たところ、その予感は現在進行形で的中している。
「入る方法とか、あるのでしょうか!?」
 一呼吸おいて、お菓子をねだる童のような顔でこちらを見つめてくる。さっきまで電光石火だったのにそんな柔軟さまで兼ね備えているのだから、彼女のせいで人類全員が感電死しても文句は言えない。どうやら、雷にあてがわれたのは僕が一番最初のようで、腹に決めていた黙秘も彼女の七色の瞳に押し切られてしまった。間違いなく昨日に引き出した気持ちが、押し切るのに足るものを産んだのは言うまでもない。
「音楽室。」
 ぼそりと呟く。
 彼女が次の言葉を、うんうんと頷いて催促してくる。
「音楽室のカギで、開くんだ。」
 彼女の前では、辞世の句も、墓場まで持っていくと決めたものもあっという間に洗いざらい吐いてしまいそうなので、それっきり僕は頭を抑えることにした。
 半ばやけくその僕の言葉を聞くなり、彼女はおお、と拍手をする。
 そうして彼女の頭部からは雨なのに、喜びのシャボン玉がポポポと廊下を撫でた。雨の日も晴れの日も、エネルギーがどれだけ必要とされていようがいまいが、彼女の感情の邪魔はできないのだと、開き直った僕はまた感心した。
 実は、やけくその中に彼女の虹色のシャボン玉が見られるかも、という見返りの心が少しあったのだけれど、そんなことが気にならないくらいに彼女が喜んでいたので、まぁ良しとしよう。これからの隣人関係は、さきがけ極めて良好なものになりそうだ。
 彼女も満足してくれたようで、外にある渡り廊下を使って、教室に向かった。彼女は終始上機嫌で教室までの道のりは、僕の半歩前を軽やかに歩いていたが鬱陶しいとは微塵も思わなかった。
 途中で立ち寄った自販機で、彼女は一言断って清涼飲料水を買った。まだ初夏が顔を出してはいないとはいえ、こんなに派手に動き回れば暑いし喉も乾く。半ば強引に彼女を連れ出し彼女に振り回されたため持ち合わせが無いことに気づいた時、落胆より先に彼女の腕が伸びた。
「お礼です。」
 凛、として手を突き出した彼女の、一方のペットボトルを勢いで受け取ってしまう。
 女の子、というか人に恩を売られる主義はないので直ぐに脊髄が拒否反応を示して返そうとしたが、報恩謝徳です!と良くは分からない難しい言葉で窘められてしまったので、ありがたく受け取っておく事にした。
 キュポッ、という炭酸飲料独特の開梱音が響き、準透明の液体を勢いよく流しこむ。
 美味い。五臓六腑が何かは知らないが、そこにシュワシュワの刺激が染み渡っていく。何にしても、最大のスパイスが空腹とはよく言ったものだ。ぷはぁ、と渇きを潤す水分に自然と小さく唸ってしまった自分を誤魔化す様に彼女に目を向けると彼女は僕の数倍気持ちよさそうに、ごくごくと喉を鳴らしていた。
「きっと、このシュワシュワと今日のことは忘れませんね。」
 シャボン玉は、まるで泡のように無尽蔵に僕らの周りを漂い、のど越しの良さを全身で表現している。最近はやりの何でも炭酸にできる機械みたいに、彼女を使えばどんなものでも刺激的にできそうだな、と皮肉めいた笑みがこみ上げる。
 何ですか?と訝し気にこちらを見やる少女に、何でもない、と笑うと、僕らは自販機を後にした。
 教室につく頃になると、雨足はより一層勢いを強めていた。
 彼女が、本当にありがとうございました。と、頭を下げ、とりとめのない返事をしてから僕らは、別々の帰路に就いた。
 まだ二日目だというのに僕は、大層彼女にご執心らしい。
 裏付けるように片手で事足りるこの二日間は、僕の10年間よりも長く思えた。
 其れも仕方ない。こんな人間は、今まで見たことがない。あんな風に、感情表現が過激で裏表を知らないような、まるで子供のように好奇心旺盛で思わず目で追ってしまうような子は。例え皮肉でも嘘をつかずに笑ったのは何時振りかだし、人に謝ったのももう、しばらくぶりな気がする。それに振り回されただけなのに少しばかり、その不自由は楽しかった。
 道路にできた水たまりを見れば、頬を緩ませた少年の顔が反射していた。
 驚愕する。
 これは、自分か。そう思った途端に腕は頭を捉えた。違う、これは僕じゃない。こんな風に笑ってしまうのは、気持ちに実直になってしまう人間は僕じゃない。これだと、今日という日が僕の中に描かれてしまう。今の今までそうしてきたはずで、僕は約束をしっかり守ってきた。でも、その約束を破ってしまったら『昔』が色褪せてしまう。だからきっと今日も又夢を見る。僕が僕だと云わしめるために。だから、感づいてしまったならこうするしかない。
 雨は、まだ降っている。深呼吸をして、水たまりをもう一度見る。大丈夫、何時もの僕だ。元に戻った心地で帰りがけ、ずっとこんな雨が続けばいいのに、と傘についた雨粒を手でなぞった。曇り空なのに、僕の顔は晴れの日のような蒼で彩られていて変なこともあるもんだな、と歯牙にはかかなかった。
 そうして、ようやくまともになった心持のおかげで夢は見なかった。

「おはようございます。」
「うん、おはよう。今日は晴れたね。」
 何気なく笑ってから、他の人にするのと同じように何気なく口から返事を出す。彼女の表情を窺うこともせず、突き放すように言った。尤も、こうして頭に手を置いているからその真意が伝わることは絶対にないが。
 窓から差し込む朝日は痛いくらいに眩しい。僕がチョコレートならドロドロに溶かされてしまいそうだ。それで、見られたくない中の中まで溶け出して、ぐちゃぐちゃになってしまって、そうして、あとは、もう考えたくもない。きっと僕を溶かすこの照り付ける陽光は融点の高い皆も彼女も、痛みなぞ一つも感じずに、気持ちいい、ぐらいに思うのだろう。その考えの相違に僕と彼ら、彼女らは違うことを改めて感じさせてくれる。それは二度目の快晴に加えて、有頂天になっていた僕の心を地の深くに叩き込むには十二分で、もう僕は、何時もの僕に戻ることが出来ていた。
 窓とは反対方向の彼女は、その光を一心に浴びては瞳を瞬かせている。きっとこんな瞳を持つ女の子は、雨の雫と孫文違うことなく晴れの光線も心地のいいものと思うはずで、勝手に感情移入して付け上がっていた先日が恥ずかしくなってくる。丁度いい。引きだして雑多になった部屋を片付けるのにはいい日だ。もう抱くことのない気持ちに、今生の別れを告げて彼女に微笑む。
「晴れましたね。太陽の光というのは、ほんとに、い…。」
「おはよう、あやめちゃん。」
「あぁ、おはようございます、坂東さん。」
 そうして一人、また一人とTちゃんの周りには人が集まっていく。
 その光景に、昔からずっと出しっぱなしにしていた気持ちがここぞとばかりに反応して彼女との会話を中断する。そして今までの会話を嘘のようにしようと前を向いて、机から本を取り出す。きっとこれで間違ってはいない。気持ちの上と下が分かるくらい、Tちゃんに少し近づきすぎていただけで、人との距離というのはこれくらいでいい塩梅だ。彼女の組している隣の席は近い筈なのに余りにも遠く感じてそれでいい、それがいいんだと自分に言い聞かせた。
 彼女のその続きの言葉と、一瞬虹色に混ざって生まれたシャボン玉は、聞いていないし見てもいなかったことにした。

「それで、偏執というのはパラノイアとも言って一般的には帰属バイアスであることでしられている。そして、それは...」
 透明なガラスから透過している日差しが、狂おしいくらいに疎ましい。先生の声も、クラスメイトのひそひそ声も、それからみんなのシャボンも、五感に入る全てのものが脳内では異物だと認識して、なんとか自分の中から吐き出そうと躍起になっている。体が熱い。
「おい須藤、聞いてるのか。そんなに頭が痛いなら、病院にでも一回行くと良い。」
 先生の言葉にははは、と皆が笑いだす。いつもは大したことに感じない、なんなら冗談の一つでも吐いてやるのが僕なのだが、今日はどうにも可笑しい。今年初めてこの雰囲気に包まれた時のように、不純物をゼロにしようと胃酸が全身を駆け抜け溜飲すらも溶かそうと躍起になって居る。声を荒げたところでみんながやめてくれるわけはない、みな自分の世界を持っていてそれが楽しかったら何でもいいのだ。
 頭の中の起草も相まって幻肢痛ではなくなっていく頭の痛みに、やがてたまらなく我慢ならなくなって限界が訪れる。
「保健室、行ってきます。」
「お、おお。気をつけてな。」
 どんな顔をしていたか、分からない。とにかく、この胸中に堪った汚泥の起伏のような感情を吐き出し、平らにしてしまいたくて必死だった。幸いなことに座席は最前だったから、その時の顔は誰にも見られていないだろう。断りの言葉を入れてから、一目散にトイレに向かった。
 途中一番耳に挟みたくなかった隣の可愛らしい笑い声は聞こえないままでいた。

 まだ不快感は、亡くなってはくれない。汚泥を吐き出せば楽になると思っていたが、まるでずっと車に揺られているような感覚がやんでくれないせいで、吐き気は止まらないままだった。
 四月は、ずっとこんな感じで最初にA君だかが考え付いたこの言葉を、皆口々に呟きだした時は世界の終わりだと思ったのを覚えている。他の人からすればきっと何ともないようなこのいびりは、僕からすれば不快感を一手に集め築き上げた気色の悪いアーチにしか取れなかった。いじめられたことは今までにただの一度もないしそこにトラウマも、PTSDも存在はしていないはずでそれ自体は僕が一番理解していて、疑問符を巍然に浮かべているのも自分ぐらいのものだ。でもそれでも何とか生まれた不快感を押し込め出てこないように蓋をして、もうすっかり慣れたものだと思っていたが本能が受け付けないものは、時折こうして忘れた頃にやってくる。
 こうして、思い出したようにはいずり出てくるのは大抵僕がへまをした時に限っている。妙な期待に胸を動かした日や、何かに期待した日には決まって、何でもないようなことに物凄い落差を感じてしまって、理想と現実の違いに吐き気が止まらなくなる。これは僕の不徳の致すところなので誰にも文句は言えないのは、陽を見るより明らかで、さしもの今回の原因には心当たりがある。
 心当たりを思い出したところでどうしようもないことにまだみんなの粘膜質な笑い声は脳裏から離れない。背中を無数の指で際限なく突かれているようだ。きっと自分の指すらその中には入っていて一際強く、血が滲むくらいにえぐられているのが分かる。こんな自分を、自分も認められない。其れも僕自身が一番知っている。理想と現実の乖離にこれだけ胸を痛められるおめでたい心は、僕が弱い証で、こんな胸中がばれた暁にはそうやって後ろ指をさされて、変な人、変わった人と馬鹿にされる。其れで弱い者いじめが大好きな皆は私をサーカス団の見世物みたいに嗤って、蔑すんで、あぁ本当にこのまま生きる意味などないんじゃないかしら。そのうち、このトイレの個室の上からバケツでも放り投げられて全身雨一色のびしょびしょになるの。
 頭にはびこる異物に、タガが外れて吐瀉する。全方位の悪意は、最早僕すらも純粋な異物に見えて、四面楚歌に涙も枯れそうになる。かの暴君の項羽も、嘆くことしかできなかったのだから、今は嘆くこともできずにうずくまっているだけ。ただ、チョコレートみたいなドロドロの感情と胃酸が全身を駆け巡るくらいだ。
 誰も、僕すらもこんな自分を認めてはくれない。もう世界が、このトイレくらい小さければいいのに。そうしたら、みんなの顔も見なくて済むし僕も僕を見なくて済む。昔々に読んだ本によると、人は誰かもう一人がいないと自分を自分だと認識することは叶わないらしい。今は、そんな不利益も一縷の希望みたいに見えて一筋のシャボン玉を潰した。
 
 こんな溶け切った脳漿を抱えたまま何とか耐え抜いて、現在の授業は四限。出るときに長針は終了十分前を指していたので、まさに今チャイムが鳴っている。頸木を切り個室のカギを開けて洗面台で穢れを取ってから、職員室に歩き出す。立てつけられた鏡を見ることはしない。
「すみません、音楽室のカギを借りに来たのですが…。」
「あぁ。それなら今、丁度入れ違いで取りに来た子がいたよ。」
「そうですか。」
 多分形を保っているのは、すでに服から露出しているところだけ。それ以外は理性も本能もないぐちゃぐちゃで、裸になった時にはゲル状の液体が流れ出てしまう。そうならないためのとびっきりの方法を、僕は知っている。こうなった時にはどうするのがいいのか。この学校に来て、どうしようもないときの処世術は織り込み済みだった。
 陽の当らない、じめっとした雨の体現のような場所。無作為に積み上げられた机や箪笥、それら全てに付着した香しい黴の匂い。程よい湿気、隔離された室内、そこに入るだけで僕は一瞬のうちに人間に戻ることが出来る。湿度の高さから、常温より数度高く感じるその室内はしかし僕の熱を醒ますのには十分で零れかけの己も僕ではない何かもたちまち僕の殻の中に我先にと閉じこもる。これは、一年生の時に見つけた自分だけの秘匿。万が一のために地窓は空けているので鍵がどうだろうと関係はない。
 あった。
 辺りを見渡す。幸い周辺には、人一人も見えない。こんな校舎の端の端に用があるのは、なにかのっぴきならない事情がある誰かくらいしかいないのも一目瞭然で、いつもこの教室に入るその前から教室に入ったような雰囲気を味わうことが出来る。這いずる黴の因子も、暗がりにさえずる埃の群れの進行も、誰一人邪魔はしない。空気を目いっぱい肺に取り込む。そうすると、何時ものように空気中に霧散していた僕の断片が酸素を介して少しずつ戻ってくる。
 地窓に手をかける、すると右方向の扉が少し開いているのに気付いた。締め忘れていたのか。もうこうなるのも久しぶりのことなので真偽のほどは定かではない。そんなことよりも、と、閉じかけの殻が残りの全ても身に収めんと騒ぎ立て始める。なけなしの理性ももう限界で、そこに手をかけるのが世界の理のようになんの躊躇もなく扉を開いた。
 いつも真っ先に目に入るのは、古ぼけた机とぎしぎしと歯ぎしりをやめない椅子だ。後ろ手から無理やり引っ張りだしてきて広い空間にちょこんと佇む教具。その椅子が目に入るといつもは直ぐに日の当たらない位置に腰かけ、俯いて一人を謳歌する。今日もすぐにそうするはずだった。
「どうして、ここに…。」
 聞きながら、昨日の会話を思い出して自分の中で勝手に納得してしまう。あの時この場所を教えたのはほかでもない自分自身だ。
 目の前には、椅子に腰かけて雨天浴をしている少女がいた。天井を向いて目を瞑り一手に闇を吸い込んで気持ちよさそうに座っている様は、何とも言えないらしさがある。
「どうして、といわれましても、どうにもこの教室が気になってしまって、来てしまいました。」
 彼女の、本心に土足で踏み入ってくる言葉もいつもなら上手くやれたはずで笑顔を崩さずに頭を抑え、実は僕もおんなじだよ、なんて反吐の出るようなセリフものうのうと言えたかもしれない。でも、今日だけは違った。不幸なことに、汚いものは綺麗さっぱりに吐き切ってしまったし、面目を保つための理性も、折あしく持ち合わせてはいない。餌を眼前にして制止を強制され、よだれを垂らす忠犬の気持ちも今なら痛いほど分かる。
「出てってくれないかな。」
「え。」
「出てってくれよ!」
 閉じかけの卵は完全に割れて、目の前の君と白身がぐちゃぐちゃになってつらつらと本当が出てきてしまう。隠していた溢れかけの本能と彼女への嫌悪感も、最早何とも無い事には思えなくなって身の丈に合った言葉が氾濫する。
 その氾濫原の割れ目を抑えることも忘れて、跡になって本音を言ってしまったのを急いで隠そうとした。その行為は愚直極まりないもので、酷く間抜けに見える。目の前の女の子は呆けている。
「大丈夫、ですか。実は教室にいるときから思っていたのですが体調が悪いのかな、と心配だったのです。」
「い、や、違うんだ。これは、何でもないことで。これは。」
「頭もそんなに痛々しく抑えられて、響きますか?」
 これは、癖だ。一種の自己防衛にも似た何かで、これをすれば感情の高ぶりは抑えることが出来る。これが癖であることは、僕は彼女にも何かの拍子に云ったはずで、それで誰もかれも見せなかった初めての応答に、僕は嬉しくなって。だから、これも彼女は癖だという事を知っている筈で、ともすればこの質問の意図は何なのだろう。真意は、どこにあるのだろう。そう考えると淡い期待にもぷっつんと歯切れがついて、逆に僕は自分を保つことが出来た。
「いや、まあ、少し痛むかな。でも、保健室には行ってきたから多分大丈夫だよ。」
 世界には、愚生一人と残りは他人。だから気が付いた。この心の境界はきっと誰にも踏み入らせてはいけない。少しでも緩めれば心無い何かで簡単に壊れてしまう。ありがとうなんて、感謝の言葉すら湧いてくる。Tちゃんのおかげでそんな簡単なことにようやく気付くことが出来た。
「ごめん、僕もう行くね。」
 彼女のシャボン玉を見ることもせず、閉じかけの扉を開いた。
「待ってください。」
 待たない。初歩のミスは、手っ取り早く離れさえすればいくらでも誤魔化しは効く。それに、雨にしては些か居心地の悪いこの場所よりも烈日の光を一心に取り込んだ教室の方がまだ幾分かいい。
 そんなあとづけの理由にかこつけて扉を開き切り一歩を踏み出すと、その女の子は僕の手を掴んだ。思えば簡単に振り切ることは出来た筈で、でも思いのほか彼女の冷たい腕は重たく感じて、振りほどくことは出来なかった。崩れ去った中身に、まだ面目を保とうとしていた己に自身で嫌気がさしたのだろうか、厭悪の中に埋もれた一縷の別なものがもぞもぞと這い出てくる。
「もしかして、苛立っていますか。」 
 一体全体何に苛立っているというんだ。君にも怒ってはいないし皆にも、苛立ってはいない。悪いのは僕で、こんな頭のおかしな話は愚生の中にとどめておくのには丁度良くて、それにもしばれようものなら僕は頭のいかれた精神異常者にでもなってしまう、だから僕は苛立ってなんかいない。しいて言うとすれば、扉を開けたときに肌身を眩しいくらいに照らすこの、
「晴れの日は、お嫌いですか。」
 振り向く。彼女の言葉に苛立ったわけでも、嬉しく思ったわけでもない、ただ正鵠を射る彼女の言葉から目を放すことは出来なかった。
「実は、私も太陽が苦手で。」
 そう言って、こめかみを恥ずかし気に撫でる少女の顔をまじまじと見つめた。
「それって、本当。」
 確かめるように、その言葉の真意を自分のものと照らし合わせる。すると、彼女は手を放して微笑んだ。
「え、ええ。本当です。太陽に中てられると、どうにも疲れてしまって。だから、ここで少し体力を回復しようかとおもいまして。」
 そうしたら須藤さんがいました。
 その言葉の二人称にふさわしいものを僕も同じようにあてがって。
「もしかして、と、うしょうさんも晴れが嫌いなの。」
「あはは、なんだかおかしな質問ですね。でも、はい。私も晴れが嫌いです。あの照り付ける太陽に何時か大目玉を食らわせてやりたいくらい、あのお日様を見るとイライラしてしまいます。」
 扉を閉めると、教室は雨一色になって彼女だけがより輝いて見えた。殻から零れ落ちたどろどろの大半は全身で拒否反応を示している。やめておけと、どうせ後悔すると。
 でも一欠けらの勇気のおかげで、彼女から逃げることはしなかった。
 だったら後悔してやる。人間一度くらいは裏切られて痛い目を見るくらいで丁度いい。だからどうせ裏切られるのならせめて笑顔が可憐で屈託のないこんな子がよくて、この子になら幻滅してもいい。その分、反目されたとき二度と人を信じられなくなるから。
 初めて多数派の自分に逆らって、彼女の瞳を見つめた。
 純粋な喜をてらったシャボン玉に、吸い込まれてしまいそうな虹色の蠱惑的な瞳。
「嫌いなものも一緒だなんて、私たちは似た者同士なのかもしれませんね。」
 空に比べれば幾分か小さいこの薄明りの太陽なら、呆れるくらいの馬鹿になって信仰してもいい。それで、イカロスみたいに身を焦がされたってかまわない。だから今、ここから一度くらい最初で最後の呆れるくらいのバカげた一歩を踏み出してみてもいいのかもしれない。気づけば僕の中からは僕しかいなくなっていて、多数派は殻の中に鳴りを潜めている。さっきまでの考えが嘘のように心地良くなってきて鹿を馬だといったことには、後悔は生まれない。
 踏み出した一歩の心地はきっと僕以外の誰にも分からなくて、足元からはこれから生まれるであろう喜びや悲しみや、苛立ちや焦燥、そして後悔が一度に地面を彩っていく。仄暗い闇の底だと思っていた場所は踏み出せば案外いい景色で、きっとこの一歩先の光景は自ずと見えてくるものではなかった。こんな初めての気持ちになんと名前を付けていいのかは分からなくなって、でもこれだけ僕には分かる。他の誰でもダメで、きっと彼女だけ、彼女だけがこのこま細い隙間をぬって糸を通すことが出来るのだろうと。だから、これは喜劇や物語でいうところの運命で、起こることの決してなかったはずの起をてらうほどの劇衝で、そう思わされるくらいに、彼女は七色だった。