9
それから数日が経ち、いよいよ文化祭の前日となった。
文化祭の前日は半日で授業が終わり、午後の時間を丸ごと使って翌日に向けた準備に取り掛かる。昼休みの時間の終わりとともに、教室の中の椅子や机といった備品は、必要なものだけを除いて一斉に撤去された。学校中が一段と慌ただしくなり、一気に文化祭の近づきを感じさせるような雰囲気が漂いだす。
準備は段取りの通りに順調に進んでいき、事前に準備をしておいたパーツで華やかに装飾を施していく。日が暮れ始めた頃には、何の変哲も無い普通の教室が、思い描いた通り、童話に出てくるお城の一室へと姿を変えていた。
完成のイメージが見え始めた頃にはだんだんと必要な人手も減り始め、本来は放課後の時間に入ったこともあって、教室に残っているクラスメイトの数はずいぶんと減っていた。
その中に当然、青葉や加瀬くんの姿はない。もう最後の確認を残すだけの段階になった時、教室に残っていたのは、僕と山本くんと学級委員の女子とその友人の二人だけだった。
「結局、こんな時間になっちまったな」
テーブルの飾り付けを終えた山本くんが、伸びをしながら言った。
「ごめんね、こんな時間まで付き合わせちゃって」
「いいっていいって。俺も久しぶりに勉強以外に打ち込めていい息抜きになったし」
「ありがとう。無理やり付き合わせちゃったんじゃないかって心配だったから、そう言ってくれると嬉しいよ」
僕も山本くんに倣って伸びをしてから、自分たちの努力の成果であるこの教室を見渡した。どこからどう見ても、テーマパークさながらのお城の一室になっている。
最近では部活で夜遅くまで残ることも増えたけど、自分たちが普段から使っているこの校舎にこれほど遅くまで残るのは初めてだ。達成感と感慨深さが、充足感となって胸に広がる。
と、調理用の機材の最後の確認をしていた、学級委員の朝倉さんが振り向いた。
「古河くんも山本くんもありがとね。係じゃないのに、こんな時間まで残らせちゃって」
「ううん、僕がやりたかっただけだから」
「でも、まさか古河くんが手伝ってくれるとは思わなかったよ。こういうクラスのこととかって、あんまり頑張らないタイプかと思ってた」
つい最近も聞いた言葉に苦笑する。僕はみんなからそんな風に思われていたらしい。そして、数ヶ月前までならそれは合っていた。
「確かに、少し前までの僕だったら、適当な言い訳でもして逃げてたかもね。でも、最近は少し自分に自信が持てるようになったんだ」
「うん、前よりもそんな感じの顔してる」
僕は照れ臭くなって顔をそらすと、山本くんが朝倉さんに訊いた。
「それより、どう? こっちは確認終わったけど、そっちは?」
「うん、さっき終わったよ。器具も食器も全部オッケー」
その返答に、山本くんと顔を見合わせた。
「と、言うことは……」
誰かがそうつぶやくと、その声を合図に僕たち残ったメンバーは一斉に声を揃えて、
「終わったー!」
作業に没頭して明かりをつけ忘れていた教室は、いつのまにか沈んだ夕日の明かりがなくなり、薄暗闇に染まっていた。そんなことにも気づかず僕たちは、この教室に弾んだ声を響かせた。
10
文化祭の準備を終えた僕は、街灯の明かりだけが頼りの夜道を一人歩いていた。
さすがにちょっと疲れたな……
ここ数日は文化祭の準備に注力していたけど、普段の勉強だっておろそかにしていたわけじゃない。その二つを同時にこなしていたことで、いい加減に疲れが蓄積されてしまっていた。
帰ったらご飯を食べて少し横になろう。
そんなことを考えている時だった。背中の方から突然、「春樹」と名前を呼ばれた。聞き慣れているはずのその声が、少しだけ懐かしく覚えた。
「青葉!」
振り返ると、駆け足の青葉がそこにいた。教室では毎日顔を見ていたけど、なんだかやけに久しぶりに顔を合わせた気分だった。
「明日の準備は終わったの?」
僕は、久しぶりに話ができた喜びも隠さない声で訊いた。
「どうにかね。明日になってみないとっていうところはあるけど、とりあえず今日のうちにできることは終わったから」
「そっか。さすが、準備にぬかりないね」
「当日になってドタバタと慌てるのも嫌だから、できることは先にしておかないと」
「それをちゃんと実際にやれるから青葉はすごいんだよ」
それは何気ないやり取りだった。だけどふと、今青葉と話をしているんだ、ということを意識してしまった。
「なんだか、こんな風に落ち着いて話せるのも久しぶりだね」
二人で家までの道を歩く。それがやけに久しぶりのことに思えたし、事実二週間近くは空いていたはずだった。
「そうだね、本当はもっと仕事を減らせればいいんだけど……変な決まりごととか面倒な企画の申請とかで、もう参っちゃいそう。前任者の残した資料も使えないのばっかりだから、結局また私が作り直すことになったし」
「はは……なんだかこんなに愚痴る青葉も珍しいね。でもみんなも、青葉が会長なら大丈夫だろうって安心しきってるよ」
「なら良かった。春樹たちには安心して自分の作業に集中して欲しいから。クラスの方はどう?」
「うん、一応飾り付けは終わったし、あとは明日の朝イチでメニューの準備をしてって感じかな」
「順調みたいだね。明日は少しでも手伝えればいいんだけど……」
「いいよいいよ。青葉には青葉にしかできない仕事があるんだから」
「そうだね。でも、少しでも時間が取れないか頑張ってみるから」
「無理はしなくていいからね。青葉の手を借りなくてもいいように、ちゃんとシフトは組んであるし」
「ありがとう」と、青葉は優しく微笑んでから、「それより、莉愛との企画の方はどうなってる? 最近全然気にかけてあげられてなかったけど」
「どうにか順調にいってるのかな。大まかなアイディアも決まって、後は文化祭の後にっていう感じ。赤川さんとも、前よりはちゃんと話せるようになったし」
「それならいいけど……何か手伝えることがあったらいつでも言ってね」
「うん。ありがとう」
青葉がやけに心配性な様子で、思わず苦笑が漏れた。いつも心配をかけている自覚はあるけど、ここまであからさまな態度は珍しかった。
「だけど、それより今は明日の文化祭を頑張らないと。部活のことはその後かな」
「うん、そうだね。私も、まずは明日を乗り切らないと」
そんな話をしているうちに、気づけばもうお互いの家の前だった。通りの右側には青葉の住む大きなマンションがあり、左側には僕の暮らす年季を感じる戸建てがある。
僕たちはそこで足を止めると、また明日と言い合ってから、それぞれの家に向かって歩き出した。
明日は、いよいよ高校最後の文化祭当日だ。
11
その日は、朝から学校中に浮かれ騒いだ声が響いていた。
朝イチに教室に集まったみんなはどこか浮足立った様子で、出し物である喫茶店の開店に向けた最後の準備を進めていく。廊下に出てみればどこの教室も同じような様子で、はしゃいでふざけ合うような声がそこここから聞こえてくる。文化祭に乗り気でなかったクラスメイトも、いざ当日が来てしまえば楽しげに友達と笑いあっている。
この浮ついた空気は、去年や一昨年と変わらない。だけどその中で、僕の気持ちは過去の二年間とは違っていた。
ずっとこういうイベントごとは、自分とは遠いことのように感じていた。だけど、最後の最後になって、この空気の中に自分がいるんだという実感があった。
けど、そう感じられるようになったのは、きっと青春部が僕を変えてくれたからだ。それなのに、教室の中を見渡してみても、僕を誘ってくれた彼の姿はない。青葉は生徒会の仕事へ、加瀬くんは弓道部の方の出し物のためにクラスを離れていた。
文化祭の開始を告げる空砲の音が学校中に響くと、途端にあちこちから歓声が沸いた。高校最後の文化祭が始まっていた。
クラスの出し物は順調だった。大盛況というわけではないけど、お店を開けてから途切れることなくお客さんは入り続け、こだわったお店の内装も女性客を中心に好評だった。
そこでの僕の仕事は、料理の提供や席への案内をするホールの役割だった。バイトの経験なんてなかったけど、上手くこなしているクラスメイトの見様見真似で、どうにか大きな失敗もなく乗り切っていた。
働いていると時間はあっという間に過ぎる。お客さんのピークが過ぎて一息をつくと、気づけばもうお昼過ぎだった。と、また教室の扉が開いた。慌てて出迎えに走ると、そこから顔を覗かせたのは赤川さんだった。どうやら赤川さんは一人みたいで、教室の中をきょろきょろと見回している。誰かを探しているように見えた。
「どうしたの? なんだかお客さんって雰囲気じゃなさそうだけど」
「あ、古河くん。紛らわしくてごめんね。ウエイトレス似合ってるじゃん」
「あ、ありがと」
今の僕は、今日のための用意したウエイトレス風の制服だった。こんな衣装着たことがなかったから恥ずかしかったけど、褒められてちょっと照れ臭い。
赤川さんは少し声を潜めて、
「ね。伊織って今教室にいる?」
「ああ。加瀬くんなら弓道部の方でお店出してるから、そっちに行ってるよ」
「そっちかー。まあ部長さんだもんね」
赤川さんは残念そうに肩を落とす。もしかしたら、一緒に文化祭を回ろうとしていたのかもしれない。
と、その時だった。赤川さんの身体の向こうに、小走りで駆けてくる一人の女子の姿が見えた。今は見かけるはずがないその姿に驚いた。
「あ、青葉!? どうしたの、生徒会の仕事は?」
「え、青葉?」
僕の声に赤川さんも驚いて振り向いた。青葉は教室の入り口まで来ると、
「この時間は面倒なステージがないから、いったん他のメンバーに任せてきたの。だから、少しの間だけなら手伝えると思う」
「そんな、無理しなくていいのに」
学級委員の朝倉さんが青葉に気づいて近づいてきた。
「西峰さん、もしかして手伝ってくれるの?」
「うん、少しの間でもよければだけど」
「もちろんだよ」と朝倉さんは教室を見渡したけど、今はお客さんがほとんどいない。
「でも青葉、そんなに仕事ばっかりして、自分が文化祭回る暇はあるの?」
赤川さんが心配するように言った。
「私は別に、行きたいところもないし」
「えー、もったいない。せっかくだし、自分の成果を見ておくのもいいんじゃない?」
あっさりと断る青葉にも赤川さんは屈せずに押し続けると、それに朝倉さんが加勢する。
「クラスの手伝いはいいから、古河くんと一緒に回ってきたら? 今ならお客さんもほとんどいないし」
「え、でも僕はまだシフト入ってるし……」
「いいからいいから。古河くんにもずっと頼りっぱなしになっちゃってたし、ちょっとは息抜きしてきなよ」
思わぬ話の流れに困惑していると、あれよあれよと話がまとまっていく。なんでこんな話の流れになったのか、気づけば青葉と二人で文化祭を回れることになっていた。
12
それは、突然舞い込んできた幸運だった。
青葉と二人で文化祭を回れるなんて、つい昨日まで、いや、ほんの三十分前まで想像さえもしていなかった。予期せずして舞い込んだこの幸福を噛み締めながら、僕は青葉と二人で、たくさんの生徒と来場者で混雑した道を歩いていた。
「やっぱり、どこもすごくにぎわってるね」
「ちょっと一度作戦会議しよっか」
青葉に促されて、屋台のない校庭の外れに移動する。そこまで行って、ようやく一息をつけた。
自由時間をもらった僕たちが真っ先に向かったのは、加瀬くんのいる弓道部の出店だった。ぜんざいが売られていたそこには、加瀬くん目当てらしき女子たちの長蛇の列が伸びていて、断念せざるを得なかった。次に向かったのは赤川さんの調理部で、僕も試食をしたフィナンシェが売られていたそこは、やっぱり男子たちで長蛇の列だった。
「やっぱりあの二人はすごい人気だったね。混んでるだろうとは思ってたけど、まさかあそこまでとは……」
「だね。うちの制服以外の人もたくさんいたし、他校まで噂が広がってるのかも」
青葉はそう言うと、何かに気づいた様子だった。
「あ、晃嗣」
青葉の視線を追って、人混みの向こうへ目を向けてみると晃嗣くんの姿が見えた。隣には文化祭のスタッフが数人いて、彼らにテキパキと指示を飛ばしている。距離があって細かい表情までは見えないけど、スタッフの人たちの態度から晃嗣くんが頼られているのが伝わってくる。
晃嗣くんも、加瀬くんや赤川さんと同じで非凡なものを持っている。
「頑張ってるね」
こんな場面を晃嗣くんに見られたら、間違いなくまた睨まれてしまう。僕はつい隠れるように顔を伏せる。
この瞬間くらいは、どうか今という贅沢を許してほしい。
と、晃嗣くんは僕たちとは反対側に向かって歩いていき、青葉はその背中をじっと見つめている。
「なんだか、働いている人を外から眺めるのは変な気分」
「そうかもね。こうして一緒に文化祭を回るのだって初めてじゃない? 青葉はいつも運営側にいるし、中学の時だって」
「そうだね。私だって別にやりたくないのに、いつも気づいたらそういう立場になってる」
青葉は自分から責任者に立候補をするタイプじゃない。ただ、何かを決める時はいつも最適なアドバイスを送ってしまうから、そのまま周りに担がれてまとめ役になってしまう流れが多かった。
「青葉はきっと、そういう星のもとに生まれたんだよ」
「そうなのかな。まあ、だとしてもやることは変わらないけど」
青葉は目の前を埋め尽くす人混みを眺めながらそう言った。いくつもの屋台が並ぶ通り歩く人たちは、そこで買ったものを片手に隣を歩く友達と楽しそうに談笑している。
せっかくの機会なのに、このまま校庭の隅で立っているだけというのももったいない。
これが、青葉と二人で回れる最初で最後の文化祭なんだ。食べ物でも企画でも、どこか一つだけでも回っておきたかった。
「それより、次はどこに行く? まだ時間は平気?」
「うん、もう少しなら。二時から軽音部のステージが始まるから、それまでに戻れれば」
「よかった。何か面白そうなところとかあるかな」
文化祭のパンフレットを開くと、ステージのタイムスケジュールが目に入った。メインステージの体育館では、常に何かしらの出し物があるみたいだ。
「ちょうど今から、小清水先生たち教師陣が漫才をするらしいけど」
「それはいいかな。……身内のコントって正直かなり寒いし」
「あはは……まあ確かに」
青葉の歯に衣着せぬ言い方に苦笑する。だけど実際、変に滑ってサムい空気になるのは目に見えていた。
「じゃあ、教室の企画とかだと……」
と、めぼしいものを探してページをめくった時だった。慌ただしい足音とともに、人の気配が迫ってきた。
振り向くと、息を切らした一人の男子だった。
「あの、西峰先輩……!」
「どうしたの、そんなに慌てて」
生徒会の人だろうか。慌てた様子に嫌な予感を覚える。彼は言いにくそうにしながらも、恐る恐るといった様子で、
「すみません、自由時間中に。実は、メインステージの方でちょっとトラブルがあって、その対応を……」
「この時間のメインステージは中山に任せたはずだけど?」
「そうなんですけど、西峰先輩の判断を仰ぎたいと言っていて……すみません」
その男子は、また悲痛な表情で頭を下げる。青葉は少しも顔色を変えず、ひたすらに冷静だった。
「ううん、半端に任せちゃった私が悪いから。やっぱり、ちゃんと私が見ていなくちゃいけなかった」
青葉はそう言ってから僕の方を振り向くと、そこで初めて申し訳なさそうに表情をゆがめた。
「ごめん。やっぱり戻らないといけなくなっちゃったから……」
「ううん、いいよ。少し回れただけで満足だから」
青葉は最後にもう一度「ごめん」と口にすると、生徒会の彼を連れて急ぎ足でこの場を去っていく。通りはたくさんの人でにぎわっていて、人混みに紛れると、その背中はすぐに見えなくなった。
一緒にいられたのは、ほんの十分か十五分くらいだろうか。なんとなくすぐに教室へ戻るのがはばかられて、僕はゆっくりと寄り道をして帰った。
13
文化祭の閉幕を告げるアナウンスが鳴った。
そして、残っていた最後のお客さんのお会計が終わって、店内にこのクラスの生徒しかいなくなった瞬間、教室中に歓喜の声が上がった。大きなトラブルもなく、無事に盛況のまま終わった喜びで、みんなは浮かれ騒いでいる。売り上げがいくらだとか、打ち上げはどうしようかとか、そんな話題で持ちきりだ。
そのにぎやかな空気の中に、青葉と加瀬くんはいない。きっと今頃、青葉は後処理に追われ、加瀬くんは弓道部の方で同じように盛り上がっているはずだ。それが仕方ないことだとは分かっているけど、やっぱり寂しい気持ちはある。
この日のために他のクラスメイトよりも頑張って準備に取り組んできた自信ならあったけど、素直に喜びの輪の中に入り切れずにいた。
「お疲れ様。今回は大活躍だったな」
紙コップを二つ手にした山本くんが隣に立って、その片方を僕に差し出した。コップの中身は、喫茶店の余りのコーヒーだった。僕はそれを受け取って、
「ありがとう。山本くんもお疲れ様」
「どうにか乗り切れてよかったな。他のクラスのやつからも結構評判良かったし」
「だね。ようやくこれで一安心かな」
「けど、せっかくこれからキャンプファイヤーだっていうのに、西峰さんがいなくて残念だな」
文化祭の夜は、出し物の片づけを終えた後にキャンプファイヤーが行われるのが恒例だった。去年も一昨年も、クラスメイトたちの輪の端っこで、冷めた気持ちでそれを見ていたことは覚えている。
今年こそ、去年までと違う形でそれを見られるんじゃないか。と、わずかにそんな期待をする気持ちもあった。だけど――
「仕方ないよ。青葉にはもっと大事な仕事があるんだから」
「まあそうだよなあ……」と、山本くんは急に首を傾げて、「あれ? でも確か、後夜祭って有志が勝手にやってるんじゃなかったっけ?」
「そうなの? でも、だからって別にどうにもならないよ」
青葉と二人で文化祭を堪能するなんて、今日のあのわずかな時間だけで充分だ。部活のみんなとも結局ほとんど話もできていなかったけど、そんなわがままばかりも言っていられない。
そんなことを思った時、スマホが短く振動するのを感じた。
差出人を勝手に予想して期待してしまう気持ちを落ち着けつつ、スマホの画面を開く。通知が来ていたのは青春部のグループで、差出人は加瀬くんだ。
肝心の内容は、キャンプファイヤーの時間に旧校舎に集合しろ、というものだった。
14
旧校舎の裏口は、キャンプファイヤーの会場である校庭とは反対側にあり、人目につくことなくあっさりと侵入することができた。文化祭の片付けが終わるとクラスは混ぜこぜになって、誰がいないのかも分からなくなっていたことも幸いだった。
指定された通りに三階の教室へ向かうと、そこにはもうみんなの姿があった。最初に僕に気づいたのは、小清水先生だった。
「お、来た来た。これで全員揃ったな」
「遅かったですね」
晃嗣くんは、相変わらず冷たい声だ。
「ごめん、クラスの片付けが長引いちゃって……」
「大丈夫。私たちもさっき来たばかりだから」青葉が優しい声で言った。
「みんなこんな場所にいて平気なの?」
「まあ多少なら。長居はできないだろうけど」青葉が答えた。
「こっちも同じような感じだ」
加瀬くんの言葉に、赤川さんと小清水先生も同調するようにうなずいた。
今ここには青春部のメンバーしかいないけど、みんなの格好が普段の学校でのままなのが面白い。特に、加瀬くんは袴姿で、赤川さんは制服の上にエプロンを身につけていた。
「二人とも、その格好で出店してたの?」
「ああ。売っているのも和菓子だったし、弓道部らしい格好がいいだろうっていう話になってな」
「エプロンだと家庭的な感じが出ていいでしょ? 似合ってる?」
二人の口調も表情も、普段の学校でのものだ。どうやら、格好に引っ張られてしまっているらしい。
エプロンというアイテムを手にした赤川さんはまさに鬼に金棒で、さらにその魅力を何倍にも増していた。けど、女の子を褒めることに慣れていなくて、ぎくしゃくした声になってしまう。
「う、うん……すごく似合ってる」
「さすが古河くん。どこかの仏頂面とは違って、ちゃんと欲しい言葉をくれるよね」
赤川さんはそう言いながら、隣に立つ加瀬くんを睨んでいる。
「いいだろう、別に。そういうことを言うキャラじゃない」
「キャラとかそういう問題? エプロンだよ? 制服にエプロンだよ?」
赤川さんは加瀬くんの前に立つと、「ほらほら」と、エプロンの端をつまんでひらひらと動かして見せている。加瀬くんはそれにも動じず、表情を変えることもない。
「それより春樹、クラスの方はどうだった?」
そんな二人を無視して、青葉が訊いた。
「うん、ちゃんと繁盛してたよ。片付けも無事に終わったし」
「よかった。最後までごめんね」
「ううん。それより、生徒会の仕事は大丈夫?」
「うん。特に大きなトラブルもなく、後は細々した事後処理だけ」
「青葉先輩が先頭に立っていたんですから、トラブルなんてあるはずがありませんよ」
晃嗣くんが力強く言い切った。
実際その通りだろうと思った。青葉が先頭に立って上手くいかなかったことなんて今までに一度もないし、それに今回は晃嗣くんだってついていた。この文化祭の成功は、約束されていたようなものだったのかもしれない。
そんな話をしていると小清水先生が苦笑しながら、
「おまえら、話に盛り上がるのもいいけど、ちゃんと火を見ろよ、火を」
みんなはその言葉に、そうだった、と窓の方を向く。僕も窓際まで向かい、そこから眼下を見下ろした。ここからはちょうど校庭全体が見渡せる。
校庭の中心には、火花を散らしながら燃え盛る巨大な炎の塊があり、それを取り囲む無数の生徒たちが思い思いにそれを見つめている。そして僕たちは、この真っ暗な旧校舎の一室からそれを俯瞰している。
みんなの視線が窓の外に向かうと、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに教室には静寂が訪れた。聞こえてくるのは、窓の隙間をかいくぐって届いた、校庭でのみんなの楽しげに騒ぐ声だけだ。
ゆらゆらと燃えているオレンジを見つめていると、なんだかそれに吸い込まれてしまいそうな感覚がした。どこかテレビの中の出来事を見つめているようで、それでいて、僕たちもまたこのキャンプファイヤーを囲んでいる一人なのだという自覚があった。
「こうやって輪の外れからキャンプファイヤーを眺めるなんて、いかにも青春部っぽいと思わないか? この、周りから浮いてる感じとか」
静寂を破ったのは、感慨深けな小清水先生のつぶやきだった。
「たしかにそうですね。けど、青春の形はひとそれぞれですから」
真面目な声で加瀬くんが言うと、赤川さんもそれに続く。
「……うん。きっと、これが私たちの青春の形なんだろうね」
「そうだね」
「ズレてる方が、オレたちらしい」
青葉と晃嗣くんも続いて同調した。
みんなの間にある共通認識のようなものを感じて、なんだか肩身が狭くなった感覚がした。僕は、ずっと気になっていた疑問を投げてみた。
「ねえ、青春部ってそもそもどうやってできたの?」
「そういえば、古河にはまだ話してなかったな」
答えたのは小清水先生だった。
少し考えれば分かることだった。こんな部活を作れるのは、教師という立場にある小清水先生だけだ。
「まあ大した話じゃないんだけどさ。……学生の頃、俺もお前らと同じだったんだよ。ずっと殻に閉じこもったような、窮屈な毎日を過ごしてたんだ。けど、そんなことにも気づいてなくてな……最後の最後になってそれに気づかせてくれたやつがいたんだけど、やっぱり全部遅すぎて」
それは、普段と変わらない軽い口調だった。だけど、どこか一言一言がズシリと重くのしかかって聞こえた。
みんなはただ黙ってそれを聞いていて、僕もそれに倣う。
「そんで、なんだかんだ教師になった俺は、生徒たちには同じ想いはさせないようにしたいと考えたわけだ。そんな時に伊織と出会って、二人で部活を作ったのが始まりだ。それから青葉、莉愛と加入させていって、去年の秋には晃嗣が、そしてこの春には春樹が入ったっていうわけだ」
小清水先生の話は少しおおざっぱだったけど、そのだいたいの流れは理解できた。
驚いていた。生徒との距離が近くて、それでいてみんなから慕われている小清水先生が、そんな学生時代を過ごしていたなんて思いもしなかった。そして、この部活にそんな想いが込められていたなんて。
ふさわしい言葉が浮かばなくて、陳腐な言葉に感情を込めた。
「そう、だったんですね……」
「まあな。おまえらがこの部活の一期生だから、うまくやれてるか分からないし、おまえらの本当に必要なものを与えられているか自信はない。けど、この青春部っていう場所がおまえらにとっての居場所になってるなら、この部活を作った甲斐があるってもんだ」
キャンプファイヤーの炎が、天に伸びるように燃えている。轟々と燃え盛るそれは、否が応でも心を揺さぶる力がある。
後夜祭を楽しむ生徒たちは、疲れを見せる様子もない。まるで、その炎を中心にして、無数の感情が渦を巻いているみたいな光景に見えた。
「おまえら、文化祭も終わったら、また来週は部活だからな。忘れてないよな?」
無理やり話題を変えるような、小清水先生の明るい声だった。みんなは口々に、もちろんと応えた。
そうだ。今日で文化祭は終わるけど、来週からはまた部活のある毎日が始まる。本当に、気の休まる暇がない。刺激的な毎日はこれからも続いていく。
企画の詳細を詰めて、準備して、また来週は本番だ。思わず苦笑が漏れる。
「頑張ります」
「頑張れよ、春樹。おまえならきっと……」
やけに優しい声で小清水先生が言った。
僕はまた校庭の方を見た。夜の校庭を明るく照らすキャンプファイヤーの炎は、今も激しく燃え続けていた。
1
文化祭が終わったその翌週、学校中に漂っていた浮かれた空気は、あっけないほどにあっさりと消えていた。
部活に入っていない三年生にとってはこれが最後の一大イベントであり、いよいよ受験に向けて本格的に動き出す流れを感じていた。七月に入ってから、毎日の気温もぐんぐんと上昇していき、初夏から盛夏の気候へと変わり始めている。夏休みまでは、あと一ヶ月を切っていた。
その流れの中で僕は、次の部活に気持ちの照準を合わせていた。僕にとって初めての経験となる二対二での企画対決は、文化祭のちょうど一週間後の土曜日だ。加瀬くんと晃嗣くんのペアに対抗するためには、悠長なことを言っていられる余裕はない。
週が明けてすぐに赤川さんと相談してさっそく内容を確定させると、その週は準備に明け暮れる毎日になった。放課後の時間になるとこっそりと旧校舎に忍び込み、コツコツと仕掛けの準備を進めていく。今までに三度企画には挑戦してきたけど、ここまでしっかりと事前の準備に打ち込むのは初めてだった。
忙しい毎日はあっという間に過ぎていき、そして、企画の発表日の前日となる金曜の放課後になった。
普段なら一週間が終わってほっと一息をつきたくなる時間だけど、今日はそういうわけにはいかない。自由に時間を使うことができるようになる、これからが本番だ。
しばらくの間図書室にこもって時間を潰し、校舎に人が少なくなったのを確認してから、こっそりと旧校舎に侵入した。念のために足音をひそめながら企画の発表場所に決めた理科室に行くと、赤川さんが先だった。
いつもの学校でのスタイルの赤川さんが、笑顔で出迎えた。
「あ、きたきた」
「お待たせ」
「先、始めちゃってたよ。と言っても、仕掛けの方は古河くんがいないと分からないから、装飾の方だけだけど」
「ありがとう。じゃあ、仕掛けの方も早く仕上げをしないとね」
僕は理科室を見渡した。週の頭からコツコツと準備を続けてきて、もうほとんどの形が出来上がっていた。
真っ先に目につくのは、天井から吊り降ろされたいくつかの人体模型だ。筋肉のついたものやガイコツタイプのものまでいろいろだ。そして、そのどれもがドレスを着ていたりスーツを着ていたりと、しっかりとめかし込んでいた。
僕と赤川さんで用意した企画は、人体模型の舞踏会だ。人体模型を動かすアイディアを出したのは僕で、それを着飾って踊らせようと提案したのは赤川さんだった。夜の旧校舎に浮かぶ人体模型というホラー色の強い見た目の中に、赤川さんの用意したファンシーな衣装が加わって、見た目にギャップのある魅力的な光景になっていた。
もちろん、糸で吊るしたいくつもの人体模型を同時に踊らせるなんて、簡単なことじゃない。手や足の先にそれぞれ糸をつないで、踊って見えるようにそれを動かさないといけない。糸を動かすための仕掛けだって、ホームセンターで買ってきたモーターや日曜大工の道具を使って一から作った。
実際に糸を動かすところまで行っても、そこからも苦労の連続だった。糸が絡まったり模型がおかしな動きをしたり失敗ばかりだったけど、そのたびに試行錯誤をするのは楽しかった。
今日の作業は、人体模型たちの動きの最終調整だった。赤川さんに全体の動きを見てもらいながら、細かい動作の調整をしていく。少しの調整で上手く動いていた模型が動かなくなったり、三歩進んでは二歩さがるような作業が続いた。ああでもないと言い合いながら時間も気にせずに準備を続けていると、まるで僕たちだけでもう一度文化祭をやっているみたいな気分だった。
だんだんと日が傾いてきたころ、何度目になるか分からない動作のテストで、ようやく思い描いたとおりの動きを見せた。
「……どうだった? 今の動き」
恐る恐る訊くと、赤川さんは興奮したように、
「うん、すごくよかった! ガイコツくんも筋肉くんもちゃんと踊ってた」
赤川さんの反応に、ほうっと息を吐き出した。無事に完成した喜びよりも、日が暮れる前に作業が終わった安堵の方が強かった。
「良かった……明日までに終わらなかったらどうしようかと思ったけど、とりあえず一安心かな」
「軽い気持ちで、躍らせたら? なんて言っちゃったけど、ここまでのものを作るなんてすごすぎるよ」
「赤川さんのアレンジのおかげだよ。絶対いいものになるって信じられたから、ここまで頑張れたし」
心の中で、確かな手ごたえを感じていた。企画自体の出来じゃない。ずっと、こういうものに本気になれるみんなに憧れて、それがいま手の届くところまで近づいている。
「正直、古河くんと組むって決まった時、どうなっちゃうんだろうって思ってたけど……でも、まさかここまでのものができちゃうなんてね」
赤川さんはそう言って微笑む。いつもの学校と同じ、二つ結びで裸眼の赤川さんが見せる、まぶしいくらいの笑顔だった。
ふと、加瀬くんがペアを発表した瞬間の、赤川さんの不安そうな表情がよみがえった。分厚い眼鏡をかけて髪を下した、暗い印象の赤川さんだ。
その二つの表情があまりにもかけ離れていて、思わず訊いていた。
「やっぱり旧校舎にいても、その格好の時は学校での赤川さんになるんだね」
赤川さんは突然の話題に少し驚きつつ、二つに結ばれた髪の片方を右手で触った。
「どうしてもスイッチ入っちゃうんだよね。別に気取らなくていいのは分かってるんだけどさ……ホントは疲れるからヤなんだけど、コンタクト外すのも面倒だし」
「そういうものなんだ?」
「そういうもんだよ。伊織だって制服や袴の時はカチッとしてるし、晃嗣も髪を上げてない時は普通でしょ?」
「まあ、確かに……」
頭の中に二人の姿を思い浮かべていると、じっと赤川さんが僕を見つめていることに気づいた。そこからは笑顔が消えていて、とても真剣な表情に見えた。それは少しだけ怖いくらいだ。
と、突然結んでいた二つの髪をほどいた。髪をかき上げて少し整えると、それはストレートになる。眼鏡はないけど、表情を消して髪をほどくと、部活の時の彼女と変わらなかった。
「ねえ、古河くんは私のことどう思ってる?」
「え、ええ!? どう思うって……」
不意打ちな質問に慌てていると、赤川さんは苦笑して、
「違う違う。私のこと、どんな人だと思ってる?」
「え? それは……」
なんだか、試されているような気がした。どこまで自分のことを理解しているのか、それを知ろうとしているのだと思った。
僕は、二人の赤川さんを知っている。明るい笑顔を振りまく学校での彼女と、表情の乏しい部活での彼女。部活での姿が本物だということは、小清水先生からは聞かされていたし、頭では分かっているつもりだった。だけど――
「……よく分からない。みんなから頼られて、すごく明るい人だと思ってたから」
それは本当の赤川さんを知る前の印象だ。それが嘘だと突きつけられても、今でもまだ心の奥では信じることができていなかった。
赤川さんは目を伏せて、静かに語った。
「人見知りで、内気で、つまらないネクラ。私は、その程度でしかないんだよ」
ふさわしい言葉を見つけられずにいると、さらに続ける。
「私ね、中学の頃までは部活の時みたいないかにもなネクラで、そのせいでクラスでハブられてたんだ。でも、ちょうど高校からこっちに出てきて、今までの私を知ってる人はいなかったから、自分を変えることにしたの。誰からも好かれるような、明るくて優しい人を必死に演じてさ。おかげで、なりたい自分になれたはずなのに……そこにあったのは、自分を偽る苦しさだけだった」
赤川さんの口から語られるその内容は、まるで彼女ではない別の誰かを語っているみたいだった。クラスメイトからハブられる赤川さんなんて想像もつかない。
「じゃあ、今でも演技を?」
「上手でしょ?」と、赤川さんは微笑んでからまた顔を伏せて、「でもね、伊織には見抜かれたんだ。演技には自信があったから、私も最初はムキになって否定してたんだけど、青春部なら演技なんてしなくていいって誘われて……伊織はね、本当の私を見抜いて居場所を与えてくれた恩人なの」
「そうだったんだね……」
つまらない相づちしか打てない自分が嫌になった。
赤川さんは一体のガイコツの前に立ち、それが身に着けているパーティドレスの裾をつまむ。どこか弱気な瞳で、骨だけのその顔を見つめていた。
ガイコツの顔を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「私ね、伊織が好きなの」
「え……?」
突然こぼれ落ちた赤川さんの気持ちに、ただ困惑した。
赤川さんが、加瀬くんを……?
思えば、そんな態度がなかったわけじゃない。それでも驚きで何も言えずにいると、続けて赤川さんの口からこぼれたのは、重たくて寂しい声だった。
「それでね、私は本当の私が嫌い」
今度こそ本当に言葉を失った。その声はどこまでも真剣で、無責任な励ましなんてできるはずがなかった。
僕は必死に赤川さんまで届きそうな言葉を考えて、どうにかそれを絞り出す。
「でも、赤川さんと話してる部活の時の加瀬くんは、楽しそうに見えるよ」
「どうだろう。部活中の伊織なんてずっと浮かれてるし……それに結局、みんなこっちの私が好きなんだよ」
そう言いながら赤川さんはこっちを向くと、両手をヘアゴム代わりにして、いつもの学校でのスタイルのように髪の毛を二つに束ねて微笑んで見せた。
思わずその笑顔に見惚れていると、突然両手を開いて髪を戻し、表情もまたもとの影のあるものに戻った。
「こっちの私は、教室の隅っこに溜まってる埃みたいなものだから。伊織が本当の私をどう思っているのか、それを知るのが怖いの」
「埃だなんて……そんなこと、加瀬くんが思うはずないよ」
「最初、私のこととっつきにくいと思ってたでしょ?」
赤川さんは冷静な声でそう返した。図星だった。初めて旧校舎での赤川さんを見かけた時、確かにそんな印象を抱いたし、今回のペアというきっかけがなければ、今もその印象を抱き続けていたかもしれない。
赤川さんはさらに続ける。
「私、人からどう思われているのか考えると怖くなるの。だから、みんなに好かれるキャラまで作って。そんな演技、伊織の前ではしなくていいから嬉しいけど……嬉しいはずなのに、素顔の私を本当はどう思ってるんだろうって、それがずっと不安なの」
僕はまた何も言えない。言えるはずもなかった。この期に及んで、僕はまだ赤川さんのことを理解できないでいた。
今までに一度も嘘の自分なんて作ったことはないし、そして、それに苦しめられてきたこともなかった。
「古河くんが羨ましいよ」
と、赤川さんは不意にそんなことを言った。
「え? 僕?」
突然の僕の名前に困惑する。この流れで、自分の名前が出るなんて思ってもみなかった。
「古河くんと青葉って、はっきり言って不釣り合いだと思う。他の人からも言われたことあるでしょ?」
容赦のない辛辣な言葉が胸に刺さる。だけど、それを否定することはできなかった。
「……うん。それはもう何度も」
「ううん、言葉だけじゃないよね。いつも晃嗣が怖い顔して睨んでるのは知ってるし、そういう目を向けられるのも珍しくないと思う。なのに、どうして古河くんはそこまで青葉のために頑張れるの?」
赤川さんの目が、じっと僕の顔を見つめた。
ふと、前に加瀬くんからも同じような質問をされたことがあるのを思い出した。初めて加瀬くんと話をして、青春部に誘われたあの時だ。『どうして古河はそこまで頑張れるんだ?』と、そんなことを訊かれた覚えがある。きっと、加瀬くんや赤川さんのような人たちには、僕のような凡人のことは理解できないのかもしれない。
あの時と、僕の答えは変わらない。
「僕が、青葉についていくって決めたから」
そう言い切ると、赤川さんはふっと頬を緩めて、
「古河くんのそういうところ、すごくカッコいいと思うよ。初めて会った時は、こんなのが青葉の幼馴染なんてって思ったけど、こういう古河くんなら釣り合いとれてるよ」
赤川さんに褒められると、やっぱりドキドキしてしまう。恥ずかしくなって、またつい目をそらす。
「僕なんて、青葉と釣り合うわけないよ。……でも、少しは自信になったかな」
赤川さんはもう一度微笑むと、そこで表情を引き締めた。それは、決意を固めたような表情にも見えた。
「私、知りたい。伊織が本当の私をどう思っているのか。……このまま、終わりになんてしたくない」
「自分がしたいようにすればいいんだよ。偉そうなことなんて言えないけど、赤川さんならきっと大丈夫だから」
「ありがとう。このもやもやも、明日で終わりにしようかな。まずは伊織と晃嗣を倒して、それで伊織に伝えてみる」
赤川さんは理科室を見渡し、宙に浮いたままの人体模型の一つ一つを見つめていた。明日、この仕掛けを使って、加瀬くんと晃嗣くんと戦う。
ただ勝ちたいという気持ちだけじゃない。初めての感情が生まれているのを自覚していた。
2
土曜日、久しぶりの活動日となるその日がついに訪れた。
集合時刻の十九時にちょうどなろうとする頃、旧校舎の裏口から最後の一人となった赤川さんが顔を出して、青春部のメンバーが勢ぞろいをした。「おまたせ」と、みんなのところに集まると、なんだか懐かしいくらいの光景だった。
文化祭の後夜祭の時間にみんなで集まりはしたけど、正式な活動で集まるのは一ヶ月近くぶりだ。加瀬くんや赤川さん、晃嗣くん三人の学校とのギャップ溢れる格好も久しぶりだった。
「なんか久しぶりだな。こんなに間隔があいたのは初めてじゃないか?」
加瀬くんの嬉しそうな声に、青葉が応える。
「そうだね。去年はここまで忙しくなかったから」
「今年はみんな立場があったから、しょうがないよ」僕は言った。
「これを着るのも久しぶりだったぞ」と、いつものアロハシャツを見せびらかしておどける加瀬くんに、みんなは声を漏らして笑う。だけどその笑い声の中に、赤川さんのものはなかった。表情に乏しい顔のまま、笑みのこぼれるみんなの輪の中に立っている。
今日、加瀬くんに伝えるって言ってたけど……
「盛り上がるのは始まってからな」と、小清水先生がみんなをたしなめてから、「四人とも準備は大丈夫か?」
今回発表者の三人は小清水先生の方を見てうなずいて、僕も今回はたっぷりと自信を込めてそれに混じった。今までとの表情の違いに気づいたのか、小清水先生は僕の顔を見て満足そうに笑った。
「さて、じゃあ順番だけど……」
と、小清水先生がうかがうように言うと、晃嗣くんが一歩前に出た。
「オレたちが先に行きます」
事前に話していたのか、加瀬くんは驚く様子もなく見守っている。なんとなく、晃嗣くんが先攻を選んだ理由が分かった気がした。たぶん、僕が初めて企画を見せた時と同じ、先に見せつけることで、僕たちにプレッシャーをかけようとしている。
だけど今回は、何を見せられようときっと折れない。
「二人はそれでいいか?」
赤川さんと目を合わせ小さくうなずき合ってから、
「はい、問題ないです」
力強く答えた。
「オッケー。じゃあ、先攻が伊織晃嗣ペアで、後攻が莉愛春樹ペアだな。まずは先攻の二人に見せてもらおうか」
小清水先生のその声に、空気が引き締まった感覚がした。
一ヶ月ぶりの勝負が、今始まる。
「さあ、ここが今回俺たちから提供するアトラクションの会場でございます」
ふざけた敬語で加瀬くんが案内したのは、普通の教室の入り口だった。「3の1」とプレートが頭上に掲げられたそのドアの向こうに何があるのか。加瀬くんがまるでドアマンのようにそこを開ける。
教室の中が見えるようになると、そこはまるで――
「ようこそ、球場へ。今回の企画は、名付けて『リアルペットキャップ野球盤』です」
晃嗣くんが作ったような声で言った。
教室の中に入ると、いよいよその全体像が見えた。スポットライトを模した装飾やホームランゾーンとなる観客席、そしてマウンドとバッターボックスと思われる床に貼れたテープ。そこはまさに、野球場そのものだった。
「リアルペットキャップ野球盤……?」
イメージがつくようなつかないような。訊き返すと、加瀬くんが答えた。
「そう! 教室で野球の遊びをしたりするだろ? それをとことん極めてみたんだ」
「キャップ投げ野球は知ってます?」晃嗣くんが訊いた。
首を横に振ると、みんなも同じ反応だった。
「簡単に言えば、ボールの代わりにペットボトルのキャップを投げて打つ遊びです」
言いながら、晃嗣くんは教室の奥へ向かう。マウンドを模した円形のテープの中に立つと、ポケットからペットボトルのキャップを取り出した。と、軽く投げるしぐさで「こんな感じです」と、加瀬くんに向かってそれを放った。それはまっすぐに近い軌道で飛んでいき、きれいに加瀬くんの手の中に収まる。
「こんなに早く投げられるんだ……!」
想像以上の速度に、思わず感嘆の声が漏れた。
「ああ、本格的だろ? それをこのバット打って得点を競うんだ」
加瀬くんは、教室の隅に置いてあったプラスチック製のおもちゃのバットを手に取って見せた。
見れば、足元には得点が書かれたテープの枠がある。それ以外にも的のようなものも置かれていて、そこにポイントが書かれている。
「面白そう!」
顔を輝かせた青葉が期待に満ちた声を出した。対照に、赤川さんは少し不安そうな顔に見えた。
加瀬くんは青葉の反応に満足そうにしながら、ゲームのルールを説明し始めた。
語られたルールは、簡単なものだった。一人四打席が与えられて、そこでポイントを一番多く取った人が勝利となる。得点の書かれた枠の中にキャップを飛ばすか、得点の書かれた的を倒すことで、そこに書かれた数字がそのまま得点になる仕組みらしい。そして、ピッチャーは加瀬くんと晃嗣くんが務め、どちらかを指名する形だということだった。
「さあ、いつも通りまずは先生かな? 好きな方の指名をどうぞ」
加瀬くんの挑発するような声に、先生が応える。
「オッケー。じゃあ伊織にお願いしようかな」
「待ってました」
相手が決まると、二人は笑みを交わしてから、それぞれバッターボックスとマウンドに向かっていく。
小清水先生がバットを構えると、加瀬くんもマウンドで不敵な笑みを浮かべて、
「それじゃあ、第一打席はじめってことで!」
そう言いながら、投球(投キャップ?)動作に入り、その右腕を大きくしならせる。先生もピクリと動いて打ち返す準備をする。が、ほんの一瞬の後、キャップはまっすぐ吸い込まれるように、キャッチャー役の晃嗣くんの手に収まっていた。それは、さっき晃嗣くんが試しに投げて見せたものよりも、ずっと速いスピードだった。
驚いているのか、小清水先生は打席で固まったままいる。
「こんなものじゃないぞ?」
加瀬くんは得意げに笑うと、ポケットから取り出した新しいキャップを手に、再びモーションに入る。キャップが投げられる。と、それに向かってタイミングよく振られたバットが空を切っていた。キャップがバットに当たる直前、まるで突然浮力を失ったかのように落下していっていた。打てる感覚があったのか、「はぁ!?」と、先生は驚きの声を上げた。
「変化球……?」
そうつぶやく青葉の顔が、ますます輝いていた。まるでおもちゃを前にした子供みたいだな、なんてことを思った。
悔しがる先生に、加瀬くんは間髪入れずに投げる。鋭く外に逃げていくように曲がっていったそれをどうにか打ち返したけど、当てるのが精一杯だった。キャップは力なく地面をボトボトと転がって、結局得点の書かれた枠のところまでは届かなかった。
「おまえら、上手すぎだろ!」
「そりゃあもちろん、今日のために俺も晃嗣も練習してきたからな」
その後も二人の勝負は続いていき、結局先生が四打席で手に入れた点数は三点だけだった。床の枠に書かれた得点は一から五点で、的には最大十点までが書かれている。ちなみに、ホームランも十点らしい。
「次、私行っていい?」
とぼとぼとバッターボックスから先生が戻ってくると同時、青葉は身を乗り出すような勢いで言った。加瀬くんがどっちを相手にしたいかと訊くと、青葉が選んだのは晃嗣くんだった。「わ、分かりました」と、マウンドに向かう晃嗣くんは少し緊張して見えた。
「分かってると思うけど、手加減とかしなくていいから」
青葉がバットを構えて打席に立つ。その構えからは、すでに風格が漂っている。
「心得ています」
晃嗣くんは、はっきりした声でそう言うと、投げる動作に入った。繰り出されたキャップはきれいな直線を描き、そして、きれいなくらいにはじき返された。鋭いライナーで飛んで行ったキャップは、五点と書かれた的に直撃しそれを倒していた。
「さ、さすがです……」
「さあ、次!」
驚嘆するような晃嗣くんに、青葉は誇るでもなく無邪気だった。二打席目、三打席と晃嗣くんは、言われた通りに手を抜いた様子もなくキャップを投げ込んでいく。晃嗣くんの投げるキャップは加瀬くんのそれに見劣りするものじゃなかったけど、青葉は必ずその上をいっていた。
カン! と小気味の良い音が響いた。キャップは見事な放物線を描き……文句なしのホームランだった。
「んー、気持ちよかった!」
青葉は大きく伸びをしながらバッターボックスを去っていく。これが四打席目、最後の打席だった。青葉の点数はこれで十八点になった。
「さて、次は……」と、加瀬くんが僕と赤川さんの顔をそれぞれ見た。
一歩前に出たのは僕の方だ。
「僕がいくよ」
「おっけー、じゃあどっちかやりたい方を……」
加瀬くんがそう言う中で、マウンドに立つ晃嗣くんが有無を言わせぬ視線で僕を見ていることに気づいた。
「じゃ、じゃあ晃嗣くんで……」
無言の圧力に負けた僕は、バットを持って打席に入る。野球なんて授業でちょっとやったくらいで、バットを振るのは何年ぶりかも分からない。そもそも持ち方が合っているのか、不安に思いながらバットを構える。
「準備はいいですか?」
僕はうなずいて答える。と、晃嗣くんは睨むような顔のまま、勢い良くキャップを投げた。ピクリと反応するのが精いっぱいで、一瞬のうちにキャップは僕の身体の前を通り過ぎていた。
なんだか、さっき青葉に投げたのより速いような……
さっきまで手加減をしていたわけじゃないとは思うけど、明らかに気合の入り方が違うような気がした。「頑張れ!」と、小清水先生の励ます声が聞こえた。
晃嗣くんは考える暇も与えないように、間髪入れずに次を投げてくる。振らないと始まらないと思ってバットを振ってみても、やっぱりキャップに当たらない。何度も空振りを繰り返し、三打席目にようやくバットに当たったけど、ほんの少しボテボテと転がるだけだった。
「そんなものですか?」
マウンドの晃嗣くんは、嘲笑するように口元を緩めた。
僕なんかが晃嗣くんに敵うはずがない。それは分かっている。それでも、このまま終わりたくはないという思いがあった。
最後の打席、その最初の一投が飛んできた。僕はそれをめがけて思い切りバットを振った。カン、と音がして、手にはかすかな感触があった。
バットの先っぽにかすっただけのキャップは、力なく地面を転がる。けど、運よくタイヤのようにコロコロと転がっていき、得点の書かれた枠に向かって進んでいく。
……届け!
ゆっくり転がっていくキャップに祈りを飛ばす。そして、ついに力尽きたそれは、ぱたりと倒れた。倒れたのは、一点と書かれた枠の中だった。
「春樹は一点か」
小清水先生が言った。
たったの一点だけど、僕にとっては十分な一点だ。ゼロ点のまま終わらなかったことに、ほっと一息をついていると、
「このままなら青葉が一位だけど……莉愛はどちらをご所望で?」
今日の加瀬くんは、企画のホストという立場を意識してか、ずっとこんなキャラで通している。
「……じゃあ、伊織で」
赤川さんは、じっと加瀬くんの顔を見つめて言った。
「オッケー。悪いけど、容赦はしないからな」
バッターボックスに入った赤川さんは、明らかに慣れていない様子だった。バットの握り方を晃嗣くんから教えてもらっているけど、バットを持つのも初めてかもしれない。
「じゃあ、準備はいいか?」
不敵に笑う加瀬くんに、赤川さんは不安げな顔で返す。
投げる動作に入った。そして、宣言通りに容赦のない速さでキャップは繰り出され、晃嗣くんの手の中に収まっていた。赤川さんはピクリとも動けていなかった。
「どうした、振らないと当たらないぞー?」
煽るような加瀬くんの声。赤川さんは不機嫌な声で、「うっさい」とひとこと。加瀬くんはそれを面白がるように笑うと、またさっきと変わらない速さでキャップを投げた。今度はそれに向かってバットを振ったけど、タイミングも振った場所もめちゃくちゃだった。正しいスイングの仕方は僕も分からないけど、赤川さんのそれがすごくぎこちないことは分かる。間違いなく、赤川さんは運動が苦手だ。
その後も同じような光景が繰り返された。赤川さんのバットは空を切るばかりで、当たる気配がまるでない。加瀬くんはそれでも全く手加減はしないで、時折変化球も混ぜて翻弄している。
結局、キャップにかすりもしないまま三振を繰り返し、いよいよ最後の打席になった。
「運動ができないやつには、ちょっときつかったかもな」
小清水先生は気の毒そうに言った。
部活中の赤川さんはもともと口数が少ないけど、いよいよバッターボックスの中で黙りこくってしまっていた。
赤川さんは今日、加瀬くんに想いを伝えると宣言していたけど、これではとてもそんな空気じゃない。
心配していると、青葉と小清水先生から応援の声が飛んだ。僕もそれに混じろうとした時、ふと、うつむいていた赤川さんが顔を上げ、その表情があらわになった。いたたまれないような、そんな顔があると思っていた。
あれ……? もしかして怒ってる?
赤川さんはそのまま加瀬くんを睨む。バカ、と、その口が動いたように見えた。
「このままだとゼロ点だぞ? さすがに気の毒だから、バットにくらい当ててくれよ」
煽るような態度は最後まで変わらない。赤川さんはそれに無言で応えると、加瀬くんは容赦なく思い切りキャップを投げた。それは鋭い直線を引くように、まっすぐ晃嗣くんの手の中に向かっていき。――その直前、反対の方向へ向かってはじき返された。
赤川さんが思い切り振ったバットに当たったキャップは、ライナーで勢いよく飛んだ。タイミングよく見事にはじき返されたそれは、マウンドに立つ加瀬くんに返されるように飛んでいく。
スコーン! と、小気味の良い音が聞こえてきそうなほど、勢いよく加瀬くんの額に直撃していた。額にダメージを受けた加瀬くんはうめき声をあげながら、痛みにその場でうずくまった。
「これ、倒したら何点?」
赤川さんが淡々と訊くと、晃嗣くんは驚きを隠せずに、
「……百点、とかですかね」
「莉愛、おまえが優勝だ……」
うずくまったままの加瀬くんが絞り出した。
この瞬間、暫定一位だった青葉の十八点を特急で追い越して、赤川さんが首位に立った。最後の最後の大逆転劇に、教室は歓声と拍手で包まれる。そんな中、赤川さんは勝ち誇った顔で、うずくまる加瀬くんを見下ろしていた。
なんだか釈然としない幕引きに、こんなのでいいのかなあ、と僕は勝手に二人の関係が心配になっていた。
「まあ、最後は衝撃的だったけど面白い企画だったな」
小清水先生が苦笑する。と、晃嗣くんが得意げにこっちを見ているのに気づいた。やれるものならやってみろと、そんな挑発的な表情にも見えた。
「じゃあ、後攻に移るとするか」
いよいよその時がやってきた。僕も表情に自信を込めて「はい」と、力強く返した。今度はもう、始める前に折れたりは絶対にしない。
「僕たちが準備したのは、この理科室です」
みんなを理科室の前まで案内すると、いよいよ胸の辺りがキュッとなるのを自覚した。緊張している。「なんだろう」「理科室っていうと実験系か?」と、みんなはそれぞれ楽しげに予想を立てている。それを聞いていると、その期待に応えられるか不安になってくる。
「それじゃあ入って」
と、赤川さんは素っ気ない声で言いながらドアを開けると、みんなは言われた通りに中に入っていく。僕もその後ろについていってドアをくぐると、みんなの目が天井から吊るされたそれに集中しているのが分かった。
入っていきなり用意したものが分かってしまったら面白くない。昨日の帰り際、全部の人体模型には布をかけて隠してあった。なんだなんだ、とその中身を期待する声が上がる。隠した成果はあったみたいだ。
僕はこっそり教室の端まで移動して、用意した仕掛けの電源プラグを持った。これを差せば、仕掛けが作動して彼らが動き出す手はずだ。そこで、ふう、と一度息を吸って吐いた。
僕たちの企画は、加瀬くんたちの参加型のものと違って、最初の掴みがすべてだ。引き込めなければ、点数は期待できない。
理科室の中心に立った赤川さんと目を合わせる。準備はできていた。
「それでは、死者たちの社交パーティをどうぞお楽しみください」
赤川さんは打ち合わせ通りの前向上とともに、一斉に布をはがす。着飾った人体模型が現れる。おお、と一斉に声が上がった。プラグを持つ手に力が入る。心臓が、バクバクとうるさいくらいに跳ねている。
大丈夫。ちゃんと動く。動作確認は昨日散々したはずだ。
言い聞かせて、思い切りコンセントにプラグを差した。それと同時に、素早くラジカセの再生ボタンを押す。
動け……!
スピーカーからは、優雅な旋律が流れ始める。と、それに合わせて人体模型が一斉に踊りだした。両手をプラプラと動かしたり、回ったり、リズムに合わせるようにしてその身体を動かしている。赤川さんの仕立てたドレスも、その動きに合わせてひらひらと揺れて、人体模型たちの動きに華を与えている。
みんなは驚嘆の声を漏らすと、その顔をパッと輝かせた。
ずっと見たかった表情が、そこにはあった。初めての企画を披露した時、いたたまれないような目だけが僕に向けられていた。今回は、あくまで赤川さんと二人で手に入れた結果だけど、胸の奥にじわりと達成感が広がっていく。
だけど、ほっとするのはまだ早い。人体模型たちは同じ動きの繰り返しだけど、途中でトラブルがないとも限らない。再び気を引き締め直して、動きを見守ろうとした。
と、おもむろに青葉が理科室の中心に歩み出た。どうしたんだろうと怪訝に思っていると、突然青葉はその身体を流れるように動かして、リズムに乗って踊り始めた。ガイコツや人体模型たちの輪の中に入って踊る青葉は、まるで死者を弔う聖女のようで、その姿に僕は見惚れてしまっていた。
踊っている姿なんて初めて見たのに、本当にいつも青葉には驚かされてばかりだ。
「俺も!」と、加瀬くんは楽しげな声とともにそこへ飛び込むと、くるくると回るように青葉に倣う。それを見た晃嗣くんはしぶしぶと、小清水先生は照れ笑いを浮かべながら、二人に続いていった。
予期していなかった展開に呆然としていると、踊るみんなは僕と赤川さんに手招きをする。人前で踊るなんて絶対に恥ずかしくて嫌だったけど、今この瞬間だけは、そんな恥は捨てられると思った。
僕がその輪に飛び込むと、赤川さんも観念したように後に続いた。ドレスでめかした人体模型たちに混じって、夜の旧校舎でみんなと踊る。なんだか身体がふわふわとするような、不思議な感覚だった。
踊り方なんて分からないし、リズムが合っているかも分からなかったけど、そんなことはどうでもよかった。高揚感だけが全身を包んでいた。
このまま朝まで踊り続けるのだって悪くない。そんな風にさえ思えた。
その時だった。すぐ横から、ガシャンと音が聞こえてきた。見ると、糸が切れた一体の人体模型が床に落ちてしまっていた。
「あ……」
みんなもそれに気づいて踊るのを止める。それは、どこまでも続いていくように思えた夜の踊りの終わりの合図となった。赤川さんは電源のところまで向かうとプラグを抜いて、音楽も止めた。
「残念。まだ踊り足りなかったのに」
加瀬くんが苦笑した。
「でも、すごく楽しかった」青葉はすがすがしい笑顔で言った。
「まあ、たまにはこういうのも悪くはないかもしれませんね」
晃嗣くんが少し悔しそうな声で言うと、小清水先生が僕たちの方を見た。
「二人とも、これで終わりで大丈夫か?」
「はい。最後壊れちゃいましたけど、十分です」
僕は力を込めてはっきりと言った。終わり方こそ残念な形になってしまったけど、少しも悔いなんてなかった。見せたかったものは見せられたし、僕たちが予想していた以上の反応も見せてくれた。
「オッケー。じゃあ、さっそく結果発表に移ろうか」
その言葉に、その場に緊張感が走る。今回は今までにない手ごたえがあったけど、間違いなく加瀬くんと晃嗣くんのペアも高得点になるはずだ。
僕たちは、じっと小清水先生の口元を見つめて、それが告げられるのを待った。そして――
「まず先攻、伊織晃嗣ペアの点数は――芸術性二点! わくわく度合三点! 新鮮さ四点! 合計得点……九点だ!」
「え、わくわく三点……?」
予期せず伸びなかった点数に、加瀬くんは驚いた様子だった。
「いや、企画自体はよかったし、四、五点くらいあげてもと思ったんだけどな……おまえら、企画者のくせに楽しみすぎ。いや、青葉も楽しそうだったけど……」
「そんなこと……あったな」と、否定しかけてから過ちを自覚して、加瀬くんはガックリとうなだれた。
「すいません。オレも独りよがりでした」
確かに、企画自体は面白かったけど、加瀬くんも晃嗣くんも本気すぎて、結局ちゃんと楽しめていたのは青葉一人だったかもしれない。
小清水先生は仕切りなおすように、僕と赤川さんの顔をそれぞれ見てから、
「そして後攻、莉愛春樹ペアの点数は――芸術性四点! わくわく度合三点! 新鮮さ四点! 合計得点……十一点! ――勝者は莉愛春樹ペアだ!」
その結果を聞いた瞬間、僕は赤川さんと顔を見合わせた。部活中は感情をあまり見せない赤川さんも、得意げに小さく笑っていた。
勝てたんだ、ようやく……
その事実が嬉しくて、でも素直にはしゃぐのも恥ずかしくて。僕はその喜びを胸の奥に秘めて、
「ありがとう」と微笑んだ。
喜びの次に自覚したのは、充足感と安堵だった。僕はここにいてもいいんだ。そう、初めて心から思えた。
おめでとう、と加瀬くんと小清水先生が祝福した。おめでとうございます、と、晃嗣くんは少し悔しそうだった。僕はそれに、ありがとう、と返しながら青葉の顔を見た。
「……おめでとう」と、それは期待通りの言葉だった。そのはずなのに、その声色と表情は期待していたものと違っていた。
青葉ならきっと、優しく微笑んで祝福をしてくれる。そう期待していたのに、どこか感情がこもっていないような様子だった。
なんで、と思っていると、「はいはい!」と、小清水先生がその場の空気を切り替えるように手を叩いた。場を仕切るのはいつもの先生の仕事だけど、今日はやけにタイミングが早い気がした。
「どうしたの?」青葉が訊いた。
「悪いけど、今日はちょっと時間が押してるんだ。二ヶ所とも片付けないとだし、サクッとやらないと」
それを聞いた瞬間、一つの考えが僕の中でひらめいた。今日の活動も、あとはもう片づけを残すだけだ。
「だったら――」
と、僕はとっさに提案をしていた。
理科室で片づけをするのは、僕と加瀬くんと赤川さんの三人だけで、残りの三人はキャップ投げ野球の会場の片づけをしている。三人ずつで別れて、二ヶ所で同時に片づけをする。それが僕のひらめいた作戦だった。
もちろんその目的は、赤川さんと加瀬くんが落ち着いて話せる状況を作ることだ。
「すごかったよ。完敗だ」
理科室のテーブルの上に乗った加瀬くんは、天井の仕掛けを壊しながら言った。
三人だけの状況を作ってみても、まずは自然と片づけをする流れになっていた。僕は人体模型から操るための糸を取り外し、赤川さんは教室の隅で衣装をたたんでいた。
「ありがとう。でも、勝てたのは赤川さんのおかげだよ」
「けど、仕掛けを作ったのは古河だろ? それで、莉愛が装飾担当だ」
加瀬くんは見事に言い当てる。きっと赤川さんの得意分野や考えそうなことも、全部分かっているんだろう。
「さすが、よくわかったね」
「そりゃあ分かるって。いいコンビじゃないか」
僕は加瀬くんと話をしながら、理科室を出て二人きりの状況を作るタイミングをうかがっていた。黙々と片づけを続ける赤川さんが話に入ってくる気配はないし、さすがに突然教室を出るのでは強引すぎる。
「加瀬くんは、わざと僕と赤川さんを組ませたんでしょ?」
「ん? なんのことだ?」
わざとらしくとぼける加瀬くんを無視して続ける。
「おかげで、いろいろなことが分かったよ。……この部活のみんなには、ギャップがあるんだね。明るい人かと思っていたら暗くって、真面目かと思っていたら陽気な人もいる。特別な人に見えても、裏では悩みを抱えてて……僕にも、ほんの少しでも力になれるかもしれないって思えたんだ」
加瀬くんに向かってしゃべるふりをしながら、赤川さんに伝えようとした。僕は味方だということと、こうして片づけのグループを二つに分けた意味を。
だけど、結局言い出すのは赤川さんだ。僕がいるから言い出せないのかもしれないし、無理やり話を進めても迷惑になるかもしれない。だから、これでおせっかいは終わりにしようと思った。
――その時。
「伊織は」と、赤川さんが初めて口を開いた。片付けの手を止めて、じっと加瀬くんを見ている。
「私のことどう思ってる? この暗い私を」
突然の言葉に、加瀬くんは少し驚いた様子だった。
赤川さんおもむろに眼鏡をはずすと、ポケットからヘアゴムを取り出していつものように髪を二つ結びにする。
微笑むと、学校での明るい赤川さんがそこにはいた。
「やっぱり、こっちの私が好き?」
加瀬くんは、不意にヘラっと軽薄そうな笑みを浮かべると、
「じゃあ、逆に訊くけどさ。この俺を莉愛はどう思ってる?」
いつものアロハシャツの裾をつまんで見せた後、額にかけられたサングラスをきらりと光らせて見せる。
と、突然加瀬くんはその表情を引き締めて、普段の教室で見せる凛とした顔になった。
「俺だって、こんなバカ丸出しな自分をさらけ出すのは怖いさ」
「伊織……」
つぶやいて、赤川さんは僕の方を見て小さくうなずいた。
その表情で分かった。決意は固まったみたいだった。だったらもう、ここから先に僕は必要ない。僕は後押しするように赤川さんに小さくうなずき返してから、片付けの手を止めて、なるべくこっそりと理科室を後にした。
気にならないと言ったらウソだけど、今度どっちかからこっそり教えてもらおう。それに、あの二人ならきっと大丈夫だ。
廊下に出ると手持ちぶさただった。ドアの前にいるとつい聞き耳を立ててしまいそうだし、いったん向こうの片づけに加わろうか。そんなことを考えた時、廊下の向こうから晃嗣くんの姿が見えた。
「どうしたの?」
「ちょっと忘れ物を。そちらこそ、何をしているんですか?」
晃嗣くんは怪訝そうに訊き返した。確かに、僕一人がドアの前で立っていたら不審に思うだろう。
「実は、ちょっとお取込み中で……」
「ああ、なるほど」と、晃嗣くんはそれだけで察した様子だった。「じゃあ、終わったらまた来ます」
と、来た道を引き返すように翻る。その背中を僕は、「あ」と、引き留めるような声を出していた。
「なんですか?」
晃嗣くんは振り返る。偶然だけど、今度こそちゃんと落ち着いて話をするいい機会だと思った。
ずっと聞きたかった問が、思わず口を出ていた。
「晃嗣くんは、どうしてそこまで青葉を慕っているの?」
黙ったままの晃嗣くんに、僕はさらに言葉をつづけた。
「いつも部活の時、そういう恰好をしているのはどうして?」
部活の時の晃嗣くんは、いつも髪をオールバックにまとめて、シルバーのチェーンのついた相手を威圧するような恰好をしている。いつもの学校での穏やかな姿とはかけ離れている、その理由を知りたかった。
晃嗣くんは、不機嫌そうに目を細めた。
「莉愛先輩のおかげで勝てただけなのに、ずいぶんとぐいぐい来ましたね」
「ご、ごめん……今回ペアを組めて赤川さんのことは知れたけど、まだ晃嗣くんのことだけは分からなかったから」
「まあいいです」と、晃嗣くんは観念したように、「青葉先輩は、オレを退屈から救い出してくれたから」
晃嗣くんは廊下の壁に背中を預けると、ゆっくりと語り始めた。
「オレは昔からなんでもできて、だからこそ退屈でした。それで、不良みたいな刺激のある生活に憧れて、高校では優等生をやる傍ら、そっちの世界に入ったんです。だけどそんな時、青葉先輩に出会った。あの人は、オレにとって初めてのオレよりも上にいる人間だったから……副会長になったオレは、あの人を失脚させてやろうとしたんです」
「し、失脚……!?」
突然の物騒な言葉に、思わず驚きが漏れた。
「ええ。不良の仲間を使って黒い噂を作ろうとしたんです。でもそれが露見して、逆にオレが不良だっていうこともバレた……なのにあの人はそれを全部不問にして、オレを副会長に置き続けたんです。器が違うんだって痛感しましたよ。そんな風に思える相手は初めてで……だから、一生ついていくことに決めたんです。あの人の後ろを」
「そう、だったんだ」
「ちなみに、もう不良からは足を洗ったんですけどね。こんな格好を続けているのはただの趣味です。どうにもカチッとした服は好きじゃなくて」
「ありがとう。聞かせてくれて」
僕が感謝を告げると、「いえ」と晃嗣くんは壁から離れて、僕の方へ距離を詰めた。
「オレはあなたが嫌いですけど、一つだけ忠告をします」
突然、そう切り出した晃嗣くんは真剣だった。忠告、という言葉が重くて思わずつばを飲む。身構えていると、
「あなたは、青葉先輩について回るなと言ってもついてきました。でも、これからはどうするんですか? あの人は必ず、あなたなんかの手の届かない世界に飛び立つ。それは、予定ではなく揺るぎない未来です」
「これから……」
裸のままの晃嗣くんの声が胸に刺さった。それは鋭いナイフのような痛みではなくて、ギザギザとしたような嫌な感覚だった。
青葉はどこまでも羽ばたいていく。僕だってそれは間違いないと信じている
し、期待もしている。だけどそれは晃嗣くんの言う通り、僕の手の届かないところへ行くということだ。
分かっている。分かってはいたことだ。
「この時間にだって、必ず終わりは来るんです」
晃嗣くんは、じっと僕の顔を見つめたまま言い放つ。それは少しの温度も感じられない声だった。
その時、後ろの理科室のドアが開く音がした。振り向くと、いつもと変わらない無表情の赤川さんが顔を出していて、「ごめん。おまたせ」と言った。と、ちょうど向こうの片づけを終えた小清水先生と青葉も後ろの廊下からやってきて、そのままみんなで理科室の片づけを始めた。
再び全員が揃った部活はいつも通りににぎやかで、そして、片づけが終わるとにぎやかなままにお開きとなった。
3
次の週の月曜日、昼休みの時間になると僕は加瀬くんの机まで向かっていた。
「今日学食どうかな?」
「ああ。俺も行こうと思ってたから、ちょうどよかった」
まだ部活に入ったばかりの頃、教室ではあまり加瀬くんとは話さないようにしていたけど、最近ではほとんどそんなことも気にしなくなっていた。はじめはつながりを勘ぐられることを心配していたけど、加瀬くんならクラスメイトだし、そこまで変な目で見られないだろうという気になっていた。
近くの席で座っていた山本くんは意外そうな様子で、
「二人とも最近仲いいよな」
「うん、まあね」
「確かに、なんか性格合いそうだもんな」
そうやって納得してくれるならありがたい。僕は適当に笑ってそれを受け流すと、加瀬くんと二人教室を出た。
昼休みの学食はたくさんの生徒で賑わっているけど、授業が終わってすぐに教室を出れば、席が取れないことはない。学食に着いた僕たちは、それぞれカレーとラーメンをカウンターで受け取ってから、二人用の小さなテーブルに向かい合って座った。
僕たちが二人で食事をとる間、交わす会話はそれほど多くない。今日もしばらくは静かにそれぞれの食事を続けていると、ふと加瀬くんは食事の手を止めた。
「なんだか、いろいろ気を遣わせたな」
「え?」
「莉愛とのことだ。相談に乗ったりしたんだろ?」
きっと加瀬くんには、僕と赤川さんが土曜日の部活の前にどんな話をしていたのかお見通しなのだろう。それか、理科室で赤川さんと二人きりになった時、直接聞いていたのかもしれない。
この話の流れなら、訊けると思った。
「まあね。……それで、赤川さんと二人きりになった後、結局どうなったの?」
「ああ、告白された」
加瀬くんは隠そうとするそぶりもなく、はっきりと答えた。もしかしたら、最初からその話をするつもりだったのかもしれない。
「それで、加瀬くんは……?」
訊きながら、緊張していることを自覚した。自分のことではないけど、やっぱり二人にはうまくいってほしかった。
「答えられなかった。返事は保留させて欲しい、と。あの時はそれだけだ」
ノーを示す結果じゃなかったことに少しだけほっとしつつ、
「なんで、って訊いていいかな」
僕がそう訊くと、加瀬くんは珍しく弱気な表情をのぞかせた。あるいは、それは初めて見る表情だったかもしれない。
「八月の頭に総体があるんだ。そこが俺たち弓道部の最後の大会だから、今は他のことが考えられなくて……」
そう語る加瀬くんの表情は、とても苦しそうに見えた。
運動部のほとんどは、三年の夏の大会を最後に引退する。だから、きっとそれは加瀬くんにとっての集大成になるはずだ。弓道部のエースであり、全国でも屈指の実力だと言われている加瀬くんには、きっと相当な期待が寄せられているはずだ。現にそれを、僕はこの目で見ている。赤川さんと二人でフィナンシェを差し入れに持っていこうとした時、練習を見学していた数人の女子が、全国優勝も狙えると誇らしげに語っていた。
「加瀬くんは、弓道部の部長でもあるんだもんね」
「そうだな。そんな人間が、色恋にうつつを抜かせるわけがない。――なんて、そんなことを言いながら、バカみたいにペットボトルのキャップを飛ばしてはしゃいでいるんだが」
加瀬くんは力なく自嘲した。
「加瀬くん……」
「顧問の先生も、周りの部員も、みんなが加瀬なら全国優勝も狙えると言っている。主将としても、エースとしても、期待を裏切れるはずがないのに……」
テーブルの上に置かれた加瀬くんの両手が、小さく震えているのが見えた。
慰める言葉か励ましの言葉か、そのどちらが相応しいのだろう。
僕には、加瀬くんのような特別な人間の苦しみなんて分からない。今までに一度も期待をかけられたことなんてないし、きっと僕にできるのは分かった気になることだけだ。
「失望したか? 俺がこんなに弱いことに」
「ううん、まさか」
加瀬くんも、赤川さんや晃嗣くんと同じなんだ。表面には見えてこない苦しみを抱えて、それを青春部という場所で発散している。部活中に浮かれた格好をしてはしゃいでいるのは、普段感じているプレッシャーからの反動なのかもしれない。
「僕は、部活の時のふざけた加瀬くんも好きだよ」
それは、頭に浮かんだ自然な言葉だった。それを聞いた加瀬くんは口元を軽く緩めて、「ありがとう」と微笑んだ。
「泣いても笑っても、あと一ヶ月もないんだ。適度に青春部で発散しながら、どうにか乗り切ってみせるよ」
「うん、どっちもほどほどにね」
あと一ヶ月を切った総体を最後に、加瀬くんは弓道部を引退する。ほとんどの運動部の三年生は夏の大会を最後に引退し、文化部の三年生はこの前の文化祭をきっかけに引退したところも少なくないはずだ。
ふと、思ってしまった。
僕たち青春部は、いつをもって引退になるんだろう。
僕たちには大きな大会があるわけでも、発表の場があるわけでもない。僕たちの代がこの部の一期生だから、引退の前例なんてものもない。
終わりがいつなのか。それとも、そもそも終わりなんてあるのか。
胸の奥で、何かがざわめいている。ただ、そんな言葉にしようのない感覚だけを感じていた。