雨が降っている。
 雫は水たまりに泡を作り、ガラスに何百、何千滴と引っ付いては、重力に逆らうことも出来ずに地面に落ちていく。
 そんな当たり前を横目に、ガラス越しの空を仰いだ。
 曇天。底なしの供給力を持った雨の化身は、勢いを衰えさせることはなく、世界を濡らし続ける。
 大きく深呼吸をすると、雨の日特有のペトリコールが鼻孔をくすぐってくる。室内だというのに、五感で雨を感じられる。
 心地いい。
 外は、他の追随も許さぬ雨一色で曇り空からは蒼一つすら見えない。
 雨は、好きで嫌いで、それから好きだ。
 元々は、いささか心地の良かった雨は、彼女のおかげで物足りなくなって、嫌いになった。
 そして、その物足りなさの意味を知ったとき、又、僕は雨が好きになった。
 再三、雨が好きになった理由は、たぶん彼女も知らない。だから、まぁ墓場まで僕一人で持っていこうと思う。
 そんな気恥しい『好き』が肌をなぜるころ、僕の目の前に一つのシャボン玉が落ちてくる。
 誰にも見えないとは知っていながらも、否定の仕様のないその答えを、誰にもバレることのないように掌に載せる。割れないように丁寧に。
 目の前まで、その泡の塊を持ってくると、シャボン玉は綺麗なピンク色をしていた。
 やっぱり、こうして自分の気持ちを俯瞰するのはまだまだ恥ずかしい。
 突き放すように、急いでシャボン玉を空に放った。急いではいるものの、割れないように丁寧に放つ優しさは、彼女からもらったものだろうか。
雨脚の強い日は、気圧の関係でシャボン玉を作るのに、通常の幾倍もの力が必要になる、と昔に偉い人が言っていた。
 ふとそんな考えが脳漿の隅に湧いて、どうにも頭を抑えたくなる。けれど、片腕が動くことは無い。
 もしその腕に意思があるなら、動かしたところで野暮ったいなんて一蹴されてしまいそうだ。
 そうしないことも、僕の自由だ。
 人というのは愚かで我儘な生き物らしく、不自由から抜け出し好き放題できるようになった今この時代になっても、自由の刑に処されているらしい。
 だから、君をこうして僕が待っていることも、もちろんその罪をほしいままにしていることの証なのだけれど。腕時計に目を向けると、何時もの約束の時間はもうとっくに過ぎていた。
 どうやら、僕の日常を崩してくれた諸悪の根源は、今日も来ないみたいだ。
 今から始まるこれは、僕の話。
 雁字搦めでその罪すら被ることの出来なかった僕が、そんな罪を誰かのせいで手に入れることになって贖うようになる、以前の話。
 それを雲一つない青空のキャンパスに描くのは、キャンパスが勿体ないから、もし綴るならこれくらいの曇り空が丁度いい。
 そうして思い通りに窓から顔をのぞかせて、雨に打たれてどんどんと膨張していくシャボン玉を尻目に彼女を待った。

 雨が好きだ。
 悲しいだとか楽しいだとか、そんな人間しか抱かないような感情のすべてに、等しく降り付けて、起伏を平らにしてくれるような豪雨が。霧雨のように小さく弱く、くすぶる気持ちが、煮詰まったまま、口を思わずすぼめてしまうような小雨が。
 窓越しに外を眺める。
 そこには恵みの雨が降っていて、その雨音の一つ一つがリズムを作って曲になってやがて僕の気持ちを段々と安らかにしていく。
雫が滔々と、窓に張り付いては落ちていき、夜空の雲は星の見える日より幾分か明るく見えて、それがより一層、人一人くらいは攫ってもばれないくらいの不気味さを醸し出している。
 少し立て付けの悪い窓をなるべく音が出ないようゆっくりと開いて、深呼吸する。雨のにおい。土壌を掬い上げた雫の一滴一滴が匂いを舞い上げては死んで、代わりにこの匂いが鼻孔をくすぐる。
 ゆっくりと、いきなり広がる世界に怖気づかないように目を開く。
 雨雲には、今日も描くことは無い。
 いい日だった。何も見えない、何も感じない空虚な一日。だから、僕が僕として、褪せることも、死ぬこともない。
 これから未来永劫死ぬまで、こんな雨空が続けばいいのに。
 背をなぞる。ああ。今日も相変わらず、鬱屈になるくらい僕の裏手は重たい。良かった。
 そうして変わらない日を恋しく思って、眠りについた。

 今日は梅雨入りして間もない一日で、僕が焦がれてやまなかった天気になる、筈だった。天気予報は、降水確率が90%。何をどう間違えても、ほとんどの確率で雨が降る予定だったのに、生憎太陽の神様は皆に微笑んでくれたらしい。
 まあ、こんな長々と何が言いたいのかというと、今こうして僕の貴重な朝の読書の時間までクラスメイトA君が突っかかってくるのは、まず間違いなく空が晴れているからだろう、ということだ。
 八つ当たりのようにそう、太陽へのうっ憤を募らせていると、A君は椅子に座る僕の机に寄り掛かった。
「また本読んでるの、頭痛君。」
 そう言って、陽気なA君は頭を抑える僕を楽しそうに見つめてくる。
 頭痛君。
 いつも頭を抑えている僕のためにわざわざクラスメイトがつけてくれた最高の渾名。それを、口にする時、誰しもが頭に黄色のシャボン玉をこの世界に産んでは空に放つ。それは、今こうして目の前にいるクラスメイトのA君も例外に漏れることはない。
 はぁ、全く。
 色のついたシャボン玉はもれなく、汚らしい。まるで汚泥を掬ってそれをそのままシャボン液に入れたみたいだ。無味無臭の嘲りに、吐き気がする。
 けれど、それは人間が生み出すものだから仕方ない。もともと期待はしていないし、そんな余計な気持ちを抱かないためにもこれくらいが丁度いい塩梅だ。
 幸い、窓際に位置するこの席からは太陽がよく見える。一瞬、目をそらしてから見るともなしに太陽を見て、この世に存在するあまたの罵詈雑言を向けてから、直ってばれないように作り笑いをして重たい口を開いた。視線はそのシャボン玉に向いたまま。
「その質問、今回で何回目か知ってる?全く、僕は頭が痛いよ。」
 そう言ってさっきよりオーバーリアクションに頭を抑えると、彼は満足したようで、クククと悪役みたいにはにかむと立ち上がった。
「やっぱ、須藤は面白いな。」
 立ち上がり気味にお褒めの言葉を頂戴し、そのまま彼は、いつもの誰それの中に歩いて行った。
 ため息をつく。
 本当に、頭が痛くなったらどうしてくれるんだ。そんな怒りに近しい感情を、片手で潰すと、直ぐに心は平静を保ち始める。僕が頭を離せないのは間違いなく君たちのせいなんだけど。冷め切った心地で、尚も黄色のシャボン玉を頭からポンポンと出す彼の背中に、視線を送った。
 梅雨に入ると、クラスもある程度形を成してきて、5月や4月では味わえない賑わいや喧騒を朝に生み出していた。丁度、彼が入っていったメンバーシップも、結成したのは最近のはずだ。青春を謳歌しているところ申し訳ないけれど、沸き立つシャボン玉の色、そしてその愉快そうな顔は不愉快極まりない。
 けれど、実際に危害を加えられたわけでもないし、何か因縁があるわけではないのでそっとイヤホンを取り出し耳にかける。
 やっと読書を再開出来る。振り返って片手で支えていた本のしおりをめくろうと、思ったのも束の間、今度はクラスメイトのCちゃんが目の、目の前に立っていた。
 わっ。
 情けない声と、それに伴ってシャボン玉が頭を突き抜けていく感覚がした。
 しまった。急いで頭を抑えるが、気づけば、あっという間に青色のシャボン玉は天井の近くに漂っている。
 完全に手遅れだ。そう残念そうに、頭を抑えて『残念な』気持ちを消した。
「君が、そんなに取り乱すなんて珍しい。」
 間違いなく、そんな諸悪の根源の彼女を軽くねめつけると、彼女は困ったように笑った。
「ごめんごめん。何の本読んでるのか知りたくて。」
 そう言って彼女は、申し訳なさそうに合掌すると、頭からポポポと紫色のシャボン玉を出した。
 そんな紫色に免じて、僕は許してあげることにする。申し訳なさそうなのは、嘘ではないらしいから早めに消してあげよう。
 今は何も出る予定のない後頭部から片手を離して、彼女から漂うシャボン玉を撫ぜる。
「吾輩は猫である。」
 そうして、又、作り笑い。
 彼女の産み出したシャボン玉は僕の柔手ではかなげに霧散すると、まるで僕を驚かせたことなど全部嘘のように、開き直った彼女は笑顔で、いいね。といって、立ち去った。 
 良かった。大きくなる前に消しておいて。手が付けられなくなってからじゃもう遅い。
 やり切った仕事を労うために頭に手を置いて、深呼吸する。
 今日の僕も、上手くやれているだろうか。人を傷つけないように、傷つけられないように生きられているだろうか。
 晴れの日はどうも駄目だ。気づいた時にはもう、どれだけ前に進もうとしても後ろ向きになって歩き出している。まあだからこそ晴れの日は、僕にとって堪らないくらいに重宝するものなんだけれど。
 生まれた不安を、プチ、又潰すと僕は読書に勤しんだ。
何時からかは、もう覚えていない。物心ついた時には僕は人の頭上に生まれるシャボン玉が見えるようになった。まんまるで、太陽の光を屈折するシャボン玉。生み出す人によってさまざまだけれど、特徴はだれ一人変わらない遜色ない球体。それは、いつも単色で一種類。それから、人間の心に準拠して淀んだ色をしている、ということだ。シャボン玉は色によってその人の大まかな気持ちを表していて、ふわふわと漂い、その人がその感情をなくすまで消えることはない。それだけでは、嫌なものでしかないんだけれど、面白いことにこのシャボン玉に、僕は直接干渉することができる。理由がない限りはしないが他人のシャボン玉を無作為に壊したり、丁度今僕が抑えている頭の位置に手を置けば、シャボン玉が出てこれなくなって丁度僕を照らしつける蛍光灯のように、僕は簡単に感情をつけたり消したりできる。だから僕は、いとも簡単に、食えないやつを演じる事が出来る。
 目は口ほどにものを言う、という先人の知恵には頭が上がらないけれど、口よりもっと便利なものを与えられたので使うほかない。だから今日も僕は、生きやすい毎日のために、自分の心に喜んで嘘をついて生きている。もう二度と、悔いの残らないように。
 とはいっても、そこまでこの行為を演じることはやぶさかではない。気づいた時には、取るべき時に取るべき行動を本能に基づいたように脊髄が勝手にやってくれる。苦労は、そんなに感じない。

 吾輩はシャボン玉である。名前はまだない。
 シャボン玉というのは、雨の日になると、湿度の関係で消えにくくなる。
 けれど、きちんと代償はある。
 消えにくくなる代わりに、シャボン玉1つ作る労力が気圧の関係で、とてつもなく大きくなる、らしい。昔、偉い人がテレビで言っていた。
 だから、シャボン玉の数が激減して何にも見えなくなる梅雨の日は気楽でいい。
 見えたところで、変わらない。彼らの毎日行っている不可解なコミュ二ケーションや、他愛ない会話のことなんて、どうせ理解できない。だって、そんなことをしても人は完璧には分かり合えないのに、そこから生まれた亀裂に手を触れるだけで、いとも簡単に傷ついてしまうのに。

「HRを始める。」
 全く集中できるでもなく、本にしおりを挟みこみ立ちあがる。
 流石に、朝礼で頭を抑えるわけにはいかないので行儀よく両腕を腰につけて、先生のいる黒板のほうを向いた。

 思うに、人という生き物は毎日の日課というものに甘んじている。だから、その日常に、いざ非日常が混ざりこんだ時、準備を怠った人間というのはあまりにも脆いのだと思う。
 通り魔に刺されたりだとか、地震が起きた時の対応だとか。
 起こるわけがない、と勝手に思い込んでいるからこそ、少しぐらつくだけで人は簡単に崩れる。迅速な対応を余儀なくされたときに何もできない。
 だから、まあ何が言いたいのかというと、このことも完全に、予想外だった。
 僕ももれなく、憎んでいた周りと同じ日課に甘んじていたものの一人だと気づかされた。
 何が?と聞かれれば今、目の前の光景が物語っている。ここから見える全てが全部、解決の糸口は皆目見当もつけられない。きっと医者に見せたところで、匙を投げる段階だろう。
 イヤホンというのは、とてつもなく便利なもので、先生の怒号にも似た朝礼でやっと外界を認識できるようになる。だから女子一人の足音など、その耳栓から漏れ出て耳小骨を鳴らすに至るわけもないわけもない。だからもし、江戸にこの精密機械があったなら、忍だけで天下統一も夢じゃない。
 もっと早く、知ることもできたはずだ。例えば、いつも騒いでるグループが、ほら、今みたいに黄色い声でまくしたてたりだとか。女子たちが、表立って喜んで、猜疑心を包み隠したりだとか。
 気づいた時には全てがもう手遅れだった。
 視覚は目の前を正常に処理を始める。そして伝達系に情報を伝えて、感情を生み出す。その危険性に堪らず無意識に両手で頭を抑えつけていた。
 けれどその自己防衛手段すらもう後の祭りで、先ほどと同じように幾つもの『淡色』のシャボン玉は天井で僕をあざけるように漂っている。
「おい。須藤。お得意の頭痛は間が悪いぞ。」
 先生の言葉に、どっと笑いがこみ上げる。
 何時もなら、はははと笑ってでも誤魔化す。
 でもそんなこと気にならないほど、愛想笑いすら浮かんでこないくらい、僕は見惚れていた。
 目の前の少女の、プカプカと浮かぶシャボン玉に。初めて目にする、本物のように、赤から紫のスペクトル全てを反射する人から生まれた球体に。
「燈昌あやめです。」
 黒板から手を放し、チョークを置いて、その本物のようなシャボン玉の作り手は振り返った。
 紛れもなく僕にだけ向けられたその言葉に、間抜けな声が漏れる、と思っていたが思いのほか冷静な僕は何も言わなかった。天井のシャボン玉は、もうすっかりなくなっていた。
 謂わなかっただけで、其のあとに続く何かは鳴りをひそめたまま、気前のいい返事が脳漿からポコンと頭から弾け出てくるわけでもないし、本当の気持ちを言うわけにもいかない。
 一際沢山のシャボン玉を尚も噴出し続ける彼女は、その居心地の悪い静寂に耐えかねて僕の頭上の手を取ると、ぶんぶんと振り回していった。
「よろしくお願いいたします。」
 段々頭が熱くなっていく。それだけにとどまることは無く理解不能の感情がニューロンを伝って全身の熱量も上げていく。
 目の前の女の子の手は、ひんやり冷たくて片手だけが冷静だった。でも、手だけではどうすることもできない。虫みたいに小脳があれば別だが、生憎思考が出来るのは普通の人と同じ、脳系統だけで、目の前を楽しそうに漂うシャボン玉が解決してくれるわけもない。

眼前の彼女は、どうしようもなく、七色だった。

 それからはあまり覚えていない。覚えているのは、頭の中で何かが弾けたり、皆が急に傾いてぐわんぐわんと踊りだしたことくらいだ。

 

 人と、感情は直結している。期待は人に向けられて、絶望も同様に人に向けられる。
 前者は喜び、後者は悲しみに絆されている。人一倍傷つきやすい僕は、そんな気概を人から得まいと努力して、今の完璧な僕を手に入れたはずだった。
 けれど皮肉なことに、人は一人では生きることができない。完璧な考え方を与えてくれた、いつかのクラスメイトもアンドロイドでは無かったし、後ろから僕をそう叱咤する偉人も、紛れもなく人だ。 
 嫌になる。
 結局この期待もいつかは、裏切られるのだから。
 でも、そのいつか来るかも分からない裏切りにすら手をこまねくことは出来なかった。
斜陽に作り出された陰を踏みながら教室に向かう。頭を抑えることも忘れてしまっていた僕は、もう人っ子一人いない筈と鷹をくくっていたのだろう。油断していた。
 「ホントに頭痛かったんだね。頭痛君。」
 気絶した帰りがけに、放課後の教室の扉を開けると、開口一番Cちゃんが詰め寄ってきた。
 咄嗟に、脊髄が動き出す。腕は、無造作に頭に向かって歩を進める。僕の開きかけた口も、仰け反った姿勢も、もう元に戻っていた。人の培った癖は、本能に根付いているのかというくらい無意識に反応してくれるので、今日ばかりはそれがありがたかった。
「大丈夫だと思ったんだけど、結構無理してたみたい。」
 そう言って彼女の頭上に湧いている、『心配』の色を表す紫のシャボン玉も腕で消した。
 すると彼女は、心配など嘘だったかのような笑顔を僕に向けると、お大事に、また明日!と言って、教室からかけていった。
 心がズキリと痛む、ことはない。これも、日課のおかげだ。
 それにいつまでも心配されるのも気分がいいものではない。彼女の思いが膨らむ前に消してあげたのだから、ウィンウィンという言葉を殿に、僕は行為の正当性を訴える。
 さて、僕も帰る支度をしよう。
 いつも使っている机の整理を始める。
 数学に、英語に、現代文。
 今日受けられなったその全ての授業は誰に聞くこともできない。
 億劫になりながらも使わなかった今日の教科書たちをカバンに入れていると、違和感が目を掻いた。
 可笑しい。確か僕の隣は空席だったはずで、ペアを組む時だとか授業中の相談の時はいつも一人だったはずなんだけど。
 あるはずのない学校指定の、其れもピカピカのカバンが机の横にかけられているのが見える。
 きっと誰かのかけ間違いだろう。五月病をまだこじらせている誰かの、間抜けなミス。気にすることは、これっぽっちも無い。もう帰ろう。
 知らず知らずのうちに仰け反っている、期待にも似た希望的観測は、悲しくもまんまと裏切られた。
「頭痛、さん。」
 開かれたドアには、か細く啼く朝の少女が立っている。
 今にも決壊してしまいそうな彼女は、僕を見るなり青色のシャボン玉をクラス中に散りばめた。
「ごめんなさい。私…わたしっ」
 シャボン玉の奔流に動揺する僕を置き去りにして彼女は続ける。
「頭痛さんが、体調を崩されていることを知らずいきなり、お体に障るようなことを。」
 頭痛、大方その名前は誰かがいったんだろう。
 少しでも答えを間違えば、泣き出してしまいそうなそんな脆さを身にまといながら僕に必死に謝ってくる彼女を見ると、失いかけていた本当達が脊髄を食い破ってしまうような不安に駆られる。
 このままずっと、彼女に抱いた感情の整理を雨が降るまで続けてもいいけれど天井で、今にも弾けてしまいそうな彼女のシャボン玉たちはそれを許してくれそうにない。
 そのシャボン玉を消す、という事は出来そうになかった。一つどころか、数えるのもおっくうになる程散りばめられた球体はもう消す、という考えすらばかげて見える。
 とりあえず頭を抱えることにする。
 すると静かになった脳系統は、今すべきことをいとも簡単に導き出してくれた。僕とこの子は、ほぼ初対面に近いわけでそれから僕はまだ、彼女と会話すらしていない。つまり、まだこの女の子の中で僕の第一印象は出来上がっていない。だから、こういう時は怒りも労いの言葉も見せずにただ何ともないようにするのが吉だ。
「全然、大丈夫だよ。寧ろ、今まで無理してたからさ、助かったよ。」
 そう言って、作り笑いを彼女に見せる。
 微笑みかけると、彼女のシャボン玉は霧散し、屈折して見えていた蛍光灯が顔を出す。
 そんな会話の成功に胸をなでおろす。
 良かった、この少女、Tちゃんは僕の思っていたよりも案外簡単な人間みたいだ。
 しかし、ホッとしたのも束の間、今度はより一層濃くなった藍色のシャボン玉を教室中に散りばめ、彼女はより一層悲しそうな顔をした。
 可笑しい。
 『藍色』は、悲しみを表すような色だ。嫌なことがあった時だとか、慰めて欲しい時だとかに出る、僕の一番かかわりたくない面倒な色。
 どうして。100点満点とはいかなかったにしても、及第点はたたいていたはずの僕の回答のケアレスミスを探す。
 彼女の鬱屈が、教室とシャボン玉を揺らしている。ますます疑問が深まるが今は考えている余裕はない。片腕で、彼女をなだめているとポツリと、彼女は呟いた。
「わたし、きまでつかわせてしまっ、て」
 ごめんなさい。と謝り続けるその姿に心を痛めずにはいられない。
 晴れの日は、嫌いだ。もう向こう暫く見ることは無くなって、ただただ汚いものを見るのが嫌になるきもちばかりだけれど、こんなに綺麗なシャボン玉を見て見ぬふりをすることが出来なくなるというのもすっかり忘れていた。
 その誠意に観念した僕は、抱えていた腕を離して
「謝らないで。」
 とただ身の内に秘めたそれだけを口にした。
 無理をした僕は、きっとひどい笑顔を彼女に向けていただろうに、彼女は僕の顔を見るなりすぐに啼き止んで、一つごめんなさい。といって、二つ目に、ありがとう。といった。
 霧散していく藍と、生み出される彼女の暖かな色に見惚れていた僕は、作り笑いが見抜かれていたことなどすっかり忘れてしまった。


 彼女が初日だというのにこんなに遅い時間まで、学校に残っていたのは、やっぱり僕が原因だったらしい。更に、彼女が保健室に向かっていったのと、入れ違いで、僕は教室に帰ってきたという事の顛末も聞くと、なんだか申し訳ない気になる。
 紛れもなく倒れた原因は僕にあるのであって、彼女にはない。それに、卒倒した理由を言えなんて言われたら、今までの僕に後ろ指をさされてしまうだろう。
 でもシャボン玉が…と言って、初日から変人扱いされたくもないので心の中だけの謝罪に留めておく事にした。
 あのシャボン玉はきれいだった。謝罪の言葉を探したときに一緒にひっぱり出てきた記憶を思い出す。本物のように、陽の光を照らし返し、まるで自らが輝いていると言いたげな、あの強く優しい虹色の泡。人があんなにきれいなものを出せるのかと、敬服する。それに、青も藍も鮮やかで深みがあった。
「須藤さんとおっしゃるのですね。」
 そう言って、隣の席で僕の名前を告げる彼女の言葉は、なんだかむず痒い。それに幸せそうに、ポポポポポと虹色のシャボン玉を出す彼女を見ると、もう頭を抑えずにはいられない。
 幸いなのは、彼女がこちらを向いていないことか…
 安堵の感情が、心に余裕を作ってくれたことで、彼女がこちらを向いていない原因に興味がわく。
引っ張り出した、記憶を丁寧にしまい込むと彼女の机に目を剥いた。
「何書いてるの?」
 頭は抑えているが生憎、彼女の視線は机の上のノートに向かっている。
 こちらに目はない。何ともなしに彼女の作業を見ていたら、又不意を突かれてしまった。
「あなたの名前を、書いています。」
 濁点のところで一区切りがついたのか、会話の途中で僕に笑顔を作った。
「な、前?」
 どうしてそんなことを。と顔に書いてあったのだろう。
 口をつぐんだ原因は、其れだけではないが、兎にも角にも彼女は話を続行してくれそうなので平静を保つことにする。
「そうです。名前です。私、日記を書くのが趣味なんです。」
 えっへん、と言いたげにスグサマ彼女は答えをくれた。
 日記、それにしたって僕の名前を書く必要なんてあるのだろうか。
 見るともなしに、日記に視線をずらすと確かに僕の名前だけではなくクラスメイトの、おそらく全員の名前が書いてあった。
 これを、初日で?
 成程、すごい趣味をお持ちのようだ。
 感心している僕を見てまた虹色のシャボン玉をポポポと出すと、彼女は質問をしてくる。
「なぜ、須藤さんは頭痛さん、なんていう名前で呼ばれているんですか。」
 それは、見ればわかる。片腕で、いつも頭を抑えている僕に彼らは渾名をつけた。いつも頭を痛そうにしているから頭痛君、と。気づけば、僕のイデアの住所は彼らに定められていた。別に、言われたところでやめるつもりはないし興味もない。ただ、皆がこの名前を呼ぶときには決まって馬鹿にしている事だけは知っている。
「癖でさ、こうやっていつも腕が頭を抑えてるんだよ。だから頭痛君って、変な話でしょ。」
 剽軽に、道化の一つでも演じてみる。謂われれば皆にはいつもやっていることで、笑いの一つでもしてくれる。衝突もしたくはないし、嘘をつくのは慣れっこなので、これが一番で丁度いいいなし方だった。彼女も僕をそう呼ぶだろう。今更一人増えたところで、比重は変わらない。そう思っていた。
 だから、
「それは、本当に変な話ですね。」
 今までの誰とも違って神妙な面持ちで、僕の目を見据える女の子に僕は、何も言えなかった。
 その誠実さに僕は、怒ることも嘆くこともしない、ただ目を逸らせないでいた。
 少しの静寂をよそに、彼女が口を開く。
「須藤さんの、一番好きなものは何ですか。」
 訝しげに彼女に目をやる。けれど、彼女の、一体何が可笑しいのだ。と、無垢な笑顔を向けられると、彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回り始める。
「すきな、もの?」
 はいっ。と勢い任せに、こちらを向いて彼女はうなずく。キラキラしているのは、どうやらシャボン玉だけではないようで、その目を見ると思考と施行を強制されている気がした。
 まさか、これをクラス全員にやったのか。そんな嫌な予感も、彼女の瞳の、螺旋の中に放り込まれるとすぐに消えていった。
 一番好きなもの。彼女の言葉を何度も反芻する。しまおうかしまわまいか、丁度考えあぐねていた文庫本が、机の引き出しから垣間見えた。
 読書。読書は、いわば時間つぶしの手段であって、一番好きかと言われればそうでもない。それに、これはなんとなく頭をかすめるような何かに動かされて読むことを遂行しているのであって、自発的なものじゃない。かといって、それ以外の趣味は、ない。答えの出ないまどろみの中を延々とさまよっているとと彼女が、又笑顔で、何でも。と言った。
 何でも。
 そう頭の中で咀嚼しながら、空を見上げるとまるで暗闇に差し込む一筋の光のように、僕の一番好きなものはすっと言葉になった。
「雨。」
 キザな言葉に加えて、自分がこの質問に嫌にまじめになって考えていたのにも気づき、頬が少しずつ紅潮していく。恥ずかしい。感情が暴走を始める前に、直ぐ頭を抑えようと右手を頭にもっていく。
 けれど、頭を抑えるという、心を殺すその行為に至ることはなかった。まだ、消し去ることのできない良心の呵責が脊髄をとどめている。
 彼女は僕の返事を聞くなり、ぱぁぁぁあああと今まで以上に教室をシャボン玉で満たすと、机の上のノートとは、また別のノートを取り出し、そのカギを開けて、記憶が色あせないように一刻でも早く、とノートに綴り始めた。
「須藤さんは、雨が好きなんですね。」
 しゃっしゃっ、と鉛筆の音が教室に溶け込んで雨の日のような心地よさが生まれる。
 語尾に音符をつけて、何度も続ける彼女に、出しかけた手を引っ込めた。人を馬鹿にするだとか、蔑みから生まれたわけではない。鮮やかで、透き通った純粋な喜びの黄色があふれ出す彼女を見ると、なんだか勿体ない気がしたからだ。気恥ずかしいけれど、この感情は消したくない。自分の感情に、今はうそをつかないでおこう。埃をかぶった感情が久しぶりに、目を覚ました。
 でも、本能に根付いたものはそう簡単に消えてくれるはずもなく気づけばもう腕は頭を覆ていた。
 書き終えた彼女は、まるで答えてくれたご褒美と言わんばかりに、今度は虹色のシャボン玉をポンポンと出しながらこちらを見やる。
「私も、好きです。雨!」
 あぁ、全く、彼女はそのシャボン玉を一体どれだけ持ち合わせているんだろう。彼女の笑顔に、自然と僕は嬉しいと思っただろう。そんな生まれてきそうな気持に勝手に名前を付け、腕は頭を抱えようとはしなかったので、僕は自分の手で押さえなければいけなかった。直ぐに癖を思い出した脊髄も加えて腕に信号を伝え、無意識に僕の感情を殺した。少しだけの虚しさも、同じ様に。
 冷静になった脳は、すぐさま彼女の雨が好きな理由を考えたけれど、全くと言っていいほど思いつかなかった。まだ僕は、目の前の転校生のことをなにも知らない。でも、彼女が雨の似つかわしくない人間であることぐらい、僕にはわかる。
 一種の嫌悪感も、きっと浮かんでいたと思う。こんな子と、好きなものが一緒でたまるかと。それ以上、聞きたくはなかった。だから、この会話を早々に切り上げることにした。これ以上互いに傷つかないように。
 本当に、馬鹿だと思う。どうして太陽のように明るい目の前の少女が、正反対の暗くじめじめした雨が好きなのか。しっかりと聞いておかなかった事を。耳をふさいだことを。
 聞かずに満足していた僕を。

「そうでした。」
 頼まれごとをしていました。と、浮かれ気味の彼女は、僕の名前が書かれた方のノートを机に広げた。
 すぐに我に返るとそのノートを、僕もそいつを横目に入れた。
 彼女は、そのノートを読み始める。
「1つ目は、明日の英語の小テストのこと。そして二つ目は…
 学校案内のことです、須藤さんに頼んでおけと先生がおっしゃっていました。」
 成程、あの担任は僕に任せたのか。部活に入っていないのは、クラスでは僕だけなので、先生は当然の采配をしたといえるだろう。けれど、この時間からは…
 彼女は、あ。と、夕暮れをのぞかせる窓に息を吐いた。
 梅雨の時期とはいっても、まだまだ日暮れは早い。
 まだ興奮冷めやらぬ彼女に、明日の放課後に学校を案内する旨を伝え、おまけに英単語の出題範囲を教えてもらうと、僕らは学校を後にした。
 帰りがけ、彼女は下駄箱の最下段に上履きを放りながら明日の単語の小テストに出てくる問題のゴロを得意げに教えてくれた。彼女のその剽軽な洒落に失笑してしまった。
 たまには、こんな晴れの日があってもいい。
 読みかけの本を、学校に置いて行ったのに気付いた僕は、帰途を終えると頭を抑えることなくおとなしく眠った。
 間違いなく、初めて会ったその子はあんな短い時間の中で僕の中に『特別』を作った。それは眩しすぎて、思わず後ろめたさを隠したくなるような今までにないもので、そんな自分の胸の内が不思議でしょうがなかった。もし僕の気持ちが教室くらいの大きさなら、その隅っこの方、用具や数多の文房具に埋め尽くされて陽を見る事すら叶わなかった道具を、ふと思い立って引っ張り出された心地だ。その道具に名前を付けるなら期待だとか、心地良いだとか、楽しいとかといった、もう忘れかけてカビの生えたもの。忘れていた方が楽かもしれないのに、そんなこと思いもせずに気づけば何時もの机の上に放り出していた。だからその夜見たのは、僕を僕にする嫌な夢だった。